2007年03月15日

他人の話を聴かない人々の増大 ★岩手大学教授 横井修一【2007年3月号】

 内閣の閣僚会議の際に閣僚達が私語を止めず、安倍首相が入室する際にも起立して迎えるという慣習を守らなくなった、という中川幹事長の発言が少し前に政界ニュースになりました。真偽のほどはともかく、そうしたことは大いにありそうと思わせる風潮が今や日本社会に根付いています。大学の教授会でも私語は普通になりましたし、小中高のPTAや授業参観の際に母親たちの私語で授業が妨害される(教師も注意できない)という話もよく聞きます。自分の関心外のことに注意を向けず、そのことがもたらす影響に無頓着になっているのです。
 TVでは「討論会」などで他の話に大声で割って入る人が珍しくなくなりました。相手の話を遮って話の流れを意のままに司会する高名な政治評論家もいます(番組自体が不愉快になります)。情報番組(モーニングショー等)でちょっと注意して見ると、サブキャストやコメンテーターたちが他の人が話をしている時に頷いたりもせず無表情であるのが分かります(最近のあるエッセイでも指摘されていました)。 こうした例はいずれも、声は聞いてはいるものの他人の話は聴いていないという自己中心的な、つまり自分の利害には敏いが、他人には関心を持てない現代人の傾向を表しています。問題は利害・興味関心が自己中心的だということだけではありません。他の人が話している時私語をしていても「話は聞いているよ」と答える人がいますが、そうした考え方をする人(現代の主流の人々)はもはや「人と話す」ことの意味が分からなくなっている。そもそも「人」が話すのを「聴く」ということは、語られた「言葉」だけでなく、その「語り」の全体(言葉遣い・語りの流れ・声の調子・眼差し・表情・姿勢等々、あるいはその人の日頃の言動との調和・不調和など、その人の状況・心理・感情をも思い遣ることで、言わば人格の全面的な関わりです。
  相手の「語り」(言葉に伴なわれるその人の思いや感情)を理解しようとするよりも切り捨てる方がはるかに簡単で「楽」です。しかし、その思いや感情を切り捨てられた「話」は単なる言葉だけで、現在急速に進歩しているAI(人工頭脳)がある程度までは可能にした“会話”と同じで、もはや「人と人」の会話ではないことになります。青年達が感じていると言われる「現代社会における虚しさ」の根本には、こうした人と人が人格的に関われなくなった現実があると言えるでしょう。
  現代日本社会では、そうした全人格的な関わりはもちろん、対面的な関わり自体が敬遠されがちになりました。特に大都市の若者達には、直接の会話よりメール、知人よりも匿名の(不特定でいつでも関係を断絶できる)関わりが「気楽で楽しい」という思う人が増えているようです。また、コミュニケーション障害(引きこもり・軽度発達障害等々)をもつ若い人たちが急増している事実もあります。
  銀河の里の話を聴いたり、『あまのがわ通信』で読んだりして思うことなのですが、高齢者特に認知症のお年寄りとの関わりでは「傾聴」なしにはケアが成り立たないでしょう。そこには真の会話=交流の原型があると思います。介護の現場でなくともそうしたコミュニケーションが成り立てば、今とは別な社会になるはずなのですが・・・・。ともあれ、ケアの心をどれだけ実践できるかと自問すると自信はもてないのですが、せめて傾聴の構えだけはもちたいと思っています。


posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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