2005年03月15日

異層の物語を開く ★宮澤健【2005年3月号】

 宗教もなく、神秘にも出会わず、たいした困難や悲しみにも遭うことのないまま、ほとんどの人がすごしてしまう社会を、我々は生きていかねばならない。便利とイメージされた大半のことが達成された上に、思いもかけなかった手段が次から次へと提示される。制度が整備され社会は高度に整えられる。その一方で人間は平坦で薄ぺらな存在となり影を失い、リアリティを感じなくなる。表層化した短絡的な思考が、生とは関係のない呼吸の単調なリズムを繰り返す。こころが動かない、感動が起こってこない。今こうした実感のない状態に多くの人が追い込まれている。時代がそうなのだとも言えるかもしれない。
何かが足りないと感じている人は多い。その一方で足りないものなど何もなく、この世は目に見えるものが全てで、あらゆるものが操作できると信じ切っている人たちが存在する。今の社会はこういう空気に支配され動かされている。表面的な良い方法、良い対処さえやればうまくいくものだと思い込んでいる人たちは、生きるという実感からから遠ざかっているし、おうおうにして他の人の「生きた物語」を理解できないでぶち壊すことがある。身近には制度の番人のような役人や、福祉の名を語る騒々しい援助者たちにそれを感じる。私は「イッチョあがり」の人びとと呼んでいるが、全てに片が付くと思っている。それが目的で後は何も無い人たちだ。
 そうした人たちに対し、生々しく挑んでいるのは、障害を持った人達ではなかろうか。例えば認知症高齢者の人にしても、決して簡単にかたをつけさせてはくれない。「だめだ」と言ったって大暴れをしてでも自らの物語を生きていく。イッチョ上がりの人たちには、とても手に負えない存在なはずだ。やっかいこの上ない、手に負えない存在としてしか映るだろう。そうなるとケースであったはずの当事者をいきなり問題として扱いはじめる。ケースワークは消滅し世間様が君臨する。ケースは無くなり問題だけが残る。そして問題を置き去りにしようとさえする。
 一見優しいようなふりをしているが、事が心の核につながらざるを得ない深みを持ってきたとたんにこうした人たちは豹変する。対象としてしか扱わない。自分を絡ませる「関わり」持たない。そして知らないふりをするか逃げ出す。決して心はコミットメントしない。本来はケースが生まれるのはこの瞬間なのだ。逃げ出さなかったその瞬間からケースは生まれるか創造される。関係性において誕生してくるのが本来のケースであろう。そうでなければケースはイコール問題でしかない。
ケースは心の核とつながらざるを得ないその極みを共存した現象と捉えたとき。現実、多くの福祉支援者が問題を扱うだけでケースを生きる力量や能力や覚悟がないと感じる。
 付け焼き刃の研修程度で、世間様の代表でしかない支援者に専門性を求めるのは無理な話かも知れない。しかし里の関わるケースで多くの利用者が頑張ってくれているので頼もしい。彼らは研修会場ではなく現場で、職員スタッフをを鍛え育ててくれる。現実の異層に目を開かせ、新たな世界の物語を開き生きさせてくれる。表面的で浅薄な物語に呪縛された輩に問題行動などと括って捨てられてはたまらない。
参考文献 『思春期をめぐる冒険』 岩宮恵子 日本評論社


posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。