2014年01月15日

ユニットリーダー研修に参加して ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2014年1月号】

 先日、ユニットリーダー研修に仙台と山形へ行ってきた。これからの老人ホームは個室対応、少人数介護、一人一人に合わせた個別ケアが可能なユニット型が主流となりつつある。認知症高齢者の独居、老々介護等の時代には、高齢者施設の役割はますます重要になり、介護の内容も変化してきている。
 私は介護の知識も経験もないまま、ユニット型特別養護老人ホームに勤務して4年間、情熱と若さで乗り切ってきたが来たが、このまま無知ではまずいことも痛感していた矢先の研修参加だった。

【座学】
 初めの3日間は座学で、ユニットケアの概念や、ユニットリーダーのあり方、24時間シートについて学んだ。ユニットリーダーやケアマネや施設管理者が90名ほどの会場で、ほとんどが30〜50代の現場経験10年以上のベテランだった。
 まず、ユニットケアの理念の講義。老人福祉法の施設設備及び運営に関する基準の第33条の「一人一人の生活習慣や好みを尊重し今までの暮らしが継続出来るようにサポートすること」を根拠に4つのポイント「少人数ケア体制をつくる/入居者が自分の住まいと思えるような環境をつくる/24時間の暮らしを保証する仕組みをつくる/今までの暮らしを続けてもらえるような暮らしをつくる」ということについて説明があった。どこか違和感があった。利用者にスポットが当たらず、スタッフがいかに利用者を管理するかに傾き、24時間シートがすべてのような話だった。

 私が捉えた24時間シートは「まず、利用者個々の24時間の行動を事細かく分刻みに観察しデータを取る。それを情報化し10分おきに書き込みシートを作る。それに沿ったケアを記入して24時間シートができあがる。それをスタッフが把握しモニタリングする。実行しながら評価を繰り返し更新していく。各スタッフは同じケアをサービスできるし、新人や協力ユニットのスタッフでも、24時間シートで、一人一人の個別ケアが可能になり、時間軸にまとめることにより、作業効率や業務の見直しが可能。家族さんに説明しやすくなり、クレーム防止になる。監査などにもすぐに対応できる」ということだった。
 行動データを細かく観察し、それに添ってケアとしての介助をおこない、なにも問題が起こらないように管理する。起こってくることは問題視し、問題解決にむけてケアで縛っているような気がした。なにかおかしい。 「利用者の尊重と暮らしを支えるケア」と言葉では語られ、受講者はなんの疑問を持たず受け入れている。「認知症の人には3パターンの24時間シートを作れば、どんな行動や問題が起きてもほぼ対応できる」と言う話には、怒りが込み上げた。人間がパターンに当てはまるわけがないし、時々刻々と感情も動いている。それに応じて動きだって変わってくる。人間存在をパターン化して捉えられると言い切るのは傲慢そのものだ。人間の家畜化が行われているようで恐ろしくなった。それを推奨している日本ユニットケア推進センターにも腹がたった。最終日には参加者のほぼ全員が「学んだことを実践に生かしたい」と意気込んでいた。とても恐ろしい業界だと感じた。

【現場実習】
 座学のボディブローで、私はズタズタだったが、さらに研修は現場実習へと続く。実習先はとても綺麗なユニット空間で、生活感があった。備品や家電も配置が工夫されて、くつろげる空間も充分にあり、ゆったりと時間が流れる。食事もおいしく、個室もまるで自宅だった。ここで暮らしている方達は幸せなんだろうなと思った。利用者も「どこからきたの?」「ここは語尾に“のぅ” がつくんじゃ」などと話しかけてくれる。スタッフも無駄のない動きで、オムツ交換なども細かい配慮がきちんとされていた。完璧で理想だとその時は感じて、いい感触で参考にしたいと思った。
