舞台の力って、音楽ってすごい。この公演を見てあらためてそう思わされた。音に導かれて、そのうつし出している世界にすっかりと浸りながら、でもシーンごとにさまざまな自分自身の追体験が巻き起こって、感情がぐるぐると揺り動かされる。
“僕はもう、あんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなの、ほんとうのさいわいを、さがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう。
”銀河鉄道での旅で、さまざまな人と出会って別れていく中で、「ほんとうのさいわい」が何なのかを考え始めたジョバンニとカムパネルラ。その終わりに、ジョバンニとカムパネルラは石炭袋(ブラックホール)を目にし、ジョバンニはこう語ったのだった。
その時に、わたしの中の古い記憶がまた引き出されて、涙が止まらなくなった。それは、私がまだ小さい頃、夜に、明るい居間で父親のあぐらの中に座りながら、開けられた戸の向こう、真っ暗な座敷を指差しながら「鬼がいる」と父親に訴えているのだ。でもだからと言って父は座敷へ行って電気をつけ「いないよ」と照らして見せたりはしなかった。ただ一緒にそこに座っていた。私も、いるかいないかを知りたかったわけではないし、退治してほしいわけでもなかった。父が退治にでかけていたら、もっと不安だったろう。座敷を見つめながら、鬼はいるけど、それでもここにいれば大丈夫だ、不思議とそんな安心感があった。
闇と対峙しても、平気でいられるこころの強さ、それをもたらしてくれる誰か、そのあなたとわたしの関係。ほんとうのさいわいは、そこにあるんじゃないのか。闇をなくそうと、なんでも明らかにしようとして、いろんなことに光をあてながら、自分たちの中の不安と戦ってきた。でも光をあてれば陰はかならずできるのだ。そうやって、いらない陰を増やしてもきた。ほんとうに照らさなきゃいけないのはその闇ではなく、闇と対峙したときの自分や、それをとりまくものたち。絶対的な闇は消えたりしない。わたしの中の不安の種は、闇の中にではなく、私はだれかとつながれているのかな、いつもそこにある気がするのだ。 ジョバンニとカムパネルラはつながった。闇と対峙してもこわくなくなった。その安心感は、たとえカムパネルラがもう戻ってこなかったとしてもきっと消えなかったんだろう。ほんとうのさいわい。 3人でこの銀河鉄道の夜を見た。みんな戦っている。ほんとうはそこまで気負う戦いじゃないのかもしれないんだけど、みんなぶきっちょなので、ちょっとやりすぎて疲れたところで握ってた手を緩める。あ、こんくらいの力加減でもまだ手つないでんじゃんってなったり、力こめすぎて相手から手を振りほどかれたりしながら、また手を伸ばして。楽ではない。けれど、なんとも愛おしいではないか、と思う。