2007年05月15日

カウンターマジック ★グループホーム1 前川紗智子【2007年5月号】

 これまで私には、お店のカウンターは、何となく特別で少し近寄りがたい場所でしかなかった。ところがこの春、銀河の里で「悠和の杜」を開店した。障害者の自立と社会参加をねらった銀河の里の決死の取り組みなので、なんとかしなければと私もよくお店に顔を出す。たいてい一人で訪れるので、カウンターに座る。カウンターの向こう側に同僚先輩の牛坂さんがいるのも落ち着く。こうしてカウンターに座ってみて、カウンターという場所が持つ魅力を随分発見した。
 たとえばカウンターの二つ三つ席を挟んだ向こう側に、私とは30も歳の離れた男の人が座っていたりする。普段だとこの人と会話をすることなど絶対と言って良いほどあり得ない。電車で隣に座ったとしても話どころか、顔さえみないで去ってしまうだけだろう。カウンターでは、初めは牛坂さんと私、牛坂さんとおじさんとそれぞれが楽しんでいる。それがいつのまにか3人の会話になり、そしてさらには私とおじさんのやりとりになっていたりする。  これは興味深い体験だった。お酒が入っているからなのか、人生とか人間とかに対する思い、価値観みたいな話になり、“あの本お前に貸してやろう”とか、“もっと飲もう”と距離が近づいていく。ある時、私はおじさんの話に何だか泣けて泣けて、二人硬く握手を交わしたこともあった。きっと端から見れば、?どこかおかしな光景なんだろうが…。
 もともと、シャイで幾分小難しくて、社交的でない私が、世間という「外」で「人」と出会ったり、自分らしさをあふれさせるなんて事はあり得ないと思っていた。私が生きてきた世代と時代が、人間と人間を極力関わらせない、関わらない大きな分厚い壁をもっている。カウンターという場所はその壁がかなり薄くなるようだ。
 この場合、カウンターの向こう側いる牛坂さんという存在が私にとっては決定的に重要な役割をしてくれていると思う。カウンターに立つ人は、本来はそこのマスターなど、店の顔であることはそういうことなのだろう。カウンターの中の人格に支えられて、安らいだ気持ちで座り、その人格を通じて、客どうしが、年齢も、職業も超えて平等にやわらかく、かつ深いところでつながりが生まれたりする。もちろん相手にもよるのだが、出会う前の想像とは違う、暖かくて不思議な出会いになる。人間とは上手に壁をくぐれば結構いいものなのかも知れないと私の人生に対する希望の火が瞬間ともったような気になる。
もちろんそうした出会いが日常に続いていくものとは限らず、むしろ一期一会だけれど、だからこそ暖かいものが心に残って、日常に作用してくるのではなかろうか。
 私はグループホームの認知症ケアの現場に身を置いているが、カウンターマジックを経験しながら、それはケアの場においてかなり大切なことを示唆しているのではないかと感じた。カウンターの中から、牛坂さんが私に料理や飲み物を出してくれるように、直接のアプローチやサービスは当然大事である。しかし私とおじさんを出会わせたり、私を泣かせる物語を引き出すカウンターマジックの儀式における守り神としての牛坂さんの存在は重要である。
 利用者は認知症を通じて、人生の生と死の時空を行き来し、家族や生きて出会った多くの人びとと再会や別れの重要な儀式を行っていくのではなかろうか。時空を超えた出会いと別れの儀式が深く進むべくカウンターマジックの揺るがぬ守り主として私はそこに存在していたい。


posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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