2016年08月14日

おばあちゃんへの歩み ★ グループホーム 川戸道 美紗子【平成28年5月号】


 特養の利用者、桃子さん(仮名)は、演歌歌手の島津亜矢が好きで、以前にもスタッフと北上で開かれたコンサートに行ったことがある。それを思い出しながら「いがったなあ〜『おかあさん』のうた歌うんだよ、声もいがっけなあ〜」とよく語ってくれていた。今回、盛岡公演があったので一緒に行ってきた。
 桃子さんはいろんな意味で迫力満点の人で、口も体もよく動く人だ。しかし一昨年の冬とその後と2回、軽い脳卒中で入院した。病院では車いす生活を言い渡されたにもかかわらず、見事に復活し、「年相応」には近づいたものの、再び自分の足で歩いている。口の方は相変わらず達者で、新人のしつけ役・ユニットのお母ちゃん役・口うるさいおばちゃん役…などあれこれ忙しくこなしている。

 コンサート会場に向かう道中、いつもの様に昔の事、家族の事・・・を同行した新人の安衣理さんに語って聞かせていた。いざコンサートが始まり、2〜3曲過ぎた辺りから、桃子さんはグタッと私の肩に寄りかかってきた。あれ、まさか寝ちゃったかな?と顔を覗き込むと「起きてらよ」と小さく言う。目を細くして歌を聴いている。てっきり、いつもの様にキラキラとした目でコンサートを楽しむもんだと思っていたが様子が違った。そんな感じで前半が終わり休憩時間には会場が明るくなる。そのとき桃子さんは、また小さな声で「ありがとう」と私に言った。

 普段の桃子さんからは想像できないような、らしくない言動に私は驚いた。そしてさらに「時代は変わったなあ」としみじみ独り言のように話す。普段の機関銃トークとは打って変わってしんみりと語り、言葉数も少ない。珍しい様子に驚いているうちに後半のステージが始まる。
 島津亜矢の歌は力強いものが多い。オリジナル曲だけではなく、カバー曲もそんな選曲で、歌詞もひたむきで、自分や家族を信じて歩んでいく・・・といった雰囲気が強い。桃子さんお気に入りの「おかあさん」の歌も、母への感謝を歌った情念に満ちたものだ。後半も静かにステージを見つめる桃子さん。島津亜矢がステージで語る。彼女は子どもの時から歌が好きで、母親が歌の先生として厳しい練習に励んだそうで、過酷な練習に耐え懸命な努力の末…今の彼女がある。

 桃子さんは、毎朝一緒に新聞を読んでいる利用者の清志さん(仮名)に、「おめ(そんなに歌が好きならば)歌手になれば良かったんだ」と言われた事がある。それに対して、「おれの若い頃なんて、大東亜戦争中だった。あの頃、日本は戦争、戦争だった。そんな事、考えてもいられねかったじゃ」と返していた。昭和3年生まれの桃子さん。早くに旦那さんを亡くし、女の細腕ひとつで田圃を耕したり土方仕事をしながら、4人の子ども達を育てあげ生きてきた。
 桃子さんはいろんな事を時代のせいにしたり、ある意味、自分のそんな生い立ちを武器にしてひねくれながら、「お前はまだまだ甘い!!」と若いスタッフを負かしてきた。けれど今日はまるで違う一面を見せてくれた。夢を追い続けた人・島津亜矢を、たくましい存在として自分に重ね、その歌に励まされ、そこに浸っている桃子さん。「時代、変わったな」とのしみじみとした一言に万感の思いがこもっていて、私は黙して受け止めるしかできなかった。
 力強い歌、母としての歌、妻としての歌…が響き、いろんな時代の桃子さんがこのコンサートの中で蘇っているような気がした。普段は「稼がなきゃない」「まだまだやれる」と、どこか自分を自分で鼓舞して生きている桃子さんが、歳を取り、今までの人生との折り合いをつけながら、これから家族や私たちスタッフともどう関わっていくのか。島津亜矢とその歌に自分とその人生を重ね、これからの旅路に想いを馳せようとしている姿が私にはいじらしく感じられた。桃子さんが島津亜矢を大好きな理由がわかった気がして、私は妙に納得した。

 このとき、今年の新人・安衣理さんが一緒にいたことで、桃子さんの気持ちがよりくっきりと見えた気がする。安衣理さんはどちらかいうと言葉でのやりとりが達者な人だ。桃子さんもいつもはそうなのだが、今日はそうじゃなかった。「言葉」の安衣理さんの隣で桃子さんの「無言」が私に響いた。私には、「言葉ではない世界、見えない世界を感じたり想像したりすることは、とても大事だ」と、新人の彼女に伝えようとしていると感じられてならなかった。言葉じゃないもの(表情・空気・手・目・身体・こころ・想い・・・)を大切に丁寧に向き合おうとする姿勢。普段あれだけの言葉の桃子さんだけど、この日は言葉じゃない桃子さんがいた。

 このコンサートから帰った直後、桃子さんが待ちに待っていた曾孫が生まれたという連絡が入った。それを聞いて満面の笑顔。桃子さんはこうやって歳を取り、おばあちゃんになっていくのだなあと感じて、私はなぜかホッとした。桃子さんが、今までの人生のいろんな事を片付け始められそうだ、と感じた。ようやく「おばあちゃん」のスタートかもしれない。桃子さんは今年88歳。改めて、これからどんな歳の取り方をするんだろうなぁと楽しみに思えた。
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2016年08月13日

試食販売から見えた兆し ★ ワークステージ 米澤 充 【平成28年5月号】


 昨年の7月から販売が始まった「冷凍シウマイ佐助豚」は、パッケージのデザイナー、料理研究家の先生、プランナー、バイヤー等の協力のもと、一年以上の開発期間を経て完成した自信作だ。この焼売は岩手県二戸市産の佐助豚の旨みを活かすため、化学調味料、アミノ酸、保存料は一切使用しておらず、子供でも安心して食べる事ができる商品になっている。化学調味料特有のくどい感じはなく、やさしく繊細な味に仕上がっているため、体が受け入れてくれる感じで食べられるのが特徴であり、東北や関東のスーパー、百貨店等でも評判を得ている。
 発売から今年4月までの9ヶ月間の集計では、累計43回の店頭試食販売を実施し、1パック8個入り商品を、対面で2,450パック(一回の販売で平均57パック)販売したことになる。例えば一人が2パック購入したと考えて、約1,200人のお客様と対面して販売した計算になる。さらに試食だけだった方を含めると、たくさんの人と出会っている事になる。今まで事務作業を中心に行ってきた私からすると、これは貴重な体験であり、非常に刺激的であった。食を通じて多くの方々と出会いコミュニケーションが取れるという事は、試食販売の特権であるように感じた。

 試食販売では販売する店舗、地域、天気、催事などによって客層や客数がかなり変化する。一日に130パック販売できる時もあれば、一日頑張っても10パックも売れない時だってあった。ありがたいことに「美味しい」と言っていただける方が大半だったが、「横浜中華街から取り寄せている焼売の方が美味しいわ」や「ほかの冷凍品の方が味がしっかりして良いわ、そっちの方が安いし」と言われたことあって悔しい思いもした。人の好み、特に食の好みに関しては人それぞれであるため、万人に受け入れられるものを作るのは本当に難しいと感じる。
 ただ43回の試食販売を通じて、お客様の中には、ただ焼売(食材)を買いに来ているのではなく、買い物を通じて、販売する私やさらには製造者ともコミュニケーションを取ろうとしている方がおられる事に気づいた。その事に気づいてからは「今日の目標は何パック売ろう」とは考えなくなり「今日はどんなお客様とどんなコミュニケーションができるかな」と思うようになった。やりとりを楽しめるようになると、その結果、何度も行く店舗では顔見知りとなったお客様から「お兄ちゃん、また買ってくよ!がんばってね!」と声をかけられるようになってとても嬉しかった。インターネットで簡単に何でも買える時代に、こういったコミュニケーションを体感できるのは、対面販売ならではのことで、それだけでも意味のあることだと感じた。
 試食販売では小さな子どもが食べに来ることも多く、「美味しい!」と大きい声ではしゃぎながら、母親に試食を持って行って食べてもらう場面が何度もあった。私も親として我が子が美味しそうに食べている姿は嬉しい。そういう商品を提供できる事がとても幸せに感じる。

 今後、私の目標としては、店頭でのコミュニケーションの能力に磨きをかけ、食卓に里の焼売が並ぶ事で家族の会話が弾んだりする場面が想像できるような、大袈裟に言うと食卓のライフスタイルの提案ができるような試食販売ができるようになりたいと考えている。
 販売から間もなく一年が経過するが、おかげ様でリピーターが増えてきているようで、発注も定期的に入っている。また、関東の大手百貨店の定番商品として店頭に置かれることも決まった。これまでやってきたお中元・お歳暮企画も予定している。10年以上も焼売を作り続けているワーカーさん達も、販売の結果や販路の展開を伝えると、一緒に喜んでくれた。そうした姿に励まされ、私は次の試食販売への元気をもらったりしている。
 競合相手に大手メーカーも並ぶ。「福祉施設の授産製品」という甘えは一切通用しない。今後、生産体制や衛生管理を更に徹底し、一人でも多くのお客様に「美味しい時間」をワーカーさんと共にがんばって届けていきたいと思う。
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2016年08月12日

自己決定ってなんだろう? ★ 特養 すばる 千枝 悠久【平成28年5月号】


 先日、施設長に誘われて、里に見学に来た立教大の学生の方と話をする機会があった。その方は、“認知症の方の自己決定・意思決定”を研究のテーマにしようと考えていたそうだが、“そもそも自己決定というのはそこまで尊重しなければならないものなのか?”という疑問に行き着き、テーマを変えようかと悩んでいたそうだ。私は介護の専門学校を出て資格を取り里に来たため、初めの頃こそ “自己決定”を常に意識していた。が、今ではほとんど意識していない。こう書くと“慣れてしまって初心を忘れたダメな職員”というレッテルを貼られそうだが、そうではない。そのことを今の私に伝えられるかどうかは分からないが、これまで私が里で経験したことを基に、このテーマについて考えてみたいと思った。

 半月ほど前、すばるにショートステイで章さん(仮名)が来た。章さんは朝早くからいろいろ歩き回っているそうで、一緒に居たら面白そう!と思った私は、2日間ずっと一緒に過ごしてみることにした。それは私にとって、これまでに出会ったたくさんの利用者さんのことを思い出させてくれる大切な時間だった。
 お風呂に入ることが不安で、「待て、待て、待て!・・・・・よし!」と覚悟を決めて入る姿は、次郎さん(仮名)のことを思い出させてくれた。次郎さんにはいつも「オメさんは入ら0ないのか?」と声を掛けてもらい一緒に入ったという思い出があり、章さんとも一緒に入ることにした。二人で朝早くから歩き回り、朝ご飯を食べてからのお風呂だったため、湯船では「最高だな!」って言い合うくらい気持ちよかった。
 歩きながら私が歌うと、それにノッて歌ったり踊ったりしてくれる章さんは、洋さん(仮名)の姿と重なった。洋さんとは、ショートステイに来ていたころ、夜にどうしても“帰る!”となり、ドライブに出てイギリス海岸の桜並木を“月がとっても青いから”を歌いながら歩いた思い出がある。二人ノリノリですごく楽しくて、なんだかよくわからないけれど、それからそのまま特養に戻って来られた。章さんともそんな感じでノリノリで歌ってたら、途中で出会ったヤス子さん(仮名)も歌い出して、三人で合唱になって楽しかった。

 ショートステイ最終日の家に帰る少し前、廊下で新人の千田君とすれ違うと、「オメも行くべ!」と誘った章さん。そこからは千田君と歩く感じだったため、私は少し離れたところからその様子を見ていた。すると、どうも私と歩いていた時とは様子が違う。あとから話を聞いたら、「これを運ぶのっす!」と交流ホールのイスを千田君が運んだり、「歌ってみろ」って言われたりしたそう。それは千田君に何かを教えようとしているように思えた。そして、私自身が新人の頃に出会った、デイサービスのA子さん(仮名)のことを思い出させてくれた。

 A子さんはとにかく歩く人だった。「いこー!」とスタッフのことを誘い、ずっと外を歩いていた。特に私と歩いている時はほとんど中に入らず歩き続けていた(と思っている)。耳がほとんど聞こえず、話す言葉は言葉にならないような言葉ばかりで、自己決定というものからはほど遠いところにいるように思われる人だった。それでも私は、A子さんから自己決定というものを教えてもらった気がしている。
どうしていいのかわからず、A子さんの後をただひたすらついて歩くだけだった毎日。歩いているだけの日々。自分が何をしているのか、何のためにいるのか、何者なのか分からなくなる。うんざりすることもあった。それでもA子さんは「いこー!」と私のことを誘って歩き続けた。この頃の私は、何も自分で決めることができていなかったのだと思う。

 A子さんと歩く道は、初めはA子さんに決めてもらっていた。それは土手、「危ないよー!」と後ろから引っ張る私と、「やー!まー!やまて!いこう!」と引っ張るのを振り払おうとしながらも先を切り拓くようにして下ったA子さん。それはちょっとした溝、先にピョンと飛び越え、「ほらっ!ほらっ!」と私に手を伸ばしてくれた。歩いているうちにたくさんの出会いがあった。草木、花、虫、鳥、そういったものを見つけては、「あれー!ねー♪」とニッコリ笑うA子さん。歩いている道の途中の、小さなもの一つひとつに二人一緒に感動した。里の中のいろいろなところを回り、たくさんの人と出会い、たくさんの笑顔と出会った。
そうしているうちに、私のなかに“今日はこういうのが見たい!”とか“あの人に会いたい!”という思いが生まれてきて、歩くのは後ろから隣、時には私のほうが前になることもあった。道なき道も二人で決めて歩き、そこでの新しい出会いに笑い合った。事務所の屋根に二人で上り、施設長に大変心配を掛けてしまう、なんてこともあったけれど。眺めが最高だったなぁ。

 A子さんは自分の歩く道を自分で決めていた。それは、自分の居場所、やりたいこと、人や物との距離感など、たくさんのことを自分で決めているということでもあったのだ。それを感じ取れず“ただ歩いているだけ”と思ってしまったのは、私自身が自分の歩く道を決めることができていなかったからだと、今では思う。A子さんの歩く道と私の歩く道が重なり合い始めて、それでやっとA子さんが自分で決めているのだということを感じ取れるようになったのだ。
 A子さんとは言葉を用いたコミュニケーションを取ることができず、私自身も人と話すことが苦手だったため、歩くこと自体が二人の共通言語だった。それを教えてもらっていたからこそ、章さんとも一緒に歩きながら、特に多くは言葉を交わさずとも、二人で自然と歩く道を決めていくことができた。昨年すばるに入居された良吉さん(仮名)も、今、一緒に歩いていると感じている。良吉さんも言葉を用いない人だ。入居当初は、スーッとすばるから姿を消し、外へ歩いていくことが多かった。時に不安や焦燥感に駆られたような歩き方もあったが、それ以外は静かに自然に出て行く様子で、それは私には、A子さんの「いこー!」を思わせた。良吉さんもきっと何かを自分で決め、そうして歩いているのだ、と思えた。どこに行こうとしているのか、何を求めているのか、それは実際に一緒に歩いていた入居当初だけでは計り知ることはできなかった。今は歩くということはなくなったが、その代わりに、視線や表情や行動など、言葉以外の全てを総動員して自分の決めたことを伝えてきてくれている。言葉とは違い、その内容はすぐには伝わらないのだけれども、すばるのみんなで一緒に考えながら良吉さんが決めたことを感じ取っている。それは、私がA子さんと歩いたこととも繋がっていると感じられている。

 “自己決定”という言葉にとらわれると、ある一つの事柄や一回の機会の際に、相手に決めてもらうだけ、と思ってしまうようになると思う。里での暮らしでは、相手に決めてもらうけれども、同時に自分自身も決めていて、そうして二人の歩く道の重なり合ったところで決まっていくと感じている。たくさんの思いを抱えながら、考えて、悩んで、転がって。時にぶつかり合い、時にお互いそっぽを向いたり、笑ったり、泣いたり、怒ったり・・・。すごく大変だけれど、とっても大切な、決めるということを自然にやっている。

 立教大の方が、自分が過去に経験したエピソードがすごく面白かった、と紹介してくれた。それは、ある認知症のおじいさんの話で、“薬を飲まずに家に散らばっている理由が、自分の研究が忙しくて”だったり、“傷のできた理由が、道ですれ違った悪漢との格闘との末にできた漢の勲章で、そこから始まる俺の一代記”だったり。そのおじいさんが話している姿が目の前に思い浮かんだし、それを聞いている姿も思い浮かび、“二人で歩いたんだなぁ”と感じられた。
 誰もが日々暮らしていくなかで、ちょっとずつ自分で決めていて、それを言葉や行動にして伝えてくれていて。一緒に歩く人、場所、時によってそれは少しづつ変わっていくこともあって。話を聞きながら、一緒に歩いたたくさんの思い出が駆け巡り、私は思わず、「ここではそれがあまりに日常すぎて・・・」と笑ってしまっていた。そうなのだ。すごく面白くて、“自己決定”を特に意識せずとも一緒に歩いていける、そんな毎日を私は過ごしているのだ。このテーマを考えてみて、改めてこれからも一緒に歩いていきたいと思った。
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2016年08月11日

能とすき焼き −姥捨とコソコソ− ★ 特養 管理栄養士 佐藤由実佳【平成28年5月号】


 今回、研修で狂言・能の鑑賞、美術展の鑑賞をしてきた。ついでに浅草の今半ですき焼き和食コースをいただいてなかなかインパクトのある研修の体験となった。
 私が初めて能を観たのは中学校の芸術鑑賞だった。能楽堂での上演ではなかったし、その時は何か難しいものだなという印象しかなかった。3月に研修で能を観に行くことが決まり、出発する数日前のこと、利用者のTさんが言葉をくれた。「おれを、あの山さ、ずっとあっちのあの山さ連れてって置いてきて」という語りを聞きながら、私は姥捨山の話が連想されて怖くなり「置きに行かないしここにいてほしい」とTさんに返した。その翌日、中屋さんにTさんの語りを話したら「えっ!」と驚いて目を輝かせた。研修で観ることになっている能の演目は「姨捨」だと言うではないか。“いやいやTさんそうきたか”と中屋さんと二人でワクワクを共有した。“観る前からこれかよ”と何か不思議な気持ちになりながら、期待をしつつ研修に臨んだ。

 国立能楽堂に着くとすでに異界な感じがした。さらに国立能楽堂の中に入って、能舞台がある空間に進むと、圧倒されて、なんだか身が引き締まるような感じがした。能は独特な掛け声と言い回しで、セリフや謡の歌詞は言葉としては内容が全くと言っていいほど聞き取れなかったが、話し方や動作によって、身体から心情が伝わってくるように感じた。演者の歩く動作、体の運び方など一つひとつが丁寧できれいだった。
 「姨捨」を観ているうちに、能面の表情が変化していくのに気がついた。口元が緩んで微笑んだように見えたり、一気に悲しそうな顔つきに見えたりするので不思議な感覚だった。日本語で「能面のような」というのは表情のないことを言うだけあって、実際には能面は表情を変えてはいないはずなのに、喜怒哀楽の感情が表情として伝わってくるのは何なんだろうと不思議だった。先日のTさんの語りもあり、Tさんのことを思いながら観ていたからか、Tさんの口元そっくりに見えたりした。特にニヤッとした表情に見えたとき、そういえばTさんがあの語りのあと、「でも、少し経った後で迎えに来い」と言っていたことを思い出した。
 「姨捨」を観て最後、悲しいような寂しいような感覚がおそってきた。“Tさんにもそういう気持ちがあったのかもしれないな”などとあれこれ想いが巡ってぐるぐるしてきた。これが能『姥捨』の体験だった。
 国立能楽堂の能舞台の仕掛けもさることながら、Tさんの『姨捨』を観ることがわかっていたかのようなシンクロの語りが、私に圧倒的な観劇体験をもたらしたことは確かだ。

−Sさんとすき焼き−
 研修後、理事長から「研修でせっかく今半のすき焼きを食べたんだから、栄養士としてユニットすばるで、すき焼きやったらどう?」という話がでた。その時、私の脳裏に浮かんだのはSさんだった。すばるのみんなですき焼きを囲んでもよかったが、肺炎に罹ってしばらく絶飲食が続き、その後からなかなか食事がすすまなくなっていたSさんと、二人きりですき焼きを食べたいと私は思った。
 Sさんと「居室にいる」こと、その時を、私は大切にしたいと思っている。Sさんは居室ではリビングでは決して見せない表情と語りがいっぱい出てくる。リビングでは無口で自分から話しかけてくることはほとんど無いのに、居室ではこちらが話しかける前にSさんの方から語りかけてくれることもあって、そんなとき私は驚きと同時にこれから何をしてくれるのだろうというワクワクした気持ちになることが度々あった。悪いことをしているわけでもないのに何か「コソコソ」の雰囲気になるのがSさんのとのやりとりの特徴だ。居室で二人だけですき焼きを食べる。こんな究極のコソコソはない。リビングなら黙々と食べるSさんなのだろうが、居室だと「コソコソ」のなかから何かあるのではないかと私は期待をしていた。

 予定の当日、計画通り、二人きりで居室に籠もってすき焼きの準備を始める。すき焼き用の牛肉を見て「いいお肉だじゃ!」と笑いながら準備を見守ってくれた。今半風に、まずお肉を焼いて出す。すると、最近使っていなかった左手を机の上に出して、両手でお肉を食べ始めるSさん。あれ!と思った。最近はまったくと言っていいほど、食事の時、左手は机の下にあり、右手だけでご飯を食べていた。「Sさんの左手どこに行ったの?」と聞くと、素知らぬ顔で「ここさあるじゃ」とか、時には「どっかさ行ってしまった」と返ってくることもあった。
 野菜も入れて食べ始めると、「おいしいな」とニコニコで食べていた。そして、「やっぱり魚より肉だな!」と、ぼそっと言いながら黙々と食べるSさん。それ以降は何も語らなかったが、目が合うと微笑んで「フフフ」と笑って、すき焼きを味わっている感じと、楽しんでくれていることが伝わってきた。食べ終わって「また美味しいもの食べよう」と声をかけたらニヤリとした表情が印象的だった。

 居室でのすき焼きイベントが終わってリビングに出てきた時、スタッフから「何してきたの?」と聞かれても「フフフ」と笑って、「何もしてきませんよ」というように知らん顔していた。その時のSさんの笑顔が妙によかった。その顔を見ていると、一緒にすき焼きをやってよかったと感じた。驚いたのは、なんとその後、夕飯を完食したことだった。それは“最近の食のすすまなさは何だったんだろう”と思わせた。

 ここ最近、食事がすすまなかった人とは思えないほどの食べっぷりを見たら、ただ単純に美味しいお肉だったからご飯がすすんだというのもあるのだろうが、そういうことより、こちらのアクションを探っているのだなとも思えた。すき焼きを食べた後の、あのニヤリとした顔は“そうきましたか”と試されているような感じがあった。
 私はまだまだSさんの期待に応えていないし、彼女の想像の範囲内でのことしかできてないにちがいない。いつかSさんの想像を超えたことができたらと思う。Sさんと一緒に「コソコソ」できることを探していきたい。

【 解 説 】
 
 由実佳さんは昨年度の新人で、社会人2年目の管理栄養士だ。特養のユニットでケアスタッフとしてがんばってきた。昨年は蕎麦を栽培し、年末の年越しには手打ちの年越し蕎麦を振る舞ってくれた。ユニットの現場では看取りも経験して、食べられなくなっていく人の食事についてもいろいろ考えながら、実践的に取り組んできた一年だった。
 看取りをした方をはじめ、由実佳さんは利用者さん一人ひとりから個別にたくさんのメッセージを受け取ってきた。亡くなる数ヶ月前の利用者さんがなかなか食事ができなくなっていたのだが、何とか食べてもらいたくて特製の味噌汁を作ったことがあった。もちろんその人のための特別の一品として調理した。相手の利用者さんはその想いに応えるかのように、久々に食べ物を口にしてくれた。そして一言「まずい!」と語ってくれたのだった。この「まずい!」に涙ながらに感動している由実佳さんのセンスはとても良いと私は感じた。つまり栄養士としてもケアスタッフとしても、利用者からたくさん学ばせてもらえる人は、日々育ててもらえることになるんだと思う。「利用者からしか学べない」というのは我々の現場の鉄則だ。そうした姿勢があるからか、不思議なこともたくさん起こって来る。研修で能の『姥捨』を観に行くことになった矢先、由実佳さんはその演目を知らないのに、利用者はわかっていたかのような言葉をくれる。由実佳さんの観る『姥捨』にはその利用者も関わってくることは当然のことで、観劇体験はより深みを増してくることは間違いない。
 今半のすき焼きは一見、研修のおまけのようだが、これも大切なことだと思う。栄養士としてまっとうな料理をたくさん味わうことも必要だろうし、一流店の接客から学ぶこともたくさんある。何より良いのは、その味を、利用者さんとも味わいたいと思えることだ。しかも今回は絶飲食の治療から食が細くなっているSさんと“二人きりで”というところがすばらしい。もともと「コソコソ」が身についているようなSさんとの「すき焼きコソコソ」は、有り得ないくらいおいしく特別なすき焼きだったに違いない。
 他のスタッフも、このすき焼きコソコソがどうなるか関心を持って見守ってくれている。「フフフ」も「ニヤニヤ」もチームスタッフ全員が受け止めてくれているし、その後の夕食まで完食したのにはみんなが感動する。
 以前、他施設の施設長に「おたくではそうした特別扱いを平等にやられているんですか?」と批判めいて言われたことがある。利用者を個別に扱うのは平等の原則に外れていると言いたかったのだと思うが、「うちは一人ひとり特別扱いですから」と私は応えたのだが通じなかっただろう。一人ひとりは特別な存在なのだから、個別に特別に向き合っていくのは当たり前のことだと思うのだが。(理事長 宮澤 健)
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銀河セミナー「阿賀に生きる」感想 ★ ワークステージ 佐々木 里奈【平成28年5月号】


 「ドキュメンタリーとは何か」の答えを探しながら、『阿賀に生きる』を鑑賞した。ドキュメンタリーには、@まなざしを生み出す、A瞬間を共有する、B記録するという機能(あるいは可能性)があると考えた。
 映画は老人二人の田植えのシーンから始まる。言ってしまえば少し前の日本にはどこにでもあった風景だ。しかし、熟練の技が滲む田植えの動作、何十年もそうして上っているのであろう急な坂を杖で登るおばあさんの曲がった背中など、こうして改めて見てみると、今は失われてしまった日常の中の価値、たくましさを感じる。カメラを通して現実を映すことで、ドキュメンタリーは、受け流しがちな日常の価値を新たな視点から見つめなおすまなざしを生み出す。(@)

 また、この映画のスタッフが、出演者のひとりである舟大工の遠藤さんの厳しい表情に気づいたのは、映像を編集している時だったという。複数のスタッフ達の会話の中でその発見がなされたのではないかと想像した。瞬間を他者と共有できるというのもドキュメンタリーの価値である。現場にいると、「さっき○○さんが△△△って言ったの聞いた?」「昨日○○さんが、あの時こんな顔をしたっけよ」と言う会話がよく交わされる。小さな瞬間の集積が人生であることを感じるが、その瞬間を共有することはかなり難しい。利用者は、人を選んで事を起こしているようにも思うし、様々な条件が揃った上で起こっているようにも思う。ゆえにその“瞬間”に居合わせることはかなり難しいし、カメラが起こるべきことを邪魔しないためには努力と時間を要すると想像するが、これを共有することができたら大きな喜びにつながる。(A)

 ドキュメンタリーのもう一つの大きな意味はやはり記録としての機能である。映画で言えば、囲炉裏からお湯を汲み客人をもてなしたり、川舟づくりや鉤漁の技であったり、舟渡の風の読み方や、つつが虫病と呼ばれる風土病の厄災払いで地蔵を拝む女性たちなど、そこには言語化されない人々の生活、知恵、文化が詰まっている。言語化によってそぎ落とされてしまう何かを記録として残すことで、撮影時、編集時、あるいは完成して鑑賞されたときにも見出されなかった価値が、何年もたって、ここではないどこかで生まれる可能性も含んでいる。(B)

 これまで主に現実を映すものとしてのドキュメンタリーの機能を考えてきた。しかし、それは単なる現実そのものではなく、作者の視点から再構成されたものであることも感じた。カメラワークやナレーション、字幕、音楽、何を映すのか切るのか、その全ては作り手側の目線、主観なしには成立しない。映し出された日常のユーモアの挿入は、映画に登場する阿賀に生きる人々が抱える辛苦や葛藤の重さを引き立たせていたが、それはある程度恣意的なものなのかもしれないし、そうでないかもしれない。例えば銀河の里で、何を、誰を、どう映すか、映さないかという選択を迫られるとき、里として、あるいは自分がどう生きるかを迫られ、それによって一段深いところで、撮ろうとするその人に近づけるのかもしれない。
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佐藤真のドキュメンタリー論に学ぶ ★ 施設長 宮澤 京子【平成28年5月号】


 銀河の里では、日々の暮らしのなかで生まれてくる語りやエピソードを丁寧に記録し、スタッフが大切に共有するようにしてきた。それらは様々な視点によって育まれ、考察されながら、やがて「事例」として、いわば物語として結実していく。里では伝統的にこの物語を紡ぐ作業を最重要視し大切にしてきた。
 こうした「物語」を紡ぐ作業がなかったとしたら、里は他の施設同様、業務をルーティン化し効率良く日々をこなすだけの「介護工場」になるしかなかっただろう。介護工場になってしまうと介護する側とされる側が役割固定され、「安全」や「リスク回避」だけが優先されてしまい、マニュアルによって「管理」が徹底され、日々が作業のかたづけ仕事に終始するしかなくなってしまう。そうした管理の現場は、やがて人間を疲弊させていき「拘束」や「暴力」の温床となっていく。

 日常の語りやエピソードは日常の輝きとして記録され、それは毎月一回開催されるユニット会議で個々のケースごとにまとめられ担当者が発表し検討し合う。スタッフ全員で意見や感想等を語り合うなかで物語はプロセスを見せ始める。そこでは新たな発見があり、さらなる見立てが展開し、関係の深まりが確かめられていく。そうした取り組みが一人ひとりの利用者との間に、何年も、時には10年以上継続される。ある時期、「事例検討」や「事例」として立体化され、物語を共有しつつ、考察していくことになるのだが、それこそが里の仕事の中核にあると認識してきた。

 里で紡がれ続ける個々の物語は、果たしてフィクションなのかノンフィクションなのかという疑問があった。語りはもちろんエピソードも客観的な記述に留まらないことが多い。むしろ関係性の中で生まれる語りやエピソードは主観というより、さらに深いところで個々人の存在が関わって物事が動いている。そのどちらも超えたところにあるというべきなのだが、「ドキュメンタリーは主観が関与していなくてはならない」という佐藤真のドキュメンタリー論が鮮やかに胸に響いたので、4月の銀河セミナーでは、彼の映画『阿賀に生きる』を観ることにした。
 この映画は、1992年の作品で、スタッフ7名が阿賀での3年間の共同生活を経て作られた作品だという。佐藤真は劇場公開時、パンフレットに「この3年間の記録は、阿賀に生きる人々を見つめ、また阿賀の人々に見つめ返されることで変わってきたスタッフ7人の葛藤と成長の記録でもある」と述べている。これはもう里の「物語」と全く重なると感じて感動が湧いてくる。
 阿賀野川は、新潟水俣病の舞台で、この映画は元々その被害者であり患者でもあった人々のドキュメントで、公害を告発する意図で制作が企図されたのだと思う。
 佐藤真著の『ドキュメンタリー映画の地平』の副題は「世界を批判的にうけとめるために」となっており、ドキュメンタリーは映像表現による現実批判であり、世界のあり方を批判的に受け止めるための映像表現であると言っている。さらに「映像には必ず得体の知れぬ何ものかが映り込んでいる。それは言語表現を超えた何ものか、つかみ所のない生、解決する糸口が見えない矛盾をそのまま冷徹に映し出すことが、世界を批判的に受け止めることになる。しかし、そのつかみ所のなさこそがドキュメンタリーの魅力である」と言われれば、まさに「里」の物語の魅力とも完全に重なってくる。

 佐藤真曰く、ドキュメンタリーの主流といわれる国策映画や広報映画、産業界の要請によるPR映画や、教育映画等の政治主義や啓蒙主義との訣別から出発すると言い、体制や反体制運動のプロパガンダではなく、作家性と主体性を放棄した「記録映画」から決別し、逆にそれらを取り戻す目的の「記録映画」を目指そうと自分の作品を定義している。
 彼は、素材やテーマの社会的意義を客観的に見つめるのではなく、その題材と自分がどう関係を切り結ぶかを自省的にとらえようとする。現実を徹底して見つめることによって、映画作成チームの一人ひとりが、自らの世界観を問い直されることで生まれる「世界の新しい見方」こそが彼の作品だというわけだ。作品の作り手側が、現実とその記録映像から何かを学ぼうとする姿勢がないとしたら、観客がその作品から「新しい世界の見方」を汲み取ることはできないという考えだ。

 佐藤真の姿勢からすれば、ドキュメンタリーは、フィクションなのかノンフィクションなのかは問われなくなる。現実には虚構が満ちており、人の話には必ず嘘が混じるものである。ただキャメラを向けさえすれば「真実」が映ると考える素朴な現実信仰は、排除されなければならない。ドキュメンタリーが対象とする「現実」は、いつも“虚構の境目”に揺れているものなのである。

−なぜ、映像には“無意識”が映るのか−
 人間の眼は自己に有益なディテールについてだけ集中して見ている。意識的に選択して見ている。自分にとって必要な意味の文脈のなかで現実を見ているのだ。
キャメラアイは監督やキャメラマンの意図や意味を超え、フィルム上に横溢するものこそがキャメラアイでとらえた現実のリアルな姿なのであると佐藤真は言う。まさにその通り「里」のユニット会議では、担当者が記録を元にプロセスを追っていくなかで、思いもかけないことを発見することもあるし、見えていなかったプロセスが、会議の中で新たに発見されてみんなで驚き感心することが度々起こる。

 佐藤真は、ドキュメンタリーとジャーナリズムの違いを指摘もしている。「ジャーナリストと呼ばれるものは、自身が当初に掲げたテーマにあった事実にしかなかなかキャメラを向けようとしない。最終的にまとめあげられるコメントの方が大事なのである。撮影者の主観によって、現実(事実の断片)の中からある事実だけが選択されているにもかかわらず、客観的事実は存在すると考えるイデオロギー」とも言える。これは鋭い指摘で、里においても「事例」を恣意的に作り上げる事への警告のように思える。

 佐藤真は、ドキュメンタリーは「私」のフィクションであるとも言っている。「ドキュメンタリーは、現実の世界を、言葉によって語りうるとも、映像によって客観的に描きうるなどとも考えていない。ドキュメンタリー作家は、映像でとらえればとらえるほど、この世界に存在する何ものかが映り込んできて、ますます現実の不可解さが増すばかりといった無力感にさいなまされる。しかし、現実を無理やりまとめあげたり、客観性を装ったりしない。ドキュメンタリーの現場には、おのずと客観的事実だとか、本当の真実だとかは存在しなくなる。映像に撮ることでしか気づくことがない、現実の似姿をしたもう一つのリアリティ。そうした虚構のリアリティの生々しさの前にたたずむばかりなのである。映像に映り込んだ、怪しい魅力を発つアウラ(物体から発する微妙な雰囲気)をかき集め、考えあぐね、再構成することでドキュメンタリーは生まれる。映像に映った事実の断片を再構成して生み出される、「私」のフィクションなのである」(映像がとらえるアウラ:複製技術時代を批評する際に用いた芸術論の中心概念の一つ)。
 「それは硬化した世界の常識は、ドキュメンタリーによってしか切り崩したり、批評したりすることは出来ないと思うから」と記している。
 
 ドキュメンタリー映画の作家と高齢者介護の現場の我々が、なぜここまで似通った視点に立っているのだろうかと驚くのだが、考えてみれば当然と言えば当然なのかもしれない。現実にやっていることは、まるで同じではないか。田んぼに入って一緒に農作業をやり、深い関係の中で関心を持って話を聞き記録する。一人を徹底して見つめる中からその向こうにある時代や地域をまなざし、さらにその奥に人間の存在そのものに迫ろうとする。そうして新しい世界の見方の発見と発信が可能性として拓かれる。その課程において、常に主体のありようが問われ続ける厳しさも同じだ。

追:ひとつ屋根の下
 私は3月に立教大学の大学院への入学が決まったものの、どこか気持ちが虚ろで、年度末の仕事の慌ただしさに逃げていた。そんな時、倉本聰の演劇『屋根』が秋田で上演されるので観に行った。
 演劇の舞台は北海道の開拓で、秋田から来た嫁さんが主役という設定だった。内容は、戦前の北海道に開拓に入った夫婦が「農業」で生計を立てながら、貧しいながらもたくさんの子供(9人)を産み育て、楽しい我が家ができつつあった。しかし戦争が始まり二人の息子が亡くなる。一人は戦死し、もう一人は赤紙が来た時点で「人を殺す」ことを拒み自死する。
 残された家族はその後を一生懸命生きるのだが、戦後の経済成長という時代の流れに翻弄され、農業を継いだ息子は、大型機械を導入し設備投資に多額の借金をする。ところが貿易の自由化によって、多額投資が裏目に出て破綻してしまう。老夫婦は開墾した土地を手放して夜逃げをする。全てを失った老夫婦は、子どもたちとの記憶の「絆」と、古着の「縄綯い」とが重なって、死んだ子どもたちのいる「いのち」の屋根にのぼる。屋根は廃屋になっても最後まで残る。私は、最後のシーンで嗚咽に近い状態になり、自分でもビックリした。私も北海道出身で貧乏の子沢山と言われる9人兄弟で育った。また丁度、中沢新一の『野生の科学』や、内山節の『戦争という仕事』を読んでいたところなので、資本主義経済の破綻の現状や、震災や原発事故を経験した現代日本で「どう生きるべきか?」を考えていたので、それらがシンクロしてしまったのだと思う。

 翌日、角館にある武家屋敷を歩いた。かつて何度か武家屋敷や桜を見に来たことがあるが、一人旅でじっくりというのは今回が初めてだった。冬の終わりの春先で風景はイマイチの季節だったが、雰囲気のある宿で温泉に入りリラックスして名物のきりたんぽ鍋や稲庭うどんのコースで大満足だった。さらに地元の語り部による角館の歴史語り「冬ものがたり」を、「いろり」で“いぶりがっこ”を囓りながら聞いた。400年にわたる壮大なドラマを方言で聞いていると、年表では伝わってこない息づかいを感じることができ、84歳の語り部の角館に対する愛着も強く感じられた。しかもなんと、語り部は開口一番「今年の冬は雪が少なくて、命がけの“屋根”の雪おろしもすることが無く・・・」という話から始まり、私はすぐさま「屋根」に反応してしまった。

 この旅行中、里のグループホームに入居されていた94歳の男の方が亡なられた。ターミナル状況ではあったので、出かける前にお会いして、祈るような気持ちで出かけたのだった。私の不在中ではあったのだが、御家族・スタッフ・ドクター・看護師そして利用者の方々が集まって、とても感動的なお見送りができたと聞いて私は胸を熱くした。家族さんから葬儀の日程が伝えられたとき「是非スタッフと一緒に利用者さんも参加してほしい」と思った。94歳の綾子さん(仮名)にお話をすると「行きましょう、だって“ひとつ屋根の下”で暮らした人だもの」とおっしゃったので私は絶句した。「屋根」、立教大学大学院入学の動機となった『ローカリズム原論』、その核とも言える「ひとつ屋根」。
 還暦を過ぎて今さら大学院で論文なんだろうか?と、どこか虚ろで不安に打ちのめされていた私だったが、「だいじょうぶ!」と背中を押してもらったような気がした。
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あいあいの記 〜賑やかな事務所編〜 ★ 中屋 なつき  【2016年3月号】

*3月号に掲載された「あいあいの記」。掲載しそびれてました、遅れましたが5月号に紛れてUP💦

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銀河の里の一コマ(Photo Gallery)@ ★ 【平成28年5月号】

お花見2016 〜DS・GH・特養・生きがいDS〜

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銀河の里の一コマ(Photo Gallery)A ★ 【平成28年5月号】

田んぼ始まる! 〜種まき・肥料まき・田起こし・箱並べ〜

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暮らしの一コマ

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