2006年09月15日

弱さを誇れる社会を作れるか(2回シリーズ第2回目)★ 宮澤健【2006年9月号】

障害者が生きにくさを感じない社会は、弱さを誇れる社会であると思う。それはすなわち「優しい社会」ということだろう。優しさがいらないというのは優しさを否定しているのではない。そういう社会を実現するには誰かが戦わなくてはならないはずだ。9.11に象徴されるとおり、現実は複雑で、人間は甘いものではないことを認識する必要がある。その上で、誰かが意識して努力していかないと、「優しさ」などは欺瞞でしかなくなる。ましてや福祉の現場で、自分を優位に立たせておいて優しさを言う人は偽善でしかない。福祉の現場にいる人間は、高見に立っているべきではなく、優しい社会を作るために戦う人であって欲しいのだが、現実はそうではないことが大半だ。
9.11の跡地をグランドゼロと爆心地に例えて言うらしいが、その跡地をどうするかというコンペが行われた。日本の建築家、安藤忠雄はそこを祈りの場とすべく、地球の中心点に孤を描くドーム型のマウンドを建設し、世界中から人が集まり、祈り考える場として設計しコンペに提案したという。すばらしいアイデアだと思うのだが、この案は採用されず、結局また巨大な建築物が出現することになるらしい。安藤忠雄の提案は、「優しい社会」への戦いのひとつだと感じる。福祉の現場の人たちが「優しさが必要よね」などといっている次元とはかけ離れたものがある。イメージ力、アイデア、気魄どれを取っても戦いである。
しかし、現実は厳しく、祈ること、考えることを阻んで、さらにそこにものを作らざるを得ない強迫的な時代の流れがある。個人においても、組織においても、勝ち組、負け組などと訳の分からない比較の競争がなぜかしら激しく続き、世界も、身近な地域社会もぎすぎすして喧噪に満ちている。望むべき方向とは真逆に動いているように思えてならない。
「障害者、認知症は地域社会で面倒を見よ。障害者は社会に出て働け」というのがこの4月から出てきた政策だ。唐突以上の早さで法律ができ、施行された。認知症者にとって地域社会は生命線だし、障害者は当然働きたい。しかし現実は、地域の無理解と偏見の中に認知症者を放り込むことだし、認知症者の移動を地域内に体裁よく制限するあり方だ。
パワー重視で効率を求め続ける社会に投げ出されれば、特に知的障害者の傷つきは大きいと思う。すでに彼らは十分傷ついて生きてきた歴史を個人的にも社会的にも持っている。閉じこめ排除する為の施設は当然不要だが、守り支える場はなくてはならない。
効率とパワーに価値ばかりが突出して、憎しみが増大するあり方は、世界の地域社会隅々に潜入しているのかもしれない。そんな時代に認知症や知的障害の価値は大きな意味を持つと信じる。社会的な弱さや動けなさは表面的なことであって実は、大きな価値なのではないか。存在することそのものに意味や価値を見いだす「まなざし」を持っていきたい。
日本の文化は、本来そうした「まなざし」を育ててきたはずだ。パワーと効率偏重のなかで、真の価値を見つめる「まなざし」は風前のともしびで、現代においてそういう方向に進もうとすると相当の抵抗や違和感を持って迎えられることになる。福祉の現場にある人間は、日常の暮らしを通じて、弱さの中に価値を見いだす戦いの先頭に立ち、弱さを誇れる社会の実現に身を投じる覚悟があってもいいのではないか。
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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