2016年09月30日

TOP画 「極楽ロケット」 ★ 佐藤 万里栄【平成28年7月号】


七夕の日に、宇宙船がロシアから飛び立つのをみんなと見た。
その中で94歳の彼女は笑う。
「極楽と地獄、どちらに行くかわからないけど、あぁいうのに乗っていくんだな」
あまのがわを越える彼女。宇宙に広がって見守ってくれる。
「あなたは置いていくから」
逝く者と残る者の使命を思った。


宇宙船「たかーず」.jpg

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母なるものの行方 ★ 理事長 宮澤 健【平成28年7月号】

 フクさん(仮名)が旅立った。梅雨の雨の降りしきる中、自然豊かな旧宮守村の集会所で葬儀があった。新緑の山々や野原に降り注ぐ雨は、宇宙に遍満したフクさんが、緑の命を燃やす雨となって滴っているようだった。会場に行くと玄関先に置かれた焼香台の前に写真があった。一瞬、誰の写真か分からなくて戸惑う。おそらく30年くらい前の60歳代のフクさんだろう。当然かもしれないが、葬儀では我々が知っている銀河の里のフクさんは居なかった。

 特養の開設当初からの入居者として、フクさんは8年間、里に居てくれた。特養に初めてやってきた日、交流ホール前の廊下でばったり会って挨拶を交わした。初対面なのに古い知り合いのような雰囲気で語りかけてくれて、明るく面白おかしい語り、みんなが暖かく包まれる感じに、なにか「特別な人が来た」と感じた。今振り返ると、フクさんはシャーマンだったに違いないと思う。それぞれの人にそれぞれの本質を突いた言葉を投げてくる。
 たとえば、銀河の里の組織を賭けての特養開設は、半年で資金破綻するという警告をされたくらいだった当時、経理責任者の施設長に向かって迫力ある感じでキッパリと「いいか、これだぞ、大事なのはこれだ」と、指でお金の形を作って突きつけた。私が職場見学の学生を案内した時には「この先生の言うことをしっかり聞いて教えてもらいなさい」と学生に言った。8年間、多くのスタッフが日々いろんな言葉をたくさんもらい続けた。その内容は鋭すぎたり、あまりに個人的であったり本質を突いていたりするので、なかなか日誌には書けないこともたくさんあったと思う。
 5年前くらいに“フクさん箴言集”をつくろうと企画したこともあったが、あまりに重くて続かず、尻切れになった。リビングではひょうきんにはしゃいだりしているのだが、部屋で一対一になると鋭い言葉が出ることが多かった。それでも基本的には懐が広くおおらかで暖かく包んでくれる感じがあるので、いろんなスタッフが辛くなった時にフクさんの部屋に行って癒やされていた。フクさんの居室に2時間以上も籠もっていた新人もあった。
 居室の前を通りかかるといつも手を振って「こぉ、こぉ(来い来い)」と呼んでくれた。「しばらく来なかったな」と言うので「アメリカに行っていた」などとトボケると、すかさず「アんメリ来なかったもんなぁ」と返されて一本やられたことがある。見事なものだ。回診のドクターに「父さんよ、いつも母さんの前を威張って歩いてばりじゃわぁねんだぞ」と言ったこともあり、ナースを焦らせドクターを唸らせた。
 もちろん、聞いたこちらがどう受け止めるかにかかっているのだが、世間の大半の人がそうするように認知症のたわごとと吐き捨てることは簡単だ。
 フクさんのように、認知症の高齢者はなんでも見通しているようなところもあり、達者な言語能力と相まって凄い言葉をくれるのだから、認知症の人を訳がわからなくなった人と考えるスタッフは、里にはいない。むしろ見えないものが見えたり、普通では解らないことも解るのが認知症だとほとんどの里のスタッフは知っている。しかもフクさんは、高齢者を見下して扱おうとするような人や、認知症の人は訳のわからない人だなどと少しでも思っているような人には、一切“語り”がないのだから鋭い。

 私は当初からフクさんは“里の母”だと思っていた。この人さえいてくれれば大丈夫と信じていたところがある。そのフクさんも90歳を超え、昨年あたりからは入退院を繰り返すことが増えた。入院の度にスタッフがお見舞いに押しかけるためか、病院では見舞い制限をするようになった。もちろん理由はノロやインフルエンザの感染対策ではあるのだが、解禁になればすぐに大勢が押しかけるので、また「家族のみ」などと制限をつけられてしまう。今回もそんなこんなの一ヶ月あまりの入院で、やっと退院が決まり、向かえに行く予定のその日、早朝にフクさんは旅立った。「らしいな」とも思う。なんとか里の特養も経営的には軌道に乗り、施設らしくない良い雰囲気に育ってきた。「あとはおめたち自分で頑張れ」と言われたような気もする。
 振り返っても、フクさんは本当のシャーマンだったんだと本気で思う。葬儀にシャーマンのフクさんは居なかった。会場に集まった人達は誰もシャーマンのフクさんを知らない。里のスタッフだけが知っているフクさんがいる。弔電も地元国会議員と市長、社長さんだった。あの葬儀は俗世で生きていたフクさんの葬儀で、シャーマンのフクさんはしっかりと今もどこかにいるに違いない。表現は違っても里のスタッフはそんな感覚でとらえていると思う。

 フクさんはじめ90歳を超えた人たちは、日本の暗かった戦争の時代とその後の厳しい時期を生きてきた人たちだ。これまでも男性利用者が戦争体験にまつわる語りや動きを見せてくれることがあった。それはただの昔話や思い出話ではなく、ユニットやグループホーム全体が本当に戦場になってしまうくらいのリアルな現象にまでなることもあった。どれほどか深い傷がそこにあったのだろうと想像させられる。そしてその傷は、我々が心底受け止め生き抜くことでしか癒やされることはないのだろうと感じさせられてきた。グループホームにおいても特養でも、男性原理的な闘争の傷というテーマから、平和への希求が語られてきたように思う。それを我々スタッフ、特に若い世代がしっかりと受け止めていく必要があるだろう。

 その一方で、最近の傾向として感じるのは母的な存在の動きがあることだ。平成12年、6ヶ月に渡ってグループホーム第2を戦場と化した守男さん(仮名)の事例でも、守男さんは戦場から抜け出したとき、「お母さんの元に帰る」と語った。その母はどこにいるのかということは、現代的な課題ではないだろうか。「こっちゃこ」「こっさ入れ」といつも言ってくれたフクさんの母性、我々は現代にどういう母を持ちうるだろうか。

 今、グループホームでは詩子さん(仮名)が、女性の系譜をテーマに物語を紡いでくれている。入居当初、二人の思春期くらいの娘が男に襲われないようにと心配する日々が続いたことがあった。詩子さんは「雛の世界」「少女の世界」「秘密の王国」を守ろうと戦っているように感じる。連綿と継がれてきたそれらの世界が詩子さんの目の前で途切れようとしていることの杞憂と戦っているように思えてならない。入居から2年、やがて詩子さんのイメージは、『大陸(満州)から詩子さん自身が引率して連れて帰ってきた少女達(詩子さんの教え子)が、岩手山の麓で馬と駆けまわっている』という、大空へ羽ばたくような場面で物語に一区切りをつけた。馬と少女、そして岩手山は何を意味するのか。今、我々現代人にとっての「秘密の王国」はどこにあるのだろうか。

 昨年、グループホームで亡くなった稲蔵さん(仮名)は、治療費を惜しみガン治療をせずパチンコに打ち込んだほどの人だったのだが、最後まで人望に厚く、周囲の人に尊敬され頼られる存在だった。今時なら、女性からたちまち地に落とされかねない浪費をしながらも、男としての存在が揺らがずに在り続けられたのは、背後に彼を支える大きな母があったのではないかと想像する。
 特養の利用者タカさん(仮名)は、結婚はせず子供も持たなかったが、早くに亡くなった母親の代わりに多くの兄弟の母役をしたと言う。苦労して育てた弟たちは戦争でとられて亡くなるのだが、特養に来てから、戦死した弟たちは生き返り、今は一緒に生きている。編み物の作品を作り、教育者らしく若い人を育てようと、情熱のある言葉を投げかけてくれている。スタッフそれぞれにとっての母の「あるべきよう」をひとりひとりに問いかけているように思えてならない。

 歴史からみると、戦争で傷つき立ち上がったと思ったら、大きな地震や津波がやってきて、大地は揺らぎ母なる海に呑み込まれるという厳しい体験を余儀なくされているのが、今の私たち日本人かもしれない。沖縄では地震のことを「ははゆれ」と表現するところがあると聞く。揺れてはならないはずの大地が揺らぎ、母なる海が荒れ狂って呑み込み、さらに人間が母なる大地を放射能で汚し、その浄化は計り知れない困難の中にある。我々は母なるものへの信頼を失い、深い不安にさいなまれている時代にいるのかもしれない。不寛容社会と言われるような時代の奥には、母なるイメージを喪失した人々の深い不安がうごめいているのかもしれない。
 そうした時代にあって、特養やグループホームのあちこちで母をテーマに語りかけてくれる利用者がいるというこの事実に感嘆する。我々はこの時代を乗り越えるべく、より深い母なるもののイメージを内面に育てる必要があるように感じる。そのために利用者達は頑張って何かを伝えようとしてくれているように思えてならない。フクさんの存在には明らかにそうしたイメージがあった。母性性がひどく損なわれ、不安に満ちた時代なのかもしれないが、だからこそ、利用者が語り続けてくれている。認知症の高齢者にしか、こうした奥深いイメージをもたらすことはできないだろう。彼らには現実を超越する能力があって、それらがふんだんに湧き出ずる感じがある。問題はそれを周囲の者が理解できるかどうかにある。認知症高齢者がもたらすそうしたイメージを、どう受け取ってどう育てるか、それはあくまで現場の我々ひとりひとりにかかっている。それは今の時代にあってとても大事な仕事なのだと思えてならない。
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2016年09月21日

戦没画学生慰霊美術館『無言館』 ★ ワークステージ 佐々木 里奈【平成28年7月号】

 長野研修の数日前、フォトグラファーの友人が石巻から遊びに来た。雑談の中で彼女が突然切り出した。「あのさ、戦争と平和について、考えたことある?」何かと思えば、リュックサックの中から、なんとか軍歌マーチ、と書いてあるレコードを取り出した。盛岡のレコード店で買ってきたらしい。「最近やっと戦争について考えるタイミングが私にも来たんだ」としみじみ言う。彼女の考えとしては、「誰もが人生の中で、それぞれのタイミングで、戦争について考えるのが当たり前」ということらしい。ついに“その時”が自分にも来た、だからこのレコードを聴くんだ、と神妙に、嬉しそうに話していた。戦争について考えるためにレコードを聴く、というのも少し珍しい気もしたが、彼女は真剣だった。
 『無言館』の前に立った時、彼女の言ったことが思い出された。“その時”が、自分にも来た、と思った。

 「入口」の文字も、何も書かれていない扉は、開けるのに勇気が必要だった。中に入ると、傷みの激しい若い兵士の像がある。キャンバスの傷みで兵士の目の辺りはよく見えないのだが、真っ直ぐに刺さるような視線を感じる。その他にも、壁にはたくさんの絵が飾られ、遺品や家族に残した手紙、画学生らしい絵手紙もたくさん展示されていた。「いつ死ぬかわからないから…」そんな言葉が頻繁に書かれていた。進むごとに、足は重くなる。ひめゆりの塔や原爆ドームを歩いた時の、ズシリとした冷たいものが心を覆っていく、あの感じがした。
 別館である「傷ついた布のドーム」の暗い館内に入った瞬間、ゴォーという地鳴りのような音とひんやりとした空気に、身体がすくんだ。壁に展示された絵の下には、描いた学生の名前と略歴などの説明がある。 “21歳の時、レイテ島で戦死”。20歳、19歳…。その歳で家族と離れ、カタカナの名前も知らないどこかの土地で、死へ向かう気持ちはどんなだったのだろう。
 絵は、暗い現実を映したものもあれば、祖母や妹、恋人を描いたり、憧れの外国の風景を描いたりしたものもあった。「出征の直前まで筆を握っていた」「恋人を描き、『帰ってきたら続きを描く』そう言っていたが、この続きが描かれることはなかった」そんな説明もあった。
 彼らは、どれだけの夢を抱いていたのだろう。

 そんなつもりはなかったがやはり泣いていた。命を賭けられるほどの夢も目標も持てずに生きている自分が恥ずかしくなったし、多くの貴重な犠牲を払いながら未だに平和な時代を築けていないこと、むしろ現代が憎しみや争いを生む方向に進もうとしていることを申し訳なく思った。
 目前のタスクに追われ、ハウスでアブラムシに追われ、油断すればすぐに、木を見て森を見ず…という状況に陥りそうになる。しかし、いつも頭のどこかで、里がどうあるべきか、社会は、世界は、どうあれば幸せなのかを問い続けなければいけない。そして、現代に生きる一人の大人として、平和への責任を果たしたい。大したことはできないが、石巻の友人のようにレコードを聴くでも何でも、自分なりのやり方でよいのだと思う。精一杯学び、考え、行動していこうと決めた。

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2016年09月20日

どっこ、どっこ、どぉ〜ん 〜 90代のグル達に支えられて 〜 ★ 特別養護老人ホーム 中屋なつき【平成28年7月号】

【戦没画学生慰霊美術館−無言館】

 長野に研修で出かけることとなり、私は長年行きたいと思っていた無言館に今回どうしても寄りたかった。
街並みから少し外れて山道を登った静かな緑のなかに無言館はあった。教会の入口のように左右に扉がある。入って気づいたが、展示ホールが十字架の形になっている。ひんやりとした空気、まず目に飛び込んでくる絵画の数々、その妙に瑞々しい感じ・・・。
 この感覚は何だろう、と不思議になる。まだ勉強中の画学生の、たどたどしいタッチの作品群からは、初々しさと、創作に対するピュアな情熱が感じられる。柔らかいマチエルの絵が多く、モチーフは家族や故郷の風景など、身近で愛おしいものを描いたのだろうことが痛いほど伝わってくる。どの作品も、夢や希望を溢れんばかりに叫んでいる。
 それぞれの作品には、亡くなった経緯や家族のエピソードが書かれてあった。

『出征の前日、父親に「お国のために戦って参ります!」と告げた兄が、母と妹の前では「絵が描きたいよ」と涙した。〜レイテ島にて戦死、21歳』

『結婚したばかりの妻を初めて描いた。表通りから、出征を送る声援が聞こえてくるなか、自分も行かなければならないのに、その直前まで画室に閉じ籠もって、「この絵の具の最後の一本がなくなるまで描いていたい」と、しばらくその場を離れなかった。〜牡丹江にて戦死、27歳』

『兄の絵が大好きでした。兄が大学で絵を学ぶことができたのは、結局、半年のみでした。雑嚢袋の一番下に絵筆を一本だけ忍ばせていたそうです。〜ガダルカナル島にて戦病死、24歳』


 まだまだ、まだ・・・無念のストーリーが次々と、その数に圧倒される。
こんなに優しい筆遣いで絵を描く若者たちが、その手に銃を持ち、人殺しをしなければならなかった惨さが、作品を通して次々と私の心に突き刺さってくる。身体の帰って来なかった若者たちの、その家族に残されたのがこの絵なのだ。絵筆、パレット、スケッチブック、手紙などの遺品の数々からも、悔やんでも悔やみきれない悲痛な想いが聞こえてくるようだった。ある方の日記の一文に打たれた。
『いかなる事物が先を塞ごうとも、自分の信じる画業の道を強い心を持って進んでいく、それしかできない』

 込み上げてくる涙が止まらなくなった。覚悟して観に来たけれど甘かった、打ちのめされた。気持ちを落ち着かせようとみんなでひと休みする。無言館に併設の信濃デッサン館に立ち寄る。カフェでは館長の窪島誠一郎氏が隅の席で何かを読んでいたが、我々が入って行くと席を外し、庭へ出て行かれた。一瞬、ついさっきの涙や想いをお伝えしたい衝動に駆られたが、静かな後ろ姿を見ていると、氏のインタビューや詩から感じる熱い情熱とのギャップがあまりに大きく、声をかける気持ちが退いていった。風景を一望できるベンチに腰掛けているその背中から、出生した画学生や夭折した画家の生涯を追ってこられた窪島さんの想いはどんなだろうと想像する。「・・・で、じゃぁ、私には何ができるんだろう・・・」という疑問が湧いてくる。やりたいことをやっていい時代にいて、やりたいことがある幸せに気付いて、もう言い訳なんてしてられない。

【私には何ができるのかを問う】

学さん /(平成27年11月28日)
 事務所に学さん(仮名・95歳男性)がやってきたので、交流ホールでコーヒータイムにする。香りとおしゃべりを楽しみながら淹れる時間の贅沢なことを、粋な学さんはよくよくご存じだろう。この日も、かっこよく腕組みをして「あなたが淹れてくれるなんてねぇ」と微笑み、ドリップする私の手元を見つめていた。淹れたてのコーヒーを飲みながらカップを覗いて「いい色だなぁ」と言う。ふと、「あなたはどの職人?染めをやってるんだったか?」と私を見た。染め?なんの話だ? と思って次の言葉を待っていると、「この(コーヒーの)色で染めたから、これ(着ていたニット)はこんなにいい色なんだなぁ、な?」そこから展開する。「染め、織り、縫製・・・と、それぞれ職人がいるんだろ?」そう言えば、学さんはテーラーとして稼いだ経験のある方だったと思い当たり、ワクワクしてきた。「職人は何人くらいいるの?」えっとねぇ・・・とすぐには応えられずにいたら、「ここでは何か・・・みんなで何かを作っているところなんでしょ?」と来たではないか!
 このセリフに思わずワァッ!と嬉しくなる。「そうなの!何か作るってことを、いつもしていたい!作る人がいっぱいいたらいいなぁ!」ただの消費者なだけじゃなく、雇用労働者なだけじゃなく、みんなで何か作りたい、絶対になんとしてもクリエーターでありたい、クリエイティヴでなければやらない方がいい・・・とかなんとか夢中で語る私に“うん、うん”と頷く学さん。「あなたは染め屋、俺は縫い方、仕立て屋の仕事」と、学さんも作り手側にいてくれているのが嬉しい。しかも・・・、ちょうど廊下を通りかかった川戸道さんに「お、あなたは見かけっこがいいから営業だな?」と言って笑ったのには、「は?営業は見かけがいいからって、じゃ、私はなんだってや?ちょっとぉ!」ってツッコミ入れたけど、「んだって、あなたはつくる方でしょ?あはは〜♪」と笑って誤魔化す学さん・・・。それでも、私のことを“つくる人”“職人”と言ってくれたのは武者震いするほど嬉しい。にこやかに涼しげに「どんな色に染めるの?」と覚悟を迫るように突きつけてくるから恐ろしい。
 それぞれのカラーの物語を誰とどのように綴り、どんな肌触りの布を織り上げ、布と布をどう繋ぎ合わせて、寒さを凌ぐ暖かいモノを縫い上げていけるのか・・・(この頃ちょうど鴻池朋子の展覧会を観たこともあって、特にも“縫い繋げる=再生”ということにも思い巡って)、「学さん」というあったかい衣服に包み込まれたような時間だった。

健吾さん /(平成27年12月8日)
  健吾さん(仮名・98歳男性)が私を呼び止めて言った。「あなたは声っこがいいから詩吟やったらいい」健吾さんのなかでは私が詩吟をやることはすでに決定事項となっているような口調に、ちょっとたじろいでしまった。ちょうど、詩吟の師匠・健吾さんと弟子・千枝さんとの関係が見ていてなんとも嬉しく面白くなっていた頃だったが、まさか自分に声がかかるとは思ってもいなかった。「ただ声がデカイだけで・・・」とか「音痴だし・・・」とか曖昧に返事したのだったが、「大丈夫だ!その気になってやればできる!」などと励まされた。私のいないところでも「あの人はやるよぉー!」と熱のこもった感じで話していたそうで・・・。その翌日には吟符を持ってきてくれたり、その後も折に触れて何度かお誘いを受けたので、これは真剣にお断りしないと失礼だと思い、手紙を書くことにした(12月14日)。
 書いているうちにそれは、詩吟を断る文章だったはずが、本気になって創作活動をやっていこう、絵を描いて、表現をして生きていこうという意思表明、自分への決心を固めるような内容になっていった。
そして12月21日、朝、事務所に来た健吾さん。「毎日のように何度も読んだったよ、寝られねくなるっくれぇ読んだった。そのうちにねぇ、いろいろと考えて、私の中にも、なんというかねぇ・・・気持ちが湧いてきたんだねぇ、思い立ったことを伝えたくて、こうして事務所までやってきました」とにこやかに話し始めた健吾さんだったが、急に表情を変えて、「絵というひとつの宝を人生の道に選んで進んでいくということ。そのあまりにも一途な中屋さんは、まだまだ若いんだとつくづく思いました。90年を生きてきた私とは、世代の差、経験の差があまりにも違いすぎる」と切り出した。「あのねぇ・・・私自身の人生を振り返ると、本当に様々なことがあってねぇ・・・」(健吾さんの戦争体験のお話を伺ったこともあった)ここから少し口調が変わって、子供に言って聞かせるような感じになった。「ひとつの道を選ぼうにもいろんなことが起こって、そのひとつひとつを真剣になってやってきたんだ。だからね、たったひとつの宝をこれだ!と決めて取り組むのは大変立派だけれども、まだまだ若いこれからの人なんだから、いろんなことに挑戦してみるということも視野に入れてねぇ・・・。あまりにも経験不足で世間知らずなんだなぁ。まだ若いんだ、だからいろいろやってみて!」(私のこと、いくつだと思ってるのかわからないけど・・・)「悔いのない人生でしたよ、私のこの90年は! 中屋さんにも絵という宝を悔いのないようにやってもらいたいし、しかし、もっと様々に挑戦もしてほしい!」(中屋が詩吟をやるのもまだ諦めてない?!)「いやいや、すみません、もう先のない老人の言うことだと思って聞き流してください」
 じゃ、どうも・・・と帰ろうとするのでお引き留めする。銀河の里で詩吟の会を発足させスタッフを指導したり、自伝として歴史書としての“田瀬物語”を綴ったり、また、ご自宅から樹や石を運んで特養の中庭をつくったり・・・等々、これまで、健吾さんがやりたいことをやり抜く姿、何かを残そうとしている姿に“師”を感じていました、これからもよろしくお願いします、とお伝えした。はは!と笑って「今までもねぇ、中屋さんを見ていて、なんと強い信念を持って自分の成すべき仕事をまっすぐにやる人だ、と思ってきましたよ。これからも頑張ってください!」と言ってくださったが、そのセリフはそっくりそのまま健吾さんの姿だなぁと思った。春になったら、また中庭の草刈りを言いつけてくださいね、と約束した。
 私の未熟な決意表明を受けとめてくれた上で、それだけでは甘い!とさらなる挑戦を焚きつけてくれた健吾さん。そして健吾さん自身が「まだ現役だ」と感じた。やっぱり素敵な師匠だ。

タカさん /(平成28年1月7日)
  タカさん(仮名・94歳女性)は毎日のように編み物をしている。ナイトキャップや弟さんたちの靴下など、いずれも独創的な作品を編んできた。こだわりの配色にも独特の個性が光っている。そのある種、「異様な」作品群は、スタッフに贈られたり、ほどいて次なる作品へ生まれ変わったりしていたが、私たちスタッフもやがてその魅力に取り憑かれ?!て、タカさんの部屋に展示している物もある。
 入居当初は「みんなきちんとちゃんとしなさい」とお堅い現実派だった。結婚せず子供も持たない彼女は、長女として弟妹の母親代わりをして家を守ってきたという。教育者でもあり、多くの子供たちを育成してきた。ここへ来て、若い職員のしつけ(女として・母として・日本人として)をしてくれている。万里栄さんは「平塚らいてふ先生みたいだ」と敬って「師匠」と呼ぶほど。高田家の長を務めてきたタカさんが、リーダーとしてユニットのチームを束ねていく万里栄さんを励まし頑張ってくれている。
私にとってのタカさんは“ものつくり”としての師匠だ。「きちんとちゃんと」がだんだんに緩んできて、“らしさ”が出てくるのと同時くらいに、編み物作品のなかにも何かタカさんの気持ちみたいなものが現れてきたように感じる。その頃から、単なる編み物ばあちゃんではなく「この人、表現者だ」と背筋を正すような感覚になった。
 年の初め、神ノ福得神社(後述のフクさんの神社)の御守りを作りたいということになり、事務所仕事の合間をみつけて、私は裁縫を始めた。おしゃべりでもしながら作業できたらいいなと思い、ユニットのリビングで編み物をしているタカさんの隣におじゃまする。「何作ってるんだい?」「おばあちゃんの御守り」「あや、いいごと、喜ばれるんだ」お互いの作品の進み具合など話し語りしながら、いい感じで時間が過ぎていた。
 途中、刺繍の糸を変えるのにハサミがほしくなったが、席を立ち事務所まで取りに行くのが億劫で・・・タカさんのハサミを借りた(テーブルの上、目の前にあったので)。ちょっと迷ったのだけれど「タカさん、かーしーて」と言って糸を切った。チラリと横目で見ていたタカさん、「自分のはねぇのっか?」編み物の手がとまった。「おめさん、それでもものつくりだっか?」声色が変わった。しまった、と思ったときにはすでに遅し。「ものつくりたる者、それぞれ自分の道具を大事にしてるもんだ! 自分のを使えぇい! 道具を大事にできない人に、ろくな物など作れるかぁ!」リビング中に響く大怒号だった。その場は「ひゃースイマセンー!」とか言ってみたが、内心では本気の後悔だった。師匠の言う通りだ、物を作る資格さえないような気分になって、しばらく落ち込んだ。それでも“ものつくりたる者”からの、ものつくりたる姿勢を説いていただいた、本当に有難いお説教だった、と今は感謝でいっぱいだ。
 後日、「子供はなさねかったども、こうやって何かを作るってことが、子供の代わりにならねかえか、と考えてらった」と語ったタカさん。聞き取った万里栄さんが感激しながら伝えに来てくれた。これには泣けた、よくぞ言ってくださった。“ものつくり”として表現しながら生きていく決心を後押ししていただいたようで、大変ありがたかった。

フクさん /(平成28年1月11日)(仮名・92歳女性)

  前を通りかかる度に手招きで「こっちゃこぉ」と呼んでくれる。この日もいつものように全身で甘えたくなって「フクさぁ〜ん!」と近づくと、急に真顔で「おめ、そったに勝手だか?」と来た。うわぁ・・・と逃げ出したくなるのをこらえて、やっとやっと「んだって、そういうふうにしか生きれねぇし・・・」と少し愚痴っぽくなってしまったら、「考えねばねんだな」と軽く返された。ついに「あぁ〜」とフクさんの膝に崩れ落ちてしまったが、頭をまるごと抱えて、優しく強く「考えたほうがいい」「いっぺん行ってこねばねんだ」と、もしゃもしゃ撫でてくれた。
 暮れに誕生日を迎えたフクさんに、絵本をつくってプレゼントした。フクさんの絵本を描くのは、出会ってからずっと思い描いてきた夢だった。それが急に、去年の夏頃からインスピレーションがやってきて、描きたい気持ちがもりもり沸き上がってきた。全10巻くらいになりそうな構想のあるなか、誕生日に間に合わせたくて、まずは3冊、手作りの絵本が完成したのだった。その絵本をフクさんと一緒に読む至福のひととき。1冊目を読み終わったとき、「・・・まずまず、な・・・」とのお言葉。2冊目は「も少し・・・」で、3冊めのときは「まだまだ!」と、フクさんらしい厳しく鋭いひと言。 自分でもホントに始まったばかりの“まだこれから”な感触だったから、いつもの通りの外さないズバリの感想だと思った。(11月の入院中、お見舞いに行ったとき、「フクさんのこと、絵本に描こうと思ってらのだけど、いい?」って聞いたら「あん」とのお許し?をいただいていた。“まぁまずやってみろ”的な・・・)
 去年の大晦日の夜、年越しの時間、フクさんの部屋に次々に訪れるスタッフを見ていたら、「まるでフク詣でだな」と思った。このつぶやきを拾って千枝さんが「そうか、そうだ!」と万里栄さんに鳥居を描いてもらって、フクさんの部屋に“神ノ福得神社”が鎮座し、賽銭箱まで設置された。それに手を合わせ初詣しながら、私は“御守りを作りたい”と思った。「福が重なる神社」「福に会える神社」。中に入れるお札には、「いつもクリエイティヴでいられますように」「嬉しいも苦しいも、喜びも悲しみも、起こってくることをそのままに受け入れて進んでいけますように」と、よくもまぁ、ずいぶんと“勝手”なお願い事を書いていたのだった。
 フクさんは、6月の雨の日、煙となって空に昇り、無数の雨粒となって、地上のどっこにも降り注いだ。「どっこどっこ、どぉ〜ん」のフクさんは、遍く満ちる存在になって今までと同じように見守ってくれていると思う。私の身勝手なお願い事を忍ばせた御守りのひとつはフクさんに委ねたけれど、もうひとつはアトリエに飾ろうと思う。

【絵を描き考えながら生きていく】

 去年の夏、古い絵描き仲間のあいだで、「アトリエ兼作品収納庫がほしい!」という話が出た。何人かでアトリエを構えようと、夢のような話が出たのを機会に動き始め、秋頃から候補地を探していた。銀河の里から遠くない、景色が良くて静かなところ、できれば小屋なんかもあって・・・と贅沢なワガママが叶って良い物件に出会えたのが、ちょうど学さんから「あんたは職人、つくる人」と言われた頃だ。土地の売り主の方とお目にかかる頃には、健吾さんから詩吟へのお誘いを受けて絵をやっていく意思表明をすることになった。年開けて、理想だらけの図面を自分で描きながらウキウキしてる頃、タカ師匠から心得を説かれ、フクさんは、まるで「やりてぇことだけ勝手してやってくつもりなら、よくよく考えて生きていけよ」とでも言うように、叱ってくれるような励ましてくれるような、鋭いひと言をくれたのだ。

 この一連の流れ・・・(利用者さんたちはいつもグルだとしか思えないのだが・・・)アトリエ構想が動いていく時期と重なっていてやっぱり驚いてしまう。ものすごくワクワクしながらも一方では「こりゃもう死にたくなっても死ねないなぁ・・・」と半分はまだヒヤヒヤの逃げ腰でいたのだけれど、師の皆々様方が背中を押してくださり、時は満ちた!ってことだったんだろうと思う。
 いろいろと問題があり順調にとはいかなかったのだが、初詣のおみくじの「屋移り、差し支えなし」に励まされつつ、ハウスメーカーとの実際の打ち合わせも進めていった。その渦中で、何年も前からぜひ行きたいと願ってきた無言館に研修でたまたま行けることになったのも、流れのひとつだろうと感じる。研修の二日目、金澤翔子展を観て休憩中に、ハウスメーカー担当者からの電話があった。すべての問題が整理された、との内容! 戦没画学生たちの無念や戦場に散ったありあまる情熱を想って、また、翔子さんの書に清められた私自身のなかの何かを感じて、自身の決意を再確認していたところへの、なんとも絶妙なタイミングで、アトリエ建設GОの確定が出たのだった。

 8月には40歳になろうという今年。何かしようと思ったときに年齢をその判断基準にするってことはこれまでもあんまり頓着なかったけれど、いつまでもわーいわーい!ってだけ言ってもいられないんだろうか・・・とさすがに考えてしまう。でもきっと、これからもそんな調子でしか生きられないだろうなぁ。それでも、わーいわーい!だけじゃなく、よくよく考えながら、挑戦し、表現していこうと思う。アトリエ完成前に旅立ったフクさんも見守ってくれている。

【金澤翔子書展】

 金澤翔子展&席上揮毫(書のライブ)を見に行きたいという酒井さんの提案で、今回の長野研修を組んでもらっていた。以前から作品もライブの様子もテレビや本で見たことはあったのだが、本物はものすごい迫力なんだろうなぁと想像していた。が、実際はかなり違った印象だった。伸びやかで優しい! 墨の濃淡が澄んでいて、包み込まれるようで、心地良い潤いを与えてくれる。書の展示方法や表具の仕立て方にも興味が沸いたので、どこかで学びたいと思う。
「ダウン症という障がいに負けず書の道を歩んできた母と子の物語」となると一般にもわかりやすく受け入れられたのだろうことは理解できるし、持ち前の明るさや天真爛漫な人柄が人気を博している理由だろうこともわかる。・・・でも、それにしたって・・・「翔子ちゃーん!」じゃねぇだろ、アイドルか?! ご本人が登場する前の会場は、いい席を争って取り合いするような雰囲気で、ミーハーな世間の空気が充満していて具合が悪くなりそうだった。
ご本人は、とってもチャーミングでエンターテイナーで、パフォーマーとしても魅力があって、“誰かが喜んでくれることが私の幸せ”と言うのだから、本当に頭が下がるのだけれど、観客の姿勢には「これは考えなきゃないなぁ」と思わせられるものがあった。
(ワークステージでもダンスや創作活動が少しずつ展開してはいるけれど、その方向性や姿勢については、慎重に、充分に考えていく必要があるような気がする。利用者の創作活動やその作品の取り扱いについても、厳粛な気持ちで向き合う姿勢がなければならないと考える。酒井さんの発案で、里の現場からの創作活動を展開、発信していこうと立ち上がった feelingainの活動についても同じことが言えると思う)
 実際のライブが始まると、世間の空気にやられてモヤモヤした気持ちが吹き飛んで、目の前で繰り広げられる書に釘付けとなった。まるで神事みたいで、自然と姿勢を正す気持ちが湧いた。墨の香りに心が洗われるようで心地よかった。そこにいたのは障がい者でもなくアイドルでもない。書家の金澤翔子さんだった。その翔子さんに訊ねてみたい質問が思い浮かぶ。「書き始める前の精神統一のとき、書いているときのリアルタイムな内面、展示された自分の作品を眺めるとき、それぞれの気持ちや感じにどんな違いがあるか」とか。

【これから】

 無言館に集まった作品の作者達に対して、恥ずかしくない姿勢や品位を持って生きていく努力をしなければならないように感じる。簡単、手軽、便利で、なんでも自由で、やりたいことはなんでもやれる時代にあって、今とこれからを生きる私達がどういう姿勢であるべきか、彼らのことを忘れることなく、どこかで問い続けていかなければならないことではないだろうか。
 何かを生み出すこと、クリエイティヴであることに対する姿勢や、作品と向き合う心構えなど、銀河の里の現場での“在り様”にも通じてくることだと思う。軽いノリと品位の無い風潮に流されて見失ってはならないことがあるはずだ。無言館の作者達とほぼ同年代の利用者が、師として私にいろいろ示唆してくれたことも偶然ではないと感じる。そのことを私は忘れないで生きていこうと思う。
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2016年09月18日

今年の田んぼ ★ グループホーム 川戸道 美紗子【平成28年7月号】

 5月30日、銀河の里の田植えの日、毎年特養からもグループホームからもワークからも人が集まり、大勢で大騒ぎの田植えになる。そして毎年、とても不思議な意味深な物語がたくさん生まれる。

 今年も特別のことがあった。すばるのユキさん(仮名)がリビングで種を蒔いてくれた苗箱があった。その後も苗はハウスの中ですくすくと育ったのだった。ところが、私の不覚でそのユキさんの苗箱が、苗運びの段階で他の苗箱に紛れ行方不明になってしまった。角津田さんに「ユキさんの苗どこだっけ?」と聞かれた時にハッとしたのだが、後の祭りだった。せっかくユキさんが想いを込めて蒔いてくれたのに、ユキさんの昔の記憶もいっぱい入っていたはずなのに、そんな大切な苗のことが、どうしてすっぽり頭から抜けてしまったのだろう。必死になって探し、一枚一枚確認した末に、なんとかユキさんの苗箱は見つかったのだが、私は自分にガッカリしてすっかり落ち込んでしまった。

 おまけにグループホーム第2の俊男さん(仮名)も、手植え開始の予定時間に玄関に座り込んで「歩いて特養に行く!!」と言い張っている(俊男さんは毎朝特養に通うのが日課だ。あまのがわ通信148号「あいあいの記」参照)。前日、私は「明日は田植えだから特養はお休みだね〜」と軽く言っておいたのだが、通じなかったのか抜けてしまったのか、特養に行きたい気持ちの方が勝ったのか、どしんと玄関の地べたに座り込んでいる(いつもは車椅子に乗っているはずの人が…)。どうしようか、田植えに行くメンバーも俊男さんが気になって行くに行けない。私のせいで物事をこんがらせる事はよくあるけれど、今回も、私の伝え方が曖昧だったせいで…まさかこんな大事な時に…と思って、またガックリしてしまった。 

 そんなこんなで今年の手植えは(私自身にとっては)出だしからすっころんでいた。ひとりモヤモヤとした午前中、田植えに集中しようと思ってもなかなか心から味わえない感じだった。隣でせっせと苗を植える特養の利用者の裕行さん(仮名)の存在が、なんとか私の気持ちを田植えに引き留めてくれている感じだった。

 沈んだ気分で午後からの作業に入ったところで、「健吾さん(仮名)が川戸道さんと話したいって言ってます!」と、すばるの由実佳さんに声をかけられた。急いで駆けつけ、いつもの帽子をかぶって田を眺めていた健吾さんに声をかけると、「かわとみきさん!」と明るい笑顔で、ガシッと握手をしてくれた(健吾さんはなぜか川戸ミチではなく川戸ミキと呼んでいる)。そして、「田んぼに来れば、かわとみきさんに会えると思って!」と言ってくれた。私は健吾さんの側に座ってしばらく並んで田を眺めた。ワークステージのワーカーさんや厨房のスタッフがワイワイと苗を植えていた。そんな盛り上がりの中でも、私は午前中からのモヤモヤのせいでまだ気持ちは沈んでいた。そんなとき健吾さんに呼ばれて私は救われたような気持ちだった。健吾さんはゆっくりと語り出した。
「私は農家で生まれました。生まれた時から田んぼというものがあった。…ここの田んぼの事、かわとみきさんがやってるんだろうなあ、と毎日思っています。だから、私たちも田んぼの懐かしい景色を見る事ができるのです」
 この言葉が恐れ多くて、けれどもの凄くありがたく胸に刺さった。私はユキさんの蒔いた種すら頭から抜けてしまい、大切なものを大事にできないまま田植えに臨んでいたのに。段取りも悪く、各部署や今年の新人も巻き込む事もできず、「例年通りの作業」しかできなかったのかと反省し振り返る。田植えを無事に行いたいと思う気持ちはあったが、私が田んぼに関わらない方がいいのでは、とも考えていた矢先の健吾さんの言葉は、「あなたがしっかりつとめあげるのを信じています」と言っているようで、私はその言葉を聞きながら泣いてしまった。
 毎年、私は田植えや稲刈りの都度、健吾さんに経過報告をしていたのだが、「田んぼはひとりではできない。皆でやって下さい」とにっこりと笑顔で言われた事がある。誰とも繋がれず、それぞれ個人の作業になっていた様な時期もあった。今でも「銀河の里のみんなで」はとても難しいと痛感する。でも、銀河の里の田んぼだからこそ、皆でやりたいし、単なる作業として淡々と進めたい訳ではない(毎年、毎年、農作業は私たちそれぞれに課題をドンと見せてくる。繋がらなければできない事、どの現場でも大事にすべき事…)。
 思い切り落ち込んでいるその日のそのときに、久々に会った健吾さんに救われた。後で考えてみると、大事なものを見逃してしまう私なんて田んぼに関わらない方がいいんじゃないか、と思っていた自分は、たぶん逃げ出そうとしていたのかもしれない。難しい事をやらずに(考えずに)済ませようとしていたんじゃないかと思う。
 自分自身の弱さを感じた。けれど健吾さんの言葉通り、みんなと農業を通じてこの里で繋がっていきたいと思っているし、その事が何か実を結ぶのではないかとずっと心のどこかでワクワクしている。私にとっての農業は、先人達(具体的に特養やグループホームに居る利用者さん達)の生きてきた時代や思い出に想いを馳せるとき、汗を流すという事、しっかり地に足をつける事・・・いろんな意味があるような気がする。何色ものいろんな想いが繋がったり、広がったりしながら、銀河の里の農業や自分自身がどうなっていくのか、やり続けて見ていきたい。

 里の先輩達は田植えをはじめ農作業を「祭り」だと言う。私も銀河の里に来てから初めて田んぼに関わるようになったが、確かに「農作業」ではなく「里のお祭り」という感じはぴったりくる。私には、利用者さんにとっての“さなぶり”(人生のさなぶり?)の様にも思える。黙々と苗を植えて、稼ぐ姿を見せてくれる人。スタッフと並び美味しそうにこびる(おやつ)を味わう人。春の田んぼの景色や集まってきたたくさんの人々を、春風の中じっと見つめる人。青空の下、それぞれの印象深い良い顔が毎年記憶に残る。農家だった人もそうでない人も、銀河の田んぼに集合する。いろんな歌や声が聞こえる、なんと豊かで贅沢な時間と思う。
健吾さんは、「死ぬまで、この田んぼ見せていただきます!はっはっは!」と笑っていた。優しいのか厳しいのか、両方なのだが、なんと奥深いことか。今年こそは、草の無い、黄金の田を見せます!と私は約束した(今年の餅米はその名の通り『黄金(こがね)餅』という品種だ)。これは自分との約束であるとも思う。また秋に、この田で収穫の祭りが開かれる日のことを、稲の成長と共に待ちたい。
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2016年09月16日

自然生クラブ 〜元気なOrganismであるために〜 ★ ワークステージ 佐々木 里奈 【平成28年7月号】

 茨城県つくば市にあるNPO法人自然生(じねんじょ)クラブにおじゃましてきた。筑波山麓で知的ハンディキャップのある人と共同生活をしながら、自然農法で農業に取り組んでいる。やっていることは里と似ているが、何かが違う。本稿では今回の研修の見聞を共有しながら、自然生クラブが元気なOrganism(有機体)である理由を考えたい。

<農業>
 有機農業の田んぼ、畑、ハウスを運営している。田んぼでは紙マルチを用いて手植えし、農薬は一切使わないそうだ。雑草が生えることもある。極端に採れ高が上がらない年もそれはそれでしょうがない、と腹が決まっている。田植えの日は100人ほどが集まり、祭になる。稲刈りの時も同様で、田んぼを舞台に「創作田楽の舞」を利用者が中心になって踊る。その評判は口コミで広がり、海外での公演も行う。ヨーロッパの演劇祭にしばしば招待され、披露する機会もあるという。
 「うちの畑は“Farm”ではなく、“Garden”なんです。だから何でも植えていいんです」と施設長の柳瀬さんは言う。“庭”だから何でもあり、好きなものを植えている。グループホームの周りには梅やさくらんぼなど様々な果樹もある。休耕田も活用して、大豆、小豆、ひまわり等も栽培する。ひまわりについては無加温搾油機を使用しシードオイルを製油する。当初は燃料にする計画でスタートしたらしいが、一度採ってみたら採れる油の量はかなり少なく、また、食べてみてもおいしい、燃料にするなんてもったいない!ということで、現在は団体が運営するカフェで食用として使われている。

<カフェ>

 カフェの名前は「ソレイユ」。壁には利用者の制作したアート作品やカレンダー、ポストカード等のグッズが並ぶ。シアター&アトリエに併設されたそのオーガニックカフェでは、自然生クラブで生産された米、野菜、小麦、ひまわり油、雑穀等を使った料理が出される。お昼をいただいたが、食べきれないほどのボリュームがあった。「大丈夫です、残った分はみんなが食べますから」と、冗談ではなく柳瀬さんは言っていた。カフェはほとんどすべて自社農場の物、もしくはご近所からのもらい物を使っているそうだ。自社農場の野菜を市場で売ることはまずない。カフェで利用するか、利用者やスタッフのご飯になるか、おすそわけするか。「贈与経済なんですよ。お金なんかいらなくなるんです」と柳瀬さん。一応全国に野菜を出す仕組みも用意されている。「野菜家族」と呼ばれる会員制度だ。会費に応じて毎週または隔週で季節の野菜を配送する。一時期は震災、原発事故の影響で注文量が落ち込んだが、2年ほど経ってやっと回復してきたとのこと。野菜は放射能検査をクリアしたものを配送しているそうだ。
 立地もあってか、カフェにお客さんはあまり来ない。まさに知る人ぞ知るカフェ。ランチに行く前には予約が必要だ。ワーカーさんが「サラダでございます」と料理を出してくれる。料理を出す時以外は、ぼーっとしてどこかを見ているが、このワーカーさんもひとたび舞台に出れば、誰かが乗り移ったように舞う。

<アート>
 田植え・稲刈り時には田んぼが舞台になるが、普段は米倉庫を改装したシアターで太鼓と舞の時間がある。その前にはシアターに併設されたアトリエで絵を描く時間がある。アトリエにはたくさんの絵の具やクレヨンが用意されていて、それぞれ異なる大きさの紙に思い思いに描きつけている。クレヨンをつぶし、手で押し付けながら延ばして描いている人もいた。1m四方くらいのキャンバスが壁を埋めている。年に一回はこの大きさのキャンバスに描くことになっているという。どれも描きたいように描いている、というか、やりたいようにやっているというのが伝わってくる。
 大体の時間が決まっているのか、何かの合図があるのか、誰からともなくアトリエからシアターへ移動が始まる。座って演奏する小さめの和太鼓4台、大太鼓2台が運び込まれ、私たちは観客席へ座った。ひな壇と平場の席を合わせて50席ほどある。元は米倉庫だけあって天井の高さがあり、響きは充分だ。黒い壁紙と3pほどの高さのついた黒い床、本格的な舞台照明が雰囲気を演出する。数人が集まったところで「始めるよー」と声がかかり、小太鼓が打ち始まる。楽譜があるのか、ないのか、聴いているほうはわからない(後で聞いたことだが、一応型のようなものはあるがそれにアレンジを加えて即興で打っているとのこと)。ベースには神楽の響きがある。そのうち太鼓を腰に巻き付けた人が登場し、踊りながら打つ。自由に力強く舞う表情は生気が漲っている。自分たちの出番が終わると、そっと舞台を後にする。去り際も演出されているのか、彼らの場を読む力が素晴らしいのか、はたまた神楽を通じて何者かに導かれているのかわからないが、とにかくすごかった。大太鼓2台の打ち合いもすごい。会話をしているように聴こえた。お互いの音を感じながら、時には相手に合わせ引き立たせながら、自分のリズムを刻む。太鼓が落ち着き、舞が始まる。舞台が始まるまで寝そべって大きな声を出していた利用者も、舞台の動きに合わせて声を出している(ように聴こえる)。衣装を羽織って舞台の中央へと歩いていく姿は、照明の効果もあるだろうが、どこか神がかって見える。神楽と舞踏を合わせたような動きで、これも創作と聞いて驚いた。クラシックバレエを専門とする踊りの先生は、「私は一つも教えたことがない。むしろ教えようとするものなら、それは違うと言わんばかりの雰囲気がある。彼らは必ず中に才能の種のようなものを持っているので、私は彼らの中にあるものをどうすれば引き出し花開かせることができるのかということだけを考えてやっています」と話していた。先生はその日、ハイハイ歩きの自分の赤ちゃんと一緒に舞台に立ち、踊っていた。柳瀬さんが「退職金が出て、何を買うよりもまず一番初めに太鼓を買った。太鼓や舞、アートが本業だ」と言い切るだけあって、本当に見応えのある舞台を見させていただいた。
 春と秋にはそれぞれ3日間ほどの芸術祭を行う。カフェを開き、シアターではダンスや太鼓の公演やワークショップを行い、絵画の展示では渾身の作が並ぶ。憲法カフェなど知的なコンテンツも用意されていて、多様な人が参加するようだ。外の人もたくさん呼んで、自然生クラブが外へ開かれる良い機会となっている。

<元気なOrganism(有機体)>
 太鼓・舞の舞台を見て、施設長の柳瀬さんやスタッフの方からも話を聞いて感じたのは、自然生クラブは利用者も職員も生き生きとしている、生気があるということだ。舞の公演を観た海外の方が、自然生クラブをorganicだと評したことがあるらしいが、まさに言い得て妙だ。農法もオーガニックなのであるが、組織自体が生きている有機体なのだ。「自ずから然るべく生きる」という名前の通り、色々な場で、無理がなく適当に良いように回っているように見える。
 クラブの一つの哲学として、利用者も職員も「嫌だったらやらない」「疲れたらやめる」ということを大事にしているそうだ。シンプルなルールだが、これを意識していれば確かに大きな歪みが生じることはない。職員は2時間以上同じ仕事はしないことにしている。午前中、事務所で作業をしたら、午後は畑に出る。具体的にはそんな風にしながら、色々なことをどう楽しみに変えていくかということを常に考えているという。

 今回、“生きている組織”を見させていただいた。生きている組織である所以は、組織を構成するそれぞれが自分を表現できるというところにあるのではないか。自らを解放し、表現できているかどうかで、組織の“生死”が決まるのではないだろうか。自分を偽って閉じ込めて言いたいことも言えない、やりたいことができない、想いを伝えられない、そんな状態が続けば人も組織も死んでいく。生気ある組織には、多様性のある解放や表現に対する寛容さがある。最近は、よく知りもしない人を叩いて追い詰めるネットバッシングが横行したり、私的なヘマをしたら世間に対して謝れという雰囲気があったりして、不寛容社会だと言われている。もちろん、悪い人に悪いと言う事を批判しているのでもなく、私的なヘマを許せと言うわけでもないが、不完全な人間が集まってできている不完全な社会なのだから、いろんな人がいて、いろんなことが起こって別に良いじゃねぇかとも思う。解放や表現に対して寛容であること、誰かの表現を待つことは、人を支える仕事をするのに必要な器ではないかとも思う。里は生きているだろうか。世の中の組織に比べれば、だいぶ生きているのだと思う。さらに元気な有機体になっていくために、自分が生き生きと生き、側にいる人を生かしていくためにどうしたらよいか、つまりもっと楽しくやっていくためにはどうしたらよいか真剣に考えていこうと思う。
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2016年09月15日

つくば自然生クラブ、六本木就職フェア 〜業界の最先端とは〜 ★ 副施設長 戸來淳博 【平成28年7月号】

 つくばの自然生クラブの見学をして、数日後、六本木で行われた福祉人材戦力フォーラムとFUKUSHI就職フェアに参加した。どちらもとてもインパクトがあった。
 数ヶ月前、全国で先駆的な取り組みをしている福祉団体を30ほど集めて就職フェアを開催するという話を聞き及んだので、早速、参加申し込みをした。事前の情報では、毎回のフェアでは福祉業界に関心のある学生が300名ほど集まり、各ブース来場者も40〜50名を想定しているという。今まで参加した就職フェアやガイダンスでは、そこまでの集客力はなく、ことさら福祉に特化して行われるフェアとしては格段の集客力だ。さぞかし参加したい団体も多いだろうと思いながら必要書類を整え事前審査へ応募した。

 事前審査は通過し、主催側から取材のライターさんが来里し、なかなかいい感じの求人サイトも立ち上がった。そして、7月2日〜3日の二日間、六本木で行われた福祉人材戦略フォーラムとFUKUSHI就職フェアに参加した。
 初日はフォーラムとして、5つのセッションで講演会などが行われた。二日目は就職フェアということで、NPO法人や社会福祉法人など33の団体が参加し、東京都内の大学を中心に多くの学生と話す機会を得た。

 銀河の里は福祉施設としては珍しく高齢者と障害の部門を現場で融合し、有機的にそれぞれの部門が関わり合って運営している。法人17年目の経験や、個別のケースに関わる姿勢は特徴的で、農福連携や6次産業化といった取り組みなどは、業界のトップランナーとして進んでいると勝手ながら自負していた。しかしこの二日間で私のトップランナーとしての自負はある意味打ち砕かれた。

【若き起業家たちの先駆的な取り組み】
 NPO法人ubdobeは、医療福祉エンターテイメントを通じて「あらゆる人々の積極的社会参加の推進」を目指し、医療や福祉分野の社会課題を音楽やアートイベント通じて社会に訴える活動が報告された。ある活動では、クラブ会場を臓器アートで飾り、音楽やダンスを楽しむイベントを若者中心に開催し、そのライブ中に臓器移植についてのセミナーを開催したという。
 千葉県の社会福祉法人福祉楽団は、特養やデイなどの高齢者の支援事業をやっているのだが、熊本地震の震災時には、いち早く現地に職員を派遣すると共に、第二陣として日頃のネットワークを使い、福祉人材の応援部隊を被災地に送ったという。一法人が有効なネットワークを持っていて有事に適切に動けることに驚く。また、事業としては成り立たないものの、環境やエネルギー問題への取り組みとして山林の整備プロジェクトを行ったり、子供の貧困問題への取り組みとして寺子屋(学習支援)プロジェクトを行うなど、高齢者支援の枠を超えて可能性を模索していることにも感銘した。そして、ここのパンフレットはとてもセンスがよくてフォトブックのような冊子に仕上がっており、福祉業界臭さから一線を画していた。
 元々このフォーラムは、「きつい・汚い・給料が安い」と言われる3Kの福祉の社会的イメージを変えようというコンセプトから始まっている。だからこそ東京でも華々しいイメージのある六本木という場所を選んで会場設定し、全国でも先進的、斬新な活動をしている法人を集めて福祉の仕事の魅力をPRしようとしている。

 確かに参加したどの法人からも、この業界を超えたエネルギーと感じるし、社会課題に対しての問題意識も高い。事業展開も地域を巻き込んで戦略的に行われており、掲げるコンセプトもわかりやすく心惹かれるフレーズが並び、実践もかなり高度な問題意識に基づいて展開されている。一般企業の経営・事業戦略に負けず劣らずの力量で前に向かっている姿勢を感じた。全国には、力があってセンスもいい起業家たちが福祉業界にも大勢参画しつつあることを知った。
 全国から集まった法人の斬新な活動を見せつけられると、銀河の里がトップランナーと感じていた自分のふがいなさと共に、いかに時代遅れかと感じてしまった。全国ではすでに「福祉」×「○○」(何かを掛け合わせる)の可能性を模索し、新たな事業を展開し始めている。その一週間前には、つくばの自然生クラブを見学して驚き、次に六本木の福祉フェアで立て続けに他法人の活動を見聞きして、そのエネルギーと新しい感覚に打ち砕かれたのか、帰ってきてすっかり落ち込んでしまった。

【認知症、侮るなかれ 〜タカさんの凄み〜】
 さて、その出張から帰ってくると、あまのがわ通信の原稿の締め切りが迫っていた。丸一日の休日があったので、自然生クラブかフェアか、どちらかの報告を書こうと思っていた。原稿に向かわねばと思いながら体は動かず「やっぱり・・・書けない」とグルグルしていた。(風邪気味ってこともあって)布団から出るのが億劫で、一日寝て過ごす無駄な時間を過ごしてしまった。
 休日を明けて出勤し、普段のようにユニットの様子を見て回る。ほくとのリビングに入ると、タカさんと目が合った瞬間、「おぉ!! 久しぶり〜」と満面の笑顔で迎えてくれた。確かにこの一週間、外に出っぱなしで顔を合わせていなかったので、なんとなく(記憶というより)感覚的にわかっていたのかなと思っていると、「お前さん東京行って来たんだべ?」とタカさん。私が東京に行っていたなんて伝えてないのになんで知ってるの!?と驚く。しかも、「なんじょだった?報告しなさい!」と言うので、昨日まとめようとして諦めかけた原稿の事まで知ってるのか?!と返事に詰まっていると、「『ん〜・・・』じゃわからね。ちゃんと考えて」と笑っている。「外見よりも中身を磨かねば」、さらに「磨きなさい・・・一緒に磨いていくべし」というタカさんの言葉にどこか救われた。
 自分の中で完結させようとしていた私を捕まえて言葉をくれる。知らないはずなのに知っていてつながっていく不思議なこの感じにいつも支えられる。この人たちはすべて知っていて、世の中のすべての事につながっているのだろうと思わされてしまう。それもあって再び原稿を書こうという気持ちが湧いてきた。

