2017年01月18日

ユニットケア研修を終えて 〜里の現場から生まれて来るもの〜 ★ 副施設長 戸來 淳博 【平成29年1月号】


【はじめに】
 銀河の里の特別養護老人ホームが開設し、もうすぐ7年が経過する。開設に伴い、ユニットケアリーダー研修に参加し、昨年12月には東京で行われたユニットケア管理者研修に参加してきた。ユニット型の施設を運営するにあたり、管理者とユニットリーダーに、この研修の受講が義務づけられている。
 かつて特養をはじめ入所施設は、50床、100床といった大型建物で、入浴や食事などのケアを一斉に行う集団ケアが主流だった。しかし近年(H18年あたりから)、開設される事業の殆どの施設は、小規模なハードになり、ユニットという10名以下の小さい生活単位に職員を配置し、個別にケアを提供しようという考えが主流となった。現場では「集団ケアから個別ケアへ」とよく言われている。
 銀河の里は、H13年に9名定員のグループホームと10名定員のデイサービスから始まっており、個別ケアの視点は当たり前の感覚であった。しかし受講が必須なこともあり、今までにリーダー研修に6名、管理者研修に1名が参加している。
 里で発行している「あまのがわ通信」に、研修の感想を掲載したこともあった。あまのがわ通信の記事や写真は、紙媒体で発行している他、インターネット版(ブログ)としてネット上でも掲載している。たまに(個人を特定できない名前ではあるが)読者の投稿があり、やり取りすることもある。
 ブログの管理画面では、それぞれの記事の閲覧数や検索ワードがわかるのだが「ユニットケア」「ユニットケアリーダー研修」などのワードの検索が多く、個別ケア、ユニットケアの注目度は高いようである。全国では、多くのユニットケアの研修が開催されているが、まだまだ多くの現場では、戸惑い、模索中のようなのでユニットケアについて書いてみたいと思う。


【ユニットケア研修を振り返る】
 昨年12月5日〜7日の3日間、東京のユニットケア管理者研修に参加した感想から。
 
 研修では、ユニットケアの実践をする「根拠」を求められる。その根拠となるものが「ユニット型特別養護老人ホームの基本方針並びに設備及び運営に関する基準」の条項33条を基に「暮らしの継続」を理念に据え、「1日の暮らし」をケアの視点として研修は進んでいく。具体的には、手法として、「少人数ケア体制をつくる」「自分の住まいと思えるような環境をつくる(ハード)」「今までの暮らしを続けてもらえるような暮らしをつくる(ソフト)」「24時間の暮らしを保証する仕組みをつくる(システム)」4つの大項目が上げられ、それぞれについて講義とグループワークを中心に研修は進んでいく。そして最後に、自施設の現状をチェック項目で確認し、実施できていない項目についての実施計画を立てて研修は終わる。
 それぞれのチェック項目は、ケアの現場に入れば基本的なことであって、殊更特別なことではないと思った。「24時間シートの活用」「8時間夜勤の導入」「ユニットに職員を固定する」「物には役割と意味がある(折り紙は飾らない)」「(居室に)持ち込み家具を置く」などのポイントが上げられ、○×で確認していく。そして具体的な方法を教えてくれるので、頭に入ってきやすい。しかし講義を受けているうちにいつの間にか、個々の意図や意味は失われ、これをやればユニットケアが出来る、という単純な思考に陥りそうになっていることに気づいてハッとする。研修では具体的、かつ効率的に教えようとしているのだろうが、何だか、コンビニか、それともファストフード店の開店講座でも受けている気持ちになってしまう。

 ポイントについて、少し振り返りながら、その意図や意味を考えてみたい。

(折り紙飾りは置かない)
 高齢者施設では色紙や折り紙で壁を装飾している風景をよく見かける。春には桜の木、秋には紅葉の山々を模して装飾したり、みずき団子や鏡餅など切り絵で作られていたりすることがある。保育園など、子供の施設でよく見かける風景でもある。ユニットケアではこれをやめ、季節の花木をいけたり、絵画を飾ったり、本物で設えをしていこうということらしい。言いたいことはわからないではないが、たとえ造花や折り紙であったとしても、そこに入居者の思いやそれぞれの関係性から生まれたものが込められていれば大切な物となる。それを一律にダメと決めつけてしまうのは教条的過ぎるのではないだろうか。本物であれ作り物であれ、そこに宿る思いや物語をくみ取らなければ個別のケアは意味が無い。

(持ち込み家具を置く)
 研修では、特養の入居は、施設への入所ではなく引っ越しだと言う。新たな居住の場には慣れ親しんだものや趣味の道具や嗜好品、装飾品を持ち込み、部屋作りをしようと言うのだ。引っ越しと言われると、私もあれやこれやと思い浮かぶ。「PCとネットワーク環境は必要かな・・・情報を得たり、DVDで映画も観れるか。お気に入りのソファを持ち込んで、コーヒーミルすりたてのドリップコーヒーを飲みたい・・・」等など、どういう暮らしをしたいのか、そして作っていきたいのか考えることが出来る。具体的にある引っ越しならば、こういった視点は欠かせないだろうと思う。
 しかし、そうするのがユニットケアと言われると、現場の現実とはかけ離れていて疑問を感じる。入居は本人の意思とは違う場合がほとんどだ。病気や老い、家族環境の変化などの事情で在宅での生活が難しくなり、人生の運命と折り合いをつけるような形で入居になる場合が多いと思う。また、認知症によって時間や場所、関係を自在に行き来し、時空を超えて生きている方も少なくない。新しい引っ越し先どころか、今はない実家だったり、廃村になったかつての村だったりもする。家というよりも職場、学校、温泉といった認識になっている場合も多い。「一方的に引っ越しですよ」「新しいあなたの住むところですよ」というのは、ほとんど施設に監禁したのと変わらないほどの暴力になりかねない。
 実際に特養の入居者のYさんは、入居5年の間に一度も、持ち込んだ衣類や荷物の荷解きをせず、段ボールを重ねたまま、日々過ごしている。一緒に荷解きをしても、「すぐに出ていくから」と言って再びしまい込んでしまう。自分の部屋は「仮の住まい」と話し、日々ユニットから事務所、玄関の行き来をしている。どこ行って来たの?と聞くと「向こうの川の方まで行って来た」と話し、どこ行くの?と聞くと「向こうの部屋で魚焼いてたから加減見てくる」と出掛けていく。Yさんは、自分が少女の頃お転婆をして過ごした山林や、子育てや家事に専念していた頃など、時代や空間を超えて生きている。車いすをゆっくり走らせ、時々物思いに耽るように目を閉じてうっすら微笑みながら、夢見心地な表情で行き来している。ユニットから玄関、外までの道のりは、Yさんにとって内的世界と現実とを繋ぐ道のりのようだ。
 常識的な現実に張り付き、突きつけ、個々の持つ豊かなイメージを壊してしまうのではなく、それぞれの持つその豊かな世界を受け止め、できればその中に共に生きることが求められる。それぞれの人生は環境だけで作り上げられるのではなくて、個々の心象の中にもある。そして、人生の高齢期には老いや疾病、障害とどう折り合いをつけるのか、また、やがて来たる死とどう向き合うのかが、重要なテーマになってくると思う。環境を整え、何不自由のないケアが整えば、施設が家になり、暮らしの場になるというのは、あまりに人間存在そのものに対して浅薄すぎないだろうか。

(24時間の暮らしを保障する)
 個別に24時間の日課表をつくり、個人の生活スタイルを把握する。基本は「食べて」「出して」「寝る」が出来れば暮らしは成り立つという。何らかの障害で切れ切れになった生活に支援を入れ繋ぎなおし、24時間の生活を成り立たせるということらしい。
 「食べる(食事)」「出す(排泄)」「寝る(睡眠)」の支援をしっかりやれば何とかなる!と力説されると怪しい啓発セミナーにいるような感覚になってくる。
 講義では24時間シートという書式を用い、入居者の24時間行動パターンを把握し、それをユニット毎に一覧化、勤務体制をそれに合わせて作成し、ケアに当たるという内容だ。個人の24時間の生活スタイルを一覧化し、必要な支援を明確化して、改めてユニットの24時間を一元化・一覧化することで、必要な時間帯に必要な職員を置くなど工夫し、効率よくケアを提供するという訳だ。
 現場の限られた人員でケアを提供するには、ある程度合理的で効率的な運営が求められる。また集団ケアの現場ではぶつ切れだった生活行為が、24時間の暮らしの視点が持たれることで、個人の生活の流れが意識できることは個別ケアの重要な視点だと思う。そして個々人に対してどういうケアが必要か(ケアの対象)という問いから、この人はどういう暮らしがしたいのか(生活者)という問いが変わっていくのもいいと思う。銀河の里でも、新チームの立ち上げ時や新人スタッフに、業務の整理や入居者への興味関心を高めるために24時間シートを活用することもある。
 しかし、その程度のことで一人の人間の暮らしがわかるものだろうか。ましてや「食べて」「出して」「寝る」という行為を保障するのは基本的なことではあっても、それだけに特化されてしまうと、それは果たして「暮らし」と言えるのだろうか。ただ生かされているように感じてしまう。
 暮らしはもっと豊かで多種多様な事象の中で継続されていくものだと思う。生活行為に込められた思いがあるだろうし、環境、習慣、思想・宗教、無意識の影響を受けながら、暮らしは作り上げられていく。そして24時間に縛られることなく過去から未来へと繋がっているし、未来からあの世へさえも、繋がっているかもしれない。その日の気分やその日の出会い、あるいは天気によって今の暮らしは変化していくフレキシブルな面も大いにある。人の暮らしは24時間に限定もされないしパターンのみで生きているわけでもないだろう。

 集団ケアの主流から、入居者目線の時代に変えていこうという情熱も確かに伝わってくる。厚生省お墨付きの研修機関として全国の施設のトップモデルとなってきたのだから相当の苦労もあるだろう。これまでの現場の意識を変え、ユニットケアの考えを普及させていくには、マニュアル化とこうしたフランチャイズ式の研修でHow-Toで伝えていく必要もあるのだろう。
 しかし、内容は表面の事象しか捉えられておらず、人間の人生の物語、老いや死、障害などの普遍的なテーマについては一切触れられないのはとても残念に思う。生きた人間と限りなく身近に接することのできる我々現場の専門性はそうしたところにこそ発揮されるべきではないだろうか。誰もがわかっているはずなのに、いつも人間の内面がそっくり無いものとなってしまうのは、我々の無意識の中にそうした暴力性が潜んでいるということなのかもしれない。


【じゃ、どうすればいいんだ〜!!】

 答えはない。ないのだからマニュアルに頼ったり、システムで割り切ったりせず、人間が生身で簡単に答えを出さずに向き合い続けるということほど大切なことはないように感じる。

(銀河の里の現場から見えて来るモノ)
 世間の福祉の研修に出ると強く感じるのだが、銀河の里では、人生の物語が入居者個人のものとしてだけで捉えるのではなく、現場のスタッフや入居者同士の関係性のダイナミズムとして捉えている点が、一つ大きな特徴だと思う。そう捉えると、ケアの場は介護作業を超えて、入居者やスタッフの出会いの場、世代を継ぐ場ともなり、多様な意味をもたらす場となっていく。
 理事長が言う「介護禁止!」「ケアは世界と繋がったり触れあう入り口、通路」「銀河の里は人材訓練の場!」などは理解しにくいが、現場の感動はそんなところから生まれているのは確かだ。

 特養の入居者Kさんは、今年100歳を迎える。入居以前は他施設のショートステイを利用していたが、夜間に吐血し、救急搬送されて入院。状態は回復したのだが、在宅に戻ることも難しくなり、元のショートでは救急対応が困難と断られ、銀河の里にやってきた。当初は看取りが前提の受け入れだったが、入居から4年、今も元気に暮らしている。
 詩吟の師範だったKさんは、ユニットのスタッフ数名に声を掛け詩吟会を発足させた。稽古のおかげでスタッフも各一曲吟じられるようになり、Kさんのお弟子さんたちに混じって詩吟発表会までやった。その後の継続は難しかったようで、Kさんの許しも得て銀河の里の詩吟の会は解散した。ただスタッフの千枝さんは継続し、詩吟の有段試験を受けるなど、二人は師匠と弟子の関係を継続してる。千枝さんは、単純に詩吟を受け継ぐということを超えて、Kさんが語る言葉や詩吟に掛けた思い、生きてきた人生に関心があるのだと思う。詩吟は二人を繋ぐ通路なのだと思う。
 また、Kさんは、自宅の庭木を特養の中庭に移植したいと、一昨年から少しずつユニットスタッフが御家族の協力も得て移植作業を行ってきた。Kさんにとって人生を共に歩んできた木々を傍らに置きたいという思い、それを銀河の里の若いスタッフに継ぎたいという願いと、次の世代に地域や社会の未来を託そうとするKさんの強い意志を感じる。

 近年、時代の変化に伴い、世代と世代の接点の場は少なくなりつつある。家や地域、伝統芸能や職人の世界・・・この継承や伝承は型や技を伝えると同時に、思想や宗教性といったことも次世代に継いで繋げていたのかもしれない。そういった場や時代ニーズも失われてしまった現代だが、そんな中で、銀河の里は、世代と世代が繋がり、そこで何かを託し託される場になっている感じがあるのは、なにかの可能性を信じたくなる。ユニットケアはそういう可能性を秘めているのかもしれない。

【おわりに】
 ケアマネが作成するサービス計画書も、ユニットケアの24時間シートも、いわゆるケアの指示書であり、利用者・家族との契約書となっている。要介護者に、いつどんなケアが必要で、誰が行うのか、計画書には記載される。それを基に現場スタッフがケアを提供する。もちろん銀河の里でも作成しているものの、あまりそれにとらわれすぎない方がいいように感じてきた。指示書が提示されたとたん、入居者はケアの対象となり、我々はケアの提供者となってしまう。
 銀河の里では、指示書ではなくスタッフ個々のモチベーションでケアが成り立っていっていると思う。一緒に居る人、一緒に暮らす人として、入居者の一番近くで共に生きているスタッフが「何をしたいか」「何をうけとったか」という相互関係が一番大事だと思う。もちろん必要な決まり事やマニュアルもあるが、それを超えて個々のスタッフと入居者の関係とその出会いを大切にしていきたい。
 銀河の里では開設当初から、利用者とのプロセスを事例としてまとめながら、検討会やケース会議を行ってきた。ここに銀河の里の全てがあると言ってもいいくらいだ。銀河の里でやりたいのは、人間の探求であり、生きることの探求なのだと思う。それこそがケアの本質であると思っている。そこにこそ現場の面白さがあるし、仕事を通じた醍醐味、深み、専門性があると思う。
 福祉の制度や施策、研修システムなど、現状は変わらないのかもしれないが、現場から誰かが新たな視点で問いかけ人間の探求をしていかなければ、介護業界は3Kと嫌われ、現場は介護工場から抜け出せないだろう。

**高齢者部門:クリスマスの様子(行事食)**
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posted by あまのがわ通信 at 11:00| Comment(3) | 通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする