2016年10月20日

「迎え火」の能舞台と「恐山ツアー」 ★ 施設長 宮澤 京子 【平成28年9月号】

「迎え火の華々」 / 於:グループホーム第1
 8月、お盆を迎え、恒例の「迎え火」や「送り火」の行事が、それぞれの事業所で執り行われた。13日の朝、グループホーム第2(以下、G2)の詩穂美さんから「今晩7時頃から、玄関前で迎え火と花火をします」との連絡が入った。私はグループホーム第1(以下、G1)に修論のフィールドワークのために、夕方4時から入ることになっていたので、食後にG1の利用者さん何人かと「花火」を楽しむつもりで参加をお願いした。

 5月あたりからG1では青森の下北半島にある「霊場恐山ツアー」の計画が持ち上がっていた。Hさんが「恐山には毎年行っていたけど、施設に入ったら行けないわね」と言うので、「いえいえ、行きましょう」と私が応えると、「イタコさんにご先祖さんを下ろしてもらうと、心がシャキッとするのよ。人間として大事なことなのよ」と話してくれた。テーブルを囲んでHさんの話を聞いていた人たちは、「行ったことないから行きたい」「こんな足腰ではみんなに迷惑かけるから行けない」「法事があるからダメだ」「いくらかかるの?いつ行くの?誰と?」「車に酔うから酔い止めが必要」などと現実的な心配で盛り上がる。一方で好奇心の強いSさんは「天国行きか地獄行きか、予行演習として行ってみたい」と乗り気だ。さらに「お願いがあるんだけど、うちの人も一緒に連れて行っていいかしら?」(旦那さんは3年前に亡くなられているのに、いつも一緒に生きているSさん、イタコより凄い!)。みんなそれぞれ噛み合わないままイメージを膨らませていた。
グループホームでは死者たちが日常的に生きているので、彼女たちが立派なイタコ集団だ。スタッフは恐山ツアーの「見立て」として、グループホームがあまりにも異界なので、恐山に行くのは現実を取り戻すためなのではないかと話し合っていた。

・Sさんの夫はすでに亡くなっておられるが、いつも
一緒に生きていることになっている。
・Tさんの夫も亡くなっているが、度々生きている人とし
て語られる
・Yさんは、死者との関係を大事にしており仏事・法事
を重視し、毎日手を合わせて拝んでいる。
・Hさんは、夫や息子を亡くして一人暮らしをしていた。
GH入居前は、毎年恐山に行っていた。 
 

 食後「お隣のグループホームで花火があるので参加しませんか?」と誘うと「花火」に興味を持ってくれた。しかし玄関先に出ると、G2は階段を登った高台にあるため、入浴後のYさん・Hさんは億劫になったようである。Yさんは早々と帰ってしまい、HさんとTさんは、玄関前から時々上がるしょぼくれた打ち上げ花火を見上げながら、「花火は一発上げるにもお金かかるのよねぇ」などと話しながら、「月がきれいだね」とか「涼しくて気持ち良いねぇ」など、夕涼み気分に浸ってもいた。スタッフの角嶋さんが、線香花火やらネズミ花火を持ってきてくれて、私達もはしゃぎながら楽しんだ。花火が終わってリビングに戻ると時刻はすでに8時を過ぎていた。中のみんなはすでに寝ただろうと思っていたが、リビング奥のソファには、早々に引き揚げていたYさんとSさんが私達の帰りを待っていてくれた。なんと恐山ツアー参加者全員が残っていた!

【場面1】 母になり、子に戻る
シテ:亜美 ツレ:H 
ワキ:T ワキツレ:S・Y 
後見:M・宮澤


 遅番の亜美さんと夜勤者の好子さんも加わり、7人が廊下中央の薄暗い場所であれやこれや話が盛り上がる。それぞれの話は錯綜しているのだが、なぜか笑いが共鳴し合っていた。私とTさんは向かい合わせで端に座り、みんなのおしゃべりを見守る感じになっていた。
 そんな中、Hさんが椅子からおりて床に直座りし、ソファに座っていた亜美さんと手を繋ぎ合った。驚いて見ているとなんとHさんは亜美さんの足やら太ももをさすり始めた。そのうちさらにHさんは亜美さんの両腿に顔を埋めてしまった。ゆりかごの中にいるようなHさんと、ゆりかごになっている亜美さん。そういえば夕涼みの時に花火を立って見ていた亜美さんを「ここに座りんしゃい」と言って抱っこしていた。おばあちゃんと孫のようなほほえましい光景だったが、今は逆転して20代の亜美さんに90代のHさんが赤ちゃんになって甘えている。私が少し心配だったのは、今年の新人の亜美さんを普段から特別な存在として思い入れのあるTさんがその光景を見て嫉妬しないだろうかということだった。田植えの時も一対一で直伝し、「おめぇさんがいると安心だ、宜しく頼む!」と亜美さんを大事な人として受け止めているTさん。ところがTさんはまったく見えていないように振る舞っている・・・。
 その傍らではSさんがYさんに「私の家は多産系で、一晩しか寝なくても子ができるから不思議なのよ」と話し出す。それを横で聞いていたTさんは「効率良いなぁ」とぼそっとつぶやきニヤッとしている。Yさんは「そんだ、いっぺぇできるところは、そなんだ」と頷いている(何だか妖しい話)。
Yさんは、Sさんの粋でしゃれた語りに感銘するところがあるらしく「オレ、この人が自分のこと、お金がかからないタんダのハツって自己紹介したから、いっつも顔はわかってもよ、さっぱり名前が覚えられんけんど、この人の名前だけはすぐ覚えられた。タんダのハツさんてなぁ」と繰り返す。亜美さんが「Yさん惜しい!ハツじゃなくてSさんだよ」と言うが、Yさんは何度もハツを繰り返し、訂正しようとはしない。亜美さんは「はひふへほのハツじゃなくて、さしすせそのSなんだけどなぁー」とさらに突っ込むが、Yさんは聞いてはいない。「札束のSって覚えたら良いんじゃない?」と応援が入るがそれもYさんの耳にはまるで入らない。

【場面2】 来て共に舞う
前シテ・後シテ:T ツレ:H 
ワキ:亜美 ワキツレ:S・Y
囃子:G1の利用者  後見:M・宮澤 
 

 時刻が9時を過ぎた頃「そろそろ寝るか」ということになった。すると今までボンヤリしていたTさんが一番にシャキッと立ち上がった。Tさんが部屋に戻るには、Hさんの横を通らなければならない。その時にはゆりかごだった亜美さんは他利用者の介助でその場を離れたので、Hさんは亜美さんが座っていたソファにお腹を突き出すようにして座っていた(Hさんは腰が痛いので時々このような姿勢をとる)。TさんはHさんの前を通りながら、突然Hさんのおなかを触りはじめた。Hさんのおなかは出ていて自分は細いと言いたいのか、Tさんは自分のズボンのウエストがこんなに余っているとばかりに2折り3折りさせている。みんなが響めきながらその様子を見ていると、さらにTさんは、ズボンの裾をたくし上げ自分の足の細さも見せた。そこへ戻ってきた亜美さんが「Tさん、“ドジョウすくい”が、はじまりそうだね」と声を掛けると、なんとTさんは安来節を踊りはじめた。「Tさん、これ」と言って亜美さんが小さなザルを手渡す。Tさんもそれに乗ってサマになってきた。「本番は、恐山ツアーの温泉旅館までとっておきましょう!もっと大きなザルを用意するからね」と亜美さんが言うと、それに合わせて手に持っていたザルを股間に押し当て、ニヤッと笑って踊りが終わった。
私はあっけにとられた。この行動はどう考えてもTさんらしくなかったからだ。10年以上になるお付き合いだが知る限りではあり得ないことだ。私には、そのとき5年前に亡くなった旦那さんの清吉さん(仮名)が見えた。今夜の「迎え火」で、清吉さんが戻ってきたにちがいない。そういえばG1の「迎え火」を11日にやって、12日の夕方に亜美さんが旦那さんの清吉さんの写真を壁に貼ったという経緯があった。そのとき清吉さんはTさんのところに戻ってきていたに違いない。清吉さんがいたとするとTさんのドジョウすくいは腑に落ちる。清吉さんは、銀河の里のグループホームでTさんと一緒に暮らしたあと、里の特養ホームで看取りまでさせていただいた方だ。律儀で細かいことをきちんとするTさんとは対照的で、お茶目なムードメーカーで場を和ませる方だった。清吉さんを知っている人なら、どじょうすくいは清吉さんだとすぐに感じ取れたはずだ。
そんな「迎え火」の後の宴も終わり、役者達は口々に「おもしぇかったなぁ」「こんなに笑ったことなどひさしぶりだぁ」「みんなと話ができてよかったぁ」と、名残惜しそうに各々の部屋に戻って行った。ふと気づくとグループホームで霊感の一番強いMさんが、暗い部屋で一人じっと座り込んでいた。今夜の宴の顛末を見守り支えていてくれたに違いない。

考察1:世阿弥が『伊勢物語』の「筒井筒」の物語を素材に創作した能の演目『井筒』は、複式夢幻能の代表作といわれている。在原業平と紀有常の娘が昔夫婦として住んでいて、今は廃墟となった在原寺を訪れた諸国一見の僧が聞いた不思議な物語である。僧の前に現れた里の女(前シテ)は実は有常の娘の亡霊(後シテ)で、業平への恋慕の舞を業平の装束を着けて舞い、夜明けと共に消え失せる。現在と過去が入れ替わり、二重に男女が入れ替わる夢幻的な時空に繰り広げられる能舞台。

 この迎え火の夜の宴の体験を通じて、グループホームが夢幻能のような物語を展開できる舞台となりうることに大きな意義を感じる。
前シテのTさんはG1で利用者として暮らしているが、橋がかりとしてのあの薄暗い廊下を横切るときにHさんがいたことで後シテのTさんとなり、「迎え火」で帰ってきた清吉さんを被って安来節の舞を披露したのではないか。Tさんの舞は私の中で能「井筒」と重なり感動が込み上げた。

考察2:もう一つの見立てとしては、Tさんが“ワキ”として座って居てくれて、シテの新人スタッフ亜美さんが、母性を獲得するためのイニシエーションとしてG1最年長92才のHさんを赤ちゃんとしてあやすという物語である。日頃のHさんは、社会的な道義や倫理などを重んじる人なので亜美さんに対して厳しく躾をする立場にいる人だ。このとき、なぜお母さんにあやされる赤ちゃんになったのか。Hさんの日頃のペルソナがはがれ、柔らかい赤ちゃんのような本体が顕れたようにも感じる。毎年「恐山」で、イタコさんに下ろして貰って、お母さんに会っていた時の再現だったかもしれない。その時に、共時的に隣のソファではYさんとSさんが「子作り・多産系」の話しをしている。霊山として死者を下ろす「恐山」は、生まれ来る命や母性の物語とも通じているということなのか。命の巡りということからすれば死も生も含んだ全体性が命そのものということになるのだろう。「霊場恐山」を超えた霊場がグループホームの場に出現する可能性があるということではないか。

 22歳の新人、亜美さんはどう受け取っているのだろう?里のグループホームで巻き起こる一連の不思議な出来事に遭遇し、頭がボンヤリすると言っていた。カルチャーショックの中にいると言っていいだろう。私も強く感動させられっぱなしだ。「恐山ツアー」では、浅虫温泉でゆっくり身体を癒やし、「恐山」でしっかり現実を取り戻してきたい?!


「恐山ツアー」の顛末 (2016/08/25〜26)
 一泊2日の「恐山ツアー」は、Hさんのひと言が発端で「みんなで行こう!」となった計画であるが、費用もかかることなので、家族の承諾も得なければならない。参加者の中には90歳を越えた人もいるので健康状態に配慮が必要だ。参加者のモチベーションはどうか、スタッフのメンバーはどうするか。スタッフも「恐山」と聞いて引き気味なところもあり、すんなり計画に乗れなかった事も事実だ。私と理事長で6月に現地の下見を実施した。宿泊する浅虫温泉の部屋やお風呂の状況、恐山までの道路状況、休憩やトイレの場所、恐山をどう歩くかなど。計画から2ヶ月の間、参加者4人はそれぞれ「行く、行かない」で揺れているようだった。特にお盆前には恐山どころではないといった雰囲気があった。お盆を終えると、それぞれの気持ちも落ち着き、前日に“旅のしおり”を配って最終確認をした。ところが出発前日になってもYさんは「おら、カブ(膝かぶ)が痛いから・・・」と、ためらう発言をして、みんなから「大丈夫、温泉でカブを治してから恐山に行くのだから」と説得されるものの、顔は曇っていた。当日の朝になって、Tさんが「オレは、何も聞いていない」と言い出す。(あれっ昨日は“しおり”に色まで塗って準備をしていたのに?)
しかし出発の時間には全員、当然のように行く気満々で、おしゃれをして集まった。玄関に一番に出てきて「行く」と座り込んでいるのはG1の霊感度ナンバーワンのMさんだった。Mさん達、残る5名の利用者とスタッフの守りの後押しを感じながら、いよいよ出発。

【出発】
 運転手の理事長、カメラマンの潤太郎さんとその他スタッフは私を含め4名、マダムチーム改めイタコ・シスターズ(潤太郎さん命名)4名の総勢10名が、ハイエースに乗り込んだ。カメラに緊張してか、すっかり眠ってしまった人もいる。

【道中】
 行く道で、天気雨が降り、直後は迫力のある虹が2重に架かり、私には現実と異界の橋が架けられたようで「恐山ツアー」の旅に相応しい光景に映った。

【温泉】
 浅虫温泉では、オーシャンビューのお部屋で、全員が浴衣に着替えた。その浴衣姿がなんとも色っぽくかわいらしい。露天風呂で海を眺めながら温泉に浸かり、背中を流し合い、裸のお付き合い。ゆったりしすぎて湯あたり寸前の人もいたが、皆さん満足。Yさんは、温泉の効果で、心配していたカブの具合が良くなったと、足をピンと上に何度も上げて見せてくれた。
 お風呂の後、夕食の席について「乾杯」、並べられた海の幸膳の釜飯やしゃぶしゃぶ鍋に火が入る。最後はおそばが出て、デザートは杏仁プリン。かなりの量だったがみんな結構平らげた。食事のあとは津軽三味線の演奏会。一番前のソファに銀河の里ご一行が座り、津軽三味線の迫力を堪能する。しかし心地よさにウトウトする人もいた。演奏が終わって部屋に戻るなり、SさんとTさんはバタンキュウと布団に潜り込んでしまう。確かに今日は、3時間のドライブと温泉入浴にお膳の食事、おまけに津軽三味線と盛りだくさんな展開だった。さすがのイタコ・シスターズも明日の本番を控えて、夜更かしのおしゃべりタイムは無かった。
 私も疲れて、Tさんと亜美さんの布団の間に横になっていると「畦を広げてないで、ここで寝ろ」と、Yさんが自分の布団の脇を開けてくれた。「Yさん、畦とは上手い例えだね。確かに太っちょの私がここで寝ると、段々畦が広がっていくものねぇ」と苦笑した。寝ていたはずのTさんが隣で「ぐふふ」と目を開けずに笑った。そんな訳で、Tさんの本番の「ドジョウすくい」を見ることはできなかった(清吉さんは16日の「送り火」に帰ってしまったのだろうか?)
 皆さんぐっすりで、トイレも日頃3回の人も1回、全く朝まで起きなかった人もいた。Sさんは明け方、一人布団に座っていたとのこと。それを見て「座敷わらし?」と驚いた人もあったようで、後で大笑いした。
朝食の後、出発予定時間は過ぎていたが、皆はすっかりおみやげ選びに没頭していた。運転手の理事長だけが「参ったなぁ」と、しきりに時間を気にしていた。

【いざ「恐山」へ出発!】
 80%の雨の確率だったので天気はあきらめ気味だったのだが、恐山に滞在中、食事もして車に乗り込むまで雨は降らなかった。イタコ・シスターズの威力だ(出発した途端、どしゃ降りとなり前方が見えなくなるほどだった)。
 さて、この日の恐山は大荒れの天気が予想されていた上に、参拝シーズンを外れていて人は少なく、ゆっくりと参拝することができた。Sさんは潤太郎さんにおんぶしてもらって境内の参拝をした。とても有難かったのだが、それでもSさんは自分の足で歩きたかったようで、そのあと地獄コースでは両サイドを支えてもらって自分の足で巡った。天国コースは車いすで巡り、宇曽利山湖を眺めることが出来た。Hさんはコースを巡りながら、涙を流し「来たよー」と呼びかけていた。Yさんは、しっかり手を合わせて、曹洞宗のお経を唱え先祖供養をしていた
 一方、Tさんだけは少し様子が違って、5分おきくらいにトイレに行った。恐山巡りはあきらめTさんは境内で水子供養塔に手を合わせ、イタコさんが寝泊まりする宿舎のトイレのあたりで亜美さんと過ごした。普段ズボンしか着用しないTさんが、恐山ツアーになぜかスカートを履いてきた。確かにおしゃれではあるが、ちょっと場違いな感じもする?Tさんの目的は恐山ではなく「温泉」だったのかとも思ったが、実はそこに深い意味が隠されていたのだった。そのスカートはTさんが自分で裏地を敢えて切り取ったという。それを身につけ、私が「2本足が透けて見えるよ」と言うと、Tさんは「足はしっかり付いているよ!」と返してきた。「私は幽霊ではない、生きている」と言いたかったのか?いずれにせよ、生きているTさんが供養しなければならない死者が明確にいたのだった(車に乗り込んだTさんは、亜美さんに「冷えたなぁ」と漏らしていたが、私はその意味深さに震えた)。
 ともかくイタコ・シスターズは、里でお盆のお勤めを果たした後に、霊場恐山でご先祖様の供養ができたことが非常に良かったと語っていた。当初の見立て通り、皆さん「現実」の旅行をしっかり頑張った。Sさんは自分の足でしっかり歩き、Yさんは拝んだ人の年齢や続柄を説明し、お経13番を淀みなく唱えて供養していた。Hさんは毎年恐山に来て、生者と死者の交流で心の浄化を図ってきたことを今年も実現させた。Tさんは初めての恐山で頻繁にトイレ通いしながら水子供養を済ませた。イタコ・シスターズの一人一人にそれぞれ目的意識があり、揺らぎがなかった。

 ツアーから無事戻り、夕食後に「ツアーの振り返り」をしようと、テーブルに集まってYさんにお経を唱えてもらった。それから一人一人が感想を述べた。私はTさんが地獄巡り・天国巡りに参加できなかったことを悔やんでいるのではないかと心配したが、そんな心配は全く必要なかった。「初めてのところだったが、お参りができて良かったです」と、いつものTさんとは思えないほど大きな声でしっかり挨拶をしてくれた。それぞれイタコ・シスターズの皆さんは、驚くほど立派な社交ぶりで感想を語ってくれた。きっちり「恐山ツアー」を「現実」で貫いてくれたことに、再度感動させられた。
これでほぼ見立て通りの恐山ツアーだったかと思いきや後日談がある。

【恐山、恐るべし!】 生と死と癒し
 帰ってきた翌日、疲れていないか心配して、様子を見に顔を出すと、普段の穏やかな日常がそこにあった。Yさんはいつものように草取りをし、Tさんは野菜の収穫を済ませ台所に立ち、Hさんは私を見るなり「ありがとうね」と声をかけてくれた。自分の足で地獄コースを巡ったSさんもシャンとテーブルについてお茶を飲んでいた。みんなたくましい。
 そのとき私は、翌日の銀河サロンにTさんを誘った。「韓国語講座があるので、一緒に行きましょう」そこに立教大学の韓国人留学生のギョンミさんが来ることや、韓国の民族衣装を試着できること、「ホトック」というおやつが出ることなどを話した。いつものTさんらしく、行くとも行かないとも言わず無言の承諾をしてくれた。
 サロンには杉田夫妻と赤ちゃんが参加していた。杉田紗智子(旧姓:前川)さんは、元G1のスタッフでTさんの「事例」を書いた人でもある。またTさんの旦那さん(清吉さん)の看取りにも立ち会い、清吉さんはまさに彼女の腕の中で息を引き取ったのだった。紗智子さんが赤ちゃんを生んだときには、私とTさんとで産院にお祝いに行った。長いお付き合いと相まって深い関係でもある。サロンの会場でTさんは勧められるままピンクのチマチョゴリを着て、杉田一家と共に写真に収まった。杉田夫妻の赤ちゃんが、家族の「希望」を象徴するかのように明るい光を放っていた。サロン終了後、Tさんは、その写真を持ってG1に戻った。「迎え火」の能舞台では、Tさんがワキになって、亜美さんに“母性”を伝えたように感じた。それを盛り立てるようにSさんとYさんが、「子作り」の話を隣でしている共時的な状況。この写真もきっと亜美さんの未来のために用意されたショットにちがいないと感じる私がいる。

 翌日、Tさんの娘さんが来里され、8月には出産や別れなど家族にいろいろあったことを語られ、「母さんが恐山に行って、ご先祖に“家族のこと”をお願いしてくれたことを聞いて、何だか鳥肌が立ちました」と言われた。かつてグループホームに入居した当時の恨みを綴ったTさんのノートがあったことも語りながら言葉を詰まらせた娘さん。このとき私は、Tさんが恐山のお参りを通じて母娘の和解を果たしたのだと理解した。

― 亜美さんとTさんの会話から ― 
亜美:「誰のこと拝んだの?」
T :「両親と旦那」
亜美:「何を拝んできたの?」
T :「家族のこと」
亜美:「そしたら何て言われたの?」
T :「当たり前のことだ」

 実際にはTさんは、家族に起こった出来事を聞かされてはいないのだが、すべて知っているかのようだ。そしてご先祖が、しっかりと守ってくれていることを確信しているのではないか。生者と死者との繋がりを感じないわけにはいかない。死者と繋がるTさんの振る舞いを通して、私達は大切な学びと発見をさせてもらった。意外にも恐山で「異界」を体験していたのは唯一Tさんだったのかもしれない。「迎え火」で、清吉さんが憑依して皆に舞を披露し、恐山ツアーの感想を述べた時には、ご先祖の霊が感謝の言葉を言ってくれたように感じて、私は納得がいった。きっとこれからも、今は見えていないイタコ・シスターズのそれぞれの思いや謎、そして新たな発見をしながら一緒に暮らしていくのだろう。

 「迎え火」「送り火」そして「恐山ツアー」という一連のグループホームでの祭事は、現実に張り付いてタイトな生き方をしている者にとっても、てらいなく素直に手を合わせることができる貴重な体験でもあった。特定の宗教というのではなく、死という宿命を持った人間のよりどころとなる繋がりの場が、ここにあるという感謝の気持ちが湧いてくる。カメラマンで同行してくれた28歳の潤太郎さんは、イタコ・シスターズの方々が「自分という人間の意味づけや理由づけを、どういう形であれ全うしようとしている最中(さなか)に見えました」と感想を送ってくれた。

里の一コマ)恐山.jpg
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2016年10月19日

今年の田んぼA ★ 特養オリオン 川戸道美紗子 【平成28年9月号】

おこめ.jpg
 ジョニー・ハイマス著「おこめ・米」という本を読んだ。その本はほとんどのページが田んぼの写真で綺麗な本だった。なわしろ、田植え、稲刈り・・・その田んぼは全部を無農薬で行っているそうで、機械も入らない田のため全て手作業だと言う。その写真集の中の、「自分達が育てているお米だから可愛い」という言葉が印象深かった。全て手作業だから、もの凄い労力がいると思うが、銀河の農業も近づきたいと思わされた。そこには田んぼや稲作やお米に対して深い愛情や情熱があると感じた。
 その本のなかで私が衝撃を受けたのは、「米の花」の写真だった。キャプションには『咲いているのは午前中だけ』とあった。私は「米の花?なんだそれ?」とキョトンとしてしまった。実は、私はここ5年間、銀河の里で田んぼに関わっていたが、なんと「米の花」という存在そのものを知らなかった。田んぼで稲作に関わっていながらも、そんなことも知らず毎年里のお米・お餅を食べていた・・・。穂が出てきた頃に咲く、小さくて可愛い白い花。慌てて、その本を読んだ次の日、銀河の里の餅米を植えた田を見に行ったら、偶然にも米の花が満開だった。初めて見る稲の花。遠くから見ていても気付かないが、近くで見ればよく分かる。びっしりと、白い小さな花が咲いていた。
 その「米の花」を写真に撮って、ユニットすばるの入居者の健吾さん(仮名)に見せに行った。健吾さんはそれを見ると「おっほっほ!今年は豊作だじゃ!」とにっこりと笑って言った。…ん?なんで、この写真一枚で豊作だと分かるの?と聞いてみたけれど、「・・・去年は五分作だったなあ」と、話をそらされ、曖昧にして教えてもらえなかった。
 励まそうとして、適当に豊作だと言ってくれたのか?いや、健吾さんはそんな性格の人ではない。真摯に、誠実に優しさも厳しさもくれる人で、そんな生ぬるい話にはしない。となると本当に豊作なんだろう。でも何で「米の花」の写真を見ただけで豊作か否かが分かるんだろう・・・気になって、ユニットおりおんのモモコさん(仮名)にも写真を見てもらいながら聞いてみた。
「あや〜、咲いてらじゃ。今年は冷害になるかと思ってらったども、大丈夫なんだなあ。安堵した」米の花を見てモモコさんもにっこりと嬉しそうに笑った。「米の花」について聞いてみると、モモコさんは熱を入れて語り出した。
「あのねえ!この花ひとつひとつが、穂に入って、そしてそれが米粒になるの!だから、この花が多いほど米が多いってことなの!」米の花がおしべで、めしべは穂の中にある。一本の稲に100位の花が咲いて、穂の中のめしべと受粉し、実になるそうだ。『この花が多いほど、米が多いってこと』というモモコさんの話には真実味がある。
 実際にそういう原理なのかどうかは分からないが、モモコさんがそう言うと、そういう事なのかなと思わされる。若い時に旦那さんを亡くし、子供をおんぶしながら女手ひとつで田を守ってきたモモコさん。「大変だったんだよ」と今は懐かしそうに語ってくれるが、本当に大変だったろうなと想像する。農協に米を出しても赤字続きだったという話をよくしてくれる。旦那さんが餅が好きな人で、何かある度に餅をついて食べていた・・・とか。暮らしと共に米があった、そのモモコさんが教えてくれる米の事、科学的事実とは違う事だとしても、モモコさんの言う事の方が説得力があるし、力も感じる。(モモコさんの言っていることは本当のことらしい、私が何も知らなさすぎる。農家の人には当たり前の知識なんだって!いつまでもお遊びの農業ではいけないなぁ)

 それからしばらくすると少しずつ穂が垂れてきた。「また稲が変わってきたら、教えて下さいね」とニコッと笑って健吾さんに言われた通り。健吾さんも、ユニットから田んぼを見ていてくれる。もの凄く心強い。穂が黄色くなってきた頃、また報告をしようと思う。

 今年の春、おりおんの響子さん(仮名)は胃瘻手術をしてユニットに戻ってきた。響子さんは、去年も一昨年も「やる」と田植えの時も稲刈りの時も、車椅子で田んぼまで来てくれて、スタッフに抱えられながら力強い手で、植えて、そして刈ってくれた。今年はもう田んぼには行けないかもしれない。でも響子さんと植えたバケツ苗にもちゃんと稲穂が出てきている。
私が早番のある朝、私はモモコさんとその響子苗に咲いた「米の花」を見た。小さくて可愛い「米の花」をモモコさんも愛おしそうに見つめていた。「自分達の育てているお米だから可愛い」写真集のその言葉がモモコさんの表情に重なる。
 米作りや農業に関わっていると、自然も利用者もみんなが色んなことを教えてくれる。食べるためだけではなく、いかに生きていくか、生きるとは何なのか、そんな事を諭されている気もする。毎日美味しいお米を食べながら、どう生きていくのか、試行錯誤しながら・・・田んぼと皆と、その毎日を大事にしながら。収穫の秋を待ち望んでいる。
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2016年10月18日

