例えば、草取りという行為も、お手伝いに終わってしまっては、ただ点を打ったにすぎず、「お疲れさま」で終わってしまう。草を取ったので、日当たりが良くなって、肥料も独り占めしてぐんぐん大きくなる。大きくなるにつれ、葉が茂り、わき芽も出てきたので、摘み取ってやる。点で終わるのではなく、命との関連において、関わりを持ち続けなければ、収穫にはとうてい行き着けない。収穫後も、穫れたものを台所に持ち込み、調理し、おいしいという体感をもたらせ、命につなげていくという具体的な事柄の連続。こうした生命に連なるプロセスが重要なのだ。
表面では同じことをやっているようで、こなしているのと、創りだしていくのとは生き方が違う。こなすのには自分を関わらせる必要がない。現代人は対象を操作してきれいにまとめ、点を打って終わりといった経験ばかりで育ってしまい、一生そのままである可能性も高い。そうなると生きる事がなかなか難しくなる。生きるということはプロセスなのだ。プロセスは関係を必要とする。
介護の現場でも「痴呆高齢者」などと、抽象概念でひとくくりにして、困った人として扱い、お世話するなどという感覚では、ただの介護屋になってしまい、百年それを繰り返しても、そこにプロセスは生まれない。
里では「痴呆」を意識する事はほとんどない。確かに、たいていの人が物忘れは極めて見事だが、そんなことは当然で、別に騒ぐ程の問題ではない。「ご飯たべたっけか?」「さっき食べたよ」「そっか、そう言うならそうなんだ」という会話が成り立つ関係が面白い。一方、「食べてない」と言い張り、一日5食になってしまう人とは外食を楽しめる。食欲のない人や、節約型で遠慮してしまいがちな人では、昼間レストランで、お茶の楽しみを共有することは難しいが、「みんなには内緒ね」と目くばせでほおばる横顔に気持ちがつながる事がある。
限定した次元での操作ではなく、暮らしの守りの中で、個々と出会い、具体に生きる。自らを全体性の中に投げ込み、関係に生きる。それは、植物の命に繊細に関わりながら、土、水、太陽、風などの世界と深い関係を必要とする農に近い。一昔前なら、わずかな気象の変動などで、その収穫が無となれば、飢えてしまうことになった。我々はそうした時代の緊張感とはほど遠い所に生きているが、そうしたリアリティにいくらか触れることも我々の仕事に必要なことではなかろうか。