2017年01月24日

−神話を語る人びとと、共に生きる− ★ 施設長 宮澤 京子 【平成29年1月号】


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*2017年1月1日(元旦)朝日新聞朝刊より

 2017年元旦の目覚めは不思議な感動と共にやってきた。「銀河の里」(以下、里と記す)は「神話が生み出される場なんだ!」と突然ひらめいたように思い至り、そして「そうなのか、そういうことなのか、確かにそうだったな」と妙な納得と感動に浸ったのだ。

 介護施設はスタッフの疲労困憊や大変さが強調され、若い人たちも敬遠しがちな職場として一般に認知され、時代も反映して業界の人手不足はかなり深刻である。業界の先導も作業の効率化に躍起になっている。それで何が面白いんだと疑問ばかりが膨らんで研修などもつまらなくて仕方ない状況にある。そうした状況下では大半の施設がおぞましいものになって、内部でどんな非道なことが行われているのだろうかと疑わざるをえなくなる。社会はそうした状況を薄々感じながらも目をつむって、なるべく関わらないようにするものだから、現場はますます荒んで疲弊するという悪循環になっていく。
 先日もあるグループホームで、入居者が包丁を振り回して逮捕されるという事件が報道されたばかりだが、ネットにはそれに関して吐き気を催すようなコメントがツイートされていた。大まかには、認知症の人や施設に対して否定的でバカにした他人事の内容ばかりで、相模原障害者殺人事件の犯人の主張が、現代の日本社会の大半の人たちの本音としてあるんだという現実に向き合わされる。そこには呪いの言葉しかないかのようだ。内田樹氏によれば、ネットは呪いの言葉に満ちていて、現代はまさに呪いの時代だと言う。そして呪いの言葉は確実に自分に返ってくるから、今必要なのは呪いではなく祝福の言葉なのだと言う。
 その通りだと思うのだが、実際に祝福の言葉をこの時代にもたらすことはかなり難しくなっているのではないだろうか。そんなところに元旦の朝、いきなりやってきた感動は祝福そのものであったと感じることができ、里は呪いではなく祝福に満ちている場なんだと確信できたから凄い。17年目に入る里が、業務優先や作業効率を追いかけるような一般の福祉施設とは一線を画して、そうした圧力からかなり自由で、人手不足に悩んでいるとはいえ、現場から日々話題が豊富に記録され感動を共有しながら、疲弊しないでやっていけている理由の一端が微かながら見えた。

 里の入居者は大半の人が認知症で、その人たちは「現代の長老」だと常々私は感じている。近代のタイトな科学主義や、現代のグローバルな増殖作用によって世界中を均一化しようとする流れに対して、それらの陳腐さや危うさを本質的に問いかけ、踏み留めてくれる人達だ。語る言葉やその行為は「謎かけ」だらけであるが、日常の暮らしに揺るぎない世界観をもって迫ってくる。私自身は思春期以降クリスチャンとして人生をスタートさせた経緯もあって、三位一体の神を信じる一信教からの潔癖さから、そもそも神話には興味が持てず、日本の国造りの神話も、外国の神話もよく知らない。しかし、年を重ねるごとに私の日本人としてのDNAは、自然への畏敬や八百万の神との親和性を呼び戻してくれたようで、やっと「宗教性」という広がりの中で、見えない世界を探求するようになった。

 里が始まってみると、ともに暮らす人達の「食:いのち」を養うために、率先して鍬を持ち田畑を耕す高齢者がいたり、自然の恵みに感謝する強い思いを持って祭事に参加し、四季折々の歳時を若者に教え、生活に潤いや張りを持たせてくれる人達もいた。また夜な夜なあちらの世界と交信して、先祖や死者達の霊を慰め、和解のための儀式を行っている人もおり、その度に私たちは驚きと感動に襲われた。残念なことに、一般にはそれらは「妄想」「作話」「戯れ言」「徘徊」という認知症の周辺症状として切り捨てられている。しかし里では、暮らしの中でそうした語りや行動を丁寧に聞き取り記録し、大切な秘儀として受け止めてきた。これらのやり取りは「近代」に剥ぎ取られ「現代」で忘れ去られた「何ものか」(レヴィ=ストロース的に言えば、「野生の思考」というべきもの)を蘇らせ、活性化させる場となってきたのではないか。そうした姿勢や眼差しがあることで、次々と個々の神話が語られ、新たな神話が生み出される空間を作り出してきたのだと気づいた。

 里は、自宅で介護することが難しい人達が、社会的介護の場として利用する認知症専門の介護施設としての「デイサービス」や「グループホーム」を運営している。ただそれは制度上の仕組みのことであって、里では「介護」の生業に特化することをむしろ避け、制度を超えてスタッフ個々が自分自身を深化させることを念頭に、利用者と向き合うことを大切にしてきた。つまり「認知症介護」にせよ「身体介護」にせよ、それを作業としてはとらえず、人と人とを、異界と現実とをつなぐ貴重な通路として捉えてきた(このイメージは能舞台の橋がかりにかなり通じる)。介護を神話的空間のツールとして用いるとき、現代では非科学的と否定されることや、エビデンスとして表すことができない世界が体験でき、「介護する」「介護される」の関係では見えてこなかった個々の宇宙が展開し、「あなたと私」の2人称の繋がりが顕現してくる。

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*哲学的な問いをくれたカナさん

 前回の号で、モモ子さん(仮名)と私の黒靴が同じように損傷した事件について書いたが、その出来事は私達がカナさん(仮名)の葬儀に一緒に出席したことが発端になっている。私とモモ子さんとカナさんの3人にはある約束事があった。カナさんがショートスティで里に来ていた頃の4年前、日に何度も何度も語ってくれた物語があった。それは自分を育ててくれた実の親と、教師になることを支援してくれた育ての親、両方の「恩義」についてだった。カナさんの独特な口調と具体的にイメージできる内容 (さすが小学校の先生らしい) で、聞くものは深い感動を与えられた(通信2012年5月号を参照)。

 私とモモ子さんは、交流ホールのソファでお茶をしながら、その話に聞き入った。私はカナさんの聞き書きを記録して「本」にすることを約束し、録音させて貰った。そのときにはモモ子さんにも入ってもらい、カナさんのエピソードを引き出してくれた。その後、カナさんは入退院を繰り返し、特養ホームに入居されてからは、ほとんど発語がなくなり、居室で過ごすことが多くなったため、私は「聞き書き」を本にする約束さえ忘れていた。カナさんは、ショートスティ時代に「私は、誰に、どうして、ここに連れられてきたのですか?」という問いを一日中炸裂させていた。スタッフは現実的な理由を根気よく繰りかえし、紙に書いて説明するなど、いろいろやってみたが彼女の満足を得ることはできなかった。特養ホーム入居になってからは、その問いが「ここはどこですか? 私は誰ですか?」と変わり、亡くなるその日にはスタッフの手を取り「私は、どこから来て、どこに行くのでしょう?」と問うた。私たちはその時々に、頭をめぐらせ一生懸命その答えを返そうとしていた。だがカナさんの問いは自らに向けられたものであって、どんな外からの答えにもズレを生じていたのではなかったろうか。そして「私に答えるよりもあなた自身に問い続けなさい」という意味で、何度も何度も聞いてくれていたのかもしれない。

 あとから考えるとその時にはずいぶんと見当違いな対応をしていたなと反省させられることが多い。しかし靴底事件の後、何かを悟ったようにモモ子さんはユニットから飛び出して事務所にやって来て「俺も稼げばなんねぇ」と声をかけてくれた。その日は、餅米の田んぼの脱穀作業だった。米寿を迎え2度目の脳梗塞で不全麻痺になった身体をおして、田んぼに一時間以上立ちっぱなしで脱穀の作業をやってくれた(車いすで田んぼにきて、作業をやり終えるとまた車いすで帰っていった)。それから一か月後、モモ子さんは再度の脳梗塞で歩けなくなり言葉も不自由になった。新人の直生君に田んぼ作りを教えると約束したことを気にかけて、不自由になった口から「こったな体になって、あいつに申し訳ねぇ」と言い、悔し涙を浮かべた。そんなモモ子さんに私は感動した。ところが歩けなくなっても、言葉が不自由になっても、その後もモモ子さんは健在である。年末の餅つきはその体で直生君を叱り励ましながら、餅つきを仕切っていた。これは新たな伝説になるだろう。

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*スタッフと田んぼに立つモモ子さん

 そして私は、カナさんとの約束は反故にしてしまったが、入れ替わるようにユニットすばるに入居されている99歳の健吾さん(仮名)に「田瀬物語」の本の出版を託された。健吾さんは入所して間もなく、スタッフの川戸道さんを専属秘書にして語り、冊子としてまとめ、親しい人たちに配布した経緯がある。その後「もう一つの田瀬物語」もスタッフが聞き取っていた。そして今、健吾さんの語りは史実としての田瀬物語を超えて、カナさんの「私はどこから来て、どこに行くのか」という哲学的な問いに通じる語りとなっている。ダムとして湖底に沈んだわが故郷を現実の「田瀬物語」として語った後、あの世に向かう物語を自らの命を通して過去と未来をつなげようとしているかのように感じた。


聞き書きとしての「田瀬物語」から、
神話としての「田瀬物語」へ

 私は昨年度から、立教大学大学院に入学して論文を書こうと学んでいるのだが、「ローカリズム原論」という授業で、毎回ドキュメンタリー映画を見る。そこで『水になった村』という作品に出会った。
この映画は水に沈む徳山村に生きたお年寄りとの15年間にわたる記録映像であり2007年に公開された。ダム建設が決定された後に、水没によって故郷の地を追われるまでを見届けた生き証人達の貴重な映像でもある。このダムは1971年(昭和46年)に建設省(今は国土交通省)による特定多目的ダム事業として事業計画され、2000年本体工事に着手、2008年4月(計画から37年後)に完了、事実上日本最後の巨大ダム建設になる (総費3,500億円、日本最大の額で、「巨大ダム反対」運動はとても激しかったという。完成後もダムの必要性については論争が起こる話題の多いダムでもある)。
地面をひたひたと静かに押し寄せてくる水の映像から映画は始まる・・・。

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*映画「水になった村」(監督:大西暢夫)

 この始まりはこの映画のテーマを象徴している。小さな虫、植物、先祖から継いだ田畑、家族と暮らした家、そこに生きる人間を、ひたひたと37年もかけて「すべての記憶」もろとも根こそぎ飲み込んでいく。ダムによる水没が決まったその村に、春になると何人かのお爺さんお婆さん達が電気も水道も引かれていない中で、山菜を採り野菜を作付けし、冬が来るまで生活を続け、毎年通って来る姿が描かれている。いよいよ家が壊される時、ショベルカーの一突き一突きが、まるで自分の身体に突き刺さってくるようなシーンは衝撃的だ。もう戻る場所はないのだ。
 お爺さんお婆さん達の新しい家での近代的な環境の暮らしの生きづらさは、スーパーでの買い物やお金の出し入れの風景として映像化されていた。街でお婆さんは「ここには、何もない、お金は出ていくばかり」と言う。山の恵みで食を満たし薬まで作り、稼ぐ毎日があった日々の幸せを懐かしんでいる。何が豊かなのか問われるシーン。「ここにはわしらを見守ってくれる神様がおるんじゃ」と映画のパンフレットに書かれていた。この映画に流れる宮澤賢治の「星めぐりの歌」に私はどこか癒されていた。何故、監督はこの「星めぐりの歌」を選んだのだろう・・・。

 健吾さんから本の出版を託される直前に、この映画を観たのも不思議な縁だ。私は、その田瀬ダムがどういう経緯だったか概観してみた。田瀬湖は、「銀河の里」の周辺地域の稲作を支える農地灌漑としての役割もあり、春の棚田の用水路に水が来るのはこのダムのおかげである。稲作農家にとって「水」は、死活問題だ。安定的に供給される農業用水は、農民にとっての悲願でもあった。田瀬ダムは北上川水系猿ヶ石川に建設された人造湖で、ダム湖百選のひとつに選定されている。利用目的は洪水調節・灌漑・発電である。日本におけるダム開発は単一目的が主だったが、1926年物部長穂(東京帝国大学教授)が多目的ダムによる河川開発が重要という見解を示し、1935年に正式に国策(物部構想)として採用された。1941年6月に着工された田瀬ダムは、内務省が初めて着手した、現在の国土交通省直轄ダム1号だったという。太平洋戦争による中断(1944-1950)を挟んで13年の歳月をかけて戦後1954年に完成した。戦後すぐにはダム建設は再開されず、緊急の課題であった食糧増産のために一旦離村した住民に対して帰村を許可し耕作を行わせた(1942年には水没住民への用地買収が行われ全員が補償基準調印を済ませていた)。そのため建設再開時、一度補償を行った住民に対して、離村・離農に係わる生活保護を名目に再度水没補償を行うという異例の再補償をした(ダム補償交渉のなかで特筆に値する)。また、「土地強制収用は不当」として頑なに拒否し、行政訴訟を起こした者が1名いたが、1961年に住民敗訴という結果に終わった。ダム建設に伴い181世帯もの住民が2度の移転を強いられ、民家547戸と公共施設17棟が水没した。水没地域に暮らしていた住民は1827名を数える(この住民の一人に健吾さんがいる)。

 健吾さんの聞き書き「田瀬物語」の冒頭には「ふるさとは 湖底にありと 寂しげに」と書かれており、内容はその地に住んでいた者でなければ知ることの出来ない祭事や日々の暮らしの様子が生き生きと描かれていた。健吾さんは水没する田瀬、新田(屋号)の庭園を矢沢(移転先)に再現する事業を一人で成し遂げることを決意したという。田瀬の庭園には樹齢何百年というツツジやいろいろな植木があった。やがて湖底に沈んでしまう庭を思い、一本でも多くの植木、先祖伝来の植木を矢沢の地に咲かせようと思い移植した。その庭園は健吾さんが生涯をかけて、見事に矢沢の地に実現したのだが、高齢になりその住まいを離れ、特養ホーム「銀河の里」に入居することになった。
 入居後、今まで大事に育てた庭の木々を少しずつ里に運んで、かつての田瀬の庭園は特養の中庭に受け継がれている。その中でも樹齢300年?と言われるご自慢の「三尺モモ」(背の低い桃の木)は、毎年実をつけ生命の逞しさを見せてくれている。それだけではなく万年生きるという石の亀も鎮座している。

 私は当初、田瀬物語を完成させるべくミッションを受け取ったように思ったのだが、聞き書きを始めてから、そうではないことに気がついた。健吾さんは語る ― 私は、ずっと「いのち」の「継続」のことを考えてきました。私が行くところは、お釈迦様がつくった極楽浄土ではなく、湖底に沈んだわが故郷が浄土なのです。そこに帰るのです。私は行くところが決まっているので、全く心配はありません ― という宣言とも取れる言葉を聞いたとき、人が生きていくときに支えとなる「幹」なる「神話」のようなものを感じた。健吾さんは主に、お爺さんが語っていた言葉を思い出して、語ってくれるのである。まるでお爺さんの物語を私達に語り継いでくれているようでもある。お爺さんは神話を語り、お父さんが現実を語り、今99才のお爺さんである健吾さんは、孫である私達に神話を語り・・・そのように話を聞いていると、何代にも渡って生を受けた過去が、死という未来を照らし、現在を生きている、そんな切れない繋がりを感じる。時に、詩吟のお師匠さんである健吾さんの朗々とした歌が吟じられ、貴重な時間が流れる。「私には伝えたいことがたくさんあります。でも時間がありません・・・」と、にこやかに言うが目は笑っていない。この時間は双方、真剣勝負だ。毎回一時間ほど録音を撮らせて貰っている。そこから私は何を汲み取っていくのか、果たして神話としての「田瀬物語」を書き留めることが出来るのか・・・苦悩する私に再びカナさんの深い問いが心に響いてきた。

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*花巻市東和町にある田瀬ダム


グループホームに神棚が設置

 一方、グループホーム第1では、夏の恐山ツアーから戻ったイタコシスターズが、それぞれに日々大活躍である。恐山から戻って1ヵ月ほど経った頃の、Yさんの見た夢が凄い。Yさんの枕元に立派な人が立っているので、「どなたですか?」と尋ねると「忘れたってか、恐山で会ったべじゃ」と言われたという。そのうち、それは生きていれば62歳になる息子だと分かった。水子供養をしたYさんの願いは、立派に成長した息子として夢に現れ、母としてのYさんを安心させたのか。Yさんは恐山ツアーで一緒だったHさんの部屋を訪れこの話をすると、Hさんは「なんたら、自分の息子の顔も忘れたってか」と返した。なんと、迫力のある会話だ。水子供養の息子の顔を覚えている事が当たり前という世界観で、ふたりの会話は成り立っているのだ。またHさんは、恐山で頂いたお札をどこに置くか悩んでいた。「ここには、神棚がないのよね。はじめから、おかしいと思っていたわ」と遂に不満爆発。公共施設でもあり、宗教を特定しては差しさわりある人もあろうかと、これまでは敢えて設置してこなかった。しかし、札をどこに収めればいいのかと言われると、神棚設置は自然のような気がした。設置するからには、神棚の位置や大きさの検討をし、お隣の八雲神社の宮司さんに来ていただき「神棚払い」なる儀式もきちんとやることになった。 

 12月15日午前11時、静かに雪が降る中、グループホーム第1の利用者全員とスタッフが参列し、儀式は厳かに執り行われ、無事に神符を納めることができた。それから毎朝、神棚にはご飯と水があげられている。Tさんは小さな声で「神様が見ていると悪いことは出来ないな」と言いながら大きく「ブッ」と放屁する。「Sさん(亡くなったTさんの旦那さん)が、Tさんになりすまして、いたずらしている」と苦笑するスタッフ。私は、神棚に祭られている神様より、生き神様として大活躍の皆様方に手を合わせたくなる。

 1月3日、新年恒例の「権現舞」が銀河の里にもやってきた。いつもは大騒ぎの人も皆の「健康と祝福」に、静粛に心から手を合わせた。小正月には、七草がゆを食べて万病を防ぎ、ミズキ団子の華やかさと共に「どんと焼き」が行われる。決してイベントではなく、暮らしの歳時を刻みたい。そこには確かな物語や神話がそれぞれの心から語られるのであるから。

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*グループホームに設置された神棚。近くの八雲神社の宮司さんに祭事をお願いし、畑で採れた大根と人参もお供えした。
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2017年01月23日

直生へのバトン 〜モモ子さんの歴史とこれからを思う〜 ★ 特養オリオン 川戸道 美紗子 【平成29年1月号】

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*今年度の秋、餅米の手刈りを終えたモモ子さんと川戸道、新人の直生

 昨春、おりおんに新人・直生君がやってきてからのモモ子さんは、何だか違った。毎年新人に活を入れ、叫び、叩き・・・のいつものスパルタ指導ではなかった。母のような、おばあちゃんのような、おおらかに見守る、そんなモモ子さんが居た。今までのモモ子さんを知る私には正直・・・これは衝撃的だった。直生君のぽわーっとした人柄のせいなのか? ギリギリ、メリメリと怒られる事なく、かと言って関係が遠い訳でもない。そんなモモ子さんと直生君の関係はホント不思議だなぁ、お互い良い感じなんだなぁ、と思って見ていた。
 今までと違って、モモ子さんにとっての大きな変化も様々あった。一昨年、若い頃から頼りにしていたお兄さんが亡くなられ、続いて、里の同じユニットでモモ子さんが「ばっちゃん、ばっちゃん」と慕っていたサナさんが亡くなった。昨年10月には「友達だ♪」と言っていたカナさんも亡くなられて、モモ子さんも葬儀に参列した。モモ子さん自身も昨年と一昨年、2回に渡って脳出血で入院したが驚異の回復力で退院し、車椅子生活と言われていたところから歩くまでになった。少しずつ自分の身体も歳をとって衰えてきていること。そして今年ユニットで亡くなった方達を送って、これまで以上に何かを感じ、考えている様子だった。そういえば、今年になって「おれ、もう何も言わね。言ったって若い人達わかんねんだ」という台詞もちょくちょくあった(そんなこと言いつつ結局は若い人達に吠えるのだが)。
 
 直生君は、「農業やりたいです」と銀河の里にやってきた。ぽわーんとしている感じなのだが、農業のさまざまな作業に誘うと「うぃース」と答え、テクテクとやってきて一緒にやってくれる。作業をやると決まって「意外と大変なんですね!」と言う(そりゃそうだと怒りたくなる時もある)。そんな直生君は、「ぼく、歩いてモモ子さんと行ってきます!」と、とてもいい表情で車椅子を押し、田んぼや畑によく出掛けていた。「意外と大変」と言葉では言うものの、畑で育つ作物を見る直生君はイキイキしている様に見えたし、モモ子さんと共に気持ちよさそうだった。
 彼なりにモモ子さんの語りを熱心に聞き、「農業」を教えてもらっていた。秋になると、小豆の殻剥き作業を何日もかけてやった。やっぱり一番張り切って稼いだのはモモ子さんだ。毎日、いろんな人がそんなモモ子さんのところに顔を出す。朝は夜勤明けの霧子さんや、隣のユニットの弥吉さん(仮名)も一緒に混じってやってくれたり、夕方には早番を終えたスタッフも入り作業する。「おれしかやらね、誰もやらねじゃ!」と言いながら、いい顔をしているモモ子さん。直生君も真剣な顔をしてモモ子さんと黙々と作業をする。
来年度は里の田んぼ五町歩を、特養スタッフの伸也君、直生君とGHスタッフの拓也君が中心となって稲作をやっていこう!という田んぼ計画が始まった。「農村地域に住んでいながら田んぼも畑も作れないような男が一人前と言えるか。ちゃんと百姓やろうぜ」と理事長から活が入って始まったプロジェクトだ。この話はすぐにモモ子さんの耳にも入り、「あやー!やったこと無いのに、五町歩もか!あいや、可哀想に」と直生君を心配していた。

 そんなある日、朝起きたモモ子さんは言葉がうまく出てこなかった。クリニックで検査したところ、脳梗塞だった。主治医の先生によると、「麻痺は残るでしょう」とのことだった。
 モモ子さんは一昨年の脳出血から少しずつ思うように歩けなかったり、疲れやすくなっていた。88歳、年老いていくのは仕方ないけど「歩ける様になるべか」「おれ、治るべか」と毎週の回診時に先生に尋ねていた。先生はいつも「大丈夫だよ、ゆっくり治そう」と応えてくれて、モモ子さんは「本当だべかぁ」と言いながらも安心していた。「歩けねくなった」と言いながら、毎日自分の足でしっかり歩いた。去年の春夏は田んぼや畑の作付け、草刈りの事を考え、稼ぐスタッフを案じ、調子がいい時はモモ子さん自身も外に出て、稼ぐ人達を激励してくれた。収穫の秋には「出来ね、出来ね」と言いつつも良い顔で直生君と稲を刈り、一緒に今年の餅米の収穫を味わった。ちょうど稲刈りの頃に亡くなられたカナさんのお部屋に、刈った稲をそっと置いてくれたのもモモ子さんだった。いつも銀河の里の・・・モモ子さん自身の事よりも皆の生活や暮らしを案じ、支えてくれている(自分の心配をしながらも、周りの皆のことの方が気になるようだった)。
 この12月の脳梗塞後、モモ子さんはうまくしゃべれなくなり、表情などでやりとりは出来るが「・・・わがね・・・」と、つらい顔をすることがあった。

 ある晩、夜中に目を覚ましたモモ子さんと部屋で話したことがあった。やり場の無い苦しさとか不安とか、胸のうちをぶつける様にギュッと腕を掴んできた。そしてバシバシと何度も叩かれた。叩かれながら胸が痛くなった。「なして・・・おれ、何も、悪いごどしてないのに・・・」と、涙声で枕に顔を埋めながら体を震わせていた。何も応えられなかった。いろんな言葉が私の頭の中をよぎったけれど、結局何も言えず、モモ子さんのそばにいることしか出来なかった。私自身も辛くて、崩れ落ちそうだった。「皆、年とるってことなんだ」と、無意識に私が呟いたら、モモ子さんはガバッと起き上がって「皆じゃねえ!!おめ、なってもねえのに!!そんなこと・・・!!!!」と叫び、また私を何度も叩き、泣き崩れた。私だって訳が分からなかった。どうしてこうなったかなんて分からない、ただ、今・これからモモ子さんとどう過ごしていくか、それしか頭になかった。もう本当に、何とも言えなくなってしまって、一時間くらい、真っ暗な部屋の中、二人で泣き続けた。モモ子さんの不安とか揺れを私が「解る」って事は難しいんだろうけど、気持ちは痛いくらい胸に響いてきて、そばに居る時、油断するとこっちがその痛みに負けそうになった。

 脳梗塞以前、モモ子さんは、直生君が来年から本格的に農業をやることについて、母の様に心配しながらも、応援する気持ちでいっぱいだった。「あいづ、農業やるんだど。今は全部機械なんだから、大丈夫、やってみろ、おれ、すけるからよって言った」優しくて、ほっこりとした顔でモモ子さんはそう私に伝えてくれた。モモ子さんは米を「命の玉」と言う。まさしく命の基だ。何となく天然だけど素直で、やると決めたことはしっかりやり遂げようとする直生君だからこそ、モモ子さんは直生君に期待をしているんだと思う。脳梗塞後、「おれ、あいづのこと、すけるって言ったのに、こったになってしまって・・・申し訳ない」と泣きながら話した。
 モモ子さんは、きっと全身全霊で直生君や私たちに農業のこと・自分が生きてきた道・これから私たちが生きていくということを教えるつもりだったんだと思う。暮らしていくことや、モモ子さんの魂みたいなものを直生君や私たちに伝えようとしてくれているにちがいない。
 さあ来年から自分達で田んぼやってくぞという時のモモ子さんの体調変化。「申し訳ない」とモモ子さんは言う。そう言わせてしまっている事と、そこまで思ってくれていることに泣きそうになるけれど、大丈夫だと思う。モモ子さんは言葉の人だと思ってきたけど本当は違う。表面上の言葉は関係なく、深いところから直生君を鍛え育てるに違いない。モモ子さんが、子供のため魂込めてやってきた百姓。人に嫌われたり恐れられたりしながらも吠えまくってきたモモ子さん。それはこれからも変わらないどころか、歩けない、しゃべれなくなったからこそさらに迫力を増してくるに違いない。私たちはそれに支えられながらも安心してもらえるような仕事がしたいと思う。
 モモ子さんは、今、農業の他に家族のことやこれからのことを考えている。一昨年は出すのを渋っていた年賀状・・・「今年も年賀状書こうか?」と聞くと、意外にもすぐに「うん」と頷いてくれた。てっきり「書けない」と難しい顔をするのかと思っていたけれど、この返事がとても嬉しかった。年賀状書きを隣で代筆していると、モモ子さんは静かに見ていてくれた。年賀状を見つめながらその奥に、いろんなものを見つめ、想っている様な眼差しだった。

 これからのモモ子さんは(と)、どういう道を歩んでいくだろう。今までモモ子さん一人、シャンシャンと歩いて頑張ってきた分の生きることの重さが、並んで歩く様になった分、ずっしりとこちらにも響く。そんな中でも、「モモ子さ〜ん、リポビタン買ってきたよ〜」と直生君とモモ子さんがいつもの感じで居ると安心する。今、モモ子さんに言葉をもらうよりも、モモ子さんの生き様や伝えようとしてくれていたものは何なのかをイメージすることが、とにかく鍵になる気がする。モモ子さん(を始め今まで教え支えてくれた利用者さん達)の情熱をどう自分の中に感じていくのかが問われてくると思う。

 今年度は、私なりに挑戦していきたい。「農」「生きる」「クリエイティブ」と自問自答している。私は健吾さんに突きつけられたり(152号)、モモ子さんの生命力そのものに圧倒されたりしながら、夢とか期待でわくわくしながら、濃い日々を送っている。直生君達と共に、モモ子さん達に負けないようにしっかりと生きていきたい。 
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2017年01月22日

ステージに上がって ★ グループホーム第2 今野 美稀子 【平成29年1月号】

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*銀心會のライブステージに上がる今野さんと元さん

 元さん(仮名)のことを書こうと思う。ただ、元さんをなんと紹介したらいいのか伝えるのは難しい。かなりの認知症と括っても伝わりようがない。入居当初、夜遅くなっても寝ないし、暴れるし、物は壊すわで「薬の処方をお願いするか」という話も出たほどだった。あまり里ではそういう話にはなることはなく、むしろ薬を減らしてもらうのに苦労することが多いので、元さんはかなりの強者ということになるかもしれない。私はそのとき「元さんと出会ってみたい」と薬の処方に反対した。そのひと言で「そうだよね」ということになり、そのまま元さんは夜も大活躍を続けてきた。夜、ガラス窓をどんどんと叩いて、怖がっているのか怒っているのか、そういうこともしばらく続いた。そのうち、元さんの部屋に誰か来ているようで話し声が聞こえるようになった。「ガラスの向こうにいた人たちが入って来たんだね」と皆で話していると、その人数が段々増えてくるようだった。どのくらい増えたのか定かではないが、増えすぎて元さんもたまらなくなったようで、部屋から出てリビングの畳の部屋に逃げてきてそこでしばらく寝ていた。元さんは会話は普通には成り立たない感じなので、はっきりと話してくれる訳ではないのだが、日々の様子はスタッフみんなで共有していた。数ヶ月で、夜部屋に訪れた人たちは帰ってしまったようだった。その後、元さんは夜昼なくグループホーム内を歩いて至る所に放尿して回るようになった。どういう意味があるんだろうかと見守っていると、昼間玄関から外に出てなにか喋ったり叫んだりしている。スタッフが一様に元気のない感じのGH2にあって、「ただひとり頑張ってるのは元さんだね」と理事長が言うぐらいだ。他のグループホームでは、手に負えないから出てくださいと言われることほぼ間違いないくらいの動きのある元さん。私はそんな元さんがとても好きで気なる存在だ。

 去年の3月、酒井さんが中心になって里内にfeelingainという芸術集団を結成した。その勢いで9月頃、特養の交流ホールで銀心會(酒井さん率いる音楽ユニット)ライブを開催した。私は元さんを誘ってそのライブに出かけたのだが、なんと元さんは大盛り上がりで、観客席で立って踊っていたと思ったら、そのまま舞台に上がってしまった。私は止めるわけにもいかず、戸惑ったのだが、結果は元さんのおかげでライブはさらに盛り上がって大感動の締めくくりになったのだった。普段のグループホームでの元さんとは違って、ちゃんと音楽に乗って観客席の皆を盛り上げているのだから驚く。普段の元さんを知らないお客さんはこの場での元さんを見ても認知症のある人だとはわからなかったにちがいない。そのくらいはまっていたのだった。

 そして先日12月4日、交流ホールで再び銀心會ライブが行われた。feelingainの広がりとして職員とスタッフによる絵画の展示会が開催されたが、それに合わせてのライブだった。私はどうしても元さんと参加したくて予定をしっかり組んでいた。ところがその日・・・私がまさかの大遅刻!! 慌てふためいてグループホームに迎えに行くと、元さん本人は悠々とソファでくつろいでいる。急がせる私に「いい、いい」となかなか立ち上がらない元さん。それでもなんとか誘ってやっと特養に着くと丁度ライブは終了したところだった・・・!ショック!前回あんなに盛り上がったのに・・・と悔やんでも悔やみきれない感じでいた。それなのにショックを受けている私の横で元さんはニコニコと周りの人に挨拶している。こんな時は認知症じゃないみたいに振る舞う元さん。
 事務所に捌けていたライブ後の銀心會のメンバーのところに行くと、「なんだ、今ごろ来たのか」と残念がる雰囲気だった。そのとき音響を担当していた伸也さんが、何を思ったか今日のライブの始まりの曲をいきなりかけて、元さんのためのワンステージをスタートしてくれた。歌い終えて精魂果てていた酒井さんも、その曲の勢いに「おい!やるのかよ」と立ち上がった。それからが凄かった。迎え入れてもらった元さんのステージになった。前回も凄かったが前回の比ではなく元さんは燃えていた。酒井さんと二人でテンション高く飛び跳ねながら交流ホールに出ていく!
 私も一緒にそれに加わって参加、これからが本番とばかりライブが始まった。元さんは手拍子をして踊りながら右へ左へ歩き、客席に向かって手招いて盛り上げ、声を張りあげ、最後にはしっかりと挨拶をして締めてくれた。ステージ上での元さんの盛り上がり具合、会場との一体感、元さんに呼応して盛り上がっていく会場。言葉にするのはかなり難しいがすっっっごく良い空間だった!ライブの終わりに合わせるように到着してしまったのもこのためだったのかも・・・というのはこじつけだろうが、主役は遅れて登場ではないけれど、あの時間に着いたこともよかったかな。
 ライブの最後、ニコニコの笑顔のまま元さんが万歳三唱。一回目は元さんひとりで万歳、二回目からは隣にいた私の手を取ってくれて一緒に。これにはメチャクチャ感動してしまった。本当に一緒にステージに立てたんだな、繋がれたな、元さんも私が舞台に上がってきたと認めてくれたのかな。一度目のときは踊って声を張り上げて盛り上げてくれる元さんの後ろをついていくしかなかった私が、今回は元さんと一緒のステージに立って、元さんと一体になって一緒に舞台を作り上げることができた。これまで、グループホームでの生活でも後ろをついていくことしかできなかった私だが、元さんが「おまえも舞台に上がれ、はじけろ、皆と繋がれ」と励ますだけでなく模範を示して、実際手まで引っ張ってくれた。

 前回の通信でつくばの自然生クラブへ行ったときのことを書いた。自然生のホールで打ち合わせも何もしていないのに、入りたい人が入って各々踊って太鼓をたたいて、ひとつのステージが出来上がったときも感じたが、言葉がなくても繋がれる空間、何かをお互いに感じあう空間、その中でそれぞれが自己表現をして個性であふれているのに、それが違和感なくまとまった心地よい場となる空間。そのような場を作ることができる音楽や踊りの力に感動を覚える。
 それはライブなどのステージ上でもだが、日々の暮らしの中でも感じられる。元さんは毎日鼻歌を歌ったり手拍子をしたりしながら廊下を歩いて回る。座っていても自作の歌を歌ったりしている。歌っているということだけではないけれど、改めて考えて気づくのは、元さんにとっては毎日がライブで毎日ステージに上がっているんだなぁということだ。銀心會ライブのときは元さんに引っ張ってもらって、私もそのステージに上がり一緒の空間で繋がることができたのだが、できれば、日々のステージにも自分から上がって一緒に舞台を作りたいと思う。一人舞台でも折れずに毎日続けてくれている元さんの強さがすごい。その強さに甘えず一緒に頑張って繋がれる場を作っていけたらと思う。
 1月3日、毎年恒例の権現様(神楽)が里に来る前にグループホーム第1、第2のメンバーが全員集まった場で、舞踏家の太田さんが即興で踊ってくれた。その前に一曲お願いしたときは乗ってくれなかった元さんが、太田さんに誘われると一緒に前に出て行って踊ってくれた。他の人達も踊ったり手拍子したり、ウトウトと寝ている人もいたが、そんな人も含めてひとつの場になっている空間がそこにあった。元さんに盛り上げてもらうのではなく、元さんと一緒に、皆と自分も一緒にステージに上がることで繋がっていきたい。私が自らステージに立つことで皆と一層繋がれる場が作れたらいいな。
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2017年01月21日

迷子の私と芳晴さんとの出会い 〜これまでとこれからの導きの灯〜 ★ 特養すばる 千枝 悠久 【平成29年1月号】

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*ユニットでやりとりする千枝とツナさん

 ここ数か月、私はまたしても迷子になってしまっていた。何にどう手をつけたらよいかわからない。暗い夜の海を、溺れそうになりながらも夢中で泳いでいるような、そんな日々だった。ユニットすばるで、別れと出会いがあった。
 寒さが段々と厳しくなってきたある日の朝、ツナさん(仮名)が入院先の病院で亡くなっていた、と連絡を受けた。それを聞いた私は、それをどう受け止めてよいのか分からず、ただ涙を流していた。いつか来ることは分かっていた、でも、それはやっぱりあまりにも唐突で。その日、私は日勤だったため、風に吹かれれば消えてしまいそうな、そんな心持ちで一日をなんとか過ごした。
 その夜、“どこかに出かけないか?”と中屋さんから誘いを受けた。ツナさんのことで文字通り居ても立っても居られなくなっていた私は、すぐに家を飛び出していた。中屋さんの提案で、“観音様”へと向かった。ツナさんの家の近くに、ツナさんがずっと大事にしてきた、その土地の神様である観音堂があった。私も、夏祭りの時などに何度も一緒に訪れていた。観音堂の近くでツナさんの話をしているうちに、涙が溢れるのを止められなくなってきた。「ちょっと、拝んできます」そう言って私は、観音様の前に立った。泣き顔のまま、鼻水垂らしながら、願って祈って、そして誓った。ツナさんの「やってろ!」という声が、聴こえてきた気がした。
 ツナさんは、熱い想いを持った人だった。普段はニコニコと笑顔で、小さい体でお尻歩きでグッ!グッ!とどこまでも行き、“あは〜♪”という擬音がとってもよく似合うかわいらいしいおばあちゃん。だが、その語りにしっかりと耳を傾けてみると、「今は笑って誰も信じないけれど、昔は小豆5升運んだんだ!」悔しそうに涙ながらに語ることや、「オメは人と木っことどっちが偉いと思う?昔は木っこ、今は人!昔は季節の移り変わりがあって・・・」と語ること。観音様の納めの日に行けば「ありがとうございました」深々と畳に頭をつけ、その帰り道に「昔は、観音様の後、お墓にも行ったものだども、今の若い人たちは・・・」その土地や家を懸命に守ってきたということが感じられ、大切なことを伝えようとしてくれているんだと思った。一番印象に残っているのは、亡くなる少し前、すばるスタッフの由実佳さんがお見舞いに訪れた時のこと。“みんな待ってたよ!”と伝えた由実佳さんに、「やってろ!」と答えたというツナさん。その時には、すごくツナさんらしい言葉だな、と思いつつも、あまり考えることはなかった。
 今は、それが由実佳さんを通して伝えた、ツナさんのエールだったように感じられている。すばるの写真を見返すと、由実佳さんの隣にはいつもツナさんが居た。卵焼きを作ったり、お好み焼きを作ったり、料理を作っている時には必ずそばに居て。「あは〜」って笑いながら見てたり、一緒に作ってたり。田植えや稲刈り、花見の時なんかも一緒で。由実佳さんが作ったこびるやお弁当をモシャモシャおいしそうに食べているツナさんが居て。そんな由実佳さんにだからこそ、“これからはお前たちでしっかりやってろ!”という、これからの若い世代へのエールを伝えたのではないか、と思っている。「やってろ!」が、私たちが聞いたツナさんの最期の言葉だった。
 その後の私は、ツナさんの「やってろ!」を胸に、熱い気持ちでがむしゃらに何かを“やろう”とした。けれども、なにも見えてこない。それでも“やろう”と必死になり、ますます見えなくなり・・・。きっと、痛かったのだと思う。でも、そんな痛みも感じられなくなってしまうくらい、必死だったのだと思う。今まで、どれだけツナさんに導いてもらっていたのか、ということを痛感した。
 そして、芳晴さん(仮名)との出会いがあった。ツナさんの部屋が空いたために、そこに入る形ですばるに来た芳晴さん。ショートステイに来ていたこともあったため、“ツナさんとは大分違う感じの人だよなぁ、どうなのかなぁ?”と心配だった。思った通り、この出会いで、私は一度、増々迷子になった。
 すばるに来る前の最後のショートステイのある日のこと。なかなかお風呂に入れていなかった芳晴さんを、お風呂に誘おうとソファーの隣に座ると、「おふくろが亡くなったんだ」と、涙ながらに語り始め、まだまだお風呂どころではない感じ。どこか他人事のように思えなくて、脱衣室に場所を移しつつも話を続けることにした。「おふくろは優しい人だった。俺のこと叩くってことはなかった」「田んぼ90町歩あったったども、全部おふくろにやった!喜んでくれたのはおふくろだけだったよ〜。他の人はああしろこうしろって言ったったども、“うるせー!”って言って」話にどんどん入り込んでいた私は、“おふくろさんだったらお風呂に入ってほしいって言うと思う”と、どうにか芳晴さんのおふくろさんに近づきたい一心で、そのようなことを何度も何度も話していた。
 すると(当然のことなのだが)、「オメさんはおふくろのなんなんだ?オメさんにおふくろは関係ない!」と返してきた芳晴さん。それでも話し続けた私に、「関係ない!」を何度も突き付けてくる。だんだんとイライラしてきた私は、「関係ないってどーゆうことだっっ!!!そっちが(おふくろのことを語って私の心に)入って来たクセに!!!」と怒鳴っていた。我ながら、無茶苦茶な話だと思う。でも、それだけ必死だった。「そっちが入って来たんだろ!!ここは俺の家だ!!出てけーー!!」と返され、「イヤだ!!」と返すと、「死にたいのか?!じゃあ、殺すぞ!!」と。「関係ないって言われるくらいなら、殺された方がマシだ!!」私は芳晴さんに掴み掛っていった。掴み掛っては投げ飛ばされ、それでも何度も掴み掛り・・・。そうしているうちに、芳晴さんの持っているエネルギーを、身を持って感じることができた。
 すばるに来てからの芳晴さんは、お風呂に入ることだけでなく、トイレに誘うことも難しく。そういう時は、私だけではなくスタッフ皆に、「オメさんには関係ない!」と言っていた。芳晴さんと話すとき、私にはお風呂の時のことが思い出され、熱くなりすぎそうになることもあったが、ただただなんとか芳晴さんに喰らいつきたかった。それでたくさん考え、悩み、動き、さんざん迷った。
 そうやって迷っていたある日、私は芳晴さんがほとんど“自慢”をしないことに気がついた。私がデイサービスに居た頃も含めて、今まで出会った男の人達は、その誰もが、自分のしてきた仕事を、さほど自慢げでないことはあるにせよ、語ってくれたものだった。ところが、芳晴さんはそれをほぼ全くといっていいほどしない。自慢できることがないのかと言えば、そんなことは全くなく。仕事においては重要な役割を果たしてきていて、地域においても役を引き受けていて、奥さん曰く「休みの日でも、家にいるってことはなかった」と。なぜそんな人が、自分のしてきたことをほとんど語ろうとしないのだろうか・・・。そう考えた時に、私の中に大きな大きな悔しさが生まれた。芳晴さんの涙と、ツナさんの悔しそうな涙とが重なった。そして、芳晴さんから「こういう仕事は、“良かった、良かった”だけで終わるようではダメだ!」「こういう仕事をやるからには、命懸けでやらねばならない!」と、大切な言葉をもらっていたことも、改めて思い出した。私を導いてくれる熱い想いは、芳晴さんの中にも確かにあった。
 今も芳晴さんは“おふくろ”を求めている。私は今は、芳晴さんの求める“おふくろ”というのはツナさんのことなのではないか、と勝手に思っている。それは、私の希望だ。ツナさんを求めていた私と、“おふくろ”を求めていた芳晴さんが出会ってしまったのだと思う。そうだとするならば、芳晴さんの“おふくろ”は芳晴さん自身の中に確かにある。そして私も、もう迷わない。「やってろ!」を胸に、芳晴さんとの出会いを導きの灯にして、これからもやっていこうと思う。

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2017年01月20日

一年を振り返って 〜多くの出会いと、カレーの場作り力について〜 ★ ワークステージ 佐々木里奈 【平成29年1月号】

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*ワーカーと一緒に和太鼓の練習をする佐々木(左)

 新年1月3日にこの原稿を書いている。振り返ると本当に矢のように過ぎた一年だった。
 個人的には、1月から3月は、前職で県内33市町村のうち25市町村ほど一人で営業に回り、初めて足を踏み入れた市町村も多かった。そんな中で役所の照度と組織の風通しの良さは比例するな!と(勝手に)感じたり、仕事で一緒に組みたいか組みたくないかは割と一瞬でわかるな!と(勝手に)思ったり、学びは多かった。私は元々初対面が相当苦手な人見知りなのだが、やればなんとかなることがわかった(苦手だったプレゼンも準備を重ねれば楽しみになることがわかったし、めんどくさそうな対応をする役所の人にも心折れずに「次いこ!」と思えるようになった)。苦手意識で敬遠している事柄の中にも結構楽しみが隠れていることもあるというのは私にとって大きな発見だった。
 4月から銀河の里に就職してからはさらに怒濤の日々となった。赴任の前だったが、3月には研修に参加し人生で初めて能を観て自国の文化に衝撃を受けた。行きたかった美術展にも行けて「やっぱ東京もいいな」と思ったりした。その後、銀河サロンや銀河セミナー、よりあい広場に参加し、茶道を習い始め、長野の戦没画学生慰霊美術館 無言館に行って、ズドンと重いものを感じた。ブーケレタスを育てる千葉での5日間研修では、栽培の技術や収穫サイクルを学ぶ機会を得た。学会のシンポジウムを聴いて女神の話に感激し、つくばの自然生クラブに出会ってワクワクし、新卒採用のイベントに同行してその大変さを知り、夏には海に行って人との距離が縮まった。ずっとやりたかったさんさ太鼓を初めて叩いて、例大祭で神楽を観て価値あるものがさりげなく身近に在ることに驚き、場のシンポジウムに出て畑は違えど近いことを考えている方々のお話にホクホクして、事例合宿ではあれこれとイメージが誘発させられ、さらに林英哲の太鼓を聴いて、京都の箱庭学会に参加して、自然生の芸術祭で太鼓を叩いて、ついでにJAXAに行けて、はせさん・亜紀さん・小濱さんと銀河の里で太鼓を叩けて演奏も聴けて、12月にはインターンの募集フェアに参加して新しいご縁も生まれて。9か月の間にこんなに色々と経験ができ、グッとくる体験ができて、非常にありがたいと思う。反面、短期的には還元しにくいことばかりで、今後どう銀河の里で活かしていけばよいのか、ごちゃごちゃと考えている。まずはとにかく下手くそでも面白くなくても恥を忍んでとりあえず書くことかなと思っている。書いて、自分の中で整理して、残して、少しでも誰かと共有できる形にする。それから何か生まれると信じて、書き続けようと思う。
 研修以外にも、もちろん銀河の里の中では書ききれないほどの大切なことが日々起こっている。量として書ききれないこともあるし、まだ自分の中で納め切れない出会いもある。特に一緒に過ごしているワークステージの利用者さん達から、教わることがたくさんあり、泣きたくなるほど助けられる時もあるし、日々、自分の課題を突きつけられる。陽の光の下で体を動かす時間もあり、死にたくなるほど時間に追われるわけではないし、メンタル的には割と安定できる環境ではあるのだが、一方で自分の課題と向き合わざるを得ないので、深いところでなかなりハードな職場だと思う。
 納めきれない出会いの一つとして、渦中だが少しだけ私とSくんのことを書く。SくんとKくんがぶつかった時に私が間に入ったことをきっかけに、折に触れてSくんが私を突き飛ばす、という関係が始まった。その行為は他の職員への気持ちの表現の一つではないか、成長過程として必要な行為なのではないか、と見立てを持ちながら今はみているが、なぜそのような関係になったのか考えても正直わからない。これからも彼との関係については丁寧に考えていきたいし、起こることを楽しみにしながら、一緒に過ごしていきたいと思っている。その上で、やはり「なぜ」ということを考えるときに、「何がそうさせるのか」「私が何か悪いことをしたのか」と考えてしまう。そんな時、施設長からこんな話をされた。「彼が、あるいは障害をもつ彼らが、いわれない暴力を受けてきたということの現れなのかもしれない。それは彼らが生活の中で浴びる無遠慮な視線のように無言の暴力かもしれないし、実際に何か言われることもあるのかもしれない。そんな暴力を今も受けているのかもしれない。それが逆転する形で、いわれない暴力をあなたが一時的に受ける立場になった。それに対して、周りのワーカーが、『大丈夫?』と声をかけたり、怒ったりする。そんなことは今までなかった事で、ある意味貴重なことなのでは」と。プロはこんな見方をするのかと震え、少し救われ、同時に大きな課題を突きつけられた瞬間でもあった。
 彼が(彼らが)正当な理由や根拠のない暴力に日頃さらされているとすれば、その問題を解決するのは相当に大きなことだが、今ここで起こっていることを根本的に解決するには、一朝一夕では消えない社会の偏見に立ち向かう必要がある。否、“立ち向かう”という表現は個人的にあまり好きではない。敵ありきの言葉で、どこかむなしい響きを感じる。私の敬愛するマハトマ・ガンディーが貫いた非暴力・不服従の精神に反するような気もする。認め合い、いつのまにか自然に共に在ることが理想的だ。多様な人が認め合い、生きていても良いと思える社会をつくること、田舎でそれを実現することが私個人の人生のミッションではないかとも思っていたりするので、彼らは私の同志というか、仲間のようにも勝手に感じる。その上、ちょっと「変」「変わっている」と思われることが多いSくんについては特に、密かな共感がある。
 私自身、家族や仲の良い友達など、私をよく知っているはずの人であればあるほど、私を「変だ」「よくわからない」「ちょっとおかしい」と評することがあるし、いわれない社会の暴力や無言の圧力で心を抉られることもよくあるからだ。本当なら「私も同じだよ」「あんまり気にしないで、自分らしく頑張ろうぜ」と声をかけたいのだが、今は“突き飛ばされる”関係なので、それを伝えるどころではない。しばらくは(何年かは)この関係が続くのかもしれないけれど、いつかそんなことを伝えられる日が来たらと願っている。
 銀河の里は一見、花巻・幸田の自然豊かな環境で時間がゆっくりと流れるところではあるが、同時にそこは社会の課題と、生々しい利用者の人生と自分の人生とに向き合わざるを得ない状況が渦巻く戦場でもある。里には濃密で刺激的な時間が流れていることは間違いない。他にも、貴重で印象深い出会いはたくさんあるのだが、もう少し先になって紹介できるようにしたいと思う。

 さて、前回の通信で「カレーの場づくり力」について書いた。研修合宿の場は「与贈共同体」ができやすい。与贈共同体を実感する機会として優れている。さらに様々な研修でカレーを作ってきて、場を作るのはカレーなのではないか、チームビルディングにおいてカレーは有用であると感じている(与増とは、「自分があげた」という事から自分の名前が消えるようなあげ方のこと。与贈が増えると、居場所に〈いのち〉の与贈循環が生成し、生活体が共に生きていく「与贈共同体」ができる)。
 長野合宿でカレーを作り、事例検討合宿でカレーを作り、つくば合宿でもカレーを作ってきて、私はつくづくカレーのすばらしさを感じた。一つ例に出すとすれば、つくば合宿でのこと。そこには「与贈」があふれていた。それぞれが居場所〈場〉のために与贈し、場の〈いのち〉が生成していたように感じられた。キッチンに立ったのは陽子さん(WS)と今野さん(GH2)だ。年少組だが二人とも効率よくテキパキと工程を進める。手際も良く、それぞれの部署の中核である二人が言葉少なに相手の動きを見ながら必要な動きを判断し、スムーズな分担をしながら作業を進める姿はさすがだなぁと惚れ惚れする。合宿の場はかやぶき屋根の民家で、その近くに住むこの民家の管理人でもある長坂先生(立教大教授)も合宿に参加された。先生の隣で火を起こす補助をしながらお話をしているのは万里栄さん(TYほくと)だ。先生との距離を縮めたのは万里栄さんだったと思う。さすがのコミュ力で二人の会話は途切れることがない。実に適材適所だ。一方では庭から、ブゥーンと草刈機の音。上下つなぎの長靴完全防備の戸來さんが庭の伸びた草刈りをしている。ちょっと周辺整備もお願いします・・・と言われて全く手を抜かない。礼儀に厚く、いつでも追うべき姿を背中で示してくれる、さすがの副施設長だ。酒井さんも草刈り隊に参加した後、みんなにビールをついで回って、「おっ、おつかれさん!」と声をかけて回って、全員に気を配り、本当にお父ちゃんみたいだ。「これ風呂湧くかな?」なんて他の人が気付きにくいところにも先回りして目が行くのも、さすがユニットを引っ張るリーダーだ。赤坂さんは食器を準備したり、テーブルの準備をしたり、誰も見ていない地味なところでものすごくいい働きをしている。チームがチームとして成り立っているのは赤坂さんのように、いつのまにか必要なことをしてくれている人がいるからなのだと思う。今年の4月から銀河の里のメンバーに加わる舞踏家の太田さんは鎌を使わず素手で草を刈っている。この場の生き物の一つとしてそこにいたいのかな、草木に遠慮してるのかな、と想像しながらその姿を見ていた。草を刈っているのか踊っているのかわからない動きに味があって、なんだか勝手に嬉しくなった。
 私はというと、調理に動いてもかえって邪魔してるかなと思い、草刈りしても大して役に立たないなと思って、なんだか全然役に立てねぇな!と思いつつ、みなさん各々の働きと全体の動きを見ながらただただ感動するばかりだった。
 もちろん食べる時も「カレーが場を作る」重要な時間だ。作る、というより、そこに「場」が現れてくると言ったほうが正しいのかもしれない。これからも機会をみてみんなとカレーの時間を共有したい。皆さん今年もカレー、作りましょうね!

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2017年01月19日

2017年の仕事初め ★ 次年度内定者 太田 直史 【平成29年1月号】

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*1月2日に花巻市の胡四王神社の蘇民祭に参加した太田さん

 謹んで新春のご挨拶を申し上げます。今年の春から、私も「里の人」となります。これまでにも幾度か里に滞在しましたが、グループホーム第1をはじめとする皆さんの一方ならぬお世話になっており、改めまして感謝申し上げます。
 さて、年明けの2日、ご近所の胡四王神社にて開催されました蘇民祭に参加して参りました。胡四王さんは古くから花巻に鎮座ましますお社で、言うなれば、この土地の主のような神さまです。この北の地に、先祖代々生まれては死んでいった肉体たちに順繰りに宿りながら、不滅の燈明のように受け継がれていった「地霊」のようなもの、この土地の魂のようなものを私は思い浮かべます。それは、目には見えない大切な守り神なのでしょう。
 私は、これから花巻の地に移り住むに当たって、まずは土地の神さまへのご挨拶が不可欠と考え、蘇民祭に加えて頂きました。山上に参集する「裸参り連」の一員として、餅つき・水垢離・神事の数々をお勤めさせて頂きました。それから、もう一つとても重要なことですが、今後お仲間となる銀河の里の全ての皆さんの平安無事を、陰ながら祈願させてもらいました。
 どうやら、胡四王さんは、よそから移住する私を、北の大地に住まう人群れの新参者の一人として、受け入れて下さったようです。荒くれの若衆たちに入り混じり蘇民袋の争奪戦にも加わりましたが、怪我一つ負わず無事にお祭りを終えることができました。私は胡四王さんの護符を頂戴し、銀河の里にはお土産として「蘇民将来」のお札を持ち帰りました。ご利益あらたかな守護符だと信じます。勝手ながら、これを里での舞踏家としての「初仕事」と私は思っています。

 舞踏する者として里の営みに加わることの意味を、重ねて考えます。自分の肉体をどのように役立てることができるでしょうか。障害のある方々やお年寄り、スタッフの皆さんの日々の暮らしの中に舞踏を組み込んでゆくならば、どのような結果を生むことでしょう。例えば、歩行困難な方が自力歩行できるようになったり、隠れた笑顔を再び輝かせたり、私にお手伝いできることがあるでしょうか。皆さんに寄り添って、一緒にこの肉体を働かせたい・・・。舞踏家として負うべき使命に想いを巡らせるのは、夢に満ちた楽しいことです。
きっと、先輩の皆さんが培ってこられた豊かな経験にお助け頂くことになるでしょう。非力ですが、体を張って真摯にチャレンジを重ねる覚悟であり、何卒宜しくお願い申し上げます。
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2017年01月18日

ユニットケア研修を終えて 〜里の現場から生まれて来るもの〜 ★ 副施設長 戸來 淳博 【平成29年1月号】


【はじめに】
 銀河の里の特別養護老人ホームが開設し、もうすぐ7年が経過する。開設に伴い、ユニットケアリーダー研修に参加し、昨年12月には東京で行われたユニットケア管理者研修に参加してきた。ユニット型の施設を運営するにあたり、管理者とユニットリーダーに、この研修の受講が義務づけられている。
 かつて特養をはじめ入所施設は、50床、100床といった大型建物で、入浴や食事などのケアを一斉に行う集団ケアが主流だった。しかし近年(H18年あたりから)、開設される事業の殆どの施設は、小規模なハードになり、ユニットという10名以下の小さい生活単位に職員を配置し、個別にケアを提供しようという考えが主流となった。現場では「集団ケアから個別ケアへ」とよく言われている。
 銀河の里は、H13年に9名定員のグループホームと10名定員のデイサービスから始まっており、個別ケアの視点は当たり前の感覚であった。しかし受講が必須なこともあり、今までにリーダー研修に6名、管理者研修に1名が参加している。
 里で発行している「あまのがわ通信」に、研修の感想を掲載したこともあった。あまのがわ通信の記事や写真は、紙媒体で発行している他、インターネット版(ブログ)としてネット上でも掲載している。たまに(個人を特定できない名前ではあるが)読者の投稿があり、やり取りすることもある。
 ブログの管理画面では、それぞれの記事の閲覧数や検索ワードがわかるのだが「ユニットケア」「ユニットケアリーダー研修」などのワードの検索が多く、個別ケア、ユニットケアの注目度は高いようである。全国では、多くのユニットケアの研修が開催されているが、まだまだ多くの現場では、戸惑い、模索中のようなのでユニットケアについて書いてみたいと思う。


【ユニットケア研修を振り返る】
 昨年12月5日〜7日の3日間、東京のユニットケア管理者研修に参加した感想から。
 
 研修では、ユニットケアの実践をする「根拠」を求められる。その根拠となるものが「ユニット型特別養護老人ホームの基本方針並びに設備及び運営に関する基準」の条項33条を基に「暮らしの継続」を理念に据え、「1日の暮らし」をケアの視点として研修は進んでいく。具体的には、手法として、「少人数ケア体制をつくる」「自分の住まいと思えるような環境をつくる(ハード)」「今までの暮らしを続けてもらえるような暮らしをつくる(ソフト)」「24時間の暮らしを保証する仕組みをつくる(システム)」4つの大項目が上げられ、それぞれについて講義とグループワークを中心に研修は進んでいく。そして最後に、自施設の現状をチェック項目で確認し、実施できていない項目についての実施計画を立てて研修は終わる。
 それぞれのチェック項目は、ケアの現場に入れば基本的なことであって、殊更特別なことではないと思った。「24時間シートの活用」「8時間夜勤の導入」「ユニットに職員を固定する」「物には役割と意味がある(折り紙は飾らない)」「(居室に)持ち込み家具を置く」などのポイントが上げられ、○×で確認していく。そして具体的な方法を教えてくれるので、頭に入ってきやすい。しかし講義を受けているうちにいつの間にか、個々の意図や意味は失われ、これをやればユニットケアが出来る、という単純な思考に陥りそうになっていることに気づいてハッとする。研修では具体的、かつ効率的に教えようとしているのだろうが、何だか、コンビニか、それともファストフード店の開店講座でも受けている気持ちになってしまう。

 ポイントについて、少し振り返りながら、その意図や意味を考えてみたい。

(折り紙飾りは置かない)
 高齢者施設では色紙や折り紙で壁を装飾している風景をよく見かける。春には桜の木、秋には紅葉の山々を模して装飾したり、みずき団子や鏡餅など切り絵で作られていたりすることがある。保育園など、子供の施設でよく見かける風景でもある。ユニットケアではこれをやめ、季節の花木をいけたり、絵画を飾ったり、本物で設えをしていこうということらしい。言いたいことはわからないではないが、たとえ造花や折り紙であったとしても、そこに入居者の思いやそれぞれの関係性から生まれたものが込められていれば大切な物となる。それを一律にダメと決めつけてしまうのは教条的過ぎるのではないだろうか。本物であれ作り物であれ、そこに宿る思いや物語をくみ取らなければ個別のケアは意味が無い。

(持ち込み家具を置く)
 研修では、特養の入居は、施設への入所ではなく引っ越しだと言う。新たな居住の場には慣れ親しんだものや趣味の道具や嗜好品、装飾品を持ち込み、部屋作りをしようと言うのだ。引っ越しと言われると、私もあれやこれやと思い浮かぶ。「PCとネットワーク環境は必要かな・・・情報を得たり、DVDで映画も観れるか。お気に入りのソファを持ち込んで、コーヒーミルすりたてのドリップコーヒーを飲みたい・・・」等など、どういう暮らしをしたいのか、そして作っていきたいのか考えることが出来る。具体的にある引っ越しならば、こういった視点は欠かせないだろうと思う。
 しかし、そうするのがユニットケアと言われると、現場の現実とはかけ離れていて疑問を感じる。入居は本人の意思とは違う場合がほとんどだ。病気や老い、家族環境の変化などの事情で在宅での生活が難しくなり、人生の運命と折り合いをつけるような形で入居になる場合が多いと思う。また、認知症によって時間や場所、関係を自在に行き来し、時空を超えて生きている方も少なくない。新しい引っ越し先どころか、今はない実家だったり、廃村になったかつての村だったりもする。家というよりも職場、学校、温泉といった認識になっている場合も多い。「一方的に引っ越しですよ」「新しいあなたの住むところですよ」というのは、ほとんど施設に監禁したのと変わらないほどの暴力になりかねない。
 実際に特養の入居者のYさんは、入居5年の間に一度も、持ち込んだ衣類や荷物の荷解きをせず、段ボールを重ねたまま、日々過ごしている。一緒に荷解きをしても、「すぐに出ていくから」と言って再びしまい込んでしまう。自分の部屋は「仮の住まい」と話し、日々ユニットから事務所、玄関の行き来をしている。どこ行って来たの?と聞くと「向こうの川の方まで行って来た」と話し、どこ行くの?と聞くと「向こうの部屋で魚焼いてたから加減見てくる」と出掛けていく。Yさんは、自分が少女の頃お転婆をして過ごした山林や、子育てや家事に専念していた頃など、時代や空間を超えて生きている。車いすをゆっくり走らせ、時々物思いに耽るように目を閉じてうっすら微笑みながら、夢見心地な表情で行き来している。ユニットから玄関、外までの道のりは、Yさんにとって内的世界と現実とを繋ぐ道のりのようだ。
 常識的な現実に張り付き、突きつけ、個々の持つ豊かなイメージを壊してしまうのではなく、それぞれの持つその豊かな世界を受け止め、できればその中に共に生きることが求められる。それぞれの人生は環境だけで作り上げられるのではなくて、個々の心象の中にもある。そして、人生の高齢期には老いや疾病、障害とどう折り合いをつけるのか、また、やがて来たる死とどう向き合うのかが、重要なテーマになってくると思う。環境を整え、何不自由のないケアが整えば、施設が家になり、暮らしの場になるというのは、あまりに人間存在そのものに対して浅薄すぎないだろうか。

(24時間の暮らしを保障する)
 個別に24時間の日課表をつくり、個人の生活スタイルを把握する。基本は「食べて」「出して」「寝る」が出来れば暮らしは成り立つという。何らかの障害で切れ切れになった生活に支援を入れ繋ぎなおし、24時間の生活を成り立たせるということらしい。
 「食べる(食事)」「出す(排泄)」「寝る(睡眠)」の支援をしっかりやれば何とかなる!と力説されると怪しい啓発セミナーにいるような感覚になってくる。
 講義では24時間シートという書式を用い、入居者の24時間行動パターンを把握し、それをユニット毎に一覧化、勤務体制をそれに合わせて作成し、ケアに当たるという内容だ。個人の24時間の生活スタイルを一覧化し、必要な支援を明確化して、改めてユニットの24時間を一元化・一覧化することで、必要な時間帯に必要な職員を置くなど工夫し、効率よくケアを提供するという訳だ。
 現場の限られた人員でケアを提供するには、ある程度合理的で効率的な運営が求められる。また集団ケアの現場ではぶつ切れだった生活行為が、24時間の暮らしの視点が持たれることで、個人の生活の流れが意識できることは個別ケアの重要な視点だと思う。そして個々人に対してどういうケアが必要か(ケアの対象)という問いから、この人はどういう暮らしがしたいのか(生活者)という問いが変わっていくのもいいと思う。銀河の里でも、新チームの立ち上げ時や新人スタッフに、業務の整理や入居者への興味関心を高めるために24時間シートを活用することもある。
 しかし、その程度のことで一人の人間の暮らしがわかるものだろうか。ましてや「食べて」「出して」「寝る」という行為を保障するのは基本的なことではあっても、それだけに特化されてしまうと、それは果たして「暮らし」と言えるのだろうか。ただ生かされているように感じてしまう。
 暮らしはもっと豊かで多種多様な事象の中で継続されていくものだと思う。生活行為に込められた思いがあるだろうし、環境、習慣、思想・宗教、無意識の影響を受けながら、暮らしは作り上げられていく。そして24時間に縛られることなく過去から未来へと繋がっているし、未来からあの世へさえも、繋がっているかもしれない。その日の気分やその日の出会い、あるいは天気によって今の暮らしは変化していくフレキシブルな面も大いにある。人の暮らしは24時間に限定もされないしパターンのみで生きているわけでもないだろう。

 集団ケアの主流から、入居者目線の時代に変えていこうという情熱も確かに伝わってくる。厚生省お墨付きの研修機関として全国の施設のトップモデルとなってきたのだから相当の苦労もあるだろう。これまでの現場の意識を変え、ユニットケアの考えを普及させていくには、マニュアル化とこうしたフランチャイズ式の研修でHow-Toで伝えていく必要もあるのだろう。
 しかし、内容は表面の事象しか捉えられておらず、人間の人生の物語、老いや死、障害などの普遍的なテーマについては一切触れられないのはとても残念に思う。生きた人間と限りなく身近に接することのできる我々現場の専門性はそうしたところにこそ発揮されるべきではないだろうか。誰もがわかっているはずなのに、いつも人間の内面がそっくり無いものとなってしまうのは、我々の無意識の中にそうした暴力性が潜んでいるということなのかもしれない。


【じゃ、どうすればいいんだ〜!!】

 答えはない。ないのだからマニュアルに頼ったり、システムで割り切ったりせず、人間が生身で簡単に答えを出さずに向き合い続けるということほど大切なことはないように感じる。

(銀河の里の現場から見えて来るモノ)
 世間の福祉の研修に出ると強く感じるのだが、銀河の里では、人生の物語が入居者個人のものとしてだけで捉えるのではなく、現場のスタッフや入居者同士の関係性のダイナミズムとして捉えている点が、一つ大きな特徴だと思う。そう捉えると、ケアの場は介護作業を超えて、入居者やスタッフの出会いの場、世代を継ぐ場ともなり、多様な意味をもたらす場となっていく。
 理事長が言う「介護禁止!」「ケアは世界と繋がったり触れあう入り口、通路」「銀河の里は人材訓練の場!」などは理解しにくいが、現場の感動はそんなところから生まれているのは確かだ。

 特養の入居者Kさんは、今年100歳を迎える。入居以前は他施設のショートステイを利用していたが、夜間に吐血し、救急搬送されて入院。状態は回復したのだが、在宅に戻ることも難しくなり、元のショートでは救急対応が困難と断られ、銀河の里にやってきた。当初は看取りが前提の受け入れだったが、入居から4年、今も元気に暮らしている。
 詩吟の師範だったKさんは、ユニットのスタッフ数名に声を掛け詩吟会を発足させた。稽古のおかげでスタッフも各一曲吟じられるようになり、Kさんのお弟子さんたちに混じって詩吟発表会までやった。その後の継続は難しかったようで、Kさんの許しも得て銀河の里の詩吟の会は解散した。ただスタッフの千枝さんは継続し、詩吟の有段試験を受けるなど、二人は師匠と弟子の関係を継続してる。千枝さんは、単純に詩吟を受け継ぐということを超えて、Kさんが語る言葉や詩吟に掛けた思い、生きてきた人生に関心があるのだと思う。詩吟は二人を繋ぐ通路なのだと思う。
 また、Kさんは、自宅の庭木を特養の中庭に移植したいと、一昨年から少しずつユニットスタッフが御家族の協力も得て移植作業を行ってきた。Kさんにとって人生を共に歩んできた木々を傍らに置きたいという思い、それを銀河の里の若いスタッフに継ぎたいという願いと、次の世代に地域や社会の未来を託そうとするKさんの強い意志を感じる。

 近年、時代の変化に伴い、世代と世代の接点の場は少なくなりつつある。家や地域、伝統芸能や職人の世界・・・この継承や伝承は型や技を伝えると同時に、思想や宗教性といったことも次世代に継いで繋げていたのかもしれない。そういった場や時代ニーズも失われてしまった現代だが、そんな中で、銀河の里は、世代と世代が繋がり、そこで何かを託し託される場になっている感じがあるのは、なにかの可能性を信じたくなる。ユニットケアはそういう可能性を秘めているのかもしれない。

【おわりに】
 ケアマネが作成するサービス計画書も、ユニットケアの24時間シートも、いわゆるケアの指示書であり、利用者・家族との契約書となっている。要介護者に、いつどんなケアが必要で、誰が行うのか、計画書には記載される。それを基に現場スタッフがケアを提供する。もちろん銀河の里でも作成しているものの、あまりそれにとらわれすぎない方がいいように感じてきた。指示書が提示されたとたん、入居者はケアの対象となり、我々はケアの提供者となってしまう。
 銀河の里では、指示書ではなくスタッフ個々のモチベーションでケアが成り立っていっていると思う。一緒に居る人、一緒に暮らす人として、入居者の一番近くで共に生きているスタッフが「何をしたいか」「何をうけとったか」という相互関係が一番大事だと思う。もちろん必要な決まり事やマニュアルもあるが、それを超えて個々のスタッフと入居者の関係とその出会いを大切にしていきたい。
 銀河の里では開設当初から、利用者とのプロセスを事例としてまとめながら、検討会やケース会議を行ってきた。ここに銀河の里の全てがあると言ってもいいくらいだ。銀河の里でやりたいのは、人間の探求であり、生きることの探求なのだと思う。それこそがケアの本質であると思っている。そこにこそ現場の面白さがあるし、仕事を通じた醍醐味、深み、専門性があると思う。
 福祉の制度や施策、研修システムなど、現状は変わらないのかもしれないが、現場から誰かが新たな視点で問いかけ人間の探求をしていかなければ、介護業界は3Kと嫌われ、現場は介護工場から抜け出せないだろう。

**高齢者部門:クリスマスの様子(行事食)**
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2016年12月02日

家族とともに 〜私を支える居場所〜 ★ 特養北斗 佐藤万里栄 【平成28年11月号】


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 繁さん(仮名)と出会ったのは4年前のことだった。私はグループホームから特別養護老人ホームに移ったばかりの頃で、右も左もわからない私を父親のような存在感で支えてくれた。
 若い頃、国立競技場を作るのに駆り出されたりして、腕の確かな大工さんだった繁さん。どっしり構えてユニットを見守っている繁さんの姿は大きな山のようで、慌ただしく過ぎていく特養の毎日の中での、私にとって心の拠りどころだった。「ヒロ、ケン坊、がんばってらか〜」と斜め上をながめて孫さん達を応援していたり、背格好が似ているスタッフを「ケン坊♪」と呼んで笑ったり。娘さんの名前を呼んでいる時に、女性スタッフが娘になって「どうしたの〜?」と返事をすると「こんな時間に出かけちゃだめだ〜」とお父さんの一面を見せてくれたりもした。ある時には大工の親方らしく「この建物は建てて何年だ?いい家だなぁ」と語ったり、「この柱なんだ!こんな仕事じゃだめだ!」とテーブルの脚をたたいて強度を確かめたり。繁さんの中には、まだまだたくさんの仕事が残っていた。

 ある日、「家に帰る!」と車イスを乗り捨てて立ち上がり、スタッフに支えられて一歩一歩しっかりと踏みしめ歩いていく繁さん。私は、繁さんの、身体を超えた途方もない「家」と「家族」への思いを感じた。
今年9月の誕生日に「欲しいものある?」と聞くと「いっぱいあるよ」と言う。「一つ教えて」と頼むと「自分の家」と教えてくれた。繁さんは昔、自分の家を建てようと木材を集めていたそうだ。私はその言葉を聞いて「誕生日には繁さんの家を作ろう!!」と決めた。
 「どんな家が良い?」と聞くと、ある日は「二階建ての…白い家。屋根は黄色」、またある日は「ドアが4つ、窓が12個」といろいろプランがあるようだった。私は悩んだ末に、粘土で家を作ることにした。そして誕生日の当日、私は粘土の家を、ユニットスタッフの勝浦さんと洸樹くんはお菓子の家を作ることにした。
お菓子と粘土の家では大工の繁さんに怒られるのでは…とちょっとドキドキ…だった。最初は鋭い目つきで、私たちが悪戦苦闘しながら各々の家を組み立てていく様子を見ていた。私たち人足の現場の仕事ぶりを大工の棟梁の繁さんが監督している感覚になった。言葉がないのが余計に緊張感をもたらせた。繁さんも修行時代、こうして親方の視線を感じて家を建てたのだろうと思った。
 私の家はその日の内には完成をみなかったけれど、まず先にお菓子の家が完成した。繁さんは「嬉しいよ」「ありがとう」ととても良い表情で言ってくれた。その上、自分の誕生日なのに「皆で食べろ!」と振る舞ってくれた。ひとつの家の完成を皆で喜ぼうとする姿勢に、私は、繁さんの中にある「家」の存在の大きさをしみじみと感じた。

 10月に入ってから繁さんは足の血色が悪くなり、一度大きな病院に入院した。医療管理の面から考えて、そのまま病院でターミナルを迎える話もあったが、家族さんが「ぜひ銀河の里に戻りたい」と言ってくださった。そして10月12日にユニットに戻り、看取りをすることになった。寝たきりになった繁さんではあったが、ユニットの大黒柱として、言葉やしぐさを通じて、その存在感は全く変わらなかった。
 娘さんご夫婦やご家族の方々が毎日面会に来られ、「今日はどうですか?」「何かしゃべってらっけ」「さっき起きて手が動いてたよー」と繁さんのさまざまな話題で盛り上がり、周りは家族さんやユニットスタッフで、明かりが灯ったようだった。
 繁さんはお孫さんが大好きだった。そのお孫さん二人も長期休暇をとって東京などから面会に来られた。お二人に協力してもらい、繁さんは久しぶりに入浴することも出来た。孫さん達が小さいころは繁さんとお風呂に入っていたという。「おじいさんの入れる風呂は熱くて入り難かった」という孫さんならではのエピソードも教えてくれたりして、ほのぼのとしたいい時間を過ごすことができた。

 ターミナル期に入って繁さんは、「家」や「家族」を自分で引き寄せてユニットの中に作り上げていた。それはとても自然な形をしていて、いつの間にか私はユニットに居ながらにして繁さんの「家」に入れてもらっているような感じさえした。繁さんは、特養に入居しながらも「家」や「家族」を傍にしっかり感じていたと思う。
 体力は衰え、身体も弱っていくのだが、そんな身体を抱えながら、繁さんは何一つ手放そうとしなかった。日が経つにつれて言葉が出なくなっても、家族さんや私たちの問いかけには微かな身体の動きなどで反応してくれる。そこに繁さんの感情の動きを確かに感じた。いつも仕事をしているようで、両手は天をかき集めるようにして動かし、忙しそうだった。「上手くいった?」と聞くと、にんまりと返してくれることもあった。たまに頭の後ろに手を回したり、腕組みをしたりして悩んだようなポーズもとっていた。上手くいかないこともあったようだ。
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2016年11月30日

場のシンポジウムに参加して 〜おせっかいと図々しさが世界を救う〜 ★ ワークステージ 佐々木里奈 【平成28年11月号】

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 東京で行われた“場のシンポジウム”に参加してきた。シンポジウムには「与贈を巡る<身体>と<経済> 〜新しい医療と経営を支える共存在原理〜」というタイトルがついている。失礼ながら、シンポジウムやパネルディスカッションと名の付くものに対して、個人的にはあまり期待がないのだが、“場のシンポジウム”ではかなり興味深いお話を聞かせていただいた。3名の方が登壇されたのだが、そのお話の内容はどれも銀河の里の想いに共通するものがあるように感じて、今回私を誘ってくれたケアマネの板垣さんとホカホカしながら帰ってきた。せっかくなのでその概要を紹介しようと思うのだが、その前に一つ、エピソードを紹介したい。

 理事長から聞いた話なのだが、利用者Aさんと利用者Bさんには不思議な関係があったらしい。Aさんはいろんなものを買ってくる。Bさんは認知症もあり、Aさんが買ってきたものを持っていってしまう。するとAさんは怒って「なくなった」とまた違うものを買ってくる。するとまたBさんが持っていき、Aさんは「またなくなった」と怒ってまた新しいものを買ってくると、またBさんが…と、まるで無限再生のようだったらしい。Aさんは持っていかれるために買っているようでもあるし、Bさんは新しいものが買えるようにと持っていくようでもある。これは二人のコミュニケーションのようでもあるが、むしろそこには「“私”が買う」とか「“私”が持っていく」という自我があるのではなく、その“場”を協働して成り立たせているような感じを受けた。
 シンポジウムを主催した場の研究所所長であり東京大学名誉教授の清水博先生のお話の中心概念である「与贈」と、上記のエピソードとは、かなり近いところを言わんとしているのではないかと思う。「贈与」は自分の名前を付けて何かを贈ることを指す。そうではなく「与贈」とは、「自分があげた」という事から自分の名前が消えるようなあげ方、贈り方のこと。言い換えれば、居場所のために〈いのち〉を使うこと、と清水先生は定義されている。AさんとBさんの、買ってきて、持っていって…ということも、その“場”のための〈与贈〉だったのではないだろうか。そのことを共有するために、〈与贈〉〈いのち〉そして〈生活体(生きていくもの)〉に関して、もう少し清水先生のお話を詳しく紹介したい。
 清水先生の生活体(生きていくもの)に関する仮説は次の通りである。(1)生命は存在しない。存在しているのは〈いのち〉=存在を維持しようとする能動的なはたらきである(つまり、これは外から見た状態のこと)。/(2)生活体は〈いのち〉を生み出しつつ、その能動的なはたらきによって存在していく。/(3)生活体には、生み出した〈いのち〉を、自己が存在する居場所に与贈する与贈主体がある。/(4)複数の生活体から居場所に与贈された〈いのち〉のはたらきが一定の閾値を超えると、〈いのち〉の自己組成がおきて居場所の〈いのち〉が生成する。
 みんなが居場所に与贈していき、場の与贈がどんどん増えていくと、コップから水が溢れるように今度は居場所から〈いのち〉が生まれ、居場所のほうからみんなに対して与贈があり、それが循環するということだ。音楽の場に例えられていたのがわかりやすい。演奏の場というのは〈いのち〉の自己組成が生まれてくる場である。ギタリストやドラマー、ピアニスト、歌い手それぞれが与贈し、あるいはその場にいるオーディエンスも与贈することで、その場の空気がまたそれぞれを包み、幸せな気分にさせてくれる。それがまた場を作っていくという循環が起きていると言える。
 このように、与贈が多いとき生活体の〈いのち〉のはたらき(鍵)と居場所の〈いのち〉のはたらき(鍵穴)が相互誘導合致(お互いがお互いに影響し影響され合って変化)して整合的につながることにより、居場所に〈いのち〉の与贈循環が生成し、生活体が共に生きていく「与贈共同体」が生まれる。つまり、先の例によれば、演奏の場におけるミュージシャンたちとオーディエンスは「与贈共同体」と言える。

 少し話がずれるが、先日つくば研修に参加する機会を得た。自然生クラブで起きたこと、そこに生まれたものは、まさに与贈共同体だったのだと振り返って思う。自然生クラブは、障がい者支援をしながら芸術活動に取り組むNPO法人で、その拠点には太鼓や舞がいつでもできるよう米蔵を改装したスタジオがある。自然生クラブの柳瀬さんが、「ギター持ってきてる? じゃあ、スタジオ、使ってください!」と言い、龍太狼さんがギターを持って歌い出し、柳瀬さんも私も自然生の利用者さんもスタッフも太鼓を叩き、太田さん(来年度から里のスタッフになる舞踏家)が踊り出し、自然生の利用者さんも踊り出す。そこには自分の名前を付けた贈与などなかった。ただ、各々が、やりたいことを、やりたくてやった。そういうところに“場”は生まれ、〈いのち〉が生まれてくるのだろう(その時の様子の一部は銀河の里Facebookの投稿で覗くことができる。映像で伝わるものには限界があるが、ぜひご覧いただきたい)。
 ちなみに、研修合宿の場は与贈共同体ができやすい。与贈共同体を実感する機会として優れていると思う。普段はあまり話すことの少ないメンバーが集まって、行動を共にする。長野合宿でみんなでカレーを作り、事例検討合宿でカレーを作り、つくば合宿でもカレーを作って、場を作るのはカレーなのではないかとも思い始めている。チームビルディングにおけるカレーの有用性についてはまた別の機会に論じようと思う。

 さて、与贈共同体や場ということを考えたときに、今、銀河の里の状況はどうなんだろうか(もちろん入社して一年も経たない自分がそんなことを考えることや語ること自体おこがましいと重々承知だが、これからの里の一翼を担いたいという気概だけはあるのでどうかご寛恕いただきたい)。理事長が「良い線を行っているとは思うが…まとまってない」「死んでる」と言われるのを、わかるようでわからないような、うーむ、どういうことなのか…と考えあぐねていたが、もしや言いたかったのは、清水先生の定義を借りて言えば、与贈が足りない、〈いのち〉がない、ということなのではないだろうか。つまり、「自分があげた」ということから自分の名前が消えるようなあげ方で、銀河の里という場に与贈している主体はいるのだが、それが少ないために、〈いのち〉の生成がされず、与贈している少数の主体から与贈が続いてなんとか居場所としてあり続けている状態、ということなんだろうか…ということを考えた。そうなると、なんとなく言わんとすることはわかる気もする。
 しかし、銀河の里は多くの利用者さんと職員の暮らしの場であるのだが、同時に、一応“仕事をする”場でもあることを考えるとなかなか難しい。そもそも私たちを大きく取り巻いているのは、民主主義、資本主義、貨幣経済であるし、実際にご飯を食べるためのお金をもらいながら「与贈なんですけどね」というのもなんだか具合が悪いし、経営者の立場で考えれば、「与贈をしてもらっているわけですが、その与贈の度合いは適正な評価に応じて還元します」というのもなかなか苦しい。生物学の原理に基づいて、新しい意味を生み出す企業になるにはどうすればよいか。組織内の、あるいは組織と地域の与贈循環を強めて、自己の存在を回復するような場所の構築には何が必要なのだろうか。

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 そこでヒントになるのが、東京・西国分寺にある、成長を続けるカフェ「クルミドコーヒー」のオーナー、影山さんのお話だった。クルミドコーヒーは、実は4〜5年前くらいから行ってみたかったところだった。宮城県石巻市でキッチン&カフェの立ち上げに関わったとき、上司が「クルミドコーヒー」に研修に通っていて、話に聞いていた。そんなご縁とタイミングもあり、行くことができた。西国分寺駅歩いてすぐのところに、クルミドコーヒーはある。駅は近いがそんなに騒がしくなく、住宅街も近くにあってまず立地が好い。外観もさることながら、内装もまさにおとぎ話に出てきそうな雰囲気。こだわりや哲学を感じる細部にも感動させられた。
 影山さんのお話の中で具体的に一つ例に出されたのは、クルミドコーヒーではポイントカードをやらない、という話。なぜかというと、ポイントカードは消費者的な人格、ふるまいを引き出してしまうから、だそうだ。消費者的な人格も、逆に受贈者的な人格も誰しもが持っていて、ただどちらの関係で付き合うかということを考えていることで、クルミドコーヒーの場ができているのではないかと影山さんはおっしゃっていた。なるほど確かにそうである。清水先生が「死ぬときに人は完全な与贈を行うことができる」とつぶやいたように、完全な徹底した与贈を行おうと考えると大変だし、与贈だけを行う人間にならなくてもよいのだ。ただ場として、生きた場を創造するには、それを引き出す“仕掛け”が必要だ。クルミドコーヒーで言えば、手間暇かけて労力惜しまずに多くの人が関わって作られた建物や内装がその一つであるし、スタッフが手間を惜しまずお客さんへ様々なメニューを提供する「マゾ企画」と呼ばれるものもそうだ(例えば、ある従業員がモーニング提供のため毎日深夜2時出社でパンを焼く…!など)。若者言葉で言えば、ムダにデカいとか、ムダに綺麗とか、「ムダに○○する」という遊びの中に、成長の余白が生まれたり、新しい意味が生まれたりするのだと思う。その他の“仕掛け”で言えば、クルミドコーヒーでは事業計画を作ることを辞めたそうだ。事業計画を作るとつまらなくなるし、お客様を手段化しがちになる(お客さんが入ってきた瞬間、1000円札に見える)からだそうだ。これは、銀河の里も部分的に実践している(?)。ただし、資金繰りは綿密に計画した上で、また8〜9割の基幹となる事業部分、太い木の幹はしっかりと育てながら、残りの1〜2割の空白にどう枝葉を伸ばしていくかが、生命力の満ちた場になるためのポイントだそうだ。
 “仕組み”に頼るつもりはないが、ワークステージでも生きた場を創造するための“仕掛け”はドンドンつくっていきたい。職員や利用者を手段化しないことを意識しながら、綿密な見立てをした上で、それを超えて起こってくることを真面目に楽しんでいきたい。
 消費者的な人格を引き出さない場に育っていくために必要なのは、与贈せよ、と呼びかけるのではない。まずはその太い木の幹が必要だ。東大病院の医師でもう一人の登壇者の稲葉さんがおっしゃっていたが、植物の木の幹というのは、そのほとんど全てが死んだ植物細胞でできているそうだ。死をしっかりと受け止めて、受け取りながら生きていくことが、枝葉を伸ばすには不可欠なのだ。特に震災後の東北・岩手には、受け取ってきた一人ひとりの死がある。銀河の里には、受け取ってきた一人ひとりの人生があり、死がある。これから枝葉を伸ばすのは、私たちだ。

 クルミドコーヒーの出発点も、弟さんの死であると影山さんはお話してくださった。その影山さんのお話の中でもう一つだけ、地域通貨「よろず」について紹介したい。詳しくはグーグル先生にお聞きいただくとして、簡単に言えば通帳式の地域通貨「よろず」は、何かをしてあげたときにはプラス、何かをしてもらった時にはマイナスが付いていく。例えば草刈りボランティアをした人の通帳には「よろず」が溜まり、草刈りをしてもらった地主さんは通帳の「よろず」がマイナスになるという具合だ。そうしていくと、人に何かをやってもらうだけの人、マイナスだけが溜まっていく人がいるのではないか、という懸念がある。返せないほどの借金まみれになることをどう考えるか、という問題だ。しかし、マイナスの「よろず」は、単なるマイナスではない。誰かにプラスをあげている、誰かに働きの機会をあげているということでもあるから、それはそれで良いのだというのが結論である。

 誰かに何かをしてもらうのって、結構イヤだったりする。気が引ける。自分のことは自分でやりたいし、借りを作るのはイヤだ。何かをお願いしてやってもらったりするのは面倒くさいから、できることなら自分でやってしまったほうが楽だ、と思ってしまう。でも、その交換で生まれる価値がある。おせっかいな人はだいたい優しい。図々しい人は面倒だけど、たまにその図々しさに救われることがあるし、誰かのために何かをしたり、誰かの手伝いをしようと思ってすることも、やってみれば意外と自分が楽しかったり自分のためになることが多かったりする。今の時代、それが分かっていても、苦手だったり億劫だったりする人が増えているのだと思う(自分も含め)。図々しい人、おせっかいな人が“場”の生成のキーパーソンだ。前の例で触れた自然生クラブで起きたことも、いい意味で皆が少しずつ図々しさを発揮したおかげで生まれた〈いのち〉だったのだ。
 おせっかいな人と図々しい人が、組織を救う。地域を救う。世界を救う。ギャグSFの話ではなく、今ここの現実の話だ。与贈をめぐる経済についてはまだ課題が残るし、企業内の与贈とその評価に関しても結論は出ていない。自分が先陣を切って、思い切っておせっかいに図々しくなるにはちょっと勇気がないが(否、実は無自覚にすでにそうなれていたりするのかもしれないが)、まずは、おせっかいな人と図々しい人を大切にするところから始めよう。
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2016年11月29日

自然生クラブに行って 〜自然な生活と自己表現〜 ★ グループホーム第2 今野美稀子 【平成28年11月号】

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 10月29、30日、茨城県つくば市の『特定非営利活動法人 自然生クラブ』にお邪魔した。筑波山の麓に構える自然生クラブは農業と芸術、カフェの運営など様々なことを行っている。筑波と言えば研究学園都市のイメージが強く、自然生への道中も研究施設がずらっと立ち並ぶ道を車で走った。しかし一本脇道に入ると雰囲気は一転、両側が塀に囲まれ、対向車とすれ違うのも一苦労(むしろすれ違えない)という路地になる。敷地に庭木が植えられた立派な昔ながらのお屋敷、というような家がいくつも見られ、そこかしこの家の庭にミカンやカリンなどの木が植えられていた。岩手ではあまり見られない風景に目を奪われる。
 筑波山への参道「つくば道」に入り少し行くと、右手にカラフルな鳥の弾幕が垂れ下がった建物が見える。ここが自然生が運営するカフェ「ソレイユ」らしい。すごいインパクト!ここを目的地としていなくても思わず足を止めてしまうに違いないと思いつつ中へ入る。定員は30〜40人くらいだろうか、4人掛けのテーブルが並び、壁には自然生の人たちが制作したであろう絵画。居心地が良く楽しい空間だった。大抵のお客さんは身内らしく、そのとき店内にいた客もボランティアに来ているというボランティア団体の方たち8人ほど。そのテーブルに(教えてもらうまで意識できなかった程)何の違和感もなく一人紛れ込んでいる方、水を運んでくれる係らしい壁際で待機している方、お客さんのように悠々と入ってきてお茶を頼む方、全員が雰囲気に溶け込んでいて、自然にそこにいる感じ。

 そのカフェの裏に向かうと米蔵を買い取って改装したという「田井ミュージアム」があった。米蔵らしい少し薄暗い空間、手前にはアトリエ、奥にはシアターが作られている。アトリエではちょうど「中島教授の妖怪展」が開かれており、「中島教授」の描いた妖怪の絵がずらっと並んでいた。中島教授は怪奇研究家で自称・妖怪学教授だそうで、数回ミステリーツアーも開催したそうだ。こういう個人が主役になれる企画があるととても楽しそう。白いキャンバスに描かれた作品だったり、周辺の写真に描き込まれた作品だったり。中島教授はこの写真のように身の回りにいる妖怪と当たり前に共存しているんだろうなあ。とてもリアリティが感じられてワクワクする。「妖怪アパート」(だった気がする)という作品にはさまざまな妖怪が描かれていたが、「ウニ食いてー」なんて言っている妖怪も居れば「脱原発じゃ」と言っている妖怪も居て、妖怪にまで思案されている日本の問題を考えさせられる。その絵を描いた中島教授の感性もすごい!

 シアターには入口両側に段をつけて作られた客席と立派な照明機材。奥には翌日の田楽舞のための太鼓が並んでいた。翌日の前座で酒井も歌わせてもらうことになり、そのリハーサルと称してシアターを使わせてもらう。酒井がギターを弾いていると自然生の人たちも一人、また一人と入ってきた。そのまますーっと奥の太鼓の方へ行き座る人、客席に来て自然と里スタッフ赤坂の隣にスペースを開けず腰を下ろす女の子、最上段まで駆け上がり聞いている男の子、いつの間にか照明をいじってくれる自然生スタッフの方。ただ座っているだけなのかと思えば良いタイミングで太鼓を打ち始める人、佐々木(里)も加わり、即興のステージが出来上がる。酒井が終わると太田のステージも始まった。
 踊りに合わせて太鼓を打っているのか、太鼓に合わせて踊っているのか…照明も切り替わり踊っている太田にスポットが当たった。激しい太鼓と踊りと。途中、一番前の椅子に座っていた男性を太田が誘った。何かその男性に感じるものがあったのだろう(その方はいつもソロで踊ることもある方だったらしい)。その人はゆっくり立ち上がり、ゆっくりと靴下を脱いで、ゆっくりと舞台に上がってきた。どっしりと構えて動くその人と小刻みに動く太田、時折静止し睨み合うように視線が合う。暗い中、激しく鳴る太鼓の音と二人のダンス。
 語彙力が乏しいことが残念だが、鳥肌が立つくらい、とにかくすごい!その二人のダンスが終わると一人の男性が舞台に上がった。太鼓の音もない舞台で静かにゆっくりと踊り始める。フィニッシュは後ろを向き股の間から頭を出す状態で終わり、その恰好で柳瀬さんと握手をしていて笑ってしまったが、その人は普段は全く踊ったことはない人だったらしい。「何があるかわからないから毎日気が抜けない」と楽しそうに話す柳瀬さんが印象的だった。だからこそ、自然生では「リハーサル」も「練習」もないという。毎回、毎日が本番で全員が主役なのだろう。本当にリハーサルなんかじゃなくひとつのステージとして出来上がった空間だった。すべてひっくるめてすごい!うわーっと見ているこちらも内から湧き上がってくる感じ。
 翌日の田楽舞でもしっかりとした型のないステージで、4人の踊り手がそれぞれ感じるままに動き太鼓が鳴り響く。しかしそれがしっくりときて一つの作品になっている感じに感動した。型がなく一人ひとりの個性が出せるからこその良い舞台で、作ろうと頑張っても作れるものじゃない、あの舞台を作りたい。
 自然生で感じたのが、すべてが繋がってすべてひっくるめて一つの生活になっているイメージだった。生活の中に農業も芸術も太鼓もあって、それぞれが切れ切れになっていない。現在の社会の中では、太鼓を打つと言ってもそれが日常生活と繋がっている人なんてそうそういない。太鼓に限らず、仕事は仕事、趣味は趣味などとさまざまなものが切れ切れの中で私たちは生活している気がする。それがすべて繋がって、農業や自然、芸術とも共生している生活。その中でこそ、太鼓やアートを通して表現できる自己というものも大きいかもしれない。型に縛られないから多大に自己が表現でき、それぞれの自己同士がぶつかりあうからこそ一つの作品としてすごいものが完成するのだろうか。

 以前「てあわせ」の西先生がグループホーム第2にいらっしゃったときに、利用者がそれぞれ動いているがそれで一つの空間として完成しているようだというようなことを言っていたことを思い出す。てあわせ自体、他人を感じつつも自分も主張していくようなイメージで動く。そう考えるととても腑に落ちた。
現在里でも太鼓を通じてのワーカーさんの自己表現の場としてワークショップを行っているが、まだまだそのときだけのものになっている。もちろんその場での太鼓の表現がそれぞれあっておもしろいが、日常的に太鼓に触れ、好きなように好きなときに自分を見せてくれるような場の構築をしていきたいと思う。
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