福祉現場では、決定的な強弱の力関係によって、秘めた暴力を引き出されやすい環境にあることを理解し、意識していなければならない。先月の実例も、施設や県、適正化委員会の担当者が残虐で非人道的だと告発しているのではない。極めて普通の人、職務に忠実で、実直な人にこそ、暴力は発現しやすいということだ。
ちょうど先月、映画『ハンナ・アーレント』が盛岡で上映されていたので観に行った。アーレントは実在の人物で、ナチスの強制収容所に入れられた経験もあり、哲学者ハイデッガーとも親密だったとされる女性哲学者だ。映画はナチスの暴力に対する裁判をテーマにしている。戦後10年以上過ぎて、潜伏先のアルゼンチンでイスラエル特殊警察に捕らえられたアイヒマンは、大戦中、アウシュビッツなどの収容所にユダヤ人を移送する担当者だった。大量のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ残虐を問われ裁判にかけられる。アーレントはその裁判に対する記事を出版社に依頼される。ユダヤ人達と多くの大衆は、悪の権化として、アイヒマンを断罪し裁かれることを期待した。収容所でかろうじて死を免れたアーレントにもそのラインでの主張が期待された。ところが裁判を傍聴してアイヒマンの余りの凡庸さに、思わず吹き出してしまいそうになったことに衝撃を受ける。そこから彼女は人間の悪の問題を、哲学者として徹底して哲学的に思索する。そして、単純で、根源的ではない悪、「凡庸な悪(悪の陳腐さ)」を発見し発表した。ユダヤ人はじめ期待に反した大衆からは轟々たる非難がおこり、ユダヤ人の旧知の友人達も感情的な反発で去っていき、大学の職さえ追われそうになる。そうした辛い渦中、映画の後半で、大学で行った講演が圧巻だ「凡庸で職務に忠実な人こそ、思考ができなくなり、意識せず悪を遂行する」「我々は考えなければならない。考えることで強くなり、危機的状況であっても破滅に至らないために」
私が現場で向きあってきた悪は、まさにアーレントの言う「悪の凡庸さ」にある。先月号に書いた、施設の職員も、県の役人も、適正化委員会事務局も職務に忠実な凡庸な人たちだ。「何か問題があるんですか。なにも問題はないですけど」と苛立ちとともに繰り返された言葉も、ケースの人生や人間に対する関心の希薄さも、本人がものを言えない環境での聞き取りをして「本人が問題ないと言ってる」との結論を得るのも、まさに陳腐さが見て取れる。一連の手続きをして「問題はない」ことに納めてしまいたいだけなのだ。
彼らは、ケース個人の抱えた課題や、そのアプローチとプロセス、変化に関して関心を持たないので、話し合いにならないのが特徴だ。管理することしか意識にないから、考えようとしない。考え、深めながら取り組むアプローチは、やっかいで、めんどくさいこととしか映らない。そこにある人生や、人間の課題とは向きあうこともせず、システムのなかに落とし込んで手続きとして処理してしまう。
アーレントが、アウシュビッツをはじめ、ナチスの行った途方もない犯罪を見届けようと、裁判所で見た、アイヒマンの生身のナチスは、それは怪物でも、悪魔でもなく、極めて凡庸な滑稽なくらい陳腐な人間だった。この衝撃を理解しようと2年の歳月をかけて得た結論は「恐るべき、言葉にも言い表すことも、考えてみることもできぬ、悪の陳腐さ」だった。映画の中でアーレントは言う。「歴史的に人間は思考を自分自身との静かな対話だと考えてきた。アイヒマン達はそれを放棄した。思考しなくなると、平凡な人間が残虐行為に走る。思考の嵐がもたらすのは知識ではない。判断力、見分ける力だ。私が望むのは、人間が考えることで強くなることだ」生涯をかけて、人間の持つ「悪」と向き合い取り組んだ彼女の姿勢がそこにある。
5年前、NHKのディレクター、川村さんの紹介で訪ねた、島根の酪農家の佐藤中吉さんは、「農業は考えるためにやるんです」と言われていた。「食べ物があれば戦争をする必要はない。そのために農業をやるんだ」彼の農業も思索に収斂され、そこから意味を見いだしている。明治以来、村の若者が戦争にとられた悲惨の歴史を背負っての言葉でもあると、そのとき感じた。
考えることが人間の質の根底にあるということだ。考えることがそのまま暴力と対峙している。ところが、我々現代人は、ますます考えることから逃避し、遠ざかっている。考えることは、面倒で、辛いことなのだろうか。いずれにせよ、そこから逃げることは人間ではなくなっていく。結果、極めてくだらない悪が破壊的に行われる方向に知らないうちに向かう。整然とシステム化され、考えなくても生きていける便利と効率の只中に、大きな落とし穴がある。平和で戦争などの残虐が起こらないかもしれないが、福祉現場や介護関係のなかに、破壊的な悪がうごめいているのが現代なのかもしれない。
地域のケースワーカや関係機関にケース会議を呼びかけると「銀河さんと組むとめんどうだ」と言われたこともあった。考えようとするとめんどくさいと排除されてしまう。システムや制度で機械的に解決してしまえばいいという姿勢が趨勢だ。しかし、考えることによって強くなるしかない人間の資質がある。あらゆる職業も考えるためにあると捉えてもいい。ところが考えることは、現代人にとってかなり難しい作業になりつつあるようだ。
この通信が、ほとんんど読まれないような長文を毎月書き連ねるのも、思索、思考の痕跡を留めておきたいという意図もあると考える。その姿勢を崩すわけにはいかない。ところが同業者はおろか、時代があまりに陳腐で話の合うところがないのが現状だ。思考に孤独はつきものなのかもしれない。ただ、話の合うものがなく、孤独だとぼやいているうちに、自らの思考が閉ざされてしまっては元も子もない。去年、さらなる思考を拡げたいと、里の外に出ようとしたのだが、結局は通じなかった。
一方で、スタッフも、里の内部に埋もれて、日常をこなして回してさえいればよしとして、介護現場の日常に埋没し、そこに甘えて逃げようとする傾向がある。それは考えない道に進む兆候ではないかと危惧する。考えることは、かなり能動的な作業だ。それは立体的に行われる必要がある。歴史の中の一点に自分を置いて、数百年単位の中で自分を見つめる必要もあるし、世界的な広がりのなかで、地域と自分を見つめる必要もある。考えるとは閉じこもるとは全く逆の、広がりと探索を求められる行為ではないかと思う。他がどうであれ、銀河の里では、それぞれが世界を拡げながら考え続けていきたいと思う。
蛇足になるが、谷川俊太郎の詩「みみをすます」は、「考える」行為とかなり通じるように感じる。知的な思考に留まらず、イメージを使い、想像力も駆使しながら、世界を捉え感じていく。こうした体感的な思考が実際には必要なように思う。