2015年05月15日
平成27年度事業方針 ★理事長 宮澤健【2015年4・5月号】
【 人材確保と国際交流 】
銀河の里は今年度で発足15年目を迎えるが、組織としても、これまでの勢いのあった時代ではなくなり、いろんな意味で曲がり角を迎えていると感じられる。時代はすでに深刻な人手不足、人材不足の時代に突入しており、特に介護業界は2025年には30万人の介護者が不足するとの予測がなされている。里ではすでに人材確保に苦しんでいる状況で、各現場の人員配置をやっと保っている綱渡りの状態がここ数年続いている。
そんな中、看護師に関しては、職員を1名、資格取得を目指して看護学校に学んでもらい、来年度には卒業の予定となっている。将来的には更に数名の学生を送り込み、自前で養成をしていく必要がある。
今年度12月にはEPAでフィリピンから2名を受け入れることが決定しているが、今後EPAや、研修生制度等を使いながら、介護職員を含め看護師等の医療人材も確保していくべく計画を進めたいと考えている。EPAの受け入れによって、単に人材不足を補うための外国からの労働者の補充ではなく、国際交流、文化交流の機会と捉え、広い視野からの刺激となっていくことを期待している。
人材不足の背景には、中堅の女性職員が産休、育休の時期となっていることも影響している。少子化の渦中に喜ばしいことであると同時に、組織運営上は戦力がそがれる現実に直面することになる。子育て時期を逆にチャンスとして、今までやってきた現場の実践を振り返り、考察したり、発信していく機会にして、新たな情報を得たり、広い視野を育みながら、職場復帰に向けて展開をしていきたい。
【里の文化・芸術活動】
組織として里の基本的な考え方や理念となっている書物や人物の研究をしたり、先進的な取り組みや活躍をしている人物、団体の活動に触れていきたい。そこで今年度から銀河ゼミを定期的に開催し研究議論の場を設けていきたい。それと併せて、各部署や個人でも音楽、工芸、芸術など各分野で自主的に取り組む活動や研究を推奨し、それを支援する体制をとっていきたい。
昨年度は、ワークステージの利用者と職員で、身体表現としてのダンスに取り組んだ。11月の公演は大成功で好評を博した。人材不足の中、組織的な体力としては、毎年の公演は難しいものの、公演とは別にアフリカンダンスのモッコリー先生の練習の機会は維持しつつ、今後も未来へ向けて展開していきたい。
身体表現は、言葉を越えて他と繋がることを可能にする有用な表現媒体であるはずなので、言語的にハンディがある人にとっても、言語的に行き詰まった現代にあっても、大いなる可能性を見いだすべく取り組んでいきたいと考えている。昨年度、身体表現の研究者、西洋子先生と、「場」の研究者、三輪敬之先生と出会う機会を得て、お二人のワークショップに参加し、1月には里においでいただいた。今後もこのご縁を生かして、手合わせ、ダンスなどの身体表現を探求しつつ、里の特徴でもあり、生命線とも言える「場」の研究にも力を注ぎたい。
また活動6年目となった「銀河さんさ隊」も毎年活躍の場を広げている。昨年は地域の盆踊りに数カ所の参加をし、さらに地域のイベントからも出演依頼があった。高齢化が急速に進む地域社会にあって、若者達がさんさで貢献する意義は大きいと思う。できうる限り要請に応え地域に出て行きたい。
しばらく開催してきた銀河ライブ、コンサートはかなりのレベルの音楽を届けながら、集客に苦労し、赤字が続いたので、開催を断念した経緯がある。幸い、何種類かの里バンドがユニットとして組める可能性もあるので、小ぶりの、内部での公演を大切にしていきたいと考えている。
今年度はサテライトの移転を計画しており、それに伴って、デイサービス隣接の場所に建物を建築する予定になっている。これを機会に、福利厚生の一環として、子育て中の職員が働きやすくなるよう、子育て支援のプログラムを立ち上げていきたい。職員が子どもを連れて出勤できたり、勤務中の授乳などもできるよう、育児支援の可能性を模索してみたい。
【戦後70年を考える】
昨年は戦後70年の節目であった。70年間戦争がなかったのは人類史上でも希なことだそうだ。平和ぼけと揶揄されることも多々あるが、70年を貴重な実績として捉えて世界史に貢献することが未来にとって有用ではないだろうか。戦えない世代と弱虫扱いされることがあるが、それこそ人を殺せない世代の誕生として、むしろ誇るべき進化と捉えていいように思う。平和な国、平和な人種こそ日本の本質、特徴として受け継がれて来たことなのかもしれない。西洋の歴史に吞み込まれ、近代化の中で過ちの道を歩んだ時期もあったが、本来の日本と日本人を取り戻し、日本人として我を見失わない生き方を世界に示すべきだと思う。「和をもって貴しとなす」と生きてきたはずの日本人でさえ、その内側には大きな闇、暴力を持っていたことは否定しようがない。
「人々は夜を忘れている。夜の闇の恐ろしさを知らない」とジェイムズ・ヒルマンが言うように、個々のなかに夜の闇がある。闇を含めて人間全体なのだ。それにどう向き合うのか。2001年の9.11に象徴されるように、世界全体が殺戮の世紀20世紀から引き継いだ負の課題を背負っている。
里では、個々の内側にある悪や暴力を考えてきた。昨年度は何人かの職員が研修でアウシュビッツを見学している。簡単に結論を出せることではないが、避けてはならない課題だ。見つめないでいると足下をすくわれ、元も子もなくなる。個人的には、大いなる鍵が3.11の震災の中にあったのではないかと思う。あのとき、命は弱くはかないながら、あまりにかけがえのないもので、尊いものだと世界中の人々が感じたのではなかったか。我々は弱いが故に尊いことを知る必要があるのではないか。ケアは人間の基本として弱さの中に立ち上がってくる。我々の現場から、そのことが拾い上げられ、発信されなければ、それこそ介護や支援そのものが、そのまま暴力になってしまう危険に満ちている。弱さこそ偉大な救いなのかもしれない。現場の強みを生かして、日々起こってくることや経験をベースに、新たな道筋を探るべく研究思索を進め発信していきたい。
銀河の里は今年度で発足15年目を迎えるが、組織としても、これまでの勢いのあった時代ではなくなり、いろんな意味で曲がり角を迎えていると感じられる。時代はすでに深刻な人手不足、人材不足の時代に突入しており、特に介護業界は2025年には30万人の介護者が不足するとの予測がなされている。里ではすでに人材確保に苦しんでいる状況で、各現場の人員配置をやっと保っている綱渡りの状態がここ数年続いている。
そんな中、看護師に関しては、職員を1名、資格取得を目指して看護学校に学んでもらい、来年度には卒業の予定となっている。将来的には更に数名の学生を送り込み、自前で養成をしていく必要がある。
今年度12月にはEPAでフィリピンから2名を受け入れることが決定しているが、今後EPAや、研修生制度等を使いながら、介護職員を含め看護師等の医療人材も確保していくべく計画を進めたいと考えている。EPAの受け入れによって、単に人材不足を補うための外国からの労働者の補充ではなく、国際交流、文化交流の機会と捉え、広い視野からの刺激となっていくことを期待している。
人材不足の背景には、中堅の女性職員が産休、育休の時期となっていることも影響している。少子化の渦中に喜ばしいことであると同時に、組織運営上は戦力がそがれる現実に直面することになる。子育て時期を逆にチャンスとして、今までやってきた現場の実践を振り返り、考察したり、発信していく機会にして、新たな情報を得たり、広い視野を育みながら、職場復帰に向けて展開をしていきたい。
【里の文化・芸術活動】
組織として里の基本的な考え方や理念となっている書物や人物の研究をしたり、先進的な取り組みや活躍をしている人物、団体の活動に触れていきたい。そこで今年度から銀河ゼミを定期的に開催し研究議論の場を設けていきたい。それと併せて、各部署や個人でも音楽、工芸、芸術など各分野で自主的に取り組む活動や研究を推奨し、それを支援する体制をとっていきたい。
昨年度は、ワークステージの利用者と職員で、身体表現としてのダンスに取り組んだ。11月の公演は大成功で好評を博した。人材不足の中、組織的な体力としては、毎年の公演は難しいものの、公演とは別にアフリカンダンスのモッコリー先生の練習の機会は維持しつつ、今後も未来へ向けて展開していきたい。
身体表現は、言葉を越えて他と繋がることを可能にする有用な表現媒体であるはずなので、言語的にハンディがある人にとっても、言語的に行き詰まった現代にあっても、大いなる可能性を見いだすべく取り組んでいきたいと考えている。昨年度、身体表現の研究者、西洋子先生と、「場」の研究者、三輪敬之先生と出会う機会を得て、お二人のワークショップに参加し、1月には里においでいただいた。今後もこのご縁を生かして、手合わせ、ダンスなどの身体表現を探求しつつ、里の特徴でもあり、生命線とも言える「場」の研究にも力を注ぎたい。
また活動6年目となった「銀河さんさ隊」も毎年活躍の場を広げている。昨年は地域の盆踊りに数カ所の参加をし、さらに地域のイベントからも出演依頼があった。高齢化が急速に進む地域社会にあって、若者達がさんさで貢献する意義は大きいと思う。できうる限り要請に応え地域に出て行きたい。
しばらく開催してきた銀河ライブ、コンサートはかなりのレベルの音楽を届けながら、集客に苦労し、赤字が続いたので、開催を断念した経緯がある。幸い、何種類かの里バンドがユニットとして組める可能性もあるので、小ぶりの、内部での公演を大切にしていきたいと考えている。
今年度はサテライトの移転を計画しており、それに伴って、デイサービス隣接の場所に建物を建築する予定になっている。これを機会に、福利厚生の一環として、子育て中の職員が働きやすくなるよう、子育て支援のプログラムを立ち上げていきたい。職員が子どもを連れて出勤できたり、勤務中の授乳などもできるよう、育児支援の可能性を模索してみたい。
【戦後70年を考える】
昨年は戦後70年の節目であった。70年間戦争がなかったのは人類史上でも希なことだそうだ。平和ぼけと揶揄されることも多々あるが、70年を貴重な実績として捉えて世界史に貢献することが未来にとって有用ではないだろうか。戦えない世代と弱虫扱いされることがあるが、それこそ人を殺せない世代の誕生として、むしろ誇るべき進化と捉えていいように思う。平和な国、平和な人種こそ日本の本質、特徴として受け継がれて来たことなのかもしれない。西洋の歴史に吞み込まれ、近代化の中で過ちの道を歩んだ時期もあったが、本来の日本と日本人を取り戻し、日本人として我を見失わない生き方を世界に示すべきだと思う。「和をもって貴しとなす」と生きてきたはずの日本人でさえ、その内側には大きな闇、暴力を持っていたことは否定しようがない。
「人々は夜を忘れている。夜の闇の恐ろしさを知らない」とジェイムズ・ヒルマンが言うように、個々のなかに夜の闇がある。闇を含めて人間全体なのだ。それにどう向き合うのか。2001年の9.11に象徴されるように、世界全体が殺戮の世紀20世紀から引き継いだ負の課題を背負っている。
里では、個々の内側にある悪や暴力を考えてきた。昨年度は何人かの職員が研修でアウシュビッツを見学している。簡単に結論を出せることではないが、避けてはならない課題だ。見つめないでいると足下をすくわれ、元も子もなくなる。個人的には、大いなる鍵が3.11の震災の中にあったのではないかと思う。あのとき、命は弱くはかないながら、あまりにかけがえのないもので、尊いものだと世界中の人々が感じたのではなかったか。我々は弱いが故に尊いことを知る必要があるのではないか。ケアは人間の基本として弱さの中に立ち上がってくる。我々の現場から、そのことが拾い上げられ、発信されなければ、それこそ介護や支援そのものが、そのまま暴力になってしまう危険に満ちている。弱さこそ偉大な救いなのかもしれない。現場の強みを生かして、日々起こってくることや経験をベースに、新たな道筋を探るべく研究思索を進め発信していきたい。
あなた(私)と出会うこと ★デイサービス 鈴木美貴子【2015年4・5月号】
今年に入り、デイサービスでは二人の方との別れがあった。どちらの方も利用契約した時点でターミナル、看取りの時期に入っていた。二人ともお風呂に入りたいという希望をもっての利用だった。
どんな出会いをしたか、一人ずつ書いてみたいと思う。
茂雄さん(仮名)、退院後ベッド上での生活、契約したときには立つことは無理との申し送りだった。入れ歯も合わなくなっており食事はソフト食でということだった。体調のことを考慮すると、送迎時の車椅子に座っての移動がどうなのかも気になり、スタッフ二人体制で行った。初回利用時は、私と看護師の真弓さんとで迎えに行った。ベッドで休んでいるところに声をかけて車椅子に乗ってもらう。立てないと聞いていたが、話しかけると足に力が入って車椅子に移乗できた。DSに着き、すぐにトイレに行きたくなる。立てない・・・。家ではオムツを使っている方だったが、トイレに誘導すると立って便座にも座れた。それでおなかもすっきりしてホールのテーブルで過ごした。お風呂も好きな方で、中間浴に入り「気持ちいいな〜」と目をキラキラさせる。食事はソフト食を一口食べて「売れる!」「味がいい!」と言ってくれる。全介助と聞いていたが自分でスプーンや箸を使い、一部介助で完食してくれた。
5回目の利用時に、年末の恒例行事の餅つきがあった。餅つきをしている間は和室で休んでいて、起きると「そろそろ家さ帰る」と言う。真弓さんが「今日は餅だから、まず、食べてって」と言うと「んだってが、オレ餅好きなんだ!!」と笑顔になった。昼寝から起きてきた利用者、マサさん(仮名)と話が盛り上がり、干し餅食べたいという話になった。マサさんの「どこも悪いところはない」という元気話を聞き、「オレもこうしていられねえな」と起き上がっていた。白玉粉で作ったあんこ餅を出すと「うめえな〜」と食べてくれて、おかわりもした。帰る時も、満足そうなニコニコ顔だった。次回は年明けに会えると思って送っていった。
年明け、ケアマネさんから連絡があり、年末に肺炎で亡くなったとのことだった・・・。あの日が銀河の里デイサービスの利用最終日だったんだ・・・。茂雄さんとの最後の日だったんだ・・・。利用してくれた5回・・・、もっと利用してほしかった。看護師の真弓さんと茂雄さんのやりとりは、見ていていつも写真に残したい気持ちになった。あまりカメラを向ける事のない私が写した写真が数枚残っている。餅を食べた時の笑顔も残っていた。真弓さんと一緒に写っている写真を見ながら、この二人の関係に私が支えられていたんだなと感じた。
加奈子さん(仮名)は102歳の方で、今年1月までは歩いていたとの事だった。契約に行った日はベッドの上で娘さんの名前を呼んで動いていた。昼夜逆転しているということで、日中のデイサービス利用で、夜間休めるようになればということだった。週3回の利用の契約をした。食事はほとんど摂れていないとのことで栄養剤を処方してもらっていた。初回利用時、迎えに行くとぐっすり眠っていた。声をかけても反応しないほど眠りが深かった。薬が効きすぎている様子もあったので訪問看護さんに相談してもらうということで、この日は利用できずに終わった。次に迎えに行くと起きていた。家族さんも温泉に行くということで声をかけていてくれた。送迎車に乗っている間は、服を脱ごうと必死な感じで動きも力強かった。デイサービスに着き、飾ってあるおひなさまの前で女性タッフの髪をなでて、おでこを合わせてにっこり。この出会いも残しておきたいと私はカメラを持った。タイミングは少しずれたがシャッターを押した。初日は中間浴に入ったが、なかなか座位が保てず二人介助だった。ゆっくり入浴というよりは体調を気にしながら無理なく入ってもらおうとの想いの方が強かった。入浴後の昼食、口腔ケアをしてから食事をすすめてみた。「ご飯だよ」と言うと口はあけてくれるが、飲み込めずに口にたまってしまう。酢の物をすすめると口をモグモグして、一口は食べてくれた。漬け物屋さんのお宅なので、味のはっきりした物が好きなのかな・・・と思った。その後、加奈子さんが「リンゴ」と言う。リンゴジュースにトロミをつけてすすめると一口飲んだ。初日は寝ることなく過ごし、帰りの車中でも動きが活発だった。2回目の利用時には家族さんから「洗ってもらったら、髪が黒くなったみたいだ」と言われ、デイサービス利用を喜んでくださっている様子だった。
3回目のときは、昨夜寝てないとの申し送りがあり、午前からテーブル席でウトウトしていた。爪を切りたいと前回から思っていたが、動きがあって切れずにいたので、いいタイミングだと思い、「爪切るよ」と声をかけるとうなずいてくれた。入浴して食事になったが、オレンジのゼリーと筑前煮のソフト食でにんじんがあったので、初回利用の時に「にんじん!」と言っていたのを思い出し、すすめると一口食べた。すっきりした味のものが好きなのかなと思い、オレンジのゼリーをすすめるとそれも食べてくれた。他のスタッフも「食べたね」と喜んでくれて、私も嬉しかった。
帰りの送迎車に乗る前に嘔吐があった。看護師の真弓さんはそのとき危ないかも・・・と予感がしたと言う。そこで訪問看護の事業所に真弓さんの方から連絡してもらい状況を伝えた。家族さんはデイサービス利用時に亡くなっても覚悟は出来ているとのお話だった。帰り送迎中、私は隣に座りずっと手を握っていたが、時々握りかえしてくれた。17時、自宅に送りベッドに横になってもらった。血圧が低いこと等状況を家族さんに伝えて戻ってきた。翌日、加奈子さんの家の近くに葬儀の看板が出ていると真弓さんが連絡をくれた。休日でケアマネさんから連絡は入らず、気になったので直接家族さんに連絡をとってみたら、送迎で送った2時間後に亡くなったということだった。すごいと思った。爪を切り、食べて、お風呂に入って、DSから帰って自宅で息をひきとる・・・。すごい。102歳でよくデイサービスに通ってきてくれたと感謝だ。その力強さにエネルギーをもらったような気がする。
人はいつか必ず亡くなる。いつ亡くなるかわからないからこそ、出会いを大事にしたい。今この人とどう居たいか、この人はどう居たいのかを考えながら過ごせたらと思う。今、私は三人目を妊娠している。生を感じながら死も身近に感じつつ、複雑な思いではあるが、別れからもパワーをもらい、私は新たな出会いを通じて育っていきたいと思う。どんな出会いが待っているか・・・。
その先は 何があるのか わからない
今を大事に あなたをみつめて
どんな出会いをしたか、一人ずつ書いてみたいと思う。
茂雄さん(仮名)、退院後ベッド上での生活、契約したときには立つことは無理との申し送りだった。入れ歯も合わなくなっており食事はソフト食でということだった。体調のことを考慮すると、送迎時の車椅子に座っての移動がどうなのかも気になり、スタッフ二人体制で行った。初回利用時は、私と看護師の真弓さんとで迎えに行った。ベッドで休んでいるところに声をかけて車椅子に乗ってもらう。立てないと聞いていたが、話しかけると足に力が入って車椅子に移乗できた。DSに着き、すぐにトイレに行きたくなる。立てない・・・。家ではオムツを使っている方だったが、トイレに誘導すると立って便座にも座れた。それでおなかもすっきりしてホールのテーブルで過ごした。お風呂も好きな方で、中間浴に入り「気持ちいいな〜」と目をキラキラさせる。食事はソフト食を一口食べて「売れる!」「味がいい!」と言ってくれる。全介助と聞いていたが自分でスプーンや箸を使い、一部介助で完食してくれた。
5回目の利用時に、年末の恒例行事の餅つきがあった。餅つきをしている間は和室で休んでいて、起きると「そろそろ家さ帰る」と言う。真弓さんが「今日は餅だから、まず、食べてって」と言うと「んだってが、オレ餅好きなんだ!!」と笑顔になった。昼寝から起きてきた利用者、マサさん(仮名)と話が盛り上がり、干し餅食べたいという話になった。マサさんの「どこも悪いところはない」という元気話を聞き、「オレもこうしていられねえな」と起き上がっていた。白玉粉で作ったあんこ餅を出すと「うめえな〜」と食べてくれて、おかわりもした。帰る時も、満足そうなニコニコ顔だった。次回は年明けに会えると思って送っていった。
年明け、ケアマネさんから連絡があり、年末に肺炎で亡くなったとのことだった・・・。あの日が銀河の里デイサービスの利用最終日だったんだ・・・。茂雄さんとの最後の日だったんだ・・・。利用してくれた5回・・・、もっと利用してほしかった。看護師の真弓さんと茂雄さんのやりとりは、見ていていつも写真に残したい気持ちになった。あまりカメラを向ける事のない私が写した写真が数枚残っている。餅を食べた時の笑顔も残っていた。真弓さんと一緒に写っている写真を見ながら、この二人の関係に私が支えられていたんだなと感じた。
加奈子さん(仮名)は102歳の方で、今年1月までは歩いていたとの事だった。契約に行った日はベッドの上で娘さんの名前を呼んで動いていた。昼夜逆転しているということで、日中のデイサービス利用で、夜間休めるようになればということだった。週3回の利用の契約をした。食事はほとんど摂れていないとのことで栄養剤を処方してもらっていた。初回利用時、迎えに行くとぐっすり眠っていた。声をかけても反応しないほど眠りが深かった。薬が効きすぎている様子もあったので訪問看護さんに相談してもらうということで、この日は利用できずに終わった。次に迎えに行くと起きていた。家族さんも温泉に行くということで声をかけていてくれた。送迎車に乗っている間は、服を脱ごうと必死な感じで動きも力強かった。デイサービスに着き、飾ってあるおひなさまの前で女性タッフの髪をなでて、おでこを合わせてにっこり。この出会いも残しておきたいと私はカメラを持った。タイミングは少しずれたがシャッターを押した。初日は中間浴に入ったが、なかなか座位が保てず二人介助だった。ゆっくり入浴というよりは体調を気にしながら無理なく入ってもらおうとの想いの方が強かった。入浴後の昼食、口腔ケアをしてから食事をすすめてみた。「ご飯だよ」と言うと口はあけてくれるが、飲み込めずに口にたまってしまう。酢の物をすすめると口をモグモグして、一口は食べてくれた。漬け物屋さんのお宅なので、味のはっきりした物が好きなのかな・・・と思った。その後、加奈子さんが「リンゴ」と言う。リンゴジュースにトロミをつけてすすめると一口飲んだ。初日は寝ることなく過ごし、帰りの車中でも動きが活発だった。2回目の利用時には家族さんから「洗ってもらったら、髪が黒くなったみたいだ」と言われ、デイサービス利用を喜んでくださっている様子だった。
3回目のときは、昨夜寝てないとの申し送りがあり、午前からテーブル席でウトウトしていた。爪を切りたいと前回から思っていたが、動きがあって切れずにいたので、いいタイミングだと思い、「爪切るよ」と声をかけるとうなずいてくれた。入浴して食事になったが、オレンジのゼリーと筑前煮のソフト食でにんじんがあったので、初回利用の時に「にんじん!」と言っていたのを思い出し、すすめると一口食べた。すっきりした味のものが好きなのかなと思い、オレンジのゼリーをすすめるとそれも食べてくれた。他のスタッフも「食べたね」と喜んでくれて、私も嬉しかった。
帰りの送迎車に乗る前に嘔吐があった。看護師の真弓さんはそのとき危ないかも・・・と予感がしたと言う。そこで訪問看護の事業所に真弓さんの方から連絡してもらい状況を伝えた。家族さんはデイサービス利用時に亡くなっても覚悟は出来ているとのお話だった。帰り送迎中、私は隣に座りずっと手を握っていたが、時々握りかえしてくれた。17時、自宅に送りベッドに横になってもらった。血圧が低いこと等状況を家族さんに伝えて戻ってきた。翌日、加奈子さんの家の近くに葬儀の看板が出ていると真弓さんが連絡をくれた。休日でケアマネさんから連絡は入らず、気になったので直接家族さんに連絡をとってみたら、送迎で送った2時間後に亡くなったということだった。すごいと思った。爪を切り、食べて、お風呂に入って、DSから帰って自宅で息をひきとる・・・。すごい。102歳でよくデイサービスに通ってきてくれたと感謝だ。その力強さにエネルギーをもらったような気がする。
人はいつか必ず亡くなる。いつ亡くなるかわからないからこそ、出会いを大事にしたい。今この人とどう居たいか、この人はどう居たいのかを考えながら過ごせたらと思う。今、私は三人目を妊娠している。生を感じながら死も身近に感じつつ、複雑な思いではあるが、別れからもパワーをもらい、私は新たな出会いを通じて育っていきたいと思う。どんな出会いが待っているか・・・。
その先は 何があるのか わからない
今を大事に あなたをみつめて
銀河の里・素適な中庭計画 ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2015年4・5月号】
特養の中庭に、少しずつ木が増えてきた。それらはすべて、健吾さん(仮名)のお宅から頂いてきたものだ。きっかけは、“山吹の花を見せたい”という健吾さんの言葉だった。“おばあちゃんたちのために”という言葉も多く、誰か誕生日の人があれば、いつも祝いの歌を歌ってくれる健吾さん。“山吹”も、きっとみんなを喜ばせたいから言ってくれているのだろうと、あたたかい気持ちになった。
ところが、話は思わぬ方向に展開していく。持ってくる前にまずは見に行こう!と、三浦さんと健吾さんで家に出発。息子さんも、「やりたくはねえども、オメやった庭なんだから、好きなの持ってけ」と言ってくれた。ここまでは自然な流れだったのだが、庭を見ているうちに、「銀河の里にトラックあるべ?あれさ付ければ、あの木運べるんでないか?」とか「あの舟!(の形をした木)持って行くことできるんでないか?」と、優にトラック1台分はあろうかという木を指し始めた健吾さん。きっとこの時にはもう、頭の中ではイメージができあがっていたのだと思う。帰りの車のなかで、「え?山吹だよね?山吹なんだよね?」と呼びかける三浦さんの言葉は、もうあまり届いていないようだった。
その日から、健吾さんは、毎日のように中庭に出た。「三浦さんや千枝さんが木を持ってきたいと言うから手伝っているのだ。これは俺の計画ではねんだ!」そう憤りながらも懸命に、中庭をなんとかしようと、草取りをしたり、手伝ってくれる人を探したりしていた。健吾さんがそんなふうに憤るのも、無理がないことだった。
木を持って来ることに一生懸命になっている健吾さんを見て、私のなかで、忘れかけていた夢が脈を打ったように感じられた。それは、「テラスを壊してしまって畑にするべ!」と言った耕平さん(仮名)や「オメさえその気があれば、ブルの使い方教えるぞ!そこにバンガロー作れば、若い人たち集まるのに良いと思う!」と言ってくれた政雄さん(仮名)のことが思い出されるような、遠いあの日にも繋がっているような夢だった。「中庭が、みんなが集まれる場所になればいい」そんなことを少しずつ健吾さんと話していた。いつのまにか、健吾さんがやろうとしていることと、私のなかの夢とがぐるぐると溶け合って、なんかすごくやる気をもらっていた。それなのに私は、実際にはほとんど何もすることができずに居た。だから健吾さんも“お前は何をやってるんだ!”と憤ってくれたのだと思う。
やっと私も動く気になり、一緒に家へ行く約束をしていたある日、健吾さんが散歩の途中でふらついて、倒れそうになるということがあった。連日の中庭のための奔走で、疲れも溜まっていたのだと思う。私も流石に、今日は木を掘りに行くのは無理だろうと、声を掛けに行った。ところが健吾さんは、「お!堀りに行くっか?」と、どこ吹く風。何度、“今日は無理なんだ”と話しても、「大丈夫だ!あといつ行くってよ?掘ってくる時期っつうもんがあるんだ!」と譲らない。何をどう話しても聞いてくれない健吾さんに、段々と腹が立ってきた。それは、何もすることができないでいる自分自身に対してもだった。そして私は、「わかった!!じゃあ私一人で健吾さんの家に行って木を運んでくるよ!!」そう叫んでいた。「無理なんだ、容易なことでねえ」と笑っていた健吾さんだったが、私が全然話を聞かないでいたら、最終的には「もういい!勝手にしろ!聞きたくねえ!!」と突き放されてしまった。
そんなふうに突き放されるとは思っておらず、ショックを受けた私は、ムツコさん(仮名)の部屋で体育座りをして小さくなった。ムツコさんには、健吾さんがよく挨拶をしに行っていて、健吾さんが“おばあちゃんたち”と言う時に、私が真っ先に思い浮かべられる人だった。“健吾さんがやろうとしていることは、健吾さんが自分でやるから意味のあることであって、私がやってしまったのでは意味がないのではないだろうか。いや、でも・・・・・”ぐるぐると悩み始めた私を横目で見ながら、ムツコさんはニコニコ(いや、ニヤニヤ?)していた。“ま〜た悩んで何もできなくなってらな!”と言われているように感じられた。“どうなるかは分からないけれど、とにかくやってみよう!”そう思えた。その日、私が一人で持って来た木を見て健吾さんは、「よく持って来たなぁ〜」と話す一方で、「なしてあったな木を持って来たって!」と話していることもあったそうで、どちらもありがたい言葉だった。この日、少しだけ、健吾さんがやろうとしていることと並ぶことができたように感じられた。
健吾さんの家の庭は、とても広い。たくさんの木が植えてあり、見るたびに新たな発見と感動がある、そんな庭だ。久しぶりにその庭をじっくりと見たという戸来さんも、「特養の庭も大分木が増えてきて立派になってきたなぁ、と思っていたけど、あれを見てしまうとこっちがみすぼらしく見える」と、興奮気味に帰ってきた。そんな庭を、健吾さんは一人で作り上げたのだ。見ているもの、見てきた景色が私とは全く違ったのだろうと思った。私と健吾さんとでは、約70、歳が離れている。つまり、私と同じ歳の頃に、戦争から帰って来たということだ。戦争、ダム建設に伴う移住など、たくさんのままならない時代の奔流のなかで、一本一本の木をたしかに植え続け、そうしてあの庭を作り上げたのだ。「子どもらや、孫たちのために・・・」そう、庭のことを話していた。「今の若い人たちに昔のこと話しても分からないと思う」そう話すこともあった。健吾さんの言う“若い人たち”には、私たちを飛び越え、ずっと下の世代まで含まれているように感じられた。健吾さんは、何年前を思っているのだろう?何年先を描いているのだろう?今という時代の中ですらフェアでいることは難しいというのに、私たちは過去に対しても未来に対してもフェアでいることはできるのだろうか?
な〜んてドラマもあり(実際にはもっと色んなことがあった)ながら、“銀河の里・素適な中庭計画”は、着々と進行中だ。この先、中庭がどうなっていくのか、正直分からない。きっとまだまだいろんなドラマが生まれてくるのだと思う。分かっているのは、昨日も今日も明日も、一緒に少年のような笑顔をしているのだろうな、ということだ。
ところが、話は思わぬ方向に展開していく。持ってくる前にまずは見に行こう!と、三浦さんと健吾さんで家に出発。息子さんも、「やりたくはねえども、オメやった庭なんだから、好きなの持ってけ」と言ってくれた。ここまでは自然な流れだったのだが、庭を見ているうちに、「銀河の里にトラックあるべ?あれさ付ければ、あの木運べるんでないか?」とか「あの舟!(の形をした木)持って行くことできるんでないか?」と、優にトラック1台分はあろうかという木を指し始めた健吾さん。きっとこの時にはもう、頭の中ではイメージができあがっていたのだと思う。帰りの車のなかで、「え?山吹だよね?山吹なんだよね?」と呼びかける三浦さんの言葉は、もうあまり届いていないようだった。
その日から、健吾さんは、毎日のように中庭に出た。「三浦さんや千枝さんが木を持ってきたいと言うから手伝っているのだ。これは俺の計画ではねんだ!」そう憤りながらも懸命に、中庭をなんとかしようと、草取りをしたり、手伝ってくれる人を探したりしていた。健吾さんがそんなふうに憤るのも、無理がないことだった。
木を持って来ることに一生懸命になっている健吾さんを見て、私のなかで、忘れかけていた夢が脈を打ったように感じられた。それは、「テラスを壊してしまって畑にするべ!」と言った耕平さん(仮名)や「オメさえその気があれば、ブルの使い方教えるぞ!そこにバンガロー作れば、若い人たち集まるのに良いと思う!」と言ってくれた政雄さん(仮名)のことが思い出されるような、遠いあの日にも繋がっているような夢だった。「中庭が、みんなが集まれる場所になればいい」そんなことを少しずつ健吾さんと話していた。いつのまにか、健吾さんがやろうとしていることと、私のなかの夢とがぐるぐると溶け合って、なんかすごくやる気をもらっていた。それなのに私は、実際にはほとんど何もすることができずに居た。だから健吾さんも“お前は何をやってるんだ!”と憤ってくれたのだと思う。
やっと私も動く気になり、一緒に家へ行く約束をしていたある日、健吾さんが散歩の途中でふらついて、倒れそうになるということがあった。連日の中庭のための奔走で、疲れも溜まっていたのだと思う。私も流石に、今日は木を掘りに行くのは無理だろうと、声を掛けに行った。ところが健吾さんは、「お!堀りに行くっか?」と、どこ吹く風。何度、“今日は無理なんだ”と話しても、「大丈夫だ!あといつ行くってよ?掘ってくる時期っつうもんがあるんだ!」と譲らない。何をどう話しても聞いてくれない健吾さんに、段々と腹が立ってきた。それは、何もすることができないでいる自分自身に対してもだった。そして私は、「わかった!!じゃあ私一人で健吾さんの家に行って木を運んでくるよ!!」そう叫んでいた。「無理なんだ、容易なことでねえ」と笑っていた健吾さんだったが、私が全然話を聞かないでいたら、最終的には「もういい!勝手にしろ!聞きたくねえ!!」と突き放されてしまった。
そんなふうに突き放されるとは思っておらず、ショックを受けた私は、ムツコさん(仮名)の部屋で体育座りをして小さくなった。ムツコさんには、健吾さんがよく挨拶をしに行っていて、健吾さんが“おばあちゃんたち”と言う時に、私が真っ先に思い浮かべられる人だった。“健吾さんがやろうとしていることは、健吾さんが自分でやるから意味のあることであって、私がやってしまったのでは意味がないのではないだろうか。いや、でも・・・・・”ぐるぐると悩み始めた私を横目で見ながら、ムツコさんはニコニコ(いや、ニヤニヤ?)していた。“ま〜た悩んで何もできなくなってらな!”と言われているように感じられた。“どうなるかは分からないけれど、とにかくやってみよう!”そう思えた。その日、私が一人で持って来た木を見て健吾さんは、「よく持って来たなぁ〜」と話す一方で、「なしてあったな木を持って来たって!」と話していることもあったそうで、どちらもありがたい言葉だった。この日、少しだけ、健吾さんがやろうとしていることと並ぶことができたように感じられた。
健吾さんの家の庭は、とても広い。たくさんの木が植えてあり、見るたびに新たな発見と感動がある、そんな庭だ。久しぶりにその庭をじっくりと見たという戸来さんも、「特養の庭も大分木が増えてきて立派になってきたなぁ、と思っていたけど、あれを見てしまうとこっちがみすぼらしく見える」と、興奮気味に帰ってきた。そんな庭を、健吾さんは一人で作り上げたのだ。見ているもの、見てきた景色が私とは全く違ったのだろうと思った。私と健吾さんとでは、約70、歳が離れている。つまり、私と同じ歳の頃に、戦争から帰って来たということだ。戦争、ダム建設に伴う移住など、たくさんのままならない時代の奔流のなかで、一本一本の木をたしかに植え続け、そうしてあの庭を作り上げたのだ。「子どもらや、孫たちのために・・・」そう、庭のことを話していた。「今の若い人たちに昔のこと話しても分からないと思う」そう話すこともあった。健吾さんの言う“若い人たち”には、私たちを飛び越え、ずっと下の世代まで含まれているように感じられた。健吾さんは、何年前を思っているのだろう?何年先を描いているのだろう?今という時代の中ですらフェアでいることは難しいというのに、私たちは過去に対しても未来に対してもフェアでいることはできるのだろうか?
な〜んてドラマもあり(実際にはもっと色んなことがあった)ながら、“銀河の里・素適な中庭計画”は、着々と進行中だ。この先、中庭がどうなっていくのか、正直分からない。きっとまだまだいろんなドラマが生まれてくるのだと思う。分かっているのは、昨日も今日も明日も、一緒に少年のような笑顔をしているのだろうな、ということだ。
“想い”という隠し味 ★特別養護老人ホーム 齋藤隆英【2015年4・5月号】
3月に誕生日を迎える響子さん(仮名)に「誕生日に何が食べたい?」と尋ねると「寿司食いて〜」と今年も応えてくれた。昨年も響子さんの誕生日のお祝いでお寿司を食べに行ったのだが、当時の響子さんは、むせや痰がらみが多くて、一日の食事量の半分程しか食べられなかった。それでも、数々の里の利用者が見せる不思議な食のパワーの可能性にかけて、矛盾しているかもしれないが、吸引機を持って外食に出掛けた。しかし去年は、お寿司を口に含むとむせてしまい、呑み込みも難しく、食べることはできなかった。ただ、口に入れた瞬間のわずかな感覚だけでも味わえたのがよかったのだろうと思う。食べたい気持ちがとても強い響子さんだけに、むせながらも次のお寿司に手を伸ばしていた。その姿が、私には少し酷に感じてしまった。結局その時は、楽しみにしていた寿司は殆ど食べる事ができなかった代わりに、アイスクリームをふたつも食べで、おいしそうにしていた響子さんの表情が印象的だった。
今年もそうなってしまうのかもしれない・・・と心の片隅では感じていたが、最近の響子さんは、以前よりもむせる事は少なくなり食事量も増えていたので期待も大きかった。また食べられなかったとしても、2年続けて同僚の杉澤と自宅に行き、神の遣いに出してもらった二人(あまのがわ通信2013年11月号、2014年10月号参照)の食べっぷりを見てもらうだけでも、パワーを受け取ってくれるのではないかという想いで意気込んで出かけた。
ところが、そんな心配は余計なお世話だったか・・・。寿司屋の席に着くやいなや、響子さんは目つきが変わり、真剣な眼差しでメニュー表を見つめていた。せかされるように、まず一品目は、去年と同じくネギトロ軍艦を注文した。待っている間も響子さんの眼差しは曇ることはなかった。いよいよお寿司が運ばれてくると、ゴクリと唾液を呑む音が聞こえた。去年はまともに食べられる事ができず打ちのめされてしまったが、一年越しの今年の挑戦は、響子さんにとってはリベンジマッチなのかもしれないと、その音で感じた。すぐに手が伸びて勝負が始まりそうになったとき、私と杉澤は去年とは違う動きを同時に起こした。寿司を崩さないように気をつけながらも素早く軍艦のネギを落とし海苔をきれいに剥いだ。ここで思い出したのだが、実は去年はこの海苔が手強かったのだった。一口で一気に一カンを口に入れてしまい、むせて、口からお寿司が出て、さらに噛み切れていない長い海苔が絡まってしまったのだ。危険な行為を犯してしまっていたのではないのかと反省したのだった。その経験がここで蘇って、私と杉澤は、響子さんが口に含もうとするわずかな間に、そのネギと海苔を取り去る作業を瞬時にこなした。今思い出しても、あの場面のこの行動は阿吽の呼吸だったと思う。
我々の必死のアシストで、響子さんは左手で寿司を掴み、大きく口を開け頬張った。私たちは、その光景を真剣に見守った。杉澤もきっと震えていたに違いない。そして、その瞬間が訪れた。響子さんは寿司を頬張る。おいしそうにモグモグ・・・ゴクリ。そして一言、「んめ〜」我々も不安が一気に消し飛んだ。ついに、一年越しの想いが叶った瞬間だった。私たちは心底、「今年も来て良かった、来られて良かった。ありがとうございます」と神様に感謝し祈った。
そこからは、響子さんオンステージのワンマンショーだった。私と杉澤の“食べっぷりだけでも見てもらおう作戦”は実行される事はなく、ひたすら響子さんのアシストに従事させてもらった。その食べっぷりから、「まだまだ、引退しないわよ、私について来なさい」とでも言っているかのように、逆に私たちがこれでもかというくらいパワーを分けてもらい、満腹にさせてもらった。気がつけば、なんと6皿、計12カンをたいらげた響子さん。そして、去年とは違い、アイスクリームを注文する事はなかった。満腹でとてもいい表情をして「いがった〜、帰る〜」と言ってくれた。それなのに席を立とうと帰り支度をしながらも、さらに残り物に手が伸びるので驚いた。大喜びで感動に包まれながら里に帰って来たのだが、他のスタッフから「どうだった〜?」と聞かれると、響子さんは「いっこど食べられなかった」と怒りモードで応えたので、私と杉澤は腹を抱えて笑った。
里では普段ソフト食の利用者さんが、不思議と普通の食事を平気で食べたりすることがしばしば起こる。そうした不思議な力は、“それぞれの想い”によって起こってきているのではないかと感じる。その想いは利用者だけではなく、職員の想いも共振して起こっているようだ。それは我々にパワーや感動を与えてくれる。
ワークステージで調理したお惣菜や収穫した野菜を販売する「里売り」で、モエさん(仮名)が、「みそ汁に入れる野菜、何かあるっか?」と聞いていた事があって、私はとても驚いた。里売りは、スタッフが自宅用に購入するというイメージで、その中でも、ごくたまに利用者も自分が食べたいものを買っていたのだが、モエさんがユニットのみんなの為に自分のお財布からお金を出して野菜を買っていることに私はとても心を動かされた。
特養では各ユニットで夕食のみそ汁を作っていて、夕飯前になると、いい香りに包まれる。モエさんは進んでみそ汁作りの先頭に立って、一杯、一杯、皆の前でお椀に分けてくれる。そんな光景をユニットのみんなもしっかりと感じとってくれるようで、今までにはなかったほど、みそ汁のおかわりが増えた。きっと、その一杯一杯にはモエさんの想いが入っていたのだろうと思う。
どんなに高級な食材を使っても、想いのない料理は人の心を動かさない。隣のユニット‘こと’でも、「命のスープ」や「居酒屋龍ちゃん」と題して職員が腕を奮っていて、物語が生まれている。新年度を迎えて‘オリオン’でも、新しくやってきたスタッフを巻き込んで、今年もいろんな物語をみんなで綴っていきたいと思う。
今年もそうなってしまうのかもしれない・・・と心の片隅では感じていたが、最近の響子さんは、以前よりもむせる事は少なくなり食事量も増えていたので期待も大きかった。また食べられなかったとしても、2年続けて同僚の杉澤と自宅に行き、神の遣いに出してもらった二人(あまのがわ通信2013年11月号、2014年10月号参照)の食べっぷりを見てもらうだけでも、パワーを受け取ってくれるのではないかという想いで意気込んで出かけた。
ところが、そんな心配は余計なお世話だったか・・・。寿司屋の席に着くやいなや、響子さんは目つきが変わり、真剣な眼差しでメニュー表を見つめていた。せかされるように、まず一品目は、去年と同じくネギトロ軍艦を注文した。待っている間も響子さんの眼差しは曇ることはなかった。いよいよお寿司が運ばれてくると、ゴクリと唾液を呑む音が聞こえた。去年はまともに食べられる事ができず打ちのめされてしまったが、一年越しの今年の挑戦は、響子さんにとってはリベンジマッチなのかもしれないと、その音で感じた。すぐに手が伸びて勝負が始まりそうになったとき、私と杉澤は去年とは違う動きを同時に起こした。寿司を崩さないように気をつけながらも素早く軍艦のネギを落とし海苔をきれいに剥いだ。ここで思い出したのだが、実は去年はこの海苔が手強かったのだった。一口で一気に一カンを口に入れてしまい、むせて、口からお寿司が出て、さらに噛み切れていない長い海苔が絡まってしまったのだ。危険な行為を犯してしまっていたのではないのかと反省したのだった。その経験がここで蘇って、私と杉澤は、響子さんが口に含もうとするわずかな間に、そのネギと海苔を取り去る作業を瞬時にこなした。今思い出しても、あの場面のこの行動は阿吽の呼吸だったと思う。
我々の必死のアシストで、響子さんは左手で寿司を掴み、大きく口を開け頬張った。私たちは、その光景を真剣に見守った。杉澤もきっと震えていたに違いない。そして、その瞬間が訪れた。響子さんは寿司を頬張る。おいしそうにモグモグ・・・ゴクリ。そして一言、「んめ〜」我々も不安が一気に消し飛んだ。ついに、一年越しの想いが叶った瞬間だった。私たちは心底、「今年も来て良かった、来られて良かった。ありがとうございます」と神様に感謝し祈った。
そこからは、響子さんオンステージのワンマンショーだった。私と杉澤の“食べっぷりだけでも見てもらおう作戦”は実行される事はなく、ひたすら響子さんのアシストに従事させてもらった。その食べっぷりから、「まだまだ、引退しないわよ、私について来なさい」とでも言っているかのように、逆に私たちがこれでもかというくらいパワーを分けてもらい、満腹にさせてもらった。気がつけば、なんと6皿、計12カンをたいらげた響子さん。そして、去年とは違い、アイスクリームを注文する事はなかった。満腹でとてもいい表情をして「いがった〜、帰る〜」と言ってくれた。それなのに席を立とうと帰り支度をしながらも、さらに残り物に手が伸びるので驚いた。大喜びで感動に包まれながら里に帰って来たのだが、他のスタッフから「どうだった〜?」と聞かれると、響子さんは「いっこど食べられなかった」と怒りモードで応えたので、私と杉澤は腹を抱えて笑った。
里では普段ソフト食の利用者さんが、不思議と普通の食事を平気で食べたりすることがしばしば起こる。そうした不思議な力は、“それぞれの想い”によって起こってきているのではないかと感じる。その想いは利用者だけではなく、職員の想いも共振して起こっているようだ。それは我々にパワーや感動を与えてくれる。
ワークステージで調理したお惣菜や収穫した野菜を販売する「里売り」で、モエさん(仮名)が、「みそ汁に入れる野菜、何かあるっか?」と聞いていた事があって、私はとても驚いた。里売りは、スタッフが自宅用に購入するというイメージで、その中でも、ごくたまに利用者も自分が食べたいものを買っていたのだが、モエさんがユニットのみんなの為に自分のお財布からお金を出して野菜を買っていることに私はとても心を動かされた。
特養では各ユニットで夕食のみそ汁を作っていて、夕飯前になると、いい香りに包まれる。モエさんは進んでみそ汁作りの先頭に立って、一杯、一杯、皆の前でお椀に分けてくれる。そんな光景をユニットのみんなもしっかりと感じとってくれるようで、今までにはなかったほど、みそ汁のおかわりが増えた。きっと、その一杯一杯にはモエさんの想いが入っていたのだろうと思う。
どんなに高級な食材を使っても、想いのない料理は人の心を動かさない。隣のユニット‘こと’でも、「命のスープ」や「居酒屋龍ちゃん」と題して職員が腕を奮っていて、物語が生まれている。新年度を迎えて‘オリオン’でも、新しくやってきたスタッフを巻き込んで、今年もいろんな物語をみんなで綴っていきたいと思う。
傷を生きる −秋田巌の傷を生きる英雄 − Disfigured(ディスフィギュアード) Hero(ヒーロー)を通して ★施設長 宮澤京子【2015年4・5月号】
平成27年5月5日の深夜、群青色の空に浮かんだ乳白色の満月は、和夫さん(仮名)の通夜にふさわしく、凛とした中に優しさと暖かさを感じさせた。享年93歳。それは一人のHero!ではなかったか。
亡くなる当日の夕方、病院に見舞ったとき、呼びかけても応答はなく、酸素マスクの裏で呼吸は荒く苦しげであった。毛布をそっとあげてみると、右手に浮腫が見られ、あちこちに点滴の刺し傷やら拘束の摩擦で出来たような、たくさんの内出血と擦り傷があった。足にも摩擦の傷があった。二週間前、和夫さんは生きるために入院を自ら決意した。これらの傷に胸が痛んだが、一方で和夫さんが生きようとしたために生じた勲章ではないかとも感じ、「傷を生きる英雄」として改めて思いを馳せた。
和夫さんの周囲には、次々に不思議な出来事の布置が起こっていることに私は気づかされる。「新人研修」で、私が話したのも和夫さんのことだった。以下、その概要から伝えたい。
【新人研修】4月27日
今年の里の桜は、咲き方に異変が起こっていた。一斉に花開き、一斉に散るという潔さはなく、それぞればらばらに咲き、先に咲いた花が散った後から咲く花もあった。長く楽しめたので、今年はこれで良しとすべきなのか?と新人に問いかけた。それは和夫さんの桜のエピソードを新人職員に聞いてもらいたかったからだ。
和夫さんは93歳で、昨年7月にグループホームに入居してきた。入居当初から突然意識を無くし、救急車で運ばれることが何度かあった。すぐに回復し「異常なし」ということでその度に帰ってきた。普段から「死にたい」「役に立たなくなったので殺してくれ」と口にし、自ら食を断ち、部屋に閉じこもることが度々あった。
先日4月9日深夜、腰紐を首に巻き付け、ドアの取っ手に引っかけて首をつろうとしているのを、夜勤の石井さんが発見した。とめようとすると激しい抵抗で、石井さんの顔には派手なひっかき傷が残った。
それからしばらくしてふらつきや転倒が続き、右手に力が入らず、よだれも出ているので受診をしたが「所見なし」だった。しかし翌日も転倒があり、私が駆けつけると、和夫さんはベッドから転げ落ちた状態だった。体重が1ヶ月で9s減少し、憔悴しきっていたので、「骸骨が転がっている」ような印象だった。着替えのために身体に触れると、電気ショックを受けたかのように、カッと目を見開き激しく手足を震わせ、やみくもな抵抗を続けていた。私が安全な場所に移ってもらおうと「和夫さん、和室に行きますよ」と声をかけると、なぜかおとなしくなり、すんなり受け入れてくれて、朝までそこで落ち着いて眠れた。(後から考えると、「たたみ」の部屋というのが「畳の上の死」と和夫さんの中で繋がったのかなと思った)
翌日4月20日、脳神経の専門病院でCTを取ってもらうと、やはり細かい梗塞があり、1日3本の点滴治療が必要ということで、かかりつけ医に入院となった。常々「おれは病院にはいかねぇ、ここ(グループホーム)で死ぬ」と言ってくれていた和夫さんの重い言葉もあり、里としても苦肉の決断ではあった。
生気を失い、脱力しきった和夫さんだったが、病院の待合室の窓から、ちょうど満開の桜が咲いているのが見えた。和夫さんは舞い散る桜吹雪を感慨深げに眺めていたという。娘さんとスタッフも、その見事な桜と和夫さんを重ね合わせた。先生からの「2週間頑張りましょう。また元気に動けるようになりますよ」との声かけに、しっかり「はい」と返事をした。そのとき和夫さんは満開の桜を見て、生きようと決意したではないかと私は想像する。「畳の上で死ぬこと」、そして「最期まで生き抜くこと」を傷とともに教えてくれたように思えてならない。
入院一週間後には「脳梗塞の後遺症は残らず、両手両足とも大丈夫ですよ。オムツも3人がかりでなければ交換できないほど力は強いです」と言われ、ほっとした。しかし皮肉なことに、この力強い抵抗があるため1日3本の点滴をするためには、どうしても両手両足を拘束せざるを得なかったという。しかし、常時大暴れをしているのではなく、オムツ交換や着替えなどいわゆる「介護」に対して激しく抵抗するというのは、一貫した和夫さんのありようで、グループホームでも転倒してもよろめきながら立ち上がり、他人の手を借りることに最後まで抵抗し続けた。和夫さんという人格から切り離された「介護」は、暴力につながることを実感する。
和夫さんは戦争での心の傷や、老いや障害という深い傷に苦しみつつも、それを背負って生きてきた。私は秋田巌さんが提言されている「傷を生きる英雄」Disfigured Heroを和夫さんにも重ねてしまう。そして「傷の意味はそれを生き抜かれたところにしか存在しない」という言葉に強く惹かれる。おぞましい狂気とも感じる介護への激しい抵抗は、和夫さんの「純粋にして強靱な意志」であったと思う。私は、今年も桜にまつわる貴重ないのちの「物語」に深く感動した。
【看取り】4月30日
連休前に、娘さんがドクターから病状説明を受けるために東京から帰省された。主任の寛恵さんと私も同席させてもらった。私は「もし治療が出来なくなった場合は、銀河の里に戻ってもらい、グループホームで看取りをさせて欲しい」とお願いした。ドクターは「施設で看取りが出来るとは思ってもいませんでした。そんなことを言ってくれる施設はないです」と驚かれ、「それは、非常にナチュラルなことです。連休明けに、和夫さんの状態を見ながら判断しましょう」と受け入れてくれた。娘さんからも、「本当に助かります」と言っていただいた。
【里帰り:通夜】5月5日
和夫さんは残念ながら、連休が明ける前に息を引き取ったが、その日一晩だけ銀河の里に帰ってきてくれた。夜勤者の石井さんは、戻ってくる和夫さんの部屋を整えてくれていた。居室はすでにベッドから畳に換えられて和夫さんを待っていた。夜勤業務をしながら、職員への連絡や段取りを淡々と進めてくれていたことが、頼もしくも有り難かった。石井さんが「結果論ですが、あの時病院に送って良かったのか・・・ここで看てあげたかったなぁ」と、悔しそうに呟いたことも心に響いた。彼は今日の夜勤入りの前に、病院に和夫さんを見舞っており、今夜という時を深く受けとめていた。
グループの入居者と石井さんと私とで通夜を守る事になった。満月の静かな夜だった。私は和夫さんの部屋で、お線香を絶やさないように、時々和夫さんに話しかけながら口を濡らし、お通夜を過ごした。そんな尊い役が、私に与えられたこともありがたかった。
深夜2時に利用者の冬子さん(仮名)が通夜の気配を感じて、お線香を上げに来てくれた。背中をしゃんとして入ってくるが、ご遺体の前でヨヨと泣き崩れる。しかしすぐに姿勢を立て直し衣服の乱れを整え、正座をしてから静かに鐘を打ち、線香に火を点し手を合わせる。なんと見事な所作なんだろうと感心する。一連の儀式を終えると、私の方に向き直り、深々と礼をして「気を落とさないように」と声をかけてくれた。普段は和夫さんと対立することも多く、何かとぶつかり合った二人だったが、お別れは厳かに演じてくれた。
【朝のお見送り】5月6日
翌朝、和夫さんの奥さんと娘さん夫婦が来里され、利用者や早番のスタッフ、日勤者や他部署のスタッフも次々に集まり、お線香を上げてお別れをした。和夫さんの乗った車をみんなで玄関に出て見送った。雲ひとつない清々しい五月晴れと爽やかな風が私達を包んでいた。車が動き出すと、突然キリさん(仮名)は車を追って駆けだした。それにスタッフ前川さんも一緒に駆けて行った。私は歩行が不安定なゆう子さん(仮名)を気遣って腕を組んだはずなのに、ゆう子さんは逆に私の手をぎゅっと握って支えてくれていた。私は通夜の緊張が解けて、涙が出そうになった。
お見送りの後、皆さんが一列に並んでいる?私は上履きの足を拭く雑巾を待っているのかと思いきや、「お塩と水を持って来て!」と久美子さん(仮名)が仕切っている。そういう儀式をちゃんとやるのだなぁと私はあっけにとられる。「清めの儀式」なのでみんな神妙な面持ちだ。号泣した冬子さんといい、外に出るまではリビングでうとうと眠っていたキリさんが車を追って駆けだしたり、お見送り後の見事な神事を執り行う久美子さんといい、面食らうばかりだった。
【夢のあと・・・】5月8日
夢に和夫さんがでてきた・・・横たわっている和夫さんが枠から顔をだし、大きな目を見開いて私を見上げて頷いた。ビックリして目をさましたが、あの目は「すべて終わったよ」と知らせてくれているようだった。その日、娘さんから電話があり「火葬も葬儀も滞りなく終えました」という現実的な連絡が入った。
私は、神秘的な通夜の意味を考える。満開の桜から始まり、通夜の日の群青色の空に浮かぶ満月、お見送りの朝の見事な五月晴れ、そして入居者の「死者を送る」エピソードの一つ一つを、和夫さんからの貴重な贈り物として私の記憶に刻まれた。
93年間の人生、多くの傷を負ってきたであろう和夫さん。死を希求しながらも最後は生きることを選んだ。しかしそれはさらに傷を負い、傷だらけになることだったかもしれない。その傷を生きたことによって和夫さんは Disfigured Heroとして偉業を果たしたのかもしれない。できるなら、私も正統派のHeroより傷を生きるHeroを目指したい。
しかし今の私はどうだ?ちょっとした日常の出来事に、「やったぜ!」と有頂天になる軽薄さ、裏返しは「どうせ自分なんか」と、拗ねて開き直る卑怯な生き方だ。命をかけて戦うというのはコミックの世界であり、人のためといった大義名分は嘘臭くしか響かない。そんなリアリティのない刹那的な生き方しかできていない。今はたいした傷を負ってもいないし、傷つかないように逃げているだけかもしれない。きっと選ばれた使命の人には一撃がくるのだろう。「傷」を覚悟で選択する「生」なのか、「生」を覚悟したときに「傷」つかざるを得ないのか。
人が生きていくとき理不尽さや不平等は避けようもなく付きまとう。秋田巌さんの著書『人はなぜ傷つくのか−異形の自己と黒い聖痕』の冒頭、「それは人が人となっていくためだ」と結論づけている。その中で「原罪」・「原悲」と言った哲学や宗教的なところにも言及している。そうした事ごとに恨みと怒りで地団駄することは、私にも出来そうだ。しかし、強靱な意志を持って、己の責任でその傷を生き抜くとき、異才・異能を開花させDisfigured Heroとして変容する・・・ハードルは非常に高い。Disfigured Heroの候補者はそこら辺りに沢山いそうだが、大概傷つくことそのものから逃げ、巧妙に責任転嫁して自己を守っている。私もその中の一人だ。
和夫さんも長い間「死にたい」と逃げていた。ところが最後には傷を負うことを引き受けてDisfigured Heroになったのだと思う。その事を決意した背景に、日本の文化や精神性の象徴とも言える「桜」「畳の上」が大きく影響したと思う。今回、死を覚悟しなければならないほどの身体の衰えを自覚し、無気力で虚脱状態にあった和夫さんが病院で見た満開の桜と桜吹雪。潔く死ぬために美しく生きるという生と死の意味をそこに感じたのではないか。和夫さんはお国のために戦地に赴き、命を落とした戦友達のことをいつも想っていたし、薪運びや畑仕事等の外仕事だけでなく家の中ではいつも箒を手にして稼いでいた。稼げなくなれば死ぬしかないと思いながら、どこかではまだ生きていきたいとの葛藤があったように感じる。老いや病という一撃を食らいながら、その傷を引き受けるか否か。破滅か破格の正念場。原罪の感覚のない日本人は「深い傷を負ったときに、ようやくその傷が初めてその人の土台となりうる」という。生きていくことが困難になるほどの大きな傷が我が身に降りかかるが、それは天から送られてきた契約書で、自ら署名をしたものだけがDisfigured Heroになり得るという。これもまた厳しい話だが、生きるとは本質的にはそうしたことなのかもしれない。
私は桜を見る度に、和夫さんの生き様を思い続けていた・・・そして今、季節は少し巡り、新緑のまぶしさにいのちの躍動を感じる。日本の四季の移り変わりは、まさに人生の巡りと重なって、私の中では理屈抜きの永遠性を担保してくれているように思う。
亡くなる当日の夕方、病院に見舞ったとき、呼びかけても応答はなく、酸素マスクの裏で呼吸は荒く苦しげであった。毛布をそっとあげてみると、右手に浮腫が見られ、あちこちに点滴の刺し傷やら拘束の摩擦で出来たような、たくさんの内出血と擦り傷があった。足にも摩擦の傷があった。二週間前、和夫さんは生きるために入院を自ら決意した。これらの傷に胸が痛んだが、一方で和夫さんが生きようとしたために生じた勲章ではないかとも感じ、「傷を生きる英雄」として改めて思いを馳せた。
和夫さんの周囲には、次々に不思議な出来事の布置が起こっていることに私は気づかされる。「新人研修」で、私が話したのも和夫さんのことだった。以下、その概要から伝えたい。
【新人研修】4月27日
今年の里の桜は、咲き方に異変が起こっていた。一斉に花開き、一斉に散るという潔さはなく、それぞればらばらに咲き、先に咲いた花が散った後から咲く花もあった。長く楽しめたので、今年はこれで良しとすべきなのか?と新人に問いかけた。それは和夫さんの桜のエピソードを新人職員に聞いてもらいたかったからだ。
和夫さんは93歳で、昨年7月にグループホームに入居してきた。入居当初から突然意識を無くし、救急車で運ばれることが何度かあった。すぐに回復し「異常なし」ということでその度に帰ってきた。普段から「死にたい」「役に立たなくなったので殺してくれ」と口にし、自ら食を断ち、部屋に閉じこもることが度々あった。
先日4月9日深夜、腰紐を首に巻き付け、ドアの取っ手に引っかけて首をつろうとしているのを、夜勤の石井さんが発見した。とめようとすると激しい抵抗で、石井さんの顔には派手なひっかき傷が残った。
それからしばらくしてふらつきや転倒が続き、右手に力が入らず、よだれも出ているので受診をしたが「所見なし」だった。しかし翌日も転倒があり、私が駆けつけると、和夫さんはベッドから転げ落ちた状態だった。体重が1ヶ月で9s減少し、憔悴しきっていたので、「骸骨が転がっている」ような印象だった。着替えのために身体に触れると、電気ショックを受けたかのように、カッと目を見開き激しく手足を震わせ、やみくもな抵抗を続けていた。私が安全な場所に移ってもらおうと「和夫さん、和室に行きますよ」と声をかけると、なぜかおとなしくなり、すんなり受け入れてくれて、朝までそこで落ち着いて眠れた。(後から考えると、「たたみ」の部屋というのが「畳の上の死」と和夫さんの中で繋がったのかなと思った)
翌日4月20日、脳神経の専門病院でCTを取ってもらうと、やはり細かい梗塞があり、1日3本の点滴治療が必要ということで、かかりつけ医に入院となった。常々「おれは病院にはいかねぇ、ここ(グループホーム)で死ぬ」と言ってくれていた和夫さんの重い言葉もあり、里としても苦肉の決断ではあった。
生気を失い、脱力しきった和夫さんだったが、病院の待合室の窓から、ちょうど満開の桜が咲いているのが見えた。和夫さんは舞い散る桜吹雪を感慨深げに眺めていたという。娘さんとスタッフも、その見事な桜と和夫さんを重ね合わせた。先生からの「2週間頑張りましょう。また元気に動けるようになりますよ」との声かけに、しっかり「はい」と返事をした。そのとき和夫さんは満開の桜を見て、生きようと決意したではないかと私は想像する。「畳の上で死ぬこと」、そして「最期まで生き抜くこと」を傷とともに教えてくれたように思えてならない。
入院一週間後には「脳梗塞の後遺症は残らず、両手両足とも大丈夫ですよ。オムツも3人がかりでなければ交換できないほど力は強いです」と言われ、ほっとした。しかし皮肉なことに、この力強い抵抗があるため1日3本の点滴をするためには、どうしても両手両足を拘束せざるを得なかったという。しかし、常時大暴れをしているのではなく、オムツ交換や着替えなどいわゆる「介護」に対して激しく抵抗するというのは、一貫した和夫さんのありようで、グループホームでも転倒してもよろめきながら立ち上がり、他人の手を借りることに最後まで抵抗し続けた。和夫さんという人格から切り離された「介護」は、暴力につながることを実感する。
和夫さんは戦争での心の傷や、老いや障害という深い傷に苦しみつつも、それを背負って生きてきた。私は秋田巌さんが提言されている「傷を生きる英雄」Disfigured Heroを和夫さんにも重ねてしまう。そして「傷の意味はそれを生き抜かれたところにしか存在しない」という言葉に強く惹かれる。おぞましい狂気とも感じる介護への激しい抵抗は、和夫さんの「純粋にして強靱な意志」であったと思う。私は、今年も桜にまつわる貴重ないのちの「物語」に深く感動した。
【看取り】4月30日
連休前に、娘さんがドクターから病状説明を受けるために東京から帰省された。主任の寛恵さんと私も同席させてもらった。私は「もし治療が出来なくなった場合は、銀河の里に戻ってもらい、グループホームで看取りをさせて欲しい」とお願いした。ドクターは「施設で看取りが出来るとは思ってもいませんでした。そんなことを言ってくれる施設はないです」と驚かれ、「それは、非常にナチュラルなことです。連休明けに、和夫さんの状態を見ながら判断しましょう」と受け入れてくれた。娘さんからも、「本当に助かります」と言っていただいた。
【里帰り:通夜】5月5日
和夫さんは残念ながら、連休が明ける前に息を引き取ったが、その日一晩だけ銀河の里に帰ってきてくれた。夜勤者の石井さんは、戻ってくる和夫さんの部屋を整えてくれていた。居室はすでにベッドから畳に換えられて和夫さんを待っていた。夜勤業務をしながら、職員への連絡や段取りを淡々と進めてくれていたことが、頼もしくも有り難かった。石井さんが「結果論ですが、あの時病院に送って良かったのか・・・ここで看てあげたかったなぁ」と、悔しそうに呟いたことも心に響いた。彼は今日の夜勤入りの前に、病院に和夫さんを見舞っており、今夜という時を深く受けとめていた。
グループの入居者と石井さんと私とで通夜を守る事になった。満月の静かな夜だった。私は和夫さんの部屋で、お線香を絶やさないように、時々和夫さんに話しかけながら口を濡らし、お通夜を過ごした。そんな尊い役が、私に与えられたこともありがたかった。
深夜2時に利用者の冬子さん(仮名)が通夜の気配を感じて、お線香を上げに来てくれた。背中をしゃんとして入ってくるが、ご遺体の前でヨヨと泣き崩れる。しかしすぐに姿勢を立て直し衣服の乱れを整え、正座をしてから静かに鐘を打ち、線香に火を点し手を合わせる。なんと見事な所作なんだろうと感心する。一連の儀式を終えると、私の方に向き直り、深々と礼をして「気を落とさないように」と声をかけてくれた。普段は和夫さんと対立することも多く、何かとぶつかり合った二人だったが、お別れは厳かに演じてくれた。
【朝のお見送り】5月6日
翌朝、和夫さんの奥さんと娘さん夫婦が来里され、利用者や早番のスタッフ、日勤者や他部署のスタッフも次々に集まり、お線香を上げてお別れをした。和夫さんの乗った車をみんなで玄関に出て見送った。雲ひとつない清々しい五月晴れと爽やかな風が私達を包んでいた。車が動き出すと、突然キリさん(仮名)は車を追って駆けだした。それにスタッフ前川さんも一緒に駆けて行った。私は歩行が不安定なゆう子さん(仮名)を気遣って腕を組んだはずなのに、ゆう子さんは逆に私の手をぎゅっと握って支えてくれていた。私は通夜の緊張が解けて、涙が出そうになった。
お見送りの後、皆さんが一列に並んでいる?私は上履きの足を拭く雑巾を待っているのかと思いきや、「お塩と水を持って来て!」と久美子さん(仮名)が仕切っている。そういう儀式をちゃんとやるのだなぁと私はあっけにとられる。「清めの儀式」なのでみんな神妙な面持ちだ。号泣した冬子さんといい、外に出るまではリビングでうとうと眠っていたキリさんが車を追って駆けだしたり、お見送り後の見事な神事を執り行う久美子さんといい、面食らうばかりだった。
【夢のあと・・・】5月8日
夢に和夫さんがでてきた・・・横たわっている和夫さんが枠から顔をだし、大きな目を見開いて私を見上げて頷いた。ビックリして目をさましたが、あの目は「すべて終わったよ」と知らせてくれているようだった。その日、娘さんから電話があり「火葬も葬儀も滞りなく終えました」という現実的な連絡が入った。
私は、神秘的な通夜の意味を考える。満開の桜から始まり、通夜の日の群青色の空に浮かぶ満月、お見送りの朝の見事な五月晴れ、そして入居者の「死者を送る」エピソードの一つ一つを、和夫さんからの貴重な贈り物として私の記憶に刻まれた。
93年間の人生、多くの傷を負ってきたであろう和夫さん。死を希求しながらも最後は生きることを選んだ。しかしそれはさらに傷を負い、傷だらけになることだったかもしれない。その傷を生きたことによって和夫さんは Disfigured Heroとして偉業を果たしたのかもしれない。できるなら、私も正統派のHeroより傷を生きるHeroを目指したい。
しかし今の私はどうだ?ちょっとした日常の出来事に、「やったぜ!」と有頂天になる軽薄さ、裏返しは「どうせ自分なんか」と、拗ねて開き直る卑怯な生き方だ。命をかけて戦うというのはコミックの世界であり、人のためといった大義名分は嘘臭くしか響かない。そんなリアリティのない刹那的な生き方しかできていない。今はたいした傷を負ってもいないし、傷つかないように逃げているだけかもしれない。きっと選ばれた使命の人には一撃がくるのだろう。「傷」を覚悟で選択する「生」なのか、「生」を覚悟したときに「傷」つかざるを得ないのか。
人が生きていくとき理不尽さや不平等は避けようもなく付きまとう。秋田巌さんの著書『人はなぜ傷つくのか−異形の自己と黒い聖痕』の冒頭、「それは人が人となっていくためだ」と結論づけている。その中で「原罪」・「原悲」と言った哲学や宗教的なところにも言及している。そうした事ごとに恨みと怒りで地団駄することは、私にも出来そうだ。しかし、強靱な意志を持って、己の責任でその傷を生き抜くとき、異才・異能を開花させDisfigured Heroとして変容する・・・ハードルは非常に高い。Disfigured Heroの候補者はそこら辺りに沢山いそうだが、大概傷つくことそのものから逃げ、巧妙に責任転嫁して自己を守っている。私もその中の一人だ。
和夫さんも長い間「死にたい」と逃げていた。ところが最後には傷を負うことを引き受けてDisfigured Heroになったのだと思う。その事を決意した背景に、日本の文化や精神性の象徴とも言える「桜」「畳の上」が大きく影響したと思う。今回、死を覚悟しなければならないほどの身体の衰えを自覚し、無気力で虚脱状態にあった和夫さんが病院で見た満開の桜と桜吹雪。潔く死ぬために美しく生きるという生と死の意味をそこに感じたのではないか。和夫さんはお国のために戦地に赴き、命を落とした戦友達のことをいつも想っていたし、薪運びや畑仕事等の外仕事だけでなく家の中ではいつも箒を手にして稼いでいた。稼げなくなれば死ぬしかないと思いながら、どこかではまだ生きていきたいとの葛藤があったように感じる。老いや病という一撃を食らいながら、その傷を引き受けるか否か。破滅か破格の正念場。原罪の感覚のない日本人は「深い傷を負ったときに、ようやくその傷が初めてその人の土台となりうる」という。生きていくことが困難になるほどの大きな傷が我が身に降りかかるが、それは天から送られてきた契約書で、自ら署名をしたものだけがDisfigured Heroになり得るという。これもまた厳しい話だが、生きるとは本質的にはそうしたことなのかもしれない。
私は桜を見る度に、和夫さんの生き様を思い続けていた・・・そして今、季節は少し巡り、新緑のまぶしさにいのちの躍動を感じる。日本の四季の移り変わりは、まさに人生の巡りと重なって、私の中では理屈抜きの永遠性を担保してくれているように思う。
存在 ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2015年4・5月号】
特養のユニット‘おりおん’で、私はよくモエさん(仮名)と喧嘩をする。きっかけは凄くつまらない事だが、お互い気に入らないと文句を口に出さずにはいられないタイプなのでちょこちょこぶつかる。言い合いになると、リビングの空気は刺々しくなったり重ぉ〜くなったりするのだが、そんな時に必ず遠くから見ていてくれる人がいる。それがシノさん(仮名)だ。シノさんもまた独特の世界を持っている人で、いつもニンマリ不敵な笑みを浮かべている。だからと言って近寄りがたい感じではなく、周りにはいつも人が集まる。「えっへっへっへっへ!」と楽しそうに笑う、表情も言葉も豊かなシノさんが、私たちの喧嘩を見てくれていると、ホッとした気分になる。シノさんの笑顔で私の心もほぐれ、いつの間にかモエさんとも仲直りしている。そんな具合だ。
もともとシノさんは里のデイサービスを利用しており、去年の春、特養入居となった。入居後すぐに人気者になったシノさんだが、いつも独特すぎる世界にいるのでスタッフは追い切れず、お喋りでよく笑う、ただの「おもしろおばあちゃん」としてしか捉えられない時期もあったと思う。
そんなシノさんから不思議な言葉をもらったのは、この冬のことだっだ。私は、秋頃(アフリカンダンス後)からどこか気が抜けてしまった感じだった。ちょうど新人の青柳さんが11月に‘おりおん’に配属になり、医療面や基本的な介助の動きを教える日々だった。教えなきゃ、伝えなきゃ、大事な事が抜けないようにしなきゃ・・・1月頃まで、私はそういう「今日は何をすべきか」で動いていたように思う。大事な新人。初めて自分より年下のスタッフがユニットに入ったという緊張感もあったのかもしれない。育てたい、一緒にやっていきたいという気持ちは、恐らく自分で気付かないうちに焦りになっていた。そんな状況の私は、ユニットの利用者さんの変化や様々に展開している個々の動きを追えずにいた。
その事に気付かせてくれたのは、モエさんだった。些細なことでスタッフと言い合いになることの多いモエさんだが、一方で、家族と繋がれないもどかしさや寂しさ、色々な課題やテーマを抱えた人だ。モエさんは、この一年で、かなり大きく変わった。スタッフに家族の事を語るようになり、素直に自分の不安や思いを伝えてくれるようになった。今まではそんなモエさんの動きを「今日あった出来事」というエピソードとしてしか捉えていなかったのだが、ある時ハッと気付いた。モエさんは動いている。季節が変わるように、川が流れるようにモエさんも確実に自身の物語をすすめていた。その事に気付いたら、他の利用者さんの動きも見えるようになってきた。
秋からずっと、私は自分のこなすべき事ばかりに必死で、新人に伝えてきた内容も業務中心になっていた・・・。それに気付いた途端、一気に不安になった。この三ヶ月を取り戻せるだろうか、利用者のみんなに追いつけるだろうか、と恐くなって、理事長との面談でも話を聞いて貰った(思い返せば、この時期の面談は、利用者さんの事ではなく、ほとんど業務的なものだったように思う)。
何とかリスタートをきろう、そしてみんなに追いつこう、取り戻そう!ともがき始めた時に、シノさんの言葉があった。夜、シノさんと寝る準備をして「今日もありがとう」と何気なく話すと、「おめさんは〜?大丈夫だっか〜?」そして、真顔で「おめがやらねんだば、おらもやらねよ〜」とニヤリ・・・笑った。
私はこの台詞にかなりの衝撃を受けた。動こう、リスタートをきろうとしている時のこの言葉。「“おめが”やらねんだば、“おらも”やらね」・・・『見ててやるから、止まらないで、しっかりやりなさい』と聞こえた。舵をきるのを託された様な感覚だった。動く事、感じる事・・・私が動けなかったこの数ヶ月の事、そして動こうとしたこの時、私の不安やもどかしさ、焦りも、シノさんには全てお見通しだったのだろう。大事な言葉を一番大事な時にくれる神様のようだった。
空っぽの三ヶ月は、きっと取り戻す事は出来ない。月日は戻せない。けれど、このおかげで大きな「存在」を目の当たりに出来た(きっと、これが無ければシノさんは「おもしろおばあちゃん」で終わってしまっていた)。魔法使いの様なシノさん、はるか雲の上にいて、私たちの事なんかぜぇ〜んぶお見通し。守って、癒して、支えてくれる・・・並大抵の人には出来ない凄さで、シノさんは、今でもユニットの喧嘩や騒動を笑って見てくれている。時にはヤジも飛ばし、時には誰にも気付かれない様にひっそりと笑っている。そんなシノさんの存在に私は支えられる。居てくれるだけでいい、そんな人が居てくれるだけで・・・その存在が大きな力を与えてくれる。シノさんがくれる言葉に、私はいつも勇気をもらっている。だから、どんなに凹む事があっても、やるせない時があっても、頑張ろうと思える。その言葉・勇気をめいっぱい噛みしめながら、ユニットのみんなの物語を見ていきたいと思う。
もともとシノさんは里のデイサービスを利用しており、去年の春、特養入居となった。入居後すぐに人気者になったシノさんだが、いつも独特すぎる世界にいるのでスタッフは追い切れず、お喋りでよく笑う、ただの「おもしろおばあちゃん」としてしか捉えられない時期もあったと思う。
そんなシノさんから不思議な言葉をもらったのは、この冬のことだっだ。私は、秋頃(アフリカンダンス後)からどこか気が抜けてしまった感じだった。ちょうど新人の青柳さんが11月に‘おりおん’に配属になり、医療面や基本的な介助の動きを教える日々だった。教えなきゃ、伝えなきゃ、大事な事が抜けないようにしなきゃ・・・1月頃まで、私はそういう「今日は何をすべきか」で動いていたように思う。大事な新人。初めて自分より年下のスタッフがユニットに入ったという緊張感もあったのかもしれない。育てたい、一緒にやっていきたいという気持ちは、恐らく自分で気付かないうちに焦りになっていた。そんな状況の私は、ユニットの利用者さんの変化や様々に展開している個々の動きを追えずにいた。
その事に気付かせてくれたのは、モエさんだった。些細なことでスタッフと言い合いになることの多いモエさんだが、一方で、家族と繋がれないもどかしさや寂しさ、色々な課題やテーマを抱えた人だ。モエさんは、この一年で、かなり大きく変わった。スタッフに家族の事を語るようになり、素直に自分の不安や思いを伝えてくれるようになった。今まではそんなモエさんの動きを「今日あった出来事」というエピソードとしてしか捉えていなかったのだが、ある時ハッと気付いた。モエさんは動いている。季節が変わるように、川が流れるようにモエさんも確実に自身の物語をすすめていた。その事に気付いたら、他の利用者さんの動きも見えるようになってきた。
秋からずっと、私は自分のこなすべき事ばかりに必死で、新人に伝えてきた内容も業務中心になっていた・・・。それに気付いた途端、一気に不安になった。この三ヶ月を取り戻せるだろうか、利用者のみんなに追いつけるだろうか、と恐くなって、理事長との面談でも話を聞いて貰った(思い返せば、この時期の面談は、利用者さんの事ではなく、ほとんど業務的なものだったように思う)。
何とかリスタートをきろう、そしてみんなに追いつこう、取り戻そう!ともがき始めた時に、シノさんの言葉があった。夜、シノさんと寝る準備をして「今日もありがとう」と何気なく話すと、「おめさんは〜?大丈夫だっか〜?」そして、真顔で「おめがやらねんだば、おらもやらねよ〜」とニヤリ・・・笑った。
私はこの台詞にかなりの衝撃を受けた。動こう、リスタートをきろうとしている時のこの言葉。「“おめが”やらねんだば、“おらも”やらね」・・・『見ててやるから、止まらないで、しっかりやりなさい』と聞こえた。舵をきるのを託された様な感覚だった。動く事、感じる事・・・私が動けなかったこの数ヶ月の事、そして動こうとしたこの時、私の不安やもどかしさ、焦りも、シノさんには全てお見通しだったのだろう。大事な言葉を一番大事な時にくれる神様のようだった。
空っぽの三ヶ月は、きっと取り戻す事は出来ない。月日は戻せない。けれど、このおかげで大きな「存在」を目の当たりに出来た(きっと、これが無ければシノさんは「おもしろおばあちゃん」で終わってしまっていた)。魔法使いの様なシノさん、はるか雲の上にいて、私たちの事なんかぜぇ〜んぶお見通し。守って、癒して、支えてくれる・・・並大抵の人には出来ない凄さで、シノさんは、今でもユニットの喧嘩や騒動を笑って見てくれている。時にはヤジも飛ばし、時には誰にも気付かれない様にひっそりと笑っている。そんなシノさんの存在に私は支えられる。居てくれるだけでいい、そんな人が居てくれるだけで・・・その存在が大きな力を与えてくれる。シノさんがくれる言葉に、私はいつも勇気をもらっている。だから、どんなに凹む事があっても、やるせない時があっても、頑張ろうと思える。その言葉・勇気をめいっぱい噛みしめながら、ユニットのみんなの物語を見ていきたいと思う。
日誌の力 ★グループホーム第2 亀田貴慎【2015年4・5月号】
3月に102歳の誕生日を迎えた豊さん(仮名)は、入居14年の銀河の里、最年長の重鎮だ。一方の私は今年の新人なのだが、初めてお会いしたときの印象は、緊張感をまったく抱かせない人、もっと言えば「・・・寝てる」人だった。食事の時も、目をつぶったまま口を動かす。それでも、たまに開く目はとてもつぶらで、マスコットキャラクターのような親しみやすさがある。口元は「むふっ」としていて、力が抜けている。豊さんの人柄がそのような印象を私に与えたのだろう。
初めの印象はそのようだったが、私としては近づき方が分かりかねていた。豊さんは言葉を紡ぐことが少ないので、言葉によるコミュニケーションの世界しか知らないような私には、どう繋がったら良いのか全く分からず遠い存在だった。いつもどこか遠くを見つめているようだし、話しかけても返ってくるのは「うん」や「あぁ〜」など。身体は目の前にあるけれども、遠いどこかに居るような感じ。私の問いかけにもかろうじて「はい/いいえ」で答えてくれるが、豊さんの語りは聞けなかった。自発的な語りは聞けても、そうでない豊さんのような人と関わることがとても難しい自分であることに気づかされた。102歳の豊さんを遠く感じながらこの数ヶ月を一緒に過ごしていた。
そんなおり、理事長に「新人研修で、豊さんのバナナの威力」を発表してみないかとの話がきた。遠くて苦手な豊さんを言葉で表すことを求められて、私は正直、途方に暮れた。語りのない豊さんを、言葉で表さなければならないという先入観があった。
ただ、意識することで、私なりの現場のアプローチにもヒントを見いだした。豊さんには言わば「ゴールデンタイム」があって、これは、普段は遠いところに居て、こちらの呼びかけも届かず、言葉を紡がない豊さんが、ほんの少しの間だけ、近くに来てくれる時間があることに気がついた。私はこのゴールデンタイムに、言葉で挑んでみることにした。いろんな質問をしてみた。少しばかり手応えは感じたが、限られた時間では豊さんに出会って何かを書き上げるところまでは行かなかった。
困ってしまって、苦肉の策。次は豊さんの一挙手一投足をじっくりと観察することにした。身体は間違いなく目の前にあるのだから、それを見ることで何か得られるのではないかと思った。ゆっくりとした動き、頑丈な体、たまにテーブルをバンバンと叩く手、いつも組んでいる足、ご飯を食べるときとバナナを食べるときの口の動きの違い、などなど、気がついたことはたくさんあった。それでも凝視するだけでは、豊さんの全体像に迫れない感じが残った。
言葉もダメ、観察してもダメ・・・。お手上げだ。本当はこの時点で、残されたもう一つの方法に気づいていた。「豊さんのこれまでの様子が記された日誌を読む」ことである。しかし私はこれを意識的に遠ざけていた。あくまで「私から見た豊さん」について書くのであって、「誰か他の人から見た豊さん」からネタを借りてきて書くのではない、と思い込んでいたのだった。それでも私が捉える豊さんは、今という一つの「点」に過ぎず、「102歳である」「立派な体格である」「よく寝ている」「あまりしゃべらない」「夜中に大きな声を出している」「たまにゆっくり動く」など、せいぜいこのくらいで表せてしまう。豊さんという人間と人生を、「長生きの男性」にとどめてしまったままだった。
いよいよ降参だ、と思った私は、藁にもすがるような気持ちで日誌を読んでみた。豊さんの、銀河の里での14年間は、大きな二冊のバインダーに凝縮されていた。その分厚さに驚きながら、日誌を紐解いてみると、そこには様々な人(スタッフ・利用者)によって照らし出された豊さんが見えてくるようだった。衝撃だった。まるで違う豊さんの世界が開けてきた。いろんな人たちの視点、いろんな人とのやり取り、そこから浮かび上がるように見えてくる豊さんの人間像。日々の記録には、他愛もない会話や様子など、一見本当にありふれたことしか書いてないのだが、しかし、このありふれた日々のひとつひとつを丁寧に拾い上げてきた14年間の集積が、この分厚い日誌なのだ。私はこの日誌を、豊さんを語った一冊の本のように感じた。
この「本」によって、私の中の豊さんの像が激変した。スタッフのことを気にかけてくれたり、素敵なユーモアのセンスの持ち主だったりすることが、私が感じた親しみやすさと繋がった。生まれつきの弱視という運命を背負ってきたからこその、あのつぶらな瞳なのだということも。暑いのが苦手で、夏には食欲が落ちる豊さんの命を何度も繋いできたのがバナナだった、という「バナナ伝説」を聞いてはいたが、ずっと前の日誌に「好きな色は黄色」と書かれているのを見つけて思わずニヤリとしてしまったりした。今まではただ単に立派な体格だと思っていたその身体も、がんばって生き抜いてきたことを表しているんだと感じられるようになった。お花見の出発前に、帽子を(今までに見たことのない素早い動きで)サッと被りなおしたのを見て「紳士だ・・・」と感じたのも、日誌を見ると的外れではなかったことも分かった。
夜、一晩中、大きな声でうなっているのも、どうやら昔から気合を入れるときには大きな声を出す人だったらしく、そして時間の縛りからも自由だった人のようで、きっと今、遠いどこかで気合を入れているんだな、がんばっているんだな、と思えて、何だか応援したくなってきたり・・・などなど。
日誌は、何人ものスタッフによって書かれているし、登場人物も多岐に渡るので、そこには幅や、厚みがあり、自然と特徴が生まれる。特に里の日誌は特徴があって、スタッフの「主観」が縦横に表現されている。日誌には多くのスタッフと豊さんの「関係」が記されている。豊さんとスタッフの会話がいろいろと書き残されていて、それを読むと豊さんの人間像だけでなく、そこにいたスタッフの人間像も同じように見えてくる。豊さんと関わってきた人たちの記録。その書き方はスタッフによってまちまちであるが、だからこそ、スタッフの個性と、それによって照らされて光る、たくさんの豊さん像が現れてくる。その豊さん像はとても豊かなイメージを持つものであり、そして日誌は、人間味であふれている。一人の人によって書き上げられた本とは違い、時々によってばらばらの印象を与える内容になっているかもしれないが、それら全ての印象、イメージは最終的に「豊さん」という一人の生きている人間を表現している。日誌の全ては豊さんから出てきたものであり、そして日誌の全ては、豊さんに返っていくように思った。
14年分の膨大な日誌の、まだほんのさわり程度しか読めてはないが、それだけでもたくさんの気づきが得られた。この気づきは新たな目となって私の世界を広げてくれたように感じる。今という点だけを捉える古い目では、豊さんの今の姿を表面的にしか見ることが出来ず、それは豊さんの人柄や、過ごしてきた時間の味を失わせるような、とても冷たく狭い目だったと思う。一方で新しい目は、今という点を大事にしながらも、そこだけにとどまらず、過去や、多くの人々や、いろんな場所を訪ねてイメージを広げて、そして今に帰って再び今の豊さんを見つめなおす。時間や場所に限定されない通路がどこかにある。この通路とは恐らく、豊さんと私を繋ぐ関係そのものであり、それが開かれることによって、私にとっての豊さんは「長生きの男性」という表面的なイメージを越えて深みや味を取り戻す。
今回の発見によって、豊さんに限らず、他の利用者の方とも繋がっていく道が開けていく感じがした。同じ場所、同じ人たちの間に居ても、今までとこれからでは、見える世界は大きく変わってくるだろう。私も、日々のありふれた出来事を大切なこととして記していきたい。そこに立ち現れてくるのは豊さんだけではなく、私だけでもない、多くの人、時、場所全てを包んだ関係の歴史、すなわち人生そのものであるような気がする。
介護の現場は、一般に理解されている印象とはかけ離れて、日々を、様々な人を、あるいは日誌を通じて深く人間に迫り、人と人の関係を繋ぎ、人生を紡いでいく奥深い人間理解の場であると、新人の私は豊さん達から教えられたように思う。
初めの印象はそのようだったが、私としては近づき方が分かりかねていた。豊さんは言葉を紡ぐことが少ないので、言葉によるコミュニケーションの世界しか知らないような私には、どう繋がったら良いのか全く分からず遠い存在だった。いつもどこか遠くを見つめているようだし、話しかけても返ってくるのは「うん」や「あぁ〜」など。身体は目の前にあるけれども、遠いどこかに居るような感じ。私の問いかけにもかろうじて「はい/いいえ」で答えてくれるが、豊さんの語りは聞けなかった。自発的な語りは聞けても、そうでない豊さんのような人と関わることがとても難しい自分であることに気づかされた。102歳の豊さんを遠く感じながらこの数ヶ月を一緒に過ごしていた。
そんなおり、理事長に「新人研修で、豊さんのバナナの威力」を発表してみないかとの話がきた。遠くて苦手な豊さんを言葉で表すことを求められて、私は正直、途方に暮れた。語りのない豊さんを、言葉で表さなければならないという先入観があった。
ただ、意識することで、私なりの現場のアプローチにもヒントを見いだした。豊さんには言わば「ゴールデンタイム」があって、これは、普段は遠いところに居て、こちらの呼びかけも届かず、言葉を紡がない豊さんが、ほんの少しの間だけ、近くに来てくれる時間があることに気がついた。私はこのゴールデンタイムに、言葉で挑んでみることにした。いろんな質問をしてみた。少しばかり手応えは感じたが、限られた時間では豊さんに出会って何かを書き上げるところまでは行かなかった。
困ってしまって、苦肉の策。次は豊さんの一挙手一投足をじっくりと観察することにした。身体は間違いなく目の前にあるのだから、それを見ることで何か得られるのではないかと思った。ゆっくりとした動き、頑丈な体、たまにテーブルをバンバンと叩く手、いつも組んでいる足、ご飯を食べるときとバナナを食べるときの口の動きの違い、などなど、気がついたことはたくさんあった。それでも凝視するだけでは、豊さんの全体像に迫れない感じが残った。
言葉もダメ、観察してもダメ・・・。お手上げだ。本当はこの時点で、残されたもう一つの方法に気づいていた。「豊さんのこれまでの様子が記された日誌を読む」ことである。しかし私はこれを意識的に遠ざけていた。あくまで「私から見た豊さん」について書くのであって、「誰か他の人から見た豊さん」からネタを借りてきて書くのではない、と思い込んでいたのだった。それでも私が捉える豊さんは、今という一つの「点」に過ぎず、「102歳である」「立派な体格である」「よく寝ている」「あまりしゃべらない」「夜中に大きな声を出している」「たまにゆっくり動く」など、せいぜいこのくらいで表せてしまう。豊さんという人間と人生を、「長生きの男性」にとどめてしまったままだった。
いよいよ降参だ、と思った私は、藁にもすがるような気持ちで日誌を読んでみた。豊さんの、銀河の里での14年間は、大きな二冊のバインダーに凝縮されていた。その分厚さに驚きながら、日誌を紐解いてみると、そこには様々な人(スタッフ・利用者)によって照らし出された豊さんが見えてくるようだった。衝撃だった。まるで違う豊さんの世界が開けてきた。いろんな人たちの視点、いろんな人とのやり取り、そこから浮かび上がるように見えてくる豊さんの人間像。日々の記録には、他愛もない会話や様子など、一見本当にありふれたことしか書いてないのだが、しかし、このありふれた日々のひとつひとつを丁寧に拾い上げてきた14年間の集積が、この分厚い日誌なのだ。私はこの日誌を、豊さんを語った一冊の本のように感じた。
この「本」によって、私の中の豊さんの像が激変した。スタッフのことを気にかけてくれたり、素敵なユーモアのセンスの持ち主だったりすることが、私が感じた親しみやすさと繋がった。生まれつきの弱視という運命を背負ってきたからこその、あのつぶらな瞳なのだということも。暑いのが苦手で、夏には食欲が落ちる豊さんの命を何度も繋いできたのがバナナだった、という「バナナ伝説」を聞いてはいたが、ずっと前の日誌に「好きな色は黄色」と書かれているのを見つけて思わずニヤリとしてしまったりした。今まではただ単に立派な体格だと思っていたその身体も、がんばって生き抜いてきたことを表しているんだと感じられるようになった。お花見の出発前に、帽子を(今までに見たことのない素早い動きで)サッと被りなおしたのを見て「紳士だ・・・」と感じたのも、日誌を見ると的外れではなかったことも分かった。
夜、一晩中、大きな声でうなっているのも、どうやら昔から気合を入れるときには大きな声を出す人だったらしく、そして時間の縛りからも自由だった人のようで、きっと今、遠いどこかで気合を入れているんだな、がんばっているんだな、と思えて、何だか応援したくなってきたり・・・などなど。
日誌は、何人ものスタッフによって書かれているし、登場人物も多岐に渡るので、そこには幅や、厚みがあり、自然と特徴が生まれる。特に里の日誌は特徴があって、スタッフの「主観」が縦横に表現されている。日誌には多くのスタッフと豊さんの「関係」が記されている。豊さんとスタッフの会話がいろいろと書き残されていて、それを読むと豊さんの人間像だけでなく、そこにいたスタッフの人間像も同じように見えてくる。豊さんと関わってきた人たちの記録。その書き方はスタッフによってまちまちであるが、だからこそ、スタッフの個性と、それによって照らされて光る、たくさんの豊さん像が現れてくる。その豊さん像はとても豊かなイメージを持つものであり、そして日誌は、人間味であふれている。一人の人によって書き上げられた本とは違い、時々によってばらばらの印象を与える内容になっているかもしれないが、それら全ての印象、イメージは最終的に「豊さん」という一人の生きている人間を表現している。日誌の全ては豊さんから出てきたものであり、そして日誌の全ては、豊さんに返っていくように思った。
14年分の膨大な日誌の、まだほんのさわり程度しか読めてはないが、それだけでもたくさんの気づきが得られた。この気づきは新たな目となって私の世界を広げてくれたように感じる。今という点だけを捉える古い目では、豊さんの今の姿を表面的にしか見ることが出来ず、それは豊さんの人柄や、過ごしてきた時間の味を失わせるような、とても冷たく狭い目だったと思う。一方で新しい目は、今という点を大事にしながらも、そこだけにとどまらず、過去や、多くの人々や、いろんな場所を訪ねてイメージを広げて、そして今に帰って再び今の豊さんを見つめなおす。時間や場所に限定されない通路がどこかにある。この通路とは恐らく、豊さんと私を繋ぐ関係そのものであり、それが開かれることによって、私にとっての豊さんは「長生きの男性」という表面的なイメージを越えて深みや味を取り戻す。
今回の発見によって、豊さんに限らず、他の利用者の方とも繋がっていく道が開けていく感じがした。同じ場所、同じ人たちの間に居ても、今までとこれからでは、見える世界は大きく変わってくるだろう。私も、日々のありふれた出来事を大切なこととして記していきたい。そこに立ち現れてくるのは豊さんだけではなく、私だけでもない、多くの人、時、場所全てを包んだ関係の歴史、すなわち人生そのものであるような気がする。
介護の現場は、一般に理解されている印象とはかけ離れて、日々を、様々な人を、あるいは日誌を通じて深く人間に迫り、人と人の関係を繋ぎ、人生を紡いでいく奥深い人間理解の場であると、新人の私は豊さん達から教えられたように思う。