オモイ畑 ★ グループホーム第1 佐々木伸也 【平成28年9月号】

 去年の11月にグループホーム第1に移ってすぐ、なぜか目の前にある畑が目に入った。その畑は“荒野”のように荒れ果てていて、肥料袋はそのまま投げ捨ててあり、草は伸び放題、収穫後の畝はそのまま放置されていた。そんな畑を見たときに“これどうするの”と思ったと同時に、すぐに心の中で“あ、俺がやるんだな”とスッと覚悟した感じだった。
 まず冬のうちに構想を練らなくてはと思いながら冬が過ぎていくのに焦った。この冬は暖冬であまり雪がつもらず“これは早めに動ける”と思ったが、自分が特養に居たとき、入居者のKさんが「幸田は寒いところだから」とよく言っていたのを思い出した。Kさんは昔から農業をやってきた人で、よく一緒に畑に出る機会があった。そこでは苗の植え方はもちろんのこと、女の幽霊の話までしてくれた。そのKさんは去年7月に亡くなってしまったが、自分に“まだ早い”と言ってくれるかのように出てきてくれた時もあった。銀河の里に来てから3年、今までもずっと畑仕事に携わってきて“よし、3年やったんだから今度は一人でやってみよう”という思いがあった。

 雪が解けて、グループホーム内で何を植えるかみんなで話していた。いよいよ3月後半からスタートになるが、まずトラクターで耕すところから始まる。トラクターを使うのは初めてで不安だったが、利用者のTさんYさんが見守ってくれて支えられた。おかげで初めての割にはなんとかうまく耕せた。  
これには稲造さん(仮名)の存在を忘れることはできない。トラクターで耕した時は、稲造さんはちょうど入院していて居なかったのだが、その後、帰ってきた稲造さんが亡くなる日の当日の朝に、畑の話をしてくれた。そして「お前がいたら大丈夫だな」と言ってくれた。そのときの稲造さんとその言葉があまりに強烈で忘れられない。
 私は翌日、畑に吸い込まれるように畑に出た。石灰と堆肥まきをTさんYさんとやって耕運機で混ぜて準備完了。その後、堆肥まきの時期に新人の菊池さんが来てTさんと3人で堆肥まきして耕運機もかけた。その時にTさんが水の通路を作りたかったのか畑の周りを掘っていた。菊池さんはぶっきらぼうに「そこはやらなくていいって」と言ったのにTさんは「・・・・」と無言だった。そのやり取りを見ながら新人だなぁと感じたものだった。でもその後、二人の関係は不思議な濃密さがあって、今は菊池さんはTさんにとって託す相手として重要な存在になってきている。

 畑の準備の前から私はポットで育苗をしていた(大根、カブ、カボチャ、とうもろこし)。芽が出て“そろそろ植える時期だ”と思っていると・・・他のスタッフから「え、、、大根とカブ、ポットでやったの?」と言われた。何のことかと思っていると、それらは育苗して苗を植えるのではなく直接畑にまく直播きなんだということだった。利用者のTさんやYさんに相談すると「大丈夫なんだ」と言われたが、植えた苗は全部死んでしまった。自分の不甲斐なさにがっかりしながらも、なんとか気を取り直して直播きをした。芽が出るのがもう気になってしょうがなく、毎日畑が気になる。
 その一方で市販の苗の買い出しにも行った。稲造さんの次に入居になった光雄さん(仮名)と苗を買いに行き「太いの買えば良いんだっけ」と教えてもらった。男二人で苗を買っていると、いろいろと目移りしてしまい、ビック唐辛子の苗が気になって「おもしろそうだ」と買い足した。ある時は、Tさん光雄さんと湯本の方までトマトの苗を買いに出かけたが、他の野菜の苗が気になってなかなか決まらなかったりといろいろあった。

 畑に植えてしまうとあとは待つばかり・・・大根の葉が徐々に大きくなるのを見てワクワクした。雨が降るとYさんと喜んだ。「よがったな、雨降って」「んだー」「昨日から二人して予想してらったもんな」と雨の日の会話が弾んだ。生まれて初めて雨が降って喜んだような気がする。
 まだかまだかとソワソワしてるのは自分だけでなくYさんもで、草が気になり、太陽のガンガン照り付ける日でも草取りしてくれる。そこにYさんは自分の世界を見出したようにも感じるくらいやってくれる。今では 伸「おう、ばあさん、ごはんだ」Y「今いぐ」・・・・伸「ごはんだ〜」Y「は〜い」・・・・伸「ごはんだってば」Y「わかった、せわしねぇごど」などと言い合える関係になっている。畑での会話では、戦争時代のことやYさんの話だったりを教えてくれる場所にもなっている。この畑という場所はすごい力を持っており、亀田さんとTさんのカボチャ・菊池さんと光雄さんのとうもろこし・稲造キュウリなど、それぞれの想いがいっぱい詰まった野菜がある。
 畑に出る人は他にも多くいて、サチさんは本気の草取りをしてくれる。キクさんは畑には出ないがリビングにいる幸恵さんと見守ってくれている。キミさんミコさんは応援部隊で畑をやっている人たちに踊ってくれたりして応援してくれる。そんなこんなで全員巻き込んでの畑になっている。でもその分“重さ”も自分は感じた。失敗して獲れなかったらどうしようという“重さ”があった。ところがなんと、どの野菜も大豊作で、周りの皆に「今年の畑は立派だね」と褒められる結果になった。
 でも育てたのは利用者のみんなだと思う、自分は耕しただけ・・・“何もしてないぞ”と思った。「今年は一人で出来るように」と当初思っていたのだが全くの見当違い。また助けられたけど、皆でやったから「立派な畑」になった。皆の想いが詰まった畑はほんとに重いものがあった。豊作で今すごく安堵している自分がいる。

 畑には野菜がいっぱい育った。でもそれだけではない。そこに込められた関係のストーリーや一人一人の気持ちや想いや出会いもたくさん詰まって育っている。目には見えないものもいろんな事を教えてくれる畑、自分も野菜と同じように、畑で成長できてるんだと思う。失敗も成功もどっちも糧にしながら出会えて、悩んで、想いをめぐらして、そんな場所を作ってくれる利用者に圧倒されながら日々を過ごしてきた。これも暮らしなんだなと思う。利用者の一人一人といろいろ感じながら、これからも畑と利用者に囲まれて暮らしを作っていきたい。

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ドンッ!となって、ボンッ!となって、ドンッ♪ ★ 特養すばる 千枝 悠久【平成28年9月号】

 先日の8月20日に恒例の花巻花火大会を銀河の里で観に行った。今年の花火は私が今まで見てきたなかで、一番思い出深いものだった。花火の閃きが見事だったのはもちろんだが、そこで起こった出来事の一つ一つも、同じくらい私のなかで輝いているからだ。ユニットすばるからは、クミさん、ユキさん、ツナさん(仮名)が見物に出かけた。
 クミさんとペアになったのは私。約2年前、初めて出会った頃のクミさんは、“慣れている人でないとダメ、男の人なんてもってのほか!”という感じ。例えば、夕食が終わってリビングからお部屋へ誘う時も、「なにするってや!このコバカタレ!」とピシャリとやられてしまう。だから、私はほとんどクミさんと関わることができないままの日々が続いていた。

 そんなある日、クミさんが体調を崩し、何をするにも手伝いが必要になる、ということがあった。流石にこの時は私のことも頼ってくれたのだが、それが私にとっては悔しい出来事だった。“普段からもっと関われていれば、こんなに弱ることはなかったかもしれない…”それから、クミさんとの闘い(?)の日々が始まった。
 毎日、頭ん中でロッキーのテーマが流れているみたいだった。何度話しかけても無視されたし、コバカタレ!も何度も言われた。コバカタレなのは自分でも分かっている。私が里に来た7年前にも、コバカタレ!と言い続けてくれたトミ子さん(仮名)が居た。言われ続けて、考えて、考えて、そのおかげで今の自分がある。クミさんは私にまた、それをやってくれているのだと。先輩スタッフの「(クミさんは)来てくれるのを待ってるのだと思うよ」という言葉を導きの明かりに、好きなものを聞いたり考えたりして作って出したこともあったし(「うまくね!」と言いながら完食してくれる)、夜に「これから海に行こうか!」と誘ってみたこともあった(「な〜に言ってら!このコバカタレ!」と笑ってた)。

 そんな日々のなかで、少しずつクミさんと話せるようになっていって、過ごす時間も少しずつ増えていった。が、花火大会に一緒に行けるかは全くの未知だった。最近は、日中寝ていることも多く、あまり外出もしていない。クミさんが話すことは、以前より大分減った。先日、息子さんが面会に来られた時には、二人でほとんど話すことなく部屋で過ごしていたそうだ。“どうなるかはわからない、でも、とにかくクミさんと同じ時を過ごしたい!”そう思った。
 ユキさんは、花火を楽しみにしていて、毎年欠かさず出かけている。自分の気持ちをどんどん表に出すユキさんが、その年の花火をどう感じたか、それは毎年スタッフの間でもすごく楽しみになっていることだった。ペアになった由実佳さんは、みんなと自然と関係を築くことができる人だ(あの手強いスミさんにも最初からほとんど断られることがなかった!)。そんな由実佳さんとだと、ユキさんの「オラにばりこったにベチャベチャずいの!!」という、ソフト食が出されることに対するトゲのある叫びも、「だって〜ユキさんが…〜〜〜!!」途端に小さな姉妹のケンカみたいな微笑ましいものに変わる。
 ツナさんは、神様や仏様、霊的なものをすごく大事にしている人。部屋の電灯も「あ〜ま〜て〜ら〜す〜さ〜ま〜、まぶし〜!」と表現するような、ニコニコとみんなのことを見守ってくれているおばあちゃんだ。ペアになった角津田さんは、自ら語るよりも人に語られることのほうが多い人で、そのエピソードのどれもが、里でのいろんな人との心がほっこりと温まるようなものばかりだ。だから、私は勝手に、このペアのことを“里の神様&仏様ペア”と思っていた。
 残念だったのが隆二さん(仮名)と、今年の新人スタッフの落合君のペア。何度誘っても隆二さんは手を横に振るばかりで、一緒には行けず。この二人はきっと、これから、なんだろうなぁと思う。言葉を用いない隆二さんは、食事のとき以外は、部屋に戻って一人でテレビを見ていることが多い。昨年8月に入居してから、そういう暮らし方を続けてきていた。それはそれで、隆二さんが自分で決めた暮らし方なのかもしれないが、寂しい感じがして、気になっていた。そんななか、落合君が“自分とどこか似たところがあるから”と隆二さんのことを気にかけ、花火に一緒に行きたいと言ってくれたことは、私にとっても嬉しいことだった。

 そして花火大会当日。花火に誘ったけれど、特に返事をしてくれないクミさん。でも、“花火は好き?”には「好きだよ〜」と答えてくれたし、最後のニコッという笑顔もあったので、それを頼みに出発。会場に着いたけれど、車を停めたところからクミさんの席までは、少し距離があった。車イスを使うという選択肢もあったが、行き着くまでの過程も大事にしたくて、二人で歩いた。出会った頃は一人で部屋まで歩いていくこともあったクミさんだが、今は手引きでないと、歩くことは難しい。これまでの色々な思い出が駆け巡りながら、一歩ずつゆっくりと歩む道のり。「大丈夫?疲れねっか?」「大丈夫だ」しっかりと手を握って歩いた道のり。席に着くと、「ゼェ、ゼェ、ハァ、ハァ、……ニコッ」大分息が上がっていたけれど、笑顔を見せてくれた。二人でやっとここまで歩いてこれたのだな、と思った。花火を見ながら、「オニギリ食べるっか?」「うん」…「きれいだね」「うん」…。言葉は少なかったけれど、花火と、そして時々私のことも、しっかり見てくれたクミさん。一緒に来られて、本当に良かった、と思う。

 ゆったりとした時間のなか、感動していた私の隣から聞こえてきたのは、「オラさはなんにも来ねぇ!」とユキさんの声。クミさんが食べていたので、ユキさんにはオニギリが回ってなかったのだ。一気に現実に引き戻された感じの私だったが、それでこそユキさんだよなって思った。ムスッとしながらオニギリを食べてたユキさんだったが、そのうちに隣の由実佳さんに、「コレ、あげる」と自分の持っていたオニギリを渡そうとしていた! いつも「コレはオレのだ!」とあまり人にものをあげるということがほとんどなく、あげる時があってもどこか照れが入ることが多いユキさん。そんなユキさんが、自然と人にものをあげている!すごいことが起こっている、と私は感じたのだが、それを「い〜らないっ!」と、あっさりと断る由実佳さん。まったく二人らしいなぁ、って笑えたし、きっとこれからも、こうしてやっていけるんだろうな、と思った。
 後ろを振り返ると、リラックスチェアに座るツナさん。キラキラとした目で空を見上げている。その横に、静かに、ピッタリと寄り添う角津田さん。花火に照らされているのだけれど、二人からも光が差しているような、そう思える光景で、心の中で二人のことを拝んだ。ツナさんは、花火がどう見えていたのだろう?花火に何を見ていたんだろう? 終わる頃には、優しい表情でウン、ウンと頷いていて、夏の終わりを愛おしんでいるかのようだった。

 花火大会から戻ると、いろんなスタッフが、「どうだった?」とユキさんに聞きに来た。初めは、例のごとく「大したことねがった。大曲の花火大会の方がすごかった」と言うユキさんで、今年の花火大会は良くなかったのか、と心配になった。けれども、何度か聞かれるうちに、「ドンッ!となって、ボンッ!となって、ドンッ♪」笑顔で花火の様子を教えてくれた。ジェスチャー付きで教えてくれたのだが、そのどれもが、両拳を前に突き出すものだった。―まだまだこんなもんじゃない、前へ― それは、ユキさんの自分自身に対するエールだったようにも思えたし、みんなへのメッセージのようにも思えた。この先どうなるかというのは誰にも分らないし、やってみなくちゃわからない。歩いてきた道のりがあって、そしてこれから先があって。輝きの中で、これからも前へ進んで行こう、そう思える今年の花火大会だった。
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銀河の里の一コマ(Photo Gallery)2 ★ 【平成28年9月号】

銀河の里さんさ隊2016、活動の様子!
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銀河の里の一コマ(Photo Gallery) ★ 【平成28年9月号】

山形一泊旅行・誕生会&バーベキュー・ボーリング・活動作業風景などの障がい部門の一コマ。

他に、ノンアルコールシードル、いわての物産展実行委員会会長賞を受賞の案内/歌う介護士 龍太狼のライブの案内。

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2016年09月30日

TOP画 「極楽ロケット」 ★ 佐藤 万里栄【平成28年7月号】


七夕の日に、宇宙船がロシアから飛び立つのをみんなと見た。
その中で94歳の彼女は笑う。
「極楽と地獄、どちらに行くかわからないけど、あぁいうのに乗っていくんだな」
あまのがわを越える彼女。宇宙に広がって見守ってくれる。
「あなたは置いていくから」
逝く者と残る者の使命を思った。


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母なるものの行方 ★ 理事長 宮澤 健【平成28年7月号】

 フクさん(仮名)が旅立った。梅雨の雨の降りしきる中、自然豊かな旧宮守村の集会所で葬儀があった。新緑の山々や野原に降り注ぐ雨は、宇宙に遍満したフクさんが、緑の命を燃やす雨となって滴っているようだった。会場に行くと玄関先に置かれた焼香台の前に写真があった。一瞬、誰の写真か分からなくて戸惑う。おそらく30年くらい前の60歳代のフクさんだろう。当然かもしれないが、葬儀では我々が知っている銀河の里のフクさんは居なかった。

 特養の開設当初からの入居者として、フクさんは8年間、里に居てくれた。特養に初めてやってきた日、交流ホール前の廊下でばったり会って挨拶を交わした。初対面なのに古い知り合いのような雰囲気で語りかけてくれて、明るく面白おかしい語り、みんなが暖かく包まれる感じに、なにか「特別な人が来た」と感じた。今振り返ると、フクさんはシャーマンだったに違いないと思う。それぞれの人にそれぞれの本質を突いた言葉を投げてくる。
 たとえば、銀河の里の組織を賭けての特養開設は、半年で資金破綻するという警告をされたくらいだった当時、経理責任者の施設長に向かって迫力ある感じでキッパリと「いいか、これだぞ、大事なのはこれだ」と、指でお金の形を作って突きつけた。私が職場見学の学生を案内した時には「この先生の言うことをしっかり聞いて教えてもらいなさい」と学生に言った。8年間、多くのスタッフが日々いろんな言葉をたくさんもらい続けた。その内容は鋭すぎたり、あまりに個人的であったり本質を突いていたりするので、なかなか日誌には書けないこともたくさんあったと思う。
 5年前くらいに“フクさん箴言集”をつくろうと企画したこともあったが、あまりに重くて続かず、尻切れになった。リビングではひょうきんにはしゃいだりしているのだが、部屋で一対一になると鋭い言葉が出ることが多かった。それでも基本的には懐が広くおおらかで暖かく包んでくれる感じがあるので、いろんなスタッフが辛くなった時にフクさんの部屋に行って癒やされていた。フクさんの居室に2時間以上も籠もっていた新人もあった。
 居室の前を通りかかるといつも手を振って「こぉ、こぉ(来い来い)」と呼んでくれた。「しばらく来なかったな」と言うので「アメリカに行っていた」などとトボケると、すかさず「アんメリ来なかったもんなぁ」と返されて一本やられたことがある。見事なものだ。回診のドクターに「父さんよ、いつも母さんの前を威張って歩いてばりじゃわぁねんだぞ」と言ったこともあり、ナースを焦らせドクターを唸らせた。
 もちろん、聞いたこちらがどう受け止めるかにかかっているのだが、世間の大半の人がそうするように認知症のたわごとと吐き捨てることは簡単だ。
 フクさんのように、認知症の高齢者はなんでも見通しているようなところもあり、達者な言語能力と相まって凄い言葉をくれるのだから、認知症の人を訳がわからなくなった人と考えるスタッフは、里にはいない。むしろ見えないものが見えたり、普通では解らないことも解るのが認知症だとほとんどの里のスタッフは知っている。しかもフクさんは、高齢者を見下して扱おうとするような人や、認知症の人は訳のわからない人だなどと少しでも思っているような人には、一切“語り”がないのだから鋭い。

 私は当初からフクさんは“里の母”だと思っていた。この人さえいてくれれば大丈夫と信じていたところがある。そのフクさんも90歳を超え、昨年あたりからは入退院を繰り返すことが増えた。入院の度にスタッフがお見舞いに押しかけるためか、病院では見舞い制限をするようになった。もちろん理由はノロやインフルエンザの感染対策ではあるのだが、解禁になればすぐに大勢が押しかけるので、また「家族のみ」などと制限をつけられてしまう。今回もそんなこんなの一ヶ月あまりの入院で、やっと退院が決まり、向かえに行く予定のその日、早朝にフクさんは旅立った。「らしいな」とも思う。なんとか里の特養も経営的には軌道に乗り、施設らしくない良い雰囲気に育ってきた。「あとはおめたち自分で頑張れ」と言われたような気もする。
 振り返っても、フクさんは本当のシャーマンだったんだと本気で思う。葬儀にシャーマンのフクさんは居なかった。会場に集まった人達は誰もシャーマンのフクさんを知らない。里のスタッフだけが知っているフクさんがいる。弔電も地元国会議員と市長、社長さんだった。あの葬儀は俗世で生きていたフクさんの葬儀で、シャーマンのフクさんはしっかりと今もどこかにいるに違いない。表現は違っても里のスタッフはそんな感覚でとらえていると思う。

 フクさんはじめ90歳を超えた人たちは、日本の暗かった戦争の時代とその後の厳しい時期を生きてきた人たちだ。これまでも男性利用者が戦争体験にまつわる語りや動きを見せてくれることがあった。それはただの昔話や思い出話ではなく、ユニットやグループホーム全体が本当に戦場になってしまうくらいのリアルな現象にまでなることもあった。どれほどか深い傷がそこにあったのだろうと想像させられる。そしてその傷は、我々が心底受け止め生き抜くことでしか癒やされることはないのだろうと感じさせられてきた。グループホームにおいても特養でも、男性原理的な闘争の傷というテーマから、平和への希求が語られてきたように思う。それを我々スタッフ、特に若い世代がしっかりと受け止めていく必要があるだろう。

 その一方で、最近の傾向として感じるのは母的な存在の動きがあることだ。平成12年、6ヶ月に渡ってグループホーム第2を戦場と化した守男さん(仮名)の事例でも、守男さんは戦場から抜け出したとき、「お母さんの元に帰る」と語った。その母はどこにいるのかということは、現代的な課題ではないだろうか。「こっちゃこ」「こっさ入れ」といつも言ってくれたフクさんの母性、我々は現代にどういう母を持ちうるだろうか。

 今、グループホームでは詩子さん(仮名)が、女性の系譜をテーマに物語を紡いでくれている。入居当初、二人の思春期くらいの娘が男に襲われないようにと心配する日々が続いたことがあった。詩子さんは「雛の世界」「少女の世界」「秘密の王国」を守ろうと戦っているように感じる。連綿と継がれてきたそれらの世界が詩子さんの目の前で途切れようとしていることの杞憂と戦っているように思えてならない。入居から2年、やがて詩子さんのイメージは、『大陸(満州)から詩子さん自身が引率して連れて帰ってきた少女達(詩子さんの教え子)が、岩手山の麓で馬と駆けまわっている』という、大空へ羽ばたくような場面で物語に一区切りをつけた。馬と少女、そして岩手山は何を意味するのか。今、我々現代人にとっての「秘密の王国」はどこにあるのだろうか。

 昨年、グループホームで亡くなった稲蔵さん(仮名)は、治療費を惜しみガン治療をせずパチンコに打ち込んだほどの人だったのだが、最後まで人望に厚く、周囲の人に尊敬され頼られる存在だった。今時なら、女性からたちまち地に落とされかねない浪費をしながらも、男としての存在が揺らがずに在り続けられたのは、背後に彼を支える大きな母があったのではないかと想像する。
 特養の利用者タカさん(仮名)は、結婚はせず子供も持たなかったが、早くに亡くなった母親の代わりに多くの兄弟の母役をしたと言う。苦労して育てた弟たちは戦争でとられて亡くなるのだが、特養に来てから、戦死した弟たちは生き返り、今は一緒に生きている。編み物の作品を作り、教育者らしく若い人を育てようと、情熱のある言葉を投げかけてくれている。スタッフそれぞれにとっての母の「あるべきよう」をひとりひとりに問いかけているように思えてならない。

 歴史からみると、戦争で傷つき立ち上がったと思ったら、大きな地震や津波がやってきて、大地は揺らぎ母なる海に呑み込まれるという厳しい体験を余儀なくされているのが、今の私たち日本人かもしれない。沖縄では地震のことを「ははゆれ」と表現するところがあると聞く。揺れてはならないはずの大地が揺らぎ、母なる海が荒れ狂って呑み込み、さらに人間が母なる大地を放射能で汚し、その浄化は計り知れない困難の中にある。我々は母なるものへの信頼を失い、深い不安にさいなまれている時代にいるのかもしれない。不寛容社会と言われるような時代の奥には、母なるイメージを喪失した人々の深い不安がうごめいているのかもしれない。
 そうした時代にあって、特養やグループホームのあちこちで母をテーマに語りかけてくれる利用者がいるというこの事実に感嘆する。我々はこの時代を乗り越えるべく、より深い母なるもののイメージを内面に育てる必要があるように感じる。そのために利用者達は頑張って何かを伝えようとしてくれているように思えてならない。フクさんの存在には明らかにそうしたイメージがあった。母性性がひどく損なわれ、不安に満ちた時代なのかもしれないが、だからこそ、利用者が語り続けてくれている。認知症の高齢者にしか、こうした奥深いイメージをもたらすことはできないだろう。彼らには現実を超越する能力があって、それらがふんだんに湧き出ずる感じがある。問題はそれを周囲の者が理解できるかどうかにある。認知症高齢者がもたらすそうしたイメージを、どう受け取ってどう育てるか、それはあくまで現場の我々ひとりひとりにかかっている。それは今の時代にあってとても大事な仕事なのだと思えてならない。
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2016年09月21日

戦没画学生慰霊美術館『無言館』 ★ ワークステージ 佐々木 里奈【平成28年7月号】

 長野研修の数日前、フォトグラファーの友人が石巻から遊びに来た。雑談の中で彼女が突然切り出した。「あのさ、戦争と平和について、考えたことある?」何かと思えば、リュックサックの中から、なんとか軍歌マーチ、と書いてあるレコードを取り出した。盛岡のレコード店で買ってきたらしい。「最近やっと戦争について考えるタイミングが私にも来たんだ」としみじみ言う。彼女の考えとしては、「誰もが人生の中で、それぞれのタイミングで、戦争について考えるのが当たり前」ということらしい。ついに“その時”が自分にも来た、だからこのレコードを聴くんだ、と神妙に、嬉しそうに話していた。戦争について考えるためにレコードを聴く、というのも少し珍しい気もしたが、彼女は真剣だった。
 『無言館』の前に立った時、彼女の言ったことが思い出された。“その時”が、自分にも来た、と思った。

 「入口」の文字も、何も書かれていない扉は、開けるのに勇気が必要だった。中に入ると、傷みの激しい若い兵士の像がある。キャンバスの傷みで兵士の目の辺りはよく見えないのだが、真っ直ぐに刺さるような視線を感じる。その他にも、壁にはたくさんの絵が飾られ、遺品や家族に残した手紙、画学生らしい絵手紙もたくさん展示されていた。「いつ死ぬかわからないから…」そんな言葉が頻繁に書かれていた。進むごとに、足は重くなる。ひめゆりの塔や原爆ドームを歩いた時の、ズシリとした冷たいものが心を覆っていく、あの感じがした。
 別館である「傷ついた布のドーム」の暗い館内に入った瞬間、ゴォーという地鳴りのような音とひんやりとした空気に、身体がすくんだ。壁に展示された絵の下には、描いた学生の名前と略歴などの説明がある。 “21歳の時、レイテ島で戦死”。20歳、19歳…。その歳で家族と離れ、カタカナの名前も知らないどこかの土地で、死へ向かう気持ちはどんなだったのだろう。
 絵は、暗い現実を映したものもあれば、祖母や妹、恋人を描いたり、憧れの外国の風景を描いたりしたものもあった。「出征の直前まで筆を握っていた」「恋人を描き、『帰ってきたら続きを描く』そう言っていたが、この続きが描かれることはなかった」そんな説明もあった。
 彼らは、どれだけの夢を抱いていたのだろう。

 そんなつもりはなかったがやはり泣いていた。命を賭けられるほどの夢も目標も持てずに生きている自分が恥ずかしくなったし、多くの貴重な犠牲を払いながら未だに平和な時代を築けていないこと、むしろ現代が憎しみや争いを生む方向に進もうとしていることを申し訳なく思った。
 目前のタスクに追われ、ハウスでアブラムシに追われ、油断すればすぐに、木を見て森を見ず…という状況に陥りそうになる。しかし、いつも頭のどこかで、里がどうあるべきか、社会は、世界は、どうあれば幸せなのかを問い続けなければいけない。そして、現代に生きる一人の大人として、平和への責任を果たしたい。大したことはできないが、石巻の友人のようにレコードを聴くでも何でも、自分なりのやり方でよいのだと思う。精一杯学び、考え、行動していこうと決めた。

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