2015年03月15日

タイムスリップ、男二人旅 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2015年2・3月号】

 健吾さん(仮名)は、去年の春まで担当だったスタッフの川戸道さんと『田瀬物語』を綴っていた。『田瀬物語』は、田瀬ダム建設に伴いダムの底に眠ってしまった健吾さんの故郷の文化や暮らしについて、聞き書きしながら綴ったものだ。毎日のように川戸道さんと語り合っていた頃の健吾さんは、とても活き活きとしていた。しかし、聞き書きが終わってからの健吾さんは覇気がなく、ただの97歳のおじいさんになってしまって、食事後の散歩が日課となり、夕方から水戸黄門を見るだけの生活が続いていた。
 ところがいつだったか、健吾さんのお母さんが歌い残したという田瀬の民謡のテープをリビングで聴いていたことがあった。健吾さんは「懐かしいなぁ。昔はね、母屋があって、馬もいて、住み込みで農業を手伝う若者達がいたんですよ」と話す。これは『田瀬物語』の続きではないのかと思い、慌ててメモしたのだが、それ以降、田瀬の話はほとんど出なかった。
 それから何ヶ月か過ぎた頃、『第11回 岩手の民謡をたずねて』というチラシを目にしたとき、「健吾さんだ!」と思った。誘うと案の定、「いいですねぇ!」とひとつ返事で、男二人で出掛けることになった。

 当日の朝、健吾さんは早くから出かける気持ち満々で、早番の千枝さんとあぁだこぉだ言いながら準備をしていた。私が挨拶に行くと、「今日も生きてます!今日はお出掛け日和だねぇ。さっ、行くっか!」とそわそわしていた。お弁当、カメラ、さらにお菓子やコーヒーまで車に積み込んで準備万端。事務所の中屋さんとヤス子さん(仮名)に見送られて出発した。車が動き始めると「宍戸さんいねぇば、俺、準備されねっけぇ。悪いども、千枝さんではわがらねがっけ」と上機嫌。
 途中、健吾さんの自宅前を通る。「みんな家でのんびりやってらべぇ」と話していると、ちょうど玄関を出てきた息子さん夫婦とばったり会う。「何してんのやぁ?」と声を掛ける健吾さん。「今、杉の木、手入れするところだった!この木とこの木、どうするべ? 枝はらったほういいか?」と息子さん。「あそこ!はらってもいいべ。あそこも」と庭師の目つきで指示する。久しぶりに見た、活き活きとした表情だった。
 再び走り始めた車中では、年末に伐採した自宅の松の話が出る。「ほれ、三浦さん。笠松いだっちゃぁ。何百年とそこで立っていた木を、私は数十年ばっかし面倒見てたが、枯れてしまって、年越し前にばっさり切ってしまった。でも、根っこばりは太すぎて切れなかったんだねぇ、4メートルほど残ってる。私も今の笠松と同じ状態の様な気がするもんやぁ、残りわずかの命。あとは枝も葉もないがら、ただ迎えを待つだけだ。なのに・・・今日こんな私を連れて行ってくれるとは、ありがたいよ。もう、若い人達のためになんにもしてあげられないし、何かを残そうと必死で日々のことや昔のことを書いてきたけれど、手が動かなくなってしまった。何を書くつもりだったか思い出せないし、億劫になってしまった・・・」と、枯れて伐採された笠松根を見ながら、ゆっくり話す。「そっか・・・。でもね、俺は健吾さんの記録や語りは大事だと思ってるし、健吾さんに残して伝えてほしいと思っているんだ。テープで録音するのはどうだろうか? 健吾さんの語りを録音して、それを俺が文にしてみる」と伝える。少し考えて「・・・いいのっか?私はそれでもいいよ」と健吾さんは言った。
 その後の健吾さんは活き活きした感じになって、「私のおじいさんの話をしようか」と語ってくれた。「小学生ぐらいの頃、よくおじいさんと山に入って手伝いをしたんだよ。親指ほどの太さの木を切って製紙工場に運ぶんだ。その木は、切っても次の年には6尺以上の長さにまた伸びてくる特殊な木だ。100本束ねてひとつにし、馬に担がせるのさ。荷物運ぶ専用の鞍が昔の家には必ずあった。馬だけじゃなく人も運ぶんだども、私はまだ小さかったから、6尺以上の長さのものを背負子で背負ったら、木の方が長すぎて運べなくってさぁ。横にしてみたども、今みたいに道路は広くないしさ、そもそも山の中だから木ばっかりでしょう、引っかかって転んでしまって、おじいさんに笑われたのさぁ。製紙工場まで何時間もかけて運んでさぁ。ものすごく疲れるんだども、それでもおじいさんのこと好きでねぇ。よくついて行ったもんだ」・・・これまでの話は、青年時代や戦争、田瀬から移転してきた後の話が中心だったが、子どもの頃の話は初めてで新鮮だった。
 そんな話をしながら、盛岡の岩手県民会館へ到着。渋滞で予定より時間がかかり、持ってきたお弁当を駐車場で大急ぎで食べた。席に着くとまもなく講演がはじまった。三部構成で全38曲、計2時間40分という長いプログラムだった。

 オープニングは歌い手3名、かけ声2名、踊り手10名、尺八3名、三味線3名からなる大がかりな『南部俵積み歌』。すると、「懐かしい!!この歌は私もよく歌ったし、お袋の歌ったのもカセットテープに残してる!!」と興奮気味の健吾さんは、私の方を向いて手拍子で歌い出す。健吾さんの歌とステージとの大きなズレに加えて、会場の暗い雰囲気もあって、なにかどこかへタイムスリップしたような感覚に陥った。健吾さんは歌い終わると、「いいなぁ・・・」と目を瞑って呟いた。2曲目以降、健吾さんはいびきをかいて眠りについた。97歳、車に1時間以上も乗って、いつものお昼寝がなかったのもあってかお疲れだったのだろう。でも眠っている健吾さんはとても幸せそうだった。
 会場のお客さん達(60〜80歳ぐらい)も、ステージそっちのけで昔話に盛り上がっているようだった。健吾さんは『沢内甚句』が流れてくると目を覚ました。「仕事で行ったことあるんだけんども、沢内って所は花巻とも違う文化でねぇ・・・」と語り始めた。第一部が終わり、休憩の時間となっても、ずっとノンストップで語り続ける健吾さん。ところが第二部が始まると、途端に寝入ってしまった。それでも、どこか聴き入っている感じもした。途中、次に健吾さんが目を覚ましたのは『南部酒屋酛摺唄』だった。「これ!田瀬の餅つき唄だっちゃ!ほとんど同じだ!」と言う。確かによく聴くと、歌詞は違うもののほとんど同じ曲だった。以前、健吾さんに教えてもらった『田瀬餅つき唄』だったが、今回は伴奏があるのでとても分かりやすく、健吾さんも伴奏に合わせて教えてくれる。力を込めて教えようとしている健吾さん。この唄をなんとか残さないといけない思った。
 15時頃に公演は終わり帰路につく。さすがの健吾さんも疲れてしまったようで、「本当に良かった〜!」とは言いながらも、ぐったりとしていた。突然、「・・・また迷い始めた、どこで死んだらいいのか・・・。娘に相談したんだども、返答はなかった。書くこと、伝えること、歩くこと。それらをやっていると、もう終わりの準備をしていたはずなのに、また元気になってしまう。やりたくなるっけもんねぇ。んだども、体はついていかない。気持ちと体がうまくバランスをとってないんだよ。毎日長い夜の時間を利用して考えてはいるんだども・・・答えも出ないし、教えてくれる人もいない。歳をとるってことは、自分との葛藤なんだよねぇ。まぁだ三浦さんには分からないだろうけれども、いずれやってくるもんだから、誰しもが。私がまだどうやって死ぬのか私自身も知らないけれども、近い将来必ず死ぬ。何十年か先になって、三浦さんが私と同じ歳になったとき、こんなこと言っていたじいさんがいたっけなぁ・・・って思い出してもらえれば、幸いです」と、神妙な、いつもとはまた違った雰囲気で語る健吾さんに、私は精一杯、「分かりました」としか返せなかった。
 里に近づいた頃、「ここ曲がって!!」と大声で言う。「近道だから!教えてける」と細い田圃道に入る。確かに近道で、「なぁ、言ったべ?」と得意げな健吾さん。そんなこんなで二人旅は終わった。

 健吾さんと行った民謡公演は、様々な意味合いがあったような気がする。川戸道さんと綴ってきた『田瀬物語』の続きのようでもあり、健吾さんのお母さんに会いに行ったような感じもある。笠松を自分と重ねて戦友のように慰め合ってもいた。また、民謡を聴きながら眠っていた健吾さんは、遠い昔の風景の中で当時の匂いを確かめていたようにも感じた。健吾さんは死を強く意識しながら、まだまだ、物語を綴って行く。自分が生きた時代なのか、生きた証なのかを見せてくれるにちがいない。どんな展開になるのかわからないが、私も気合いを入れ直してついて行きたい。


posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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