「お母さんですか?先生ですか?」挨拶なのだが、不思議な挨拶に私は一瞬とまどった。しかし米子さんと私の関係を見てそういう言葉をくれたことは察することができた。
私は米子さんの顔をのぞき込みながら「はい、先生です」と答えた。言葉としてはちぐはぐだが、空気としては成り立っていく。そのやりとりを通じて心地よい風が通り過ぎたように、不思議な快感となって私たちを包む雰囲気があった。
先生ですと言ったのは、米子さんの口癖が「先生」であり、米子さんが先生と呼ばれる仕事をしてきた人でもあるからかもしれない。私はそのラインで答えたのだが、気持ちとしては、「お母さんですか」という言葉の方に感動していた。二人を見かけた通りすがりの人が、施設から職員に付き添われて利用者が出てきたとは見ていない。「お母さんですか」と声をかけたくなるほど我々二人がほのぼのとした雰囲気に包まれていると感じてくれたのなら、私たち二人の雰囲気は「銀河の里」らしい在りようなのかも。
通りがかりの見ず知らずの人の言葉に支えられたような、いい触れあいができたような、幸せな二人をみて、その人も幸せな気持ちになってくれたのかも知れない。なんだか良く解らないまま、「ウフッ」と言う感じで笑顔を交わして別れた。
そこから私も米子さんも極めて上機嫌になる。「月が出た出た」歌を口ずさみながらルンルン。米子さんも調子よく一緒にうたってくれる。なぜこんなにハイテンション?と自問自答してしまうが、心地よさに任せて歌い続ける。炭坑節は米子さんの十八番。人を元気づけ、場を盛り上げ、いろんなところでいろいろな思いを持って踊ってくれる、米子さんの心配りの歌だ。
そして、畑に着いて、いよいよ畝を立てようと私は鍬を振り上げたが、すぐに米子さんは「どれかして」と私から鍬を取り上げた。米子さんは、実に手慣れた身のこなしで鍬をふるい、ネギを植える畝を作っていく。疲れはしないかと心配して何度も声をかけるが「まだまだもう少しだから」と鍬を離そうとしない。
私は目の前でハツラツと作業している米子さんの姿を見守りながら、一年以上も前、とりつかれたように畑に穴を掘った米子さんを思い出した。
米子さんは、認知症になってしばらく不穏な自分を抱え、気分も安定しなかった時期が長く続いた。いいところのお嬢さんとして育ち、当時としては高学歴のお嬢様だった。そのお嬢様がお嫁に行ったのは、田舎町のしがらみの、ただ中ではなかったかと想像する。死んだ方が楽くらいの苦労を山ほどした。その苦しい思いに認知症になってからも、さいなまれ続ける米子さんがいた。じっとしていられなくて、歩き、動きまわった時期が続いた。寝れないで歩き回る夜が続く。何かの拍子に落ち込み、悲しい気分に包まれて外を出歩かねばならない米子さんがいた。
そのころ米子さんは「辛いことがあったらね、畑に行って土を掘って埋めなさい。そして青空を見るの。ほら」と私に言って聞かせるような口調で励ましてくれることがあった。
そんな言葉を何度も聞かされたおりもおり、あるときふっと外に出て行った米子さんが、畑に向かい、とりつかれたように、鍬で穴を掘りはじめた。いつも聞いていた言葉を実現するように目の前で見せつけられて、私は何も言えず、そばで佇んで見守るしかなかった。私は何時間でもつきあおう、つきあうしかないと覚悟した。心を無にするための穴だと私には思えた。
その時の様子は痛々しく私の目に焼き付いた。しかし長い時間脇目もふらず作業を続けたあとの不思議な行動が更に私の印象に残った。穴を埋めた後、そこからまるで新しい道をつくるかのように丁寧に線を引いていった。それは新たな旅立ちの道筋だと私には感じられてならなかった。 (次ページへつづく)
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無心で掘ったその穴に思いを埋めたのか、その時を画して吹っ切れたように米子さんに変化していった。不穏な行動や、一般に徘徊と呼ばれるような一人歩きは激減した。
畑仕事をしながら、これまでの米子さんとの数年を私は、思い起こしていた。
私がそんな思いにふけっているうちに、畝はいつの間にかできあがり、ネギも植えられていた。「やっぱり米子さんは先生だ」と心の中で念を押すように私はつぶやく。何も目に入らず、とりつかれたような米子さんではなく、今、現実にきちんとネギを植える米子さんが目の前にいる。
あの日の不思議な道は、あれから今日に至る米子さんの新たな道筋だったのだと私は確信できた。その道を私たちは一緒に歩いてきて、さっき通りがかりの人に声をかけてもらったのだ。一緒に歩いてきたこの一年の道程と、ここまで来た今日の私たちを嬉しく感じた夕刻の畑仕事だった。
「お母さんですか?先生ですか?」
「ええ、もちろん両方です」私は今、迷わず誇りを持ってそう答えることができる。