2016年11月23日

農作業できるようになろうぜ〜心の浸透力の賦活に向けて〜 ★ 理事長 宮澤 健 【平成28年11月号】

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 若い人で「自分が嫌い」という人が多い。その傾向は50代から始まり40代以降から急に増えるようだ。そしてなぜか里には20代30代のそういう人が集まっているように感じる。里にはそうした人をよびよせる何かがあるのだろうか。そんな人が現場で認知症の高齢者に癒やされたり慰められたりしているというのが里の現状なのだが、果たしてそれはいいことなのか困ったことなのか悩ましい。
 社会人でありながら、仕事ができるとは言えない人がやたら多い。自分が嫌いなどというのは、自分を自分の内側に閉じ込めてしまって外や他者に対して開かれてないということではないか。こんな状況を「自我の牢獄」と言う学者もいる。閉じられた世界で自分としか向き合っていない状況では、どうやったって自分が嫌になるのは当然だ。だいたい自分というのは他者に照らされて立ち現れてくるもので、自分だけと向き合って出てくる自分なんて化け物に近いもんじゃないだろうか。そんな状況が悪化してくると、もう他者が入り込む隙さえなくなってしまう。こうなるとかなりやっかいで、自分を自分で呪い続けなければならないような悪循環に陥って、いくら他者が関わろうが他者の存在は常に抹殺されてしまうばかりで、自分だけの心地よさだけが求められ続けるような、まるで乳を要求して泣くしかない乳幼児のような自我に留まって、そこから先へ行けなくなっているように見える。乳幼児は他者との関わりを築きながら生き延びていくのが自然の状態だが、大人になってそれでは、他者の存在を傷つけ、お互いの存在が成り立たなくなるので困ったことになる。結局、出会うことも向き合う事もできないまま、相手を道具的に扱うことしかできなくなる。道具的に扱うというのは、相手を手段としてのみ扱うことだから、切れた状態のまま終始するしかないので、とてもさみしいことになる。
 他者と出会えない、向き合えない症状ということなのかもしれないが、現実には赤ちゃんではないのだから、引きこもって閉じこもらない限り他者は自然に迫ってくる。多少つらくても苦しくても、そこが勝負のはずなのだが、そこでつまずくのが特徴でもある。逃げるか否定するかがそこで入る。身体症状がでたり、他者の抹殺で乗り切るしかなくなる。体調が悪くなるか他者から遠ざかるかして自分の世界に閉じこもり続けようとする。そうやって自分を守ろうとしているのかもしれないが、結果としては自分が育たないようにしているようで、見ていてやきもきする。
 そんな人がまっとうに仕事ができないのは当然で、配慮もスピードも期待できない。ましてやクリエイティヴにはほど遠いということになる。里ではこれまで、一般社会や企業で求められるような、現実を切り開いて生き抜いていくようなパワーを求めてはこなかった。むしろ認知症の高齢者と一緒に居て自分が癒やされるような人が必要だったし、現実にそうした人たちが里の雰囲気を作って来た。それは他の施設ではあり得ない柔らかい空気を作り出すことに繋がって、他では過ごせなかった多くの認知症の人たちの居場所になってきた。
ところが、そこが最近では、目的が利用者のためではなく、スタッフのためにあるようなことになってきているような気がする。いくら何でもそこが逆転してはまずいのではないかと思うが、現状はかなり逆転してしまっている。
 「ケアされる介護」が理想だと言われることがある。里はそれを現実に実践してきた数少ない現場だという自負はある。ケアマネージャーで里の特徴を解ってくれる人たちからも「銀河さんは違う、柔らかい空気でゆったりしてる」との評価もいただくのだが、その空気、雰囲気は、本来は利用者のためにあるのであって、スタッフがそこに甘えるためではないと思う。
 柔らかくほのぼのとした空気や雰囲気が自然に醸し出される「場」をつくるために、かなりの努力をしてきた。例えば、設立初年度に見学にきた人たちから「ここの職員は座っている」と驚かれたことがあった。当時は、スタッフが座っていると働いてないとみられた時代だったように思う。今でもスタッフが座っていない施設はかなり多くあるが、スタッフが利用者の側で一緒に過ごすというそれだけのことが認知症介護においてはどれだけ大事なことかが、最近では世界的にもかなり理解されるようになってきたと思う。里ではそのことを当初から直感的に最重要視してきた。 
 ただし、ただ座って居ればいいというものではない。立っていれば仕事をしているように見える。それは作業をしているということだ。認知症高齢者の利用者を座らせておいて作業をこなすのはスタッフにとっては効率がいいだろうが、利用者は不安になる。だから利用者の側に座わりましょうということは、そこで心の作業に切り替えましょうということだと思う。座ってサボれるということとは真逆の話だ。
そこが取り間違えられているのか、スタッフが利用者の部屋で寝ていることも見うけられる。寝るのはさらなる進化でそこまで行けたかと言えるかもしれないが、少しずれるとまるで違った話になるので微妙な問題だ。また、立ってやる作業の能力がないのは困る。できるけどあえてやらないだけで、やれば普通より遙かにこなせるくらいでなくては、座っての仕事も中途半端にしかできないだろう。もちろん得手不得手はあるが、座る仕事(こころのこと)をするには、本来は相当な力量が求められる。
 里は農業が基盤と言ってきたのも、暮らしを作る力量をそれぞれが持って生きていこうということではなかっただろうか。ところが草刈りもできない、田植えも稲刈りもお遊びで、百姓の力強さはかけらもないのでは情けない。先日も1時間あれば終わるような脱穀の作業をほぼ一日かけて半分程度しかできなかったと聞いてあきれてしまった。「30分で終わるから見てろ」と翌日私も入ったのだが、確かに見ているとまるで仕事にはなっていない。「始めます」という電話で現場に行ったのだが、まだコンバインも来ていなかった。やっと来たかと思ったら燃料がない。段取りのなさにイライラする。
実際、短時間で脱穀は終わり、畦棒のあと片付けまでやっても2時間だった。早く作業ができればいいと言うことではないが、相場というものがある。時間をかけて膨大な無駄を垂れ流しても意味があるならいいが、甘っちょろでは悲しい。
 現場で作業が始まっても、指示しなきゃわからない。指示しても感が悪いのか、うろうろしてピタッとはこない。稲わらの持ち方もわからない。脱穀に持ち込む稲わらの方向、そのための体の位置も決まらない。エンジン音の中で怒鳴り続ける羽目になって、私はのどがかれてしまった。
現場に来て「どうやればいいんですか」と聞くようなやつはだいたい足手まといだ。農作業は「見てわからなければ言ってもわかるか」の世界だ。何年もやってきて、教える立場のスタッフが作業の基本もわかっていないのはどういうことか。

 ケアも農作業もはじめは素人で全くかまわない。でも、何年かしたら誇りを持てるレベルになってしかるべきじゃないだろうか。いつまで経っても素人でいる、その根性がわからない。仕事は段取り80パーセントと言われる。その段取りは皆無だし、準備も、先のプロセスも考えられていない。行き当たりばったりではた迷惑なイベントに成り下がっている。それでも利用者と一緒に稲刈りや田植えを経験するということが、かけがえのない物語を生んでいるのだから、全否定はしないにしても、それは利用者がすごいのであって、スタッフのお遊び程度に付き合ってくれているにすぎないとしたら、付き合わされる利用者に申し訳なく感じないのか。暮らしを創り上げる力量がスカスカだというのでは誇りを持った仕事にはならないだろう。
若い奴らは…などと何千年も繰り返されてきたセリフを言いたくもないが、最近の人は「自分が嫌い」「自分がわからない」とか「やりたいことが見つからない」「本当に燃えることがない」などと言いながら、そのくせ「時間がない」と忙しそうだ。こうした風潮は、この時代が若い人たちにとってかなり生きにくい要素を持っているのだろうとは感じながらも、爺さんとしては「ちゃんと身体使って、田んぼや畑で働こうぜ」と言いたくなる。

 ぼやいてばかりで、若い人たちからは「そうはいかないよ、時代が違うから」と、世代断絶の三下り半を食らいそうだが、他の若者はともかく、里の若者たちは認知症の高齢者と一緒にいるんだからもっと学んだらいいんじゃないか。 
 里の特養開設当初から7年ほど里にいてくれて、今年の6月に亡くなったフクエさん。彼女が残してくれた言葉やエピソードはたくさんあるのだが、亡くなるひと月ほど前の言葉が印象的だ。スタッフに向けて「おれもフクエ、おめもフクエ。なっ」「おめもノブオ、おれもノブオ。なっ」ノブオは息子さんだが、フクエさんの、この自我の浸透性はどうだ。もう自我なんか超えている。この自我を超えた広がり感、つながり感に圧倒されると同時にほのぼのとする。スタッフが行き詰まって悩んだりすると、フクエさんの部屋に行って癒やされていた。その理由がこの言葉に示されている。
 世界中で認知症の高齢者をどうするか躍起になっている。高齢化社会に向けた仕組み作りも必要だし認知症問題への対応も必要だろう。しかし認知症の人をどうするかなどという対応策を聞く度におこがましいと感じてしまう。認知症の人たちがどれほど豊かなイメージを描き、感情豊かな思いをもって生きているか、「自分が嫌い」などと言わざるを得ない若者とは比べようもなく、遙かに個性的で人間的な力強さを感じる。
 そうした個性全開の力強さとか、それでいて一人では決して閉じこもらず、否応なしに周囲を巻き込んでいくネットワーク力からしても、学ぶべき事だらけだ。認知症の人は訳がわからなくなっているとみんな思っているけど、それは逆で、訳がわからなくなっているのは実は、まっとうだと思っている我々現代人で、認知症の人はより人間的な存在感でその充実したイメージと感情豊かな思いを放って生きているではないか。目の前にいる利用者一人ひとりの存在の迫力から比べると、「自分が嫌い」などと感じなければならない存在が痛々しい。「自分の牢獄」にそんなに捕らわれなくても、もうちょっと呆けたりして生きた方が、よほど人間的で力強く生きられるような気がするが、それが難しい時代なんだろうか。

 先日、和太鼓奏者のはせみきたさんが里に来られてコンサートを開催した。コンサートは夜だったのだが、ワークで9月から太鼓を始めたこともあり、せっかくの機会なので昼間、ワークショップの時間を持ってもらった。はせさんも障害者とのワークショップは初めてということで、おっかなびっくり始まった感じだったが、最後には作品が生まれて発表会になるくらいまで盛り上がり、スタッフはもちろん、はせさんも、一緒に共演された二人のアーティストも感動されていた。
 このワークショップの成功の鍵のひとつはテイさん(仮名)という利用者にある。テイさんは75歳だが元気で明るくて歳を感じさせない。何よりも誰かと繋がる能力がすごい。このテイさんのこころの浸透力が、はせさんを支えワークショップ全体を貫いてひとつの世界が生まれたと言ってもいいかもしれない。
 ワークショップは恐い。結果がどうなるか全くわからない。だから面白いとも言えるのだが、大失敗もあるし大成功もある。それぞれが閉じこもっていればもちろん何も生まれない。でも誰かと誰かが繋がった瞬間がくれば何かがスパークする。どうなるか、はせさん自身も緊張されていたと思う。テイさんの浸透力がスパークを呼んだ。
 もちろん他の参加者一人ひとりにも物語があって、そうしたそれぞれの動きが全体のハーモニーを作り上げていった。浸透力は浸透力を呼び起こす。ワークショップはその場の勝負だ。頭で考えてどうこうしようたってどうにもならないし、考えたようになったとしたらとてもつまらないものにしかならない。出会いの中で何かが起こって来るのだから浸透力の作用がとても大きいと思う。人が出会い、場が生まれて、時が来る。まさに時と場所と人の出会いが何かを生み出す。それは今まであったものではなく、今ここで初めて出てきた何かだ。

 先月末に研修で、つくばの自然生クラブに行った。そこでは田楽(太鼓と踊り)の練習が週2回、日程に組み込まれている。その時間を練習とは言わずにワークショップと呼んでいる。この田楽は海外講演も多数こなしているという完成度の高いものなのだが、「教えたのではない」と代表の柳瀬さんも仰っていた。一人ひとりの中からその場で出てくるものがある。それが作品になっていく。だから練習ではなくワークショップなのだ。そこでも浸透力が相当の重きをもって作用していると思う。「自分が嫌い」などと言う籠もった姿勢とは真逆のベクトルが、自と他を浸透しシンクロさせて新たな宇宙を作り出すイメージがそこにある。

 2009年に河合先生の一周忌に来日したJ.ヒルマンの講演のタイトルは「こころの浸透性」だった。たましいは浸透性をもって遍満していると、死者とも繋がって共にいるありようを語られたのを思い出す。我々は他者のみならず自然や、さらには死者とも繋がって、新たな世界を生み出しつつ生きることができるのだという可能性を開いていきたい。
 現実には真逆の現象が、金や物の豊かさや便利さの裏に起こりつつあり、個はますます個別化し切り刻まれつつある。多くの伝統的な暮らしのありようもことごとくと言っていいほど粉砕され、後戻りはできない状況を現代の我々は生きている。消え去ってもう戻らない最後のところの縁に我々はいる。なすべき事は何か、今できることの最大の努力を、無駄なあがきでしかなかろうともしておきたいと思う。「自分が嫌い」な世代の挑戦と活躍の場がそこにこそあると思うのだが・・・。爺さんの考えはズレているのだろうか。


posted by あまのがわ通信 at 12:00| Comment(0) | 理事長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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