繁さん(仮名)と出会ったのは4年前のことだった。私はグループホームから特別養護老人ホームに移ったばかりの頃で、右も左もわからない私を父親のような存在感で支えてくれた。
若い頃、国立競技場を作るのに駆り出されたりして、腕の確かな大工さんだった繁さん。どっしり構えてユニットを見守っている繁さんの姿は大きな山のようで、慌ただしく過ぎていく特養の毎日の中での、私にとって心の拠りどころだった。「ヒロ、ケン坊、がんばってらか〜」と斜め上をながめて孫さん達を応援していたり、背格好が似ているスタッフを「ケン坊♪」と呼んで笑ったり。娘さんの名前を呼んでいる時に、女性スタッフが娘になって「どうしたの〜?」と返事をすると「こんな時間に出かけちゃだめだ〜」とお父さんの一面を見せてくれたりもした。ある時には大工の親方らしく「この建物は建てて何年だ?いい家だなぁ」と語ったり、「この柱なんだ!こんな仕事じゃだめだ!」とテーブルの脚をたたいて強度を確かめたり。繁さんの中には、まだまだたくさんの仕事が残っていた。
ある日、「家に帰る!」と車イスを乗り捨てて立ち上がり、スタッフに支えられて一歩一歩しっかりと踏みしめ歩いていく繁さん。私は、繁さんの、身体を超えた途方もない「家」と「家族」への思いを感じた。
今年9月の誕生日に「欲しいものある?」と聞くと「いっぱいあるよ」と言う。「一つ教えて」と頼むと「自分の家」と教えてくれた。繁さんは昔、自分の家を建てようと木材を集めていたそうだ。私はその言葉を聞いて「誕生日には繁さんの家を作ろう!!」と決めた。
「どんな家が良い?」と聞くと、ある日は「二階建ての…白い家。屋根は黄色」、またある日は「ドアが4つ、窓が12個」といろいろプランがあるようだった。私は悩んだ末に、粘土で家を作ることにした。そして誕生日の当日、私は粘土の家を、ユニットスタッフの勝浦さんと洸樹くんはお菓子の家を作ることにした。
お菓子と粘土の家では大工の繁さんに怒られるのでは…とちょっとドキドキ…だった。最初は鋭い目つきで、私たちが悪戦苦闘しながら各々の家を組み立てていく様子を見ていた。私たち人足の現場の仕事ぶりを大工の棟梁の繁さんが監督している感覚になった。言葉がないのが余計に緊張感をもたらせた。繁さんも修行時代、こうして親方の視線を感じて家を建てたのだろうと思った。
私の家はその日の内には完成をみなかったけれど、まず先にお菓子の家が完成した。繁さんは「嬉しいよ」「ありがとう」ととても良い表情で言ってくれた。その上、自分の誕生日なのに「皆で食べろ!」と振る舞ってくれた。ひとつの家の完成を皆で喜ぼうとする姿勢に、私は、繁さんの中にある「家」の存在の大きさをしみじみと感じた。
10月に入ってから繁さんは足の血色が悪くなり、一度大きな病院に入院した。医療管理の面から考えて、そのまま病院でターミナルを迎える話もあったが、家族さんが「ぜひ銀河の里に戻りたい」と言ってくださった。そして10月12日にユニットに戻り、看取りをすることになった。寝たきりになった繁さんではあったが、ユニットの大黒柱として、言葉やしぐさを通じて、その存在感は全く変わらなかった。
娘さんご夫婦やご家族の方々が毎日面会に来られ、「今日はどうですか?」「何かしゃべってらっけ」「さっき起きて手が動いてたよー」と繁さんのさまざまな話題で盛り上がり、周りは家族さんやユニットスタッフで、明かりが灯ったようだった。
繁さんはお孫さんが大好きだった。そのお孫さん二人も長期休暇をとって東京などから面会に来られた。お二人に協力してもらい、繁さんは久しぶりに入浴することも出来た。孫さん達が小さいころは繁さんとお風呂に入っていたという。「おじいさんの入れる風呂は熱くて入り難かった」という孫さんならではのエピソードも教えてくれたりして、ほのぼのとしたいい時間を過ごすことができた。
ターミナル期に入って繁さんは、「家」や「家族」を自分で引き寄せてユニットの中に作り上げていた。それはとても自然な形をしていて、いつの間にか私はユニットに居ながらにして繁さんの「家」に入れてもらっているような感じさえした。繁さんは、特養に入居しながらも「家」や「家族」を傍にしっかり感じていたと思う。
体力は衰え、身体も弱っていくのだが、そんな身体を抱えながら、繁さんは何一つ手放そうとしなかった。日が経つにつれて言葉が出なくなっても、家族さんや私たちの問いかけには微かな身体の動きなどで反応してくれる。そこに繁さんの感情の動きを確かに感じた。いつも仕事をしているようで、両手は天をかき集めるようにして動かし、忙しそうだった。「上手くいった?」と聞くと、にんまりと返してくれることもあった。たまに頭の後ろに手を回したり、腕組みをしたりして悩んだようなポーズもとっていた。上手くいかないこともあったようだ。