東京で行われた“場のシンポジウム”に参加してきた。シンポジウムには「与贈を巡る<身体>と<経済> 〜新しい医療と経営を支える共存在原理〜」というタイトルがついている。失礼ながら、シンポジウムやパネルディスカッションと名の付くものに対して、個人的にはあまり期待がないのだが、“場のシンポジウム”ではかなり興味深いお話を聞かせていただいた。3名の方が登壇されたのだが、そのお話の内容はどれも銀河の里の想いに共通するものがあるように感じて、今回私を誘ってくれたケアマネの板垣さんとホカホカしながら帰ってきた。せっかくなのでその概要を紹介しようと思うのだが、その前に一つ、エピソードを紹介したい。
理事長から聞いた話なのだが、利用者Aさんと利用者Bさんには不思議な関係があったらしい。Aさんはいろんなものを買ってくる。Bさんは認知症もあり、Aさんが買ってきたものを持っていってしまう。するとAさんは怒って「なくなった」とまた違うものを買ってくる。するとまたBさんが持っていき、Aさんは「またなくなった」と怒ってまた新しいものを買ってくると、またBさんが…と、まるで無限再生のようだったらしい。Aさんは持っていかれるために買っているようでもあるし、Bさんは新しいものが買えるようにと持っていくようでもある。これは二人のコミュニケーションのようでもあるが、むしろそこには「“私”が買う」とか「“私”が持っていく」という自我があるのではなく、その“場”を協働して成り立たせているような感じを受けた。
シンポジウムを主催した場の研究所所長であり東京大学名誉教授の清水博先生のお話の中心概念である「与贈」と、上記のエピソードとは、かなり近いところを言わんとしているのではないかと思う。「贈与」は自分の名前を付けて何かを贈ることを指す。そうではなく「与贈」とは、「自分があげた」という事から自分の名前が消えるようなあげ方、贈り方のこと。言い換えれば、居場所のために〈いのち〉を使うこと、と清水先生は定義されている。AさんとBさんの、買ってきて、持っていって…ということも、その“場”のための〈与贈〉だったのではないだろうか。そのことを共有するために、〈与贈〉〈いのち〉そして〈生活体(生きていくもの)〉に関して、もう少し清水先生のお話を詳しく紹介したい。
清水先生の生活体(生きていくもの)に関する仮説は次の通りである。(1)生命は存在しない。存在しているのは〈いのち〉=存在を維持しようとする能動的なはたらきである(つまり、これは外から見た状態のこと)。/(2)生活体は〈いのち〉を生み出しつつ、その能動的なはたらきによって存在していく。/(3)生活体には、生み出した〈いのち〉を、自己が存在する居場所に与贈する与贈主体がある。/(4)複数の生活体から居場所に与贈された〈いのち〉のはたらきが一定の閾値を超えると、〈いのち〉の自己組成がおきて居場所の〈いのち〉が生成する。
みんなが居場所に与贈していき、場の与贈がどんどん増えていくと、コップから水が溢れるように今度は居場所から〈いのち〉が生まれ、居場所のほうからみんなに対して与贈があり、それが循環するということだ。音楽の場に例えられていたのがわかりやすい。演奏の場というのは〈いのち〉の自己組成が生まれてくる場である。ギタリストやドラマー、ピアニスト、歌い手それぞれが与贈し、あるいはその場にいるオーディエンスも与贈することで、その場の空気がまたそれぞれを包み、幸せな気分にさせてくれる。それがまた場を作っていくという循環が起きていると言える。
このように、与贈が多いとき生活体の〈いのち〉のはたらき(鍵)と居場所の〈いのち〉のはたらき(鍵穴)が相互誘導合致(お互いがお互いに影響し影響され合って変化)して整合的につながることにより、居場所に〈いのち〉の与贈循環が生成し、生活体が共に生きていく「与贈共同体」が生まれる。つまり、先の例によれば、演奏の場におけるミュージシャンたちとオーディエンスは「与贈共同体」と言える。
少し話がずれるが、先日つくば研修に参加する機会を得た。自然生クラブで起きたこと、そこに生まれたものは、まさに与贈共同体だったのだと振り返って思う。自然生クラブは、障がい者支援をしながら芸術活動に取り組むNPO法人で、その拠点には太鼓や舞がいつでもできるよう米蔵を改装したスタジオがある。自然生クラブの柳瀬さんが、「ギター持ってきてる? じゃあ、スタジオ、使ってください!」と言い、龍太狼さんがギターを持って歌い出し、柳瀬さんも私も自然生の利用者さんもスタッフも太鼓を叩き、太田さん(来年度から里のスタッフになる舞踏家)が踊り出し、自然生の利用者さんも踊り出す。そこには自分の名前を付けた贈与などなかった。ただ、各々が、やりたいことを、やりたくてやった。そういうところに“場”は生まれ、〈いのち〉が生まれてくるのだろう(その時の様子の一部は銀河の里Facebookの投稿で覗くことができる。映像で伝わるものには限界があるが、ぜひご覧いただきたい)。
ちなみに、研修合宿の場は与贈共同体ができやすい。与贈共同体を実感する機会として優れていると思う。普段はあまり話すことの少ないメンバーが集まって、行動を共にする。長野合宿でみんなでカレーを作り、事例検討合宿でカレーを作り、つくば合宿でもカレーを作って、場を作るのはカレーなのではないかとも思い始めている。チームビルディングにおけるカレーの有用性についてはまた別の機会に論じようと思う。
さて、与贈共同体や場ということを考えたときに、今、銀河の里の状況はどうなんだろうか(もちろん入社して一年も経たない自分がそんなことを考えることや語ること自体おこがましいと重々承知だが、これからの里の一翼を担いたいという気概だけはあるのでどうかご寛恕いただきたい)。理事長が「良い線を行っているとは思うが…まとまってない」「死んでる」と言われるのを、わかるようでわからないような、うーむ、どういうことなのか…と考えあぐねていたが、もしや言いたかったのは、清水先生の定義を借りて言えば、与贈が足りない、〈いのち〉がない、ということなのではないだろうか。つまり、「自分があげた」ということから自分の名前が消えるようなあげ方で、銀河の里という場に与贈している主体はいるのだが、それが少ないために、〈いのち〉の生成がされず、与贈している少数の主体から与贈が続いてなんとか居場所としてあり続けている状態、ということなんだろうか…ということを考えた。そうなると、なんとなく言わんとすることはわかる気もする。
しかし、銀河の里は多くの利用者さんと職員の暮らしの場であるのだが、同時に、一応“仕事をする”場でもあることを考えるとなかなか難しい。そもそも私たちを大きく取り巻いているのは、民主主義、資本主義、貨幣経済であるし、実際にご飯を食べるためのお金をもらいながら「与贈なんですけどね」というのもなんだか具合が悪いし、経営者の立場で考えれば、「与贈をしてもらっているわけですが、その与贈の度合いは適正な評価に応じて還元します」というのもなかなか苦しい。生物学の原理に基づいて、新しい意味を生み出す企業になるにはどうすればよいか。組織内の、あるいは組織と地域の与贈循環を強めて、自己の存在を回復するような場所の構築には何が必要なのだろうか。
そこでヒントになるのが、東京・西国分寺にある、成長を続けるカフェ「クルミドコーヒー」のオーナー、影山さんのお話だった。クルミドコーヒーは、実は4〜5年前くらいから行ってみたかったところだった。宮城県石巻市でキッチン&カフェの立ち上げに関わったとき、上司が「クルミドコーヒー」に研修に通っていて、話に聞いていた。そんなご縁とタイミングもあり、行くことができた。西国分寺駅歩いてすぐのところに、クルミドコーヒーはある。駅は近いがそんなに騒がしくなく、住宅街も近くにあってまず立地が好い。外観もさることながら、内装もまさにおとぎ話に出てきそうな雰囲気。こだわりや哲学を感じる細部にも感動させられた。
影山さんのお話の中で具体的に一つ例に出されたのは、クルミドコーヒーではポイントカードをやらない、という話。なぜかというと、ポイントカードは消費者的な人格、ふるまいを引き出してしまうから、だそうだ。消費者的な人格も、逆に受贈者的な人格も誰しもが持っていて、ただどちらの関係で付き合うかということを考えていることで、クルミドコーヒーの場ができているのではないかと影山さんはおっしゃっていた。なるほど確かにそうである。清水先生が「死ぬときに人は完全な与贈を行うことができる」とつぶやいたように、完全な徹底した与贈を行おうと考えると大変だし、与贈だけを行う人間にならなくてもよいのだ。ただ場として、生きた場を創造するには、それを引き出す“仕掛け”が必要だ。クルミドコーヒーで言えば、手間暇かけて労力惜しまずに多くの人が関わって作られた建物や内装がその一つであるし、スタッフが手間を惜しまずお客さんへ様々なメニューを提供する「マゾ企画」と呼ばれるものもそうだ(例えば、ある従業員がモーニング提供のため毎日深夜2時出社でパンを焼く…!など)。若者言葉で言えば、ムダにデカいとか、ムダに綺麗とか、「ムダに○○する」という遊びの中に、成長の余白が生まれたり、新しい意味が生まれたりするのだと思う。その他の“仕掛け”で言えば、クルミドコーヒーでは事業計画を作ることを辞めたそうだ。事業計画を作るとつまらなくなるし、お客様を手段化しがちになる(お客さんが入ってきた瞬間、1000円札に見える)からだそうだ。これは、銀河の里も部分的に実践している(?)。ただし、資金繰りは綿密に計画した上で、また8〜9割の基幹となる事業部分、太い木の幹はしっかりと育てながら、残りの1〜2割の空白にどう枝葉を伸ばしていくかが、生命力の満ちた場になるためのポイントだそうだ。
“仕組み”に頼るつもりはないが、ワークステージでも生きた場を創造するための“仕掛け”はドンドンつくっていきたい。職員や利用者を手段化しないことを意識しながら、綿密な見立てをした上で、それを超えて起こってくることを真面目に楽しんでいきたい。
消費者的な人格を引き出さない場に育っていくために必要なのは、与贈せよ、と呼びかけるのではない。まずはその太い木の幹が必要だ。東大病院の医師でもう一人の登壇者の稲葉さんがおっしゃっていたが、植物の木の幹というのは、そのほとんど全てが死んだ植物細胞でできているそうだ。死をしっかりと受け止めて、受け取りながら生きていくことが、枝葉を伸ばすには不可欠なのだ。特に震災後の東北・岩手には、受け取ってきた一人ひとりの死がある。銀河の里には、受け取ってきた一人ひとりの人生があり、死がある。これから枝葉を伸ばすのは、私たちだ。
クルミドコーヒーの出発点も、弟さんの死であると影山さんはお話してくださった。その影山さんのお話の中でもう一つだけ、地域通貨「よろず」について紹介したい。詳しくはグーグル先生にお聞きいただくとして、簡単に言えば通帳式の地域通貨「よろず」は、何かをしてあげたときにはプラス、何かをしてもらった時にはマイナスが付いていく。例えば草刈りボランティアをした人の通帳には「よろず」が溜まり、草刈りをしてもらった地主さんは通帳の「よろず」がマイナスになるという具合だ。そうしていくと、人に何かをやってもらうだけの人、マイナスだけが溜まっていく人がいるのではないか、という懸念がある。返せないほどの借金まみれになることをどう考えるか、という問題だ。しかし、マイナスの「よろず」は、単なるマイナスではない。誰かにプラスをあげている、誰かに働きの機会をあげているということでもあるから、それはそれで良いのだというのが結論である。
誰かに何かをしてもらうのって、結構イヤだったりする。気が引ける。自分のことは自分でやりたいし、借りを作るのはイヤだ。何かをお願いしてやってもらったりするのは面倒くさいから、できることなら自分でやってしまったほうが楽だ、と思ってしまう。でも、その交換で生まれる価値がある。おせっかいな人はだいたい優しい。図々しい人は面倒だけど、たまにその図々しさに救われることがあるし、誰かのために何かをしたり、誰かの手伝いをしようと思ってすることも、やってみれば意外と自分が楽しかったり自分のためになることが多かったりする。今の時代、それが分かっていても、苦手だったり億劫だったりする人が増えているのだと思う(自分も含め)。図々しい人、おせっかいな人が“場”の生成のキーパーソンだ。前の例で触れた自然生クラブで起きたことも、いい意味で皆が少しずつ図々しさを発揮したおかげで生まれた〈いのち〉だったのだ。
おせっかいな人と図々しい人が、組織を救う。地域を救う。世界を救う。ギャグSFの話ではなく、今ここの現実の話だ。与贈をめぐる経済についてはまだ課題が残るし、企業内の与贈とその評価に関しても結論は出ていない。自分が先陣を切って、思い切っておせっかいに図々しくなるにはちょっと勇気がないが(否、実は無自覚にすでにそうなれていたりするのかもしれないが)、まずは、おせっかいな人と図々しい人を大切にするところから始めよう。