2012年03月15日

感覚を豊かに‐エロスの復権 ★理事長 宮澤健【2012年3月号】

 常々、私が制度やシステムを批判的に語るのは、敵視しているわけではなく、それ一辺倒になってしまうとあまりに何事も概念化されて、つまらなくなるからだ。言葉も使いすぎると生命感を失う。それを「つるつるの言葉」と井上やすしは言ったそうだ。大江健三郎は「異化する」という作業を通じて、言葉に新たな生命感を取り戻すことを言っている。
 作家にとっては特に、言葉が概念化し形骸化し、活き活きとした感覚を言葉がうしなうのは恐ろしいことだろう。現代は言葉だけでなく、生きることそのものがつるつるになり、夢や希望、ましてや個々の志などが持てない時代になった。国や社会の未来のためは、これは何とかしなくてはならないだろう。
 震災1年を過ぎて、復興の遅れが取りざたされている。神戸の震災の経験ではあり得なかった高台移転など、街づくりの根幹から考えなければならないことがたくさんある。ところが新たな挑戦がなされようとする時に、実際の妨げになっているのは制度だ。迅速な対応がなされなければ、人々の生活や命が関わることだというのに、制度はお構いなしに計画の前に立ちはだかり、手続きや、書類の整備、許認可を巡って嫌がらせのように引き延ばす。人間の命や暮らし、街の存続などの生命線とは、制度は関係ないところにある。
 概念化されると、物事を整理して理解しやすくはなるのだが、現実感は失われる。現代人が概念化の最先端で存在しているような所があり、あらかじめ正しい答えを持って行動するので、本来的な自由を生きられない状態になる。それは面白くないばかりか、生きていること自体がかなり辛いのではないだろうか。
 我々の現場で問題になるのは、障がい者や高齢者に概念化された制度を押しつけてしまうことだ。つまり、管理に徹して、書類を積み上げて終わりという官僚的管理に終始して仕事をしていると思いこんでいる福祉施設が大半ではないか。そこでは個々の人生も、人間の存在も、命の輝きも苦悩にも光は当てられず、抹殺されてしまう。それが福祉の当然のありようだと居直っているベテランの福祉関係者があまりに多いのは地域の未来にとって不幸そのものだ。
 そこで大事なのは、エロスの復権だと言ってきた。大胆過ぎて、理解されないのだが、結論からいえばそういうことだ。社会や世の中が固すぎてつまらなさすぎる。柔らかさも、暖かさもなくなって、どうしようもない。それが我々が夢見た未来だったろうか。本当に生きたかったのはこんな人生だったろうか。誰もがどこか違うと感じているだろうし、この先、未来を暗澹たるものとしてしかとらえれなくなっている。そこに必要なのはエロスだというわけだ。
 若い県会議員に、これから地域作りにはエロスが必要だと投げかけた。彼は、かちかちの男性原理で頭がかたまったような男で、消防団を強くしようなどと意味不明の事を口走るやつだ。「消防団じゃねえよ、エロスだって言ってるだろ」といっても「エロスってなんだ」とポ カンとしていた。地域のリーダー達は旧態依然として、過去の遺物のような制度疲労も限界を超えたなかで生きている風景が見てとれる。これでは未来が描けない。余りに理解されないものだから、わかりやすく「キャバレーだよ」などと譬えるものだから、結局エロ親父だと思われて終わりだ。エロスのイメージはプラトン神話が掴みやすい。もともと男女は一体で余りに強大な力を持ったので神が怒って男女の体を分けた。だからお互いに引き合うという。この寓話で大事なのは、現在は人間が個として自己責任とか、自立とか余りに個人が強調され、個がそれ自体で自己完結した存在として考えすぎるということだ。ところがプラトン寓話では個は半分でしかないというところがいい。他者のみならず自然や大いなるものと解け合って自分は成り立つ存在だとするイメージは豊かではないか。切れてしまった繋がりを蘇らせるのがエロスだ。
 エロスの基本は感じることだ。考えることではなく感じることが重要視される必要がある。だから里では、研修を、演劇鑑賞や、音楽、能、オペラ、絵画といった芸術鑑賞を多く取り入れてきた。個人レベルの生活感覚でも、感じないやつと生きていく気はしないだろう。今月号にも、ヒントがたくさんある。日向の奈良の「たんぽぽ」の研修では、アートを人間の根源的な表現として価値を持たせ、発信する取り組みで、スタッフの感覚とセンスが問われる。千枝は、研修で能を観ながら、意識と感覚の狭間で自分を失いがちな現代人の苦悩を自らのなかに発見している。及川の文はデイのお風呂で、ひとりの高齢の男性が抱えた性に関わる寂しさと苦悩を、貶めることなく丁寧にチームで受け止めている様子が描かれている。
 エロスを生かすには知性とセンスと品位を持って苦闘する必要がある。先月号でとりあげた松井冬子だが、3月18日まで横浜美術館で作品展が行われており、3月に入って映像作品も公開されたらしい。それを見ることはできなかったが、数年前にNHKが制作した特集番組をDVDでみた。先月号で松井冬子の挑戦は、女性性の復権ではないかと書いたが、まさにこの番組で本人が女性には「そうだそうだ、よくやってくれたと理解の声があって嬉しい。」「男性には怖いとか痛いとか言われるので、それみたことか、してやった感じ」と語っているので、まさに私の読み通りだったと納得した。インタビューには、そうそうたるメンバーがあたるのだが、学者がほとんどで、頭と感性のすれ違いが露わになってしまって、痛々しい感じもした。NHKの特集番組でさえ、女性画家の感性を、概念化しようと企画してしまうのかと残念な感じもした。絵を描いているときどういうことを考えて(ねらって)いるのかと聞きたくはなるが、素人じゃあるまいしと思ってしまう。絵を描いている最中は、一本の線や、ひとつの色に集中していて、線のラインとか、発色や画材の載り具合に必死でなにも考えていないだろう。はたして画家は男性原理の意味で作品を「考える」だろうか。モチーフと対峙して「考えて」いるだろうか。画家松井冬子がモチーフを見つめる目は迫力があって呑み込まれるような深さが眼の向こう側にある。それは考えている目ではない。モチーフと自分の 存在が一体になり、そして再度突き放したところから作品は生まれてくるのだろう。男だったら格闘家になりたかったという松井だが、まさに格闘技だ。制作がうまくいかず、うずくまっている映像もあった。それも考えているとは思えない。苦しみもだえながら必要な何かを感じ取ろうとしていると言った方が近いような気がする。4人のインタビュアーのなかで、唯一女性の上野千鶴子は、おそらく社会学者として現代女性の傷を理解していて、松井の作品と活動に痛々しさを感じるのだろう。「幸せになったあなたの作品を見てみたい」と語る。松井はそうなればそれを受け止めると応えながら、幸せに対する希求はあまりないようだった。画家にとっては傷つきと苦悩から、作品を生み出すことが仕事であって、それで充分とも言えるだろう。現代女性の深い傷つきを理解している女性社会学者が、松井に女性としての幸せを望み、その上での作品を期待するのもわかるような気はした。
 番組のなかで松井は解剖美術教室でラットの解剖をしている。グロテスクな内蔵を開きながら、命の美しさを語る。最近は医学部の協力で人体にもアプローチしているそうだが、松井の作品にはモチーフとして内蔵は欠かせない。「内蔵をドレスのようにまとって」との作品の解説がされるほどだ。なぜ解剖で、内蔵なのかと問いたくなるところだ。松井は女性の体感から描いていると言っている。男には女性の表面の肉体しか見えないけれども、女性は本来的には肉体内部を生きているのではないだろうか。私の経験だが、農業を開始するにあたりコンバインやトラクター、田植機など農耕機械を手に入れた。はじめて目にすると戸惑うような変な機械だ。それらとつきあいながら、農作業するうちになじんでは来るのだが、一番理解したと感じられるのは機械が故障して分解したときだ。仕組みや、仕掛けも含めて、ああそうだったのかと急に近しい感覚になる。農耕機械と比べるのは気が引けるが、女性は解剖してみなければ理解できないのではないか。深い傷や痛みを伴うことなので簡単には解剖させてもらえない。しかし男女の隔たりはそれをなくしては埋まりようがない。そこを松井冬子の作品はやってくれているのかもしれない。ただし、一見グロ テスクで病的に感じる内容だが、女性の身体感覚からすれば、自然で当たり前の感覚を描いているに過ぎないのだろう。16日に研修を予定しているタテタカコの音楽も過激なようだが、純粋な魂に映った女性性の表現だと思う。その奥にうごめく狂気に襲われそうになる現代の危機に瀕する人たちからみれば、まだまだ生やさしく、この程度は理解してくれよという初心者基礎編を見せてくれている程度のことかも知れない。
 2008年にピナバウシュが来日し、上演した舞踏「フルムーン」を観た。彼女の作品は舞踏だが、松井に通じる何かを感じる。感じ、踊り、生きるという女性としてのメッセージが伝わってくる。能と同じように、あらすじではない。怒濤の感覚の中にたたき込まれる感じだ。入場券完売でキャンセル待ちで手に入れた一枚は最後列ながら、幸運にもピナバウシュ監督の付き人ひとりおいて横の席だった。ピナの真横で2時間の上演を並んでみた。今思えば舞台を見つめるピナバウシュの目は、絵を描いている松井の目と同じだ。上演が終わると同時に立ち上がり身を翻して会場を立ち去ったピナの姿はオーラに満ちて存在感があって美しかった。残念ながらピナはこのときすでにガンにかかっていて翌年逝去する。その翌年2010年、ピナ自身が日本での上演演目を決めたという、追悼講演「私と踊って」を里のスタッフで研修として見に行った。
 ピナバウシュの舞踏も頭で理解する世界ではない、感覚で感じることが大切な何かがあることを伝えてくる。女性の観客は、上演の始まりから最後まで泣きっぱなしの人も多かった。全く何のことだかわからず最後まで首をかしげる男性も多いと思う。
 まず感じよう、深く感じようそれが人間じゃないかということだが、感じた後は考えることが大事になってくる。考えることも人間の大事な要件だ。そしてまた感じ続けて行きたい。ピナバウシュは深い傷を癒す力も備えているように感じる。この春ピナバウシュの映画が2本上演されている。盛岡にもくるらしい。傷ついた現代の若者にダンスを通じて生きる現実感を伝えようとした企画で、タイトルも「生きる教室」となっている。是非見に行きたい。


posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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