2010年02月15日

一対一で出会うということ ★理事長 宮澤健【2010年2月号】

 ユニットケアに挑戦して1年が過ぎようとしているが、この間、立ち上げの激闘の日々だった。ユニット立ち上げの難事業で実際組織全体が揺らぐほどの困難を抱えていると言っても過言ではないだろう。現状はなんとか持ちこたえているものの、立ち上げの達成率は40%といったところだろうか。各スタッフも日夜奮闘努力を重ねているのだが、さらなる関係各位の応援、助言、叱咤激励、忌憚のないご意見をいただきたいと願っている。
 銀河の里はこれまでグループホームケアを中心に育ってきた。グループホームは認知症ケアの切り札として導入されたのだが、制度導入の初期の段階から、現場で実践の経験を積んできた10年だった。その中で常に意識してきたことは「一対一で出会う」ということだった。人と人が一対一で出会うということがグループホームの本質であり、人間関係の究極だと捉えてきた。
 初めは、グループホームは人数が少ないから簡単だとか、楽だとか言う話をよく聞いた。つまり、特養などの大人数を扱う施設より楽でやりやすいだろうという訳だ。しかしそれは、全くグループホームの本質を知らない者の言葉で、集団を管理するという発想がそこにあるのだが、グループホームは集団の管理とは全く別種の、人と人が出会い、向きあう場所であるはずなのだ。全て個室で人数も少ない利用者9人とスタッフ7名前後の共同生活であるのだから、そこには一対一が実現する。つまり人と人が出会ってしまう場なのだ。
 人数が少ないから簡単だと言う人には、人間が一対一で出会うということの凄まじさを知らない。人と人が出会ってしまうということはとてつもなく恐ろしいことでもある。その怖さを象徴的に言うなら、「相手の瞳のなかに映る自分自身の姿を見てしまう」という怖さなのだ。古代人は自分の姿が相手の瞳に映ることを極めて怖れたという。つまり自分自身を発見してしまう恐怖がある。自分自身との出会いがそこに始まる。現代人にとってもこれほど恐ろしいことはないだろう。
 つまりグループホームでは自分自身が照らし出されつつ人間の発見がなされる場だということだ。 これはあまり理解されないままではあるが、現場では実感されていたはずで、さすがに最近はグループホームは簡単だと言うような人はいなくなった。しかし、一方で手のかかる大変な人は病院へ送ったり、退所を言い渡すような傾向が顕著になってきていて、認知症の切り札であったはずなのに、難しい人は追い出しているという非難はある。
 自分自身を通じて人間と出会い発見するという覚悟と、それをやり通すだけの枠組みを持っていないと、真の意味ではグループホームの実践は厳しいのではないだろうか。人間が出会い、関係のダイナミズムが動き始めると、生き生きとした相互発見的な力動が生まれる。それは近代、現代と続いてきた人間疎外の海底の暗闇の中の一条の光を見るような、人間の再発見の可能性を秘めており、新たな人間観を創造する次代の文化の基礎となるほどのことではないかとさえ感じる。
 現場で培った10年の感動の経験を生かすべく、スタートしたユニットケアだったのだが、現実は厳しく、そうした思いは通じるどころか、あっけなく蹴散らされてしまった。続く
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。