 2日目、リビングを見渡すと、お茶を飲み続けるおじいさんがいたので私は会釈をした。昨日もそのおじいさんはその席に一人で座っていた。今日も小さいテーブルに一人で座っている。ポットと湯飲みが置かれ、ただ黙って遠くを眺めていた。1時間過ぎても、そのおじいさんはそこに座り続けていた。気になったので隣に座って過ごした。そのうち、そのおじいさんはオブジェに過ぎないのではないかと感じた。ポットと湯飲みが小さいテーブルに置かれている。数時間に一度スタッフが無言でポットを回収し、お茶を補充していく。おじいさんが席から立ち上がると「こっちですよ」とスタッフがトイレへ案内する。スタッフに連れられて戻ってきたおじいさんは、また同じ席へ座わりお茶を渡される。そして1時間かけてそのお茶を飲むとまた立ち上がる。そしてまたトイレへの繰り返しだ。おじいさんは無言だった。その日スタッフに「あのおじいさんはなぜ一人でお茶を飲んでいるのですか?」と質問した。「あそこが一番落ち着くんです。ガンガンと歩く方だったので大変でした。スタッフで話し合い、空間を工夫しようと、いろいろと試した結果、あの一人用テーブルに落ち着きました。穏やかに過ごされてたでしょう? 認知症の方でも落ち着ける居場所があれば、一人でお茶を飲んで過ごされますよ」と笑顔で話す。「一人でお茶を飲みながら何を考えているのでしょう?」と返すと、「さぁ。でもいい表情です」と笑顔のスタッフ。やはり私にはおじいさんはオブジェにされているとしか思えなかった。落ち着ける居場所に縛りつけられている。お茶も、そこから動かせない工夫でしかない。また、トイレの後は、同じ場所に座ってもらってお茶を出すと決まっているようで、おじいさんも湯飲みを見るとすぐに手に取る。条件付けに過ぎないのではないか。ケース記録は「起床、入浴、食事、入眠、くつろぐ」といった単純な言葉の羅列で、それだけでしかないのかと打ちのめされた。
 3日目、4日目は違うユニットで実習となった。また違った雰囲気で、時間はゆったりと流れていた。1週間前に入居された男性利用者がいた。そのおじいさんは、帰宅願望と徘徊があるとの説明だった。農業者で手のひらの厚さが私の手の2倍はあった。がっしりした体格で少し近寄りがたい感じがあったが「おい!今日空模様悪いな、どうする?」と腕を組み話しかけてくれた。「そうですねぇ、天気悪いですね」と返すと、「今手伝ってくれるか?ビニールかけないとダメだ。苗、悪ぐなってしまうのー。俺、一輪車取ってくるがら、準備しててくれ!」と立ち上がり窓や玄関へと歩いた。その方が立ち上がった瞬間に何名かのスタッフが「どうしたんですか?座っていてください」「トイレはこっちですよ」「外へは雨だから出られませんよ」と、連れ戻し、トイレ誘導してお茶を出した。すぐにスタッフはいなくなる。連れ戻されたおじいさんは、「俺一人じゃできないんだけどなぁ。手伝ってくれる人いないべか?早くしないとダメになってしまうのー」と言うと、また立ち上がっては連れ戻されるの繰り返しだった。しまいには目の前に本を置かれて「なんだこれ?」とページをめくるとスタッフがデジカメで撮り「本を読んで過ごす」「本を読み落ち着かれる」と記録していた。本を読んではおらず、めくっただけだ。ケース記録には、その方の気持ちや、動きにどう寄り添ったか、ストーリーがどうなったかは全く書かれていない。「本を読んで落ち着く」「甘い飲み物を飲んでゆったり過ごす」「何回歩く」といった表面的なことばかりだ。帰宅願望や徘徊を問題行動として捉えて、そこにある気持ちは無視され「落着かせる」ために刺激を与えない感じは、その人の存在を消す作業をやっているようで心が痛くなった。これでは意欲を無くして、座って過ごすしかなくなる。
