2016年11月28日

つくば自然生クラブ研修報告 〜秋の祭典に参加して〜 ★ 2017年度内定者 太田直史(舞踏家) 【平成28年11月号】


 古くから十月のことを「神無月」と呼びならわしています。この期間に、日本中の神様たちが出雲の地に集うと言われています。その一方で、年に一度のこの「サミット」へは出向かず、それぞれの土地で人々の暮らしに寄り添い続ける神々も、やはり存在しているようです。私たちは、慌ただしい日常生活の中にあっても、ふと立ち止まり心の耳目をそばだてるのなら、身近に守護してくれている神様に触れることができるのではないでしょうか。

 十月の29・30日の二日間、つくば市の自然生クラブさんの秋の芸術祭に参加させて頂きました。(銀河の里人と同じく)自然生クラブの人々は、土を耕して生きる。「健常者」も「障害者」も分け隔てなく、共に仕事にいそしみ、共に喰らう。日々の暮らしの中に、歌い踊るステージが当たり前のように組み込まれ、正に「リハーサル無しで毎日が本番」(施設長・柳瀬敬さんの言葉)であること。筑波山の麓に緩やかに展開している自然生クラブの時空間は、一つの理想的な人の暮らしというものを、共同体というものを髣髴とさせるようです。
 例えば、田畑の一隅や街角、部屋の隅っこなどに潜む神様たち(妖怪たち)の姿が、「妖怪博士」の曇りない視線によって透視されます。神々はとても身近な存在として、人々と同じ食卓につき、共に歌い踊ります。田楽は特殊な芸能ではなく、日常の生活を活性化させる朗らかなリズムを、強く刻みつけるのです。
 私は、社会の中における舞踏家の使命というものを、常に考えています。ただ一つしかない自らの肉体をもって、あめつちの狭間に(神々と)あらゆる人々が出会い確かに活動してゆく時空間を、デザインすること…。自然に恵まれた花巻の銀河の里の営みに、私が舞踏家として加えて頂けるのは、この上ない幸運な巡り合わせと感じています。ですが舞踏家の「仕事」の広さと深さに際限の無いことを想うと、気持ちが引き締まります。
 本当に幸いなことに、情感豊かなスタッフの方々に巡り会う機会に恵まれました。今後も機会がありましたら、皆さんとあれこれお話し巡らせてみたく思います。微力ではありますが、私は五感を最大限に研ぎ澄ませ、里の暮らしの只中へ一足づつ踏み入ってゆきたく願っています。

了、 (11月3日)


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2016年11月26日

“盗られた”という問い ★ 特養すばる 千枝 悠久 【平成28年11月号】

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(すばるのSさんと夏のドライブ、大船渡、碁石海岸へ出掛けたスタッフの千枝)

 「オメが盗ったんだべ!?」夜勤明けのある朝、モモ子さんから、そう言われた。顔に塗るクリームがなくなっていたそうで、誰かが盗ったのだ、という話だった。「私じゃない!」何度伝えても「オメが盗ったんだべ!?盗ったの持って来い!!」と続き、私はある事を思い出して胸がチリリと痛み始めた。以前、こんな事があったのだ。

 私のいるユニットすばるにショートステイで来ていた人が、「虫に刺されたから、キンカンないっか?」と言っていた。すばるや隣のほくとにはなくて、“そうだ!きっとモモ子さんなら持ってるだろう”と、私はオリオンまで走った。「モモ子さん、キンカン貸して〜」「引き出しさ入ってるはずだから持ってけ。ちゃんと返すんだぞ、ちゃんと返せよ!」念を押すように言うモモ子さんに「分かった、分かった」と軽く返事をする私。返す時も「ありがとう!引き出しの中に入れておくね」と軽い。
 それから一ヶ月くらいして、オリオンに行くと、「オメ、キンカン盗ったべ!」モモ子さんに急に怒られた。「いや、ちゃんと返したハズだけど・・・」何度言っても信じてもらえない。そのうち私も、一ヶ月も前のことだから自信がなくなってくる。「引き出しに入っているハズだから一緒に見てみよう!」二人で一緒に引き出しの中を広げて見ることにした。
 その引き出しの中から出てきたのは、私が返したキンカンだけではなかった。「これは娘から買ってもらったものだ」「これは誕生日にもらったのだ♪」たくさんの思い出が語られる。「オメは稼いでるからお金あるんだべ?オレはお金ねえから買われねんだ。オメも人から簡単に借りるんでなくて自分で買うんだ!」そう叱った後に、モモ子さんが今までお金のことを含めて、たくさんのことで苦労してきたことを話してくれた。今、手元にあるのはお金ではなく、引き出しの中のものたち。その引き出しは、モモ子さんの宝石箱で、モモ子さんの宇宙だった。話を聞いているうち、私はその中の輝く星の一つを軽々しく扱ってしまったのだと感じられ、反省した。

 話は夜勤明けの朝に戻る。「オメが盗ったんだべ!?」と続くのを聞いてるうちに、キンカンの時のことを思い出し、私はあの時モモ子さんから借りたものを、まだ返すことができていないのではないか、と感じ始めていた。思えばモモ子さんからは、「○○貸して〜」とか「畑、どうすればいいの?」「これ、どう作ればいい?」とか、いつもいつももらってばかりの私だ。もらってばかりで、何もあげてはいない。これは“盗った”のと同じことではないか・・・。そんなことを考えながら、「盗ったべ!」「私じゃない!」を続けているうちに、とうとう私は「盗ったのは、私なのかもしれない」と答えてしまっていた。
 すると、「盗ったの持って来い!オメ盗ったやつ!」と言われ、どんなのか聞いても「オメ盗ったやつだ!」としか答えてくれず。唯一「缶のやつだ」と言ってくれたのを頼りに、私はコンビニへと走った(まだコンビニしか開いてないような時間だった)。モモ子さんに何かを返さなければ、そういう思いだった。
 ところが、だ。いや、モモ子さんの立場からすれば当然なのだが、私が買ってきたクリームを見て、「こったなのでねえ!!」と怒り出し、「こういうのだ!」と、その時になって初めて、空になったクリームの容器を持ってきてくれた。「娘が買ってくれたので、何だかいろいろ混ざってるいいやつなんだ。こったなのでねえ!」と話してくれた。どういう経緯かはわからないが、モモ子さんが大切にしていたクリームがなくなっていたのだ。やっぱりキンカンの時と話が似ている、そう感じた私は、オリオンスタッフの平野さんに状況を説明するため、モモ子さんに背を向けた。その、直後だった。ダンッッッ!!!!・・・・・カランカランカラン! モモ子さんが私のほうに向けて、空の容器を投げつけたのだった。

 その時、私の中でなにかが爆ぜた。
「謝れーーーーーーーーーーっっっ!!!!!モノを投げたことは謝れっ!!!!!」
自分でもわけが分からなくなるくらい、特養中に響き渡るくらいの大きな声で、叫んでいた。
「したって、こったなのでねぇ!!!!」
「いいから!! まずモノを投げたことは謝れ!!!!」
「こったなのでねぇもん!!」
「モモ子さんが缶のだって言ったから!全然分からなかったけど買ってきたんだよ!」
「オメ盗ったって言ったっけじぇ!」
「盗ってない!」
「そうだって言ったっけじぇ!」
「だって、モモ子さんが、何回盗ってないって言っても、聞いてくれないから・・・私すぐにキンカンのこと思い出したんだよ? あの時は悪かったって思ったから・・・」熱くなったし、必死だったし、半べそだった。
「オレのこと馬鹿にしてるんだべ・・・」モモ子さんも泣き顔だった。

 私は、モモ子さんの“盗られた”を信じたかった。モモ子さんが今まで語ってくれた人生の苦労話は、抗えない運命みたいなものにたくさんのものを奪われてきたのだ、ということを私に感じさせていた。盗られ、奪われ、それでも曲がることなく懸命に生きてきたのだ。“盗られた”という感情とともに生きてきたモモ子さん自身を、私は信じたかった。そしてモモ子さんも、私の“盗った”を信じてくれた。お互いがお互いを信じようとして、そうして傷付いた。
 涙目で必死で話をしているうちに、私の思いがモモ子さんに伝わり、「これと同じのを買って来てけて」という話になった。今度こそ、とまた急いで買って戻ると、「あったったべ?ありがとう!」と笑顔で迎え入れてくれた。「一度やったら、どうしたって疑われてしまうんだから、そうならないように気をつけねばねんだ!」真っ直ぐ生きてきたモモ子さんから、すぐに自分自身さえも信じられなくなってしまうようなグニャグニャな私への、厳しくも優しい喝だった。

 “盗った”“盗られた”は、信じるか信じられないかの究極の問いのように感じられた。私はまだ“信じたい”というだけで、信じることはできてなかったのだと思う。クリームのことがあった少し前、モモ子さんに教えてもらって作ったシソの実の醤油漬けが、そろそろいい頃合いだ。今度、それを持ってお礼に行こうと思う。モモ子さんやたくさんの人たちに支えられながら、“盗った”“盗ってない”どちらだろうと、ちゃんと胸を張って言える私になろうと思った。
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2016年11月25日

今年の田んぼB ★ 特養オリオン 川戸道 美紗子 【平成28年11月号】

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 今年の田植えはお祭だった。それぞれが田んぼという場に集まり、植えて歌って汗を流した。

