2016年06月23日

言葉にすると違う ★ 特養オリオン 川戸道 美紗子 【平成28年3月号】


 最近、人に話をすることが難しいと感じることがある。人の顔色を伺い、失言の無い様、相手を傷つけない様に慎重に言葉を選ぶ…そんな気を遣って会話している。そうしている自分に、それってどうなんだ?と思ってしまう。銀河の里に就職してから「ちゃんと説明して」と先輩によく言われた。周りから見ると、私はかなりのふしぎちゃんで天然らしく、かなり不可解な存在らしい。ちゃんとって何だ?と思いながらも…主語、述語、話すタイミング、必要な言葉、不必要な言葉…そんな事を意識してしまうと、ますます何を言いたいのか分からなくなり、本当に大切な事は何も言えていない様な気がしてきた(私は本当に人の目を気にする人間なんだと思う。どうしたら繋がれるのか・どうしたらOKと言ってもらえるのか…そんな気持ちが底にあるのかもしれない)。

 そんな自分を見つめていると、銀河の里で出会った利用者の人たちを思い出す。いろんな感動をくれて、今は鬼籍に入り遠いところに行ってしまった五七さん(仮名)や雪子さん(仮名)の存在を思い出す。
 ああ、五七さんや雪子さんのそばにいた私は、気も遣わず、怖い気持ちを全く持つこともなく居られたなあ。五七さんはいつも歩いてるおじいちゃんだった。五七さんの語るイメージは、馬仕事だったり炭焼きだったり山の中だったり様々だった。そんな五七さんと手をつないで一緒に歩いたり、疲れて腰掛けたりしているとき、何か話さなきゃとか、ちゃんと説明しなきゃなどといった、縛られているような窮屈な嫌な感じは全く無かった(自然に五七さんの世界に引き込んでくれたんだと思う)。一緒に居るだけで充分だった。
 五七さんは、たまにイライラしたり、怒鳴ったりすることもあったが、それでも窮屈でも嫌でもなく、まして恐くなんか全くなかった。日当たりのいい場所に座って、「暖かいね」とか「お腹すいたね」と言うくらいしかないのだが、安心感があって、気持ちが楽になる時間を過ごせた。人の目を気にするような、そんな心のもやもやは全く無かった。話さなきゃとか、話せるふりをしなきゃと追い込まれて、ペラペラとどうでもいいような話をしている自分よりもずっと自分らしく居られたよなって思う。

 昨年の12月、立教大学の先生方が銀河の里に来られた際のグループワークに参加した。スタッフそれぞれにとって銀河の里はどういうところなのかという質問に対して、開設当時からの職員である美貴子さんが「里は、自分のままでいていいところだと思う」と言ったのが心に残った。そのときは「自分のまま」とは何だ?と良くは解らなかったが、利用者さんとただそばに居る時…五七さんや雪子さんといる時の自分はそうだったかなと思い至った。自分が開放されて安心できている様な…そんな感じ。
 雪子さんが亡くなられる頃、私はオリオンの勤務なのに、隣のユニットことの雪子さんの部屋をひたすら訪ねた。雪子さんと御家族の絵を描いて、アルバムを作りたかったし、雪子さんとコーヒーを飲んだりしたかった。そのころ雪子さんと一緒に過ごしたいばかりに、自分の健康診断の日程すら飛んでしまって、すっぽかしてしまったりもした。眠って、起きて、雪子さんのところへ行き、また一日が終わる…そんな感じだった。亡くなられたとき、火葬と葬儀にも参列させてもらい、最後まで雪子さんと過ごさせてもらった。

 思い出すと不思議な感覚になるほど、すごい濃さで人生を全うした雪子さん、その姿に心震えることや学ぶことがたくさんある。心動くまま、思うまま過ごしていた雪子さんとの時間は、まさに「自分のままで」いた時間ではなかったかと思う。その時間は私の胸に強烈に響き、大事な何かを残してくれている。こうした体験の感覚はうまくは言えないし、伝えにくいのだが、自分のためでも雪子さんのためでもなく、両者が融け合ってどっちでもなくなり、ひとつになってしまったような感覚だった。その体験は私にとってものすごく大事なことだったと感じる。
 ただ、これは、無責任でわがまま放題と表裏一体なんだとも思う。したいこと、やりたいことだけをして、自分だけ感動を味わう。その繰り返しだけでは大人とは言えないのかもしれない。わがままにならないためには、自分がそのとき感じたこと響いたことを受け止め、このことが何なのか、それが言葉としても行動としてもどう具現化できるのかを考え続けなきゃいけないのだと思う。無かったことにしてはいけないのだと思う。心の動くその先にあるものに触れることは、思った以上に覚悟が必要だと痛感する。正直…足がすくむ思いにさえなる。だけど、雪子さんに出会い、共に過ごしたからには、私はその先を生きていかないとダメだと強く思う。
 その事を私は焦って言葉にしようともしたけど、薄っぺらな言葉にしかならなかった。思っているものは、なかなか言葉にしがたい。人に伝えるって、難しい。自分の言葉が嘘になってしまうような気もして、恐怖が付きまとう。黙っていた方が嘘はつかなくてもいい(自分も傷つかない)とも思うけれど…だけど・・・。伝えなくてはならない、語り合わなきゃいけない。いや、言葉じゃないのかもしれない…ただ、あの雪子さんとの尊い時間(力)と共に私はどう生きていくのか、それが問われている様な気がする。