 もう一人のおばあさん。バルーンをつけている方で、リビングのソファで過ごされていた。上半身が少し動かせる程度で、自力の移動はできず、ソファでおしりの位置を変えることもできなかった。ほとんど目をつむって眠っていた。1〜2時間ごと目を覚まし、か細い声で「すみません、おしっこが出ます」と訴える。しかし、スタッフは「バルーンが付いているので大丈夫ですよ。ここでしてくださいね」と声を掛けて立ち去った。リビングで用を足すのはバルーンとはいえ誰だってイヤだ。おばあさんは、しばらく「すみません、おしっこが出ます」と言い続けるとまた目をつむり眠った。
 昼食の盛りつけが始まり、利用者とスタッフで「今日は焼きたてのホッケですよ」「おいしそうだ、焼き魚が一番よね」「この時期なら鮭もだんだんにあがる頃でしょ、食べたいわ」と盛り上がる。私もそんな食事前の会話が楽しかった。その時、遠くのソファから、こちらを見ているあのおばあさんに気がついた。私はお婆さんのソファの横に座った。「…おしっこ…出ます…お願いします」と息が上がり、唾液もたくさん出ていた。おそらく、昼食準備でにぎわっている最中、必死にスタッフを呼び続けていたのだろう。私はまったくその声が聞こえていなかった。「ごめんなさい」と謝る私を、何も言わずじーっと見つめた。スタッフが「もう少しでご飯ができますからねー」と笑顔で言い、口の周りをタオルで拭くと、すぐにいなくなった。
 私はそのままおばあさんの隣に座り続けていた。すると「私が見えますか?私が映っていますか?」と聞いてきた。私は驚いて言葉に詰まったが、気迫に押されて「…はい」と答えた。すると、「あなた…、見えていないでしょ、見ていないでしょ。私の存在を知らないでしょ。私は存在していませんよ」と話された。その言葉に私は涙が出そうだった。続けて「春よこい、早くこい、歩き始めたみぃちゃんは、赤い鼻緒のじょじょ履いて、おんもへ出たいと待っている」と息が上がりそうになりながら歌ってくれた。そして、「お地蔵様の話を聞きなさい、お地蔵様に話しかけなさい。そして、お地蔵様とあなたの間にお花を置き供えなさい。私の存在はありません。存在はしません」と語られた。私は「はい、わかりました」とやっと応えた。すると「どーも」と言うとまた眠られた。
 重い言葉に打たれてしばらく動けなかった。表面上きれいで理想に思える施設が、人間の存在を簡単に消してしまっている。利用者の身の回りやケアについて考えようとしながら、どこかで過ちを犯している。人間と人生そのものにはなんの関心もない。また「介護員とは黒子に徹し、その方の人生をサポートする存在」と言う人もいるが、それも介護する側される側に分けた上での言いぐさだ。銀河の里では人生や語りの中から、テーマやプロセスを追い、一緒に生きていくスタイルだが、そうでないと人間と人間との関わりにはならない。世の中が効率・簡潔・マニュアルを求め、感情は考慮しない仕組みになっている。マニュアルは人間と人間の関係では役に立たない。そのおばあさんの言うとおり、利用者の存在を消さないように必死で向き合っていくしかない。
 今回の研修中に何度か「おかしいのでは」と噛みついたが、全く相手にすらしてもらえなかった。銀河の里に戻ってきて改めて考えてみると、問題は自分にあった。講義の内容に違和感を持つものの、感情しか出てこず、論理的・具体的に説明できない。銀河の里での実践が、私の軸となり核とはなっているものの、説明ができなきゃ聞いてもらえない。自分の課題を痛感した。
 研修最終日「効率を考えながらよくがんばっていますね。マニュアル通りの作業をこなし、定時に帰ってすばらしいですね。利用者は、立ち上がったり歩いたりすると連れ戻されるんですね。利用者の語りに耳を傾けず、心に残るなんてことはあり得ないのですね。みなさんこんなとこに収容されて最悪ですね。生きた心地なんてしないですよね。でも、今の私には何もできません。すみません」という無力感、寂寥感で終わった。
 10万円もかかった研修、ただただ怒りと悲しみでいっぱいになり、そして、心のエネルギーさえ奪われた研修。無駄に思えた。

【銀河の里での早番と会議】
 研修から戻り、休みを一日おいて、早番が2日続いた。私は早番が好きで魅力に感じている。利用者さんがそれぞれにガンガンと動き、私も巻き込まれていく。その日の流れが早番で決まるのでワクワクする。研修の後、10日ぶりの銀河の現場は生き返るようで楽しかった。しかし、今までとは違う感覚があった。
 「ご飯くださーい!」「オラにばり食わせねぇもん」と叫び続けるユキさん(仮名)。特別な関わりが必要な方で、朝食でもめないことはない。「こんなべちゃべちゃごはん!みんなは固いご飯なのに、オラばりぺーっこ!」と叫ぶ。ソフト食なので仕方ないのだから理不尽な文句だ。私は「梅っこ持ってきたよ?ひとっつ?ふたっつ?」と梅干しをサービスする。ご飯の上にのせ「まずっ!あーまずい!」と言いながら全部たいらげるユキさん。「おいしいから食べたんでしょー!」と言っても「うまぐね!」とかわいくない。ユキさんの「うまぐね」「まずい」は「おいしい」と同じかそれ以上の意味がある。「ユキさんはこんなに怒り、叫びながら食べてた。まずいと何回も言いながら完食し、居室に横になってもまずかったと叫んで、またご飯食べたいってすぐに起きてきたんだよー」とスタッフに申し送る。
 銀河の里は朝から大騒動だ。でもそんなやりとりが“私とあなた”の関係を作っている。92歳のユキさんは内蔵の体調もあってか嘔吐しやすい。でも会話しながらの食事ではなぜか吐かない。夜中にリビングで二人で食べたときは吐かない。普段ソフト食のユキさんが、外食では寿司や海鮮丼などを食べるし、吐かないという事実もある。嘔吐は、誰かとの“特別な関係”があれば極端に少なくなる。
 嘔吐しないような食事形態や工夫を考えると同時に、ユキさんとの会話や関係について会議で話し合い、吐くということの意味を考えた。また、そこからユキさんとの食事にも更に興味を持って、結果、嘔吐が減っていた。しかし、その早番の日の夜、ユキさんは嘔吐した。92歳の身体にはとても辛く呼吸も上がってしまう。ユキさんも「もう食わね!」と悲しげな表情で食事をやめる。
 その次の日、申し送りでは嘔吐したという事実しか伝えられなかったが、その後のやりとりがとても充実していて、ケース記録にはユキさんとのその後の会話が書かれていた。しかし、そこに私はひっかかった。やりとりは楽しいし、利用者さんとの関わりは私にとってずっと大切だった。オムツ交換や食事介助も、その方との関わりの通路だった。その関わりを軸に意識や興味が高まり、身体面もカバーしてきた。もちろんユキさんの食形態も工夫してきたし、スタッフも一緒に食事がとれるような体制もとってきた。しかし、この日は嘔吐自体が私の不安要素になった。
 嘔吐のデータを3ヶ月分、居室担当の広周さんに作ってもらった。嘔吐の状況はどのように変化してきたのか、時間やスタッフとの関連が部分的には解っても全体では把握されておらず、同じ事の繰り返しで手を打っているとは言えなかった。「このデータをどうしたいの?なにがわかるんだろうね?」との声もあった。私は3年続いている嘔吐に対して、連続してデータをとり、対策を考えなければ、なんとかしなければと、会議までにさまざまな情報を集めた。
 会議には、嘔吐の時間帯、嘔吐量、食事形態、排便との関連性を3ヶ月分表に細かくまとめてあった。そして「うーん、どうなんでしょう?」と首をかしげる。「どうなんでしょうじゃねーだろ!こんだけ細かいデータがあればすべてわかるだろうが!このデータから対策考えないといけないだろ!」と私は爆発しそうだった。会議の10名全員が「…」と最初無言だった。その後、出てきた案は「食事量を一日のトータルで考え、時間ややりとりで工夫する」程度のものだった。そして、会話はやりとりの話になる。私は「こんなんでユキさんを守れるのかよ?」と怒りが湧いた。会議後、また広周さんが「データ作ったけど…、なにが分かったのかな?」と独り言をつぶやいていた。私は具体的に対策が決まらなかったことでイライラしてそそくさと帰った。
 それから数日間、「なんで職員が3人もいるのに、この利用者さんをトイレに誘導しないんだ」「入浴に誰も入れていないのに、
ゆったりと利用者さん達と過ごしているだけってどういうことだよ」「処置がある人は、早く横にしないとだめだろ!」などと細かいことが気になってしかたなくなった。そしてどんどんつまらなくなっていった。ユニットにいても私だけ違った人のようになり、私は自分が怖くなってきた。
 そして広周さんの「これでなにがわかるんだろうね」という言葉が気になり、夜ひとりで資料を見直してみた。「これだけの細いデータがあればすべて分かる」と思った自分に疑問を持った。「すべてとはなんだ?嘔吐?ユキさん?因果関係?」改めて資料を見てみるとデータからはなんにも分からないことに気がついた。9月に比べ11月は嘔吐率が高い。昼食は嘔吐する前に前兆として、ゲップやむせ込みが見られる。夕食は箸を付ける前からゲップがあり、吐きやすい。そんな事はユニットのスタッフは当たり前のように解っている。隣に座って食事をとる工夫も自然な流れで行われてきた。
 一番の問題は、私だった。ユキさんという人間を、“嘔吐”としか捉えようとしていなかった。嘔吐を問題視しデータをとって対策をして、その行為を消し去ることしか考えていなかった。私はユキさんの話がしたいのではなく、嘔吐対処法の話をしたかったのだろうか。そんなだから、ユキさんと過ごしても楽しくならなかった。ユキさんの語りには耳を傾けていなかった。その必要を感じなかった。ユニットで感じた“私だけ違う生き物”という感覚は、他の人間を問題としてしか認識せず、問題の解決しか捉えていなかった。人間じゃないのは私だった。
 なにが正しくて、なにが間違っているのか。私は何をすればいいのか。悩む。銀河の里に来てから4年考え悩み続けてきた。そして、今回もまた悩む。なにが正しいか考えて安易に答えがほしくなる。

 研修は、くだらないと思ったが、今の自分にとっては必要だった。科学的根拠、データの集積、課題や問題の明確化と対策、業務の効率化等を学んだ。銀河の里では、その人の人生のテーマや魂の語りが注目される。対極にあるが、どちらも正しいと感じた。どちらかだけに視点を置き、対極側を否定していても、それは間違っている。利用者は安全や安心も欲しいし、人間としても存在しているべきだ。どちらかに傾いたら、それに気がつく感覚と戻ってくる力も必要なんだろうと思う。利用者を扱うことに徹すれば、安全が確保できてスタッフも定時に帰れて楽だ。利用者と生きれば、心も動き感情も出てくる。それを「物語」として綴ることに価値があると思うが、どちらも必要で、どちらも欠けてはいけない。それを今回の研修と、帰ってきてからの日々に学んだ。


posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おかしい、とか、怒りが込み上げた、とか書いてますが、
代案を出さずに否定だけしようなんて虫が良すぎるんですよ。
きれいごとは誰にでも言える。
文句を心の中で言ってるだけじゃ何にも意味がない、何にも。
Posted by at 2016年03月08日 05:15
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