2014年01月15日

優しく厳しく、潔く ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2014年1月号】

 昨年11月末、フユさん(仮名)が入院になった。食事を呑み込むのが難しくなっていたフユさんは、それでも、食べるという意思を伝えてきた。医師からは胃瘻造設のすすめもあったが、家族さんは「最後は自然な形で、銀河の里で静かに」との決断をされた。約一ヶ月の絶食と点滴治療を耐えて、フユさんの退院が迫っていた。
 居室担当の角津田さんから、「フユさんが帰ってくる前に、チームのみんなで話がしたい」と申し出があった。病院で嚥下訓練をしているとは言え、唾液ですら誤嚥しかねない状態で、24時間の点滴で命を繋いでいる現状。「戻ってくるということは、その先、一緒にいられる時間は長くはない」ということだとは、みんなわかっていた。ターミナルとしての受け入れとなると・・・フユさんが大好きな角津田さんの動揺を私は心配していたが、その彼女から、話し合いの申し出があったのは心強かった。ミーティングでは「食べるリスクもあるが、フユさんとの最期の時間をどう豊かに過ごすかを大事に考えよう」と話した。

 私もフユさんが大好きだ。最近では言葉を発する事も減ってしまい、あんなに語っていた夢の世界の物語も聞けなくなっていたし、ほとんど寝てばっかりなんだけれど、どうしてか“そばにいたい”と思う。入院中も何度も会いに行った。ふわふわと目を開けたり閉じたりしてた。こちらの声に(うん、うん)と優しく頷いてくれたり、外の冷気で冷えた手を顔に押しつけると(あいやぁ!)と驚いた表情を見せてくれたりした。
 ウトウトするフユさんのベッドサイドで、これまでを振り返る。一年ほど前、全身に黄疸が出て、食べることも難しくなり、一度はターミナルの体制をとった。ちょうどその頃、「孫さん夫婦が妊娠」との明るいニュースに「ひっこ(曾孫)の顔、見るぞ〜」と一緒に喜んだ。それからフユさんは、孫嫁さんの崩しがちだった体調回復と出産の無事を祈りながら、自分自身の体調も盛り返して、頑張って食べるようになっていった。ものすごいことだ。「ひっこ、生まれるの11月の予定ってらっけもんね、フユさんもがんばれぇ」と耳元で声をかける。
 曾孫さんは、予定より早い出産で、フユさんが入院になる直前に無事に生まれた。母子共に元気で「何より嬉しいねぇ、嫁ごも赤ちゃんも、頑張ってけだと〜」と言うと、フユさんは、ふわぁっとした表情で微かに笑った。
クリスマスのころ、フユさんは熱も下がり、酸素マスクもとれ、退院も間近だった。ところが、曾孫さんがお乳をつまらせ入院中とのことだった。年越しまでには退院できる予定だったが、落ち着くまでもう少し・・・と、フユさんの退院は曾孫さんが退院してからの年明けということになった。
 クリスマスも年越しも特養のユニットで過ごしたかったがかなわず、その代わりに、毎日のようにお見舞いに行った。手作りのクリスマスカードやミニ門松を病室に持って行って、ベッドサイドで過ごした。窓の外をじっと見つめるフユさん。私はいっぱい語りかけた。「良い子にしてらもん、サンタさん来るかな?」うんうん。「外、雪、降ってらぁの、雪かきさねばねぇよ〜」あや〜。「餅つきして、鏡餅つくったよ、これで年越しできるねぇ」うん。「ひっこ頑張ってらづよ〜、ばあちゃんも頑張ってけでね〜」うんうん。足の爪を切ると、(こちょがってぇ!)とでも言うように、手足を引っ込めていた。正月3日、近所の神社から権現様が来て舞を披露してもらった。無病息災を願う儀式を、フユさんと共に受けているつもりで私も頭を噛んでもらった。その日、神様にお供えしたみかんを真白さんが持たせてくれたので、さっそく届ける。「とっくに年が明けました、今年もよろしくね」うんうん。鼻に押しつけると、一息すうっと香りを吸い込み、その後ずっと、みかんを握りしめて離さなかった。

 角津田さんも足繁く病院に通っていた。時には、フユさんのベッドで寝入ってしまうほど、ゆっくり過ごしたこともあったらしい。「昨日も行ってきました、みかん、また握ってもらいました」と話す。さらに「中屋さんが作ったクリスマスカードを見たら、私、フユさんと一緒に居たんだなぁと思って・・・」と話してくれた。そろって浴衣を着た夏祭り・ユニットのそばのリンゴ園で一緒に収穫・“角津田美容院”での散髪で笑っているところ等、フユさんと角津田さんが二人で写っている写真を貼ったカードだった。「先月号の中屋さんの記事は、自分にはどうしてもフユさんのこととして読んだ」と言う。中屋としても「フユさんや泰三さん(仮名)のことを思って書いた」「フユさんのために何かをしてあげられたとはとても自信が持てないけれど、フユさん本人がどう思っていたかは本当のところはわからないけれど、それでも一緒にいたくて、一緒にいることだけは必死にやってきたよね」等、お互いにゆっくり話せた。
 「フユさんの夢を見ました」と語る角津田さん。「やっぱり私、泣きたいんだな、って思ったんです」と、夢からのメッセージを受けとめていた。彼女は一時の沈黙を置くと、「フユさんが帰ってきて一緒にここで過ごしたい気持ちもあるけど、本当は、病院にいてほしいって思っちゃってるんです・・・」と呟いた。病院にいる限り延命は続く。「まだ居てほしい・・・」と言うと、しばらくの間、彼女は声を上げて泣いた。本心を口にし、声を出して泣く角津田さんを見ながら、一年前とは見違えるほど強くなったなぁと、フユさんに感謝の気持ちが湧いてきて、私も泣いた。彼女の夢から、私は、この先の未来と希望、力強さ等を感じた。

 それから間もなく、曾孫さんが退院したと知らせが入った。フユさんの退院日も決まりまた会いに行く。「ひっこちゃん、先に、元気で家さ帰ったづよ〜」うんうん。「ばあちゃんが頑張ってけだからだよ〜」うん。「ありがとや〜、フユさん、ありがと〜」うん、うん。「あさって、フユさんも帰るべしね〜」うん。・・・フユさんと曾孫さんのふたりは、もうすでにどこかで会っていたんじゃないか、と感じた。
 翌日、退院に備えて、居室を飾った。明るい表情の角津田さんが、てきぱき掃除をして、家族さんも寛げるようにとソファを入れる。こだわって買ってきた花束は、夏祭りの時に浴衣用に作ったお揃いの黄色い花かんざしと同じ色だった。寝て過ごすフユさんの目線でも見えるようにと、花瓶の高さもこだわっていた。ユニットの花瓶を全部引っ張り出して、リーダーの万里栄さんとあーだこーだとやりとりの末、「じゃあ、もう、好きなの買ってきたらいいよ」と万里栄さんも呆れてしまうほどこだわっていた。新人の頃の角津田さんは、「はぁ…」とか「あぁ…」とか「いやぁ…」しか言わず、しかも間がえっらい長くて・・・、はっきり自分の思っていることを語る人ではなかった。一年前、フユさんがターミナルとなった時のユニット会議では、その状況を受け入れられず、自分の気持ちも語れず、泣くことさえもできず、ただ黙っているだけだったのを思い出す。フユさんがくれたこの一年は、本当に大きかったんだなぁ、と思う。入院中に伸びた髪の毛が気になるので、いつ床屋さんに来てもらおうかと相談していると、さっと手を上げて「私が切りたいです」ときっぱりと言った。「あ、そうだよね!」とみんな納得した。

 そうやって、あれやこれや、フユさんと一緒にしたいことを、ユニットのスタッフそれぞれが思い描きながら迎えた退院当日、1月9日。お迎えの万里栄さんと帰ってきたフユさんを、私も高橋看護師と共に玄関で迎えた。「おかえりー!わー!」「フユさーん!にゃー!」声のでっかいツートップの万里栄さんと中屋に両サイドから叫ばれて、閉じていた目が開いた! 高橋さんもフユさんの鼻をちょんちょんする。ステレオ大音量のお出迎え?! に、少し目をきょろきょろっとさせて周りを見渡したかと思うと、にこぉっと笑ってくれた!「帰ってきたんだよ〜、わかってるんだね〜」と高橋さん。その後、すうっと一筋の涙を流したフユさんだった。
 角津田さんが念入りにしつらえた居室に横になる。みんなが顔を見にやってくる。「やぁがましいとこに帰ってきてしまったねぇ」と賑やか。私も、仕事の合間をみて、事務所から何度も居室に足を運んだ。穏やかな寝息が嬉しい。フユさんが“ここに居る”ってだけで、私はこんなに満たされた気持ちになるんだと自分でも驚くほどだった。

 それでも時間がもう無いのはわかっている。一週間か、もっとか・・・。ところが帰ってきたその日の夜だった。ユニット会議中でみんな揃っていた。フユさんは逝った。帰ってきて安心したのか、穏やかな顔。外は吹雪だったが、駆けつけた孫さん夫婦と一緒に一晩過ごした、温かい夜になった。翌朝は、勤務の人も休みの人も来て、最後のお別れができた。そんな時間までくれたフユさん。まだ体がほこほこと温かくて、寂しい気持ちが救われるようだった。角津田さんは、顔の産毛を綺麗に剃ってあげて、葬儀屋さんが来る直前まで、フユさんの手を握っていた。
 担架に乗せられたフユさんに、いつも添い寝していたクマのぬいぐるみを抱かせた高橋看護師、こだわりの花束を握らせた角津田さん。そうして白い布がかけられたとき、私はとたんに涙が溢れ出た。玄関へ向かうフユさんを、私はすぐには追うことができなかった。突然に泣けてきた自分に驚き、「行かないでほしい・・・!」と叫んだ。まさかそんな言葉を口にするなんて・・・と足がすくんだ。
 雪の中、お孫さん達と一緒に帰って行ったフユさん。葬儀の日も大粒の雪がもかもか降っていた。真夏でも「雪、降ってらべぇ?」と雪かきを心配していたフユさんの姿が思い出される。参列したスタッフが持ち帰ったお花は、やっぱり“フユさんの温かい黄色”だった。
 空いたベッドには、フユさんの笑顔の写真が置かれ、花かんざしが2本添えられ、ベッドサイドには平野さんがつくったリンゴゼリーも供えられた(以前、フユさんと「酔っぱらった〜」とはしゃいだ思い出になぞらえて、見た目がビールそっくりになっている!)。「フユさんが帰ってきたら一緒に食べたいと思っていたけど・・・」と平野さん。「行くのがあんまりにも潔すぎたよね・・・」「“角津田美容院”もやらせてくれなかったね、フユさん」写真のなかのフユさんは、「なぁに、おめたち、いじけたこと言ってらってぇ!しっかりせぇ」と言ってるようだった。優しく厳しく我々を鍛えてくれる“おばあちゃん”だなぁ、これまでも、これからも!
 みんな“明日”という日がない人たちなんだと改めて思う。それは、絶望的にじゃなく、だからこそ今日という日を大事に一緒にいるんだという希望を持って、そう思う。「空いたベッドで寝たい」と言った角津田さん、「まだまだ整理、つけたくない・・・」そうだよ、整理などつくものか、いつまでも。でも、フユさんからもらった、大きく強く育ててもらったこの一年を、これからの生きていく力にしていってほしい。だって、フユさんはこんなに大きいじゃないか、あなたにとって!

 葬儀に寄せられたお孫さんの挨拶文、「土いじりが大好きだったばあちゃんが苦労して作った畑の野菜で、私は大きくしてもらった」というくだりが、とても印象に残った。フユさんは夢の中でもよく畑にいて、起きたとき、お孫さんを案じるセリフをよく聞いた。いつだったか面会に来られたとき、スーツ姿に目を細め、「達夫(お孫さんの仮名)、なぁんと立派になってぇ」と微笑んでいた。何年か前の年越しでは、達夫さんに年賀状をだそうと「なんて書く?」と声をかけたら、「元気で、好きに暮らせ〜、って」と返ってきた。入院して間もない頃、酸素マスクの下からやっと聞き取れた一言「もは、あど、いいがら〜」と繋がる。『俺のことより、若い人たちが自分で考え、自分を信じて、元気で好きにやってくれれば、それが一番のばあちゃんの願いだ』ということだろう。一年前、ターミナルかと思いきや、曾孫さんの誕生と、その命の危機からの回復を見届けたフユさん。ほとんど寝てばっかりな日々だったはずなのに、角津田さんはじめ、スタッフも育ててくれた。大仕事をして、次の世代にバトンを繋ぎ、見事、あざやかに逝ったなぁと感じる。フユさんのこの世での時間があの日までと決まっていたのか。ホントにあの日、私たちの元へ帰ってきてくれたことを、心からありがたいと思う。

 この文章を書き上げたとき、病室でフユさんが握りしめていたみかんを角津田さんと半分こした。ちょっとしなびてはいたけど、いい香りがした。フユさんと過ごした日々を、ちゃんと味わって、フユさんに負けないっくらい、しなやかに潤って、潔く生きていきたい。ありがとうフユさん。これからも私たちを見守っていてください。


posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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