2016年10月24日

TOP画 「はるか遠くへ」 ★ 佐藤 万里栄【平成28年9月号】

たくさん歩いていた彼女
いろんなところへ連れて行ってもらった
ほとんど歩けなくなった今、
さらにはるか遠くへいけそうな気がする


画)はるか遠くへ(適).jpg
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永遠の世界一 タカさんの誕生日をめぐる物語 ★ 特養ほくと 佐藤万里栄 【平成28年9月号】

温泉.jpg
「このお湯は大沢温泉のお湯みたいに気持ちがいい」
 ほくと入居者の高田タカさん(仮名)は、入浴の度に柔らかい表情で必ずこう語る。彼女は昨年6月に、他の施設から銀河の里に移って来たのだが、来た直後はとても生真面目で自他ともに厳しく律する感じの人だった。スタッフや利用者の身なり、しぐさ、言葉遣いなどに厳しい視線と言葉を投げかけた。特に私は歩き方に品がない、女性としてなってない等々、タカさんの部屋でみっちりと個人指導を受けることがあった。
 そんな感じで入居当初は自分も周りもきちんとしてなきゃ許せないタカさんで、「一人でできない」こと、「世間のルールからはみ出している」ことにとても敏感で厳格だった。7人兄弟の長女として生まれ、早くに亡くなった母親代わりをし、自身は独り身で生きてきたタカさん。また、教育者として勤めあげた人生からにじみ出る言葉は、重く鋭く私のこころに突き刺さるのだった。

 ところがそんな彼女も、ほくとの生活に馴染むにつれて変化していった。認知症ではない彼女が周囲はほとんど認知症の人たちという環境の中で感化され、どんどん柔らかくなり、タカさん独自の世界を開いていったという感じだ。
 特に顕著に変化が見て取れたのは、ライフワークとして続けてきた編み物だった。まっとうな作品だったものが、やがて色も形も変え、みるみるうちに鮮やかな色彩を放ち、アバンギャルドな芸術作品のようになっていった。それはタカさんの心の中にずっとあった、戦争で亡くなった弟たちへのオマージュのようだった。タカさんは死に別れて70年を超えた弟たちと再会し、あの世とこの世を超えて繋がり始める。弟たちは蘇り生き返った。事務所やユニットから電話をかけて「元気か?あのなは…」と弟たちと語るタカさん。電話の先ではスタッフや副施設長が弟役を引き受ける。

 こうした役を引き受けるときにはかなりの覚悟が必要だ。タカさんは本気どころか“たましいの世界”のやりとりになるからだ。失敗の許されない真剣勝負は緊張する。タカさんの場合、電話で受け応えするスタッフは男性でも女性でもかまわなかった。男女関係なく、戦死してあの世に逝った「弟」が今生きている、として話した。毎回「会いに来てほしい」と頼み、「遠くにいるからすぐには行けない」と応えると「来れねぇのか…」と少し残念そうに微笑むのだった。
 こうして自分の世界を展開していく彼女と共に、「若い人を育てる」ことを始めたのが去年の12月頃だった。フィリピンからEPA実習生2名の受け入れが目前に迫り、ユニットも人事異動でバタバタと揺れていた頃だった。タカさんと部屋で話し込んでいると「あんた、ここで私と話してるといじめられるよ」と、初めてみる珍しく弱気なタカさんだった。私はその弱気に寂しさと不安を感じてしまって、ちょっと強めに言い返した。  「私はあなたを師匠と思っているのだからいつもの強気でいてよ!これから外国のスタッフも来るし、新しい人も育てなきゃ!」と大きな声を出してしまったのだった。私の勢いを受けてくれたのか、タカさんは弱気を払拭して復活し、その後、私はタカさんに支えられながら、ほくとのEPA受け入れや、新人を育てることへ向き合うことができた。そんなこんなで、タカさんはすっかり私の師匠になったのだ。

 タカさんは今年の8月1日で95歳を迎えた。しかし彼女自身は何ヶ月も前から「もうすぐ100歳になる」と語り5歳も先を行っているような話だった。その記念すべき100歳のお祝いを、大沢温泉のお湯に入って祝おう!と考えた。いつもタカさんとの話題に出る、大切に想っている大沢温泉の、日帰り入浴の計画を立て始めた。
 タカさんは祖父の代から家族一緒に行っていたようで、「だから私も大沢温泉の湯が好きになったのす」と教えてくれた。誕生日当日、タカさんと事務所の中屋さんと私の3人で行くことにした。絵描きである中屋さんは、タカさんからクリエイターとして厳しく指導を受けたこともあり、タカさんを師匠と仰いでいるひとりだ。こうして師匠と弟子ふたりの温泉となった。
 当日の朝、「誕生日のお祝いで今日大沢温泉に行こうと思います」と話すと「申しわけねえな…オレ何もしてないのに」と控えめなタカさんだった。「そんなことない、いろいろな大事なことを教えてもらっています」と返すと、「そうなのっか?じゃあ行かせていただきます」と、行く気持ちになってくれる。(タカさんはその時の気持ち次第で、行くも行かないも180度選択が変わることがあるので、ドキドキだったが…なんとかその気になってもらえた。大沢温泉の力だろうか?!)

 出発前、事務所で戸來さんに「温泉で入浴中の写真をとってきてほしい!」と頼まれると「エッチなのはダメだ♪」と入浴シーンの撮影は不許可のタカさんだったが、気分はすっかり温泉に向いていた。そして、いつも使っているタオルと洗面器を持ち、さらに日ごろ大切にしている置時計とラジオまでもしっかり持って出発した!
 車中「△△温泉のお湯はぬるい、○○温泉は沸かし湯でダメ…やっぱり大沢温泉が一番いい、熱くていい!」と大沢温泉を大絶賛。大沢の湯に浸かっていたから私は強くなったんだ、とも語りながら、何年ぶりなんだろうか、久しぶりの大沢温泉…タカさんの気持ちも大沢の湯のように沸き立っていた。
到着するとキラキラした表情になるタカさん。真夏の緑を背負った大沢温泉に負けない貫録で自炊部へ向かう。自炊部の建物は築150年とかで、階段が多い。古くからある混浴露天風呂や旅館部の豪華露天風呂は避けて、タカさんとゆっくり入れそうな「かわべの湯」という新しい女性専用の露天風呂に向かう。途中の階段を車イスに乗ったまま旅館の職員さんにも手伝ってもらって、御神輿で階段を下りていった。なんだかタカさんがお湯の神様みたいに思えた。

 露天風呂に向かう途中の廊下から向こうに川が流れているのが見える。なかなかの絶景をしばし3人で眺める。タカさんは指を指しながら「これ豊沢川だな!」と高らかに言う。
95歳になるタカさんはコカ・コーラを飲みながら、石に当たって流れが変わっている場所をみて「あそこからお湯が湧いているんだよ」とか「あの陰になってるところ…あっちが深いんだ」とか「川の神様ありがとう!」と拝んだりしている。思い出の大沢温泉、懐かしい豊沢川、いろんな想いや感動がタカさんの中をたくさんたくさん流れているのだろう。
 豊沢川の流れと絶景をまったりと堪能した後、いよいよ露天風呂へ。
 「かわべの湯」に入ると3人だけの貸し切り!川の神様ありがとう!と心の中で祈って入る。名の通り、川辺にあるその露天風呂で豊沢川の音を聞きながら温泉の湯に浸かる。
まさか本当に大沢温泉で師匠と過ごす時間を持てるなんて…温泉に半分浮かぶようにして入っているタカさんを見ながら、じんわりその実感が湧いてきて、私は何とも言えない気持ちになった。それは、日々現場で一緒に戦ってくれていたり、私を見守り支えてくれているタカさんにだからこそ湧いてくる感謝の思いだったように感じた。タカさんも「ありがとう、とってもいいお湯だよ」と何度も感謝の言葉をくれた。お湯からあがって、少し汗が引けるまで、また3人で廊下で涼みながら川を眺めた。入る前より何故だか豊沢川が少し大きく見えた。

 お昼は温泉の食堂で食べることにしていた。タカさんはお刺身の定食を選び、真剣な顔、無言でほとんど平らげてから、「こんなこと100年に一度だな」と言った。本当は95歳の誕生日なんだけど、師匠の中では「100歳」の大切な節目として存在していた今日なんだろうな。私は「本当は95歳なんだよ」なんて言うのは野暮な感じがした。100年の全部が詰まっている今、今日この瞬間。本当の100歳の、この先5年分もきっとそこに入っている。その瞬間を共に過ごし共有できたことの感動と幸せを私は深く感じていた。

 その誕生日を過ぎて数日後、ユニットでのお盆の迎え火の日がやってきた。タカさんは部屋で「さよなら、さよなら」と手を振る。聞くと、「豊や實(亡くなった弟さん達)が迎えに来るのす」と言っていて、とても儚げな感じだった。そんなことないよ、と言ってもタカさんの耳には入らず、「弟たちが来なくても、父さんや母さんが来てくれる」と。迎え火にはとてもじゃないが足が向かないといった様子だった。でも何度か誘っているとなんとかリビングに来てくれた。迎え火の儀式が始まると般若心経を低い声で唱え、じっと火を見るタカさん。やがて火が消えると、窓の向こうにあるリンゴ畑を見て、「あの火が下から地面を温めて、リンゴを育ててくれるんだ」と言っていた。

 その何日か後に、送り火の日があった。火を見送った後に窓の前に残っているタカさん。私が近づくと腕にかけた数珠を回しながら「186、187…」と数を数えていた。「何を数えてるの?」と聞いても返事はないどころか、こちらに向いてもくれない。タカさんは違う世界にいて、何か重要な事をやっているようだった。タカさんの世界には入れてもらえず、私は傍らに居続けた。20分も過ぎた頃だろうか、タカさんが「年数を数えてる」と応えてくれた。
 その時タカさんが数えた年数はすでに5千万くらいになっていたが(千単位で数を飛ばして数えるところもあって)、それでも数えるのを止める気配はなかった。お盆の送り火の日ということもあって、私はそのタカさんの行動にとても仏教的な宇宙を感じていた。タカさんは100歳どころではない永遠の時空にいるんだろうなと感じた。お盆の送り火が私をタカさんの世界に入れてくれたようにも感じた。
 数える年数が200兆になった頃、「どこまで数える?」と尋ねると、「じゃぁ今日はここでお終いにしましょう」とタカさんは言った。そして、お数珠を手にかけたので、私の方から「ぎゃあていぎゃあていはらぎゃあてい(般若信教の終わりの言葉)」と唱えると、タカさんも「はらそうぎゃあてい、ぼんじそわか、般若心経…」としめてくれた。不思議な時間だった。そしてタカさんは何事もなかったかのように自分の席に戻って夕飯を食べ始めた。

 タカさんが時折見せてくれる世界は、永遠の広がりを持った途切れのない世界だ。それは星の廻りのように、遠く遠くに離れて行きながら、またいつか巡り会えるという希望を含んでいる。タカさんの世界が持つ永遠性は、「死んだら終わり」という人生の悲しさや寂しさに打ちひしがれることなく、次に会える瞬間を待ち望む勇気を私に与えてくれる。その時間を越えたおおらかな流れや広がりの感覚は今の世の中を生きる私たちにとって、とても重要なことではないだろうか。私は100年を生きたタカさんに出会い、この巡り会いの感覚や広がりを、ここからは私の人生をもって繋いでいかなければならないと感じた。


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2016年10月22日

近代自我意識を超える新たな自我意識の模索と考察 ★ ワークステージ 佐々木里奈 【平成28年9月号】

<まえがき>
 近代自我を超えて、未来の新しい意識について研究をしてみたいと考えている。我慢して働いて働いてそのうち少しずつ心が死んでいったり、「こうしなきゃ」「こうでなくちゃ」って真面目に生きてるうちにすんごく死にたくなったりする人が現代には多くいる。なんで生きることがこんなにも苦しく、生きづらい時代なのだろう。理由は如何様にも分析できると思うが、もしかしたらそれは、ちょっと昔に西洋から輸入した「わたし」の中に縮こまっているからなのではないだろうかと思う。そこに縛られていないで、今、ここ日本で生きる「自分」についてもう一度考え直してみられないだろうか。もっと楽に自由に生きられるかもしれない!そんな新しい生き方を目指せる、自我を超えたような意識を模索してみたい。
 なんとなく同じような関心を持って書いた大学時代の論文も(恥を忍んで)振り返りながら、それから社会に出てからの実経験や出会いを通じて学んだことも含めて考えていきたい。多くの方にも読んでいただき、もし思うことなどがあれば、ぜひ教えていただければ幸いです。

<本文>
 現代を生きる人の息苦しさ、生きづらさは、心の病を患う人やそれと関連する自殺者の増加など現実の問題として表れてきている。現代に起こる社会問題の一因として「自我意識」のあり方に大きな課題があるのではないかと感じている。
 例えばうつは、自己価値・評価の低さと深く関連する。「自分なんて…」と思う“自分”の定義が、外国からの輸入品の自我に影響されているように思う。また、例えば暴力は、フロイトの定義により自我を「無意識」と「超自我」の調整役と考えると、それは自我の機能不全であるということになる。
 そうした考えの根底には、心と体を切り離し、それぞれ別で考えようとするようなデカルトの心身二元論を発端とする西洋的な捉え方がある。私の学部の卒論は、概略、デカルトの心身二元論が人間を論理的に孤独な存在としており、それによって我々現代人の実感的な孤独感につながっている、それを克服したのがG.ライルだという論説を展開したものだった。

 デカルトの二元論は、他者の心は決して知ることはできないという論理的な孤独に人々を導く。私の卒論では、デカルトを批判したG.ライルの『心の概念』において、「わたし」という概念はどのように考えられたのかを明らかにすることを目的とした。ロックは身体を無視し、「わたし」を意識し思考するものとして、自分自身の心を省みる内省の作用は常に不可謬であるとした。ロックはデカルトを批判しようとしたが、結果的にそれに加担した。ロックを乗り越えようとしたヒュームは、「わたし」というものの観念はどこを探しても見つからないと主張し、それまで自明とされてきた「わたし」を否定した。しかし、「わたし」を単純で継続的ななにものかとしたかったことが明らかになった。それに対してライルは、「わたし」は他人からは隠された神秘的ななにものかではなく、一人の人間を指す代名詞であり、「わたし」が精神的で神秘的ななにものかであるという誤解に導く要因である意識と内観に関する理論は不合理であることを示した。ライルの『心の概念』における「わたし」に関する議論によって、特にデカルト以降の「わたし」に関する問いの混乱が指摘され、二元論に基づく論理的孤独は克服されたと言える。

 この卒論での論説のとおり、心身二元論やそれに付随して発生する神秘的で個別な「わたし」というものは、ライルによって不合理だと示された。それにもかかわらず、その後もデカルトによる影響は大きく、西洋では依然として二元論がスタンダードであり続け、それが日本にも輸入され定着している現状がある。しかしそれは日本人的な自我意識の曖昧さからするととても窮屈だったり堅苦しかったりするというのが実際ではないだろうか。
 現代を生きる人の孤独感や息苦しさ、生きづらさは、西洋的な社会システムや心身二元論を発端とする西洋的な捉え方の限界を示しているのではないか。逆に言えば、デカルト以前の西洋にあった自己概念や日本に昔からある伝統的なそれは、近代自我意識を超える新たな意識形成の手がかりとなるのではないだろうか。
 これから取り組む研究論文では近代自我意識とは何かを明らかにしつつ、それを超えるこれからの意識があるとすればどのようなものか、それを我々は持つことができるのか、できるとしたらどのようにすることでそれを持ちうるのかということを探り、心理臨床の知として応用しつつ、多くの現場で活きる知として役に立つことを目的として研究をしたい。
 具体的な方法としては、デカルト以降の近代自我意識が概念としてどう受け入れられてきたのかや、その時代背景や、それがもたらした影響について文献と現実社会の課題等から照らしながら研究を行う。本論の核は、現代の社会問題や社会状況について、自我意識の面から具体的に観察・分析を試みることである。増加する心の問題、低年齢化する凶悪犯罪、高齢化に伴う無縁社会などについて、自我意識を軸に考察する。また、自我意識の時代による違いの他に、国・地域による違いについても研究を行いたい。西洋の「切れている」ということを前提としてつながる力を持つ文化(「個人」が前提で、言葉やボディーランゲージによるオープンなコミュニケーションを絶やさない)と、フィリピンの「切れない」ことを大切にしようとする文化(約束をして「行く行く」と言いながら結局来ないが、それを気にしないことがあったりする(らしい))、日本の「切れてない」ことを前提としているが実は切れている文化(伝統的には“世間”“人間”といった“間柄”で人生が成り立っていて「お互い様」と考えながらも、助けてと言えない/言われなければ助けない人が増えている)との比較も興味深い。

 新たな自我意識の手がかりとしては、上で触れた和辻哲郎の“間柄”の概念から読み取れる自我意識や、日本の文学(宇治拾遺物語や沙石集から、森鴎外や夏目漱石まで)に現れる自我意識、自我を空にする禅や、無執着の境地を目指して身体ごと、空間ごと相手をもてなす茶道など日本の伝統文化にも表れる自我のあり方、里山での伝統的な暮らしに表れる自然との相互関係から紡がれてきた自我意識について見ていく。最近の頻回なSNSの利用にあたって顔の見えない他者に自分の内面を開く自我意識のありようも含めて考察していきたい。里の利用者さんが発する言葉にも新しい自我意識を示唆する言葉がたくさんあふれている。スタッフに対して、自分のことばかり考えるな、という話をする中で発したという「おれもフクエ、おめもフクエ。おれもノブオ、おめもノブオ」という言葉等について考察しつつ具体的に研究を進めたい。

<おわりに>
 今回は、臨床心理を学びたいと思い、その受験のために提出した研究論文の課題に卒論の概要を織り込んで、多少加筆しながら記した。
 私は、東日本大震災後には宮城県石巻市で仮設住宅のコミュニティ支援や在宅被災独居高齢者の巡回訪問を仕事として取り組んだ時期があった。誰かとつながり顔の見える関係を構築することや、それが起こるような仕組みづくりを実現しようと実践してきた。仕組みづくりの大切さを感じると共に、話を聞くこと、共感することの大切さについて実感することも多かったが、それだけでは力になれないこと、力不足を感じることもあった。また、自分自身も含め多くの現代人が感じる息苦しさは、哲学分野での文献研究だけでは解消されない。その解消のために、心の領域の実践を基礎とする臨床心理学において研究し訓練を受けたいと願っている。
 …10月2日が一次試験です。準備期間が短く、準備不足な感もありますが…なんとか頑張ります。応援よろしくお願いしますー!
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2016年10月21日

何が里なのか – 暮らしを通じた関係の創造 - ★ 理事長 宮澤 健 【平成28年9月号】

 この夏は見学やフィールドワークで里に滞在される方が多くあった。施設長がこの春から立教大学の大学院21世紀社会デザイン科に入学したことがきっかけなのだが、外から多くの方に銀河の里の取り組みを見て考えていただけるのは、当事者としてもいろいろ刺激になって貴重な経験になる。とてもありがたいことだ。
 銀河の里は制度上、表面上は高齢者介護施設と障害者支援施設を組み合わせたところにちょっと特徴がある程度のありきたりの福祉施設なのだが、中身は福祉施設とは言えないような取り組みに満ちている。
 なぜ高齢者施設と障害者施設を組み合わせているのかというのも理由がある。高齢者部門はデイサービス、グループホームは認知症に特化した施設だが、特養までが認知症を専門の特養だと思われている向きがあるし、実際そうなっているのにも理由がある。
 銀河さんさ隊が、厳しい練習を積み、夏には盆踊りやイベントに出て太鼓や踊りを披露しているのも理由がある。アフリカンダンスの先生を呼んで、ワークの利用者、スタッフ中心にダンスの練習をしているのも理由がある。スタッフとワークの利用者の絵を描く人が、時折展示会をやったり一般の展示イベントに参加することも理由がある。スタッフの酒井さん中心にロックバンドが結成されて活動したりするし、酒井さんはソロで演奏活動をライブハウスやいろんなところで活躍しており、里内でも「フィーリンゲイン」というクラブをつくって先日初CDを発売したなどという活動にも理由がある。その他、数年前から研修にも取り入れてきた  「てあわせ」や、以前からずっと面談室に置いてある箱庭にも大きな意味がある。
  田んぼで5町歩の稲作をやり、30sの玄米の袋で毎年1000袋のお米の生産をやっているのも、リンゴ栽培を1町歩ほど始めたのも、毎年広い面積を草刈りしているのも理由がある。
 英哲の太鼓を聴き、ピナ・バウシュが日本に来れば研修で観に行き、能舞台の鑑賞を毎年研修に入れるのも意味がある。
 現場で利用者の言動に強い関心を向け、注意深く見つめ耳を傾けるのも意味がある。その語りややりとりを事細かく膨大な記録に毎日残すのも大切な意味がある。毎日集まってそれを話し合い、共有し、月に一度は集まって何時間も話し、時には合宿をしたりしながら物語として事例をまとめたりするのはとても深い意味がある。人と人が出会い向き合っていく時間を持つのは大切な意味がある。
 大豆を作付け、麹も作って自前で味噌を造るのは理由がある。厨房の栄養士が「給食」ではなく、個々に合わせて「食事」を作っていく姿勢なのは理由がある。甘酒ドリンク、ファイバードリンクなどを開発してきたのは理由がある。介護食、嚥下食のバラエティにあふれているのには理由がある。 
 研修でドキュメンタリーを考え、戦争を考え、人間の悪を考えるのには理由がある。アウシュヴィッツを訪れ、南京虐殺記念館を訪れ、暴力を考えるのも理由がある。
通信を発行し、そこにいろんな文章やイラスト作品などが載っているのにも理由がある。
大きなハウスで野菜を周年出荷し、食品工場で餃子やシュウマイを作って売るのも理由がある。夏、畑で南蛮(とうがらし)を作り、調味料『ジャパスコ』を作って売るのも理由がある。リンゴでシードルを開発して売るのにも理由がある。これからワイナリーを作っていきたいという夢には理由がある。

 いろいろあって、まだまだあるけど、「そんないっぱいやっている銀河の里って何?」ってなると、ちょっと解らなくなる。それぞれの個々の理由を挙げたって銀河の里の説明にはならない。
 やってることをトータルに説明できないだけではない。考え方、ものの見方、精神性となるともっと難しい。 
 「高齢者、障害者の意思決定支援はどうやっていますか?」という質問が実際にあった。おそらく里では誰も、意思決定支援という概念を日常的には考えていない。質問自体に錯誤があると感じてしまって、大半の里のスタッフが一瞬なんのことを言われているのか意味がわからない。
 そうした仕組み作りは大事だとは思うけれども、それよりも大事なのはものの見方、考え方、とらえ方だと考えてきた。それは、こうしています、というような仕組みは語れない。「その場その場、ひとそれぞれに個別に臨機応変ですね」くらいしか言えない。
 たとえば自己決定と言っても銀河の里の入居者で自分の意思で入居した方は一人もいないかもしれない。本人は嫌がっているが、現実には一人暮らしは無理だから、なんとか馴染んでもらうしかないような切羽詰まった状況を乗り切るのに時間をかけて(何年もかかることも多い)、かなりの繊細な努力を重なるのが仕事のほとんどであったりする。意思決定支援とはほど遠いところから一歩を踏み出すしかない。
そんな説明にならない話ばかりだから、見学に来た人も聞けば聞くほど、里は何をやっているのか解らなくなってしまう。「謎が深まった」と言われた方があった。
 でも謎が深まるのはとてもいいことだと思う。謎ほど魅惑に満ちたものはない。そこから何かが始まる。簡単に説明できることは大したことではないのかもしれない。説明の難しい銀河の里がそこにあるという事実が誇らしいことのように感じる。
 今時、みんな説明だらけだ。説明できなければ何もないことになる。できなければ予算はおりない。里は説明すべきことは明瞭にして予算をもらい、その活動内容は全く説明に馴染まないことをやっているのだとしたら、これは理想に近いかもしれない。

 現代では誰しもが、説明できるように制度上単純にさせられてきたのだろう。そしてつまらないことばかり繰り返さざるを得なくなっている。謎を生んだり、謎に挑んだりしないで簡単に説明できることではクリエイティヴは生まれようがない。
 本当はもっと解らなくていいのではないのだろうか。解ってしまうとそこで終わってしまう。そこから先へは進めない。目に見えないものと目に見えるものは繋がっている。分けて考える必要はない。解るために何でも分けて説明しようとする。それで解ったようで本当は何も解らない。分けたことで満足しているにすぎない。見えないものも見えるものもどちらも大切にしなければ、それは繋がっていて一体だから、片方をないがしろにすると、両方を損なったり傷つけてしまうことになると思う。
 ただ私個人的には里のことを説明するのを拒んでいる訳ではない。なんとか説明しようとすることも、謎に挑む感じがあってとても楽しい。ただ説明しきれないことはたくさんある。見事に説明したとしてもそれはその時点のことであって、翌日には違うものに変化しているだろう。監査などで理念を掲げることを強要するが、愚なことだ。掲げてしまった理念は愚かな説明にすぎない。今日と明日で変わることのない理念などは偽物だ。人は脱皮したり変容しなければ生きているとは言えない。たましいが腐ってしまう。「脱皮しない蛇は死ぬ、脱皮できない人間は人を傷つける」(むのたけじ)
 監査の人たちがなぜ福祉施設に理念を掲げさせて、人間も組織もそのたましいを損なうようなことをさせるのか理解できない。監査も第三者評価もマニュアルしか求めない。それがあれば安心している。人間をなんだと思っているんだろうと腹が立つ。
 里で取り組んでいる上記にあげた理由や意味のあるそれぞれは、他の福祉施設では行われてはいないことばかりだ。なぜそんな余計な事ばかりやっているのだろうか、人が創造的に生きることの可能性に挑もうとしているということなのだが、ひとりの人との出会いと存在に深い関心を持って迫りたいと願っている。自身も含めて、人が生きることの不思議さに迫る姿勢でいたい。そうしたことには明確な答えはあり得ないのだから果てしない探求ということになる。
 理念のように、これだと答えを出してしまうとそこで終わる。先日起こった相模原の事件の発端のひとつは、簡単に答えを出してしまったことにあるように感じる。答えはいつも正しい、その正しすぎる答えは人間としての大事な何かを損なってしまう。答えを持ってしまった瞬間に転落することがある。恐ろしいことだ。答えの出ない問いを最後まで抱えて歩き続けることが人間のあるべき姿なのだと思う。

 元々暮らしを取り戻したいと思って岩手に引っ越してきた。里が農業を基盤と謳っているのも暮らしを大事にしたいからに他ならない。暮らしは自然や人との関係の集大成であるから、暮らしというからには、そこに「関係の創造としての労働」が生まれてくるのは自然だと思う。列記した里の活動の理由や意味は「関係の創造」に全て集約されるかもしれない。
 スタッフにしても、里で働くということは「暮らし」のなかで関係を創造するということなのかもしれない。「暮らし」がすでに「自然や人間との関係」と定義されるのだから、働くということも「暮らし」であって労働ではないのかもしれない。時間を切り売りして賃金に換える労働という精神の構造は本来は里にはないのが原則だったと思う。それでも時にはサラリーマン体質の人が混ざることはある。そうなると里の精神性(エートス)はそういう人とは乖離するのでお互い違和感になる。
 かなり厳しい人手不足なので、選んではいられないという事情もあって、このところ精神性が全く異なる人たちも多く里に属しているというのが現状だろう。そうした状況ではリーダーが育ちにくく、おまけに10年選手の中堅どころから中枢的人材までが結婚や産休、育休等で抜ける時期に入っていて、かなり組織としては危機的な厳しい状況に追い込まれている。

 それにしても「人手」というのはありがたい言葉のように思う。ここでの人というのは「他人の」という意味もあるようだが、「人の」という意味ももちろんある。他人の手、人の手、この両方の意味での人手が必要な仕事ばかりやっているのも里の特徴だろう。農業も機械化したとはいうものの人手勝負だ。暮らしは人手で作っていくことが大事かもしれない。完全には機械化も電子化もできない。そうなったらそれは暮らしではなくなるかもしれない。介護現場へのロボット導入がこれから進んでくるだろうが、里でやっている根幹は、人の語り、物語を聞く仕事だから、それは関係の中でしかなされ得ない。ロボットは補助的には使えるとしても最終的には人手(手と言っても身体も心も含めて)でしかできない仕事だ。
 おそらく農業とか人手というあたりから外れてしまうと、里はその精神性を失って違うものになってしまうだろう。そこを共有できるスタッフで、里の生命線をお互い確認し合いながら、若いスタッフにもこのあたりをなんとか伝えつつ、この時期を乗り越えていきたい。
 日本では長い間、企業が家族としての役割を担っていた時期が続いた。家庭を大事にしようという傾向から企業の家族化は否定的に見られる風潮になったが、今は家庭も大変、企業も家族として引き受けてられない状況のなかで、里のような新たな家族としての機能をもったところが必要になってくると感じる(福祉施設が企業化して、家族としても関われる方向性を失ったらとても寂しいことではないか)。
 里は新しい家族としての機能を果たそうとしていると考えるのは、少々ためらうところだったが、実際には本来家族の機能だったはずの働きを果たしているようなところも多くあり、今、家庭や地域がそれを担うことができず、しかも必要とされていることだとしたら、家族の機能を引き受けるということも正面切って考えていいのかもしれない。
 利用者や親族にとっては、家族としての里があることが最善な場合が多いだろうし、そうなるとスタッフはサラリーマン的な精神性で時間の切り売りの労働というわけにはいかないだろう。「働いているというよりおばあちゃんのうちに遊びに来ている感じ」と言った人があるが、それはかなりいい線なのではないだろうか。農業も手伝ったり、絵を描いたり、音楽をやったり、勉強したりしながら、暮らしに包まれる在り方をこれからも模索していきたい。
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2016年10月20日

「迎え火」の能舞台と「恐山ツアー」 ★ 施設長 宮澤 京子 【平成28年9月号】

「迎え火の華々」 / 於:グループホーム第1
 8月、お盆を迎え、恒例の「迎え火」や「送り火」の行事が、それぞれの事業所で執り行われた。13日の朝、グループホーム第2(以下、G2)の詩穂美さんから「今晩7時頃から、玄関前で迎え火と花火をします」との連絡が入った。私はグループホーム第1(以下、G1)に修論のフィールドワークのために、夕方4時から入ることになっていたので、食後にG1の利用者さん何人かと「花火」を楽しむつもりで参加をお願いした。

 5月あたりからG1では青森の下北半島にある「霊場恐山ツアー」の計画が持ち上がっていた。Hさんが「恐山には毎年行っていたけど、施設に入ったら行けないわね」と言うので、「いえいえ、行きましょう」と私が応えると、「イタコさんにご先祖さんを下ろしてもらうと、心がシャキッとするのよ。人間として大事なことなのよ」と話してくれた。テーブルを囲んでHさんの話を聞いていた人たちは、「行ったことないから行きたい」「こんな足腰ではみんなに迷惑かけるから行けない」「法事があるからダメだ」「いくらかかるの?いつ行くの?誰と?」「車に酔うから酔い止めが必要」などと現実的な心配で盛り上がる。一方で好奇心の強いSさんは「天国行きか地獄行きか、予行演習として行ってみたい」と乗り気だ。さらに「お願いがあるんだけど、うちの人も一緒に連れて行っていいかしら?」(旦那さんは3年前に亡くなられているのに、いつも一緒に生きているSさん、イタコより凄い!)。みんなそれぞれ噛み合わないままイメージを膨らませていた。
グループホームでは死者たちが日常的に生きているので、彼女たちが立派なイタコ集団だ。スタッフは恐山ツアーの「見立て」として、グループホームがあまりにも異界なので、恐山に行くのは現実を取り戻すためなのではないかと話し合っていた。

・Sさんの夫はすでに亡くなっておられるが、いつも
一緒に生きていることになっている。
・Tさんの夫も亡くなっているが、度々生きている人とし
て語られる
・Yさんは、死者との関係を大事にしており仏事・法事
を重視し、毎日手を合わせて拝んでいる。
・Hさんは、夫や息子を亡くして一人暮らしをしていた。
GH入居前は、毎年恐山に行っていた。 
 

 食後「お隣のグループホームで花火があるので参加しませんか?」と誘うと「花火」に興味を持ってくれた。しかし玄関先に出ると、G2は階段を登った高台にあるため、入浴後のYさん・Hさんは億劫になったようである。Yさんは早々と帰ってしまい、HさんとTさんは、玄関前から時々上がるしょぼくれた打ち上げ花火を見上げながら、「花火は一発上げるにもお金かかるのよねぇ」などと話しながら、「月がきれいだね」とか「涼しくて気持ち良いねぇ」など、夕涼み気分に浸ってもいた。スタッフの角嶋さんが、線香花火やらネズミ花火を持ってきてくれて、私達もはしゃぎながら楽しんだ。花火が終わってリビングに戻ると時刻はすでに8時を過ぎていた。中のみんなはすでに寝ただろうと思っていたが、リビング奥のソファには、早々に引き揚げていたYさんとSさんが私達の帰りを待っていてくれた。なんと恐山ツアー参加者全員が残っていた!

【場面1】 母になり、子に戻る
シテ:亜美 ツレ:H 
ワキ:T ワキツレ:S・Y 
後見:M・宮澤


 遅番の亜美さんと夜勤者の好子さんも加わり、7人が廊下中央の薄暗い場所であれやこれや話が盛り上がる。それぞれの話は錯綜しているのだが、なぜか笑いが共鳴し合っていた。私とTさんは向かい合わせで端に座り、みんなのおしゃべりを見守る感じになっていた。
 そんな中、Hさんが椅子からおりて床に直座りし、ソファに座っていた亜美さんと手を繋ぎ合った。驚いて見ているとなんとHさんは亜美さんの足やら太ももをさすり始めた。そのうちさらにHさんは亜美さんの両腿に顔を埋めてしまった。ゆりかごの中にいるようなHさんと、ゆりかごになっている亜美さん。そういえば夕涼みの時に花火を立って見ていた亜美さんを「ここに座りんしゃい」と言って抱っこしていた。おばあちゃんと孫のようなほほえましい光景だったが、今は逆転して20代の亜美さんに90代のHさんが赤ちゃんになって甘えている。私が少し心配だったのは、今年の新人の亜美さんを普段から特別な存在として思い入れのあるTさんがその光景を見て嫉妬しないだろうかということだった。田植えの時も一対一で直伝し、「おめぇさんがいると安心だ、宜しく頼む!」と亜美さんを大事な人として受け止めているTさん。ところがTさんはまったく見えていないように振る舞っている・・・。
 その傍らではSさんがYさんに「私の家は多産系で、一晩しか寝なくても子ができるから不思議なのよ」と話し出す。それを横で聞いていたTさんは「効率良いなぁ」とぼそっとつぶやきニヤッとしている。Yさんは「そんだ、いっぺぇできるところは、そなんだ」と頷いている(何だか妖しい話)。
Yさんは、Sさんの粋でしゃれた語りに感銘するところがあるらしく「オレ、この人が自分のこと、お金がかからないタんダのハツって自己紹介したから、いっつも顔はわかってもよ、さっぱり名前が覚えられんけんど、この人の名前だけはすぐ覚えられた。タんダのハツさんてなぁ」と繰り返す。亜美さんが「Yさん惜しい!ハツじゃなくてSさんだよ」と言うが、Yさんは何度もハツを繰り返し、訂正しようとはしない。亜美さんは「はひふへほのハツじゃなくて、さしすせそのSなんだけどなぁー」とさらに突っ込むが、Yさんは聞いてはいない。「札束のSって覚えたら良いんじゃない?」と応援が入るがそれもYさんの耳にはまるで入らない。

【場面2】 来て共に舞う
前シテ・後シテ:T ツレ:H 
ワキ:亜美 ワキツレ:S・Y
囃子:G1の利用者  後見:M・宮澤 
 

 時刻が9時を過ぎた頃「そろそろ寝るか」ということになった。すると今までボンヤリしていたTさんが一番にシャキッと立ち上がった。Tさんが部屋に戻るには、Hさんの横を通らなければならない。その時にはゆりかごだった亜美さんは他利用者の介助でその場を離れたので、Hさんは亜美さんが座っていたソファにお腹を突き出すようにして座っていた(Hさんは腰が痛いので時々このような姿勢をとる)。TさんはHさんの前を通りながら、突然Hさんのおなかを触りはじめた。Hさんのおなかは出ていて自分は細いと言いたいのか、Tさんは自分のズボンのウエストがこんなに余っているとばかりに2折り3折りさせている。みんなが響めきながらその様子を見ていると、さらにTさんは、ズボンの裾をたくし上げ自分の足の細さも見せた。そこへ戻ってきた亜美さんが「Tさん、“ドジョウすくい”が、はじまりそうだね」と声を掛けると、なんとTさんは安来節を踊りはじめた。「Tさん、これ」と言って亜美さんが小さなザルを手渡す。Tさんもそれに乗ってサマになってきた。「本番は、恐山ツアーの温泉旅館までとっておきましょう!もっと大きなザルを用意するからね」と亜美さんが言うと、それに合わせて手に持っていたザルを股間に押し当て、ニヤッと笑って踊りが終わった。
私はあっけにとられた。この行動はどう考えてもTさんらしくなかったからだ。10年以上になるお付き合いだが知る限りではあり得ないことだ。私には、そのとき5年前に亡くなった旦那さんの清吉さん(仮名)が見えた。今夜の「迎え火」で、清吉さんが戻ってきたにちがいない。そういえばG1の「迎え火」を11日にやって、12日の夕方に亜美さんが旦那さんの清吉さんの写真を壁に貼ったという経緯があった。そのとき清吉さんはTさんのところに戻ってきていたに違いない。清吉さんがいたとするとTさんのドジョウすくいは腑に落ちる。清吉さんは、銀河の里のグループホームでTさんと一緒に暮らしたあと、里の特養ホームで看取りまでさせていただいた方だ。律儀で細かいことをきちんとするTさんとは対照的で、お茶目なムードメーカーで場を和ませる方だった。清吉さんを知っている人なら、どじょうすくいは清吉さんだとすぐに感じ取れたはずだ。
そんな「迎え火」の後の宴も終わり、役者達は口々に「おもしぇかったなぁ」「こんなに笑ったことなどひさしぶりだぁ」「みんなと話ができてよかったぁ」と、名残惜しそうに各々の部屋に戻って行った。ふと気づくとグループホームで霊感の一番強いMさんが、暗い部屋で一人じっと座り込んでいた。今夜の宴の顛末を見守り支えていてくれたに違いない。

考察1:世阿弥が『伊勢物語』の「筒井筒」の物語を素材に創作した能の演目『井筒』は、複式夢幻能の代表作といわれている。在原業平と紀有常の娘が昔夫婦として住んでいて、今は廃墟となった在原寺を訪れた諸国一見の僧が聞いた不思議な物語である。僧の前に現れた里の女(前シテ)は実は有常の娘の亡霊(後シテ)で、業平への恋慕の舞を業平の装束を着けて舞い、夜明けと共に消え失せる。現在と過去が入れ替わり、二重に男女が入れ替わる夢幻的な時空に繰り広げられる能舞台。

 この迎え火の夜の宴の体験を通じて、グループホームが夢幻能のような物語を展開できる舞台となりうることに大きな意義を感じる。
前シテのTさんはG1で利用者として暮らしているが、橋がかりとしてのあの薄暗い廊下を横切るときにHさんがいたことで後シテのTさんとなり、「迎え火」で帰ってきた清吉さんを被って安来節の舞を披露したのではないか。Tさんの舞は私の中で能「井筒」と重なり感動が込み上げた。

考察2:もう一つの見立てとしては、Tさんが“ワキ”として座って居てくれて、シテの新人スタッフ亜美さんが、母性を獲得するためのイニシエーションとしてG1最年長92才のHさんを赤ちゃんとしてあやすという物語である。日頃のHさんは、社会的な道義や倫理などを重んじる人なので亜美さんに対して厳しく躾をする立場にいる人だ。このとき、なぜお母さんにあやされる赤ちゃんになったのか。Hさんの日頃のペルソナがはがれ、柔らかい赤ちゃんのような本体が顕れたようにも感じる。毎年「恐山」で、イタコさんに下ろして貰って、お母さんに会っていた時の再現だったかもしれない。その時に、共時的に隣のソファではYさんとSさんが「子作り・多産系」の話しをしている。霊山として死者を下ろす「恐山」は、生まれ来る命や母性の物語とも通じているということなのか。命の巡りということからすれば死も生も含んだ全体性が命そのものということになるのだろう。「霊場恐山」を超えた霊場がグループホームの場に出現する可能性があるということではないか。

 22歳の新人、亜美さんはどう受け取っているのだろう?里のグループホームで巻き起こる一連の不思議な出来事に遭遇し、頭がボンヤリすると言っていた。カルチャーショックの中にいると言っていいだろう。私も強く感動させられっぱなしだ。「恐山ツアー」では、浅虫温泉でゆっくり身体を癒やし、「恐山」でしっかり現実を取り戻してきたい?!


「恐山ツアー」の顛末 (2016/08/25〜26)
 一泊2日の「恐山ツアー」は、Hさんのひと言が発端で「みんなで行こう!」となった計画であるが、費用もかかることなので、家族の承諾も得なければならない。参加者の中には90歳を越えた人もいるので健康状態に配慮が必要だ。参加者のモチベーションはどうか、スタッフのメンバーはどうするか。スタッフも「恐山」と聞いて引き気味なところもあり、すんなり計画に乗れなかった事も事実だ。私と理事長で6月に現地の下見を実施した。宿泊する浅虫温泉の部屋やお風呂の状況、恐山までの道路状況、休憩やトイレの場所、恐山をどう歩くかなど。計画から2ヶ月の間、参加者4人はそれぞれ「行く、行かない」で揺れているようだった。特にお盆前には恐山どころではないといった雰囲気があった。お盆を終えると、それぞれの気持ちも落ち着き、前日に“旅のしおり”を配って最終確認をした。ところが出発前日になってもYさんは「おら、カブ(膝かぶ)が痛いから・・・」と、ためらう発言をして、みんなから「大丈夫、温泉でカブを治してから恐山に行くのだから」と説得されるものの、顔は曇っていた。当日の朝になって、Tさんが「オレは、何も聞いていない」と言い出す。(あれっ昨日は“しおり”に色まで塗って準備をしていたのに?)
しかし出発の時間には全員、当然のように行く気満々で、おしゃれをして集まった。玄関に一番に出てきて「行く」と座り込んでいるのはG1の霊感度ナンバーワンのMさんだった。Mさん達、残る5名の利用者とスタッフの守りの後押しを感じながら、いよいよ出発。

【出発】
 運転手の理事長、カメラマンの潤太郎さんとその他スタッフは私を含め4名、マダムチーム改めイタコ・シスターズ(潤太郎さん命名)4名の総勢10名が、ハイエースに乗り込んだ。カメラに緊張してか、すっかり眠ってしまった人もいる。

【道中】
 行く道で、天気雨が降り、直後は迫力のある虹が2重に架かり、私には現実と異界の橋が架けられたようで「恐山ツアー」の旅に相応しい光景に映った。

【温泉】
 浅虫温泉では、オーシャンビューのお部屋で、全員が浴衣に着替えた。その浴衣姿がなんとも色っぽくかわいらしい。露天風呂で海を眺めながら温泉に浸かり、背中を流し合い、裸のお付き合い。ゆったりしすぎて湯あたり寸前の人もいたが、皆さん満足。Yさんは、温泉の効果で、心配していたカブの具合が良くなったと、足をピンと上に何度も上げて見せてくれた。
 お風呂の後、夕食の席について「乾杯」、並べられた海の幸膳の釜飯やしゃぶしゃぶ鍋に火が入る。最後はおそばが出て、デザートは杏仁プリン。かなりの量だったがみんな結構平らげた。食事のあとは津軽三味線の演奏会。一番前のソファに銀河の里ご一行が座り、津軽三味線の迫力を堪能する。しかし心地よさにウトウトする人もいた。演奏が終わって部屋に戻るなり、SさんとTさんはバタンキュウと布団に潜り込んでしまう。確かに今日は、3時間のドライブと温泉入浴にお膳の食事、おまけに津軽三味線と盛りだくさんな展開だった。さすがのイタコ・シスターズも明日の本番を控えて、夜更かしのおしゃべりタイムは無かった。
 私も疲れて、Tさんと亜美さんの布団の間に横になっていると「畦を広げてないで、ここで寝ろ」と、Yさんが自分の布団の脇を開けてくれた。「Yさん、畦とは上手い例えだね。確かに太っちょの私がここで寝ると、段々畦が広がっていくものねぇ」と苦笑した。寝ていたはずのTさんが隣で「ぐふふ」と目を開けずに笑った。そんな訳で、Tさんの本番の「ドジョウすくい」を見ることはできなかった(清吉さんは16日の「送り火」に帰ってしまったのだろうか?)
 皆さんぐっすりで、トイレも日頃3回の人も1回、全く朝まで起きなかった人もいた。Sさんは明け方、一人布団に座っていたとのこと。それを見て「座敷わらし?」と驚いた人もあったようで、後で大笑いした。
朝食の後、出発予定時間は過ぎていたが、皆はすっかりおみやげ選びに没頭していた。運転手の理事長だけが「参ったなぁ」と、しきりに時間を気にしていた。

【いざ「恐山」へ出発!】
 80%の雨の確率だったので天気はあきらめ気味だったのだが、恐山に滞在中、食事もして車に乗り込むまで雨は降らなかった。イタコ・シスターズの威力だ(出発した途端、どしゃ降りとなり前方が見えなくなるほどだった)。
 さて、この日の恐山は大荒れの天気が予想されていた上に、参拝シーズンを外れていて人は少なく、ゆっくりと参拝することができた。Sさんは潤太郎さんにおんぶしてもらって境内の参拝をした。とても有難かったのだが、それでもSさんは自分の足で歩きたかったようで、そのあと地獄コースでは両サイドを支えてもらって自分の足で巡った。天国コースは車いすで巡り、宇曽利山湖を眺めることが出来た。Hさんはコースを巡りながら、涙を流し「来たよー」と呼びかけていた。Yさんは、しっかり手を合わせて、曹洞宗のお経を唱え先祖供養をしていた
 一方、Tさんだけは少し様子が違って、5分おきくらいにトイレに行った。恐山巡りはあきらめTさんは境内で水子供養塔に手を合わせ、イタコさんが寝泊まりする宿舎のトイレのあたりで亜美さんと過ごした。普段ズボンしか着用しないTさんが、恐山ツアーになぜかスカートを履いてきた。確かにおしゃれではあるが、ちょっと場違いな感じもする?Tさんの目的は恐山ではなく「温泉」だったのかとも思ったが、実はそこに深い意味が隠されていたのだった。そのスカートはTさんが自分で裏地を敢えて切り取ったという。それを身につけ、私が「2本足が透けて見えるよ」と言うと、Tさんは「足はしっかり付いているよ!」と返してきた。「私は幽霊ではない、生きている」と言いたかったのか?いずれにせよ、生きているTさんが供養しなければならない死者が明確にいたのだった(車に乗り込んだTさんは、亜美さんに「冷えたなぁ」と漏らしていたが、私はその意味深さに震えた)。
 ともかくイタコ・シスターズは、里でお盆のお勤めを果たした後に、霊場恐山でご先祖様の供養ができたことが非常に良かったと語っていた。当初の見立て通り、皆さん「現実」の旅行をしっかり頑張った。Sさんは自分の足でしっかり歩き、Yさんは拝んだ人の年齢や続柄を説明し、お経13番を淀みなく唱えて供養していた。Hさんは毎年恐山に来て、生者と死者の交流で心の浄化を図ってきたことを今年も実現させた。Tさんは初めての恐山で頻繁にトイレ通いしながら水子供養を済ませた。イタコ・シスターズの一人一人にそれぞれ目的意識があり、揺らぎがなかった。

 ツアーから無事戻り、夕食後に「ツアーの振り返り」をしようと、テーブルに集まってYさんにお経を唱えてもらった。それから一人一人が感想を述べた。私はTさんが地獄巡り・天国巡りに参加できなかったことを悔やんでいるのではないかと心配したが、そんな心配は全く必要なかった。「初めてのところだったが、お参りができて良かったです」と、いつものTさんとは思えないほど大きな声でしっかり挨拶をしてくれた。それぞれイタコ・シスターズの皆さんは、驚くほど立派な社交ぶりで感想を語ってくれた。きっちり「恐山ツアー」を「現実」で貫いてくれたことに、再度感動させられた。
これでほぼ見立て通りの恐山ツアーだったかと思いきや後日談がある。

【恐山、恐るべし!】 生と死と癒し
 帰ってきた翌日、疲れていないか心配して、様子を見に顔を出すと、普段の穏やかな日常がそこにあった。Yさんはいつものように草取りをし、Tさんは野菜の収穫を済ませ台所に立ち、Hさんは私を見るなり「ありがとうね」と声をかけてくれた。自分の足で地獄コースを巡ったSさんもシャンとテーブルについてお茶を飲んでいた。みんなたくましい。
 そのとき私は、翌日の銀河サロンにTさんを誘った。「韓国語講座があるので、一緒に行きましょう」そこに立教大学の韓国人留学生のギョンミさんが来ることや、韓国の民族衣装を試着できること、「ホトック」というおやつが出ることなどを話した。いつものTさんらしく、行くとも行かないとも言わず無言の承諾をしてくれた。
 サロンには杉田夫妻と赤ちゃんが参加していた。杉田紗智子(旧姓:前川)さんは、元G1のスタッフでTさんの「事例」を書いた人でもある。またTさんの旦那さん(清吉さん)の看取りにも立ち会い、清吉さんはまさに彼女の腕の中で息を引き取ったのだった。紗智子さんが赤ちゃんを生んだときには、私とTさんとで産院にお祝いに行った。長いお付き合いと相まって深い関係でもある。サロンの会場でTさんは勧められるままピンクのチマチョゴリを着て、杉田一家と共に写真に収まった。杉田夫妻の赤ちゃんが、家族の「希望」を象徴するかのように明るい光を放っていた。サロン終了後、Tさんは、その写真を持ってG1に戻った。「迎え火」の能舞台では、Tさんがワキになって、亜美さんに“母性”を伝えたように感じた。それを盛り立てるようにSさんとYさんが、「子作り」の話を隣でしている共時的な状況。この写真もきっと亜美さんの未来のために用意されたショットにちがいないと感じる私がいる。

 翌日、Tさんの娘さんが来里され、8月には出産や別れなど家族にいろいろあったことを語られ、「母さんが恐山に行って、ご先祖に“家族のこと”をお願いしてくれたことを聞いて、何だか鳥肌が立ちました」と言われた。かつてグループホームに入居した当時の恨みを綴ったTさんのノートがあったことも語りながら言葉を詰まらせた娘さん。このとき私は、Tさんが恐山のお参りを通じて母娘の和解を果たしたのだと理解した。

― 亜美さんとTさんの会話から ― 
亜美:「誰のこと拝んだの?」
T :「両親と旦那」
亜美:「何を拝んできたの?」
T :「家族のこと」
亜美:「そしたら何て言われたの?」
T :「当たり前のことだ」

 実際にはTさんは、家族に起こった出来事を聞かされてはいないのだが、すべて知っているかのようだ。そしてご先祖が、しっかりと守ってくれていることを確信しているのではないか。生者と死者との繋がりを感じないわけにはいかない。死者と繋がるTさんの振る舞いを通して、私達は大切な学びと発見をさせてもらった。意外にも恐山で「異界」を体験していたのは唯一Tさんだったのかもしれない。「迎え火」で、清吉さんが憑依して皆に舞を披露し、恐山ツアーの感想を述べた時には、ご先祖の霊が感謝の言葉を言ってくれたように感じて、私は納得がいった。きっとこれからも、今は見えていないイタコ・シスターズのそれぞれの思いや謎、そして新たな発見をしながら一緒に暮らしていくのだろう。

 「迎え火」「送り火」そして「恐山ツアー」という一連のグループホームでの祭事は、現実に張り付いてタイトな生き方をしている者にとっても、てらいなく素直に手を合わせることができる貴重な体験でもあった。特定の宗教というのではなく、死という宿命を持った人間のよりどころとなる繋がりの場が、ここにあるという感謝の気持ちが湧いてくる。カメラマンで同行してくれた28歳の潤太郎さんは、イタコ・シスターズの方々が「自分という人間の意味づけや理由づけを、どういう形であれ全うしようとしている最中(さなか)に見えました」と感想を送ってくれた。

里の一コマ)恐山.jpg
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2016年10月19日

今年の田んぼA ★ 特養オリオン 川戸道美紗子 【平成28年9月号】

おこめ.jpg
 ジョニー・ハイマス著「おこめ・米」という本を読んだ。その本はほとんどのページが田んぼの写真で綺麗な本だった。なわしろ、田植え、稲刈り・・・その田んぼは全部を無農薬で行っているそうで、機械も入らない田のため全て手作業だと言う。その写真集の中の、「自分達が育てているお米だから可愛い」という言葉が印象深かった。全て手作業だから、もの凄い労力がいると思うが、銀河の農業も近づきたいと思わされた。そこには田んぼや稲作やお米に対して深い愛情や情熱があると感じた。
 その本のなかで私が衝撃を受けたのは、「米の花」の写真だった。キャプションには『咲いているのは午前中だけ』とあった。私は「米の花?なんだそれ?」とキョトンとしてしまった。実は、私はここ5年間、銀河の里で田んぼに関わっていたが、なんと「米の花」という存在そのものを知らなかった。田んぼで稲作に関わっていながらも、そんなことも知らず毎年里のお米・お餅を食べていた・・・。穂が出てきた頃に咲く、小さくて可愛い白い花。慌てて、その本を読んだ次の日、銀河の里の餅米を植えた田を見に行ったら、偶然にも米の花が満開だった。初めて見る稲の花。遠くから見ていても気付かないが、近くで見ればよく分かる。びっしりと、白い小さな花が咲いていた。
 その「米の花」を写真に撮って、ユニットすばるの入居者の健吾さん(仮名)に見せに行った。健吾さんはそれを見ると「おっほっほ!今年は豊作だじゃ!」とにっこりと笑って言った。…ん?なんで、この写真一枚で豊作だと分かるの?と聞いてみたけれど、「・・・去年は五分作だったなあ」と、話をそらされ、曖昧にして教えてもらえなかった。
 励まそうとして、適当に豊作だと言ってくれたのか?いや、健吾さんはそんな性格の人ではない。真摯に、誠実に優しさも厳しさもくれる人で、そんな生ぬるい話にはしない。となると本当に豊作なんだろう。でも何で「米の花」の写真を見ただけで豊作か否かが分かるんだろう・・・気になって、ユニットおりおんのモモコさん(仮名)にも写真を見てもらいながら聞いてみた。
「あや〜、咲いてらじゃ。今年は冷害になるかと思ってらったども、大丈夫なんだなあ。安堵した」米の花を見てモモコさんもにっこりと嬉しそうに笑った。「米の花」について聞いてみると、モモコさんは熱を入れて語り出した。
「あのねえ!この花ひとつひとつが、穂に入って、そしてそれが米粒になるの!だから、この花が多いほど米が多いってことなの!」米の花がおしべで、めしべは穂の中にある。一本の稲に100位の花が咲いて、穂の中のめしべと受粉し、実になるそうだ。『この花が多いほど、米が多いってこと』というモモコさんの話には真実味がある。
 実際にそういう原理なのかどうかは分からないが、モモコさんがそう言うと、そういう事なのかなと思わされる。若い時に旦那さんを亡くし、子供をおんぶしながら女手ひとつで田を守ってきたモモコさん。「大変だったんだよ」と今は懐かしそうに語ってくれるが、本当に大変だったろうなと想像する。農協に米を出しても赤字続きだったという話をよくしてくれる。旦那さんが餅が好きな人で、何かある度に餅をついて食べていた・・・とか。暮らしと共に米があった、そのモモコさんが教えてくれる米の事、科学的事実とは違う事だとしても、モモコさんの言う事の方が説得力があるし、力も感じる。(モモコさんの言っていることは本当のことらしい、私が何も知らなさすぎる。農家の人には当たり前の知識なんだって!いつまでもお遊びの農業ではいけないなぁ)

 それからしばらくすると少しずつ穂が垂れてきた。「また稲が変わってきたら、教えて下さいね」とニコッと笑って健吾さんに言われた通り。健吾さんも、ユニットから田んぼを見ていてくれる。もの凄く心強い。穂が黄色くなってきた頃、また報告をしようと思う。

 今年の春、おりおんの響子さん(仮名)は胃瘻手術をしてユニットに戻ってきた。響子さんは、去年も一昨年も「やる」と田植えの時も稲刈りの時も、車椅子で田んぼまで来てくれて、スタッフに抱えられながら力強い手で、植えて、そして刈ってくれた。今年はもう田んぼには行けないかもしれない。でも響子さんと植えたバケツ苗にもちゃんと稲穂が出てきている。
私が早番のある朝、私はモモコさんとその響子苗に咲いた「米の花」を見た。小さくて可愛い「米の花」をモモコさんも愛おしそうに見つめていた。「自分達の育てているお米だから可愛い」写真集のその言葉がモモコさんの表情に重なる。
 米作りや農業に関わっていると、自然も利用者もみんなが色んなことを教えてくれる。食べるためだけではなく、いかに生きていくか、生きるとは何なのか、そんな事を諭されている気もする。毎日美味しいお米を食べながら、どう生きていくのか、試行錯誤しながら・・・田んぼと皆と、その毎日を大事にしながら。収穫の秋を待ち望んでいる。
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2016年10月18日

オモイ畑 ★ グループホーム第1 佐々木伸也 【平成28年9月号】

 去年の11月にグループホーム第1に移ってすぐ、なぜか目の前にある畑が目に入った。その畑は“荒野”のように荒れ果てていて、肥料袋はそのまま投げ捨ててあり、草は伸び放題、収穫後の畝はそのまま放置されていた。そんな畑を見たときに“これどうするの”と思ったと同時に、すぐに心の中で“あ、俺がやるんだな”とスッと覚悟した感じだった。
 まず冬のうちに構想を練らなくてはと思いながら冬が過ぎていくのに焦った。この冬は暖冬であまり雪がつもらず“これは早めに動ける”と思ったが、自分が特養に居たとき、入居者のKさんが「幸田は寒いところだから」とよく言っていたのを思い出した。Kさんは昔から農業をやってきた人で、よく一緒に畑に出る機会があった。そこでは苗の植え方はもちろんのこと、女の幽霊の話までしてくれた。そのKさんは去年7月に亡くなってしまったが、自分に“まだ早い”と言ってくれるかのように出てきてくれた時もあった。銀河の里に来てから3年、今までもずっと畑仕事に携わってきて“よし、3年やったんだから今度は一人でやってみよう”という思いがあった。

 雪が解けて、グループホーム内で何を植えるかみんなで話していた。いよいよ3月後半からスタートになるが、まずトラクターで耕すところから始まる。トラクターを使うのは初めてで不安だったが、利用者のTさんYさんが見守ってくれて支えられた。おかげで初めての割にはなんとかうまく耕せた。  
これには稲造さん(仮名)の存在を忘れることはできない。トラクターで耕した時は、稲造さんはちょうど入院していて居なかったのだが、その後、帰ってきた稲造さんが亡くなる日の当日の朝に、畑の話をしてくれた。そして「お前がいたら大丈夫だな」と言ってくれた。そのときの稲造さんとその言葉があまりに強烈で忘れられない。
 私は翌日、畑に吸い込まれるように畑に出た。石灰と堆肥まきをTさんYさんとやって耕運機で混ぜて準備完了。その後、堆肥まきの時期に新人の菊池さんが来てTさんと3人で堆肥まきして耕運機もかけた。その時にTさんが水の通路を作りたかったのか畑の周りを掘っていた。菊池さんはぶっきらぼうに「そこはやらなくていいって」と言ったのにTさんは「・・・・」と無言だった。そのやり取りを見ながら新人だなぁと感じたものだった。でもその後、二人の関係は不思議な濃密さがあって、今は菊池さんはTさんにとって託す相手として重要な存在になってきている。

 畑の準備の前から私はポットで育苗をしていた(大根、カブ、カボチャ、とうもろこし)。芽が出て“そろそろ植える時期だ”と思っていると・・・他のスタッフから「え、、、大根とカブ、ポットでやったの?」と言われた。何のことかと思っていると、それらは育苗して苗を植えるのではなく直接畑にまく直播きなんだということだった。利用者のTさんやYさんに相談すると「大丈夫なんだ」と言われたが、植えた苗は全部死んでしまった。自分の不甲斐なさにがっかりしながらも、なんとか気を取り直して直播きをした。芽が出るのがもう気になってしょうがなく、毎日畑が気になる。
 その一方で市販の苗の買い出しにも行った。稲造さんの次に入居になった光雄さん(仮名)と苗を買いに行き「太いの買えば良いんだっけ」と教えてもらった。男二人で苗を買っていると、いろいろと目移りしてしまい、ビック唐辛子の苗が気になって「おもしろそうだ」と買い足した。ある時は、Tさん光雄さんと湯本の方までトマトの苗を買いに出かけたが、他の野菜の苗が気になってなかなか決まらなかったりといろいろあった。

 畑に植えてしまうとあとは待つばかり・・・大根の葉が徐々に大きくなるのを見てワクワクした。雨が降るとYさんと喜んだ。「よがったな、雨降って」「んだー」「昨日から二人して予想してらったもんな」と雨の日の会話が弾んだ。生まれて初めて雨が降って喜んだような気がする。
 まだかまだかとソワソワしてるのは自分だけでなくYさんもで、草が気になり、太陽のガンガン照り付ける日でも草取りしてくれる。そこにYさんは自分の世界を見出したようにも感じるくらいやってくれる。今では 伸「おう、ばあさん、ごはんだ」Y「今いぐ」・・・・伸「ごはんだ〜」Y「は〜い」・・・・伸「ごはんだってば」Y「わかった、せわしねぇごど」などと言い合える関係になっている。畑での会話では、戦争時代のことやYさんの話だったりを教えてくれる場所にもなっている。この畑という場所はすごい力を持っており、亀田さんとTさんのカボチャ・菊池さんと光雄さんのとうもろこし・稲造キュウリなど、それぞれの想いがいっぱい詰まった野菜がある。
 畑に出る人は他にも多くいて、サチさんは本気の草取りをしてくれる。キクさんは畑には出ないがリビングにいる幸恵さんと見守ってくれている。キミさんミコさんは応援部隊で畑をやっている人たちに踊ってくれたりして応援してくれる。そんなこんなで全員巻き込んでの畑になっている。でもその分“重さ”も自分は感じた。失敗して獲れなかったらどうしようという“重さ”があった。ところがなんと、どの野菜も大豊作で、周りの皆に「今年の畑は立派だね」と褒められる結果になった。
 でも育てたのは利用者のみんなだと思う、自分は耕しただけ・・・“何もしてないぞ”と思った。「今年は一人で出来るように」と当初思っていたのだが全くの見当違い。また助けられたけど、皆でやったから「立派な畑」になった。皆の想いが詰まった畑はほんとに重いものがあった。豊作で今すごく安堵している自分がいる。

 畑には野菜がいっぱい育った。でもそれだけではない。そこに込められた関係のストーリーや一人一人の気持ちや想いや出会いもたくさん詰まって育っている。目には見えないものもいろんな事を教えてくれる畑、自分も野菜と同じように、畑で成長できてるんだと思う。失敗も成功もどっちも糧にしながら出会えて、悩んで、想いをめぐらして、そんな場所を作ってくれる利用者に圧倒されながら日々を過ごしてきた。これも暮らしなんだなと思う。利用者の一人一人といろいろ感じながら、これからも畑と利用者に囲まれて暮らしを作っていきたい。

GH1の畑.jpg
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ドンッ!となって、ボンッ!となって、ドンッ♪ ★ 特養すばる 千枝 悠久【平成28年9月号】

 先日の8月20日に恒例の花巻花火大会を銀河の里で観に行った。今年の花火は私が今まで見てきたなかで、一番思い出深いものだった。花火の閃きが見事だったのはもちろんだが、そこで起こった出来事の一つ一つも、同じくらい私のなかで輝いているからだ。ユニットすばるからは、クミさん、ユキさん、ツナさん(仮名)が見物に出かけた。
 クミさんとペアになったのは私。約2年前、初めて出会った頃のクミさんは、“慣れている人でないとダメ、男の人なんてもってのほか!”という感じ。例えば、夕食が終わってリビングからお部屋へ誘う時も、「なにするってや!このコバカタレ!」とピシャリとやられてしまう。だから、私はほとんどクミさんと関わることができないままの日々が続いていた。

 そんなある日、クミさんが体調を崩し、何をするにも手伝いが必要になる、ということがあった。流石にこの時は私のことも頼ってくれたのだが、それが私にとっては悔しい出来事だった。“普段からもっと関われていれば、こんなに弱ることはなかったかもしれない…”それから、クミさんとの闘い(?)の日々が始まった。
 毎日、頭ん中でロッキーのテーマが流れているみたいだった。何度話しかけても無視されたし、コバカタレ!も何度も言われた。コバカタレなのは自分でも分かっている。私が里に来た7年前にも、コバカタレ!と言い続けてくれたトミ子さん(仮名)が居た。言われ続けて、考えて、考えて、そのおかげで今の自分がある。クミさんは私にまた、それをやってくれているのだと。先輩スタッフの「(クミさんは)来てくれるのを待ってるのだと思うよ」という言葉を導きの明かりに、好きなものを聞いたり考えたりして作って出したこともあったし(「うまくね!」と言いながら完食してくれる)、夜に「これから海に行こうか!」と誘ってみたこともあった(「な〜に言ってら!このコバカタレ!」と笑ってた)。

 そんな日々のなかで、少しずつクミさんと話せるようになっていって、過ごす時間も少しずつ増えていった。が、花火大会に一緒に行けるかは全くの未知だった。最近は、日中寝ていることも多く、あまり外出もしていない。クミさんが話すことは、以前より大分減った。先日、息子さんが面会に来られた時には、二人でほとんど話すことなく部屋で過ごしていたそうだ。“どうなるかはわからない、でも、とにかくクミさんと同じ時を過ごしたい!”そう思った。
 ユキさんは、花火を楽しみにしていて、毎年欠かさず出かけている。自分の気持ちをどんどん表に出すユキさんが、その年の花火をどう感じたか、それは毎年スタッフの間でもすごく楽しみになっていることだった。ペアになった由実佳さんは、みんなと自然と関係を築くことができる人だ(あの手強いスミさんにも最初からほとんど断られることがなかった!)。そんな由実佳さんとだと、ユキさんの「オラにばりこったにベチャベチャずいの!!」という、ソフト食が出されることに対するトゲのある叫びも、「だって〜ユキさんが…〜〜〜!!」途端に小さな姉妹のケンカみたいな微笑ましいものに変わる。
 ツナさんは、神様や仏様、霊的なものをすごく大事にしている人。部屋の電灯も「あ〜ま〜て〜ら〜す〜さ〜ま〜、まぶし〜!」と表現するような、ニコニコとみんなのことを見守ってくれているおばあちゃんだ。ペアになった角津田さんは、自ら語るよりも人に語られることのほうが多い人で、そのエピソードのどれもが、里でのいろんな人との心がほっこりと温まるようなものばかりだ。だから、私は勝手に、このペアのことを“里の神様&仏様ペア”と思っていた。
 残念だったのが隆二さん(仮名)と、今年の新人スタッフの落合君のペア。何度誘っても隆二さんは手を横に振るばかりで、一緒には行けず。この二人はきっと、これから、なんだろうなぁと思う。言葉を用いない隆二さんは、食事のとき以外は、部屋に戻って一人でテレビを見ていることが多い。昨年8月に入居してから、そういう暮らし方を続けてきていた。それはそれで、隆二さんが自分で決めた暮らし方なのかもしれないが、寂しい感じがして、気になっていた。そんななか、落合君が“自分とどこか似たところがあるから”と隆二さんのことを気にかけ、花火に一緒に行きたいと言ってくれたことは、私にとっても嬉しいことだった。

 そして花火大会当日。花火に誘ったけれど、特に返事をしてくれないクミさん。でも、“花火は好き?”には「好きだよ〜」と答えてくれたし、最後のニコッという笑顔もあったので、それを頼みに出発。会場に着いたけれど、車を停めたところからクミさんの席までは、少し距離があった。車イスを使うという選択肢もあったが、行き着くまでの過程も大事にしたくて、二人で歩いた。出会った頃は一人で部屋まで歩いていくこともあったクミさんだが、今は手引きでないと、歩くことは難しい。これまでの色々な思い出が駆け巡りながら、一歩ずつゆっくりと歩む道のり。「大丈夫?疲れねっか?」「大丈夫だ」しっかりと手を握って歩いた道のり。席に着くと、「ゼェ、ゼェ、ハァ、ハァ、……ニコッ」大分息が上がっていたけれど、笑顔を見せてくれた。二人でやっとここまで歩いてこれたのだな、と思った。花火を見ながら、「オニギリ食べるっか?」「うん」…「きれいだね」「うん」…。言葉は少なかったけれど、花火と、そして時々私のことも、しっかり見てくれたクミさん。一緒に来られて、本当に良かった、と思う。

 ゆったりとした時間のなか、感動していた私の隣から聞こえてきたのは、「オラさはなんにも来ねぇ!」とユキさんの声。クミさんが食べていたので、ユキさんにはオニギリが回ってなかったのだ。一気に現実に引き戻された感じの私だったが、それでこそユキさんだよなって思った。ムスッとしながらオニギリを食べてたユキさんだったが、そのうちに隣の由実佳さんに、「コレ、あげる」と自分の持っていたオニギリを渡そうとしていた! いつも「コレはオレのだ!」とあまり人にものをあげるということがほとんどなく、あげる時があってもどこか照れが入ることが多いユキさん。そんなユキさんが、自然と人にものをあげている!すごいことが起こっている、と私は感じたのだが、それを「い〜らないっ!」と、あっさりと断る由実佳さん。まったく二人らしいなぁ、って笑えたし、きっとこれからも、こうしてやっていけるんだろうな、と思った。
 後ろを振り返ると、リラックスチェアに座るツナさん。キラキラとした目で空を見上げている。その横に、静かに、ピッタリと寄り添う角津田さん。花火に照らされているのだけれど、二人からも光が差しているような、そう思える光景で、心の中で二人のことを拝んだ。ツナさんは、花火がどう見えていたのだろう?花火に何を見ていたんだろう? 終わる頃には、優しい表情でウン、ウンと頷いていて、夏の終わりを愛おしんでいるかのようだった。

 花火大会から戻ると、いろんなスタッフが、「どうだった?」とユキさんに聞きに来た。初めは、例のごとく「大したことねがった。大曲の花火大会の方がすごかった」と言うユキさんで、今年の花火大会は良くなかったのか、と心配になった。けれども、何度か聞かれるうちに、「ドンッ!となって、ボンッ!となって、ドンッ♪」笑顔で花火の様子を教えてくれた。ジェスチャー付きで教えてくれたのだが、そのどれもが、両拳を前に突き出すものだった。―まだまだこんなもんじゃない、前へ― それは、ユキさんの自分自身に対するエールだったようにも思えたし、みんなへのメッセージのようにも思えた。この先どうなるかというのは誰にも分らないし、やってみなくちゃわからない。歩いてきた道のりがあって、そしてこれから先があって。輝きの中で、これからも前へ進んで行こう、そう思える今年の花火大会だった。
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銀河の里の一コマ(Photo Gallery)2 ★ 【平成28年9月号】

銀河の里さんさ隊2016、活動の様子!
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posted by あまのがわ通信 at 11:03| Comment(0) | Photo Gallery | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

銀河の里の一コマ(Photo Gallery) ★ 【平成28年9月号】

山形一泊旅行・誕生会&バーベキュー・ボーリング・活動作業風景などの障がい部門の一コマ。

他に、ノンアルコールシードル、いわての物産展実行委員会会長賞を受賞の案内/歌う介護士 龍太狼のライブの案内。

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