 ありのままの自分で過ごすというのは、ただラクして楽しく過ごすということではない。飾らないで硬くならないで、ありのままの自分で居られると、大事なものが見える瞬間がたくさんあるように思う。利用者さんに支えてもらえる場面がいっぱいある。そうした感激・衝撃の先に大事なものがたくさんあり、その先に見たこともない世界が広がっている。そこに自分は、何を見つけ、何ができるのか。私はまだ何も分からないのだが、ただ雪子さんや五七さんといた時間を自分にとって確かなものにしたいと思う。
 私が感じる「人と話をするのが難しい」というのは、自分の思いをそのまま誰かに伝える事の出来ない息苦しさみたいなものなのかもしれない。言葉にする事の難しさを感じながら、言葉にする事の揺れや迷いはあるけど、それよりも大事なものがあるのだと利用者さんに言われているような気がする。五七さんや雪子さんと居られた貴重な時間を私の支えにして覚悟を決めていきたいと思う。
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介護と人間らしさ ★ 特養オリオン ユニットリーダー 杉澤 貴行 【平成28年3月号】

 私は専門学校を卒業して、介護の現場に入り、この仕事ひと筋で9年になる。今更ながら、最近は「介護とは・生きるとはなんなのだ」と考えさせられる。世間では、介護関係の話題がよく出てくるが、あまりいい話は聞かない。介護ロボットや虐待防止の為に第三者の目が必要だとか様々と出ているが、基本的には、大変だ、ひどい状況だということから、追い詰められてしまっている状況があからさまになっている。介護とはそんな薄っぺらなものなのか?と思う。

 たしかに、介護ロボットを上手く使うことが出来たら、利用者やスタッフの心理的・身体的な苦労の要素が楽になるのかもしれない。だが、そこには、完全に介護する側とされる側に分けてしまって隔たりが埋まらなくなっていくばかりのように感じる。介護の現場は、基本的には人と人との場だと信じたい。利用者にとっては、施設は生活の場であり、もしかしたらそこは地域でもあるし、ときにはその人の世界であるのかもしれない。私はどうだろう。生活の場がロボットのような機械的な人間関係や、薄っぺらな関係しかないとしたら、こんなつまらないことはない。でもそのつまらなさに付き合い、次第に慣れてしまい、最後は自分もロボットのようにその環境に適応してしまうのだろう。恐ろしい話だと思う。
私は利用者の話しのひとつひとつにそこにある考えや、その先にある想いや、更に先にある意味を汲み取りたいと願う。そして自分自身の存在もかけてそこに居たいと思う。

 世の中は便利になり、快適になった反面、人との関わりが少なくなっている。人と関わらないでいいことはとても楽で快適だ。いちばん面倒な他人と関わることをやらなくてやっていける。ほとんど何も考えなくても生きていける。私はそんな世の中に生きている若造(ちなみに私は30歳…)なのだが、なぜか利用者と同じ屋根の下に居る。利用者から見たら、若けえガキで利用者の半分も生きていない奴だ。そんな私からすれば大先輩である利用者が、今まで生きてきた全てを賭けて死に向かっているのだからそれは凄いことだ。死を考えるからこそ生を考え生きられる。そんな先輩方と共にいると「介護は・生きるとは」を考えることでしかないと思う。
 決して良い人を演じきれる現場ではない。時には、痛いところを突かれ、怒りや悲しみなど様々な感情を引き出される。ただその感情をむやみに押さえこもうとするのではなく、見つめたりなだめたりしながら自分のその感情も丁寧に扱ってやりたい。人間の個と個がぶつかってこそが、人と向き合うということだ。ややこしいがそれが、人と人との関わりということだろう。

 戦前・戦中・戦後と生きてきた人、それが高齢者施設の今の利用者だ。私の想像を超える日々を送って生きてきた人達。戦後日本をここまで建て直す基盤を作ったのは、まぎれもなく今私の目の前にいる利用者だ。安堵や後悔や憎しみ等、様々な想いが渦巻いていただろうが、未来の子供達の為にという気持ちもあるに違いない。「お前それで歩いているのか?」と言葉をぶつけられたことがある。その時は、何を言っている?歩いているに決まっていると思った。だが、家庭・子供を持った今を思えば、そのときの自分は全く歩いてなんかいなかったと気がつく。

「日本を次の世代に託す」どこかで政治家が言っているようなリアリティのない言葉ではない。目の前に居るその人が生きてきた人生と間近に迫っているであろう死に向き合いながら私に語る。「これからの日本をお前達が」と。

 様々な人のそれぞれの想いが渦巻いている現場。十人十色、同じ人、同じ人生はない。その中で若造は学び、学びながらやってみる。遅々として進まない私の成長を利用者は鼻で笑い、まだまだだと笑っている。こんな繰り返しのなかで、いつか自分に一本の芯が出来れば、人生の大先輩は何かしら褒めてもくれるのかもしれない。  現場に立つと今日もまた人と人との関わりが始まる。利用者もスタッフも人が人として、人間として生きていける場であるよう努めたいと思う。そして、今の考えに拘泥して留まるのではなく、広い視野で常に学び考えて、今の考えを覆しつつ、新たな世界を開いていきたい。利用者の存在は私を人間らしくしてくれる。面倒くさくやっかいで訳のわからない人間として出会って生きていきたい。         

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想いと気持ちのいただきますとごちそうさま ★ 特養こと ユニット栄養士  照井 春佳 【平成28年3月号】


 雪子さん(仮名)は、H24年の6月末に、ユニットことに入居された。入居前から入退院を繰り返し、入居後も食べ物を受け付けない時期も続いた。翌年の春には、ドクターから「ターミナル」に入った」とご家族にお話があった。スタッフとしても覚悟はしながら、それでもなんとか食べてほしいという思いから、銀河の里自家製の甘酒をベースにいろいろなアレンジをして厨房から出してもらっていた。ユニットでも、食べやすいように雪子さんの好きなおにぎりを小さく握って、味付けのバリエーションを豊富に、見た目にもこだわって作ったりしていた。

 義理の息子さんの英郎さん(仮名)も誠心誠意、雪子さんに寄り添っておられて、私たち職員も二人三脚のように同志と感じる仲になっていた。雪子さんのひとり娘さんが亡くなられてから、婿である英郎さんは、家族と一緒に雪子さんを支えられてきた方である。銀河の里に来里される度に、「おばあちゃん、おばあちゃんに食べて欲しくて今日はこれを持ってきたよ」と、いつもたくさんの差し入れを持ってきて下さった。かつては料理を全くしなかった英郎さんが、おばあちゃんに食べて欲しいという思いから、梅干しや白菜、らっきょうなど手作りの漬け物を作るようになったということだった。英郎さん手作りの漬け物を雪子さんは不思議ととてもいい表情で食べてくれるのだった。
 そうした日々が続いた後、私たちの思いが届いたかのように、雪子さんは次第に食べられるようになっていった。ときには一回の食事におにぎりを6個食べた時もあり、みんなを驚かせた。時折、目の前にある料理にうわぁ〜っと手が伸び、わしづかみで(表現としてはあまりよくないかもしれないが)食らいつく勢いのある雪子さんの姿が、私はたまらなく好きだった。

 こうして蘇った雪子さんは、ターミナルと宣言されてから、最後の花見だねとか、最後の花火だねとか言いながら続けて3回、3年も花見も花火も参加したのだった。さらにその間、温泉に一族を集めて一泊するという大イベントもこなした。
 しかし、H27年に入ったあたりから、しだいに食事量が減り、眠って過ごす時間が長くなっていった。雪子さんが食べられる時に…雪子さんのペースに合わせて、栄養のあるものを…、好きな食べ物を…と、とりあえず何か口にしてほしい、食べてほしいと、気持ちが焦る感じだった。

 7月に入った頃には、食べ物をすすめても受けつけないことが多く、口元に持っていっても首をふいっと横に振り「食べたくない」という感じで断られることがほとんどになった。このままでは体力が…と、現実的に雪子さんの体力低下が心配になっていた。そんなある日の夕食、おにぎり、おかず、フルーツ、英郎さんからのチョコレート等をワンプレートにして雪子さんの目の前に出してみた。そのプレートを見た雪子さんは、ふわぁ〜っと柔らかい笑顔になり、私の手をぎゅーっと握ってくれた。その瞬間、食べて欲しい、少しでも口にして欲しいという、“食べる”ことだけに焦っていた気持ちは私の中から吹き飛んだ。とても幸せな気持ちに満たされて「あぁ、これでいいんだなぁ…」と感じた。実際には口にしなかったが、その時の雪子さんの表情は“ありがとう、ごちそうさま”と言ってくれていたように感じた。その後、雪子さんは食事をひとくちも口にすることはなかった。あの時、雪子さんは“食べ物”ではなく、料理やおやつの“気持ち”を受け取ってくれたんだな、と思った。私はその思いを感じて幸せな気持ちになったんだと思う。そのときの雪子さんの表情を思い出す度に、今でも胸が一杯になる。