【つくば自然生クラブのスタイルとこの先の銀河の里】
 銀河の里が開設して16年目を迎える。開設当初からこれといった理念も意識せず、自由にやってきた。理事長は「理念は掲げたとたん形骸化するからそんなものはいらない」などと言い切るし、「銀河の里は灯台を目指して進むのではなく、集まった一人一人が照らす道筋が里の進む道なんだ」と施設長はよく言う。私の言葉で言えば、農業を基盤に暮らしの場、共生の場を創ろうとしていたのだと思っている。スタッフも利用者も枠を超えて、里という場で出会い、関わり合うなかで人生のテーマを共有し、物語として綴ってきたのが、今の銀河の里であり、里のケースワークは事例だと思う。
 里の事業展開でも、明確なビジョンや戦略があったわけではなく、その時々に出会い(関係)の中でその都度生まれた課題に対峙する形で事業が広がってきたような感覚がある。GHとDSを開設し数年経つと、自然に、里で看取りをすることはできないかという気持ちが出てきた。ハード面や体制的に受け入れが難しい環境では、互いの関係が深まっているにもかかわらず、他の施設や病院へゆだねるしかない状況が悔しかった。そして法人開設9年目に特別養護老人ホームの開設に至る。今年から始まった「よりあい広場」などのカフェの運営も、利用者やその家族との間からそういった場の必要性が生まれてきたのだと思う。

 つくばの自然生クラブの活動は理想に非常に近いような気がした。代表の柳瀬さんは教員を退職し、筑波山の南麓で自然生クラブを立ち上げるのだが、退職金をもらうと即座に太鼓の購入に充てたという。田楽舞という創作芸能を軸に、農業、障がい者の支援の事業を展開してる。詳しい経緯はわからないが、支援者もつながってお互いに支え合い助け合っている感じが伝わってきた。それぞれの事業は、贈与サイクル(関係)でつながっていて、「なんとかなった」という事業は自然発生的に生まれてきたようで、とても自然だ。そしてそこで暮らす人々も、それを語る柳瀬さんもとても自然でかっこいい。

 この先10年の銀河の里には、ビジョンや戦略は必要で、我々はもっと力をつけていかなければならないとも思うのだが、無くしてはならないものもあるように思う。老いや死といった人間の普遍的なテーマへの探求やまなざし、銀河の里の現場で紡ぐ物語は、やはり今でもトップランナーなのだと思う。今後、臨床心理学や哲学、文化人類学、民俗学といった幅広い視野を持ちながら、豊かな物語を綴ってみたいと思う。簡単なことではないこの困難な道を、私を含め、里は進んでいけるのか、どういう形にして示すことができるのか、それは事業展開も含め、この先10年の課題なのだと思った。
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2016年09月14日

銀河の里の一コマ(Photo Gallery) ★ 【平成28年7月号】

餅米手植えの様子 〜高齢・障がい部門、それぞれで作業しました。〜
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“鍵のかかった重い扉”再び全人格をかけて分かりたいと思い続けたい ★ 特別養護老人ホーム 千枝悠久【平成28年7月号】

 先月27日〜7月1日まで、〈岩手県介護実践者研修〉というものに参加した。これは、“認知症高齢者の尊厳と自立支援のための実践的な知識と技術を修得し、自らの実践に反映することにより介護サービスの質の向上を図る”という目的が謳われているものだ。介護の専門学校を出て4年、銀河の里での毎日から学んできた私だが、認知症に焦点を当てた学びというのは少なく、学び直す良い機会だと思い、参加した。
 特に私が楽しみにしていたのは、『援助者の位置づけと人間関係論』という科目だった。普段、自分を援助者というようには位置づけておらず、その一方で、関わるためには何らかの位置づけは必要で・・・。わたしにとってのあなたってなんだろう、あなたにとってのわたしってなんだろう。考え続けていたことだったため、どんな講義・演習が行われるのかが気になっていた。

 研修は、ある程度は覚悟していたが、苦しい時間だった。どの科目も「今、こういう問題があるからこうしようとか、こうしてあげよう」という感じがして、“問題”が中心に話が進んでいく。例えば、『意思決定支援と権利擁護』という科目では、虐待の種類が紹介され、虐待の件数(報告件数)が増えてきたという話ばかりがされる。『援助関係を築く演習』という科目では、人を馬鹿にした会話例を見せられ、「どこがマズかったのか考えましょう!」と演習が始まる。どれも大事だということは分かる。だが、それらの話は、問題を解決することができたとしても、未来に繋がっていくという感じはしなかった。聞いていて苦しくなることが多く、誰かに話したいと思える話がほとんどなかった。
 楽しみにしていた『援助者の位置づけと人間関係論』も、資料がA4の1枚のみで愕然とした。それでも、“きっと資料では語りきれないことがたくさんあるのだろう”と、わずかな望みを持っていた。が、始まってみると、「特に新しいことをやるようなことではないですから」と棄てられた感じで、お題目のように「『援助を受けている者』『援助している者』という上下関係を超えて、『共に生きる』『共に支え合って生きている』という福祉の精神を基盤とした介護を・・・」という話がされ、援助関係の原則として、バイスティックの7原則が紹介された。

 その後、「普段関わりのなかで心掛けていること」を考えるグループワークを行った。そこで、世の中のいわゆる介護施設というやつの現実を知った。まさかとは思ったが、グループのメンバーの誰もが“いつでも笑顔で”を挙げるのである。何も知らない専門学校にいた頃の私なら、「笑顔を心掛けましょうね♪」「は〜い」なんて言ってたのかもしれないが、今だったらそれがいかに現実離れしたおかしなことだとわかる。
 どんな時でも笑顔でいたら、利用者から「ヘラヘラしてんじゃないよ、コバカタレ!」と言われるか、気味悪がられて無視されるのがおちだ。普通に自然体で関わっていくことが当たり前なのだが、いつでも笑顔でいられるくらいにしか関わっていないのだろう。それは利用者をとても馬鹿にしているように感じる。「心掛けていることは7原則のどれかに当てはまっているはずであり、当てはまっていない人は当てはまるように心掛けましょう」という話があった。私が心掛けていることは、ほとんどがはみ出していた。
 それぞれの人と人との関係に原則なんて当てはまるわけがない!“共に生きる”なんて簡単に言っておいて、結局は“援助関係”という関係のなかに押し込めようとしてるじゃないか!笑ってろ、いつまでもそうやってヘラヘラ笑ってればいいさ! 研修の講義を受けながら、ぐるぐると暗い感情が渦を巻いてきて苦しくなる。
 6年前、認知症の指導的グループホームで初めて実習をしたとき感じた、施設職員とそこで暮らす人との間の断絶(その時は両者の間に“鍵のかかった重い扉”を想起させられた)を、ここでまた少し違ったかたちで感じるはめになった。

 苦しくなるばかりの研修のなかで、ひとつだけ救いのあった時間があった。それは、認知症の母の介護と看取りを経験した方の話を聞いた時だった。直前の講義では、施設で行われた家族介護者交流会で、家族の話を聞いた職員が「分かります」と言い、「簡単に分かるわけない!!」と怒られたという例を上げ、“簡単に「分かります」と言うべきではない”というような話がされていた。たしかに、他者の苦しみや辛さに至ることは人にはできないのかもしれない。だからと言って技術的に“簡単に言うべきではない” と諦めてかかるのも仕事の姿勢としてどうなのか・・・。そんなもやもやしたものを抱えながら話を聞いていた。
 その方が母親の介護をした時には、サービスもあまりなく、在宅での介護がほとんどだったという。大変だったことや、辛くなることもたくさんあっただろうと思う。けれども、話には暗さや重さはなく、むしろあたたかな光にあふれていた。一緒にくたくたになるまで家の周りを歩き、家に戻ってから自分の膝の上で眠る母を愛おしく思ったという話。毎日のように「助けて〜」と窓から叫んでいる母が、本当に助けを求めているように感じられた日、「助けてって、叫んでもいいっか?」と聞かれて一緒に窓から叫んだという話。もちろん立場が違うので簡単に「分かる」とは言えないのかもしれないが、その話を聞きながら私のこころに思い出されたのは、里での毎日のなかで、一緒に歩いた人のこと、一緒に叫んだ人のことだった。そのお話を聞きながら、滲んでぼやけそうになっていた日々の記憶が、再びきらめきを取り戻していくように感じられた。

 心が揺さぶられ、落ち着かなかった私は、その日の帰りに映画を観に行った。そのなかで主人公が「娘がいなくなった親の気持ちもわからないのか!?」と叫ぶシーンがあった。作り物の設定、用意されたセリフなのだが、その時の私はそれを観て涙が止まらなくなった。他者の悲しみに至ることはできないのかもしれない。けれど、いや、だからこそ、悲しみの物語は語り継がれ、演じ続けられているのだろう。至ることができないというのも人なのかもしれないが、想像力を持って話を聞いただけでも同じような経験として共有することができるのもまた、人というものだと思う。
 それぞれの人にはそれぞれの物語がある。すばるでも、健吾さんには生まれ故郷をめぐる物語があり、ユキさんには旦那さんとの物語がある。私は今まで、それらの物語を、“至ることができない”と、どこか避けてきたことに気がついた。6年前の実習で感じた“鍵の掛かった重い扉”。その鍵が、想像力に溢れた神話のなかにあると、その時思ったはずの私だったが、私自身のなかにも重い扉があった。そのことに気づくことができたのは、今回の研修の成果だったかもしれない。
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院生レポート@★ 施設長 宮澤 京子【平成28年7月号】

 この春から立教大の大学院(21世紀社会デザイン科)に通学している。毎週金曜日の午後から新幹線で大宮まで行き、そこから湘南新宿線に乗り換え池袋に行く。夜6時半から2コマ授業を受け、授業が終わるのは22時近い。その日はビジネスホテルに泊まり、翌日、朝9時から5コマの授業を受ける。ゼミがある日は新花巻までの最終新幹線に乗れないので、仙台まで帰ってそこでもう一泊することになる。このような目まぐるしい週末ではあるが、日々の業務をこなしながら結構エンジョイしている。家に帰ると日曜日の午後は、利用者を交えて麻雀をやり、その後夕方には我が家の周辺の田畑の草刈りで汗を流す。それからが忙しい・・・授業の科目によっては毎週レポートやコメントをメールで送信しなければならない。「あぁ、学生やってるなぁ」と思いながら机に向かう。7月に春学期が終了すると、受講科目の終了試験が迫る。それぞれの科目の単位認定のためのレポートをまとめなければならない。本題の修士論文の構想を練ったり、悩んだりしつつ、その間、容赦なくレポートの期日が迫る。それが片づくと春学期は終わり夏休みになる。慌ただしくて濃密だが、あっという間に季節は移り変わっていく。

以下の文章は、「社会デザイン学の可能性」という科目に提出しようと思っている内容なのだが、銀河の里のことなので、あまのがわ通信を読んでくださる関係者の皆さんから意見や感想をいただけるとありがたい。レポートの課題は、教授陣のリレー講義を踏まえ「自分の論文テーマと社会デザイン学の可能性について考察する」というものだ。

【なぜ21世紀社会デザイン科なのか】
 私の研究テーマは確かにあるのだが、まだ具体的には定まっていない。「銀河の里」は開設して16年目を向かえていて、その間、とてもありがたい出会いや極めて貴重な体験をしてきたという実感がある。銀河の里という得体も知れない生命体の中で、今もまさにその渦中にあって揺らぎ翻弄されながら凄いことが起こっているということは間違いない。一体そこで何が起こっているのか、何がそうさせているのか、それを発見し発信したい・・・というのが21世紀社会デザイン科で学び修論を書こうと思った動機である。今のところ明確なテーマありきでないからこそ、各講義が新鮮で面白い・・・。せめて、一年の春学期くらいまでは、このスタンスでいたい。

【可視化できること ― 事業内容 】
 私の場合は銀河の里という現場があるので、フィールドの真っ只中にいるというのは大きい。確かに15年の歴史は様々なことを可視化させてくれている。例えば制度福祉という枠の中で、高齢者部門では相談機関としての居宅介護支援事業者から在宅サービスの要となるデイサービス、認知症の共同生活の場としてのグループホーム、終の棲家としての特別養護老人ホームというように、介護の相談から終の棲家までを事業の中で網羅している。また障がい者部門では、通所の就労支援事業所(40名定員)や共同生活の場所としてのグループホーム(16室)を持っている。6次産業化のさきがけでもある農業と福祉の連携により、稲作やリンゴ栽培という第一次産業から、それらの作物を加工した第二次産業、そして商品を販売するという第三次産業までを手掛け、市場や消費者とつながっている。まさに地場産業である農業を中心とした多角的な経営が活きている。
「銀河の里」では、高齢者や障がい者の縦割りの制度を現場で融合し、有機的に連携させマイナス部門をカバーし、運営を安定させていることも特徴だ。振り返ってみれば「銀河の里」は、必要と思う事業を次々に展開してきた。さらに、これからは地域医療を視野に入れ、在宅で死を看取れる場所を作っていくことや、防災の視点から都市との交流や諸外国との交流も視野に入れている。近い将来、どういう形で実現していくのか計画や構想ではなく、生命体として育っていくことを期待している。組織が硬直化せず柔軟に対応できる特性を維持できるならば、いい形で実現していくに違いない。そうしたことを社会デザインとして分析していけば、それなりに意義のある論文になるかもしれない。経済成長期にある成功モデルとしてではなく、これからの定常型社会における新たなモデルとして提言できるならうれしい。

【可視化できないこと ― 関係性】
 でも私の本当に伝えたいことは、「銀河の里」で起っている可視化できないことについてであり、可視化させることで、それが形骸化したり方法論に置き換えられる危険性を含んだものだ。だから慎重になってしまう。例えばそれは「自然との関係」であったり、「人と人との深い出会い」だったり、「死者や魂といった異界とのつながりや中間領域」のことだったりする。つまりこの関係性こそが「銀河の里」の宝であり、ここで暮らす一人ひとりのエネルギーの源であり、組織が停滞せず柔軟でいられる重要なカギになっていると感じる。特にも認知症高齢者との出会いが「銀河の里」のあるべき方向性を決定づけてくれたと思う。銀河の里がクリエイティブでいられるのは、認知症の方たちの深い世界と出会っているからなのだ。
 団塊の世代の人が後期高齢期を迎える2025年には、日本における認知症の人数は700万人とも800万人とも言われ、長寿国のトップランナーとして、先進国からも大いに注目を浴びている。しかし、残念ながら認知症問題として取りざたされながら、結局は社会問題や財政問題として終始してしまい、認知症の魅力や威力、価値は未だ発見されていない。そればかりか、現実には周辺症状を抑えるために薬漬けにされたり、暴力や虐待が頻発し時には殺されるといった悲惨な事件も続発している。だからこそ、銀河の里で発見してきた「現代の長老」「現代のシャーマン」としての認知症高齢者の価値を伝えなければならないというミッションを強く感じる。

【発信すべく形あるものとは?】
 それらを発信しうる「形あるもの」にするとしたら、銀河の里の「ドキュメンタリー」や「物語」そして「アート」として表現するのがふさわしいと思われる。しかし、私はドキュメンタリー作家でもなく、小説家でもなく、芸術家でもない・・・そうなると、手も足も出せなくなってしまう。私にできることは何なのかを考えたとき、フィールドワークとしての参与観察を中心に、15年の歴史を踏まえ、まず大切と思うエピソードやそこでの関係性を日誌や事例検討会等の記録から拾い集め、スタッフや関係者によるインタビューして検証を重ね、丁寧に記録し直すという根気のいる地道な作業から始めるしかないと腹をくくった。
 幸いにも21世紀社会デザイン学科では、様々な分野で研究や実践をされてきた先生方の講義を伺うことができ、丁寧な論文指導を受けることで、試行錯誤しながらも論文を完成させられるのではないかという希望を持つことができた。リレー講義では、先生方の持つ壮大な社会デザインの構想を90分に凝縮して紹介していただき、個性も相まって大変面白い・・・しかしそれを聞く私は、ところどころ理解不能であったり、反撥があったり、混乱しながら、勝手な理解でそれらを再構成して楽しんでいる。聞くだけの一方向が、対話として双方向になった時、より面白い事が起こってくるのではないかと・・・期待もしている。印象に残っているのは、

■人がより良く生きるために「アート」がある / つまりアートは祈り?
■哲学は答えを出すためではなく、問いに結びつく / とするなら、人生は謎解きのサイクルか?
■システムとしての社会・ストーリーとしての社会  / 村上春樹の「システムと卵」の話を思い出す
■組織の呪縛から脱してこそ、想定外に対処できる / 防災は柔軟でタフな人間が求められる!

【支離滅裂な、まとめ】
 ローカルという言葉もグローバルという言葉も、社会デザインの分析としては使えるが、現代はそのどちらも概念を変容させ融合させていかなければ、環境破壊やテロ等の地球規模の課題解決は難しい。また、人生のほとんどが理不尽なわけで、自己の意思で選択できることはほとんどないと言っていい。例えば家族も地域も国もそして時代や文化も、生・病・死という根源的な事は尚更個人の意思とは遠く離れたところで決まっている・・・ならば、そこでどう生き、次世代にどう継ぐのか?
 再び最初の問いに戻るが、果たして論文を書くことで「銀河の里」の精度を少しばかりでも上げることが出来るのか・・・と。もし、出来るとしたら、時代や社会から託される役割がもう少し広がり、もう一段深い謎かけの事例に出会うことになる・・・それが世界平和の一端を担うものになることを強く願う。面白くなりそうな予感と同時に、私の無力感とのせめぎ合いの中に立っている。
posted by あまのがわ通信 at 15:48| Comment(0) | 施設長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

銀河の里の一コマ(Photo Gallery) ★ 【平成28年7月号】

高齢・障がい部門の一コマ。
梅の収穫やチャグチャグ馬っこ見学、アフリカンダンスの活動風景など。

(*夏のギフトセットと龍太狼CD発売&インストアライブの案内。)

一コマ(通信7月号).jpg

裏面(通信7月号).jpg
posted by あまのがわ通信 at 15:34| Comment(0) | Photo Gallery | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする