2007年08月15日

出会いの覚悟と腹 ★グループホーム第二 板垣由紀子【2007年7.8月号】

 夜勤明けでもうろうとした頭で事務処理をしていたら、激しい音がベランダから響いてきた。スタッフも慌てているようなのでさすがに気になり様子を見に行った。
網戸がひん曲がって壊れ、そこに眉間に皺を寄せイライラした感じで、落ち着きなく歩き回る男性の高齢者がいた。デイの利用者で私は初めてお会いする方だった。デイで不穏になり、荒れて周囲から非難され、居場所がなくなり、外に出てグループにやって来たのだった。
 自由のきかない半身が後ろに傾き、今にも転びそうになりながら、それでも足を引きずって歩き回っていた。壊れた網戸を直していると、向こうでバンバンと音がする。今度は木戸を思い切り開け閉めしていた。怒りがこもって近寄りがたさがあったが、何とか接点を持てぬものかと「こんにちは」と挨拶してみる。やはり耳には届かず、とりつく島もない感じだ。
(なぜ俺の体はこんなことになってしまったんだ。なぜ俺はこんなところに連れてこられたんだ。何で俺の後を着いてくるやつがいるんだ。)そんな叫びが聞こえてくるようで、胸が痛かった。スタッフももう呆然とするしかなく関わりようのない感じになっている。
 再び腹を決め、言葉をかける。「すみません、これ壊されては困るんです。」もうそのままぶつける。すると、チラッとこちらを睨み、無言でその場を離れ、今度はカーテンを思いっきり引っ張る。わたしも食い下がる「これも壊されると、私困るんです。」網戸にも手が伸びる。私が網戸をおさえると、手が腹に飛んできた。やりとりするうちこちらももうすっかり腹が据わってきた「叩くのなら叩いてもいいけど、本当はそんなことじゃないでしょ?」
 それを聞いてか手が止まった。少し入れた感じがする。「どうぞ、疲れたでしょ。そこに座りませんか?」と声をかける。なんとかソファーに並んで腰を下ろせた。しかしまもなく何かに突き動かされるように立ち上がる。私も一緒に立ち上がった。(おさまらない何かが出てくるのかのよう?緊張が走る。)
 その人が何かを喋った。「はやぐ・・・」私は、必死にその人の言葉を聞こうとする。固く閉じられた窓がいくらか開いた感じがした。次の言葉は出て来なかったが、何か言葉をくれようとしたのだ。なにかが繋がったと確信した私は、続けて言葉をかけた。
 「あそこに、ずっと見ている女の子がいるでしょ。あなたのこと心配しているよ。」私はなんとか、監視しているんじゃないことを伝えてわかってもらいたくてそういった。
デイのスタッフの彼女は一部始終を見ていて、そこですぐに意を汲んで、すっとその人の横に来て一緒にソファーに座った。私は「お茶を入れてくるから」と彼女にバトンタッチした。
 その後、怒りや焦りは幾分収まったのか、会話は少ないなりに、一緒に過ごせる時間が続いた。テラスで二人で昼食を一緒にする姿もあった。その後二人は片付けや、掃除など一緒にして過ごした。
 数日後車に乗って畑に行く彼と出会った。まるで別人のように穏やかな表情で、「どうも」と言葉をかけてくれた。あのときから繋がっている感じがして、嬉しかった。
 人と向き合うとき、こちらの覚悟を試されるときがある。今回のように何かに突き動かされているような人の場合は戸惑いも大きい。こちらも対決の腹を決めなければならないことがある。社交も社会性も通じない。ダメダメじゃ繋がれない。そんなときの真剣勝負、本気のやり取りしか通じない。反応もいろいろだ、腹を決めたつもりが相手には通じない甘い腹だったりもする。引き受ける覚悟の“腹”はやってみなければわからない。しかし覚悟を決めて、向き合うしかないことが現場では度々ある。覚悟のないまま向き合うわけにはいかない世界で我々は勝負を求められる。そうは言ってもこの例などは夜勤明けの朦朧とした意識が功を奏したにすぎなかったりもする。ともかく本音しか伝わらない。ごまかしや上っ面は見透かされる。認知症は、社会性を奪っていくのかもしれないが、本質を見抜く力は先鋭化されている。認知症の方との関わりの中には、人と関わるということの本質と原点があると思えてならない。表層的で形式だらけの現代には貴重なことだとつくづく思う。


posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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