 97歳の健吾さん(仮名)に「草のない金色の田を見せます」と約束したとき、「死ぬまでこの田を見せてもらいます!」と笑って応えてくれた。秋になって稲刈りの日、誘いに行った私に、健吾さんはベッドに横になったまま「・・・頑張って下さい」と言うだけだった。どこか違うものを見て、何か考えているような目をしていた。
 健吾さんに稲刈りに行ってほしいと思っていたスタッフの宍戸さんに「川戸道さんと田んぼ行ってきなさいよ、気分転換にでも」と言われて、勢いに押されたかのようにムクッと起き上がり、稲刈りの準備をした。
だけど、心はここにあらずだった。田んぼでは「ここは里の職員の方がやってる田んぼなんですねぇ」と言うので、私は少しさみしくてモヤモヤした。田植えの時には「この田んぼはカワトミキさんがやってるんだなぁ」と言ってくれたのに、“里の職員がやっている田”か・・・と。
 その後、帰ってから「今年の稲刈りはどうでしたか」と尋ねてみた。「里の人は、生活の一部として農業をやってるんだなぁと感心しましたよ」と言ってくれたのだが、それにも私は、どこか遠さというか違和感があった。
 はて、健吾さんの本当の気持ちは今、一体どこにあるんだろうと思いながら話をしていると、話題は「健吾さんのこれから」になった。「いつ死んだっていい」と言う。「“安心して死ぬ”とは・・・」と、健吾さんが語り出す。「どんどん、どんどん、歳をとった人が安心して・・・。お釈迦様は、死んだときに迷わず成仏するように浄土を作った。苦しみ、恐ろしさ、何もない。自然に逆らわない。それ以外ねぇもの」

自然に逆らわない、それは昨年101歳で亡くなった幸子さんと同じ言葉だった。
 詩吟や庭作り、書、語り部、田瀬物語・・・。様々なものに心を燃やして生きてきた健吾さんは、若い人にそれぞれを託し、譲り、「自分」の死に向き合おうとしているのかも知れない。
 「頑張って下さい」と私を稲刈りに送ろうとしてくれたのも、そのためだったのかと思う。いつまでも携わり続けるのではなく若い人に委ねる。健吾さんは無自覚かもしれないが健吾さんのたましいを若い誰かに少しずつ分け伝えているかのような姿を感じた。
 役割を与えてもらうと、私は凄く楽になるように感じる。役割以上の事は求められないのだから。でも、役割だけで農業や介護をやり続けてしまったら、それでは何も生まれないし、やらされ作業にしかならない。「自分」を賭けて何をするのか、何が出来るのか。それが大切だと思うし、そうでないと何も分からないまま過ぎて行って、利用者さんとの出会いだって消えて、「何も無かった」で終わってしまう。
 
 そんな事を考えながら健吾さんの側にいると、ふいに「あなたは、百姓やるのか」と聞かれた。控えめだけど確かに指先は私を向いていて、その言葉と震えるその指とキラリと光る眼差しに、「銀河の里の農業ではなく、あなた自身の中に、農業・百姓はあるのかないのか、そしてその農業とは一体何なのか」と問われたような気がした。役割ではなく、「私」が、『これからどう生きてゆくのか』。私はドキッとして固まってしまい、答えられず「分からない」としか言えなかった。でも健吾さんはニコニコと笑っていた。それまでの心ここにあらずの表情じゃなくて、いつもの(いつも以上の)、何かを語るような笑顔だった。
 
 今年の田んぼは、稗だらけになってしまった。夏の草取りや田植え直後の水位調整に失敗した。気持ちだけではどうにもならない事がある。農業はそのような事も教えてくれる。やるぞという気持ちだけではどうにもならない。やらねばならぬ、そうでしか進めない事がたくさんある。
 健吾さんに田んぼを見せたいという気持ちはあるけれど、もう健吾さんに見てもらう田んぼではなくて、健吾さんとつながりながら私が田んぼを見なければいけないんだ、と感じた。
 健吾さんは、実際に田んぼには出ずとも、農業や生きる事、たましいを燃やす事など、真摯な向き合い方を問うてきているような気がする。健吾さんの表情や存在が農業の事でも他の事でも厳しく迫ってくる。それはとても大きなことなのだ。

 「黄金(こがね)餅」、それは田の色の事かと思っていたけれど、黄金なのは、健吾さんの方だ。優しくて鋭くて広い、そんな色を健吾さんに感じた秋だった。
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2016年10月24日

永遠の世界一 タカさんの誕生日をめぐる物語 ★ 特養ほくと 佐藤万里栄 【平成28年9月号】

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「このお湯は大沢温泉のお湯みたいに気持ちがいい」
 ほくと入居者の高田タカさん(仮名)は、入浴の度に柔らかい表情で必ずこう語る。彼女は昨年6月に、他の施設から銀河の里に移って来たのだが、来た直後はとても生真面目で自他ともに厳しく律する感じの人だった。スタッフや利用者の身なり、しぐさ、言葉遣いなどに厳しい視線と言葉を投げかけた。特に私は歩き方に品がない、女性としてなってない等々、タカさんの部屋でみっちりと個人指導を受けることがあった。
 そんな感じで入居当初は自分も周りもきちんとしてなきゃ許せないタカさんで、「一人でできない」こと、「世間のルールからはみ出している」ことにとても敏感で厳格だった。7人兄弟の長女として生まれ、早くに亡くなった母親代わりをし、自身は独り身で生きてきたタカさん。また、教育者として勤めあげた人生からにじみ出る言葉は、重く鋭く私のこころに突き刺さるのだった。

 ところがそんな彼女も、ほくとの生活に馴染むにつれて変化していった。認知症ではない彼女が周囲はほとんど認知症の人たちという環境の中で感化され、どんどん柔らかくなり、タカさん独自の世界を開いていったという感じだ。
 特に顕著に変化が見て取れたのは、ライフワークとして続けてきた編み物だった。まっとうな作品だったものが、やがて色も形も変え、みるみるうちに鮮やかな色彩を放ち、アバンギャルドな芸術作品のようになっていった。それはタカさんの心の中にずっとあった、戦争で亡くなった弟たちへのオマージュのようだった。タカさんは死に別れて70年を超えた弟たちと再会し、あの世とこの世を超えて繋がり始める。弟たちは蘇り生き返った。事務所やユニットから電話をかけて「元気か?あのなは…」と弟たちと語るタカさん。電話の先ではスタッフや副施設長が弟役を引き受ける。

 こうした役を引き受けるときにはかなりの覚悟が必要だ。タカさんは本気どころか“たましいの世界”のやりとりになるからだ。失敗の許されない真剣勝負は緊張する。タカさんの場合、電話で受け応えするスタッフは男性でも女性でもかまわなかった。男女関係なく、戦死してあの世に逝った「弟」が今生きている、として話した。毎回「会いに来てほしい」と頼み、「遠くにいるからすぐには行けない」と応えると「来れねぇのか…」と少し残念そうに微笑むのだった。
 こうして自分の世界を展開していく彼女と共に、「若い人を育てる」ことを始めたのが去年の12月頃だった。フィリピンからEPA実習生2名の受け入れが目前に迫り、ユニットも人事異動でバタバタと揺れていた頃だった。タカさんと部屋で話し込んでいると「あんた、ここで私と話してるといじめられるよ」と、初めてみる珍しく弱気なタカさんだった。私はその弱気に寂しさと不安を感じてしまって、ちょっと強めに言い返した。  「私はあなたを師匠と思っているのだからいつもの強気でいてよ!これから外国のスタッフも来るし、新しい人も育てなきゃ!」と大きな声を出してしまったのだった。私の勢いを受けてくれたのか、タカさんは弱気を払拭して復活し、その後、私はタカさんに支えられながら、ほくとのEPA受け入れや、新人を育てることへ向き合うことができた。そんなこんなで、タカさんはすっかり私の師匠になったのだ。

 タカさんは今年の8月1日で95歳を迎えた。しかし彼女自身は何ヶ月も前から「もうすぐ100歳になる」と語り5歳も先を行っているような話だった。その記念すべき100歳のお祝いを、大沢温泉のお湯に入って祝おう!と考えた。いつもタカさんとの話題に出る、大切に想っている大沢温泉の、日帰り入浴の計画を立て始めた。
 タカさんは祖父の代から家族一緒に行っていたようで、「だから私も大沢温泉の湯が好きになったのす」と教えてくれた。誕生日当日、タカさんと事務所の中屋さんと私の3人で行くことにした。絵描きである中屋さんは、タカさんからクリエイターとして厳しく指導を受けたこともあり、タカさんを師匠と仰いでいるひとりだ。こうして師匠と弟子ふたりの温泉となった。
 当日の朝、「誕生日のお祝いで今日大沢温泉に行こうと思います」と話すと「申しわけねえな…オレ何もしてないのに」と控えめなタカさんだった。「そんなことない、いろいろな大事なことを教えてもらっています」と返すと、「そうなのっか?じゃあ行かせていただきます」と、行く気持ちになってくれる。(タカさんはその時の気持ち次第で、行くも行かないも180度選択が変わることがあるので、ドキドキだったが…なんとかその気になってもらえた。大沢温泉の力だろうか?!)

