銀河の里では、日々の暮らしのなかで生まれてくる語りやエピソードを丁寧に記録し、スタッフが大切に共有するようにしてきた。それらは様々な視点によって育まれ、考察されながら、やがて「事例」として、いわば物語として結実していく。里では伝統的にこの物語を紡ぐ作業を最重要視し大切にしてきた。
こうした「物語」を紡ぐ作業がなかったとしたら、里は他の施設同様、業務をルーティン化し効率良く日々をこなすだけの「介護工場」になるしかなかっただろう。介護工場になってしまうと介護する側とされる側が役割固定され、「安全」や「リスク回避」だけが優先されてしまい、マニュアルによって「管理」が徹底され、日々が作業のかたづけ仕事に終始するしかなくなってしまう。そうした管理の現場は、やがて人間を疲弊させていき「拘束」や「暴力」の温床となっていく。
日常の語りやエピソードは日常の輝きとして記録され、それは毎月一回開催されるユニット会議で個々のケースごとにまとめられ担当者が発表し検討し合う。スタッフ全員で意見や感想等を語り合うなかで物語はプロセスを見せ始める。そこでは新たな発見があり、さらなる見立てが展開し、関係の深まりが確かめられていく。そうした取り組みが一人ひとりの利用者との間に、何年も、時には10年以上継続される。ある時期、「事例検討」や「事例」として立体化され、物語を共有しつつ、考察していくことになるのだが、それこそが里の仕事の中核にあると認識してきた。
里で紡がれ続ける個々の物語は、果たしてフィクションなのかノンフィクションなのかという疑問があった。語りはもちろんエピソードも客観的な記述に留まらないことが多い。むしろ関係性の中で生まれる語りやエピソードは主観というより、さらに深いところで個々人の存在が関わって物事が動いている。そのどちらも超えたところにあるというべきなのだが、「ドキュメンタリーは主観が関与していなくてはならない」という佐藤真のドキュメンタリー論が鮮やかに胸に響いたので、4月の銀河セミナーでは、彼の映画『阿賀に生きる』を観ることにした。
この映画は、1992年の作品で、スタッフ7名が阿賀での3年間の共同生活を経て作られた作品だという。佐藤真は劇場公開時、パンフレットに「この3年間の記録は、阿賀に生きる人々を見つめ、また阿賀の人々に見つめ返されることで変わってきたスタッフ7人の葛藤と成長の記録でもある」と述べている。これはもう里の「物語」と全く重なると感じて感動が湧いてくる。
阿賀野川は、新潟水俣病の舞台で、この映画は元々その被害者であり患者でもあった人々のドキュメントで、公害を告発する意図で制作が企図されたのだと思う。
佐藤真著の『ドキュメンタリー映画の地平』の副題は「世界を批判的にうけとめるために」となっており、ドキュメンタリーは映像表現による現実批判であり、世界のあり方を批判的に受け止めるための映像表現であると言っている。さらに「映像には必ず得体の知れぬ何ものかが映り込んでいる。それは言語表現を超えた何ものか、つかみ所のない生、解決する糸口が見えない矛盾をそのまま冷徹に映し出すことが、世界を批判的に受け止めることになる。しかし、そのつかみ所のなさこそがドキュメンタリーの魅力である」と言われれば、まさに「里」の物語の魅力とも完全に重なってくる。
佐藤真曰く、ドキュメンタリーの主流といわれる国策映画や広報映画、産業界の要請によるPR映画や、教育映画等の政治主義や啓蒙主義との訣別から出発すると言い、体制や反体制運動のプロパガンダではなく、作家性と主体性を放棄した「記録映画」から決別し、逆にそれらを取り戻す目的の「記録映画」を目指そうと自分の作品を定義している。
彼は、素材やテーマの社会的意義を客観的に見つめるのではなく、その題材と自分がどう関係を切り結ぶかを自省的にとらえようとする。現実を徹底して見つめることによって、映画作成チームの一人ひとりが、自らの世界観を問い直されることで生まれる「世界の新しい見方」こそが彼の作品だというわけだ。作品の作り手側が、現実とその記録映像から何かを学ぼうとする姿勢がないとしたら、観客がその作品から「新しい世界の見方」を汲み取ることはできないという考えだ。
佐藤真の姿勢からすれば、ドキュメンタリーは、フィクションなのかノンフィクションなのかは問われなくなる。現実には虚構が満ちており、人の話には必ず嘘が混じるものである。ただキャメラを向けさえすれば「真実」が映ると考える素朴な現実信仰は、排除されなければならない。ドキュメンタリーが対象とする「現実」は、いつも“虚構の境目”に揺れているものなのである。
−なぜ、映像には“無意識”が映るのか− 人間の眼は自己に有益なディテールについてだけ集中して見ている。意識的に選択して見ている。自分にとって必要な意味の文脈のなかで現実を見ているのだ。
キャメラアイは監督やキャメラマンの意図や意味を超え、フィルム上に横溢するものこそがキャメラアイでとらえた現実のリアルな姿なのであると佐藤真は言う。まさにその通り「里」のユニット会議では、担当者が記録を元にプロセスを追っていくなかで、思いもかけないことを発見することもあるし、見えていなかったプロセスが、会議の中で新たに発見されてみんなで驚き感心することが度々起こる。
佐藤真は、ドキュメンタリーとジャーナリズムの違いを指摘もしている。「ジャーナリストと呼ばれるものは、自身が当初に掲げたテーマにあった事実にしかなかなかキャメラを向けようとしない。最終的にまとめあげられるコメントの方が大事なのである。撮影者の主観によって、現実(事実の断片)の中からある事実だけが選択されているにもかかわらず、客観的事実は存在すると考えるイデオロギー」とも言える。これは鋭い指摘で、里においても「事例」を恣意的に作り上げる事への警告のように思える。
佐藤真は、ドキュメンタリーは「私」のフィクションであるとも言っている。「ドキュメンタリーは、現実の世界を、言葉によって語りうるとも、映像によって客観的に描きうるなどとも考えていない。ドキュメンタリー作家は、映像でとらえればとらえるほど、この世界に存在する何ものかが映り込んできて、ますます現実の不可解さが増すばかりといった無力感にさいなまされる。しかし、現実を無理やりまとめあげたり、客観性を装ったりしない。ドキュメンタリーの現場には、おのずと客観的事実だとか、本当の真実だとかは存在しなくなる。映像に撮ることでしか気づくことがない、現実の似姿をしたもう一つのリアリティ。そうした虚構のリアリティの生々しさの前にたたずむばかりなのである。映像に映り込んだ、怪しい魅力を発つアウラ(物体から発する微妙な雰囲気)をかき集め、考えあぐね、再構成することでドキュメンタリーは生まれる。映像に映った事実の断片を再構成して生み出される、「私」のフィクションなのである」(映像がとらえるアウラ:複製技術時代を批評する際に用いた芸術論の中心概念の一つ)。
「それは硬化した世界の常識は、ドキュメンタリーによってしか切り崩したり、批評したりすることは出来ないと思うから」と記している。
ドキュメンタリー映画の作家と高齢者介護の現場の我々が、なぜここまで似通った視点に立っているのだろうかと驚くのだが、考えてみれば当然と言えば当然なのかもしれない。現実にやっていることは、まるで同じではないか。田んぼに入って一緒に農作業をやり、深い関係の中で関心を持って話を聞き記録する。一人を徹底して見つめる中からその向こうにある時代や地域をまなざし、さらにその奥に人間の存在そのものに迫ろうとする。そうして新しい世界の見方の発見と発信が可能性として拓かれる。その課程において、常に主体のありようが問われ続ける厳しさも同じだ。
追:ひとつ屋根の下 私は3月に立教大学の大学院への入学が決まったものの、どこか気持ちが虚ろで、年度末の仕事の慌ただしさに逃げていた。そんな時、倉本聰の演劇『屋根』が秋田で上演されるので観に行った。
演劇の舞台は北海道の開拓で、秋田から来た嫁さんが主役という設定だった。内容は、戦前の北海道に開拓に入った夫婦が「農業」で生計を立てながら、貧しいながらもたくさんの子供(9人)を産み育て、楽しい我が家ができつつあった。しかし戦争が始まり二人の息子が亡くなる。一人は戦死し、もう一人は赤紙が来た時点で「人を殺す」ことを拒み自死する。
残された家族はその後を一生懸命生きるのだが、戦後の経済成長という時代の流れに翻弄され、農業を継いだ息子は、大型機械を導入し設備投資に多額の借金をする。ところが貿易の自由化によって、多額投資が裏目に出て破綻してしまう。老夫婦は開墾した土地を手放して夜逃げをする。全てを失った老夫婦は、子どもたちとの記憶の「絆」と、古着の「縄綯い」とが重なって、死んだ子どもたちのいる「いのち」の屋根にのぼる。屋根は廃屋になっても最後まで残る。私は、最後のシーンで嗚咽に近い状態になり、自分でもビックリした。私も北海道出身で貧乏の子沢山と言われる9人兄弟で育った。また丁度、中沢新一の『野生の科学』や、内山節の『戦争という仕事』を読んでいたところなので、資本主義経済の破綻の現状や、震災や原発事故を経験した現代日本で「どう生きるべきか?」を考えていたので、それらがシンクロしてしまったのだと思う。
翌日、角館にある武家屋敷を歩いた。かつて何度か武家屋敷や桜を見に来たことがあるが、一人旅でじっくりというのは今回が初めてだった。冬の終わりの春先で風景はイマイチの季節だったが、雰囲気のある宿で温泉に入りリラックスして名物のきりたんぽ鍋や稲庭うどんのコースで大満足だった。さらに地元の語り部による角館の歴史語り「冬ものがたり」を、「いろり」で“いぶりがっこ”を囓りながら聞いた。400年にわたる壮大なドラマを方言で聞いていると、年表では伝わってこない息づかいを感じることができ、84歳の語り部の角館に対する愛着も強く感じられた。しかもなんと、語り部は開口一番「今年の冬は雪が少なくて、命がけの“屋根”の雪おろしもすることが無く・・・」という話から始まり、私はすぐさま「屋根」に反応してしまった。
この旅行中、里のグループホームに入居されていた94歳の男の方が亡なられた。ターミナル状況ではあったので、出かける前にお会いして、祈るような気持ちで出かけたのだった。私の不在中ではあったのだが、御家族・スタッフ・ドクター・看護師そして利用者の方々が集まって、とても感動的なお見送りができたと聞いて私は胸を熱くした。家族さんから葬儀の日程が伝えられたとき「是非スタッフと一緒に利用者さんも参加してほしい」と思った。94歳の綾子さん(仮名)にお話をすると「行きましょう、だって“ひとつ屋根の下”で暮らした人だもの」とおっしゃったので私は絶句した。「屋根」、立教大学大学院入学の動機となった『ローカリズム原論』、その核とも言える「ひとつ屋根」。
還暦を過ぎて今さら大学院で論文なんだろうか?と、どこか虚ろで不安に打ちのめされていた私だったが、「だいじょうぶ!」と背中を押してもらったような気がした。
posted by あまのがわ通信 at 13:39|
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