2016年06月23日

銀河の里の一コマ(Photo Gallery)@ ★ 【平成28年3月号】

〜新年を迎えて、小正月〜
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〜どんと焼き・節分〜
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銀河の里の一コマ(Photo Gallery)A ★ 【平成28年3月号】

3月 ひな祭り〜つるし雛・行事食〜
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暮らしの一コマ
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H27年銀河の里のさんさ隊の様子 ★ 振り返り【平成28年3月号】

銀河の里では、7年前からさんさ踊りの経験者を中心に、さんさ隊が結成されました。年々新人やワーカーを巻き込みメンバーも増えています。一昨年から地域の盆踊りに入居者と参加したり、里内では夏冬問わず、踊りを披露してくれています。それぞれのメンバーには、意中の入居者や利用者がいて「この人に見て欲しい!」とH27年度も踊り乱れました。今後の活動も楽しみです。

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歌う介護士・龍太狼 オリジナルCD第一弾!発売決定 ★ 活動紹介【平成28年3月号】

銀河の里音楽レーベル「Feelingain」を立ち上げ、オリジナルCD第一弾を発売決定!

- Feelingain -

感じること(Feeling)+集め、増幅させる(gain)

銀河の里の日常の中で
わたしとあなたの出会いに生まれるクオリアを
拾い集め、増幅し、カタチ創っていく。
そのカタチは様々にあり、
音楽や絵画、ダンス、詩などへ昇華し発信していくためのプロジェクトです。

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ワークステージ銀河の里 〜焼売好評発売中〜 ★ 活動紹介【平成28年3月号】

Nanak(盛岡市中ノ橋)、江釣子ショッピングセンターPAL(北上市)、さくらの百貨店(北上市)、イトーヨーカドー花巻店で販売中。

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ノンアルコール林檎シードル〜生産・発売開始〜 ★ 活動紹介【平成28年新年特大号】

銀河の里発ノンアルコール林檎シードルの生産・発売開始しました。
12月23日、24日の両日、イオンモール盛岡南店内にて試飲販売会を開催しました。現在どう店舗「結いの市」で継続販売している。

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「正代さんと展覧会〜3人展〜」の報告 ★ 【平成28年新年特大号】

平成27年度銀河の里チャレンジ企画「正代さんと展覧会〜3人展〜」として、11月8日(日)〜12月18日(金)に銀河の里内の各所を会場に3人展を開催しました。

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銀河の里のEPA(経済連携協定:Economic Partnership Agreement)事業 ★ 活動紹介【平成28年新年特大号】

 日本では6年前から、経済連携としてインドネシア・フィリピン・ベトナム3カ国から看護師及び介護福祉士候補生の受入を行っている。今年はフィリピン215名に対して49カ所の受入施設があり、フィリピンで半年間、日本で半年間の計1年間の日本語教育を受講して各施設で就労している。銀河の里でも12月より受入をスタートしている。

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2016年06月19日

あわいを生きる ★ 理事長 宮澤健  【2016年新年特大号】

 人が生きるのには感動が必要だと思う。人生には癒やしや和解も必須だろうが、そうした悲しみや寂しさからの脱却でさえ、感動を伴わないではあり得ないのではないだろうか。感動と言ってしまっては漏れることもあるのかもしれないが、心ときめき踊る感覚があるかないかで人生が決定的に違ったものになる。

 ところが最近は、そうした感動ができにくくなってきているのではないかと感じることがある。感動する決定的場面でさえも、シラッと終わってしまうようなことがあって戸惑うことが増えたような気がする。感動は一人では深まりにくく、誰かとときめきを共有したり分かち合ったりすることによって高まっていくような仕組みなのだろう。スポーツやコンサートなどの沸き返る感動の場面などは、多くの人と共有していることに感動の高まる構造があるのかもしれない。感覚を分かち合いたい相手にシラッとされると、つんのめって感動を押さえるしかなくなってしまう。感動は一人の個人のなかの感覚の高まりのみではなく、他者との共感や繋がりの上に沸き上がってくる“共有”にも関係する感情であるような気がする。我々はしばらく、この時代、感動がお金で買えると大きな勘違いをしてきたのではなかろうか。確かにお金で便利と自由が果てしなく手に入りそうな時代が続いたので、感動を買えると勘違いしても仕方なかった。しかし、それはすでに通用しなくなっていて、買えば買うほど物が増えて生活空間が窮屈になるのに、さらに買わなければならない強迫的な状況に追い込まれているような気がする。物が増えても感動のない虚しさに、人々は寂しさを感じ始めている。そこで誰かと繋がろうと焦ったようにメールやラインにしがみつく。ところがそれらの大半は、自我から発せられた悲鳴のような言葉の羅列や洪水になって、繋がるどころか、さらに孤独や寂しさを増幅させる方向にしか展開しない。さらに焦って言葉を連ねることになる。この虚しさや寂しさを断ち切るには、もう暴力や殺人にでも至らなければ癒されないほど、深い闇を心に切り刻んでいるのかもしれない。

 里の職員が介護関連の全国大会や県の研修などに出ると、深く傷ついてしまうことがよくある。高齢者施設はどこも立派な近代建築で、掃除も行き渡り、当然、冷暖房完備で三食が時間どおりに出てきて、極楽のようなところかと思いきや、実は人間がブロイラーのごとく管理支配されている地獄に他ならなかったりする。その場にいることさえ数分でも耐えがたい空気が充ちている。人間に対する支配管理が徹底されると、そこには感動などは全く無い世界ができあがってしまう。今、特養ホームの全国組織が取り組んでいるのはおむつ外しで、おむつゼロを目標にがんばっているらしい。人間や人生とは全く関係ないところで数値目標を追いかけている訳だ。里の職員が、そんな全国研修に参加すると唖然とするのだが、それは里の職員の感覚のほうがおかしいのだろうか。最近の県の研修で、ある先進的な取り組みをした報告に対して出てきた質問は、「そんなに丁寧にやって、職員は負担を感じないのですか?」「事故が起こったら、どう責任とるんですか?」といった、後ろ向きでネガティブな質問ばかりで、利用者のことが全く語られないことに、参加したスタッフは唖然とする。利用者一人一人に焦点を当てた丁寧な取り組みの実践報告が、関心を持って受け止められないのでは、発表者は相当傷つくだろうし、発表することによって、むしろ、その後の取り組みにも悪い影響を与えかねない。
 全国と県の研修に続けざまに参加したスタッフが、そうした質の悪さに意気消沈しているので、自分で研修を組んだらと勧めたら、汚れを払うかのように、ちょうど横浜でやっていた絵画展と能などを観て、おいしい食事をして、少し息を吹き返したようだった。くだらない研修に打ちのめされる業界とはなんなのだろうかと、いつもながら嘆かわしい。それとも、おむつ外し全国一位という成果を出すと、そこには深い感動があるのだろうか。

 ところで、銀河の里には独特の用語がある。それはテクニカルタームというより、里の謎解きキーワードなのだが、たとえば「出会い」「関わり」「関係」「存在」「異界」「通路」「物語」「場」などだ。また一般に使われる用語とはちがった独特の言い方もある。たとえば「徘徊」とは言わない。「お出かけ」「散歩」「旅」と場面によって使い分けている。また利用者に対して「させる」「やらせる」などは使わない。間違って誰か使ったとすると、痛みと共に、「解ってない人だな」と感じたり、「何様のつもり!」という怒りが入った違和感を持つ。

 このあたりのことを実際に起こったことから考えてみよう。先月、立教大学の大学院の先生たちが4人、銀河の里に見学を兼ねて応援に来てくださった。先生たちとの研修会に、グループホームの利用者のKさんがスタッフと一緒に会場にやってきた。普通なら「こんなところに利用者を連れてくるな」と叱られる場面だろう。許可を得た訳でもなんでもない、当たり前のように利用者と一緒に来たのだった。里の空気、伝統というのがこういうところにある。しかもKさんは大声で歌ったり叫んだりする人で、研修会の途中、Kさんの歌と声で賑やかになる場面が何度もあった。最後に先生のお一人から「今日Kさんが歌ってくれた歌は、全て“月”を歌った歌でした。しかも研修会の話の内容に沿って、悲しい歌から希望の歌まで歌い分けていました」と指摘があった。日本の歌の歌詞に対する先生の造詣の深さと共に、Kさんの外さない感覚の不思議に感動する。認知症の深さとともに、本質を外さない認知症の威力、感性の不思議さを、先生たちと共に改めて実感する場となった。「Kさんと来てくれてありがとう」と感謝の言葉もいただいた。
 この場面をもう少し考えてみると、一般的にはスタッフがKさんを「連れてきた」と受け止められるだろう。でもそれだけだろうか。「Kさんがスタッフを連れてきたのかもしれない」ということは簡単に逆転する。スタッフは「行こうとしたらKさんが手を握って離さなかったので(一緒に来た)」と言う。「連れてきた」のでは決してない。スタッフを支えるためにKさんは来たのかもしれないし、Kさんは人の発言中にも朗々と歌を歌ったり叫んだりして、一見、研修会の進行を妨げ混乱させながら、結果的には一番、会を盛り上げ、会の本質を照らし出してくれた訳だ。整然と進行することだけが正しいこととすると、大半のことが切り捨てられてしまう。
 銀河の里には現実の多層性に開かれた眼差しがある。こうした多相性が重なって現実があることを、スタッフはどこかで深く理解していると思う。どれが正しいかではなく、どれもが重なって今という現実があるなら、「させる」「やらせる」などとはとても言えなくなる。今回のKさんもスタッフが「連れてきた」としか見ないとしたら、現実を一面的な視点でしか捉えられていない浅はかな理解に終わり、結局は会の進行のためにKさんを排除する方向に向かうしかなくなる。

 こうした背景から「関わり」「関係」「出会い」「物語」「場」などを、里では用語としても使いながら大事としてきたのだが、里でやろうとしてきたのは、大和言葉の「あわい」のことではないかと最近思い至った。絵画にしても演劇にしても、日本の文化では「間」が重視されてきた。また、社会とは言わずに世間と言ってきたのも、世の間、つまり人々の「あわい」のことをさしているのではないだろうか。日本の伝統的な視点は、人は「あわい」を生きる存在だとみていたのかもしれない。天と地の「あわい」、男と女の「あわい」、人と人の「あわい」、そうした「あわい」に生きるのが人間だとみていたとすれば、それは現代にこそ通じる達観ではないか。
 分けることによって世界は説明可能になる。だから分けることが知識を増やし文明を作ることに繋がってきた。DNAなどの分子科学も医学も、分けて分けて人間や命を説明しようとする。それでものすごく解ったような気にもなるが、本当は何も解ってないのではないかと立ち止まってみる必要もある。分けて説明してしまったとたんに感動が消えていくのかもしれない。利用者と介護者の自他を分けてしまったから、おむつ外しの数値が必要になってしまう。そこには介護者、利用者も含めて、人間も人生もおむつも、それぞれがばらばらに切り刻まれてしまった痛々しさがある。

 今、時代はありとあらゆる場面で「あわい」を失いつつある。あわいを失えば物語が機能しなくなり、切り刻んで説明するしかなくなってくる。我々の現場で言えば「徘徊」などは、いかにも切り捨てた説明に他ならない。「あわい」においては、「徘徊」はあり得ない。それは「お出かけ」であったり、「旅」であったりする。時空を超えた過去と自分の「あわい」に旅に出るとか、あの世の人々と生きている自分の「あわい」に歩いて行くというような物語がそこには明確にある。それを「徘徊」と切り捨て蔑むことは、許されない暴力だ。
 物語は「あわい」にしか生まれない。あなたと私、過去と未来、自然と人間、あらゆる「あわい」に我々は物語を見いだす。物語は、何かと何かを繋ぐことで生まれる。里では事例として物語を最重視してきた。物語を紡ぐことは、切ることによって失われた魂を取り戻す作業であるが故に、大切なのだと思う。世界を説明しようとして、あらゆるものの切断に次ぐ切断を繰り返して来たのが現代なのかもしれない。魂は失われ、物語は生み出されなくなり、感動が消える。それで最も損なわれてしまったのは自我なのかもしれない。あなたと私は完全に切断される。あわいが許されない。お互いは対峙する他者でしかなくなる。

 そうした状況に最も辛い形で被害を被るのは、認知症の人だ。「一人では生きていけないけれども、誰かがいれば生きていける」のが認知症の本質的なありようだと感じてきた。「関係を必要とする病」とも言ってきたのだが、ほとんど理解されない。認知症の人こそ「あわい」を必要としていて、「あわい」さえあれば生きていける。ところがその「あわい」が最も損なわれた時代だということが問題だ。
 「あわい」を失った自我はとても辛い。深い孤独に陥る。繋がるものが何もない。物語は生まれない。自分だけの世界に孤立した自我は対立しか生まない。「あなたでも私でもなく、あなたでも私でもある」という中間領域が生まれない。全て誰かの所有になってしまう。かつてインディアンにとって、土地は誰の物でもなかったという。大いなるものと人との「あわい」にあった「たまもの」を誰かの所有にするなどとは思いもよらないことだった。ところが西洋人がやってきてロープを張った。切断によって「あわい」は消え、神との物語も消滅する。この切断がインディアンの魂を殺害したと言えるだろう。そして現代では、個人の自我において、同じような切断と殺害が行われていないだろうか。自立、自己責任という、一見、正しすぎるような言い回しで「あわい」が切断されて自我が孤立し、何者とも繋がり得ない孤独の中に、自我を立ち上げ主張しなければならない強迫観念の圧力に、押しつぶされそうになってはいないだろうか。

 自我の確立などと言うが、対立しか生み出さない自我に、品位を感じることはできない。禅では「我」は執着にすぎない。妄執を捨て無我を開けという禅の“無”は、何もない“無”ではなく、「あわい」に繋がる「満ちた無」である。銀河の里でイメージしてきた「あわい」は、様々な物語が無尽蔵に生まれ来たる、ふるさととしての無我なのかもしれない。認知症の人は生きるために「あわい」を必要とすると同時に、孤立した自我を抱えて懊悩する現代の人々に「あわい」をもたらしてくれる救いでもあると感じる。
 ここでうっかり現代に合わせて「あわい療法」などとは決して言ってはならない。そのとたんに「あわい」は消える。「あわい」は方法論ではなく、人と人が出会い生きる舞台なのだと思う。

【参考文献】
河合隼雄 著 「猫だましい」新潮社
竹内整一 著 「やまと言葉で(日本を)を思想する」 春秋社



posted by あまのがわ通信 at 18:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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