あの世とこの世と私を繋ぐ場所 ★ デイサービス 米澤 里美 【2016年新年特大号】


 私は1年6ヶ月の産前・産後・育児休暇を経て、昨年12月にデイサービスに復帰した。5歳と3歳、1歳になる子どもを育てながらの仕事は大変ではあるけれど、時間や日数を考慮してのママ勤務をさせてもらっている。復帰して改めて驚くのは、認知症の方々の、ありのままの心で私を見てくれているまなざしと、場を繋ぐ力だ。復帰して早一ヶ月、その間に起きたエピソードを綴ってみたい。

 復帰の2ヶ月前にデイサービスを久しぶりに訪れた。すると、月子さん(仮名)が泣きながら私の元にやってきた。私の肩を叩きながら、「あなたが来てくれてよかった。あなたがいなくても私たちやってきたの。来てくれて安心したよ。大丈夫だね」と涙を流して語ってくれた。ときどき里の行事に来て月子さんをお見かけしていたが、直接担当したことはなかったし、まして、デイサービスに復帰になることもまだ公にはなっていない時期だった。そこは認知症の人は不思議で、月子さんの心はちゃんと何かをキャッチして私を迎え入れてくれていた。

 娘の1歳の誕生日の翌日、私は職場復帰初日を迎えた。デイサービスに入ると、清次さん(仮名)がそわそわと歩いたり、グループホームに行ってキーボードを弾いていた。流暢な指使いで「シバの女王」を弾きながら、「俺、大丈夫だべか〜。帰れるべか〜」と不安がっている。指と口のそのギャップが滑稽で可笑しくて、思わず大笑いしてしまう。清次さんは幼少の頃からピアノを習って、かつては木管奏者だったという。私はフルートを吹くことを伝えると、「フルート生演奏聞きたいですっ!」と、凄い勢いで詰め寄ってきた。理事長から譲り受けたフルートと楽譜がGH2においてある事を伝えると、「行きましょう!」と私の背中をグイグイと押して、GH2に向かった。玄関を開けると、懐かしい暖かさと独特の照明。利用者さんやスタッフ、そしてしばらく眠っていたフルートと久しぶりの再会を果たし、演奏を楽しんでいた。そのあと私はデイサービスに戻ったのだが、清次さんはデイホールに入らず、GH1へ行ってしまった。
 私も後を追いかけて行くと、ちょうど貴久子さん(仮名)の101歳の誕生日パーティ・茶碗蒸の会が始まっていた。貴久子さんは看取りの段階を迎えていて、もう何日も水しか飲んでいない状態だった。本当の誕生日は12日だったが、誕生日までもたないかもしれないという危惧もあって、9日の誕生会開催となった。
 GH1に入ると、♪我は海の子〜♪を歌っているところだった。貴久子さんはこの曲が大好きでよく歌っていたのを思い出した。私はフルートで即席に伴奏を担当した。するとそれまで目をつむっていた貴久子さんが目を開けて、みんなの歌を聴いてくれていた。

 貴久子さんはその後、自分が逝く日を予言して、身近なスタッフに感謝の言葉を伝え、誕生日前日に旅立たれた。人が死に逝く時の事は、想像しても到底わからないけれど、しっかり関係者を集め、別れの挨拶をして旅立つなんてすごい。100歳を生ききった貴久子さんの最期の見事さに魅せられた。
 デイの利用者の秀夫さん(仮名)は、私と同じ地域に住むご近所で、デイでひさしぶりの再会だった。秀夫さんは半身不随となり車椅子生活をしている。週に一度の利用なのだが、私の復帰初日は秀夫さんの利用日だった。涙ながらに再会を喜んでくれて私も胸が熱くなった。秀夫さんは、私の父が去年の夏に突然亡くなった事を気にかけ、その後の私たちの暮らしを心配してくれていた。秀夫さんは、父との思い出話を語ってくれた。秀夫さんが公民館長をしていたころ、新しい長テーブルを数本購入した際、父が筆で公民館名を各テーブルに書いたそうだ。筆まめな所を褒めてくれて、今度その字を見てみるといい、と伝えてくれた。

 今年になって、その秀夫さんと八雲神社に初詣に行った。秀夫さんは「迷惑かけるぐらいなら行かないじゃ」と言うのだが、秀夫さんは昔から八雲神社の講中をしていて神社と縁があったので、私が一緒に行きたくて誘った。スタッフの脇山と利用者の達夫さん(仮名)、そしてサカさん(仮名)と、秀夫さんの車椅子を押して神社までの急な坂道を登る。この時は、降り積もった雪も氷も溶けて、午前中に降っていた雪もやんで、寒いながらも快晴で、私たちがお参りできるように天気が整えてくれたようだった。しんっと静まりかえった境内に、立派な杉の大木が何本もある。銀河の里と目と鼻の先の八雲神社、境内は突然の異空間、さすが神様のいるところだ。そこで、手を合わせて拝んで、とても清々しい気持ちになった。達夫さんは、他の方の車椅子を押したり上げたりと全面的にサポートしてくれた。サカさんは「行ってきたもんね」と目が輝いていた。秀夫さんは「とっても良かったよ。世話になったよ」と晴れ晴れした表情でみんなに挨拶してくれた。
 秀夫さんのカバンを持ちながら、ふと亡き祖父の香りがよぎった。祖父は6年前に亡くなったのだが、祖父も最期は半身不随になり車椅子生活だった。その祖父と秀夫さんが重なり、なんだか一緒に初詣に行ったような感覚になった。
 月子さんは私の隣家が実家で、会うたびに私の母の名前で私を呼ぶ。「いや、娘の里美です」と返すと「ワハハ!見る度にそっくりだ!」がデイサービスでの毎度の朝の挨拶になっている。月子さんは、私の顔を見ると、祖父の幼い頃の話を毎度話してくれる。「オメのおじいさんは、いっつも寝坊助で、家まで、起きろー!!って怒られてる声が聞けだったじゃぁ。父さんは、おじいさんが起きているのに、起きろ〜!って叫んでいるときもあるっけしよ〜」という笑い話。今はご先祖さまとなった祖父と曾祖父の昔話をデイサービスで聞けるとは、なんともありがたく面白い。

 亡き家族と私を、デイサービスの場が繋げてくれる。当たり前だけど、人は死に向かって生きている。死を迎えるからにはやりたいことをやって生きていきたい。今ここに集ったわたしとあなたで、今日が紡がれていくデイサービス。ワクワク感じる心を道しるべに歩んでいきたい。
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龍太狼節 〜パンクロッカーのつぶやき〜 「流れ」 ★ 特別養護老人ホーム  酒井隆太郎 【2016年新年特大号】

今年も終わった、そして、また始まった。ありきたりだな。最高にベタだな。(笑)
本題、流れ。

2015年、大晦日。俺、歌う介護士、龍太狼。銀河の里に出勤。
2016年の4月で銀河の里、7年目になりまああああす。よくやったああああ。40歳。
皆様には、毎年大変ご迷惑をおかけいたしましたが、なんとかやってまああす。(笑)
ごめんなさあああああい。(笑)
今日は夜勤でやんす。とりあえず無事に今年も終わった。
俺なりにさ、本当にほっとする感じでやんすよお。(笑)
マジでさ、本当に今年、終わったああああああああ?(笑)いや、終わったっすねえ。
誰が何と言おうと、終わったっすねえ。
終わったんでやんす。この現実をしっかりと受け止めねえとならないでやんす。

なあんとなくじゃあなしに、自然に流れるがままに、自然に流されるがままに。何もかも根こそぎとってしまう流れ、心までも奪い取ってしまう激流や、ゆっくりとした、まるで聖母マリアの優しい両手に包まれるような流れや、いろいろな流れが、まあたくさんあったなあ。
言い過ぎかあ?(笑)
あああ、そうだなあ、それでもさ、流れが止まることあ決してなかったなああ。
ありがたかったああ。
いやああ、んでもさ、流れが止まらないぶんさ、マジで厳しかったし、辛かったし、楽しかったし、嬉しかったし、と、やっぱりさ、いろいろな感情や気持ちがあったからさ、本気で自分自身を出せた1年だったんじゃねえかなあ。(笑)
本当に止まることなく必ず、流れ続けてたなああ。本当にありがたかったなああ。
ああ、何が言いてえかってな。
こうやって自然に流れ続けることが、毎日、毎年できること、何もかも銀河の里の利用者のお陰様ですなあ。

ありがたい。本当にありがたい。
あなた、わかる? これを読んでるあなた、わかりますかああああ?(笑)

わからない人、俺に直々に聞きに来てくださいなあ。(笑)
ちゃああああんと、丁重に、お話いたしますよおお。(笑)
ああ、間違いなく俺は、わかるよおお。(笑)
そこの現場に俺は確実にいたからねええ。

そうなんだよお、利用者がいるからこそ、毎日、銀河の里は流れ続けるんだよおお。
成功だろうが、失敗だろうが、チャンスだろうが、ピンチだろうが、危機的状況だろうが、ワンサイドゲームでの勝利だろうが、まあいろいろあるんじゃねえの。確かに確実に流れるんだよおお。そして俺達も、流れる、流される。
特養だろうが、グループホームだろうが、デイサービスだろうが、ワークだろうが、間違いなく確実に銀河の里であるから。

そして、その流れによって、銀河の里での自分の立場や役割というものが、少しずつ感じたりわかったりすることもあった。流れを巻き起こすのは、確実に利用者にあると感じていた。
そして流れることに、感謝してえよ。感謝しなきゃなんねえのよ。
まあ、それが俺達の、人生なんじゃねえの。そんな感じもする。
んで、人間なんじゃねえの。俺は、勝手にそう感じさせていただきましたあ。
利用者がいなかったら毎日こうやって自然に流れることなど絶対にできねえんだよおお。
そして、流れることで、流されることで、たくさんのこと感じることができるんだよ。
それが、本当の何かなんじゃねえのかと感じたり。それが、流れだったり。

んじゃあ、俺達銀河の里だけが、流れて進めばいいのかあ?
俺が、俺だけが進めばいいのかあ?
いや、、、、まずはさ、さっきも言ったが利用者が、俺達と関わってどう進んだかなんだよなあ。
極端な話しさ、本当に極端な話しさ、俺達、銀河の里も全然、全く進まなくたっていいんだよな。
自分のために、家族のために進んで、必死になって突き進んで行くのは、間違いなく利用者なんだよおお。だから、流れるんだよ。流されるんだよ。

利用者の進んで行くスピードは、流れるスピードは、本当に光りのように速い。時に見失うこともある、俺達の知らない所に行ってしまうこともある。そのスピードに俺達は、ついて行くのには、いっぱいいっぱいだ。だけど、見失おうが、ついて行けなかろうが、俺達は諦めてしまっては絶対にいけないことだ。
ついていく心や気持ちが大切じゃなかろうか。何もできないかもしれない、なあんにもならないかもしれない、だけど、ついていく、やろうとする、心、気持ちが一番大切で大事じゃなかろうか。
当然これも、流れだったり。

人間、何かをすることは、本当に勇気のいることだ、もっとたくさんの感情や気持ちがわきおこる、利用者も勇気をふりしぼったり、たくさんの感情や気持ちを全て出しながら、自分の人生と逃げずに向き合っている。だから、俺も逃げないでいたい。諦めたくない。
最低限のことしかできないと思うが、やらないよりマシだ。
俺自身も流れたい。流れてみたい。光りのスピードじゃなくても。

2015年、音も、歌も、たくさんやらせてもらった。それは、利用者がいたからだ。
利用者の流れがあったからできたことだ。
共に、生きていたからだし、たとえ亡くなっても流れの中でしっかりと繋がっていたからかもしれない。そんな感じがする。

中途半端に終わってしまうかもしれないが、無様に負け犬になってしまうかもしれないが、俺は、進まなくたって、立ち止まっていたって、全く構わない、だだし、利用者のスピードについていけるのであれば、利用者が、確実に自分の人生に進むのであれば、俺は必ず何かをしたい。俺のできることを全力でやりたい。
全力で流れたい。全力で流されたい。
それが、音であり、歌である。俺も、流れる。流される。歌う介護士と、さっきも言ったが、そうである。俺は、歌う介護士、龍太狼である。

今年も、全力でやらせていただく。音と歌。
最後まで、やらせていただく。最後まで、流れ続けます。流され続けます。
全ての利用者のために、銀河の里のために、
人間として、全ての人間のために。

流れは、決して勝手に流れるものではない。
人間と人間が必ずどこかで繋がっているからこそ流れるのであって。それは、あの世とこの世の繋がりも少なからずあると感じている。自分勝手の感情や行動だけで、決して流れはおこらないと感じる。
利用者も、銀河の里の働いているスタッフも、あの世に逝った神々も、みんな一緒なのだと感じる。そう、繋がっているから。

全てがどこかで繋がっているから、どこでどう繋がっているかなどわからいないけど。
後になったら、わかると信じてる。信じていたい。
だけど、確実に繋がっていると感じていたい。
流れているからこそ。流されるからこそ。
今年も、利用者と共に、そして銀河の里と共に俺は、流れて行く。何処に行き着くのだろうか。
楽しみだ、期待感だ、可能性だ、それだけじゃねえ、不安だ、迷う、恐怖もあるだろう。
たくさんあるよ。
だけど、今年も間違いなく流れるさ。流されるさ。自然に流れるさ。歌う介護士がこんな適当文章書いて、なあんにもわかりゃしないだろお。(笑)ごめんなさい。
だからさ、頼むから、俺のLIVE見に来てくれよ。聴きに来てくれよ。俺のLIVEでも一緒に流れてくれよ。流されてくれよお。
俺、ぶっ倒れるまで、利用者のこと歌うからよ。(笑)

あとね、2016年。龍太狼 CDを制作いたします。(笑)
きっちり制作させていただきますので、ご期待くだされええええええええ。
全て、銀河の里の流れでござる。

夜勤明けで、嫁と息子、娘達は嫁の実家に里帰りし、俺は一人、元日決戦のサッカー天皇杯を、うたた寝しながら見て、夕方に酒を呑みながら書いた文章でやんす。
適当で本当に、ごめんなさい。(笑)

さあ、明日は、遅番だああああ。
やるっ!!!!!!!!!
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2016年06月12日

フミさんに会いに 〜神奈川へ〜 ★特別養護老人ホーム 角津田美香 【2016年新年特大号】


昨年の11月下旬、神奈川県のフミさん(仮名)のご家族の元へ伺った。フミさんは以前、銀河の里の特養に入居されていた方だ。一昨年の11月に101歳で亡くなられた後も、フミさんの娘さんと里との手紙等を通じたやりとりがあり、そのご縁で今回、副施設長と共にお宅を訪問させていただくこととなった。

 フミさんは特養のユニット『ほくと』を利用されていた。おしゃれで、よく笑い、食べることがお好きな方だった。お若い頃はとても働き者で、一人で4〜5反歩もの田んぼの田植えや稲刈り(もちろん手作業で!)をしていたと聞いたことがある。小柄なフミさんからは想像しがたい逸話だ。特養に来てからは、スタッフがする畑仕事やおやつ作りを見てくれていた。ドタバタしたり、ゆったり流れていく日常の中で、ふと気付くとフミさんのまなざしがあった。こちらの話に、いつも「ぐっふっふ〜」と肩で笑ってくれたことが印象深い。
フミさんが亡くなる前の日に、『ほくと』ではフミさんのためにと餅つきをしていた。テラスの外の餅つきの様子が見えるよう、リビングの窓の前までフミさんのベッドを移動した。ご家族も来里され、フミさんに寄り添うようにその景色を眺めていらした。「お祭りみたいでしたね」と娘の優子さん(仮名)がおっしゃった。フミさんは横になったままで、もうほとんど眠っているような状態だったと思うが、いつものようなにぎやかな空気を感じてくれていただろうか。フミさんも車椅子に座りながら、スタッフと一緒に杵を振り上げて餅つきをしたこともある。餅つきはフミさんとの思い出の一つだった。だから、神奈川のご家族へのお土産には、里で穫れた新米のもち米も持って行こうと決めていた。

 フミさんは特養に入居する以前は、花巻で生活していた。毎年冬になると、優子さんご家族が暮らす神奈川県のお家を訪れ、寒い間は一緒に過ごされていたそうだ。しかし90代半ばになった頃、フミさんは怪我をして花巻に帰ることが難しくなってしまった。それでも『花巻へ帰りたい』というフミさんの思いを聞いたご家族が、花巻のお家にも近い銀河の里への入居を考え、ついにフミさんは故郷へ帰ることとなる。特養に入居してから、スタッフが付き添ってフミさんの花巻のお家を訪れたこともあった。フミさんにとっては、長年暮らしてきた花巻の家も、娘さん達と過ごした神奈川の家も、どちらも思い入れのある大切な居場所だっただろう。ご家族が特養に持って来てくださった写真に、入居する前のお若いフミさんを見かけたことがあった。柔らかさの中に、どこかきりっとした芯のようなものを感じるフミさんのお顔。ご家族や愛犬と共にいるフミさんはいつも笑顔だった。

 フミさんのお宅では、優子さんご夫婦から温かく出迎えていただいた。お家に上がり間もなく、優子さんが「ちょっと、こっち」と中を案内され、フミさんが生前に使っていたお部屋を見せてくださった。「日当たりが良くって、ここにこたつを置いてね……」と、室内を歩きながら、明るい声で教えてくださる優子さん。フミさんが、今でもこたつに入ってうとうとしているように感じられた。2階にあるフミさんのお部屋。フミさんが特養に入居する前にお宅を訪れた理事長と副施設長が、初めてフミさんにお目にかかったのがお部屋から下りる階段だったそうだ。その当時既に90歳半ばのフミさんの、元気なお姿と笑顔が浮かぶ。

リビングでは、優子さんがフミさんの写真を見せてくださった。写真の中のフミさんは黒髪で、首元にピンクのスカーフを巻いている。お孫さんからそのスカーフをプレゼントされた際、記念にと撮った1枚だったそうだ。お化粧もしていたのだろうか、つやっとしたお肌で微笑んでいた。まだ銀河の里に来る前のフミさんだったが、また会えた、と思った。私は「フミさん、お久しぶりです」と小さく声を掛けた。
「これね、今朝お餅をついて、作ってみたの」と優子さんが草餅を出してくださった。ご自分で手作りされたとのお話に、里のもち米を持って来て良かった、と思った。もうフミさんと餅つきは出来なくても、自分たちで育てたお米をフミさんのご家族に使っていただけるのなら、なんだかそれでつながれる気がした。「私が小さい頃は、母がこれよりももっと大きい草餅を作ってくれたの」と優子さん。(優子さんの草餅も全く小さくはなかったが、)その時私はフミさんの手が思い浮かんだ。平たい手のひらに長い指。小さな体に比べて、フミさんの手は大きかったなぁと思い出す。あの大きな手で、娘さん達に大きなおやつを作っていたんだなぁ。おにぎりなんかも大きかったのかも……(『ほくと』にいる頃は、フミさんは“作る”よりも“食べる(味見という名目のつまみ食い)”や“見ていてくれる”ことがほとんどで、フミさんの手で何かを作ってもらうことはあまりなかったのだった)。田植えも、稲刈りも、あの手を使ってどんなことでもしていたのだろう。何でも包み込む大きな手だった。

 「(フミさんが)家に一人で居る時もね、自分でセリとか、ヨモギなんかを摘みに出掛けていたの」という優子さんからのお話しに驚く。「一人でこっちに来る時、自分で新幹線に乗って、降りる駅で私と待ち合わせしていたんだけど、時間になっても来ないの。心配で駅員さんに聞いたりしていたら、次の便に乗って来てね。ひと駅間違えたって自分で気づいたのね」90歳を過ぎてからのフミさんの行動力は、すごいですとしか言いようがない。ふと、『ほくと』にいた頃にフミさんが言った「何にもできねじゃ〜」という言葉が浮かんだ。一人で何でもやってきたフミさん。晩年も“生きる”ことと向き合っていたフミさんの、あの言葉は叫びのようにも感じた。フミさんの101年間の人生。想像することしかできないけれど、その大きさを思うと今も胸が苦しくなる。
 「葬儀の日と、私たちが帰る日、虹が出ていたのよね。よく見たら、銀河さんの方からだったの!『お父さん、銀河さんから虹が出てるよ!』って言ってね、帰る前に皆で見たのよ」と優子さんが教えてくださった。101年の人生を終えて、フミさんは何を思っただろう。ご家族が見たのは、空に映し出されたフミさんの思いだったのだろうか。夢みたいな話、こちらの都合が良すぎるけれど、そうであってほしい。ご家族の優しさに、こちらが救われてしまうようだった。

 優子さんご夫婦と、写真の中のフミさんにお礼をして、お宅の外へ出る。フミさんはもういないのだけれど、ただ今そこにいないだけで(どこかに出掛けているとか)、また会えるような気がした。いや、ずっといてくれるのかもしれない、こちらの気持ち次第で……。ぼんやりとそんなことを考えていると、「これ、車に積めるかしら」と優子さんが大きな鉢植えのポインセチアを持って来てくださった。フミさんは、お庭の草取りも一人でこなしてしまっていたそうだ。フミさんが手入れしていたお庭のお花。「入るなら、持って行って!」と、全部で四つの鉢植えを頂いてしまった。フミさんから優子さんへと受け継がれたお庭の一部を譲って頂いた気持ちがした。さらに、優子さんの草餅もお土産にと持たせていただいた。こちらとしても、銀河の里のりんごや餅米を贈らせていただいたのだが、その何倍もご家族から頂いてしまうことになった。

 優子さんから頂いたポインセチアは、『ほくと』で元気に葉を伸ばしている。「またいらしてください。こっちに来た時は、寄っていってね」と言ってくださった優子さんご夫婦。その人がここにはいなくなっても残っている、誰かとのつながりや思いを、今後も大切にしていきたい。優子さんご夫婦、そしてフミさん、ありがとうございました。


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2016年06月11日

里での私の6年間(畑、田んぼのこと)★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2016年新年特大号】

 1年目、“種蒔きに来ませんか?”里で農業をやっているということは聞いていたし、その意味もなんとなく聞いていた。しかし、具体的なイメージは何も持っていないままだった私に、誘いの声が掛かった。“やったことないことだし、面白そう!”軽い気持ちで稲の種蒔きを手伝うことにした。
 “もう、たくさん!”種蒔きを始めて15分くらいで、そう思い始めていた。土の入った苗箱を機械に入れていくだけの単純作業。“土の上に立ち、額に汗して稼ぐ”そんな私の甘ったるい幻想は見事に打ち砕かれた。機械に合わせなきゃないから、緊張して変な汗が出てきたし!産業革命クソ喰らえ!農業の近代化なんて大嫌いだ〜〜〜〜〜!である。
 やる気を無くしながらも、機械に合わせていたら、“種って見たことありますか?”当時WSにいたスタッフの哲哉さんから声が掛かった。“ここから芽が出て、ここが栄養になって・・・”(ごめんなさい、細かい説明覚えていません)丁寧に説明してくれた。この種から苗ができて、それが何箱もあって、それらが稲穂になり、また種ができて・・・・・。そんなことを考えていたら、私の目の前に、黄金の海原が広がった。地平線の彼方まで続く稲穂の海。命に関わっているのだということを、それで実感した。そうしてやっと、私の中で幻想と現実とが手を握り合った。種蒔きを終えてから、これは金色の海に至るまでのごくわずかな一部分に過ぎないのだ、ということを強く思った。

 1年目から4年目まで私にとっての里の田んぼは、そういう大きな流れのなかの大切な一部分としてあり続けた。だから、たまに田のことを手伝ったり、見に行ったりすることがとても大切な時間だった。ところが、畑については、すぐにはそうならなかった。手伝うのと、自分が中心となってやるのとでは大違いだ。
 3年目に、DSとGH1の間にある畑をやってみないかと声が掛かった。まったくできる気がしなかった。畑仕事未経験で、何にどう手をつけてよいのかも全くわからない。GH1にいた勝巳さんの見よう見まねで、ちょこちょこ手伝うのがやっと。DSで植えようと決めたモロヘイヤすら、世話の仕方がわからない!何も知らない、何もできない自分に何度も出会ったし、それを本当に情けなく思った時もあった。

 それでも続けられたのは、畑の中で足掻いていたら、そこから生まれてきたものがたくさんあったからだ。WSボランティアのヒロさんは、朝夕の送迎車のなかで、私の畑でのドタバタ話を面白がって聞き、アドバイスをくれた。看護師の畠山さんは、DSでの細々と仕事をこなしながらも、いつも畑のことを気にかけてくれていた。GH1にたまに行くと、「今朝、畑頑張ってらっけね〜、ごくろうさん!」と声をかけてくれるタケノさん(仮名)。黒澤家に収穫物を持って行けば、「千枝さんは期待すればなんかやってくれるから、期待することにする!」と言ってもらった。トミさん(仮名)は、「いいから黙って掘って来〜〜〜い!」ちょっと厳しい姉みたいな。時子さん(仮名)は、いつもおしゃれにしていてそんなイメージ全然なかったけど、ロクに鍬も扱えない私を見かねて、「ちょっと貸してみて!」と鍬をふるってくれた。ヤエ子さん(仮名)やハルさん(仮名)は、畑に出ることはほとんど無かったけれど、いつもデイホールの窓から畑の移り変わりを見ていてくれ、そして自身の経験を語ってくれ、収穫したもので一緒に料理をした。挙げればまだまだ限りないくらいたくさんの繋がりが生まれた。
 そうして支えてもらっているうちに、私自身の心の持ち様も変わってきた。英子さん(仮名)とはひたすら里の中を歩いた。歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、歩きまくった!初めは道なき道をただ歩き続けている感覚だったが、だんだんに“きれいに舗装されてはいないだけで、少しだけ苦労すれば人が歩けるくらいにはなってるんだよなぁ”と思うようになっていった。こんなところも歩けるようにしてくれている!新しい場所を歩く度に感動した。貫一郎さん(仮名)と歩いた時には、「ここら一帯は、俺が全部拓いたんだ!」という言葉で、この地域だって誰かが拓いてくれたからあるのだ、ということを強く意識するようになった。畑だって、誰かが開き、それを耕し続けてくれたからこそ今があるのであり、私はそれを継がせてもらっているのだ、と思うようになった。

 4年目、隆さん(仮名)と畑で出会った。初めはすることもなく置いてあった車イスで遊び始めるような爺ちゃん(というよりおっちゃん)だった。初めはあまり好きになれなかった。それが、一緒に畑にでるようになって、「今日は畑、なにかすることないっか?」声をかけてくれるようになった。畑の経験がそんなにあるわけではないけれど、自分で考え、アドバイスくれ、一緒にそれをやった。“ふたりなら何でもできる!”そう思うまでになった。隆さんの姿に、父親のイメージを見て、さらにそれ以上のものを見るように(貫一郎さんに“開拓者たち”のイメージを見たように)なっていった。
 5年目、特養に移ってからは、畑のことはほとんどできなかった。新しい土地に来た感じがして、“その土地の慣習に従う”という意識が強かったし、あまり特養の畑に歴史を感じることもできなかった。ただ目の前に畑がある、という現実だけだった。私には“自分自身が歴史を創るんだ!”という気概がなかったのだと思う。
 6年目、中庭を創ろうとしていたのは、私自身の里でのこれまでがすべて詰まっていたのだと、今になって思う。繋がりを求め、そして、歴史を求めていた。隆さんとの別れはあったが、賢吾さん(仮名)と中庭で出会えた!今までは誰かに大きなイメージを重ね合わせることが多かったが、今度は賢吾さんという一個の人間がその大きなイメージ自体であることを感じられるようになった。それは、私自身の人間観が自然と変わっていたことを示すものであり、そしてそのことは私の歴史観をも変えていった。農業とは違うかもしれないが、私にとってやっていることは同じだ。今の私には、1年目に目の前に広がった黄金の海原、そしてその上を走る船も見えていた。
 畑や田んぼのことは、“凄い財宝の在処を示す地図”みたいなものだったのだと思う。多くの人が破り捨てて切れ端だけをかろうじて持っているような、そんな類の地図だ。私はそれを信じたい。幻想がないと現実が生きられない私は、いつでも黄金の海原を見る。これからも、その上を走り続けたい。
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農業と認知症が開くいのちの未来〜(花巻市女性ネットワークの集いの講演会内容から抜粋)★施設長 宮澤京子【2016年新年特大号】


 団塊の世代含め、私の世代までは、戦後の高度経済成長を経て、ひたすら豊かな生活、豊かな暮らしを求めて走って来た世代ではないかと思います。そして実際、経済的には豊かになり、平均寿命も男女とも80歳を超えるようになり、文化的にも経済的にも先進国の一員となったと思っているわけです。
 確かに私達が子どもの頃に実感していた貧乏やひもじさというのは、一掃された感があります。でもどこか、物質的な豊かさだけであって、心や精神、魂の次元での豊かさは、逆にやせ細っているのではないかと、不安に感じられる方も多いのではないでしょうか。
 そうした不安を煽るようないろいろな状況が今、次から次へと社会問題化しつつあります。一番大きいのは「少子高齢化」かもしれません。結婚しない若い世代も増え、孫が結婚しないと決まって、将来、代々の墓を守る人がいなくなるという現実に直面します。縁故のなくなった墓石の大量不法投棄も実際に起こっています。「無縁社会」という言葉もささやかれるようになり、お墓の守りどころか、生きている人も、看取る人がいなくなる状況が生まれています。伝統的なしがらみから自由になったのはよかったのですが、いろんな関係が切れてしまった結果のように思います。孤独死が社会問題となり、行政に担当の部署が必要になり専門業者もあります。
 子どもがいれば安心かというと、むしろ子どもがいるから貧困に陥るという高齢者もあります。子ども世代の職が安定せず、年金や生活保護の親世代に頼る現象が起こっているようです。これは「老後破綻」とか「共倒れ世帯」とか呼ばれています。例えば、年金と生活保護で一人暮らしをしていた親の元に、息子が派遣切れになって戻ってきたとします。すると役所は、当然働ける能力の息子が同居しているという理由から、生活保護を打ち切ります。ところが仕事が見つかりにくく、親は必要な通院費も生活費に当てながら破綻するしかなくなる現状があります。
 日本の人口は減り続け、30年後には8000万人までになると予想されています。しかもその大半が労働人口ではない高齢者なのです。そうなると経済的な豊かさは望めないことになります。
 また、子どものいじめや自殺が増えています。子どもや若者達が辛くて元気がない状況は、私達の若い頃には考えられなかった事態と言えましょう。若い人たちが夢や希望を持つことができない社会。これは私達の世代の責任でもありますが、しかし実際には誰も責任をとれないでいます。一生懸命生きてきた結果こうなってしまったのですが、そのことに責任を感じないで、豊かな老後はあり得ないでしょう。
 団塊の世代までが、親の世話をできる最後の世代なのかもしれません。同時にその世代からは、子どもに自分の老後の面倒を見てもらいたいと考える人は少ないように思います。介護保険で何とかなるだろうとか、老後のために貯蓄をしておくなど、子ども世代に迷惑をかけたくないというのが、この世代からの一般的な感覚ではないでしょうか。介護保険で「介護が社会化」され、嫁の犠牲で成り立ってきた伝統的な家族介護がやっと終わろうとしているとも言えます。あるアンケートで、「あなたは、老後のために、どのくらいの貯蓄が必要だと考えていますか?」という問いに、介護に関する不安が強い人ほど、必要と考える貯蓄額が多かったそうです。

 戦後の社会は地域を捨て、自然との関係からも離れて、都会へ労働力として吸収され、近隣との関係は切り、お互い興味を持たないことで成り立って来ました。私も北海道から東京に、あこがれと夢を持って出て行った一人ですが、ある意味それはとても気が楽で、自分のことだけを考えれば良いわけですし、生産性からみても、それは最も有効な手段だったとも言えます。経済的豊かさを求めて、自然とか地域とか隣人といった関係を切ることを「やむなし」として選択したのです。
 また現代は経済や情報がグローバル化しています。ネットで瞬時に世界中と繋がれるし、スマホの普及は常時、不特定多数の人と情報の交換が可能になりました。しかし気がつかないうちに、インターネットやスマートホンのアクセス情報がデーター化され、蓄積されて、個人情報も含めて、いつ誰が悪用するか分からない社会に置かれています。一人の人間は「情報」でしかなく、消費単位としてしか見なされない世界に、有無を言わさず投げ出されています。そしてまた私達は「やむなし」として、グローバル社会に身を投じようとしているのです。
 豊かで便利になったはずなのに、何か大切なものをたくさん見失ったようで、夫婦の関係や親子の関係にも断絶があり、寂しかったり、つまらなくなっているというのも事実で、得体の知れない不安や、自分の立ち位置が定まらない不確実さが高じて「怯え」にまで繋がっていくようです。

 内山節さんの『ローカリズム原論』はこのあたりのことをかなり具体的に論じています。現代社会があまりにも「人間と人間」の横の関係だけを重視することで、閉塞感や不信感を募らせているという指摘をしています。「自然と自然の関係」つまり自然天災の関係や、「自然と人間の関係」農業や漁業、林業といった営みとの関係。そして「生きた人間」と「死者」との関係、看取りとか祭りとか先祖との関係。「そうした関係を取り戻して、本来のコミュニティを再創造していくしかない」という内容です。この本を読んでいると、まるで銀河の里の活動を説明してくれて、里の活動の方向性を認められたような気がして感動しました(その他『新しいコミュニティをデザインする』なども面白かった)。
 内山氏によると、世界は今、近代化された先進国をおそった2011年3月11日の災害から日本はどう立ち直るのかということと、人類が初めて経験する「超高齢化社会」をどう乗り切るのかというこの二つで日本を注目していると言います。これらのことはそのまま人類の未来の展望に繋がります。津波と原子力発電事故は別次元の視点が必要で、全く性質の違うことだと言います。私達人間は自然災害とは折り合いを付けていくことが大事だけれど、原発は自然も人間も破壊するので、折り合いではなく「闘っていかなければならない」ことだと言うのです。自然には癒しがあるが、原発に癒しはない。原発を必要とする経済の仕組みや、それを「よし」とする価値観を変えなければ、同じあやまちを繰り返すしかないと結論づけています。

− 価値観と視点 −
 私達が認知症に対する強い不安にかられる理由に、現代の価値観が大きくマイナスに影響していると感じます。例えば、生産性が優先され、効率や合理性を求める社会の価値からみれば、認知症高齢者は、極めて手のかかる邪魔者でしかありません。
 私達世代は、金銭的豊かさや物質的な豊かさに価値を置き、さまざまな関係を切ることでその豊かさを手に入れてきました。しかし経済的な豊かさのみに人生をゆだねることが、すでに「破綻」をきたしているとしたなら、その考え方や生き方にストップを掛け、捨ててきたものを拾い集める作業が必要なのかもしれません。
認知症高齢者は実に「象徴的」な存在で、原発が必要のない価値観のもとでは、きっと認知症高齢者は受け入れられやすく、排除されることもないのではないでしょうか。
 人間が単なる情報や消費者になりつつある今こそ、いろんな次元の「関係性」を取り戻す必要を感じます。銀河の里では、認知症は本質的に「関係を必要とする病」だと捉えてきました。切れて生きることしかできなくなりつつある現代人に、繋がって生きることを現実に突きつけ迫ってくる認知症高齢者は「現代の長老」ではないかと感じるのです。人々にとって長老は、分断された関係性を繋ぎうる知恵とエネルギーを持ち、時空を超えて行き来できる能力を持ち、皆から畏れ敬われる人です。これまでの現場の経験から「認知症高齢者こそが現代の長老だ」という発見が私にありました。18世紀に「子どもの発見」があったように、21世紀は「高齢者の発見」がなされる時代かもしれません。

-銀河の里の基盤としての農業・・暮らしに包まれて共に生きる-
 稲作に八十八の手間をかけるところから米という字ができていると言われます。春の種の塩水選から始まり、育苗し、なわ代を作って田植え、水管理、草刈り等を経て、秋の稲刈りに至ります。
稲作にたずさわりながら、田んぼから見えてくる世界があるのに気がつきました。都会では見えなかった、世の中や時代が見えてきたように感じます。農業は単なる「作業」ではなく農(業)は「生命の営み」と重なります。田んぼは聖なる場所でもあるのです。日本の風土に生きる私達にとって、一緒に田んぼで稼ぐ意味は大きいと思うのです。
 今では機械化が進み、全部乗用になって、田んぼを足で歩くことがなくなりました。おかげで日本の稲作が続いているのでしょうが、かつてはみんなが集まって協力してやってきたことを考えると、今の農作業は「孤独な作業」に見えます。
 里では田植えも稲刈りも、総勢70人ほどが集まります。なかなか華やかで良い雰囲気なのですが、これをただの「イベント」にしないために、細かな心遣いが必要だと思っています。お米ができるまでを、みんなが手間暇掛けて、大事に育てること、天候や病気にならないように祈ること、収穫の喜びをみんなで分かち合うことなど・・・です。

 さて、新米を味わうのは格別な時間です。炊きあがった新米の香りや艶、味を堪能するのは贅沢な一瞬です。おかずは春に漬けた梅とか、自家製のナンバン味噌だったり・・・何か有り難い気持ちになり、幸せな気持ちに包まれます。
 私は新米を食べるときに思い出すのが、稲作一年目の時に、ぬかるんだ田んぼで、日がすっかり落ちて暗くなってからも軽トラックのライトを照らしながら、家族三人で泥だらけになって稲刈りをした体験です。あの苦労と新米がかぶって、やっぱりご飯には手を合わせたくなるのです。

【エピソード】「祭り」としての稲刈り

 毎年、何かしらのハプニングやら発見があるのですが、今年の稲刈りも感動的でした。テントが張られ、応援席が設けられます。そこに続々と車いすの人がやってきて、歌がはじまったり、「遊びじゃないぞ!しっかりやれー」と檄を飛ばす人もいたりと、大騒ぎになります。
 今年は田んぼに三つの層があるのを発見しました。一番遠いゾーンでは障害者のワークステージの利用者さんたちが働いている。遊び半分、浮かれ半分の人もいますが、一応働いていることになっています。
真ん中のゾーンは、現役から遠ざかって間もない高齢者で、職員に、稲の刈り方や束ね方を教えてくれています。長年の経験で体が覚えた動きは、実になめらかです。なれない手つきの職員も初々しくて良いものです。「そんなんじゃ日が暮れるよ」と気合いを入れられています。「おれの食べる分は刈ったぞ」と早々に引き上げようとするのは、元校長先生。すかさず職員から、「それじゃ足りないんじゃない?」と言われて頭をかいている。この混ざり感がとてもいい。一緒に生きている、と実感します。

 手前は、異界ゾーンでした。私の義理の母が、車いすから二人がかりで抱えられて田んぼに入ってきました。日頃から「こんな体になって、わしゃ早く死にたい」というのが口癖の89歳。不自由なはずの手にしっかりと鎌を握り稲を刈っている。二人がかりの介助、プラスもう一人は座る台を運んでくれる。目は爛々と輝き、ただならぬ形相。私は「彼女は稲穂に呼ばれた」と感じました。というのは常日頃、他人に迷惑をかけることを嫌い、自分で出来ることは這いつくばってでもやろうとする人が、三人もの介助を従えての稲刈り。なんと理解して良いのか、にわかにはとらえがたい光景でした。そのすぐ隣には、車いすの利用者が「おれも刈る」と介助されながら田んぼに入ったりしています。
 この光景を見ていると「時間の切り売り」としての労働や、「効率優先」という現代の価値観の薄っぺらさが思い知らされます。大地と稲穂が持っている生命を育む力やら、人に宿る魂を揺り動かす霊性というか、何か目に見えないことが感じられます。
 私としては、異界ゾーンではなく、まだしばらくは現実をがんばっていたいと思っていますが、(ともかく)言葉で説明できない世界に鳥肌が立つ体験をしたのでした。付き添った若い職員も、きっとあの異界空間に心動かされているにちがいありません。

 本当に問題なのは、認知症の人ではなく、効率優先の社会であったり、自分中心にしか考えられなくなっている家族だったり、排他的な地域だったりするのです。そうした現状を打破する新しい価値観を見つけていく必要があると思うのです。
 近代になって個人の意思が際立って強調されるようになってきたと思います。自己責任を強調する風潮になっています。一見、正しいようにも思えますが、本当にそうなのか考えてみる必要があります。私たちは、そんなに自分の意思に基づいて生きているでしょうか。日々の生活の範囲ではそうだとしても、生まれること、死ぬこと、老いること病むこと、いわゆる生老病死は個々の意思を超えてやってきます。
 認知症の人が照らしてくる次元というのは、そうした人間の存在に対する問いかけと捉えたほうが意味があると思うのです。人生において、合理的に納得できることより、理不尽なことや個人の意思、努力ではどうにもならないことに向き合うことの方が、圧倒的に多いのではないでしょうか。

− 価値観の転換と女性性 −
 かなり硬直した現代社会を変えていくのに大事なのは「女性性」ではないかと考えています。近代、現代の価値観は男性的なもので、社会自体がそうした原理でかたち作られています。それに対して認知症の世界はとても女性的な世界だと思うのです。感情が豊かで心が敏感で、夢見がちで、現実とはかけ離れているかもしれないけれども、ものすごくリアリティがある。勝った負けたとか、強い弱いも関係ない、細かい説明や原因や理由などは問わない。見えないもの、大いなるものとの繋がり、頭じゃなく身体で考えて生きている感じです。 男性の手柄は、生命を生み出すことよりは、生命を危険にさらすことのほうに傾きがちです。20世紀が科学技術の進展とともに、戦争における大量殺戮の時代であったこともそうした男性原理と関係なくはないでしょう。生命、生活の観点から、女性性に基づいた価値観を見いだすときがきているように感じます。そしてそこに認知症という心強い「同志」が支えてくれると、私は信じています。

−折り合いの「物語」を創造する−
「老い」「病」「死」といった宿命的な自然の営みは「答えのない」世界です。正しい答えがあるという強迫観念で、現代は行き詰まっていないでしょうか。システムやマニュアルではどうしようもないものです。それは「折り合いを付けていく」事柄で、そのためには、折り合いの「物語」が必要になるのです。一人ひとりが個々の物語を創造するのが人生です。
 銀河の里の暮らしのなかで、たくさんの物語が紡がれますが、開所して間もなく入居されたサトリさんのお話を、最後にさせて頂きたいと思います。

 彼女は早くにご主人を亡くし、女手ひとつで、農業だけで子ども達を育て上げた方でした。かなり物忘れが激しく、食べてもすぐ忘れて「おら食ってね」と言うのですが、職員が「さっき食べたよ」というと、「おまえがそう言うのなら、食ったんだな」と収めてくれる、とても人格を感じる人でした。そんなサトリさんが「自分はもう働けないので若い人で頑張ってくれ」と書き置きを残して、深夜、窓から出て行ったことがありました。結局は職員の捜索隊に発見されて家には帰れなかったのですが、やがて里や職員のことを親身に心配してくれる母的存在となりました。
 里の赤土を見て「これじゃ何も育たねぇ、3年はかかる。こんなにたくさんの人を養うのに、こんな痩せた土でどうするんだ、食っていけねぇ」と真剣でした。管理者である私たちが3年後のことなど考える余裕もなかった時です。「米はどうする、野菜はどうする」と、サトリさんは買うのではなく作ることを教えてくれました。毎日、鍬を持って畑作りをする姿に刺激され、また、若い職員のへっぴり腰の畑作業を励ましてくれたおかげもあって、私達は育ってきたと思います。きっとサトリさんも入居前にいた大型施設の老健施設では、そんな心配をすることはなかったろうと思います。里の環境が、サトリさんの心にスイッチを入れ、身体を使って若者に農業を継いでくれたのだと思います。

 サトリさんが亡くなられた翌年、平成17年の春のことでした。田植えが終わって、ワークの利用者さん達と田んぼの草取りをしていたら、突然、まぶしい太陽の光を背にして、私の目の前にサトリさんが現れたのです。微笑みながら私たちの作業を見ていました。私は感動で涙があふれてきました。「今までいろいろ教えてくれてありがとう。もう大丈夫これからは私たちでやっていくからね」と話しかけると、サトリさんはうなずいて、そのビジョンは消えていきました。
 このことを里の職員に話すと、「あの世もこの世も関係ないよね。いつも居るもの。亡くなってからがさらにリアルだ」と感動とともに話は盛り上がったのでした。私の中でサトリさんは今も生き続けて、支えてくれています。

− 認知症対策? −
 世界中で認知症の対策として、そのメカニズムの解明や予防や治療薬の開発などが盛んになされています。日本でも厚生省が認知症5カ年計画「オレンジプラン」という計画を提示しています。その中には、地域の見守り体制を整えていくことも含まれています。
しかし認知症を社会問題として、対策や仕組み作りを考えるだけでは違うと思うのです。認知症の価値や役割、存在の意味を見つめ価値観や視点を変えることが何より大切だと思うのです。

− 私のふたつの妄想 −
 私は、認知症の一人ひとりとの多様で多層な豊かな世界を、関わりの中で「物語」として紡いでいくことが最も大切だと考えています。それが里の「未来」や地域の「未来」、さらには人類への「希望」にまで繋がるのではないかと“誇大妄想”しています。
 一方で、認知症高齢者が社会のお荷物として大量虐殺「ジェノサイド」の対象とされるのではないかという最悪の不安もあります。虐殺の方法は、かつてのホロコーストのガス室ではなく、安らかで痛みを感じない方法で、本人も家族も幸せな最期を受け入れるというストーリーの中で行われる虐殺・・・そんな不安です。
認知症は大変で社会のお荷物だから、いない方がいいという考えに基づくと「ジェノサイド」の道に過つのか、逆に魅力ある長老として尊重して新たな地平を開くのか、その分岐点にいるようです。私たちは、ここでその行く道を誤ってはいけないと思います。
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2015年05月15日

たねまき ★佐藤万里栄【2015年4・5月号】

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平成27年度事業方針 ★理事長 宮澤健【2015年4・5月号】

【 人材確保と国際交流 】
 銀河の里は今年度で発足15年目を迎えるが、組織としても、これまでの勢いのあった時代ではなくなり、いろんな意味で曲がり角を迎えていると感じられる。時代はすでに深刻な人手不足、人材不足の時代に突入しており、特に介護業界は2025年には30万人の介護者が不足するとの予測がなされている。里ではすでに人材確保に苦しんでいる状況で、各現場の人員配置をやっと保っている綱渡りの状態がここ数年続いている。
 そんな中、看護師に関しては、職員を1名、資格取得を目指して看護学校に学んでもらい、来年度には卒業の予定となっている。将来的には更に数名の学生を送り込み、自前で養成をしていく必要がある。
 今年度12月にはEPAでフィリピンから2名を受け入れることが決定しているが、今後EPAや、研修生制度等を使いながら、介護職員を含め看護師等の医療人材も確保していくべく計画を進めたいと考えている。EPAの受け入れによって、単に人材不足を補うための外国からの労働者の補充ではなく、国際交流、文化交流の機会と捉え、広い視野からの刺激となっていくことを期待している。
 人材不足の背景には、中堅の女性職員が産休、育休の時期となっていることも影響している。少子化の渦中に喜ばしいことであると同時に、組織運営上は戦力がそがれる現実に直面することになる。子育て時期を逆にチャンスとして、今までやってきた現場の実践を振り返り、考察したり、発信していく機会にして、新たな情報を得たり、広い視野を育みながら、職場復帰に向けて展開をしていきたい。

【里の文化・芸術活動】
 組織として里の基本的な考え方や理念となっている書物や人物の研究をしたり、先進的な取り組みや活躍をしている人物、団体の活動に触れていきたい。そこで今年度から銀河ゼミを定期的に開催し研究議論の場を設けていきたい。それと併せて、各部署や個人でも音楽、工芸、芸術など各分野で自主的に取り組む活動や研究を推奨し、それを支援する体制をとっていきたい。
 昨年度は、ワークステージの利用者と職員で、身体表現としてのダンスに取り組んだ。11月の公演は大成功で好評を博した。人材不足の中、組織的な体力としては、毎年の公演は難しいものの、公演とは別にアフリカンダンスのモッコリー先生の練習の機会は維持しつつ、今後も未来へ向けて展開していきたい。
 身体表現は、言葉を越えて他と繋がることを可能にする有用な表現媒体であるはずなので、言語的にハンディがある人にとっても、言語的に行き詰まった現代にあっても、大いなる可能性を見いだすべく取り組んでいきたいと考えている。昨年度、身体表現の研究者、西洋子先生と、「場」の研究者、三輪敬之先生と出会う機会を得て、お二人のワークショップに参加し、1月には里においでいただいた。今後もこのご縁を生かして、手合わせ、ダンスなどの身体表現を探求しつつ、里の特徴でもあり、生命線とも言える「場」の研究にも力を注ぎたい。
 また活動6年目となった「銀河さんさ隊」も毎年活躍の場を広げている。昨年は地域の盆踊りに数カ所の参加をし、さらに地域のイベントからも出演依頼があった。高齢化が急速に進む地域社会にあって、若者達がさんさで貢献する意義は大きいと思う。できうる限り要請に応え地域に出て行きたい。
 しばらく開催してきた銀河ライブ、コンサートはかなりのレベルの音楽を届けながら、集客に苦労し、赤字が続いたので、開催を断念した経緯がある。幸い、何種類かの里バンドがユニットとして組める可能性もあるので、小ぶりの、内部での公演を大切にしていきたいと考えている。

 今年度はサテライトの移転を計画しており、それに伴って、デイサービス隣接の場所に建物を建築する予定になっている。これを機会に、福利厚生の一環として、子育て中の職員が働きやすくなるよう、子育て支援のプログラムを立ち上げていきたい。職員が子どもを連れて出勤できたり、勤務中の授乳などもできるよう、育児支援の可能性を模索してみたい。

【戦後70年を考える】
 昨年は戦後70年の節目であった。70年間戦争がなかったのは人類史上でも希なことだそうだ。平和ぼけと揶揄されることも多々あるが、70年を貴重な実績として捉えて世界史に貢献することが未来にとって有用ではないだろうか。戦えない世代と弱虫扱いされることがあるが、それこそ人を殺せない世代の誕生として、むしろ誇るべき進化と捉えていいように思う。平和な国、平和な人種こそ日本の本質、特徴として受け継がれて来たことなのかもしれない。西洋の歴史に吞み込まれ、近代化の中で過ちの道を歩んだ時期もあったが、本来の日本と日本人を取り戻し、日本人として我を見失わない生き方を世界に示すべきだと思う。「和をもって貴しとなす」と生きてきたはずの日本人でさえ、その内側には大きな闇、暴力を持っていたことは否定しようがない。
 「人々は夜を忘れている。夜の闇の恐ろしさを知らない」とジェイムズ・ヒルマンが言うように、個々のなかに夜の闇がある。闇を含めて人間全体なのだ。それにどう向き合うのか。2001年の9.11に象徴されるように、世界全体が殺戮の世紀20世紀から引き継いだ負の課題を背負っている。
 里では、個々の内側にある悪や暴力を考えてきた。昨年度は何人かの職員が研修でアウシュビッツを見学している。簡単に結論を出せることではないが、避けてはならない課題だ。見つめないでいると足下をすくわれ、元も子もなくなる。個人的には、大いなる鍵が3.11の震災の中にあったのではないかと思う。あのとき、命は弱くはかないながら、あまりにかけがえのないもので、尊いものだと世界中の人々が感じたのではなかったか。我々は弱いが故に尊いことを知る必要があるのではないか。ケアは人間の基本として弱さの中に立ち上がってくる。我々の現場から、そのことが拾い上げられ、発信されなければ、それこそ介護や支援そのものが、そのまま暴力になってしまう危険に満ちている。弱さこそ偉大な救いなのかもしれない。現場の強みを生かして、日々起こってくることや経験をベースに、新たな道筋を探るべく研究思索を進め発信していきたい。
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あなた(私)と出会うこと ★デイサービス 鈴木美貴子【2015年4・5月号】

 今年に入り、デイサービスでは二人の方との別れがあった。どちらの方も利用契約した時点でターミナル、看取りの時期に入っていた。二人ともお風呂に入りたいという希望をもっての利用だった。
どんな出会いをしたか、一人ずつ書いてみたいと思う。

 茂雄さん(仮名)、退院後ベッド上での生活、契約したときには立つことは無理との申し送りだった。入れ歯も合わなくなっており食事はソフト食でということだった。体調のことを考慮すると、送迎時の車椅子に座っての移動がどうなのかも気になり、スタッフ二人体制で行った。初回利用時は、私と看護師の真弓さんとで迎えに行った。ベッドで休んでいるところに声をかけて車椅子に乗ってもらう。立てないと聞いていたが、話しかけると足に力が入って車椅子に移乗できた。DSに着き、すぐにトイレに行きたくなる。立てない・・・。家ではオムツを使っている方だったが、トイレに誘導すると立って便座にも座れた。それでおなかもすっきりしてホールのテーブルで過ごした。お風呂も好きな方で、中間浴に入り「気持ちいいな〜」と目をキラキラさせる。食事はソフト食を一口食べて「売れる!」「味がいい!」と言ってくれる。全介助と聞いていたが自分でスプーンや箸を使い、一部介助で完食してくれた。
 5回目の利用時に、年末の恒例行事の餅つきがあった。餅つきをしている間は和室で休んでいて、起きると「そろそろ家さ帰る」と言う。真弓さんが「今日は餅だから、まず、食べてって」と言うと「んだってが、オレ餅好きなんだ!!」と笑顔になった。昼寝から起きてきた利用者、マサさん(仮名)と話が盛り上がり、干し餅食べたいという話になった。マサさんの「どこも悪いところはない」という元気話を聞き、「オレもこうしていられねえな」と起き上がっていた。白玉粉で作ったあんこ餅を出すと「うめえな〜」と食べてくれて、おかわりもした。帰る時も、満足そうなニコニコ顔だった。次回は年明けに会えると思って送っていった。
年明け、ケアマネさんから連絡があり、年末に肺炎で亡くなったとのことだった・・・。あの日が銀河の里デイサービスの利用最終日だったんだ・・・。茂雄さんとの最後の日だったんだ・・・。利用してくれた5回・・・、もっと利用してほしかった。看護師の真弓さんと茂雄さんのやりとりは、見ていていつも写真に残したい気持ちになった。あまりカメラを向ける事のない私が写した写真が数枚残っている。餅を食べた時の笑顔も残っていた。真弓さんと一緒に写っている写真を見ながら、この二人の関係に私が支えられていたんだなと感じた。

 加奈子さん(仮名)は102歳の方で、今年1月までは歩いていたとの事だった。契約に行った日はベッドの上で娘さんの名前を呼んで動いていた。昼夜逆転しているということで、日中のデイサービス利用で、夜間休めるようになればということだった。週3回の利用の契約をした。食事はほとんど摂れていないとのことで栄養剤を処方してもらっていた。初回利用時、迎えに行くとぐっすり眠っていた。声をかけても反応しないほど眠りが深かった。薬が効きすぎている様子もあったので訪問看護さんに相談してもらうということで、この日は利用できずに終わった。次に迎えに行くと起きていた。家族さんも温泉に行くということで声をかけていてくれた。送迎車に乗っている間は、服を脱ごうと必死な感じで動きも力強かった。デイサービスに着き、飾ってあるおひなさまの前で女性タッフの髪をなでて、おでこを合わせてにっこり。この出会いも残しておきたいと私はカメラを持った。タイミングは少しずれたがシャッターを押した。初日は中間浴に入ったが、なかなか座位が保てず二人介助だった。ゆっくり入浴というよりは体調を気にしながら無理なく入ってもらおうとの想いの方が強かった。入浴後の昼食、口腔ケアをしてから食事をすすめてみた。「ご飯だよ」と言うと口はあけてくれるが、飲み込めずに口にたまってしまう。酢の物をすすめると口をモグモグして、一口は食べてくれた。漬け物屋さんのお宅なので、味のはっきりした物が好きなのかな・・・と思った。その後、加奈子さんが「リンゴ」と言う。リンゴジュースにトロミをつけてすすめると一口飲んだ。初日は寝ることなく過ごし、帰りの車中でも動きが活発だった。2回目の利用時には家族さんから「洗ってもらったら、髪が黒くなったみたいだ」と言われ、デイサービス利用を喜んでくださっている様子だった。
 3回目のときは、昨夜寝てないとの申し送りがあり、午前からテーブル席でウトウトしていた。爪を切りたいと前回から思っていたが、動きがあって切れずにいたので、いいタイミングだと思い、「爪切るよ」と声をかけるとうなずいてくれた。入浴して食事になったが、オレンジのゼリーと筑前煮のソフト食でにんじんがあったので、初回利用の時に「にんじん!」と言っていたのを思い出し、すすめると一口食べた。すっきりした味のものが好きなのかなと思い、オレンジのゼリーをすすめるとそれも食べてくれた。他のスタッフも「食べたね」と喜んでくれて、私も嬉しかった。
 帰りの送迎車に乗る前に嘔吐があった。看護師の真弓さんはそのとき危ないかも・・・と予感がしたと言う。そこで訪問看護の事業所に真弓さんの方から連絡してもらい状況を伝えた。家族さんはデイサービス利用時に亡くなっても覚悟は出来ているとのお話だった。帰り送迎中、私は隣に座りずっと手を握っていたが、時々握りかえしてくれた。17時、自宅に送りベッドに横になってもらった。血圧が低いこと等状況を家族さんに伝えて戻ってきた。翌日、加奈子さんの家の近くに葬儀の看板が出ていると真弓さんが連絡をくれた。休日でケアマネさんから連絡は入らず、気になったので直接家族さんに連絡をとってみたら、送迎で送った2時間後に亡くなったということだった。すごいと思った。爪を切り、食べて、お風呂に入って、DSから帰って自宅で息をひきとる・・・。すごい。102歳でよくデイサービスに通ってきてくれたと感謝だ。その力強さにエネルギーをもらったような気がする。

 人はいつか必ず亡くなる。いつ亡くなるかわからないからこそ、出会いを大事にしたい。今この人とどう居たいか、この人はどう居たいのかを考えながら過ごせたらと思う。今、私は三人目を妊娠している。生を感じながら死も身近に感じつつ、複雑な思いではあるが、別れからもパワーをもらい、私は新たな出会いを通じて育っていきたいと思う。どんな出会いが待っているか・・・。


その先は 何があるのか わからない
      今を大事に あなたをみつめて
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銀河の里・素適な中庭計画 ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2015年4・5月号】

 特養の中庭に、少しずつ木が増えてきた。それらはすべて、健吾さん(仮名)のお宅から頂いてきたものだ。きっかけは、“山吹の花を見せたい”という健吾さんの言葉だった。“おばあちゃんたちのために”という言葉も多く、誰か誕生日の人があれば、いつも祝いの歌を歌ってくれる健吾さん。“山吹”も、きっとみんなを喜ばせたいから言ってくれているのだろうと、あたたかい気持ちになった。
 ところが、話は思わぬ方向に展開していく。持ってくる前にまずは見に行こう!と、三浦さんと健吾さんで家に出発。息子さんも、「やりたくはねえども、オメやった庭なんだから、好きなの持ってけ」と言ってくれた。ここまでは自然な流れだったのだが、庭を見ているうちに、「銀河の里にトラックあるべ?あれさ付ければ、あの木運べるんでないか?」とか「あの舟!(の形をした木)持って行くことできるんでないか?」と、優にトラック1台分はあろうかという木を指し始めた健吾さん。きっとこの時にはもう、頭の中ではイメージができあがっていたのだと思う。帰りの車のなかで、「え?山吹だよね?山吹なんだよね?」と呼びかける三浦さんの言葉は、もうあまり届いていないようだった。
 その日から、健吾さんは、毎日のように中庭に出た。「三浦さんや千枝さんが木を持ってきたいと言うから手伝っているのだ。これは俺の計画ではねんだ!」そう憤りながらも懸命に、中庭をなんとかしようと、草取りをしたり、手伝ってくれる人を探したりしていた。健吾さんがそんなふうに憤るのも、無理がないことだった。
 木を持って来ることに一生懸命になっている健吾さんを見て、私のなかで、忘れかけていた夢が脈を打ったように感じられた。それは、「テラスを壊してしまって畑にするべ!」と言った耕平さん(仮名)や「オメさえその気があれば、ブルの使い方教えるぞ!そこにバンガロー作れば、若い人たち集まるのに良いと思う!」と言ってくれた政雄さん(仮名)のことが思い出されるような、遠いあの日にも繋がっているような夢だった。「中庭が、みんなが集まれる場所になればいい」そんなことを少しずつ健吾さんと話していた。いつのまにか、健吾さんがやろうとしていることと、私のなかの夢とがぐるぐると溶け合って、なんかすごくやる気をもらっていた。それなのに私は、実際にはほとんど何もすることができずに居た。だから健吾さんも“お前は何をやってるんだ!”と憤ってくれたのだと思う。
 やっと私も動く気になり、一緒に家へ行く約束をしていたある日、健吾さんが散歩の途中でふらついて、倒れそうになるということがあった。連日の中庭のための奔走で、疲れも溜まっていたのだと思う。私も流石に、今日は木を掘りに行くのは無理だろうと、声を掛けに行った。ところが健吾さんは、「お!堀りに行くっか?」と、どこ吹く風。何度、“今日は無理なんだ”と話しても、「大丈夫だ!あといつ行くってよ?掘ってくる時期っつうもんがあるんだ!」と譲らない。何をどう話しても聞いてくれない健吾さんに、段々と腹が立ってきた。それは、何もすることができないでいる自分自身に対してもだった。そして私は、「わかった!!じゃあ私一人で健吾さんの家に行って木を運んでくるよ!!」そう叫んでいた。「無理なんだ、容易なことでねえ」と笑っていた健吾さんだったが、私が全然話を聞かないでいたら、最終的には「もういい!勝手にしろ!聞きたくねえ!!」と突き放されてしまった。
 そんなふうに突き放されるとは思っておらず、ショックを受けた私は、ムツコさん(仮名)の部屋で体育座りをして小さくなった。ムツコさんには、健吾さんがよく挨拶をしに行っていて、健吾さんが“おばあちゃんたち”と言う時に、私が真っ先に思い浮かべられる人だった。“健吾さんがやろうとしていることは、健吾さんが自分でやるから意味のあることであって、私がやってしまったのでは意味がないのではないだろうか。いや、でも・・・・・”ぐるぐると悩み始めた私を横目で見ながら、ムツコさんはニコニコ(いや、ニヤニヤ?)していた。“ま〜た悩んで何もできなくなってらな!”と言われているように感じられた。“どうなるかは分からないけれど、とにかくやってみよう!”そう思えた。その日、私が一人で持って来た木を見て健吾さんは、「よく持って来たなぁ〜」と話す一方で、「なしてあったな木を持って来たって!」と話していることもあったそうで、どちらもありがたい言葉だった。この日、少しだけ、健吾さんがやろうとしていることと並ぶことができたように感じられた。
 健吾さんの家の庭は、とても広い。たくさんの木が植えてあり、見るたびに新たな発見と感動がある、そんな庭だ。久しぶりにその庭をじっくりと見たという戸来さんも、「特養の庭も大分木が増えてきて立派になってきたなぁ、と思っていたけど、あれを見てしまうとこっちがみすぼらしく見える」と、興奮気味に帰ってきた。そんな庭を、健吾さんは一人で作り上げたのだ。見ているもの、見てきた景色が私とは全く違ったのだろうと思った。私と健吾さんとでは、約70、歳が離れている。つまり、私と同じ歳の頃に、戦争から帰って来たということだ。戦争、ダム建設に伴う移住など、たくさんのままならない時代の奔流のなかで、一本一本の木をたしかに植え続け、そうしてあの庭を作り上げたのだ。「子どもらや、孫たちのために・・・」そう、庭のことを話していた。「今の若い人たちに昔のこと話しても分からないと思う」そう話すこともあった。健吾さんの言う“若い人たち”には、私たちを飛び越え、ずっと下の世代まで含まれているように感じられた。健吾さんは、何年前を思っているのだろう?何年先を描いているのだろう?今という時代の中ですらフェアでいることは難しいというのに、私たちは過去に対しても未来に対してもフェアでいることはできるのだろうか?
 な〜んてドラマもあり(実際にはもっと色んなことがあった)ながら、“銀河の里・素適な中庭計画”は、着々と進行中だ。この先、中庭がどうなっていくのか、正直分からない。きっとまだまだいろんなドラマが生まれてくるのだと思う。分かっているのは、昨日も今日も明日も、一緒に少年のような笑顔をしているのだろうな、ということだ。
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