それは大変とか、辛いとはかけ離れた感覚である。「ありがたい」いうのが一番近いかもしれない。わくわくするし、緊張もするし、頭も使うし、こころのエネルギーもいっぱい使っているはずである。スタッフ共々全身で生きた日々であったように思う。
スタッフも「たいへんですね」と声をかけられると、「いやそういうんじゃないんです・・・」などと反応しているから、私とあまりかわらない感じだと思う。「大変じゃなくて濃密なんです」といえば近いのだが、それでは相手には伝わらないだろう。言葉は曖昧になり語尾が消える。里は福祉制度を運営しているのではなく、世界をつくっているのだと思う。
里の世界では世間とは違う時間が流れている。それぞれが十分に実感の持てる、ありがたい時間を過ごさせてもらっているように感じる。これは利用者と出会える現場のありがたさである。いつかはこの内容を世間に伝えて行きたいと思うが、実現はまだ先のことになるだろう。里で起こっていること、自分の関わっていることが何なのか意識し、理解し、言語化し、伝える力は、今はまだ明らかに足りない。今後、感性と共に論理も求められる。
濃密な時間の正体は、問題として扱わず、ケースとして抱え、引き受けているところにある。里では問題行動という概念がない。徘徊や妄想などの言葉もない。世間とは視点が違う。歩くにせよ語るにせよ、人生の旅の重要な意味があると捉え、それに寄り添い、つき合わせてもらいたいと願う。こうした旅への同行が楽ではないことは明らかであるし、危険も孕んでいるが、それ故に濃密な時間がもたらされる。
里の世界では、我々はそれこそ至福を生きているのかもしれない。しかし一歩世間に出るととたんに苦しい。理解されない。概念が違う。視点が違う。伝えられない。奇異の目で見られる。など散々な目にあってしまう。特に福祉の世界ではこの違和感は厳しい。
福祉は制度であり、システムである。制度やシステムは論理である。論理には個人のこころや、たましいは入っていけない。故に成熟社会は関係性を喪失する。社会的に感性が必要とされ、個人もそれを希求する時代に、成熟社会は自律的にその成熟を増す方向に動き、感性は抹殺される。社会の成熟の影で大半の人間、特に子ども、若者は傷つきを余儀なくされ、高齢者は排除される。傷つきと排除の表側で、制度としてサービスが提供されると同時に、寂しさ、哀しさが人のこころを覆ってくる。
中央で高齢者グループホームのマニュアルが発表された。それはそれで効果はあるだろうが、技法や理論が先行するとき、なにかがまたこころやたましいからは遠のく恐れはある。現場では知識はいくらあっても足りないが、同時に我々は利用者からしか学べない。