 食べることを通して、御家族一人一人に、スタッフそれぞれに、雪子さんはお別れの挨拶をしていった。その挨拶はさまざまで、一口だけ噛み締めるように食べる時もあれば、全く食べなかった日にいきなりすごい勢いで食べてくれたり、いろんな表情の「いただきますとごちそうさま」を伝えてくれた。もう食べる食べないの次元を遙かに超えたところでのやりとりだった。それはしっかりと私たちと雪子さんの食事だったと感じる。
 別れの時を自分で決めるように、最後の時は雪子さんが決めた。その見事さに私は打たれた。「食べることは生きること、命を繋ぐもの」と、私は栄養士として、食事は大事なことと自覚してきた。しかし、最後は食べられなくなる時期がある。そうなると何もできず、ただ傍にいて見守るだけしかないもどかしさにうちひしがれ、無力感にさいなまれることになる。しかし、雪子さんは、食べなくなってからも料理やそこに込めた想いや気持ちを受け取ってくれて、しっかりと何かを返して伝えてくれた。「食事」という日本語は“事”というからにはその本質は儀式だということだ。そうした意味からも雪子さんは、食べなかったけど食事はしてくれたと私は感じる。

 現場では、思いもよらないことが起こる。それは嬉しいこと、楽しいことだけではなく、辛いことや苦しいこともある。でもその中で私たちは日々、利用者さんから教えられ、学ばせてもらっている。私たちができることを全力でやっていくのは当然だが、力の及ばないその先にはもっと大切なことがあるということが少し感じられるようになってきた。硬い管理やシステムではなく、あくまで人間的に、だからこそ、流れるままに流れていくような柔らかい空気の銀河の里のユニット。私は栄養士として、これからも“食”とはなんなのか考え続けながら実践していきたい。雪子さんが教えてくれた栄養摂取だけではない“食事”の意味を胸に秘めながら。
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『戦後70年を考える』改め『私自身の里での5年を考える』改め『 銀河の里吟詠会活動報告 〜Defending Champion〜 』★ 特養すばる 千枝 悠久 【平成28年3月号】

 戦後70年を考えようとすると、そのなかにもちろん私自身が生まれてからの30年が含まれる。戦後70年のことを書いていたつもりが、自分自身に深く突き刺さってきて、気持ち悪くなり、書けなくなってしまう。だから、自分自身の過去を少し整理した方が良いと思った。この1年で、私が前から知っていたDS→北斗に移っていた利用者さんたちは大分減った。すばるに新しく来た隆二さん(仮名)はその背中で、DSの頃の利用者さんのことをいろいろと思い出させてくれる。だから、まずは里での5年を考えようと思った。そんなことを考えていたら、先日私が受けに行った詩吟の段伝位審査発表会において、象徴的な出来事が起こった。そのことを短くではあるが、以下に記したいと思う。

 初めは、健吾さん(仮名)に誘われるがままの、そんなにやる気があるわけではなかった詩吟だった。それが、私自身いろいろなアプローチをしてみることで、だんだんと面白くなってきた。少しずつ詩吟が私のものになっていき、そして9/27、段伝位審査発表会で審査を受けるまでに至った。
 どうしても師匠に見守っていて欲しい、そう思って発表会に健吾さんを呼んでいたのだが、当日会場へ先について愕然とした。会場は階段を上がって2階だったのだ。困り果て、受付の人に「ここ、エレベーターってないんですか?」と相談すると、「ないですね」という返事。けれども事情を聞いてくれ、健吾さんのことを話すと、返ってきたのは、「あぁ、浅倉先生っか!それだばみんなで担ぐべ!」という力強い言葉。“健吾さんは担ぎ上げられるのは好きではないだろうな”とチラリと思ったが、言葉の力強さに、健吾さんのなかでそれとは違った感情も生まれるのではないかという期待も生まれた。
 担ぎ上げられて会場入りした健吾さんは、いつもと変わらず、“ここは自分のためにある場だ”とでも言わんばかりの堂々とした雰囲気で見守ってくれた。そして発表を終えた私のことを、「良かったよ〜!良かった!!」と労ってくれた。発表会が終わると、“浅倉先生〜、私のこと覚えてますか?”の嵐で、そこまでは、これまでにも様々な詩吟の行事で見てきた健吾さんの姿だった。少し違ったのは、その後のことだ。

