2016年10月21日

何が里なのか – 暮らしを通じた関係の創造 - ★ 理事長 宮澤 健 【平成28年9月号】

 この夏は見学やフィールドワークで里に滞在される方が多くあった。施設長がこの春から立教大学の大学院21世紀社会デザイン科に入学したことがきっかけなのだが、外から多くの方に銀河の里の取り組みを見て考えていただけるのは、当事者としてもいろいろ刺激になって貴重な経験になる。とてもありがたいことだ。
 銀河の里は制度上、表面上は高齢者介護施設と障害者支援施設を組み合わせたところにちょっと特徴がある程度のありきたりの福祉施設なのだが、中身は福祉施設とは言えないような取り組みに満ちている。
 なぜ高齢者施設と障害者施設を組み合わせているのかというのも理由がある。高齢者部門はデイサービス、グループホームは認知症に特化した施設だが、特養までが認知症を専門の特養だと思われている向きがあるし、実際そうなっているのにも理由がある。
 銀河さんさ隊が、厳しい練習を積み、夏には盆踊りやイベントに出て太鼓や踊りを披露しているのも理由がある。アフリカンダンスの先生を呼んで、ワークの利用者、スタッフ中心にダンスの練習をしているのも理由がある。スタッフとワークの利用者の絵を描く人が、時折展示会をやったり一般の展示イベントに参加することも理由がある。スタッフの酒井さん中心にロックバンドが結成されて活動したりするし、酒井さんはソロで演奏活動をライブハウスやいろんなところで活躍しており、里内でも「フィーリンゲイン」というクラブをつくって先日初CDを発売したなどという活動にも理由がある。その他、数年前から研修にも取り入れてきた  「てあわせ」や、以前からずっと面談室に置いてある箱庭にも大きな意味がある。
  田んぼで5町歩の稲作をやり、30sの玄米の袋で毎年1000袋のお米の生産をやっているのも、リンゴ栽培を1町歩ほど始めたのも、毎年広い面積を草刈りしているのも理由がある。
 英哲の太鼓を聴き、ピナ・バウシュが日本に来れば研修で観に行き、能舞台の鑑賞を毎年研修に入れるのも意味がある。
 現場で利用者の言動に強い関心を向け、注意深く見つめ耳を傾けるのも意味がある。その語りややりとりを事細かく膨大な記録に毎日残すのも大切な意味がある。毎日集まってそれを話し合い、共有し、月に一度は集まって何時間も話し、時には合宿をしたりしながら物語として事例をまとめたりするのはとても深い意味がある。人と人が出会い向き合っていく時間を持つのは大切な意味がある。
 大豆を作付け、麹も作って自前で味噌を造るのは理由がある。厨房の栄養士が「給食」ではなく、個々に合わせて「食事」を作っていく姿勢なのは理由がある。甘酒ドリンク、ファイバードリンクなどを開発してきたのは理由がある。介護食、嚥下食のバラエティにあふれているのには理由がある。 
 研修でドキュメンタリーを考え、戦争を考え、人間の悪を考えるのには理由がある。アウシュヴィッツを訪れ、南京虐殺記念館を訪れ、暴力を考えるのも理由がある。
通信を発行し、そこにいろんな文章やイラスト作品などが載っているのにも理由がある。
大きなハウスで野菜を周年出荷し、食品工場で餃子やシュウマイを作って売るのも理由がある。夏、畑で南蛮(とうがらし)を作り、調味料『ジャパスコ』を作って売るのも理由がある。リンゴでシードルを開発して売るのにも理由がある。これからワイナリーを作っていきたいという夢には理由がある。

 いろいろあって、まだまだあるけど、「そんないっぱいやっている銀河の里って何?」ってなると、ちょっと解らなくなる。それぞれの個々の理由を挙げたって銀河の里の説明にはならない。
 やってることをトータルに説明できないだけではない。考え方、ものの見方、精神性となるともっと難しい。 
 「高齢者、障害者の意思決定支援はどうやっていますか?」という質問が実際にあった。おそらく里では誰も、意思決定支援という概念を日常的には考えていない。質問自体に錯誤があると感じてしまって、大半の里のスタッフが一瞬なんのことを言われているのか意味がわからない。
 そうした仕組み作りは大事だとは思うけれども、それよりも大事なのはものの見方、考え方、とらえ方だと考えてきた。それは、こうしています、というような仕組みは語れない。「その場その場、ひとそれぞれに個別に臨機応変ですね」くらいしか言えない。
 たとえば自己決定と言っても銀河の里の入居者で自分の意思で入居した方は一人もいないかもしれない。本人は嫌がっているが、現実には一人暮らしは無理だから、なんとか馴染んでもらうしかないような切羽詰まった状況を乗り切るのに時間をかけて(何年もかかることも多い)、かなりの繊細な努力を重なるのが仕事のほとんどであったりする。意思決定支援とはほど遠いところから一歩を踏み出すしかない。
そんな説明にならない話ばかりだから、見学に来た人も聞けば聞くほど、里は何をやっているのか解らなくなってしまう。「謎が深まった」と言われた方があった。
 でも謎が深まるのはとてもいいことだと思う。謎ほど魅惑に満ちたものはない。そこから何かが始まる。簡単に説明できることは大したことではないのかもしれない。説明の難しい銀河の里がそこにあるという事実が誇らしいことのように感じる。
 今時、みんな説明だらけだ。説明できなければ何もないことになる。できなければ予算はおりない。里は説明すべきことは明瞭にして予算をもらい、その活動内容は全く説明に馴染まないことをやっているのだとしたら、これは理想に近いかもしれない。

 現代では誰しもが、説明できるように制度上単純にさせられてきたのだろう。そしてつまらないことばかり繰り返さざるを得なくなっている。謎を生んだり、謎に挑んだりしないで簡単に説明できることではクリエイティヴは生まれようがない。
 本当はもっと解らなくていいのではないのだろうか。解ってしまうとそこで終わってしまう。そこから先へは進めない。目に見えないものと目に見えるものは繋がっている。分けて考える必要はない。解るために何でも分けて説明しようとする。それで解ったようで本当は何も解らない。分けたことで満足しているにすぎない。見えないものも見えるものもどちらも大切にしなければ、それは繋がっていて一体だから、片方をないがしろにすると、両方を損なったり傷つけてしまうことになると思う。
 ただ私個人的には里のことを説明するのを拒んでいる訳ではない。なんとか説明しようとすることも、謎に挑む感じがあってとても楽しい。ただ説明しきれないことはたくさんある。見事に説明したとしてもそれはその時点のことであって、翌日には違うものに変化しているだろう。監査などで理念を掲げることを強要するが、愚なことだ。掲げてしまった理念は愚かな説明にすぎない。今日と明日で変わることのない理念などは偽物だ。人は脱皮したり変容しなければ生きているとは言えない。たましいが腐ってしまう。「脱皮しない蛇は死ぬ、脱皮できない人間は人を傷つける」(むのたけじ)
 監査の人たちがなぜ福祉施設に理念を掲げさせて、人間も組織もそのたましいを損なうようなことをさせるのか理解できない。監査も第三者評価もマニュアルしか求めない。それがあれば安心している。人間をなんだと思っているんだろうと腹が立つ。
 里で取り組んでいる上記にあげた理由や意味のあるそれぞれは、他の福祉施設では行われてはいないことばかりだ。なぜそんな余計な事ばかりやっているのだろうか、人が創造的に生きることの可能性に挑もうとしているということなのだが、ひとりの人との出会いと存在に深い関心を持って迫りたいと願っている。自身も含めて、人が生きることの不思議さに迫る姿勢でいたい。そうしたことには明確な答えはあり得ないのだから果てしない探求ということになる。
 理念のように、これだと答えを出してしまうとそこで終わる。先日起こった相模原の事件の発端のひとつは、簡単に答えを出してしまったことにあるように感じる。答えはいつも正しい、その正しすぎる答えは人間としての大事な何かを損なってしまう。答えを持ってしまった瞬間に転落することがある。恐ろしいことだ。答えの出ない問いを最後まで抱えて歩き続けることが人間のあるべき姿なのだと思う。

 元々暮らしを取り戻したいと思って岩手に引っ越してきた。里が農業を基盤と謳っているのも暮らしを大事にしたいからに他ならない。暮らしは自然や人との関係の集大成であるから、暮らしというからには、そこに「関係の創造としての労働」が生まれてくるのは自然だと思う。列記した里の活動の理由や意味は「関係の創造」に全て集約されるかもしれない。
 スタッフにしても、里で働くということは「暮らし」のなかで関係を創造するということなのかもしれない。「暮らし」がすでに「自然や人間との関係」と定義されるのだから、働くということも「暮らし」であって労働ではないのかもしれない。時間を切り売りして賃金に換える労働という精神の構造は本来は里にはないのが原則だったと思う。それでも時にはサラリーマン体質の人が混ざることはある。そうなると里の精神性(エートス)はそういう人とは乖離するのでお互い違和感になる。
 かなり厳しい人手不足なので、選んではいられないという事情もあって、このところ精神性が全く異なる人たちも多く里に属しているというのが現状だろう。そうした状況ではリーダーが育ちにくく、おまけに10年選手の中堅どころから中枢的人材までが結婚や産休、育休等で抜ける時期に入っていて、かなり組織としては危機的な厳しい状況に追い込まれている。

 それにしても「人手」というのはありがたい言葉のように思う。ここでの人というのは「他人の」という意味もあるようだが、「人の」という意味ももちろんある。他人の手、人の手、この両方の意味での人手が必要な仕事ばかりやっているのも里の特徴だろう。農業も機械化したとはいうものの人手勝負だ。暮らしは人手で作っていくことが大事かもしれない。完全には機械化も電子化もできない。そうなったらそれは暮らしではなくなるかもしれない。介護現場へのロボット導入がこれから進んでくるだろうが、里でやっている根幹は、人の語り、物語を聞く仕事だから、それは関係の中でしかなされ得ない。ロボットは補助的には使えるとしても最終的には人手(手と言っても身体も心も含めて)でしかできない仕事だ。
 おそらく農業とか人手というあたりから外れてしまうと、里はその精神性を失って違うものになってしまうだろう。そこを共有できるスタッフで、里の生命線をお互い確認し合いながら、若いスタッフにもこのあたりをなんとか伝えつつ、この時期を乗り越えていきたい。
 日本では長い間、企業が家族としての役割を担っていた時期が続いた。家庭を大事にしようという傾向から企業の家族化は否定的に見られる風潮になったが、今は家庭も大変、企業も家族として引き受けてられない状況のなかで、里のような新たな家族としての機能をもったところが必要になってくると感じる(福祉施設が企業化して、家族としても関われる方向性を失ったらとても寂しいことではないか)。
 里は新しい家族としての機能を果たそうとしていると考えるのは、少々ためらうところだったが、実際には本来家族の機能だったはずの働きを果たしているようなところも多くあり、今、家庭や地域がそれを担うことができず、しかも必要とされていることだとしたら、家族の機能を引き受けるということも正面切って考えていいのかもしれない。
 利用者や親族にとっては、家族としての里があることが最善な場合が多いだろうし、そうなるとスタッフはサラリーマン的な精神性で時間の切り売りの労働というわけにはいかないだろう。「働いているというよりおばあちゃんのうちに遊びに来ている感じ」と言った人があるが、それはかなりいい線なのではないだろうか。農業も手伝ったり、絵を描いたり、音楽をやったり、勉強したりしながら、暮らしに包まれる在り方をこれからも模索していきたい。


posted by あまのがわ通信 at 12:00| Comment(0) | 理事長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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