*2017年1月1日(元旦)朝日新聞朝刊より
2017年元旦の目覚めは不思議な感動と共にやってきた。「銀河の里」(以下、里と記す)は「神話が生み出される場なんだ!」と突然ひらめいたように思い至り、そして「そうなのか、そういうことなのか、確かにそうだったな」と妙な納得と感動に浸ったのだ。
介護施設はスタッフの疲労困憊や大変さが強調され、若い人たちも敬遠しがちな職場として一般に認知され、時代も反映して業界の人手不足はかなり深刻である。業界の先導も作業の効率化に躍起になっている。それで何が面白いんだと疑問ばかりが膨らんで研修などもつまらなくて仕方ない状況にある。そうした状況下では大半の施設がおぞましいものになって、内部でどんな非道なことが行われているのだろうかと疑わざるをえなくなる。社会はそうした状況を薄々感じながらも目をつむって、なるべく関わらないようにするものだから、現場はますます荒んで疲弊するという悪循環になっていく。
先日もあるグループホームで、入居者が包丁を振り回して逮捕されるという事件が報道されたばかりだが、ネットにはそれに関して吐き気を催すようなコメントがツイートされていた。大まかには、認知症の人や施設に対して否定的でバカにした他人事の内容ばかりで、相模原障害者殺人事件の犯人の主張が、現代の日本社会の大半の人たちの本音としてあるんだという現実に向き合わされる。そこには呪いの言葉しかないかのようだ。内田樹氏によれば、ネットは呪いの言葉に満ちていて、現代はまさに呪いの時代だと言う。そして呪いの言葉は確実に自分に返ってくるから、今必要なのは呪いではなく祝福の言葉なのだと言う。
その通りだと思うのだが、実際に祝福の言葉をこの時代にもたらすことはかなり難しくなっているのではないだろうか。そんなところに元旦の朝、いきなりやってきた感動は祝福そのものであったと感じることができ、里は呪いではなく祝福に満ちている場なんだと確信できたから凄い。17年目に入る里が、業務優先や作業効率を追いかけるような一般の福祉施設とは一線を画して、そうした圧力からかなり自由で、人手不足に悩んでいるとはいえ、現場から日々話題が豊富に記録され感動を共有しながら、疲弊しないでやっていけている理由の一端が微かながら見えた。
里の入居者は大半の人が認知症で、その人たちは「現代の長老」だと常々私は感じている。近代のタイトな科学主義や、現代のグローバルな増殖作用によって世界中を均一化しようとする流れに対して、それらの陳腐さや危うさを本質的に問いかけ、踏み留めてくれる人達だ。語る言葉やその行為は「謎かけ」だらけであるが、日常の暮らしに揺るぎない世界観をもって迫ってくる。私自身は思春期以降クリスチャンとして人生をスタートさせた経緯もあって、三位一体の神を信じる一信教からの潔癖さから、そもそも神話には興味が持てず、日本の国造りの神話も、外国の神話もよく知らない。しかし、年を重ねるごとに私の日本人としてのDNAは、自然への畏敬や八百万の神との親和性を呼び戻してくれたようで、やっと「宗教性」という広がりの中で、見えない世界を探求するようになった。
里が始まってみると、ともに暮らす人達の「食:いのち」を養うために、率先して鍬を持ち田畑を耕す高齢者がいたり、自然の恵みに感謝する強い思いを持って祭事に参加し、四季折々の歳時を若者に教え、生活に潤いや張りを持たせてくれる人達もいた。また夜な夜なあちらの世界と交信して、先祖や死者達の霊を慰め、和解のための儀式を行っている人もおり、その度に私たちは驚きと感動に襲われた。残念なことに、一般にはそれらは「妄想」「作話」「戯れ言」「徘徊」という認知症の周辺症状として切り捨てられている。しかし里では、暮らしの中でそうした語りや行動を丁寧に聞き取り記録し、大切な秘儀として受け止めてきた。これらのやり取りは「近代」に剥ぎ取られ「現代」で忘れ去られた「何ものか」(レヴィ=ストロース的に言えば、「野生の思考」というべきもの)を蘇らせ、活性化させる場となってきたのではないか。そうした姿勢や眼差しがあることで、次々と個々の神話が語られ、新たな神話が生み出される空間を作り出してきたのだと気づいた。
里は、自宅で介護することが難しい人達が、社会的介護の場として利用する認知症専門の介護施設としての「デイサービス」や「グループホーム」を運営している。ただそれは制度上の仕組みのことであって、里では「介護」の生業に特化することをむしろ避け、制度を超えてスタッフ個々が自分自身を深化させることを念頭に、利用者と向き合うことを大切にしてきた。つまり「認知症介護」にせよ「身体介護」にせよ、それを作業としてはとらえず、人と人とを、異界と現実とをつなぐ貴重な通路として捉えてきた(このイメージは能舞台の橋がかりにかなり通じる)。介護を神話的空間のツールとして用いるとき、現代では非科学的と否定されることや、エビデンスとして表すことができない世界が体験でき、「介護する」「介護される」の関係では見えてこなかった個々の宇宙が展開し、「あなたと私」の2人称の繋がりが顕現してくる。
*哲学的な問いをくれたカナさん
前回の号で、モモ子さん(仮名)と私の黒靴が同じように損傷した事件について書いたが、その出来事は私達がカナさん(仮名)の葬儀に一緒に出席したことが発端になっている。私とモモ子さんとカナさんの3人にはある約束事があった。カナさんがショートスティで里に来ていた頃の4年前、日に何度も何度も語ってくれた物語があった。それは自分を育ててくれた実の親と、教師になることを支援してくれた育ての親、両方の「恩義」についてだった。カナさんの独特な口調と具体的にイメージできる内容 (さすが小学校の先生らしい) で、聞くものは深い感動を与えられた(通信2012年5月号を参照)。
私とモモ子さんは、交流ホールのソファでお茶をしながら、その話に聞き入った。私はカナさんの聞き書きを記録して「本」にすることを約束し、録音させて貰った。そのときにはモモ子さんにも入ってもらい、カナさんのエピソードを引き出してくれた。その後、カナさんは入退院を繰り返し、特養ホームに入居されてからは、ほとんど発語がなくなり、居室で過ごすことが多くなったため、私は「聞き書き」を本にする約束さえ忘れていた。カナさんは、ショートスティ時代に「私は、誰に、どうして、ここに連れられてきたのですか?」という問いを一日中炸裂させていた。スタッフは現実的な理由を根気よく繰りかえし、紙に書いて説明するなど、いろいろやってみたが彼女の満足を得ることはできなかった。特養ホーム入居になってからは、その問いが「ここはどこですか? 私は誰ですか?」と変わり、亡くなるその日にはスタッフの手を取り「私は、どこから来て、どこに行くのでしょう?」と問うた。私たちはその時々に、頭をめぐらせ一生懸命その答えを返そうとしていた。だがカナさんの問いは自らに向けられたものであって、どんな外からの答えにもズレを生じていたのではなかったろうか。そして「私に答えるよりもあなた自身に問い続けなさい」という意味で、何度も何度も聞いてくれていたのかもしれない。
あとから考えるとその時にはずいぶんと見当違いな対応をしていたなと反省させられることが多い。しかし靴底事件の後、何かを悟ったようにモモ子さんはユニットから飛び出して事務所にやって来て「俺も稼げばなんねぇ」と声をかけてくれた。その日は、餅米の田んぼの脱穀作業だった。米寿を迎え2度目の脳梗塞で不全麻痺になった身体をおして、田んぼに一時間以上立ちっぱなしで脱穀の作業をやってくれた(車いすで田んぼにきて、作業をやり終えるとまた車いすで帰っていった)。それから一か月後、モモ子さんは再度の脳梗塞で歩けなくなり言葉も不自由になった。新人の直生君に田んぼ作りを教えると約束したことを気にかけて、不自由になった口から「こったな体になって、あいつに申し訳ねぇ」と言い、悔し涙を浮かべた。そんなモモ子さんに私は感動した。ところが歩けなくなっても、言葉が不自由になっても、その後もモモ子さんは健在である。年末の餅つきはその体で直生君を叱り励ましながら、餅つきを仕切っていた。これは新たな伝説になるだろう。
*スタッフと田んぼに立つモモ子さん
そして私は、カナさんとの約束は反故にしてしまったが、入れ替わるようにユニットすばるに入居されている99歳の健吾さん(仮名)に「田瀬物語」の本の出版を託された。健吾さんは入所して間もなく、スタッフの川戸道さんを専属秘書にして語り、冊子としてまとめ、親しい人たちに配布した経緯がある。その後「もう一つの田瀬物語」もスタッフが聞き取っていた。そして今、健吾さんの語りは史実としての田瀬物語を超えて、カナさんの「私はどこから来て、どこに行くのか」という哲学的な問いに通じる語りとなっている。ダムとして湖底に沈んだわが故郷を現実の「田瀬物語」として語った後、あの世に向かう物語を自らの命を通して過去と未来をつなげようとしているかのように感じた。
聞き書きとしての「田瀬物語」から、
神話としての「田瀬物語」へ
私は昨年度から、立教大学大学院に入学して論文を書こうと学んでいるのだが、「ローカリズム原論」という授業で、毎回ドキュメンタリー映画を見る。そこで『水になった村』という作品に出会った。
この映画は水に沈む徳山村に生きたお年寄りとの15年間にわたる記録映像であり2007年に公開された。ダム建設が決定された後に、水没によって故郷の地を追われるまでを見届けた生き証人達の貴重な映像でもある。このダムは1971年(昭和46年)に建設省(今は国土交通省)による特定多目的ダム事業として事業計画され、2000年本体工事に着手、2008年4月(計画から37年後)に完了、事実上日本最後の巨大ダム建設になる (総費3,500億円、日本最大の額で、「巨大ダム反対」運動はとても激しかったという。完成後もダムの必要性については論争が起こる話題の多いダムでもある)。
地面をひたひたと静かに押し寄せてくる水の映像から映画は始まる・・・。
*映画「水になった村」(監督:大西暢夫)
この始まりはこの映画のテーマを象徴している。小さな虫、植物、先祖から継いだ田畑、家族と暮らした家、そこに生きる人間を、ひたひたと37年もかけて「すべての記憶」もろとも根こそぎ飲み込んでいく。ダムによる水没が決まったその村に、春になると何人かのお爺さんお婆さん達が電気も水道も引かれていない中で、山菜を採り野菜を作付けし、冬が来るまで生活を続け、毎年通って来る姿が描かれている。いよいよ家が壊される時、ショベルカーの一突き一突きが、まるで自分の身体に突き刺さってくるようなシーンは衝撃的だ。もう戻る場所はないのだ。
お爺さんお婆さん達の新しい家での近代的な環境の暮らしの生きづらさは、スーパーでの買い物やお金の出し入れの風景として映像化されていた。街でお婆さんは「ここには、何もない、お金は出ていくばかり」と言う。山の恵みで食を満たし薬まで作り、稼ぐ毎日があった日々の幸せを懐かしんでいる。何が豊かなのか問われるシーン。「ここにはわしらを見守ってくれる神様がおるんじゃ」と映画のパンフレットに書かれていた。この映画に流れる宮澤賢治の「星めぐりの歌」に私はどこか癒されていた。何故、監督はこの「星めぐりの歌」を選んだのだろう・・・。
健吾さんから本の出版を託される直前に、この映画を観たのも不思議な縁だ。私は、その田瀬ダムがどういう経緯だったか概観してみた。田瀬湖は、「銀河の里」の周辺地域の稲作を支える農地灌漑としての役割もあり、春の棚田の用水路に水が来るのはこのダムのおかげである。稲作農家にとって「水」は、死活問題だ。安定的に供給される農業用水は、農民にとっての悲願でもあった。田瀬ダムは北上川水系猿ヶ石川に建設された人造湖で、ダム湖百選のひとつに選定されている。利用目的は洪水調節・灌漑・発電である。日本におけるダム開発は単一目的が主だったが、1926年物部長穂(東京帝国大学教授)が多目的ダムによる河川開発が重要という見解を示し、1935年に正式に国策(物部構想)として採用された。1941年6月に着工された田瀬ダムは、内務省が初めて着手した、現在の国土交通省直轄ダム1号だったという。太平洋戦争による中断(1944-1950)を挟んで13年の歳月をかけて戦後1954年に完成した。戦後すぐにはダム建設は再開されず、緊急の課題であった食糧増産のために一旦離村した住民に対して帰村を許可し耕作を行わせた(1942年には水没住民への用地買収が行われ全員が補償基準調印を済ませていた)。そのため建設再開時、一度補償を行った住民に対して、離村・離農に係わる生活保護を名目に再度水没補償を行うという異例の再補償をした(ダム補償交渉のなかで特筆に値する)。また、「土地強制収用は不当」として頑なに拒否し、行政訴訟を起こした者が1名いたが、1961年に住民敗訴という結果に終わった。ダム建設に伴い181世帯もの住民が2度の移転を強いられ、民家547戸と公共施設17棟が水没した。水没地域に暮らしていた住民は1827名を数える(この住民の一人に健吾さんがいる)。
健吾さんの聞き書き「田瀬物語」の冒頭には「ふるさとは 湖底にありと 寂しげに」と書かれており、内容はその地に住んでいた者でなければ知ることの出来ない祭事や日々の暮らしの様子が生き生きと描かれていた。健吾さんは水没する田瀬、新田(屋号)の庭園を矢沢(移転先)に再現する事業を一人で成し遂げることを決意したという。田瀬の庭園には樹齢何百年というツツジやいろいろな植木があった。やがて湖底に沈んでしまう庭を思い、一本でも多くの植木、先祖伝来の植木を矢沢の地に咲かせようと思い移植した。その庭園は健吾さんが生涯をかけて、見事に矢沢の地に実現したのだが、高齢になりその住まいを離れ、特養ホーム「銀河の里」に入居することになった。
入居後、今まで大事に育てた庭の木々を少しずつ里に運んで、かつての田瀬の庭園は特養の中庭に受け継がれている。その中でも樹齢300年?と言われるご自慢の「三尺モモ」(背の低い桃の木)は、毎年実をつけ生命の逞しさを見せてくれている。それだけではなく万年生きるという石の亀も鎮座している。
私は当初、田瀬物語を完成させるべくミッションを受け取ったように思ったのだが、聞き書きを始めてから、そうではないことに気がついた。健吾さんは語る ― 私は、ずっと「いのち」の「継続」のことを考えてきました。私が行くところは、お釈迦様がつくった極楽浄土ではなく、湖底に沈んだわが故郷が浄土なのです。そこに帰るのです。私は行くところが決まっているので、全く心配はありません ― という宣言とも取れる言葉を聞いたとき、人が生きていくときに支えとなる「幹」なる「神話」のようなものを感じた。健吾さんは主に、お爺さんが語っていた言葉を思い出して、語ってくれるのである。まるでお爺さんの物語を私達に語り継いでくれているようでもある。お爺さんは神話を語り、お父さんが現実を語り、今99才のお爺さんである健吾さんは、孫である私達に神話を語り・・・そのように話を聞いていると、何代にも渡って生を受けた過去が、死という未来を照らし、現在を生きている、そんな切れない繋がりを感じる。時に、詩吟のお師匠さんである健吾さんの朗々とした歌が吟じられ、貴重な時間が流れる。「私には伝えたいことがたくさんあります。でも時間がありません・・・」と、にこやかに言うが目は笑っていない。この時間は双方、真剣勝負だ。毎回一時間ほど録音を撮らせて貰っている。そこから私は何を汲み取っていくのか、果たして神話としての「田瀬物語」を書き留めることが出来るのか・・・苦悩する私に再びカナさんの深い問いが心に響いてきた。
*花巻市東和町にある田瀬ダム
グループホームに神棚が設置
一方、グループホーム第1では、夏の恐山ツアーから戻ったイタコシスターズが、それぞれに日々大活躍である。恐山から戻って1ヵ月ほど経った頃の、Yさんの見た夢が凄い。Yさんの枕元に立派な人が立っているので、「どなたですか?」と尋ねると「忘れたってか、恐山で会ったべじゃ」と言われたという。そのうち、それは生きていれば62歳になる息子だと分かった。水子供養をしたYさんの願いは、立派に成長した息子として夢に現れ、母としてのYさんを安心させたのか。Yさんは恐山ツアーで一緒だったHさんの部屋を訪れこの話をすると、Hさんは「なんたら、自分の息子の顔も忘れたってか」と返した。なんと、迫力のある会話だ。水子供養の息子の顔を覚えている事が当たり前という世界観で、ふたりの会話は成り立っているのだ。またHさんは、恐山で頂いたお札をどこに置くか悩んでいた。「ここには、神棚がないのよね。はじめから、おかしいと思っていたわ」と遂に不満爆発。公共施設でもあり、宗教を特定しては差しさわりある人もあろうかと、これまでは敢えて設置してこなかった。しかし、札をどこに収めればいいのかと言われると、神棚設置は自然のような気がした。設置するからには、神棚の位置や大きさの検討をし、お隣の八雲神社の宮司さんに来ていただき「神棚払い」なる儀式もきちんとやることになった。
12月15日午前11時、静かに雪が降る中、グループホーム第1の利用者全員とスタッフが参列し、儀式は厳かに執り行われ、無事に神符を納めることができた。それから毎朝、神棚にはご飯と水があげられている。Tさんは小さな声で「神様が見ていると悪いことは出来ないな」と言いながら大きく「ブッ」と放屁する。「Sさん(亡くなったTさんの旦那さん)が、Tさんになりすまして、いたずらしている」と苦笑するスタッフ。私は、神棚に祭られている神様より、生き神様として大活躍の皆様方に手を合わせたくなる。
1月3日、新年恒例の「権現舞」が銀河の里にもやってきた。いつもは大騒ぎの人も皆の「健康と祝福」に、静粛に心から手を合わせた。小正月には、七草がゆを食べて万病を防ぎ、ミズキ団子の華やかさと共に「どんと焼き」が行われる。決してイベントではなく、暮らしの歳時を刻みたい。そこには確かな物語や神話がそれぞれの心から語られるのであるから。
*グループホームに設置された神棚。近くの八雲神社の宮司さんに祭事をお願いし、畑で採れた大根と人参もお供えした。
今は見ることが難しくなった、人のつながり、神と仏が、普通に日常にいてくれた時代。
これからの私達に、一番大事な事を、銀河の里は教えてくれているようです。
とても興味深い施設です。
銀河の里を知ると、他の施設のマニュアル化された仕事に違和感を覚え、銀河の里を紹介してしまいます。
(スタッフでも無いのに、銀河の里をPRしてすみません💧)