 嵐の後、どうしてもすぐに会場を離れたくなった健吾さん。「俺は何にもないんだから、会場の外にいる」と、私のことを残し、会場の外へ。少しずつ離れていく健吾さんの背中を見ながら、私の中で“まさか”という思いと“きっと”という思いとが激しく渦を巻いた。そして健吾さんは、階段にたどり着いた。おもむろに階段の手すりに手をかけ立ち上がった健吾さん。それを見て、一瞬、私は動くことができなかった。どうあってもこの人は階段を降りていくのだろうと思えたからだ。なぜその時、そこまで強く私がそう思ったのか、ハッキリと言うことはできない。それでこそ、私の師匠というものだと思ったからだ。しかし、流石にここで大事故が起きるのを看過すわけにもいかず、少し遅れて「迎えが来るからそれまで待とう」と止めに行った。「いや、大丈夫だ!」と食い下がる健吾さんだったが、なんとか戻ってくれた。「少
し休む」とベンチに横になった。その時、ふと私の視界に入った健吾さんの帽子に書かれていた文字は“Defending Champion”・・・
 “あぁ、またアンタか”と、私は私の中にずっと棲み続けているものに話しかけるかのように、心のなかで呟いた。守り、戦い、そして勝ち続けた者だけが冠することを許された称号。私にとってそれは、言葉の意味するところ以上のことを意味するものだった。その称号がついた帽子を、私は以前にも見たことがあった。
 デイサービスに来ていた喜也さん(仮名)は、自分が“行く”と決めたらなんとしてでも行こうとする人だった。足がフラフラだろうと立ち上がり、進もうとした。そのような感じだから、自宅でも転倒することが多く、日に日に傷が増えていっていた。それでも行くと決めたときは行こうとし続けた。そうして喜也さんは車イス生活になった。私は、“もう喜也さんは立ち上がることはできないのだろうか”と、無性に悲しくなった。が、当の喜八さんは変わらずにニコニコと笑顔で、そして被っていた帽子に書かれていたのが“Defending Champion”だった。“あぁ、この人はまだ、何かを守るために戦い、そして勝ち続けているのだ”そう感じさせてくれた。どれだけ傷つこうと、立ち上がろうとする姿勢を見せ続けてくれた。
 結局、健吾さんは歩いて階段を降りた。中屋さんと私とで支え、手を交代しながら、長い階段を降りきった。今ここで頑張る意味なんてよくわからなかった。見ていたのは私と中屋さんだけだった。“98歳(普段は車イスで暮らしている)で21段”は、なかなかの記録だと思ったのだが、その記録が達成される瞬間を見ていたのはたった二人だけだった。担ぎ上げられて上った階段を、降りる時は一歩一歩踏みしめながら、自分の足で降りきった。それを目の当たりにして、この人にはまだまだ守っているものがたくさんあり、自分の足で降りようと思っている階段がまだまだ続いているのだろうと感じられた。

 先日、私が北斗に日勤で入った時のこと。次郎さん(仮名)が夜寝るときに、寝てる間にどうしても柵で傷をつくってしまうから、ということで、柵の上から薄い布団をかぶせて保護していた万里栄さん。それを見て私は、「でもそれだと次郎さんが夜に自分で起き上がりにくくなる」と主張した。それに対して万里栄さんは「体、守りたいから。それに、次郎さんならそれを乗り越えて起き上がると思う」と返ってきた。それに対して私の口からは、「でも、それを乗り越えて傷つくと私は思う」という言葉が出て来た。「体、守らせて!」との万里栄さんの情熱に対して、自分でも出て来た言葉に驚いたが、これが、私が今までの人生で抱えながらも言えずに来た一番言いたかったことのように思えた。“戦い”というものは未だに私のなかで消化しきれていないもので、今もできるだけ戦いたくはないと思っている。それでも、私の中にある“Defending Champion”は、そんな気持ちを軽く乗り越えて傷つき、そしてまた立ち上がろうとしているように感じた。
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銀河の里の一コマ(Photo Gallery)@ ★ 【平成28年3月号】

〜新年を迎えて、小正月〜
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〜どんと焼き・節分〜
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銀河の里の一コマ(Photo Gallery)A ★ 【平成28年3月号】

3月 ひな祭り〜つるし雛・行事食〜
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暮らしの一コマ
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H27年銀河の里のさんさ隊の様子 ★ 振り返り【平成28年3月号】

銀河の里では、7年前からさんさ踊りの経験者を中心に、さんさ隊が結成されました。年々新人やワーカーを巻き込みメンバーも増えています。一昨年から地域の盆踊りに入居者と参加したり、里内では夏冬問わず、踊りを披露してくれています。それぞれのメンバーには、意中の入居者や利用者がいて「この人に見て欲しい!」とH27年度も踊り乱れました。今後の活動も楽しみです。

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歌う介護士・龍太狼 オリジナルCD第一弾!発売決定 ★ 活動紹介【平成28年3月号】

銀河の里音楽レーベル「Feelingain」を立ち上げ、オリジナルCD第一弾を発売決定!

- Feelingain -

感じること(Feeling)+集め、増幅させる(gain)

銀河の里の日常の中で
わたしとあなたの出会いに生まれるクオリアを
拾い集め、増幅し、カタチ創っていく。
そのカタチは様々にあり、
音楽や絵画、ダンス、詩などへ昇華し発信していくためのプロジェクトです。

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ワークステージ銀河の里 〜焼売好評発売中〜 ★ 活動紹介【平成28年3月号】

Nanak(盛岡市中ノ橋)、江釣子ショッピングセンターPAL(北上市)、さくらの百貨店(北上市)、イトーヨーカドー花巻店で販売中。

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ノンアルコール林檎シードル〜生産・発売開始〜 ★ 活動紹介【平成28年新年特大号】

銀河の里発ノンアルコール林檎シードルの生産・発売開始しました。
12月23日、24日の両日、イオンモール盛岡南店内にて試飲販売会を開催しました。現在どう店舗「結いの市」で継続販売している。

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「正代さんと展覧会〜3人展〜」の報告 ★ 【平成28年新年特大号】

平成27年度銀河の里チャレンジ企画「正代さんと展覧会〜3人展〜」として、11月8日(日)〜12月18日(金)に銀河の里内の各所を会場に3人展を開催しました。

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銀河の里のEPA(経済連携協定:Economic Partnership Agreement)事業 ★ 活動紹介【平成28年新年特大号】

 日本では6年前から、経済連携としてインドネシア・フィリピン・ベトナム3カ国から看護師及び介護福祉士候補生の受入を行っている。今年はフィリピン215名に対して49カ所の受入施設があり、フィリピンで半年間、日本で半年間の計1年間の日本語教育を受講して各施設で就労している。銀河の里でも12月より受入をスタートしている。

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2016年06月19日

あわいを生きる ★ 理事長 宮澤健  【2016年新年特大号】

 人が生きるのには感動が必要だと思う。人生には癒やしや和解も必須だろうが、そうした悲しみや寂しさからの脱却でさえ、感動を伴わないではあり得ないのではないだろうか。感動と言ってしまっては漏れることもあるのかもしれないが、心ときめき踊る感覚があるかないかで人生が決定的に違ったものになる。

 ところが最近は、そうした感動ができにくくなってきているのではないかと感じることがある。感動する決定的場面でさえも、シラッと終わってしまうようなことがあって戸惑うことが増えたような気がする。感動は一人では深まりにくく、誰かとときめきを共有したり分かち合ったりすることによって高まっていくような仕組みなのだろう。スポーツやコンサートなどの沸き返る感動の場面などは、多くの人と共有していることに感動の高まる構造があるのかもしれない。感覚を分かち合いたい相手にシラッとされると、つんのめって感動を押さえるしかなくなってしまう。感動は一人の個人のなかの感覚の高まりのみではなく、他者との共感や繋がりの上に沸き上がってくる“共有”にも関係する感情であるような気がする。我々はしばらく、この時代、感動がお金で買えると大きな勘違いをしてきたのではなかろうか。確かにお金で便利と自由が果てしなく手に入りそうな時代が続いたので、感動を買えると勘違いしても仕方なかった。しかし、それはすでに通用しなくなっていて、買えば買うほど物が増えて生活空間が窮屈になるのに、さらに買わなければならない強迫的な状況に追い込まれているような気がする。物が増えても感動のない虚しさに、人々は寂しさを感じ始めている。そこで誰かと繋がろうと焦ったようにメールやラインにしがみつく。ところがそれらの大半は、自我から発せられた悲鳴のような言葉の羅列や洪水になって、繋がるどころか、さらに孤独や寂しさを増幅させる方向にしか展開しない。さらに焦って言葉を連ねることになる。この虚しさや寂しさを断ち切るには、もう暴力や殺人にでも至らなければ癒されないほど、深い闇を心に切り刻んでいるのかもしれない。

 里の職員が介護関連の全国大会や県の研修などに出ると、深く傷ついてしまうことがよくある。高齢者施設はどこも立派な近代建築で、掃除も行き渡り、当然、冷暖房完備で三食が時間どおりに出てきて、極楽のようなところかと思いきや、実は人間がブロイラーのごとく管理支配されている地獄に他ならなかったりする。その場にいることさえ数分でも耐えがたい空気が充ちている。人間に対する支配管理が徹底されると、そこには感動などは全く無い世界ができあがってしまう。今、特養ホームの全国組織が取り組んでいるのはおむつ外しで、おむつゼロを目標にがんばっているらしい。人間や人生とは全く関係ないところで数値目標を追いかけている訳だ。里の職員が、そんな全国研修に参加すると唖然とするのだが、それは里の職員の感覚のほうがおかしいのだろうか。最近の県の研修で、ある先進的な取り組みをした報告に対して出てきた質問は、「そんなに丁寧にやって、職員は負担を感じないのですか?」「事故が起こったら、どう責任とるんですか?」といった、後ろ向きでネガティブな質問ばかりで、利用者のことが全く語られないことに、参加したスタッフは唖然とする。利用者一人一人に焦点を当てた丁寧な取り組みの実践報告が、関心を持って受け止められないのでは、発表者は相当傷つくだろうし、発表することによって、むしろ、その後の取り組みにも悪い影響を与えかねない。
 全国と県の研修に続けざまに参加したスタッフが、そうした質の悪さに意気消沈しているので、自分で研修を組んだらと勧めたら、汚れを払うかのように、ちょうど横浜でやっていた絵画展と能などを観て、おいしい食事をして、少し息を吹き返したようだった。くだらない研修に打ちのめされる業界とはなんなのだろうかと、いつもながら嘆かわしい。それとも、おむつ外し全国一位という成果を出すと、そこには深い感動があるのだろうか。

 ところで、銀河の里には独特の用語がある。それはテクニカルタームというより、里の謎解きキーワードなのだが、たとえば「出会い」「関わり」「関係」「存在」「異界」「通路」「物語」「場」などだ。また一般に使われる用語とはちがった独特の言い方もある。たとえば「徘徊」とは言わない。「お出かけ」「散歩」「旅」と場面によって使い分けている。また利用者に対して「させる」「やらせる」などは使わない。間違って誰か使ったとすると、痛みと共に、「解ってない人だな」と感じたり、「何様のつもり!」という怒りが入った違和感を持つ。

 このあたりのことを実際に起こったことから考えてみよう。先月、立教大学の大学院の先生たちが4人、銀河の里に見学を兼ねて応援に来てくださった。先生たちとの研修会に、グループホームの利用者のKさんがスタッフと一緒に会場にやってきた。普通なら「こんなところに利用者を連れてくるな」と叱られる場面だろう。許可を得た訳でもなんでもない、当たり前のように利用者と一緒に来たのだった。里の空気、伝統というのがこういうところにある。しかもKさんは大声で歌ったり叫んだりする人で、研修会の途中、Kさんの歌と声で賑やかになる場面が何度もあった。最後に先生のお一人から「今日Kさんが歌ってくれた歌は、全て“月”を歌った歌でした。しかも研修会の話の内容に沿って、悲しい歌から希望の歌まで歌い分けていました」と指摘があった。日本の歌の歌詞に対する先生の造詣の深さと共に、Kさんの外さない感覚の不思議に感動する。認知症の深さとともに、本質を外さない認知症の威力、感性の不思議さを、先生たちと共に改めて実感する場となった。「Kさんと来てくれてありがとう」と感謝の言葉もいただいた。
 この場面をもう少し考えてみると、一般的にはスタッフがKさんを「連れてきた」と受け止められるだろう。でもそれだけだろうか。「Kさんがスタッフを連れてきたのかもしれない」ということは簡単に逆転する。スタッフは「行こうとしたらKさんが手を握って離さなかったので(一緒に来た)」と言う。「連れてきた」のでは決してない。スタッフを支えるためにKさんは来たのかもしれないし、Kさんは人の発言中にも朗々と歌を歌ったり叫んだりして、一見、研修会の進行を妨げ混乱させながら、結果的には一番、会を盛り上げ、会の本質を照らし出してくれた訳だ。整然と進行することだけが正しいこととすると、大半のことが切り捨てられてしまう。
 銀河の里には現実の多層性に開かれた眼差しがある。こうした多相性が重なって現実があることを、スタッフはどこかで深く理解していると思う。どれが正しいかではなく、どれもが重なって今という現実があるなら、「させる」「やらせる」などとはとても言えなくなる。今回のKさんもスタッフが「連れてきた」としか見ないとしたら、現実を一面的な視点でしか捉えられていない浅はかな理解に終わり、結局は会の進行のためにKさんを排除する方向に向かうしかなくなる。

 こうした背景から「関わり」「関係」「出会い」「物語」「場」などを、里では用語としても使いながら大事としてきたのだが、里でやろうとしてきたのは、大和言葉の「あわい」のことではないかと最近思い至った。絵画にしても演劇にしても、日本の文化では「間」が重視されてきた。また、社会とは言わずに世間と言ってきたのも、世の間、つまり人々の「あわい」のことをさしているのではないだろうか。日本の伝統的な視点は、人は「あわい」を生きる存在だとみていたのかもしれない。天と地の「あわい」、男と女の「あわい」、人と人の「あわい」、そうした「あわい」に生きるのが人間だとみていたとすれば、それは現代にこそ通じる達観ではないか。
 分けることによって世界は説明可能になる。だから分けることが知識を増やし文明を作ることに繋がってきた。DNAなどの分子科学も医学も、分けて分けて人間や命を説明しようとする。それでものすごく解ったような気にもなるが、本当は何も解ってないのではないかと立ち止まってみる必要もある。分けて説明してしまったとたんに感動が消えていくのかもしれない。利用者と介護者の自他を分けてしまったから、おむつ外しの数値が必要になってしまう。そこには介護者、利用者も含めて、人間も人生もおむつも、それぞれがばらばらに切り刻まれてしまった痛々しさがある。

 今、時代はありとあらゆる場面で「あわい」を失いつつある。あわいを失えば物語が機能しなくなり、切り刻んで説明するしかなくなってくる。我々の現場で言えば「徘徊」などは、いかにも切り捨てた説明に他ならない。「あわい」においては、「徘徊」はあり得ない。それは「お出かけ」であったり、「旅」であったりする。時空を超えた過去と自分の「あわい」に旅に出るとか、あの世の人々と生きている自分の「あわい」に歩いて行くというような物語がそこには明確にある。それを「徘徊」と切り捨て蔑むことは、許されない暴力だ。
 物語は「あわい」にしか生まれない。あなたと私、過去と未来、自然と人間、あらゆる「あわい」に我々は物語を見いだす。物語は、何かと何かを繋ぐことで生まれる。里では事例として物語を最重視してきた。物語を紡ぐことは、切ることによって失われた魂を取り戻す作業であるが故に、大切なのだと思う。世界を説明しようとして、あらゆるものの切断に次ぐ切断を繰り返して来たのが現代なのかもしれない。魂は失われ、物語は生み出されなくなり、感動が消える。それで最も損なわれてしまったのは自我なのかもしれない。あなたと私は完全に切断される。あわいが許されない。お互いは対峙する他者でしかなくなる。

 そうした状況に最も辛い形で被害を被るのは、認知症の人だ。「一人では生きていけないけれども、誰かがいれば生きていける」のが認知症の本質的なありようだと感じてきた。「関係を必要とする病」とも言ってきたのだが、ほとんど理解されない。認知症の人こそ「あわい」を必要としていて、「あわい」さえあれば生きていける。ところがその「あわい」が最も損なわれた時代だということが問題だ。
 「あわい」を失った自我はとても辛い。深い孤独に陥る。繋がるものが何もない。物語は生まれない。自分だけの世界に孤立した自我は対立しか生まない。「あなたでも私でもなく、あなたでも私でもある」という中間領域が生まれない。全て誰かの所有になってしまう。かつてインディアンにとって、土地は誰の物でもなかったという。大いなるものと人との「あわい」にあった「たまもの」を誰かの所有にするなどとは思いもよらないことだった。ところが西洋人がやってきてロープを張った。切断によって「あわい」は消え、神との物語も消滅する。この切断がインディアンの魂を殺害したと言えるだろう。そして現代では、個人の自我において、同じような切断と殺害が行われていないだろうか。自立、自己責任という、一見、正しすぎるような言い回しで「あわい」が切断されて自我が孤立し、何者とも繋がり得ない孤独の中に、自我を立ち上げ主張しなければならない強迫観念の圧力に、押しつぶされそうになってはいないだろうか。

 自我の確立などと言うが、対立しか生み出さない自我に、品位を感じることはできない。禅では「我」は執着にすぎない。妄執を捨て無我を開けという禅の“無”は、何もない“無”ではなく、「あわい」に繋がる「満ちた無」である。銀河の里でイメージしてきた「あわい」は、様々な物語が無尽蔵に生まれ来たる、ふるさととしての無我なのかもしれない。認知症の人は生きるために「あわい」を必要とすると同時に、孤立した自我を抱えて懊悩する現代の人々に「あわい」をもたらしてくれる救いでもあると感じる。
 ここでうっかり現代に合わせて「あわい療法」などとは決して言ってはならない。そのとたんに「あわい」は消える。「あわい」は方法論ではなく、人と人が出会い生きる舞台なのだと思う。

【参考文献】
河合隼雄 著 「猫だましい」新潮社
竹内整一 著 「やまと言葉で(日本を)を思想する」 春秋社



posted by あまのがわ通信 at 18:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする