2016年11月24日

銀河の里の一コマ(Photo Gallery) ★ 【平成28年11月号】

○9月〜10月の様子(花巻祭り/ブドウ狩り)
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2016年11月23日

農作業できるようになろうぜ〜心の浸透力の賦活に向けて〜 ★ 理事長 宮澤 健 【平成28年11月号】

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 若い人で「自分が嫌い」という人が多い。その傾向は50代から始まり40代以降から急に増えるようだ。そしてなぜか里には20代30代のそういう人が集まっているように感じる。里にはそうした人をよびよせる何かがあるのだろうか。そんな人が現場で認知症の高齢者に癒やされたり慰められたりしているというのが里の現状なのだが、果たしてそれはいいことなのか困ったことなのか悩ましい。
 社会人でありながら、仕事ができるとは言えない人がやたら多い。自分が嫌いなどというのは、自分を自分の内側に閉じ込めてしまって外や他者に対して開かれてないということではないか。こんな状況を「自我の牢獄」と言う学者もいる。閉じられた世界で自分としか向き合っていない状況では、どうやったって自分が嫌になるのは当然だ。だいたい自分というのは他者に照らされて立ち現れてくるもので、自分だけと向き合って出てくる自分なんて化け物に近いもんじゃないだろうか。そんな状況が悪化してくると、もう他者が入り込む隙さえなくなってしまう。こうなるとかなりやっかいで、自分を自分で呪い続けなければならないような悪循環に陥って、いくら他者が関わろうが他者の存在は常に抹殺されてしまうばかりで、自分だけの心地よさだけが求められ続けるような、まるで乳を要求して泣くしかない乳幼児のような自我に留まって、そこから先へ行けなくなっているように見える。乳幼児は他者との関わりを築きながら生き延びていくのが自然の状態だが、大人になってそれでは、他者の存在を傷つけ、お互いの存在が成り立たなくなるので困ったことになる。結局、出会うことも向き合う事もできないまま、相手を道具的に扱うことしかできなくなる。道具的に扱うというのは、相手を手段としてのみ扱うことだから、切れた状態のまま終始するしかないので、とてもさみしいことになる。
 他者と出会えない、向き合えない症状ということなのかもしれないが、現実には赤ちゃんではないのだから、引きこもって閉じこもらない限り他者は自然に迫ってくる。多少つらくても苦しくても、そこが勝負のはずなのだが、そこでつまずくのが特徴でもある。逃げるか否定するかがそこで入る。身体症状がでたり、他者の抹殺で乗り切るしかなくなる。体調が悪くなるか他者から遠ざかるかして自分の世界に閉じこもり続けようとする。そうやって自分を守ろうとしているのかもしれないが、結果としては自分が育たないようにしているようで、見ていてやきもきする。
 そんな人がまっとうに仕事ができないのは当然で、配慮もスピードも期待できない。ましてやクリエイティヴにはほど遠いということになる。里ではこれまで、一般社会や企業で求められるような、現実を切り開いて生き抜いていくようなパワーを求めてはこなかった。むしろ認知症の高齢者と一緒に居て自分が癒やされるような人が必要だったし、現実にそうした人たちが里の雰囲気を作って来た。それは他の施設ではあり得ない柔らかい空気を作り出すことに繋がって、他では過ごせなかった多くの認知症の人たちの居場所になってきた。
ところが、そこが最近では、目的が利用者のためではなく、スタッフのためにあるようなことになってきているような気がする。いくら何でもそこが逆転してはまずいのではないかと思うが、現状はかなり逆転してしまっている。
 「ケアされる介護」が理想だと言われることがある。里はそれを現実に実践してきた数少ない現場だという自負はある。ケアマネージャーで里の特徴を解ってくれる人たちからも「銀河さんは違う、柔らかい空気でゆったりしてる」との評価もいただくのだが、その空気、雰囲気は、本来は利用者のためにあるのであって、スタッフがそこに甘えるためではないと思う。
 柔らかくほのぼのとした空気や雰囲気が自然に醸し出される「場」をつくるために、かなりの努力をしてきた。例えば、設立初年度に見学にきた人たちから「ここの職員は座っている」と驚かれたことがあった。当時は、スタッフが座っていると働いてないとみられた時代だったように思う。今でもスタッフが座っていない施設はかなり多くあるが、スタッフが利用者の側で一緒に過ごすというそれだけのことが認知症介護においてはどれだけ大事なことかが、最近では世界的にもかなり理解されるようになってきたと思う。里ではそのことを当初から直感的に最重要視してきた。 
 ただし、ただ座って居ればいいというものではない。立っていれば仕事をしているように見える。それは作業をしているということだ。認知症高齢者の利用者を座らせておいて作業をこなすのはスタッフにとっては効率がいいだろうが、利用者は不安になる。だから利用者の側に座わりましょうということは、そこで心の作業に切り替えましょうということだと思う。座ってサボれるということとは真逆の話だ。
そこが取り間違えられているのか、スタッフが利用者の部屋で寝ていることも見うけられる。寝るのはさらなる進化でそこまで行けたかと言えるかもしれないが、少しずれるとまるで違った話になるので微妙な問題だ。また、立ってやる作業の能力がないのは困る。できるけどあえてやらないだけで、やれば普通より遙かにこなせるくらいでなくては、座っての仕事も中途半端にしかできないだろう。もちろん得手不得手はあるが、座る仕事(こころのこと)をするには、本来は相当な力量が求められる。
 里は農業が基盤と言ってきたのも、暮らしを作る力量をそれぞれが持って生きていこうということではなかっただろうか。ところが草刈りもできない、田植えも稲刈りもお遊びで、百姓の力強さはかけらもないのでは情けない。先日も1時間あれば終わるような脱穀の作業をほぼ一日かけて半分程度しかできなかったと聞いてあきれてしまった。「30分で終わるから見てろ」と翌日私も入ったのだが、確かに見ているとまるで仕事にはなっていない。「始めます」という電話で現場に行ったのだが、まだコンバインも来ていなかった。やっと来たかと思ったら燃料がない。段取りのなさにイライラする。
実際、短時間で脱穀は終わり、畦棒のあと片付けまでやっても2時間だった。早く作業ができればいいと言うことではないが、相場というものがある。時間をかけて膨大な無駄を垂れ流しても意味があるならいいが、甘っちょろでは悲しい。
 現場で作業が始まっても、指示しなきゃわからない。指示しても感が悪いのか、うろうろしてピタッとはこない。稲わらの持ち方もわからない。脱穀に持ち込む稲わらの方向、そのための体の位置も決まらない。エンジン音の中で怒鳴り続ける羽目になって、私はのどがかれてしまった。
現場に来て「どうやればいいんですか」と聞くようなやつはだいたい足手まといだ。農作業は「見てわからなければ言ってもわかるか」の世界だ。何年もやってきて、教える立場のスタッフが作業の基本もわかっていないのはどういうことか。

 ケアも農作業もはじめは素人で全くかまわない。でも、何年かしたら誇りを持てるレベルになってしかるべきじゃないだろうか。いつまで経っても素人でいる、その根性がわからない。仕事は段取り80パーセントと言われる。その段取りは皆無だし、準備も、先のプロセスも考えられていない。行き当たりばったりではた迷惑なイベントに成り下がっている。それでも利用者と一緒に稲刈りや田植えを経験するということが、かけがえのない物語を生んでいるのだから、全否定はしないにしても、それは利用者がすごいのであって、スタッフのお遊び程度に付き合ってくれているにすぎないとしたら、付き合わされる利用者に申し訳なく感じないのか。暮らしを創り上げる力量がスカスカだというのでは誇りを持った仕事にはならないだろう。
若い奴らは…などと何千年も繰り返されてきたセリフを言いたくもないが、最近の人は「自分が嫌い」「自分がわからない」とか「やりたいことが見つからない」「本当に燃えることがない」などと言いながら、そのくせ「時間がない」と忙しそうだ。こうした風潮は、この時代が若い人たちにとってかなり生きにくい要素を持っているのだろうとは感じながらも、爺さんとしては「ちゃんと身体使って、田んぼや畑で働こうぜ」と言いたくなる。

 ぼやいてばかりで、若い人たちからは「そうはいかないよ、時代が違うから」と、世代断絶の三下り半を食らいそうだが、他の若者はともかく、里の若者たちは認知症の高齢者と一緒にいるんだからもっと学んだらいいんじゃないか。 
 里の特養開設当初から7年ほど里にいてくれて、今年の6月に亡くなったフクエさん。彼女が残してくれた言葉やエピソードはたくさんあるのだが、亡くなるひと月ほど前の言葉が印象的だ。スタッフに向けて「おれもフクエ、おめもフクエ。なっ」「おめもノブオ、おれもノブオ。なっ」ノブオは息子さんだが、フクエさんの、この自我の浸透性はどうだ。もう自我なんか超えている。この自我を超えた広がり感、つながり感に圧倒されると同時にほのぼのとする。スタッフが行き詰まって悩んだりすると、フクエさんの部屋に行って癒やされていた。その理由がこの言葉に示されている。
 世界中で認知症の高齢者をどうするか躍起になっている。高齢化社会に向けた仕組み作りも必要だし認知症問題への対応も必要だろう。しかし認知症の人をどうするかなどという対応策を聞く度におこがましいと感じてしまう。認知症の人たちがどれほど豊かなイメージを描き、感情豊かな思いをもって生きているか、「自分が嫌い」などと言わざるを得ない若者とは比べようもなく、遙かに個性的で人間的な力強さを感じる。
 そうした個性全開の力強さとか、それでいて一人では決して閉じこもらず、否応なしに周囲を巻き込んでいくネットワーク力からしても、学ぶべき事だらけだ。認知症の人は訳がわからなくなっているとみんな思っているけど、それは逆で、訳がわからなくなっているのは実は、まっとうだと思っている我々現代人で、認知症の人はより人間的な存在感でその充実したイメージと感情豊かな思いを放って生きているではないか。目の前にいる利用者一人ひとりの存在の迫力から比べると、「自分が嫌い」などと感じなければならない存在が痛々しい。「自分の牢獄」にそんなに捕らわれなくても、もうちょっと呆けたりして生きた方が、よほど人間的で力強く生きられるような気がするが、それが難しい時代なんだろうか。

 先日、和太鼓奏者のはせみきたさんが里に来られてコンサートを開催した。コンサートは夜だったのだが、ワークで9月から太鼓を始めたこともあり、せっかくの機会なので昼間、ワークショップの時間を持ってもらった。はせさんも障害者とのワークショップは初めてということで、おっかなびっくり始まった感じだったが、最後には作品が生まれて発表会になるくらいまで盛り上がり、スタッフはもちろん、はせさんも、一緒に共演された二人のアーティストも感動されていた。
 このワークショップの成功の鍵のひとつはテイさん(仮名)という利用者にある。テイさんは75歳だが元気で明るくて歳を感じさせない。何よりも誰かと繋がる能力がすごい。このテイさんのこころの浸透力が、はせさんを支えワークショップ全体を貫いてひとつの世界が生まれたと言ってもいいかもしれない。
 ワークショップは恐い。結果がどうなるか全くわからない。だから面白いとも言えるのだが、大失敗もあるし大成功もある。それぞれが閉じこもっていればもちろん何も生まれない。でも誰かと誰かが繋がった瞬間がくれば何かがスパークする。どうなるか、はせさん自身も緊張されていたと思う。テイさんの浸透力がスパークを呼んだ。
 もちろん他の参加者一人ひとりにも物語があって、そうしたそれぞれの動きが全体のハーモニーを作り上げていった。浸透力は浸透力を呼び起こす。ワークショップはその場の勝負だ。頭で考えてどうこうしようたってどうにもならないし、考えたようになったとしたらとてもつまらないものにしかならない。出会いの中で何かが起こって来るのだから浸透力の作用がとても大きいと思う。人が出会い、場が生まれて、時が来る。まさに時と場所と人の出会いが何かを生み出す。それは今まであったものではなく、今ここで初めて出てきた何かだ。

 先月末に研修で、つくばの自然生クラブに行った。そこでは田楽(太鼓と踊り)の練習が週2回、日程に組み込まれている。その時間を練習とは言わずにワークショップと呼んでいる。この田楽は海外講演も多数こなしているという完成度の高いものなのだが、「教えたのではない」と代表の柳瀬さんも仰っていた。一人ひとりの中からその場で出てくるものがある。それが作品になっていく。だから練習ではなくワークショップなのだ。そこでも浸透力が相当の重きをもって作用していると思う。「自分が嫌い」などと言う籠もった姿勢とは真逆のベクトルが、自と他を浸透しシンクロさせて新たな宇宙を作り出すイメージがそこにある。

 2009年に河合先生の一周忌に来日したJ.ヒルマンの講演のタイトルは「こころの浸透性」だった。たましいは浸透性をもって遍満していると、死者とも繋がって共にいるありようを語られたのを思い出す。我々は他者のみならず自然や、さらには死者とも繋がって、新たな世界を生み出しつつ生きることができるのだという可能性を開いていきたい。
 現実には真逆の現象が、金や物の豊かさや便利さの裏に起こりつつあり、個はますます個別化し切り刻まれつつある。多くの伝統的な暮らしのありようもことごとくと言っていいほど粉砕され、後戻りはできない状況を現代の我々は生きている。消え去ってもう戻らない最後のところの縁に我々はいる。なすべき事は何か、今できることの最大の努力を、無駄なあがきでしかなかろうともしておきたいと思う。「自分が嫌い」な世代の挑戦と活躍の場がそこにこそあると思うのだが・・・。爺さんの考えはズレているのだろうか。
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銀河の里の一コマ(Photo Gallery) ★ 【平成28年11月号】

○毎年恒例、餅米の手刈り2016の様子
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2016年11月21日

銀河の里の一コマ(Photo Gallery) ★ 【平成28年11月号】

○高齢者部門のひとコマ・障がい部門のひとコマ
 ・ふれあい芋の子会(家族会)の様子や秋のドライブなど
 ・大根収穫、玉ねぎ植え付け、稲刈りなど
 ・全国障がい者スポーツ大会壮行会
 ・奈良東大寺のビック幡プロジェクトに応募
○第2回よりあい広場の報告
○Feelibgainプレゼンツ 企画展「スタート」のお知らせ
○里のアートシーン             ・・・・・など

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2016年10月24日

TOP画 「はるか遠くへ」 ★ 佐藤 万里栄【平成28年9月号】

たくさん歩いていた彼女
いろんなところへ連れて行ってもらった
ほとんど歩けなくなった今、
さらにはるか遠くへいけそうな気がする


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永遠の世界一 タカさんの誕生日をめぐる物語 ★ 特養ほくと 佐藤万里栄 【平成28年9月号】

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「このお湯は大沢温泉のお湯みたいに気持ちがいい」
 ほくと入居者の高田タカさん(仮名)は、入浴の度に柔らかい表情で必ずこう語る。彼女は昨年6月に、他の施設から銀河の里に移って来たのだが、来た直後はとても生真面目で自他ともに厳しく律する感じの人だった。スタッフや利用者の身なり、しぐさ、言葉遣いなどに厳しい視線と言葉を投げかけた。特に私は歩き方に品がない、女性としてなってない等々、タカさんの部屋でみっちりと個人指導を受けることがあった。
 そんな感じで入居当初は自分も周りもきちんとしてなきゃ許せないタカさんで、「一人でできない」こと、「世間のルールからはみ出している」ことにとても敏感で厳格だった。7人兄弟の長女として生まれ、早くに亡くなった母親代わりをし、自身は独り身で生きてきたタカさん。また、教育者として勤めあげた人生からにじみ出る言葉は、重く鋭く私のこころに突き刺さるのだった。

 ところがそんな彼女も、ほくとの生活に馴染むにつれて変化していった。認知症ではない彼女が周囲はほとんど認知症の人たちという環境の中で感化され、どんどん柔らかくなり、タカさん独自の世界を開いていったという感じだ。
 特に顕著に変化が見て取れたのは、ライフワークとして続けてきた編み物だった。まっとうな作品だったものが、やがて色も形も変え、みるみるうちに鮮やかな色彩を放ち、アバンギャルドな芸術作品のようになっていった。それはタカさんの心の中にずっとあった、戦争で亡くなった弟たちへのオマージュのようだった。タカさんは死に別れて70年を超えた弟たちと再会し、あの世とこの世を超えて繋がり始める。弟たちは蘇り生き返った。事務所やユニットから電話をかけて「元気か?あのなは…」と弟たちと語るタカさん。電話の先ではスタッフや副施設長が弟役を引き受ける。

 こうした役を引き受けるときにはかなりの覚悟が必要だ。タカさんは本気どころか“たましいの世界”のやりとりになるからだ。失敗の許されない真剣勝負は緊張する。タカさんの場合、電話で受け応えするスタッフは男性でも女性でもかまわなかった。男女関係なく、戦死してあの世に逝った「弟」が今生きている、として話した。毎回「会いに来てほしい」と頼み、「遠くにいるからすぐには行けない」と応えると「来れねぇのか…」と少し残念そうに微笑むのだった。
 こうして自分の世界を展開していく彼女と共に、「若い人を育てる」ことを始めたのが去年の12月頃だった。フィリピンからEPA実習生2名の受け入れが目前に迫り、ユニットも人事異動でバタバタと揺れていた頃だった。タカさんと部屋で話し込んでいると「あんた、ここで私と話してるといじめられるよ」と、初めてみる珍しく弱気なタカさんだった。私はその弱気に寂しさと不安を感じてしまって、ちょっと強めに言い返した。  「私はあなたを師匠と思っているのだからいつもの強気でいてよ!これから外国のスタッフも来るし、新しい人も育てなきゃ!」と大きな声を出してしまったのだった。私の勢いを受けてくれたのか、タカさんは弱気を払拭して復活し、その後、私はタカさんに支えられながら、ほくとのEPA受け入れや、新人を育てることへ向き合うことができた。そんなこんなで、タカさんはすっかり私の師匠になったのだ。

 タカさんは今年の8月1日で95歳を迎えた。しかし彼女自身は何ヶ月も前から「もうすぐ100歳になる」と語り5歳も先を行っているような話だった。その記念すべき100歳のお祝いを、大沢温泉のお湯に入って祝おう!と考えた。いつもタカさんとの話題に出る、大切に想っている大沢温泉の、日帰り入浴の計画を立て始めた。
 タカさんは祖父の代から家族一緒に行っていたようで、「だから私も大沢温泉の湯が好きになったのす」と教えてくれた。誕生日当日、タカさんと事務所の中屋さんと私の3人で行くことにした。絵描きである中屋さんは、タカさんからクリエイターとして厳しく指導を受けたこともあり、タカさんを師匠と仰いでいるひとりだ。こうして師匠と弟子ふたりの温泉となった。
 当日の朝、「誕生日のお祝いで今日大沢温泉に行こうと思います」と話すと「申しわけねえな…オレ何もしてないのに」と控えめなタカさんだった。「そんなことない、いろいろな大事なことを教えてもらっています」と返すと、「そうなのっか?じゃあ行かせていただきます」と、行く気持ちになってくれる。(タカさんはその時の気持ち次第で、行くも行かないも180度選択が変わることがあるので、ドキドキだったが…なんとかその気になってもらえた。大沢温泉の力だろうか?!)

 出発前、事務所で戸來さんに「温泉で入浴中の写真をとってきてほしい!」と頼まれると「エッチなのはダメだ♪」と入浴シーンの撮影は不許可のタカさんだったが、気分はすっかり温泉に向いていた。そして、いつも使っているタオルと洗面器を持ち、さらに日ごろ大切にしている置時計とラジオまでもしっかり持って出発した!
 車中「△△温泉のお湯はぬるい、○○温泉は沸かし湯でダメ…やっぱり大沢温泉が一番いい、熱くていい!」と大沢温泉を大絶賛。大沢の湯に浸かっていたから私は強くなったんだ、とも語りながら、何年ぶりなんだろうか、久しぶりの大沢温泉…タカさんの気持ちも大沢の湯のように沸き立っていた。
到着するとキラキラした表情になるタカさん。真夏の緑を背負った大沢温泉に負けない貫録で自炊部へ向かう。自炊部の建物は築150年とかで、階段が多い。古くからある混浴露天風呂や旅館部の豪華露天風呂は避けて、タカさんとゆっくり入れそうな「かわべの湯」という新しい女性専用の露天風呂に向かう。途中の階段を車イスに乗ったまま旅館の職員さんにも手伝ってもらって、御神輿で階段を下りていった。なんだかタカさんがお湯の神様みたいに思えた。

 露天風呂に向かう途中の廊下から向こうに川が流れているのが見える。なかなかの絶景をしばし3人で眺める。タカさんは指を指しながら「これ豊沢川だな!」と高らかに言う。
95歳になるタカさんはコカ・コーラを飲みながら、石に当たって流れが変わっている場所をみて「あそこからお湯が湧いているんだよ」とか「あの陰になってるところ…あっちが深いんだ」とか「川の神様ありがとう!」と拝んだりしている。思い出の大沢温泉、懐かしい豊沢川、いろんな想いや感動がタカさんの中をたくさんたくさん流れているのだろう。
 豊沢川の流れと絶景をまったりと堪能した後、いよいよ露天風呂へ。
 「かわべの湯」に入ると3人だけの貸し切り!川の神様ありがとう!と心の中で祈って入る。名の通り、川辺にあるその露天風呂で豊沢川の音を聞きながら温泉の湯に浸かる。
まさか本当に大沢温泉で師匠と過ごす時間を持てるなんて…温泉に半分浮かぶようにして入っているタカさんを見ながら、じんわりその実感が湧いてきて、私は何とも言えない気持ちになった。それは、日々現場で一緒に戦ってくれていたり、私を見守り支えてくれているタカさんにだからこそ湧いてくる感謝の思いだったように感じた。タカさんも「ありがとう、とってもいいお湯だよ」と何度も感謝の言葉をくれた。お湯からあがって、少し汗が引けるまで、また3人で廊下で涼みながら川を眺めた。入る前より何故だか豊沢川が少し大きく見えた。

 お昼は温泉の食堂で食べることにしていた。タカさんはお刺身の定食を選び、真剣な顔、無言でほとんど平らげてから、「こんなこと100年に一度だな」と言った。本当は95歳の誕生日なんだけど、師匠の中では「100歳」の大切な節目として存在していた今日なんだろうな。私は「本当は95歳なんだよ」なんて言うのは野暮な感じがした。100年の全部が詰まっている今、今日この瞬間。本当の100歳の、この先5年分もきっとそこに入っている。その瞬間を共に過ごし共有できたことの感動と幸せを私は深く感じていた。

 その誕生日を過ぎて数日後、ユニットでのお盆の迎え火の日がやってきた。タカさんは部屋で「さよなら、さよなら」と手を振る。聞くと、「豊や實(亡くなった弟さん達)が迎えに来るのす」と言っていて、とても儚げな感じだった。そんなことないよ、と言ってもタカさんの耳には入らず、「弟たちが来なくても、父さんや母さんが来てくれる」と。迎え火にはとてもじゃないが足が向かないといった様子だった。でも何度か誘っているとなんとかリビングに来てくれた。迎え火の儀式が始まると般若心経を低い声で唱え、じっと火を見るタカさん。やがて火が消えると、窓の向こうにあるリンゴ畑を見て、「あの火が下から地面を温めて、リンゴを育ててくれるんだ」と言っていた。

 その何日か後に、送り火の日があった。火を見送った後に窓の前に残っているタカさん。私が近づくと腕にかけた数珠を回しながら「186、187…」と数を数えていた。「何を数えてるの?」と聞いても返事はないどころか、こちらに向いてもくれない。タカさんは違う世界にいて、何か重要な事をやっているようだった。タカさんの世界には入れてもらえず、私は傍らに居続けた。20分も過ぎた頃だろうか、タカさんが「年数を数えてる」と応えてくれた。
 その時タカさんが数えた年数はすでに5千万くらいになっていたが(千単位で数を飛ばして数えるところもあって)、それでも数えるのを止める気配はなかった。お盆の送り火の日ということもあって、私はそのタカさんの行動にとても仏教的な宇宙を感じていた。タカさんは100歳どころではない永遠の時空にいるんだろうなと感じた。お盆の送り火が私をタカさんの世界に入れてくれたようにも感じた。
 数える年数が200兆になった頃、「どこまで数える?」と尋ねると、「じゃぁ今日はここでお終いにしましょう」とタカさんは言った。そして、お数珠を手にかけたので、私の方から「ぎゃあていぎゃあていはらぎゃあてい(般若信教の終わりの言葉)」と唱えると、タカさんも「はらそうぎゃあてい、ぼんじそわか、般若心経…」としめてくれた。不思議な時間だった。そしてタカさんは何事もなかったかのように自分の席に戻って夕飯を食べ始めた。

 タカさんが時折見せてくれる世界は、永遠の広がりを持った途切れのない世界だ。それは星の廻りのように、遠く遠くに離れて行きながら、またいつか巡り会えるという希望を含んでいる。タカさんの世界が持つ永遠性は、「死んだら終わり」という人生の悲しさや寂しさに打ちひしがれることなく、次に会える瞬間を待ち望む勇気を私に与えてくれる。その時間を越えたおおらかな流れや広がりの感覚は今の世の中を生きる私たちにとって、とても重要なことではないだろうか。私は100年を生きたタカさんに出会い、この巡り会いの感覚や広がりを、ここからは私の人生をもって繋いでいかなければならないと感じた。


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2016年10月22日

近代自我意識を超える新たな自我意識の模索と考察 ★ ワークステージ 佐々木里奈 【平成28年9月号】

<まえがき>
 近代自我を超えて、未来の新しい意識について研究をしてみたいと考えている。我慢して働いて働いてそのうち少しずつ心が死んでいったり、「こうしなきゃ」「こうでなくちゃ」って真面目に生きてるうちにすんごく死にたくなったりする人が現代には多くいる。なんで生きることがこんなにも苦しく、生きづらい時代なのだろう。理由は如何様にも分析できると思うが、もしかしたらそれは、ちょっと昔に西洋から輸入した「わたし」の中に縮こまっているからなのではないだろうかと思う。そこに縛られていないで、今、ここ日本で生きる「自分」についてもう一度考え直してみられないだろうか。もっと楽に自由に生きられるかもしれない!そんな新しい生き方を目指せる、自我を超えたような意識を模索してみたい。
 なんとなく同じような関心を持って書いた大学時代の論文も(恥を忍んで)振り返りながら、それから社会に出てからの実経験や出会いを通じて学んだことも含めて考えていきたい。多くの方にも読んでいただき、もし思うことなどがあれば、ぜひ教えていただければ幸いです。

<本文>
 現代を生きる人の息苦しさ、生きづらさは、心の病を患う人やそれと関連する自殺者の増加など現実の問題として表れてきている。現代に起こる社会問題の一因として「自我意識」のあり方に大きな課題があるのではないかと感じている。
 例えばうつは、自己価値・評価の低さと深く関連する。「自分なんて…」と思う“自分”の定義が、外国からの輸入品の自我に影響されているように思う。また、例えば暴力は、フロイトの定義により自我を「無意識」と「超自我」の調整役と考えると、それは自我の機能不全であるということになる。
 そうした考えの根底には、心と体を切り離し、それぞれ別で考えようとするようなデカルトの心身二元論を発端とする西洋的な捉え方がある。私の学部の卒論は、概略、デカルトの心身二元論が人間を論理的に孤独な存在としており、それによって我々現代人の実感的な孤独感につながっている、それを克服したのがG.ライルだという論説を展開したものだった。

 デカルトの二元論は、他者の心は決して知ることはできないという論理的な孤独に人々を導く。私の卒論では、デカルトを批判したG.ライルの『心の概念』において、「わたし」という概念はどのように考えられたのかを明らかにすることを目的とした。ロックは身体を無視し、「わたし」を意識し思考するものとして、自分自身の心を省みる内省の作用は常に不可謬であるとした。ロックはデカルトを批判しようとしたが、結果的にそれに加担した。ロックを乗り越えようとしたヒュームは、「わたし」というものの観念はどこを探しても見つからないと主張し、それまで自明とされてきた「わたし」を否定した。しかし、「わたし」を単純で継続的ななにものかとしたかったことが明らかになった。それに対してライルは、「わたし」は他人からは隠された神秘的ななにものかではなく、一人の人間を指す代名詞であり、「わたし」が精神的で神秘的ななにものかであるという誤解に導く要因である意識と内観に関する理論は不合理であることを示した。ライルの『心の概念』における「わたし」に関する議論によって、特にデカルト以降の「わたし」に関する問いの混乱が指摘され、二元論に基づく論理的孤独は克服されたと言える。

 この卒論での論説のとおり、心身二元論やそれに付随して発生する神秘的で個別な「わたし」というものは、ライルによって不合理だと示された。それにもかかわらず、その後もデカルトによる影響は大きく、西洋では依然として二元論がスタンダードであり続け、それが日本にも輸入され定着している現状がある。しかしそれは日本人的な自我意識の曖昧さからするととても窮屈だったり堅苦しかったりするというのが実際ではないだろうか。
 現代を生きる人の孤独感や息苦しさ、生きづらさは、西洋的な社会システムや心身二元論を発端とする西洋的な捉え方の限界を示しているのではないか。逆に言えば、デカルト以前の西洋にあった自己概念や日本に昔からある伝統的なそれは、近代自我意識を超える新たな意識形成の手がかりとなるのではないだろうか。
 これから取り組む研究論文では近代自我意識とは何かを明らかにしつつ、それを超えるこれからの意識があるとすればどのようなものか、それを我々は持つことができるのか、できるとしたらどのようにすることでそれを持ちうるのかということを探り、心理臨床の知として応用しつつ、多くの現場で活きる知として役に立つことを目的として研究をしたい。
 具体的な方法としては、デカルト以降の近代自我意識が概念としてどう受け入れられてきたのかや、その時代背景や、それがもたらした影響について文献と現実社会の課題等から照らしながら研究を行う。本論の核は、現代の社会問題や社会状況について、自我意識の面から具体的に観察・分析を試みることである。増加する心の問題、低年齢化する凶悪犯罪、高齢化に伴う無縁社会などについて、自我意識を軸に考察する。また、自我意識の時代による違いの他に、国・地域による違いについても研究を行いたい。西洋の「切れている」ということを前提としてつながる力を持つ文化(「個人」が前提で、言葉やボディーランゲージによるオープンなコミュニケーションを絶やさない)と、フィリピンの「切れない」ことを大切にしようとする文化(約束をして「行く行く」と言いながら結局来ないが、それを気にしないことがあったりする(らしい))、日本の「切れてない」ことを前提としているが実は切れている文化(伝統的には“世間”“人間”といった“間柄”で人生が成り立っていて「お互い様」と考えながらも、助けてと言えない/言われなければ助けない人が増えている)との比較も興味深い。

 新たな自我意識の手がかりとしては、上で触れた和辻哲郎の“間柄”の概念から読み取れる自我意識や、日本の文学(宇治拾遺物語や沙石集から、森鴎外や夏目漱石まで)に現れる自我意識、自我を空にする禅や、無執着の境地を目指して身体ごと、空間ごと相手をもてなす茶道など日本の伝統文化にも表れる自我のあり方、里山での伝統的な暮らしに表れる自然との相互関係から紡がれてきた自我意識について見ていく。最近の頻回なSNSの利用にあたって顔の見えない他者に自分の内面を開く自我意識のありようも含めて考察していきたい。里の利用者さんが発する言葉にも新しい自我意識を示唆する言葉がたくさんあふれている。スタッフに対して、自分のことばかり考えるな、という話をする中で発したという「おれもフクエ、おめもフクエ。おれもノブオ、おめもノブオ」という言葉等について考察しつつ具体的に研究を進めたい。

<おわりに>
 今回は、臨床心理を学びたいと思い、その受験のために提出した研究論文の課題に卒論の概要を織り込んで、多少加筆しながら記した。
 私は、東日本大震災後には宮城県石巻市で仮設住宅のコミュニティ支援や在宅被災独居高齢者の巡回訪問を仕事として取り組んだ時期があった。誰かとつながり顔の見える関係を構築することや、それが起こるような仕組みづくりを実現しようと実践してきた。仕組みづくりの大切さを感じると共に、話を聞くこと、共感することの大切さについて実感することも多かったが、それだけでは力になれないこと、力不足を感じることもあった。また、自分自身も含め多くの現代人が感じる息苦しさは、哲学分野での文献研究だけでは解消されない。その解消のために、心の領域の実践を基礎とする臨床心理学において研究し訓練を受けたいと願っている。
 …10月2日が一次試験です。準備期間が短く、準備不足な感もありますが…なんとか頑張ります。応援よろしくお願いしますー!
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2016年10月21日

何が里なのか – 暮らしを通じた関係の創造 - ★ 理事長 宮澤 健 【平成28年9月号】

 この夏は見学やフィールドワークで里に滞在される方が多くあった。施設長がこの春から立教大学の大学院21世紀社会デザイン科に入学したことがきっかけなのだが、外から多くの方に銀河の里の取り組みを見て考えていただけるのは、当事者としてもいろいろ刺激になって貴重な経験になる。とてもありがたいことだ。
 銀河の里は制度上、表面上は高齢者介護施設と障害者支援施設を組み合わせたところにちょっと特徴がある程度のありきたりの福祉施設なのだが、中身は福祉施設とは言えないような取り組みに満ちている。
 なぜ高齢者施設と障害者施設を組み合わせているのかというのも理由がある。高齢者部門はデイサービス、グループホームは認知症に特化した施設だが、特養までが認知症を専門の特養だと思われている向きがあるし、実際そうなっているのにも理由がある。
 銀河さんさ隊が、厳しい練習を積み、夏には盆踊りやイベントに出て太鼓や踊りを披露しているのも理由がある。アフリカンダンスの先生を呼んで、ワークの利用者、スタッフ中心にダンスの練習をしているのも理由がある。スタッフとワークの利用者の絵を描く人が、時折展示会をやったり一般の展示イベントに参加することも理由がある。スタッフの酒井さん中心にロックバンドが結成されて活動したりするし、酒井さんはソロで演奏活動をライブハウスやいろんなところで活躍しており、里内でも「フィーリンゲイン」というクラブをつくって先日初CDを発売したなどという活動にも理由がある。その他、数年前から研修にも取り入れてきた  「てあわせ」や、以前からずっと面談室に置いてある箱庭にも大きな意味がある。
  田んぼで5町歩の稲作をやり、30sの玄米の袋で毎年1000袋のお米の生産をやっているのも、リンゴ栽培を1町歩ほど始めたのも、毎年広い面積を草刈りしているのも理由がある。
 英哲の太鼓を聴き、ピナ・バウシュが日本に来れば研修で観に行き、能舞台の鑑賞を毎年研修に入れるのも意味がある。
 現場で利用者の言動に強い関心を向け、注意深く見つめ耳を傾けるのも意味がある。その語りややりとりを事細かく膨大な記録に毎日残すのも大切な意味がある。毎日集まってそれを話し合い、共有し、月に一度は集まって何時間も話し、時には合宿をしたりしながら物語として事例をまとめたりするのはとても深い意味がある。人と人が出会い向き合っていく時間を持つのは大切な意味がある。
 大豆を作付け、麹も作って自前で味噌を造るのは理由がある。厨房の栄養士が「給食」ではなく、個々に合わせて「食事」を作っていく姿勢なのは理由がある。甘酒ドリンク、ファイバードリンクなどを開発してきたのは理由がある。介護食、嚥下食のバラエティにあふれているのには理由がある。 
 研修でドキュメンタリーを考え、戦争を考え、人間の悪を考えるのには理由がある。アウシュヴィッツを訪れ、南京虐殺記念館を訪れ、暴力を考えるのも理由がある。
通信を発行し、そこにいろんな文章やイラスト作品などが載っているのにも理由がある。
大きなハウスで野菜を周年出荷し、食品工場で餃子やシュウマイを作って売るのも理由がある。夏、畑で南蛮(とうがらし)を作り、調味料『ジャパスコ』を作って売るのも理由がある。リンゴでシードルを開発して売るのにも理由がある。これからワイナリーを作っていきたいという夢には理由がある。

 いろいろあって、まだまだあるけど、「そんないっぱいやっている銀河の里って何?」ってなると、ちょっと解らなくなる。それぞれの個々の理由を挙げたって銀河の里の説明にはならない。
 やってることをトータルに説明できないだけではない。考え方、ものの見方、精神性となるともっと難しい。 
 「高齢者、障害者の意思決定支援はどうやっていますか?」という質問が実際にあった。おそらく里では誰も、意思決定支援という概念を日常的には考えていない。質問自体に錯誤があると感じてしまって、大半の里のスタッフが一瞬なんのことを言われているのか意味がわからない。
 そうした仕組み作りは大事だとは思うけれども、それよりも大事なのはものの見方、考え方、とらえ方だと考えてきた。それは、こうしています、というような仕組みは語れない。「その場その場、ひとそれぞれに個別に臨機応変ですね」くらいしか言えない。
 たとえば自己決定と言っても銀河の里の入居者で自分の意思で入居した方は一人もいないかもしれない。本人は嫌がっているが、現実には一人暮らしは無理だから、なんとか馴染んでもらうしかないような切羽詰まった状況を乗り切るのに時間をかけて(何年もかかることも多い)、かなりの繊細な努力を重なるのが仕事のほとんどであったりする。意思決定支援とはほど遠いところから一歩を踏み出すしかない。
そんな説明にならない話ばかりだから、見学に来た人も聞けば聞くほど、里は何をやっているのか解らなくなってしまう。「謎が深まった」と言われた方があった。
 でも謎が深まるのはとてもいいことだと思う。謎ほど魅惑に満ちたものはない。そこから何かが始まる。簡単に説明できることは大したことではないのかもしれない。説明の難しい銀河の里がそこにあるという事実が誇らしいことのように感じる。
 今時、みんな説明だらけだ。説明できなければ何もないことになる。できなければ予算はおりない。里は説明すべきことは明瞭にして予算をもらい、その活動内容は全く説明に馴染まないことをやっているのだとしたら、これは理想に近いかもしれない。

 現代では誰しもが、説明できるように制度上単純にさせられてきたのだろう。そしてつまらないことばかり繰り返さざるを得なくなっている。謎を生んだり、謎に挑んだりしないで簡単に説明できることではクリエイティヴは生まれようがない。
 本当はもっと解らなくていいのではないのだろうか。解ってしまうとそこで終わってしまう。そこから先へは進めない。目に見えないものと目に見えるものは繋がっている。分けて考える必要はない。解るために何でも分けて説明しようとする。それで解ったようで本当は何も解らない。分けたことで満足しているにすぎない。見えないものも見えるものもどちらも大切にしなければ、それは繋がっていて一体だから、片方をないがしろにすると、両方を損なったり傷つけてしまうことになると思う。
 ただ私個人的には里のことを説明するのを拒んでいる訳ではない。なんとか説明しようとすることも、謎に挑む感じがあってとても楽しい。ただ説明しきれないことはたくさんある。見事に説明したとしてもそれはその時点のことであって、翌日には違うものに変化しているだろう。監査などで理念を掲げることを強要するが、愚なことだ。掲げてしまった理念は愚かな説明にすぎない。今日と明日で変わることのない理念などは偽物だ。人は脱皮したり変容しなければ生きているとは言えない。たましいが腐ってしまう。「脱皮しない蛇は死ぬ、脱皮できない人間は人を傷つける」(むのたけじ)
 監査の人たちがなぜ福祉施設に理念を掲げさせて、人間も組織もそのたましいを損なうようなことをさせるのか理解できない。監査も第三者評価もマニュアルしか求めない。それがあれば安心している。人間をなんだと思っているんだろうと腹が立つ。
 里で取り組んでいる上記にあげた理由や意味のあるそれぞれは、他の福祉施設では行われてはいないことばかりだ。なぜそんな余計な事ばかりやっているのだろうか、人が創造的に生きることの可能性に挑もうとしているということなのだが、ひとりの人との出会いと存在に深い関心を持って迫りたいと願っている。自身も含めて、人が生きることの不思議さに迫る姿勢でいたい。そうしたことには明確な答えはあり得ないのだから果てしない探求ということになる。
 理念のように、これだと答えを出してしまうとそこで終わる。先日起こった相模原の事件の発端のひとつは、簡単に答えを出してしまったことにあるように感じる。答えはいつも正しい、その正しすぎる答えは人間としての大事な何かを損なってしまう。答えを持ってしまった瞬間に転落することがある。恐ろしいことだ。答えの出ない問いを最後まで抱えて歩き続けることが人間のあるべき姿なのだと思う。

 元々暮らしを取り戻したいと思って岩手に引っ越してきた。里が農業を基盤と謳っているのも暮らしを大事にしたいからに他ならない。暮らしは自然や人との関係の集大成であるから、暮らしというからには、そこに「関係の創造としての労働」が生まれてくるのは自然だと思う。列記した里の活動の理由や意味は「関係の創造」に全て集約されるかもしれない。
 スタッフにしても、里で働くということは「暮らし」のなかで関係を創造するということなのかもしれない。「暮らし」がすでに「自然や人間との関係」と定義されるのだから、働くということも「暮らし」であって労働ではないのかもしれない。時間を切り売りして賃金に換える労働という精神の構造は本来は里にはないのが原則だったと思う。それでも時にはサラリーマン体質の人が混ざることはある。そうなると里の精神性(エートス)はそういう人とは乖離するのでお互い違和感になる。
 かなり厳しい人手不足なので、選んではいられないという事情もあって、このところ精神性が全く異なる人たちも多く里に属しているというのが現状だろう。そうした状況ではリーダーが育ちにくく、おまけに10年選手の中堅どころから中枢的人材までが結婚や産休、育休等で抜ける時期に入っていて、かなり組織としては危機的な厳しい状況に追い込まれている。

 それにしても「人手」というのはありがたい言葉のように思う。ここでの人というのは「他人の」という意味もあるようだが、「人の」という意味ももちろんある。他人の手、人の手、この両方の意味での人手が必要な仕事ばかりやっているのも里の特徴だろう。農業も機械化したとはいうものの人手勝負だ。暮らしは人手で作っていくことが大事かもしれない。完全には機械化も電子化もできない。そうなったらそれは暮らしではなくなるかもしれない。介護現場へのロボット導入がこれから進んでくるだろうが、里でやっている根幹は、人の語り、物語を聞く仕事だから、それは関係の中でしかなされ得ない。ロボットは補助的には使えるとしても最終的には人手(手と言っても身体も心も含めて)でしかできない仕事だ。
 おそらく農業とか人手というあたりから外れてしまうと、里はその精神性を失って違うものになってしまうだろう。そこを共有できるスタッフで、里の生命線をお互い確認し合いながら、若いスタッフにもこのあたりをなんとか伝えつつ、この時期を乗り越えていきたい。
 日本では長い間、企業が家族としての役割を担っていた時期が続いた。家庭を大事にしようという傾向から企業の家族化は否定的に見られる風潮になったが、今は家庭も大変、企業も家族として引き受けてられない状況のなかで、里のような新たな家族としての機能をもったところが必要になってくると感じる(福祉施設が企業化して、家族としても関われる方向性を失ったらとても寂しいことではないか)。
 里は新しい家族としての機能を果たそうとしていると考えるのは、少々ためらうところだったが、実際には本来家族の機能だったはずの働きを果たしているようなところも多くあり、今、家庭や地域がそれを担うことができず、しかも必要とされていることだとしたら、家族の機能を引き受けるということも正面切って考えていいのかもしれない。
 利用者や親族にとっては、家族としての里があることが最善な場合が多いだろうし、そうなるとスタッフはサラリーマン的な精神性で時間の切り売りの労働というわけにはいかないだろう。「働いているというよりおばあちゃんのうちに遊びに来ている感じ」と言った人があるが、それはかなりいい線なのではないだろうか。農業も手伝ったり、絵を描いたり、音楽をやったり、勉強したりしながら、暮らしに包まれる在り方をこれからも模索していきたい。
posted by あまのがわ通信 at 12:00| Comment(0) | 理事長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする