最近、人に話をすることが難しいと感じることがある。人の顔色を伺い、失言の無い様、相手を傷つけない様に慎重に言葉を選ぶ…そんな気を遣って会話している。そうしている自分に、それってどうなんだ?と思ってしまう。銀河の里に就職してから「ちゃんと説明して」と先輩によく言われた。周りから見ると、私はかなりのふしぎちゃんで天然らしく、かなり不可解な存在らしい。ちゃんとって何だ?と思いながらも…主語、述語、話すタイミング、必要な言葉、不必要な言葉…そんな事を意識してしまうと、ますます何を言いたいのか分からなくなり、本当に大切な事は何も言えていない様な気がしてきた(私は本当に人の目を気にする人間なんだと思う。どうしたら繋がれるのか・どうしたらOKと言ってもらえるのか…そんな気持ちが底にあるのかもしれない)。
そんな自分を見つめていると、銀河の里で出会った利用者の人たちを思い出す。いろんな感動をくれて、今は鬼籍に入り遠いところに行ってしまった五七さん(仮名)や雪子さん(仮名)の存在を思い出す。
ああ、五七さんや雪子さんのそばにいた私は、気も遣わず、怖い気持ちを全く持つこともなく居られたなあ。五七さんはいつも歩いてるおじいちゃんだった。五七さんの語るイメージは、馬仕事だったり炭焼きだったり山の中だったり様々だった。そんな五七さんと手をつないで一緒に歩いたり、疲れて腰掛けたりしているとき、何か話さなきゃとか、ちゃんと説明しなきゃなどといった、縛られているような窮屈な嫌な感じは全く無かった(自然に五七さんの世界に引き込んでくれたんだと思う)。一緒に居るだけで充分だった。
五七さんは、たまにイライラしたり、怒鳴ったりすることもあったが、それでも窮屈でも嫌でもなく、まして恐くなんか全くなかった。日当たりのいい場所に座って、「暖かいね」とか「お腹すいたね」と言うくらいしかないのだが、安心感があって、気持ちが楽になる時間を過ごせた。人の目を気にするような、そんな心のもやもやは全く無かった。話さなきゃとか、話せるふりをしなきゃと追い込まれて、ペラペラとどうでもいいような話をしている自分よりもずっと自分らしく居られたよなって思う。
昨年の12月、立教大学の先生方が銀河の里に来られた際のグループワークに参加した。スタッフそれぞれにとって銀河の里はどういうところなのかという質問に対して、開設当時からの職員である美貴子さんが「里は、自分のままでいていいところだと思う」と言ったのが心に残った。そのときは「自分のまま」とは何だ?と良くは解らなかったが、利用者さんとただそばに居る時…五七さんや雪子さんといる時の自分はそうだったかなと思い至った。自分が開放されて安心できている様な…そんな感じ。
雪子さんが亡くなられる頃、私はオリオンの勤務なのに、隣のユニットことの雪子さんの部屋をひたすら訪ねた。雪子さんと御家族の絵を描いて、アルバムを作りたかったし、雪子さんとコーヒーを飲んだりしたかった。そのころ雪子さんと一緒に過ごしたいばかりに、自分の健康診断の日程すら飛んでしまって、すっぽかしてしまったりもした。眠って、起きて、雪子さんのところへ行き、また一日が終わる…そんな感じだった。亡くなられたとき、火葬と葬儀にも参列させてもらい、最後まで雪子さんと過ごさせてもらった。
思い出すと不思議な感覚になるほど、すごい濃さで人生を全うした雪子さん、その姿に心震えることや学ぶことがたくさんある。心動くまま、思うまま過ごしていた雪子さんとの時間は、まさに「自分のままで」いた時間ではなかったかと思う。その時間は私の胸に強烈に響き、大事な何かを残してくれている。こうした体験の感覚はうまくは言えないし、伝えにくいのだが、自分のためでも雪子さんのためでもなく、両者が融け合ってどっちでもなくなり、ひとつになってしまったような感覚だった。その体験は私にとってものすごく大事なことだったと感じる。
ただ、これは、無責任でわがまま放題と表裏一体なんだとも思う。したいこと、やりたいことだけをして、自分だけ感動を味わう。その繰り返しだけでは大人とは言えないのかもしれない。わがままにならないためには、自分がそのとき感じたこと響いたことを受け止め、このことが何なのか、それが言葉としても行動としてもどう具現化できるのかを考え続けなきゃいけないのだと思う。無かったことにしてはいけないのだと思う。心の動くその先にあるものに触れることは、思った以上に覚悟が必要だと痛感する。正直…足がすくむ思いにさえなる。だけど、雪子さんに出会い、共に過ごしたからには、私はその先を生きていかないとダメだと強く思う。
その事を私は焦って言葉にしようともしたけど、薄っぺらな言葉にしかならなかった。思っているものは、なかなか言葉にしがたい。人に伝えるって、難しい。自分の言葉が嘘になってしまうような気もして、恐怖が付きまとう。黙っていた方が嘘はつかなくてもいい(自分も傷つかない)とも思うけれど…だけど・・・。伝えなくてはならない、語り合わなきゃいけない。いや、言葉じゃないのかもしれない…ただ、あの雪子さんとの尊い時間(力)と共に私はどう生きていくのか、それが問われている様な気がする。
ありのままの自分で過ごすというのは、ただラクして楽しく過ごすということではない。飾らないで硬くならないで、ありのままの自分で居られると、大事なものが見える瞬間がたくさんあるように思う。利用者さんに支えてもらえる場面がいっぱいある。そうした感激・衝撃の先に大事なものがたくさんあり、その先に見たこともない世界が広がっている。そこに自分は、何を見つけ、何ができるのか。私はまだ何も分からないのだが、ただ雪子さんや五七さんといた時間を自分にとって確かなものにしたいと思う。
私が感じる「人と話をするのが難しい」というのは、自分の思いをそのまま誰かに伝える事の出来ない息苦しさみたいなものなのかもしれない。言葉にする事の難しさを感じながら、言葉にする事の揺れや迷いはあるけど、それよりも大事なものがあるのだと利用者さんに言われているような気がする。五七さんや雪子さんと居られた貴重な時間を私の支えにして覚悟を決めていきたいと思う。