長野に研修で出かけることとなり、私は長年行きたいと思っていた無言館に今回どうしても寄りたかった。
街並みから少し外れて山道を登った静かな緑のなかに無言館はあった。教会の入口のように左右に扉がある。入って気づいたが、展示ホールが十字架の形になっている。ひんやりとした空気、まず目に飛び込んでくる絵画の数々、その妙に瑞々しい感じ・・・。
この感覚は何だろう、と不思議になる。まだ勉強中の画学生の、たどたどしいタッチの作品群からは、初々しさと、創作に対するピュアな情熱が感じられる。柔らかいマチエルの絵が多く、モチーフは家族や故郷の風景など、身近で愛おしいものを描いたのだろうことが痛いほど伝わってくる。どの作品も、夢や希望を溢れんばかりに叫んでいる。
それぞれの作品には、亡くなった経緯や家族のエピソードが書かれてあった。
『出征の前日、父親に「お国のために戦って参ります!」と告げた兄が、母と妹の前では「絵が描きたいよ」と涙した。〜レイテ島にて戦死、21歳』
『結婚したばかりの妻を初めて描いた。表通りから、出征を送る声援が聞こえてくるなか、自分も行かなければならないのに、その直前まで画室に閉じ籠もって、「この絵の具の最後の一本がなくなるまで描いていたい」と、しばらくその場を離れなかった。〜牡丹江にて戦死、27歳』
『兄の絵が大好きでした。兄が大学で絵を学ぶことができたのは、結局、半年のみでした。雑嚢袋の一番下に絵筆を一本だけ忍ばせていたそうです。〜ガダルカナル島にて戦病死、24歳』
まだまだ、まだ・・・無念のストーリーが次々と、その数に圧倒される。
こんなに優しい筆遣いで絵を描く若者たちが、その手に銃を持ち、人殺しをしなければならなかった惨さが、作品を通して次々と私の心に突き刺さってくる。身体の帰って来なかった若者たちの、その家族に残されたのがこの絵なのだ。絵筆、パレット、スケッチブック、手紙などの遺品の数々からも、悔やんでも悔やみきれない悲痛な想いが聞こえてくるようだった。ある方の日記の一文に打たれた。
『いかなる事物が先を塞ごうとも、自分の信じる画業の道を強い心を持って進んでいく、それしかできない』
込み上げてくる涙が止まらなくなった。覚悟して観に来たけれど甘かった、打ちのめされた。気持ちを落ち着かせようとみんなでひと休みする。無言館に併設の信濃デッサン館に立ち寄る。カフェでは館長の窪島誠一郎氏が隅の席で何かを読んでいたが、我々が入って行くと席を外し、庭へ出て行かれた。一瞬、ついさっきの涙や想いをお伝えしたい衝動に駆られたが、静かな後ろ姿を見ていると、氏のインタビューや詩から感じる熱い情熱とのギャップがあまりに大きく、声をかける気持ちが退いていった。風景を一望できるベンチに腰掛けているその背中から、出生した画学生や夭折した画家の生涯を追ってこられた窪島さんの想いはどんなだろうと想像する。「・・・で、じゃぁ、私には何ができるんだろう・・・」という疑問が湧いてくる。やりたいことをやっていい時代にいて、やりたいことがある幸せに気付いて、もう言い訳なんてしてられない。
【私には何ができるのかを問う】
学さん /(平成27年11月28日)
事務所に学さん(仮名・95歳男性)がやってきたので、交流ホールでコーヒータイムにする。香りとおしゃべりを楽しみながら淹れる時間の贅沢なことを、粋な学さんはよくよくご存じだろう。この日も、かっこよく腕組みをして「あなたが淹れてくれるなんてねぇ」と微笑み、ドリップする私の手元を見つめていた。淹れたてのコーヒーを飲みながらカップを覗いて「いい色だなぁ」と言う。ふと、「あなたはどの職人?染めをやってるんだったか?」と私を見た。染め?なんの話だ? と思って次の言葉を待っていると、「この(コーヒーの)色で染めたから、これ(着ていたニット)はこんなにいい色なんだなぁ、な?」そこから展開する。「染め、織り、縫製・・・と、それぞれ職人がいるんだろ?」そう言えば、学さんはテーラーとして稼いだ経験のある方だったと思い当たり、ワクワクしてきた。「職人は何人くらいいるの?」えっとねぇ・・・とすぐには応えられずにいたら、「ここでは何か・・・みんなで何かを作っているところなんでしょ?」と来たではないか!
このセリフに思わずワァッ!と嬉しくなる。「そうなの!何か作るってことを、いつもしていたい!作る人がいっぱいいたらいいなぁ!」ただの消費者なだけじゃなく、雇用労働者なだけじゃなく、みんなで何か作りたい、絶対になんとしてもクリエーターでありたい、クリエイティヴでなければやらない方がいい・・・とかなんとか夢中で語る私に“うん、うん”と頷く学さん。「あなたは染め屋、俺は縫い方、仕立て屋の仕事」と、学さんも作り手側にいてくれているのが嬉しい。しかも・・・、ちょうど廊下を通りかかった川戸道さんに「お、あなたは見かけっこがいいから営業だな?」と言って笑ったのには、「は?営業は見かけがいいからって、じゃ、私はなんだってや?ちょっとぉ!」ってツッコミ入れたけど、「んだって、あなたはつくる方でしょ?あはは〜♪」と笑って誤魔化す学さん・・・。それでも、私のことを“つくる人”“職人”と言ってくれたのは武者震いするほど嬉しい。にこやかに涼しげに「どんな色に染めるの?」と覚悟を迫るように突きつけてくるから恐ろしい。
それぞれのカラーの物語を誰とどのように綴り、どんな肌触りの布を織り上げ、布と布をどう繋ぎ合わせて、寒さを凌ぐ暖かいモノを縫い上げていけるのか・・・(この頃ちょうど鴻池朋子の展覧会を観たこともあって、特にも“縫い繋げる=再生”ということにも思い巡って)、「学さん」というあったかい衣服に包み込まれたような時間だった。
健吾さん /(平成27年12月8日)
健吾さん(仮名・98歳男性)が私を呼び止めて言った。「あなたは声っこがいいから詩吟やったらいい」健吾さんのなかでは私が詩吟をやることはすでに決定事項となっているような口調に、ちょっとたじろいでしまった。ちょうど、詩吟の師匠・健吾さんと弟子・千枝さんとの関係が見ていてなんとも嬉しく面白くなっていた頃だったが、まさか自分に声がかかるとは思ってもいなかった。「ただ声がデカイだけで・・・」とか「音痴だし・・・」とか曖昧に返事したのだったが、「大丈夫だ!その気になってやればできる!」などと励まされた。私のいないところでも「あの人はやるよぉー!」と熱のこもった感じで話していたそうで・・・。その翌日には吟符を持ってきてくれたり、その後も折に触れて何度かお誘いを受けたので、これは真剣にお断りしないと失礼だと思い、手紙を書くことにした(12月14日)。
書いているうちにそれは、詩吟を断る文章だったはずが、本気になって創作活動をやっていこう、絵を描いて、表現をして生きていこうという意思表明、自分への決心を固めるような内容になっていった。
そして12月21日、朝、事務所に来た健吾さん。「毎日のように何度も読んだったよ、寝られねくなるっくれぇ読んだった。そのうちにねぇ、いろいろと考えて、私の中にも、なんというかねぇ・・・気持ちが湧いてきたんだねぇ、思い立ったことを伝えたくて、こうして事務所までやってきました」とにこやかに話し始めた健吾さんだったが、急に表情を変えて、「絵というひとつの宝を人生の道に選んで進んでいくということ。そのあまりにも一途な中屋さんは、まだまだ若いんだとつくづく思いました。90年を生きてきた私とは、世代の差、経験の差があまりにも違いすぎる」と切り出した。「あのねぇ・・・私自身の人生を振り返ると、本当に様々なことがあってねぇ・・・」(健吾さんの戦争体験のお話を伺ったこともあった)ここから少し口調が変わって、子供に言って聞かせるような感じになった。「ひとつの道を選ぼうにもいろんなことが起こって、そのひとつひとつを真剣になってやってきたんだ。だからね、たったひとつの宝をこれだ!と決めて取り組むのは大変立派だけれども、まだまだ若いこれからの人なんだから、いろんなことに挑戦してみるということも視野に入れてねぇ・・・。あまりにも経験不足で世間知らずなんだなぁ。まだ若いんだ、だからいろいろやってみて!」(私のこと、いくつだと思ってるのかわからないけど・・・)「悔いのない人生でしたよ、私のこの90年は! 中屋さんにも絵という宝を悔いのないようにやってもらいたいし、しかし、もっと様々に挑戦もしてほしい!」(中屋が詩吟をやるのもまだ諦めてない?!)「いやいや、すみません、もう先のない老人の言うことだと思って聞き流してください」
じゃ、どうも・・・と帰ろうとするのでお引き留めする。銀河の里で詩吟の会を発足させスタッフを指導したり、自伝として歴史書としての“田瀬物語”を綴ったり、また、ご自宅から樹や石を運んで特養の中庭をつくったり・・・等々、これまで、健吾さんがやりたいことをやり抜く姿、何かを残そうとしている姿に“師”を感じていました、これからもよろしくお願いします、とお伝えした。はは!と笑って「今までもねぇ、中屋さんを見ていて、なんと強い信念を持って自分の成すべき仕事をまっすぐにやる人だ、と思ってきましたよ。これからも頑張ってください!」と言ってくださったが、そのセリフはそっくりそのまま健吾さんの姿だなぁと思った。春になったら、また中庭の草刈りを言いつけてくださいね、と約束した。
私の未熟な決意表明を受けとめてくれた上で、それだけでは甘い!とさらなる挑戦を焚きつけてくれた健吾さん。そして健吾さん自身が「まだ現役だ」と感じた。やっぱり素敵な師匠だ。
タカさん /(平成28年1月7日)
タカさん(仮名・94歳女性)は毎日のように編み物をしている。ナイトキャップや弟さんたちの靴下など、いずれも独創的な作品を編んできた。こだわりの配色にも独特の個性が光っている。そのある種、「異様な」作品群は、スタッフに贈られたり、ほどいて次なる作品へ生まれ変わったりしていたが、私たちスタッフもやがてその魅力に取り憑かれ?!て、タカさんの部屋に展示している物もある。
入居当初は「みんなきちんとちゃんとしなさい」とお堅い現実派だった。結婚せず子供も持たない彼女は、長女として弟妹の母親代わりをして家を守ってきたという。教育者でもあり、多くの子供たちを育成してきた。ここへ来て、若い職員のしつけ(女として・母として・日本人として)をしてくれている。万里栄さんは「平塚らいてふ先生みたいだ」と敬って「師匠」と呼ぶほど。高田家の長を務めてきたタカさんが、リーダーとしてユニットのチームを束ねていく万里栄さんを励まし頑張ってくれている。
私にとってのタカさんは“ものつくり”としての師匠だ。「きちんとちゃんと」がだんだんに緩んできて、“らしさ”が出てくるのと同時くらいに、編み物作品のなかにも何かタカさんの気持ちみたいなものが現れてきたように感じる。その頃から、単なる編み物ばあちゃんではなく「この人、表現者だ」と背筋を正すような感覚になった。
年の初め、神ノ福得神社(後述のフクさんの神社)の御守りを作りたいということになり、事務所仕事の合間をみつけて、私は裁縫を始めた。おしゃべりでもしながら作業できたらいいなと思い、ユニットのリビングで編み物をしているタカさんの隣におじゃまする。「何作ってるんだい?」「おばあちゃんの御守り」「あや、いいごと、喜ばれるんだ」お互いの作品の進み具合など話し語りしながら、いい感じで時間が過ぎていた。
途中、刺繍の糸を変えるのにハサミがほしくなったが、席を立ち事務所まで取りに行くのが億劫で・・・タカさんのハサミを借りた(テーブルの上、目の前にあったので)。ちょっと迷ったのだけれど「タカさん、かーしーて」と言って糸を切った。チラリと横目で見ていたタカさん、「自分のはねぇのっか?」編み物の手がとまった。「おめさん、それでもものつくりだっか?」声色が変わった。しまった、と思ったときにはすでに遅し。「ものつくりたる者、それぞれ自分の道具を大事にしてるもんだ! 自分のを使えぇい! 道具を大事にできない人に、ろくな物など作れるかぁ!」リビング中に響く大怒号だった。その場は「ひゃースイマセンー!」とか言ってみたが、内心では本気の後悔だった。師匠の言う通りだ、物を作る資格さえないような気分になって、しばらく落ち込んだ。それでも“ものつくりたる者”からの、ものつくりたる姿勢を説いていただいた、本当に有難いお説教だった、と今は感謝でいっぱいだ。
後日、「子供はなさねかったども、こうやって何かを作るってことが、子供の代わりにならねかえか、と考えてらった」と語ったタカさん。聞き取った万里栄さんが感激しながら伝えに来てくれた。これには泣けた、よくぞ言ってくださった。“ものつくり”として表現しながら生きていく決心を後押ししていただいたようで、大変ありがたかった。
フクさん /(平成28年1月11日)(仮名・92歳女性)
前を通りかかる度に手招きで「こっちゃこぉ」と呼んでくれる。この日もいつものように全身で甘えたくなって「フクさぁ〜ん!」と近づくと、急に真顔で「おめ、そったに勝手だか?」と来た。うわぁ・・・と逃げ出したくなるのをこらえて、やっとやっと「んだって、そういうふうにしか生きれねぇし・・・」と少し愚痴っぽくなってしまったら、「考えねばねんだな」と軽く返された。ついに「あぁ〜」とフクさんの膝に崩れ落ちてしまったが、頭をまるごと抱えて、優しく強く「考えたほうがいい」「いっぺん行ってこねばねんだ」と、もしゃもしゃ撫でてくれた。
暮れに誕生日を迎えたフクさんに、絵本をつくってプレゼントした。フクさんの絵本を描くのは、出会ってからずっと思い描いてきた夢だった。それが急に、去年の夏頃からインスピレーションがやってきて、描きたい気持ちがもりもり沸き上がってきた。全10巻くらいになりそうな構想のあるなか、誕生日に間に合わせたくて、まずは3冊、手作りの絵本が完成したのだった。その絵本をフクさんと一緒に読む至福のひととき。1冊目を読み終わったとき、「・・・まずまず、な・・・」とのお言葉。2冊目は「も少し・・・」で、3冊めのときは「まだまだ!」と、フクさんらしい厳しく鋭いひと言。 自分でもホントに始まったばかりの“まだこれから”な感触だったから、いつもの通りの外さないズバリの感想だと思った。(11月の入院中、お見舞いに行ったとき、「フクさんのこと、絵本に描こうと思ってらのだけど、いい?」って聞いたら「あん」とのお許し?をいただいていた。“まぁまずやってみろ”的な・・・)
去年の大晦日の夜、年越しの時間、フクさんの部屋に次々に訪れるスタッフを見ていたら、「まるでフク詣でだな」と思った。このつぶやきを拾って千枝さんが「そうか、そうだ!」と万里栄さんに鳥居を描いてもらって、フクさんの部屋に“神ノ福得神社”が鎮座し、賽銭箱まで設置された。それに手を合わせ初詣しながら、私は“御守りを作りたい”と思った。「福が重なる神社」「福に会える神社」。中に入れるお札には、「いつもクリエイティヴでいられますように」「嬉しいも苦しいも、喜びも悲しみも、起こってくることをそのままに受け入れて進んでいけますように」と、よくもまぁ、ずいぶんと“勝手”なお願い事を書いていたのだった。
フクさんは、6月の雨の日、煙となって空に昇り、無数の雨粒となって、地上のどっこにも降り注いだ。「どっこどっこ、どぉ〜ん」のフクさんは、遍く満ちる存在になって今までと同じように見守ってくれていると思う。私の身勝手なお願い事を忍ばせた御守りのひとつはフクさんに委ねたけれど、もうひとつはアトリエに飾ろうと思う。
【絵を描き考えながら生きていく】
去年の夏、古い絵描き仲間のあいだで、「アトリエ兼作品収納庫がほしい!」という話が出た。何人かでアトリエを構えようと、夢のような話が出たのを機会に動き始め、秋頃から候補地を探していた。銀河の里から遠くない、景色が良くて静かなところ、できれば小屋なんかもあって・・・と贅沢なワガママが叶って良い物件に出会えたのが、ちょうど学さんから「あんたは職人、つくる人」と言われた頃だ。土地の売り主の方とお目にかかる頃には、健吾さんから詩吟へのお誘いを受けて絵をやっていく意思表明をすることになった。年開けて、理想だらけの図面を自分で描きながらウキウキしてる頃、タカ師匠から心得を説かれ、フクさんは、まるで「やりてぇことだけ勝手してやってくつもりなら、よくよく考えて生きていけよ」とでも言うように、叱ってくれるような励ましてくれるような、鋭いひと言をくれたのだ。
この一連の流れ・・・(利用者さんたちはいつもグルだとしか思えないのだが・・・)アトリエ構想が動いていく時期と重なっていてやっぱり驚いてしまう。ものすごくワクワクしながらも一方では「こりゃもう死にたくなっても死ねないなぁ・・・」と半分はまだヒヤヒヤの逃げ腰でいたのだけれど、師の皆々様方が背中を押してくださり、時は満ちた!ってことだったんだろうと思う。
いろいろと問題があり順調にとはいかなかったのだが、初詣のおみくじの「屋移り、差し支えなし」に励まされつつ、ハウスメーカーとの実際の打ち合わせも進めていった。その渦中で、何年も前からぜひ行きたいと願ってきた無言館に研修でたまたま行けることになったのも、流れのひとつだろうと感じる。研修の二日目、金澤翔子展を観て休憩中に、ハウスメーカー担当者からの電話があった。すべての問題が整理された、との内容! 戦没画学生たちの無念や戦場に散ったありあまる情熱を想って、また、翔子さんの書に清められた私自身のなかの何かを感じて、自身の決意を再確認していたところへの、なんとも絶妙なタイミングで、アトリエ建設GОの確定が出たのだった。
8月には40歳になろうという今年。何かしようと思ったときに年齢をその判断基準にするってことはこれまでもあんまり頓着なかったけれど、いつまでもわーいわーい!ってだけ言ってもいられないんだろうか・・・とさすがに考えてしまう。でもきっと、これからもそんな調子でしか生きられないだろうなぁ。それでも、わーいわーい!だけじゃなく、よくよく考えながら、挑戦し、表現していこうと思う。アトリエ完成前に旅立ったフクさんも見守ってくれている。
【金澤翔子書展】
金澤翔子展&席上揮毫(書のライブ)を見に行きたいという酒井さんの提案で、今回の長野研修を組んでもらっていた。以前から作品もライブの様子もテレビや本で見たことはあったのだが、本物はものすごい迫力なんだろうなぁと想像していた。が、実際はかなり違った印象だった。伸びやかで優しい! 墨の濃淡が澄んでいて、包み込まれるようで、心地良い潤いを与えてくれる。書の展示方法や表具の仕立て方にも興味が沸いたので、どこかで学びたいと思う。
「ダウン症という障がいに負けず書の道を歩んできた母と子の物語」となると一般にもわかりやすく受け入れられたのだろうことは理解できるし、持ち前の明るさや天真爛漫な人柄が人気を博している理由だろうこともわかる。・・・でも、それにしたって・・・「翔子ちゃーん!」じゃねぇだろ、アイドルか?! ご本人が登場する前の会場は、いい席を争って取り合いするような雰囲気で、ミーハーな世間の空気が充満していて具合が悪くなりそうだった。
ご本人は、とってもチャーミングでエンターテイナーで、パフォーマーとしても魅力があって、“誰かが喜んでくれることが私の幸せ”と言うのだから、本当に頭が下がるのだけれど、観客の姿勢には「これは考えなきゃないなぁ」と思わせられるものがあった。
(ワークステージでもダンスや創作活動が少しずつ展開してはいるけれど、その方向性や姿勢については、慎重に、充分に考えていく必要があるような気がする。利用者の創作活動やその作品の取り扱いについても、厳粛な気持ちで向き合う姿勢がなければならないと考える。酒井さんの発案で、里の現場からの創作活動を展開、発信していこうと立ち上がった feelingainの活動についても同じことが言えると思う)
実際のライブが始まると、世間の空気にやられてモヤモヤした気持ちが吹き飛んで、目の前で繰り広げられる書に釘付けとなった。まるで神事みたいで、自然と姿勢を正す気持ちが湧いた。墨の香りに心が洗われるようで心地よかった。そこにいたのは障がい者でもなくアイドルでもない。書家の金澤翔子さんだった。その翔子さんに訊ねてみたい質問が思い浮かぶ。「書き始める前の精神統一のとき、書いているときのリアルタイムな内面、展示された自分の作品を眺めるとき、それぞれの気持ちや感じにどんな違いがあるか」とか。
【これから】
無言館に集まった作品の作者達に対して、恥ずかしくない姿勢や品位を持って生きていく努力をしなければならないように感じる。簡単、手軽、便利で、なんでも自由で、やりたいことはなんでもやれる時代にあって、今とこれからを生きる私達がどういう姿勢であるべきか、彼らのことを忘れることなく、どこかで問い続けていかなければならないことではないだろうか。
何かを生み出すこと、クリエイティヴであることに対する姿勢や、作品と向き合う心構えなど、銀河の里の現場での“在り様”にも通じてくることだと思う。軽いノリと品位の無い風潮に流されて見失ってはならないことがあるはずだ。無言館の作者達とほぼ同年代の利用者が、師として私にいろいろ示唆してくれたことも偶然ではないと感じる。そのことを私は忘れないで生きていこうと思う。