 出発前、事務所で戸來さんに「温泉で入浴中の写真をとってきてほしい!」と頼まれると「エッチなのはダメだ♪」と入浴シーンの撮影は不許可のタカさんだったが、気分はすっかり温泉に向いていた。そして、いつも使っているタオルと洗面器を持ち、さらに日ごろ大切にしている置時計とラジオまでもしっかり持って出発した!
 車中「△△温泉のお湯はぬるい、○○温泉は沸かし湯でダメ…やっぱり大沢温泉が一番いい、熱くていい!」と大沢温泉を大絶賛。大沢の湯に浸かっていたから私は強くなったんだ、とも語りながら、何年ぶりなんだろうか、久しぶりの大沢温泉…タカさんの気持ちも大沢の湯のように沸き立っていた。
到着するとキラキラした表情になるタカさん。真夏の緑を背負った大沢温泉に負けない貫録で自炊部へ向かう。自炊部の建物は築150年とかで、階段が多い。古くからある混浴露天風呂や旅館部の豪華露天風呂は避けて、タカさんとゆっくり入れそうな「かわべの湯」という新しい女性専用の露天風呂に向かう。途中の階段を車イスに乗ったまま旅館の職員さんにも手伝ってもらって、御神輿で階段を下りていった。なんだかタカさんがお湯の神様みたいに思えた。

 露天風呂に向かう途中の廊下から向こうに川が流れているのが見える。なかなかの絶景をしばし3人で眺める。タカさんは指を指しながら「これ豊沢川だな!」と高らかに言う。
95歳になるタカさんはコカ・コーラを飲みながら、石に当たって流れが変わっている場所をみて「あそこからお湯が湧いているんだよ」とか「あの陰になってるところ…あっちが深いんだ」とか「川の神様ありがとう!」と拝んだりしている。思い出の大沢温泉、懐かしい豊沢川、いろんな想いや感動がタカさんの中をたくさんたくさん流れているのだろう。
 豊沢川の流れと絶景をまったりと堪能した後、いよいよ露天風呂へ。
 「かわべの湯」に入ると3人だけの貸し切り!川の神様ありがとう!と心の中で祈って入る。名の通り、川辺にあるその露天風呂で豊沢川の音を聞きながら温泉の湯に浸かる。
まさか本当に大沢温泉で師匠と過ごす時間を持てるなんて…温泉に半分浮かぶようにして入っているタカさんを見ながら、じんわりその実感が湧いてきて、私は何とも言えない気持ちになった。それは、日々現場で一緒に戦ってくれていたり、私を見守り支えてくれているタカさんにだからこそ湧いてくる感謝の思いだったように感じた。タカさんも「ありがとう、とってもいいお湯だよ」と何度も感謝の言葉をくれた。お湯からあがって、少し汗が引けるまで、また3人で廊下で涼みながら川を眺めた。入る前より何故だか豊沢川が少し大きく見えた。

 お昼は温泉の食堂で食べることにしていた。タカさんはお刺身の定食を選び、真剣な顔、無言でほとんど平らげてから、「こんなこと100年に一度だな」と言った。本当は95歳の誕生日なんだけど、師匠の中では「100歳」の大切な節目として存在していた今日なんだろうな。私は「本当は95歳なんだよ」なんて言うのは野暮な感じがした。100年の全部が詰まっている今、今日この瞬間。本当の100歳の、この先5年分もきっとそこに入っている。その瞬間を共に過ごし共有できたことの感動と幸せを私は深く感じていた。

 その誕生日を過ぎて数日後、ユニットでのお盆の迎え火の日がやってきた。タカさんは部屋で「さよなら、さよなら」と手を振る。聞くと、「豊や實(亡くなった弟さん達)が迎えに来るのす」と言っていて、とても儚げな感じだった。そんなことないよ、と言ってもタカさんの耳には入らず、「弟たちが来なくても、父さんや母さんが来てくれる」と。迎え火にはとてもじゃないが足が向かないといった様子だった。でも何度か誘っているとなんとかリビングに来てくれた。迎え火の儀式が始まると般若心経を低い声で唱え、じっと火を見るタカさん。やがて火が消えると、窓の向こうにあるリンゴ畑を見て、「あの火が下から地面を温めて、リンゴを育ててくれるんだ」と言っていた。

 その何日か後に、送り火の日があった。火を見送った後に窓の前に残っているタカさん。私が近づくと腕にかけた数珠を回しながら「186、187…」と数を数えていた。「何を数えてるの?」と聞いても返事はないどころか、こちらに向いてもくれない。タカさんは違う世界にいて、何か重要な事をやっているようだった。タカさんの世界には入れてもらえず、私は傍らに居続けた。20分も過ぎた頃だろうか、タカさんが「年数を数えてる」と応えてくれた。
 その時タカさんが数えた年数はすでに5千万くらいになっていたが(千単位で数を飛ばして数えるところもあって)、それでも数えるのを止める気配はなかった。お盆の送り火の日ということもあって、私はそのタカさんの行動にとても仏教的な宇宙を感じていた。タカさんは100歳どころではない永遠の時空にいるんだろうなと感じた。お盆の送り火が私をタカさんの世界に入れてくれたようにも感じた。
 数える年数が200兆になった頃、「どこまで数える?」と尋ねると、「じゃぁ今日はここでお終いにしましょう」とタカさんは言った。そして、お数珠を手にかけたので、私の方から「ぎゃあていぎゃあていはらぎゃあてい(般若信教の終わりの言葉)」と唱えると、タカさんも「はらそうぎゃあてい、ぼんじそわか、般若心経…」としめてくれた。不思議な時間だった。そしてタカさんは何事もなかったかのように自分の席に戻って夕飯を食べ始めた。

 タカさんが時折見せてくれる世界は、永遠の広がりを持った途切れのない世界だ。それは星の廻りのように、遠く遠くに離れて行きながら、またいつか巡り会えるという希望を含んでいる。タカさんの世界が持つ永遠性は、「死んだら終わり」という人生の悲しさや寂しさに打ちひしがれることなく、次に会える瞬間を待ち望む勇気を私に与えてくれる。その時間を越えたおおらかな流れや広がりの感覚は今の世の中を生きる私たちにとって、とても重要なことではないだろうか。私は100年を生きたタカさんに出会い、この巡り会いの感覚や広がりを、ここからは私の人生をもって繋いでいかなければならないと感じた。


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2016年10月22日

近代自我意識を超える新たな自我意識の模索と考察 ★ ワークステージ 佐々木里奈 【平成28年9月号】

<まえがき>
 近代自我を超えて、未来の新しい意識について研究をしてみたいと考えている。我慢して働いて働いてそのうち少しずつ心が死んでいったり、「こうしなきゃ」「こうでなくちゃ」って真面目に生きてるうちにすんごく死にたくなったりする人が現代には多くいる。なんで生きることがこんなにも苦しく、生きづらい時代なのだろう。理由は如何様にも分析できると思うが、もしかしたらそれは、ちょっと昔に西洋から輸入した「わたし」の中に縮こまっているからなのではないだろうかと思う。そこに縛られていないで、今、ここ日本で生きる「自分」についてもう一度考え直してみられないだろうか。もっと楽に自由に生きられるかもしれない!そんな新しい生き方を目指せる、自我を超えたような意識を模索してみたい。
 なんとなく同じような関心を持って書いた大学時代の論文も(恥を忍んで)振り返りながら、それから社会に出てからの実経験や出会いを通じて学んだことも含めて考えていきたい。多くの方にも読んでいただき、もし思うことなどがあれば、ぜひ教えていただければ幸いです。

<本文>
 現代を生きる人の息苦しさ、生きづらさは、心の病を患う人やそれと関連する自殺者の増加など現実の問題として表れてきている。現代に起こる社会問題の一因として「自我意識」のあり方に大きな課題があるのではないかと感じている。
 例えばうつは、自己価値・評価の低さと深く関連する。「自分なんて…」と思う“自分”の定義が、外国からの輸入品の自我に影響されているように思う。また、例えば暴力は、フロイトの定義により自我を「無意識」と「超自我」の調整役と考えると、それは自我の機能不全であるということになる。
 そうした考えの根底には、心と体を切り離し、それぞれ別で考えようとするようなデカルトの心身二元論を発端とする西洋的な捉え方がある。私の学部の卒論は、概略、デカルトの心身二元論が人間を論理的に孤独な存在としており、それによって我々現代人の実感的な孤独感につながっている、それを克服したのがG.ライルだという論説を展開したものだった。

 デカルトの二元論は、他者の心は決して知ることはできないという論理的な孤独に人々を導く。私の卒論では、デカルトを批判したG.ライルの『心の概念』において、「わたし」という概念はどのように考えられたのかを明らかにすることを目的とした。ロックは身体を無視し、「わたし」を意識し思考するものとして、自分自身の心を省みる内省の作用は常に不可謬であるとした。ロックはデカルトを批判しようとしたが、結果的にそれに加担した。ロックを乗り越えようとしたヒュームは、「わたし」というものの観念はどこを探しても見つからないと主張し、それまで自明とされてきた「わたし」を否定した。しかし、「わたし」を単純で継続的ななにものかとしたかったことが明らかになった。それに対してライルは、「わたし」は他人からは隠された神秘的ななにものかではなく、一人の人間を指す代名詞であり、「わたし」が精神的で神秘的ななにものかであるという誤解に導く要因である意識と内観に関する理論は不合理であることを示した。ライルの『心の概念』における「わたし」に関する議論によって、特にデカルト以降の「わたし」に関する問いの混乱が指摘され、二元論に基づく論理的孤独は克服されたと言える。

 この卒論での論説のとおり、心身二元論やそれに付随して発生する神秘的で個別な「わたし」というものは、ライルによって不合理だと示された。それにもかかわらず、その後もデカルトによる影響は大きく、西洋では依然として二元論がスタンダードであり続け、それが日本にも輸入され定着している現状がある。しかしそれは日本人的な自我意識の曖昧さからするととても窮屈だったり堅苦しかったりするというのが実際ではないだろうか。
 現代を生きる人の孤独感や息苦しさ、生きづらさは、西洋的な社会システムや心身二元論を発端とする西洋的な捉え方の限界を示しているのではないか。逆に言えば、デカルト以前の西洋にあった自己概念や日本に昔からある伝統的なそれは、近代自我意識を超える新たな意識形成の手がかりとなるのではないだろうか。
 これから取り組む研究論文では近代自我意識とは何かを明らかにしつつ、それを超えるこれからの意識があるとすればどのようなものか、それを我々は持つことができるのか、できるとしたらどのようにすることでそれを持ちうるのかということを探り、心理臨床の知として応用しつつ、多くの現場で活きる知として役に立つことを目的として研究をしたい。
 具体的な方法としては、デカルト以降の近代自我意識が概念としてどう受け入れられてきたのかや、その時代背景や、それがもたらした影響について文献と現実社会の課題等から照らしながら研究を行う。本論の核は、現代の社会問題や社会状況について、自我意識の面から具体的に観察・分析を試みることである。増加する心の問題、低年齢化する凶悪犯罪、高齢化に伴う無縁社会などについて、自我意識を軸に考察する。また、自我意識の時代による違いの他に、国・地域による違いについても研究を行いたい。西洋の「切れている」ということを前提としてつながる力を持つ文化(「個人」が前提で、言葉やボディーランゲージによるオープンなコミュニケーションを絶やさない)と、フィリピンの「切れない」ことを大切にしようとする文化(約束をして「行く行く」と言いながら結局来ないが、それを気にしないことがあったりする(らしい))、日本の「切れてない」ことを前提としているが実は切れている文化(伝統的には“世間”“人間”といった“間柄”で人生が成り立っていて「お互い様」と考えながらも、助けてと言えない/言われなければ助けない人が増えている)との比較も興味深い。

 新たな自我意識の手がかりとしては、上で触れた和辻哲郎の“間柄”の概念から読み取れる自我意識や、日本の文学(宇治拾遺物語や沙石集から、森鴎外や夏目漱石まで)に現れる自我意識、自我を空にする禅や、無執着の境地を目指して身体ごと、空間ごと相手をもてなす茶道など日本の伝統文化にも表れる自我のあり方、里山での伝統的な暮らしに表れる自然との相互関係から紡がれてきた自我意識について見ていく。最近の頻回なSNSの利用にあたって顔の見えない他者に自分の内面を開く自我意識のありようも含めて考察していきたい。里の利用者さんが発する言葉にも新しい自我意識を示唆する言葉がたくさんあふれている。スタッフに対して、自分のことばかり考えるな、という話をする中で発したという「おれもフクエ、おめもフクエ。おれもノブオ、おめもノブオ」という言葉等について考察しつつ具体的に研究を進めたい。

<おわりに>
 今回は、臨床心理を学びたいと思い、その受験のために提出した研究論文の課題に卒論の概要を織り込んで、多少加筆しながら記した。
 私は、東日本大震災後には宮城県石巻市で仮設住宅のコミュニティ支援や在宅被災独居高齢者の巡回訪問を仕事として取り組んだ時期があった。誰かとつながり顔の見える関係を構築することや、それが起こるような仕組みづくりを実現しようと実践してきた。仕組みづくりの大切さを感じると共に、話を聞くこと、共感することの大切さについて実感することも多かったが、それだけでは力になれないこと、力不足を感じることもあった。また、自分自身も含め多くの現代人が感じる息苦しさは、哲学分野での文献研究だけでは解消されない。その解消のために、心の領域の実践を基礎とする臨床心理学において研究し訓練を受けたいと願っている。
 …10月2日が一次試験です。準備期間が短く、準備不足な感もありますが…なんとか頑張ります。応援よろしくお願いしますー!
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2016年10月19日

今年の田んぼA ★ 特養オリオン 川戸道美紗子 【平成28年9月号】

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 ジョニー・ハイマス著「おこめ・米」という本を読んだ。その本はほとんどのページが田んぼの写真で綺麗な本だった。なわしろ、田植え、稲刈り・・・その田んぼは全部を無農薬で行っているそうで、機械も入らない田のため全て手作業だと言う。その写真集の中の、「自分達が育てているお米だから可愛い」という言葉が印象深かった。全て手作業だから、もの凄い労力がいると思うが、銀河の農業も近づきたいと思わされた。そこには田んぼや稲作やお米に対して深い愛情や情熱があると感じた。
 その本のなかで私が衝撃を受けたのは、「米の花」の写真だった。キャプションには『咲いているのは午前中だけ』とあった。私は「米の花?なんだそれ?」とキョトンとしてしまった。実は、私はここ5年間、銀河の里で田んぼに関わっていたが、なんと「米の花」という存在そのものを知らなかった。田んぼで稲作に関わっていながらも、そんなことも知らず毎年里のお米・お餅を食べていた・・・。穂が出てきた頃に咲く、小さくて可愛い白い花。慌てて、その本を読んだ次の日、銀河の里の餅米を植えた田を見に行ったら、偶然にも米の花が満開だった。初めて見る稲の花。遠くから見ていても気付かないが、近くで見ればよく分かる。びっしりと、白い小さな花が咲いていた。
 その「米の花」を写真に撮って、ユニットすばるの入居者の健吾さん(仮名)に見せに行った。健吾さんはそれを見ると「おっほっほ!今年は豊作だじゃ!」とにっこりと笑って言った。…ん?なんで、この写真一枚で豊作だと分かるの?と聞いてみたけれど、「・・・去年は五分作だったなあ」と、話をそらされ、曖昧にして教えてもらえなかった。
 励まそうとして、適当に豊作だと言ってくれたのか?いや、健吾さんはそんな性格の人ではない。真摯に、誠実に優しさも厳しさもくれる人で、そんな生ぬるい話にはしない。となると本当に豊作なんだろう。でも何で「米の花」の写真を見ただけで豊作か否かが分かるんだろう・・・気になって、ユニットおりおんのモモコさん(仮名)にも写真を見てもらいながら聞いてみた。
「あや〜、咲いてらじゃ。今年は冷害になるかと思ってらったども、大丈夫なんだなあ。安堵した」米の花を見てモモコさんもにっこりと嬉しそうに笑った。「米の花」について聞いてみると、モモコさんは熱を入れて語り出した。
「あのねえ!この花ひとつひとつが、穂に入って、そしてそれが米粒になるの!だから、この花が多いほど米が多いってことなの!」米の花がおしべで、めしべは穂の中にある。一本の稲に100位の花が咲いて、穂の中のめしべと受粉し、実になるそうだ。『この花が多いほど、米が多いってこと』というモモコさんの話には真実味がある。
 実際にそういう原理なのかどうかは分からないが、モモコさんがそう言うと、そういう事なのかなと思わされる。若い時に旦那さんを亡くし、子供をおんぶしながら女手ひとつで田を守ってきたモモコさん。「大変だったんだよ」と今は懐かしそうに語ってくれるが、本当に大変だったろうなと想像する。農協に米を出しても赤字続きだったという話をよくしてくれる。旦那さんが餅が好きな人で、何かある度に餅をついて食べていた・・・とか。暮らしと共に米があった、そのモモコさんが教えてくれる米の事、科学的事実とは違う事だとしても、モモコさんの言う事の方が説得力があるし、力も感じる。(モモコさんの言っていることは本当のことらしい、私が何も知らなさすぎる。農家の人には当たり前の知識なんだって!いつまでもお遊びの農業ではいけないなぁ)

 それからしばらくすると少しずつ穂が垂れてきた。「また稲が変わってきたら、教えて下さいね」とニコッと笑って健吾さんに言われた通り。健吾さんも、ユニットから田んぼを見ていてくれる。もの凄く心強い。穂が黄色くなってきた頃、また報告をしようと思う。

 今年の春、おりおんの響子さん(仮名)は胃瘻手術をしてユニットに戻ってきた。響子さんは、去年も一昨年も「やる」と田植えの時も稲刈りの時も、車椅子で田んぼまで来てくれて、スタッフに抱えられながら力強い手で、植えて、そして刈ってくれた。今年はもう田んぼには行けないかもしれない。でも響子さんと植えたバケツ苗にもちゃんと稲穂が出てきている。
私が早番のある朝、私はモモコさんとその響子苗に咲いた「米の花」を見た。小さくて可愛い「米の花」をモモコさんも愛おしそうに見つめていた。「自分達の育てているお米だから可愛い」写真集のその言葉がモモコさんの表情に重なる。
 米作りや農業に関わっていると、自然も利用者もみんなが色んなことを教えてくれる。食べるためだけではなく、いかに生きていくか、生きるとは何なのか、そんな事を諭されている気もする。毎日美味しいお米を食べながら、どう生きていくのか、試行錯誤しながら・・・田んぼと皆と、その毎日を大事にしながら。収穫の秋を待ち望んでいる。
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2016年10月18日

オモイ畑 ★ グループホーム第1 佐々木伸也 【平成28年9月号】

 去年の11月にグループホーム第1に移ってすぐ、なぜか目の前にある畑が目に入った。その畑は“荒野”のように荒れ果てていて、肥料袋はそのまま投げ捨ててあり、草は伸び放題、収穫後の畝はそのまま放置されていた。そんな畑を見たときに“これどうするの”と思ったと同時に、すぐに心の中で“あ、俺がやるんだな”とスッと覚悟した感じだった。
 まず冬のうちに構想を練らなくてはと思いながら冬が過ぎていくのに焦った。この冬は暖冬であまり雪がつもらず“これは早めに動ける”と思ったが、自分が特養に居たとき、入居者のKさんが「幸田は寒いところだから」とよく言っていたのを思い出した。Kさんは昔から農業をやってきた人で、よく一緒に畑に出る機会があった。そこでは苗の植え方はもちろんのこと、女の幽霊の話までしてくれた。そのKさんは去年7月に亡くなってしまったが、自分に“まだ早い”と言ってくれるかのように出てきてくれた時もあった。銀河の里に来てから3年、今までもずっと畑仕事に携わってきて“よし、3年やったんだから今度は一人でやってみよう”という思いがあった。

 雪が解けて、グループホーム内で何を植えるかみんなで話していた。いよいよ3月後半からスタートになるが、まずトラクターで耕すところから始まる。トラクターを使うのは初めてで不安だったが、利用者のTさんYさんが見守ってくれて支えられた。おかげで初めての割にはなんとかうまく耕せた。  
これには稲造さん(仮名)の存在を忘れることはできない。トラクターで耕した時は、稲造さんはちょうど入院していて居なかったのだが、その後、帰ってきた稲造さんが亡くなる日の当日の朝に、畑の話をしてくれた。そして「お前がいたら大丈夫だな」と言ってくれた。そのときの稲造さんとその言葉があまりに強烈で忘れられない。
 私は翌日、畑に吸い込まれるように畑に出た。石灰と堆肥まきをTさんYさんとやって耕運機で混ぜて準備完了。その後、堆肥まきの時期に新人の菊池さんが来てTさんと3人で堆肥まきして耕運機もかけた。その時にTさんが水の通路を作りたかったのか畑の周りを掘っていた。菊池さんはぶっきらぼうに「そこはやらなくていいって」と言ったのにTさんは「・・・・」と無言だった。そのやり取りを見ながら新人だなぁと感じたものだった。でもその後、二人の関係は不思議な濃密さがあって、今は菊池さんはTさんにとって託す相手として重要な存在になってきている。

 畑の準備の前から私はポットで育苗をしていた(大根、カブ、カボチャ、とうもろこし)。芽が出て“そろそろ植える時期だ”と思っていると・・・他のスタッフから「え、、、大根とカブ、ポットでやったの?」と言われた。何のことかと思っていると、それらは育苗して苗を植えるのではなく直接畑にまく直播きなんだということだった。利用者のTさんやYさんに相談すると「大丈夫なんだ」と言われたが、植えた苗は全部死んでしまった。自分の不甲斐なさにがっかりしながらも、なんとか気を取り直して直播きをした。芽が出るのがもう気になってしょうがなく、毎日畑が気になる。
 その一方で市販の苗の買い出しにも行った。稲造さんの次に入居になった光雄さん(仮名)と苗を買いに行き「太いの買えば良いんだっけ」と教えてもらった。男二人で苗を買っていると、いろいろと目移りしてしまい、ビック唐辛子の苗が気になって「おもしろそうだ」と買い足した。ある時は、Tさん光雄さんと湯本の方までトマトの苗を買いに出かけたが、他の野菜の苗が気になってなかなか決まらなかったりといろいろあった。

 畑に植えてしまうとあとは待つばかり・・・大根の葉が徐々に大きくなるのを見てワクワクした。雨が降るとYさんと喜んだ。「よがったな、雨降って」「んだー」「昨日から二人して予想してらったもんな」と雨の日の会話が弾んだ。生まれて初めて雨が降って喜んだような気がする。
 まだかまだかとソワソワしてるのは自分だけでなくYさんもで、草が気になり、太陽のガンガン照り付ける日でも草取りしてくれる。そこにYさんは自分の世界を見出したようにも感じるくらいやってくれる。今では 伸「おう、ばあさん、ごはんだ」Y「今いぐ」・・・・伸「ごはんだ〜」Y「は〜い」・・・・伸「ごはんだってば」Y「わかった、せわしねぇごど」などと言い合える関係になっている。畑での会話では、戦争時代のことやYさんの話だったりを教えてくれる場所にもなっている。この畑という場所はすごい力を持っており、亀田さんとTさんのカボチャ・菊池さんと光雄さんのとうもろこし・稲造キュウリなど、それぞれの想いがいっぱい詰まった野菜がある。
 畑に出る人は他にも多くいて、サチさんは本気の草取りをしてくれる。キクさんは畑には出ないがリビングにいる幸恵さんと見守ってくれている。キミさんミコさんは応援部隊で畑をやっている人たちに踊ってくれたりして応援してくれる。そんなこんなで全員巻き込んでの畑になっている。でもその分“重さ”も自分は感じた。失敗して獲れなかったらどうしようという“重さ”があった。ところがなんと、どの野菜も大豊作で、周りの皆に「今年の畑は立派だね」と褒められる結果になった。
 でも育てたのは利用者のみんなだと思う、自分は耕しただけ・・・“何もしてないぞ”と思った。「今年は一人で出来るように」と当初思っていたのだが全くの見当違い。また助けられたけど、皆でやったから「立派な畑」になった。皆の想いが詰まった畑はほんとに重いものがあった。豊作で今すごく安堵している自分がいる。

 畑には野菜がいっぱい育った。でもそれだけではない。そこに込められた関係のストーリーや一人一人の気持ちや想いや出会いもたくさん詰まって育っている。目には見えないものもいろんな事を教えてくれる畑、自分も野菜と同じように、畑で成長できてるんだと思う。失敗も成功もどっちも糧にしながら出会えて、悩んで、想いをめぐらして、そんな場所を作ってくれる利用者に圧倒されながら日々を過ごしてきた。これも暮らしなんだなと思う。利用者の一人一人といろいろ感じながら、これからも畑と利用者に囲まれて暮らしを作っていきたい。

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ドンッ!となって、ボンッ!となって、ドンッ♪ ★ 特養すばる 千枝 悠久【平成28年9月号】

 先日の8月20日に恒例の花巻花火大会を銀河の里で観に行った。今年の花火は私が今まで見てきたなかで、一番思い出深いものだった。花火の閃きが見事だったのはもちろんだが、そこで起こった出来事の一つ一つも、同じくらい私のなかで輝いているからだ。ユニットすばるからは、クミさん、ユキさん、ツナさん(仮名)が見物に出かけた。
 クミさんとペアになったのは私。約2年前、初めて出会った頃のクミさんは、“慣れている人でないとダメ、男の人なんてもってのほか!”という感じ。例えば、夕食が終わってリビングからお部屋へ誘う時も、「なにするってや!このコバカタレ!」とピシャリとやられてしまう。だから、私はほとんどクミさんと関わることができないままの日々が続いていた。

 そんなある日、クミさんが体調を崩し、何をするにも手伝いが必要になる、ということがあった。流石にこの時は私のことも頼ってくれたのだが、それが私にとっては悔しい出来事だった。“普段からもっと関われていれば、こんなに弱ることはなかったかもしれない…”それから、クミさんとの闘い(?)の日々が始まった。
 毎日、頭ん中でロッキーのテーマが流れているみたいだった。何度話しかけても無視されたし、コバカタレ!も何度も言われた。コバカタレなのは自分でも分かっている。私が里に来た7年前にも、コバカタレ!と言い続けてくれたトミ子さん(仮名)が居た。言われ続けて、考えて、考えて、そのおかげで今の自分がある。クミさんは私にまた、それをやってくれているのだと。先輩スタッフの「(クミさんは)来てくれるのを待ってるのだと思うよ」という言葉を導きの明かりに、好きなものを聞いたり考えたりして作って出したこともあったし(「うまくね!」と言いながら完食してくれる)、夜に「これから海に行こうか!」と誘ってみたこともあった(「な〜に言ってら!このコバカタレ!」と笑ってた)。

 そんな日々のなかで、少しずつクミさんと話せるようになっていって、過ごす時間も少しずつ増えていった。が、花火大会に一緒に行けるかは全くの未知だった。最近は、日中寝ていることも多く、あまり外出もしていない。クミさんが話すことは、以前より大分減った。先日、息子さんが面会に来られた時には、二人でほとんど話すことなく部屋で過ごしていたそうだ。“どうなるかはわからない、でも、とにかくクミさんと同じ時を過ごしたい!”そう思った。
 ユキさんは、花火を楽しみにしていて、毎年欠かさず出かけている。自分の気持ちをどんどん表に出すユキさんが、その年の花火をどう感じたか、それは毎年スタッフの間でもすごく楽しみになっていることだった。ペアになった由実佳さんは、みんなと自然と関係を築くことができる人だ(あの手強いスミさんにも最初からほとんど断られることがなかった!)。そんな由実佳さんとだと、ユキさんの「オラにばりこったにベチャベチャずいの!!」という、ソフト食が出されることに対するトゲのある叫びも、「だって〜ユキさんが…〜〜〜!!」途端に小さな姉妹のケンカみたいな微笑ましいものに変わる。
 ツナさんは、神様や仏様、霊的なものをすごく大事にしている人。部屋の電灯も「あ〜ま〜て〜ら〜す〜さ〜ま〜、まぶし〜!」と表現するような、ニコニコとみんなのことを見守ってくれているおばあちゃんだ。ペアになった角津田さんは、自ら語るよりも人に語られることのほうが多い人で、そのエピソードのどれもが、里でのいろんな人との心がほっこりと温まるようなものばかりだ。だから、私は勝手に、このペアのことを“里の神様&仏様ペア”と思っていた。
 残念だったのが隆二さん(仮名)と、今年の新人スタッフの落合君のペア。何度誘っても隆二さんは手を横に振るばかりで、一緒には行けず。この二人はきっと、これから、なんだろうなぁと思う。言葉を用いない隆二さんは、食事のとき以外は、部屋に戻って一人でテレビを見ていることが多い。昨年8月に入居してから、そういう暮らし方を続けてきていた。それはそれで、隆二さんが自分で決めた暮らし方なのかもしれないが、寂しい感じがして、気になっていた。そんななか、落合君が“自分とどこか似たところがあるから”と隆二さんのことを気にかけ、花火に一緒に行きたいと言ってくれたことは、私にとっても嬉しいことだった。

 そして花火大会当日。花火に誘ったけれど、特に返事をしてくれないクミさん。でも、“花火は好き?”には「好きだよ〜」と答えてくれたし、最後のニコッという笑顔もあったので、それを頼みに出発。会場に着いたけれど、車を停めたところからクミさんの席までは、少し距離があった。車イスを使うという選択肢もあったが、行き着くまでの過程も大事にしたくて、二人で歩いた。出会った頃は一人で部屋まで歩いていくこともあったクミさんだが、今は手引きでないと、歩くことは難しい。これまでの色々な思い出が駆け巡りながら、一歩ずつゆっくりと歩む道のり。「大丈夫?疲れねっか?」「大丈夫だ」しっかりと手を握って歩いた道のり。席に着くと、「ゼェ、ゼェ、ハァ、ハァ、……ニコッ」大分息が上がっていたけれど、笑顔を見せてくれた。二人でやっとここまで歩いてこれたのだな、と思った。花火を見ながら、「オニギリ食べるっか?」「うん」…「きれいだね」「うん」…。言葉は少なかったけれど、花火と、そして時々私のことも、しっかり見てくれたクミさん。一緒に来られて、本当に良かった、と思う。

 ゆったりとした時間のなか、感動していた私の隣から聞こえてきたのは、「オラさはなんにも来ねぇ!」とユキさんの声。クミさんが食べていたので、ユキさんにはオニギリが回ってなかったのだ。一気に現実に引き戻された感じの私だったが、それでこそユキさんだよなって思った。ムスッとしながらオニギリを食べてたユキさんだったが、そのうちに隣の由実佳さんに、「コレ、あげる」と自分の持っていたオニギリを渡そうとしていた! いつも「コレはオレのだ!」とあまり人にものをあげるということがほとんどなく、あげる時があってもどこか照れが入ることが多いユキさん。そんなユキさんが、自然と人にものをあげている!すごいことが起こっている、と私は感じたのだが、それを「い〜らないっ!」と、あっさりと断る由実佳さん。まったく二人らしいなぁ、って笑えたし、きっとこれからも、こうしてやっていけるんだろうな、と思った。
 後ろを振り返ると、リラックスチェアに座るツナさん。キラキラとした目で空を見上げている。その横に、静かに、ピッタリと寄り添う角津田さん。花火に照らされているのだけれど、二人からも光が差しているような、そう思える光景で、心の中で二人のことを拝んだ。ツナさんは、花火がどう見えていたのだろう?花火に何を見ていたんだろう? 終わる頃には、優しい表情でウン、ウンと頷いていて、夏の終わりを愛おしんでいるかのようだった。

 花火大会から戻ると、いろんなスタッフが、「どうだった?」とユキさんに聞きに来た。初めは、例のごとく「大したことねがった。大曲の花火大会の方がすごかった」と言うユキさんで、今年の花火大会は良くなかったのか、と心配になった。けれども、何度か聞かれるうちに、「ドンッ!となって、ボンッ!となって、ドンッ♪」笑顔で花火の様子を教えてくれた。ジェスチャー付きで教えてくれたのだが、そのどれもが、両拳を前に突き出すものだった。―まだまだこんなもんじゃない、前へ― それは、ユキさんの自分自身に対するエールだったようにも思えたし、みんなへのメッセージのようにも思えた。この先どうなるかというのは誰にも分らないし、やってみなくちゃわからない。歩いてきた道のりがあって、そしてこれから先があって。輝きの中で、これからも前へ進んで行こう、そう思える今年の花火大会だった。
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2016年09月21日

戦没画学生慰霊美術館『無言館』 ★ ワークステージ 佐々木 里奈【平成28年7月号】

 長野研修の数日前、フォトグラファーの友人が石巻から遊びに来た。雑談の中で彼女が突然切り出した。「あのさ、戦争と平和について、考えたことある?」何かと思えば、リュックサックの中から、なんとか軍歌マーチ、と書いてあるレコードを取り出した。盛岡のレコード店で買ってきたらしい。「最近やっと戦争について考えるタイミングが私にも来たんだ」としみじみ言う。彼女の考えとしては、「誰もが人生の中で、それぞれのタイミングで、戦争について考えるのが当たり前」ということらしい。ついに“その時”が自分にも来た、だからこのレコードを聴くんだ、と神妙に、嬉しそうに話していた。戦争について考えるためにレコードを聴く、というのも少し珍しい気もしたが、彼女は真剣だった。
 『無言館』の前に立った時、彼女の言ったことが思い出された。“その時”が、自分にも来た、と思った。

 「入口」の文字も、何も書かれていない扉は、開けるのに勇気が必要だった。中に入ると、傷みの激しい若い兵士の像がある。キャンバスの傷みで兵士の目の辺りはよく見えないのだが、真っ直ぐに刺さるような視線を感じる。その他にも、壁にはたくさんの絵が飾られ、遺品や家族に残した手紙、画学生らしい絵手紙もたくさん展示されていた。「いつ死ぬかわからないから…」そんな言葉が頻繁に書かれていた。進むごとに、足は重くなる。ひめゆりの塔や原爆ドームを歩いた時の、ズシリとした冷たいものが心を覆っていく、あの感じがした。
 別館である「傷ついた布のドーム」の暗い館内に入った瞬間、ゴォーという地鳴りのような音とひんやりとした空気に、身体がすくんだ。壁に展示された絵の下には、描いた学生の名前と略歴などの説明がある。 “21歳の時、レイテ島で戦死”。20歳、19歳…。その歳で家族と離れ、カタカナの名前も知らないどこかの土地で、死へ向かう気持ちはどんなだったのだろう。
 絵は、暗い現実を映したものもあれば、祖母や妹、恋人を描いたり、憧れの外国の風景を描いたりしたものもあった。「出征の直前まで筆を握っていた」「恋人を描き、『帰ってきたら続きを描く』そう言っていたが、この続きが描かれることはなかった」そんな説明もあった。
 彼らは、どれだけの夢を抱いていたのだろう。

 そんなつもりはなかったがやはり泣いていた。命を賭けられるほどの夢も目標も持てずに生きている自分が恥ずかしくなったし、多くの貴重な犠牲を払いながら未だに平和な時代を築けていないこと、むしろ現代が憎しみや争いを生む方向に進もうとしていることを申し訳なく思った。
 目前のタスクに追われ、ハウスでアブラムシに追われ、油断すればすぐに、木を見て森を見ず…という状況に陥りそうになる。しかし、いつも頭のどこかで、里がどうあるべきか、社会は、世界は、どうあれば幸せなのかを問い続けなければいけない。そして、現代に生きる一人の大人として、平和への責任を果たしたい。大したことはできないが、石巻の友人のようにレコードを聴くでも何でも、自分なりのやり方でよいのだと思う。精一杯学び、考え、行動していこうと決めた。

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2016年09月20日

どっこ、どっこ、どぉ〜ん 〜 90代のグル達に支えられて 〜 ★ 特別養護老人ホーム 中屋なつき【平成28年7月号】

【戦没画学生慰霊美術館−無言館】

 長野に研修で出かけることとなり、私は長年行きたいと思っていた無言館に今回どうしても寄りたかった。
街並みから少し外れて山道を登った静かな緑のなかに無言館はあった。教会の入口のように左右に扉がある。入って気づいたが、展示ホールが十字架の形になっている。ひんやりとした空気、まず目に飛び込んでくる絵画の数々、その妙に瑞々しい感じ・・・。
 この感覚は何だろう、と不思議になる。まだ勉強中の画学生の、たどたどしいタッチの作品群からは、初々しさと、創作に対するピュアな情熱が感じられる。柔らかいマチエルの絵が多く、モチーフは家族や故郷の風景など、身近で愛おしいものを描いたのだろうことが痛いほど伝わってくる。どの作品も、夢や希望を溢れんばかりに叫んでいる。
 それぞれの作品には、亡くなった経緯や家族のエピソードが書かれてあった。

『出征の前日、父親に「お国のために戦って参ります!」と告げた兄が、母と妹の前では「絵が描きたいよ」と涙した。〜レイテ島にて戦死、21歳』

『結婚したばかりの妻を初めて描いた。表通りから、出征を送る声援が聞こえてくるなか、自分も行かなければならないのに、その直前まで画室に閉じ籠もって、「この絵の具の最後の一本がなくなるまで描いていたい」と、しばらくその場を離れなかった。〜牡丹江にて戦死、27歳』

『兄の絵が大好きでした。兄が大学で絵を学ぶことができたのは、結局、半年のみでした。雑嚢袋の一番下に絵筆を一本だけ忍ばせていたそうです。〜ガダルカナル島にて戦病死、24歳』


 まだまだ、まだ・・・無念のストーリーが次々と、その数に圧倒される。
こんなに優しい筆遣いで絵を描く若者たちが、その手に銃を持ち、人殺しをしなければならなかった惨さが、作品を通して次々と私の心に突き刺さってくる。身体の帰って来なかった若者たちの、その家族に残されたのがこの絵なのだ。絵筆、パレット、スケッチブック、手紙などの遺品の数々からも、悔やんでも悔やみきれない悲痛な想いが聞こえてくるようだった。ある方の日記の一文に打たれた。
『いかなる事物が先を塞ごうとも、自分の信じる画業の道を強い心を持って進んでいく、それしかできない』

 込み上げてくる涙が止まらなくなった。覚悟して観に来たけれど甘かった、打ちのめされた。気持ちを落ち着かせようとみんなでひと休みする。無言館に併設の信濃デッサン館に立ち寄る。カフェでは館長の窪島誠一郎氏が隅の席で何かを読んでいたが、我々が入って行くと席を外し、庭へ出て行かれた。一瞬、ついさっきの涙や想いをお伝えしたい衝動に駆られたが、静かな後ろ姿を見ていると、氏のインタビューや詩から感じる熱い情熱とのギャップがあまりに大きく、声をかける気持ちが退いていった。風景を一望できるベンチに腰掛けているその背中から、出生した画学生や夭折した画家の生涯を追ってこられた窪島さんの想いはどんなだろうと想像する。「・・・で、じゃぁ、私には何ができるんだろう・・・」という疑問が湧いてくる。やりたいことをやっていい時代にいて、やりたいことがある幸せに気付いて、もう言い訳なんてしてられない。

【私には何ができるのかを問う】

学さん /(平成27年11月28日)
 事務所に学さん(仮名・95歳男性)がやってきたので、交流ホールでコーヒータイムにする。香りとおしゃべりを楽しみながら淹れる時間の贅沢なことを、粋な学さんはよくよくご存じだろう。この日も、かっこよく腕組みをして「あなたが淹れてくれるなんてねぇ」と微笑み、ドリップする私の手元を見つめていた。淹れたてのコーヒーを飲みながらカップを覗いて「いい色だなぁ」と言う。ふと、「あなたはどの職人?染めをやってるんだったか?」と私を見た。染め?なんの話だ? と思って次の言葉を待っていると、「この(コーヒーの)色で染めたから、これ(着ていたニット)はこんなにいい色なんだなぁ、な?」そこから展開する。「染め、織り、縫製・・・と、それぞれ職人がいるんだろ?」そう言えば、学さんはテーラーとして稼いだ経験のある方だったと思い当たり、ワクワクしてきた。「職人は何人くらいいるの?」えっとねぇ・・・とすぐには応えられずにいたら、「ここでは何か・・・みんなで何かを作っているところなんでしょ?」と来たではないか!
 このセリフに思わずワァッ!と嬉しくなる。「そうなの!何か作るってことを、いつもしていたい!作る人がいっぱいいたらいいなぁ!」ただの消費者なだけじゃなく、雇用労働者なだけじゃなく、みんなで何か作りたい、絶対になんとしてもクリエーターでありたい、クリエイティヴでなければやらない方がいい・・・とかなんとか夢中で語る私に“うん、うん”と頷く学さん。「あなたは染め屋、俺は縫い方、仕立て屋の仕事」と、学さんも作り手側にいてくれているのが嬉しい。しかも・・・、ちょうど廊下を通りかかった川戸道さんに「お、あなたは見かけっこがいいから営業だな?」と言って笑ったのには、「は?営業は見かけがいいからって、じゃ、私はなんだってや?ちょっとぉ!」ってツッコミ入れたけど、「んだって、あなたはつくる方でしょ?あはは〜♪」と笑って誤魔化す学さん・・・。それでも、私のことを“つくる人”“職人”と言ってくれたのは武者震いするほど嬉しい。にこやかに涼しげに「どんな色に染めるの?」と覚悟を迫るように突きつけてくるから恐ろしい。
 それぞれのカラーの物語を誰とどのように綴り、どんな肌触りの布を織り上げ、布と布をどう繋ぎ合わせて、寒さを凌ぐ暖かいモノを縫い上げていけるのか・・・(この頃ちょうど鴻池朋子の展覧会を観たこともあって、特にも“縫い繋げる=再生”ということにも思い巡って)、「学さん」というあったかい衣服に包み込まれたような時間だった。

健吾さん /(平成27年12月8日)
  健吾さん(仮名・98歳男性)が私を呼び止めて言った。「あなたは声っこがいいから詩吟やったらいい」健吾さんのなかでは私が詩吟をやることはすでに決定事項となっているような口調に、ちょっとたじろいでしまった。ちょうど、詩吟の師匠・健吾さんと弟子・千枝さんとの関係が見ていてなんとも嬉しく面白くなっていた頃だったが、まさか自分に声がかかるとは思ってもいなかった。「ただ声がデカイだけで・・・」とか「音痴だし・・・」とか曖昧に返事したのだったが、「大丈夫だ!その気になってやればできる!」などと励まされた。私のいないところでも「あの人はやるよぉー!」と熱のこもった感じで話していたそうで・・・。その翌日には吟符を持ってきてくれたり、その後も折に触れて何度かお誘いを受けたので、これは真剣にお断りしないと失礼だと思い、手紙を書くことにした(12月14日)。
 書いているうちにそれは、詩吟を断る文章だったはずが、本気になって創作活動をやっていこう、絵を描いて、表現をして生きていこうという意思表明、自分への決心を固めるような内容になっていった。
そして12月21日、朝、事務所に来た健吾さん。「毎日のように何度も読んだったよ、寝られねくなるっくれぇ読んだった。そのうちにねぇ、いろいろと考えて、私の中にも、なんというかねぇ・・・気持ちが湧いてきたんだねぇ、思い立ったことを伝えたくて、こうして事務所までやってきました」とにこやかに話し始めた健吾さんだったが、急に表情を変えて、「絵というひとつの宝を人生の道に選んで進んでいくということ。そのあまりにも一途な中屋さんは、まだまだ若いんだとつくづく思いました。90年を生きてきた私とは、世代の差、経験の差があまりにも違いすぎる」と切り出した。「あのねぇ・・・私自身の人生を振り返ると、本当に様々なことがあってねぇ・・・」(健吾さんの戦争体験のお話を伺ったこともあった)ここから少し口調が変わって、子供に言って聞かせるような感じになった。「ひとつの道を選ぼうにもいろんなことが起こって、そのひとつひとつを真剣になってやってきたんだ。だからね、たったひとつの宝をこれだ!と決めて取り組むのは大変立派だけれども、まだまだ若いこれからの人なんだから、いろんなことに挑戦してみるということも視野に入れてねぇ・・・。あまりにも経験不足で世間知らずなんだなぁ。まだ若いんだ、だからいろいろやってみて!」(私のこと、いくつだと思ってるのかわからないけど・・・)「悔いのない人生でしたよ、私のこの90年は! 中屋さんにも絵という宝を悔いのないようにやってもらいたいし、しかし、もっと様々に挑戦もしてほしい!」(中屋が詩吟をやるのもまだ諦めてない?!)「いやいや、すみません、もう先のない老人の言うことだと思って聞き流してください」
 じゃ、どうも・・・と帰ろうとするのでお引き留めする。銀河の里で詩吟の会を発足させスタッフを指導したり、自伝として歴史書としての“田瀬物語”を綴ったり、また、ご自宅から樹や石を運んで特養の中庭をつくったり・・・等々、これまで、健吾さんがやりたいことをやり抜く姿、何かを残そうとしている姿に“師”を感じていました、これからもよろしくお願いします、とお伝えした。はは!と笑って「今までもねぇ、中屋さんを見ていて、なんと強い信念を持って自分の成すべき仕事をまっすぐにやる人だ、と思ってきましたよ。これからも頑張ってください!」と言ってくださったが、そのセリフはそっくりそのまま健吾さんの姿だなぁと思った。春になったら、また中庭の草刈りを言いつけてくださいね、と約束した。
 私の未熟な決意表明を受けとめてくれた上で、それだけでは甘い!とさらなる挑戦を焚きつけてくれた健吾さん。そして健吾さん自身が「まだ現役だ」と感じた。やっぱり素敵な師匠だ。

タカさん /(平成28年1月7日)
  タカさん(仮名・94歳女性)は毎日のように編み物をしている。ナイトキャップや弟さんたちの靴下など、いずれも独創的な作品を編んできた。こだわりの配色にも独特の個性が光っている。そのある種、「異様な」作品群は、スタッフに贈られたり、ほどいて次なる作品へ生まれ変わったりしていたが、私たちスタッフもやがてその魅力に取り憑かれ?!て、タカさんの部屋に展示している物もある。
 入居当初は「みんなきちんとちゃんとしなさい」とお堅い現実派だった。結婚せず子供も持たない彼女は、長女として弟妹の母親代わりをして家を守ってきたという。教育者でもあり、多くの子供たちを育成してきた。ここへ来て、若い職員のしつけ(女として・母として・日本人として)をしてくれている。万里栄さんは「平塚らいてふ先生みたいだ」と敬って「師匠」と呼ぶほど。高田家の長を務めてきたタカさんが、リーダーとしてユニットのチームを束ねていく万里栄さんを励まし頑張ってくれている。
私にとってのタカさんは“ものつくり”としての師匠だ。「きちんとちゃんと」がだんだんに緩んできて、“らしさ”が出てくるのと同時くらいに、編み物作品のなかにも何かタカさんの気持ちみたいなものが現れてきたように感じる。その頃から、単なる編み物ばあちゃんではなく「この人、表現者だ」と背筋を正すような感覚になった。
 年の初め、神ノ福得神社(後述のフクさんの神社)の御守りを作りたいということになり、事務所仕事の合間をみつけて、私は裁縫を始めた。おしゃべりでもしながら作業できたらいいなと思い、ユニットのリビングで編み物をしているタカさんの隣におじゃまする。「何作ってるんだい?」「おばあちゃんの御守り」「あや、いいごと、喜ばれるんだ」お互いの作品の進み具合など話し語りしながら、いい感じで時間が過ぎていた。
 途中、刺繍の糸を変えるのにハサミがほしくなったが、席を立ち事務所まで取りに行くのが億劫で・・・タカさんのハサミを借りた(テーブルの上、目の前にあったので)。ちょっと迷ったのだけれど「タカさん、かーしーて」と言って糸を切った。チラリと横目で見ていたタカさん、「自分のはねぇのっか?」編み物の手がとまった。「おめさん、それでもものつくりだっか?」声色が変わった。しまった、と思ったときにはすでに遅し。「ものつくりたる者、それぞれ自分の道具を大事にしてるもんだ! 自分のを使えぇい! 道具を大事にできない人に、ろくな物など作れるかぁ!」リビング中に響く大怒号だった。その場は「ひゃースイマセンー!」とか言ってみたが、内心では本気の後悔だった。師匠の言う通りだ、物を作る資格さえないような気分になって、しばらく落ち込んだ。それでも“ものつくりたる者”からの、ものつくりたる姿勢を説いていただいた、本当に有難いお説教だった、と今は感謝でいっぱいだ。
 後日、「子供はなさねかったども、こうやって何かを作るってことが、子供の代わりにならねかえか、と考えてらった」と語ったタカさん。聞き取った万里栄さんが感激しながら伝えに来てくれた。これには泣けた、よくぞ言ってくださった。“ものつくり”として表現しながら生きていく決心を後押ししていただいたようで、大変ありがたかった。

フクさん /(平成28年1月11日)(仮名・92歳女性)

  前を通りかかる度に手招きで「こっちゃこぉ」と呼んでくれる。この日もいつものように全身で甘えたくなって「フクさぁ〜ん!」と近づくと、急に真顔で「おめ、そったに勝手だか?」と来た。うわぁ・・・と逃げ出したくなるのをこらえて、やっとやっと「んだって、そういうふうにしか生きれねぇし・・・」と少し愚痴っぽくなってしまったら、「考えねばねんだな」と軽く返された。ついに「あぁ〜」とフクさんの膝に崩れ落ちてしまったが、頭をまるごと抱えて、優しく強く「考えたほうがいい」「いっぺん行ってこねばねんだ」と、もしゃもしゃ撫でてくれた。
 暮れに誕生日を迎えたフクさんに、絵本をつくってプレゼントした。フクさんの絵本を描くのは、出会ってからずっと思い描いてきた夢だった。それが急に、去年の夏頃からインスピレーションがやってきて、描きたい気持ちがもりもり沸き上がってきた。全10巻くらいになりそうな構想のあるなか、誕生日に間に合わせたくて、まずは3冊、手作りの絵本が完成したのだった。その絵本をフクさんと一緒に読む至福のひととき。1冊目を読み終わったとき、「・・・まずまず、な・・・」とのお言葉。2冊目は「も少し・・・」で、3冊めのときは「まだまだ!」と、フクさんらしい厳しく鋭いひと言。 自分でもホントに始まったばかりの“まだこれから”な感触だったから、いつもの通りの外さないズバリの感想だと思った。(11月の入院中、お見舞いに行ったとき、「フクさんのこと、絵本に描こうと思ってらのだけど、いい?」って聞いたら「あん」とのお許し?をいただいていた。“まぁまずやってみろ”的な・・・)
 去年の大晦日の夜、年越しの時間、フクさんの部屋に次々に訪れるスタッフを見ていたら、「まるでフク詣でだな」と思った。このつぶやきを拾って千枝さんが「そうか、そうだ!」と万里栄さんに鳥居を描いてもらって、フクさんの部屋に“神ノ福得神社”が鎮座し、賽銭箱まで設置された。それに手を合わせ初詣しながら、私は“御守りを作りたい”と思った。「福が重なる神社」「福に会える神社」。中に入れるお札には、「いつもクリエイティヴでいられますように」「嬉しいも苦しいも、喜びも悲しみも、起こってくることをそのままに受け入れて進んでいけますように」と、よくもまぁ、ずいぶんと“勝手”なお願い事を書いていたのだった。
 フクさんは、6月の雨の日、煙となって空に昇り、無数の雨粒となって、地上のどっこにも降り注いだ。「どっこどっこ、どぉ〜ん」のフクさんは、遍く満ちる存在になって今までと同じように見守ってくれていると思う。私の身勝手なお願い事を忍ばせた御守りのひとつはフクさんに委ねたけれど、もうひとつはアトリエに飾ろうと思う。

【絵を描き考えながら生きていく】

 去年の夏、古い絵描き仲間のあいだで、「アトリエ兼作品収納庫がほしい!」という話が出た。何人かでアトリエを構えようと、夢のような話が出たのを機会に動き始め、秋頃から候補地を探していた。銀河の里から遠くない、景色が良くて静かなところ、できれば小屋なんかもあって・・・と贅沢なワガママが叶って良い物件に出会えたのが、ちょうど学さんから「あんたは職人、つくる人」と言われた頃だ。土地の売り主の方とお目にかかる頃には、健吾さんから詩吟へのお誘いを受けて絵をやっていく意思表明をすることになった。年開けて、理想だらけの図面を自分で描きながらウキウキしてる頃、タカ師匠から心得を説かれ、フクさんは、まるで「やりてぇことだけ勝手してやってくつもりなら、よくよく考えて生きていけよ」とでも言うように、叱ってくれるような励ましてくれるような、鋭いひと言をくれたのだ。

 この一連の流れ・・・(利用者さんたちはいつもグルだとしか思えないのだが・・・)アトリエ構想が動いていく時期と重なっていてやっぱり驚いてしまう。ものすごくワクワクしながらも一方では「こりゃもう死にたくなっても死ねないなぁ・・・」と半分はまだヒヤヒヤの逃げ腰でいたのだけれど、師の皆々様方が背中を押してくださり、時は満ちた!ってことだったんだろうと思う。
 いろいろと問題があり順調にとはいかなかったのだが、初詣のおみくじの「屋移り、差し支えなし」に励まされつつ、ハウスメーカーとの実際の打ち合わせも進めていった。その渦中で、何年も前からぜひ行きたいと願ってきた無言館に研修でたまたま行けることになったのも、流れのひとつだろうと感じる。研修の二日目、金澤翔子展を観て休憩中に、ハウスメーカー担当者からの電話があった。すべての問題が整理された、との内容! 戦没画学生たちの無念や戦場に散ったありあまる情熱を想って、また、翔子さんの書に清められた私自身のなかの何かを感じて、自身の決意を再確認していたところへの、なんとも絶妙なタイミングで、アトリエ建設GОの確定が出たのだった。

 8月には40歳になろうという今年。何かしようと思ったときに年齢をその判断基準にするってことはこれまでもあんまり頓着なかったけれど、いつまでもわーいわーい!ってだけ言ってもいられないんだろうか・・・とさすがに考えてしまう。でもきっと、これからもそんな調子でしか生きられないだろうなぁ。それでも、わーいわーい!だけじゃなく、よくよく考えながら、挑戦し、表現していこうと思う。アトリエ完成前に旅立ったフクさんも見守ってくれている。

【金澤翔子書展】

 金澤翔子展&席上揮毫(書のライブ)を見に行きたいという酒井さんの提案で、今回の長野研修を組んでもらっていた。以前から作品もライブの様子もテレビや本で見たことはあったのだが、本物はものすごい迫力なんだろうなぁと想像していた。が、実際はかなり違った印象だった。伸びやかで優しい! 墨の濃淡が澄んでいて、包み込まれるようで、心地良い潤いを与えてくれる。書の展示方法や表具の仕立て方にも興味が沸いたので、どこかで学びたいと思う。
「ダウン症という障がいに負けず書の道を歩んできた母と子の物語」となると一般にもわかりやすく受け入れられたのだろうことは理解できるし、持ち前の明るさや天真爛漫な人柄が人気を博している理由だろうこともわかる。・・・でも、それにしたって・・・「翔子ちゃーん!」じゃねぇだろ、アイドルか?! ご本人が登場する前の会場は、いい席を争って取り合いするような雰囲気で、ミーハーな世間の空気が充満していて具合が悪くなりそうだった。
ご本人は、とってもチャーミングでエンターテイナーで、パフォーマーとしても魅力があって、“誰かが喜んでくれることが私の幸せ”と言うのだから、本当に頭が下がるのだけれど、観客の姿勢には「これは考えなきゃないなぁ」と思わせられるものがあった。
(ワークステージでもダンスや創作活動が少しずつ展開してはいるけれど、その方向性や姿勢については、慎重に、充分に考えていく必要があるような気がする。利用者の創作活動やその作品の取り扱いについても、厳粛な気持ちで向き合う姿勢がなければならないと考える。酒井さんの発案で、里の現場からの創作活動を展開、発信していこうと立ち上がった feelingainの活動についても同じことが言えると思う)
 実際のライブが始まると、世間の空気にやられてモヤモヤした気持ちが吹き飛んで、目の前で繰り広げられる書に釘付けとなった。まるで神事みたいで、自然と姿勢を正す気持ちが湧いた。墨の香りに心が洗われるようで心地よかった。そこにいたのは障がい者でもなくアイドルでもない。書家の金澤翔子さんだった。その翔子さんに訊ねてみたい質問が思い浮かぶ。「書き始める前の精神統一のとき、書いているときのリアルタイムな内面、展示された自分の作品を眺めるとき、それぞれの気持ちや感じにどんな違いがあるか」とか。

【これから】

 無言館に集まった作品の作者達に対して、恥ずかしくない姿勢や品位を持って生きていく努力をしなければならないように感じる。簡単、手軽、便利で、なんでも自由で、やりたいことはなんでもやれる時代にあって、今とこれからを生きる私達がどういう姿勢であるべきか、彼らのことを忘れることなく、どこかで問い続けていかなければならないことではないだろうか。
 何かを生み出すこと、クリエイティヴであることに対する姿勢や、作品と向き合う心構えなど、銀河の里の現場での“在り様”にも通じてくることだと思う。軽いノリと品位の無い風潮に流されて見失ってはならないことがあるはずだ。無言館の作者達とほぼ同年代の利用者が、師として私にいろいろ示唆してくれたことも偶然ではないと感じる。そのことを私は忘れないで生きていこうと思う。
posted by あまのがわ通信 at 14:17| Comment(0) | 通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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