前職は接客業であったが、マニュアルにのっとり、時間・業務に追われる生活をしていた。今、振り返れば、人との関わり方ですらマニュアル化されていた。人とじっくり関わっていきたい私は、効率の良さや成績を追求される流れに押されて、自分の中に自然と浮かんでくる喜怒哀楽や疑問・戸惑いには蓋をして、見て見ぬふりをすることに精一杯だったように思う。全否定する訳ではないが、少なくとも前職は私には合っていなかった。自分の自然なこころの動きを活かせないのはとても辛いことだった。
そんな中で里に就職した。ここでは、社会人としての良い子ちゃんだけでは通用しない世界がある。実際、効率の良さを優先して上辺だけの言葉でアプローチしても利用者さんには届かない。見透かされてしまう。繕った自分ではなく、自分を賭けた勝負がないと通じない。
例えば認知症の利用者さんの個人的な行動を見ていて「ずっと同じところを気にしているな。痛いのかな?」と感じる。そんな時に出てくる言葉や態度はマニュアルとは全く関係のないことだ。自分のこころの動きがもたらす言葉や態度しか通じない。
利用者さんや里の空気に救われて、私は長らく封印したまま失いつつあった本来の「こころの動き」に気づける自分が返ってきたように思う。
そんな自分らしさを取り戻しつつある中で参加した今回の研修だった。私は今の自分がどんな感想を持ち帰るのか楽しみだった。
初日の演劇「海辺のカフカ」。私は原作を読まずに観劇参加という荒技で臨んだ。舞台が始まる時の何かが迫ってくる怖いくらいの緊張感が、私を舞台へ引き込んだ。日ごろ見る映画は、内容が分かりやすく主人公に感情移入しながら見られる作品が多い。その点カフカは話しのスジがわかりにくい。「世界でもっともタフな15歳になる」という自分探しを思わせるフレーズが心に響く。想像力を使う中で、自然と様々な感情が沸いてきた。舞台にもっと触れていきたいと感じた。想像力を使いすぎてか休憩の時もポーッとしてしまい、言葉が出てこなかった。後半も想像力はフル稼働。スパッと答えが出る作品ではない分、心が動いた。
カフカの想像の世界に対して、翌日の「相田みつを美術館」はストレートな作品ばかりだった。今の私に響く言葉が並ぶ。相田みつをの息子の言葉に「もしこの文字がお手本のようにきれいな文字で書かれていても同じように感じるでしょうか?」とあった。
みつをはひとつの作品を作りあげるのに、何百枚、何千枚と同じ文字を書いていたそうだ。少しの墨の滲み方でも納得できなければ、それはお風呂を沸かすときに火を起こすために燃やして使ったという。今、私たちが目にする文字の形式が完成するまでに30年もかかったという。
それほどのこだわりが、たくさんの人のこころを動かし、時にはこころを受け止めてくれる。時間を忘れて作品に見入っていたために、大きな美術館ではないが一日がかりになった。
研修で、私のこころはふたつの作品によって大きく動いた。少し前の私なら、こんなに多方面にこころが動く私ではなかったと思う。里という環境は、自分の「こころの動き」を見逃さずにどんどん自分らしくなっていけるように思う。こうした環境と出会いに感謝しながら、毎日を大切にしていきたい。