温泉に行こうという話題がでた直後の12月のある日、より子さんと詩穂美さんで買い物に出かけた。その車の中で、温泉に行ったら「夜は何しよう?」など話になったという。その時、焼き芋があったので、詩穂美さんが買おうとすると、より子さんは「自分で食べたい」と自分でお金を出した。しかしより子さんは食べることなくグループホームに持ってかえり、なぜかスタッフに焼き芋を配った。その場に私もいたのだが、より子さんは私のことは目に入っていないかのように、無視した感じで、私以外のスタッフ全員に焼き芋を配った。「今日スタッフこれだけだったか?」と言うより子さん。スタッフが「米田さんは?」と言うと、「米田さんにはけだくね!」ときっぱり言うと、そのまま夕食の席に着いて夕飯を食べはじめた。私は無視されたり、一人ハブにされて、“どうしてだろう?”と泣きそうになったが、泣くのはいやで、必死で涙をこらえた。より子さんを見ることができず、“どうして?”と聞くこともできずにいた。
そこに、夜勤スタッフの北館さんが「(米田さんに芋)あげたらいいでしょう。温泉に連れってってもらえなくなるんだから」と言った。より子さんは少し考えているようだったが、しばらくして「これ、米田さん受け取ってくれるべか?」と言っていたらしい。それからより子さんは私に、焼き芋を持ってきてくれたが、テーブルに少し乱暴に置いて、さっさと自分の席に戻った。私は複雑な気持ちで「ありがとう」と言って受け取ったものの、本当は、素直に食べたいとも思えず、本音は“いらない”“食べたくない”という気持ちのほうが強かった。でも、気を使ってくれたより子さんの、気持ちを受け止めなければと思って無理して食べた。
より子さんが私にそうした態度をとったのは、なぜだったんだろう。考えてみると思い当たる節はあった。その日の昼食の片付けをより子さんが1人でやっていたのだが、私は任せたままで、手伝おうとしなかった。そのことは気にしていなかったのだが、後でスタッフにより子さんがその話をしていたとのことだった。より子さんは午後から出かける予定のあった詩穂美さんに代わって、片付けをしてくれていたのだが、私は“やらなきゃ”という気持ちはあったが、声を掛けることもできず、動くこともできずにいた。
私はいつも、思っていることを言えないでいる。ある時より子さんに「思ったことの半分は言った方がいい」「私の半分あげたいわ」「足して2で割れたらいいのに…」などと言われたこともあった。気持はあっても、言葉にして伝えられないのは、私の課題だ。より子さんからみれば、遠くてカベを感じるのかもしれない。より子さんから向かってきてくれるのに、私はそれを避け、何も起こらないようにかわしてしまっていたにちがいない。誰かと出会うことが、なぜか怖く感じて、向き合うことができない。
私は昨年9月に特養からグループホームに異動になったのだが、初め、より子さんは私の作った夕飯に「こんなガキの作ったものなんか食べられない!」と言って、食べないことがあった。その頃は何を言われても、「はい」と言うことしかできなかった私に、より子さんは「‘はい’って言えばいいと思って。かわいくない」と言った。思ったことをそのまま言うより子さんの厳しさに、私はなかなか近づくことができなかった。でも徐々になじんで、一緒にキッチンに立ったり、料理を教えてもらうこともあった。「口数は少ないけど、はっきり言うよね」と言われたこともある。
より子さんは、色んな私を引き出してくれるようにも感じる。
あるとき、鍋のふたを開けて「あさみちゃん!」と呼んだことがある。私はまだどこかに隠れていて、出てきていないんだなと思った。また、私がドアをあけたままにしているとすかさず「ドア閉めてって言ってるでしょ!」とか、何かにつけ「何やってんの!」と口うるさいより子さんを、姑のようにも感じていた。
温泉旅行の日程と場所をなかなか決められずにいた。より子さんは、「あんたたちの都合に合わせるよ。泊まる所は料理の美味しいところがいい」と言ってくれた。一人で抱えて悩むタイプの私は、決めかねて時間ばかりが過ぎてしまった。ぐずぐずしている私に、理事長も「パンフレット見ながら、出かける日までの楽しみがあるだろう」と宿泊場所を提案して、決めてくれた。食事はどうするか保留だったが、せかす理事長により子さんは、「女3人で行くんだからあんたは口出さないの」と言った。理事長も「そりゃそうだね。3人で決めなきゃ」と決めない私にゆだねてくれた。より子さんは私に決めてほしい気持ちや、相談したかったのだと思う。そうした気持を大切にできず、結果的に踏みにじってしまう私がいるような気がした。
より子さんは、気分の上下が周期的にあるのだが、温泉までの約2ヵ月は、気持が下がることもなく、上がった状態で頑張った。旅行に出かける日が近づくにつれ、「夜は何を話そうか?」とか、「果物か何か買って行って部屋で食べたいね」などと旅行のことを話すことが増え、より子さんも楽しみな様子だった。
旅行の前日、それまでほとんどリビングで過ごしていたより子さんが、その日は自分の部屋に籠もっていた。“旅行の準備でもしているのかな?”と私は考えていた。ところが、夕方、リビングで「部屋に置いていたものがない!無くなるはずないのに…警察呼ぶ!」と興奮しているより子さん。私が勤務を終えて帰る際にも、いつもの「おやすみ」の言葉はなく、「言わない…」とこちらを見なかった。旅行の前だから気持ちが落ち着かないのかな?と思った。当日の朝、私は早番で出勤した。より子さんに、「おはよう」と挨拶しても、チラッと見るだけでそのまま行ってしまう。“あれ?無視?”と、少し悲しい気持ちでいると、後でやってきて「よろしくね」と小さい声で言ってくれた。私は戸惑って「はい」と答えることしかできなかった。
出発は、私の早番の勤務が終わってからに予定していた。より子さんはその日も、食事以外は部屋で過ごしていた。気持ちが下がってきたのかな?と気になった。でも一度リビングに出てきて、「予定の時間には出られそう?あさみちゃん仕事遅いもんね。出来ないことは言わないから」と出発を気にしてくれた。
出発予定時間のかなり前にリビングに出てきたより子さん。ピンクの素敵な服を着て準備バッチリ。「あんたたち、一旦家に帰るんでしょ?」と言われ、私と詩穂美さんは、普段着じゃだめなのと焦った。しかし、時間もなくて、そのまま出かけるしかなかった。みんなに「いってらっしゃい」と見送られるが、より子さんは「何も言わない」と挨拶無しに外に出て、車に乗り込んだ。
いざ八幡平温泉に向けて出発。ところがいつもと違って、車中で、口数の少ないより子さん。「何か話して」と言うと、「私だっていつもしゃべるわけじゃないんだから。それに、夜話すことがなくなるでしょ」と言いながら、静かに窓の外の景色を眺めていた。途中、西根の道の駅に寄り、ほうれん草ソフトクリームを3人で食べる。「やっぱりこっちは寒いね〜」と話しながら温泉へ向かう。途中、私の実家が通り道にあるので2人に紹介した。地元でもあり、下見もしていたので宿まで、迷うことなく到着した。無事についたが、宿に入ったところでより子さんが滑って転んでしまった。けがはなかったが、ハッとした。
夕食の時間まで部屋で「どんな料理だろうね〜」と楽しみにしながらゆっくり過ごした。夕食はメインのしゃぶしゃぶに、カニやてんぷらなど、種類が多く、より子さんも満足のようだった。夕食後、少し休んだ後、いよいよ温泉に3人で入った。より子さんは長く湯船に入らない。私はゆっくり何度も入るので「また入るの?」とより子さんに言われた。露天風呂は「寒そう」とより子さんは入らずに「いいよ、待ってるから」と先にあがって、着替えて、私と詩穂美さんを待っていてくれた。
部屋では、旅行の前から楽しみにしていた夜。家族の話や恋愛の話など、普段なかなか話せないことをゆっくり話した貴重な時間だった。私や詩穂美さんに、「今度はあんたが話して」といいながら、気づけばより子さんがしゃべっていた。普段は自分のことをあまり話さない私も、結構いろんなことを話せた。まくら投げをしようという話もあったが、「そんな歳でもないんだから…」と、今回は遠慮した。
夜、私が飲み物を買いに行こうとすると、より子さんは「迷子にならないでね」と心配してくれる。眠くなった私に気を使って「先に休むんだ」と言ってくれた。私は眠くなり、先に横になった。その後、詩穂美さんが話しかけると「しーっ、あさみちゃん寝てるんだから!」と気遣ってくれた。「楽しかったね」というとより子さんは「まだ言わないで、帰ってから言うんだ」と言った。
次の日の朝、より子さんは早起きで、私が目覚めるともう起きていた。朝食を食べ、帰る際により子さんは上着を準備してくれたり、靴を整理してくれたりした。帰りの車では、「あんたたち前に乗って」と、私と詩穂美さんの2人を並んで座らせようとした。お土産を買って、帰ってきた。より子さんは温泉の様子をグループホームでみんなにしてくれた。
より子さんは旅行中、いつもと違った雰囲気で、私と詩穂美さんを常に気にかけてくれて、お世話をしてくれる感じだった。それはまるで‘お母さん’のように感じた。いつもの自己主張は影を秘め、何でも「あんたたちの良いようにして」と、少し後ろから見ていてくれる感じだった。私は、生まれてすぐに両親が離婚し、‘母親’を知らないで育った。この温泉旅行で‘お母さん’を感じられたことは、私にとって不思議な体験だった。それはとても大きいことのように思う。温泉旅行が終わった後からの、より子さんは、それまでとは一転し、自分の部屋にこもって過ごしているが、やりとりは穏やかに接してくれる新しい感じがある。旅行まで、気持ちを上げた状態でいてくれたんだなと思う。
私は銀河の里に就職して、そろそろ1年になる。人と、深い関係でいられる場所で私もそうありたいと思うのだが、実際には表ヅラばかりで、自分を出せない自分がいる。誰かと出会い、向き合うことで、自分が変われる機会があるのだが、いざとなると、怖くなって避けて、なかったことにして、逃げてしまう。自分を出して、相手も、自分も変わることに怯える自分がいる。そんな、いるのかいないのかわからないような私をなんとか引き出そうと、より子さんは無視したり、意地悪してまで、頑張ってくれたのだと今は思える。ナベの中まで声をかけて私を捜してくれたより子さん。まだまだ先のことなのかもしれないが、より子さんの呼びかけに応えて、逃げずに向かって行ける自分になりたい。怖いけど少しずつでも変わっていきたいと思う。