2017年01月25日

TOP画 「明けの一筆」 ★ 佐藤 万里栄【平成29年1月号】

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その日、
朝から目覚めていた彼女は
筆をとると、何も言わずに描き始める
そのまなざしに、
仕事ぶりに、
今年の新鮮な光を感じた
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新たな生命のパースペクティブを求めて ★ 理事長 宮澤 健 【平成29年1月号】

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*開設当初の稲刈りのひとコマ、稲を渡す理事長と受け取るカルさん

 「障害者はいらない」と主張し、施設に押し入って19人の入居者を殺した事件が昨年の9月起こった。悲惨な事件にいたたまれない思いだが、これはわれわれの時代が考えなければならない重要な事を突きつけられたように感じる。遠い昔のことではなく戦時中は日本でもそうした考えだっただろう。ナチス政権下のドイツでは障害者狩りが行われた。現代ではそうした考えはなくなったのかというと、表に出るか出ないかの違いで、そうした過去とは大差がないのではないだろうか。大半の人が心の中ではそう思っている現状をこの容疑者はよく知っていて、そうしたバックグラウンドに支えられる形でそれを正義と強く思い違えた行動だったのではないだろうか。
 現行の制度では、障害者の自立支援を第一義にうたっているのだが、その実は就労支援一辺倒の仕組で、経済的に自立することのみを求めている向きがある。どこかお金が全ての時代に障害者の人生も絡め取られているようなおぞましささえ感じる。

 病や障害は当事者の人生にとって、重要な課題やテーマだ。そうした傷や痛みは本人にはもちろんのこと、肉親や周囲の人にとっても人生そのものとなるような影響を与える。そこにはいろんな形でケアが必要とされるが、病や障害の持つ課題は、本人や肉親などの当事者を超えて、ケアに関わる他者にとっても、人間としての存在の意味を問われる事柄として立ち上がってくる。
 それほど人間や人生にとって重要な病や傷、なかんずく高齢化や死が、まるで無いことのように扱われる現代は、ある種、異常を抱えた時代なのかもしれない。パーソンズは「病気になると人は病人という社会的役割を担わされる」と言う。そしてそれはある種の社会的逸脱だと言うのだが、確かに我々は病気になると患者、病人として貶められた社会的役割を担わされるのかもしれない。ただ、治療というサービスを受ける限定されたところでなら(病室や入院中の期間)その目的が明確なのだから我慢するとしても、人間の存在全体や人生全体にそうした役割期待を押しつけられてはたまらない。
 今でも多くの福祉施設では利用者、入居者に対して病人的役割、患者的役割を押しつけているように感じる。それは福祉が医療役割を引き継いできた現状があるからだ。そもそも介護保険にせよ発端は医療費の増大を押さえるための制度であったのだから、現行の福祉施設の基本モデルが医療、病院であったことは否めない。そこに大きなボタンの掛け違いがある。個人の人間全体、人生全体からすれば、治療という目的のないところで患者役割を担わされたくはない。福祉施設の職員は医療役割を担うつもりでいるのだろうか。クライマンが指摘するように、医療役割では、主体は治療者において対象として差し替えられてしまう。それによって多様、多義的な人間存在が、平板化した治療対象の患者、施設では利用者、入居者に置き換えられてしまう。

 どういう視点を持つかで物事は違って見えてくる。銀河の里では、「暮らし」の場をつくり、その中に利用者とスタッフが共に生きていけるようなイメージで考えてきた。人間は基本的に暮らしの中で生きる存在であると捉えてきた。暮らしの中に入ったとき、社会的役割は病人とか患者に限定されなくなる。暮らしの中では関係が生まれ、関わりが始まる。人と人が一緒に生きる場ができる。語りが生み出され、物語が紡がれる。そこでは個人の性格、人柄、趣向が注目され輝き始める。個々人のユニークさ、個性が、言葉や行為を通じてその人の世界が現れる。個人を通してその背後にその人の生きた地域や時代や歴史が照らし出される。
 17年目に入る銀河の里だが、そこで見えてきたことは貴重な発見に満ちていた。高齢者になって、病や障害を得ることは確かに事実なのだが、ほとんどの高齢者は一般に思われているようにそんなことにめげたり、不安がったりしてばかりはいない。それどころかまるで逆に、特に認知症の高齢者は認知症独特の人間的な威力に満ちていて個性全開の活躍をする。まるで魂の次元で語り、事を起こしてくるような感覚がある。それらはヌミノースと呼ばれるような宗教的感動に匹敵するような圧倒的な内的体験をももたらすことさえしばしばあった。そうした次元では、寝たきりで、言葉を失った人でさえ、豊かに語り、何かを伝えてくれるということを発見させられる驚きがあった。

 故秋山さと子氏は、20年も以前にその著『ユング心理学』で、20世紀はあまりにも大人の世界に偏りすぎた時代だとし、子どもと高齢者の想像力や瞑想的なイメージが大人の影(シャドー)にされてしまっていると述べている。以下抜粋「・・・空想力は虚ろな心に潤いを与え、失われた魂を呼び戻す力をもっている・・・人間は魂に包まれて生きている。問題は、我々がその魂をもはや見ることもなく、その中に生きることもなくなった点である」「想像に開かれている子ども時代や、瞑想的な老人の在り方が、もっと重要視されてもいいのではなかろうか。子どもはそこで魂を形成し、現実に適応する大人の在り方を経て、老人はその魂の輝きの中に生きるのである。それが人間の一生であろうと思う・・・」「21世紀の新しい意識は、ただ現実のみに開かれた一方的なものではなく、同時に心のなかにも開かれるものであろうと思う。現実と想像の世界が、はっきりと分かれながら、しかも我々の心のなかに、並んで現れる時代になろう」
 おそらく人類はいまだ高齢者を発見できていないのだろう。21世紀は高齢者の発見の世紀になってほしい。その発見は生きることへの様々な意味の転換を人々に投げかけることになるに違いない。銀河の里の現場での17年の実践を通じて、そうした発見の一端を語り伝えることができればと願っている。


【参考文献】
秋山さと子 『ユング心理学』
中井孝章・清水由香
『病と障害の語り−臨床現場からの語りの生成論』
クライマン / 江口重幸 他 訳
『病の語り−慢性の病をめぐる臨床人類学』

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