レイ子さんは、お風呂自体は嫌いじゃない方で、こちらがそのまま「お風呂に行こう」と誘っても大丈夫な人だ。「あらぁ、風呂さ入れてけんの?」と嬉しそう。畠山看護師と「銀河温泉〜、よいとっこぉ、一度はぁおいでぇ〜、どっこいしょ〜」なんてやりながらニコニコで、まず大抵は問題なく脱衣場まで行けちゃう。湯船につかり、窓のそとに見える景色を見ながら「こんなに立派な松の木を眺めて、極楽だよね」とご機嫌で入る。ところが!いつもいつもこういう訳にはいかない。「一緒に入るって言ったじゃないか、この嘘つき女!」と怒鳴られて、思わず自分も服を脱いで一緒に入った藤井さん。何か気にくわなかったのか、腕をしこたま引っ掻かれた山岡さん等々みんな苦労して入浴ドラマを展開している。高橋看護師と一緒に機嫌良くお風呂に行ったのに、入っているうちに気持ちが変わり、だんだん「怪しい」「臭い」という言葉が出てきて、遂に「このスパイ野郎!」ってことになってしまい、慌てて、私が駆け込みスパイ役を交代し、なんとか最後は高橋看護師につないでやっと入浴が終わったということもあった。
そんなだから、先日もちょっと身構えて声をかけた。取っかかりの感触はまずまずで、にこやかに脱衣場まで行って、ベンチソファに腰掛ける。…までは良かったのだが突然「なぁんだか…変になった…」と表情が一瞬にして硬くなり、私をジロッと見上げるレイ子さん。ギョッとひるんだが「いっい・湯っだっなっ!」を歌いながら服を脱ぐ介助を。
「なんか怪しい、されかもうな(なんだりかんだり構うな)」とか言われながらもやっとこさっとこ脱ぎ終わって、シャワーの前までたどり着いた。いざ体を洗おうとしたところで遂に「手かけんな!」とピシャリと私の手を払いのけた。あいや、そっか、自分でやりますか、と無言でタオルを手渡すと、それに対して「さっさどやったらいかべじゃ!」うーどっちだぁ、そっすか、んじゃ、こすりますよ…。と続けるが「ヘタにすんなよ」とジロリ。…はいはい、ただいま終わりますとやってると、なんと「うん、なかなか、上手だ」・・・あれ、褒めてくれんの?と思いきや、返す刀で「さっさど!」と来る。わっ、はいはいはいっ!うーん微妙だ。
次は湯船に、滑るから気をつけて…、と体を支えようとすると、「余計な手かけんな!」ピシャリッ!…おっと、と一歩引く。そのとたん今度は「ほら!早く!」とやっぱり立ち上がる助けの手を求めてくるレイ子さん。
一体、どっちなんだよ…と内心で思いながら、それでもやっとこさ湯船に入ってくれたレイ子さんを見てると、なんだかこっちも気持ちよくなってくる。余裕が出てきて油断したか、「湯加減どう?ぬるくない?」なんて優しく声をかけちゃったもんだから、「ぬるいに決まってんでしょ!」と一喝されてしまう。
一喝されて、再びひっくり返りたくなる心を密かに抑え、熱い湯を入れようか、もう少し長くつかる?等々、言ってみる。「今更何なのよ」、「あんたはセコイ」、「あんたなんかと来るんじゃなかった」とかいろいろ、続けざまの嫌み攻撃にオタオタするのが精一杯な私。そんな私を見抜いてか湯船から出るときには、「ほらっ!ボサッとしてねんで!」と、手を伸ばしてくるレイ子さんなのだ。
午後になって、テレビを見ているレイ子さんの隣にゆっくり腰掛ける。なんか、あえてお風呂の話題を吹っかけたい気分で「今日はもう入った?よかった?」など尋ねてみる。「うん、いかったよ〜。ここでは、なってもやってけるからねぇ」 この時は特上の笑顔で柔らかいレイ子さんがいる。たぶん、というか当然、午前中の私とのお風呂のことはもう無しになっている。私も今この時この会話を楽しむ。
テレビ番組に影響されてなのか、会話の所々に「ローヤルゼリー!」などという脈絡のない相づち代わりの言葉が混じって、表面上はなんだか噛み合わないやり取りをしているのだが、レイ子さん独特の世界がそこにちゃんとご健在だ。しばしこのズレ具合を味わいながら、「本日の『心コロコロ早変わり入浴』はなかなかレイ子さんらしかった也」とほくそ笑みつつ、レイ子さんとの時間をすごした。
介護の教科書では「本人の意志を尊重する」などと正しいことが書いてあり、いちいち「これからなになにします」と声をかけ相手の意志を確認してから進めるのが正解とされている。しかしそれは教科書であって、それが常に通用するほど現実は甘くない。
家族も周囲もおそらく本人も、お風呂に入るべきだと思っていたとしても、「お風呂へ行きましょう」などと声をかけたとたんに、岩のような頑な扉が閉まって、食事まで拒否に至ったり、時にはパニックになり大混乱ということも起こりうる。この人には禁句で無言の誘導が適切ということもありうるのだ。しかしそれは単純に言える事ではなく、微妙な関係の空気に支えられることが何より大事なことなのだが、これはなかなか簡単ではなく、教科書には書けない部分だ。
人間の意志というものはそれほど明確で単純ではなくて、拒否しながら同時に求めるアンビバレントでエネルギーを生み出しているようなところがある。レイ子さんはそんなこころのありようを飾り気なくまざまざと見せてくれて、むしろ心地よい。「人間とは本来そういうものだよね」とうなずいてしまう。