2015年03月15日

毎アル:特養編 “老いてなほ花なり”荒ぶれる神々の「初詣」★施設長 宮澤京子【2015年2・3月号】

 義母が特養入居になって一年が過ぎようとしている。その間に、義母は何度か自宅に戻るための独特な演出を試み、スタッフや家族を窮地に追い込んだあげく、最後は社交の笑いでオチをつけるという幾つかの武勇伝を持っている。(あまのがわ通信2013年7月号、2014年3月号、5月号参照)
ここしばらくそんな動きもなく、特養ホームに馴染んで日々を過ごしているように見えた。ポマードを塗りつけた髪は、88歳とは思えぬ黒髪で、見事な光沢を放っている。時々おでこに貼り付けた“冷えピタ”は、幸いにも長方形であるが、それがどこか三角形に見えてしまうくらい妖怪度を上げてきている。
 義母は信仰心のある人で、入居前は、夕方にお題目を大きな声で唱えることが自宅での日課だった。一心不乱に唱える姿を、嫁である私は隙間からちらりと見ていた。クライマックスには、「何でこんなむごい目に遭わせるんですか!はやく死なせてください、殺してください」と絶叫する。その全身全霊の激しさにこちらが震えるほどだった。その時間が終わって顔を会わせると、まるで何事もなかったかのように社交的な笑顔で「いつもお世話になっております。これからもどうぞよろしくお願いします」と深々とお辞儀をする。この激しさと穏やかさの切り替えの見事さが、ますます私を動揺させた。クリスチャンである私の信仰が如何に生ぬるいものであり、上っ面であるかを見せつけられる瞬間でもあり、結局私はその時間に対峙できず、お題目が始まる度に家を空けるようになった。

 今年になって、恒例になっている特養の初詣に、居室担当の川戸道さんから「一緒に、いかがですか?」と誘われた。しかし、あの義母は神社には行かないと私は思っていたので「義母が承諾したなら・・・」と返した。自分の信仰以外の神様に手を合わせるなどしないだろうし、義母は寒さを極端に嫌うので、冬季の外出に「うん」と言うはずがない。私自身もクリスチャンとして一神教の信者が、神社やお寺を詣でる事には抵抗があった。今はかなり柔軟になり、手を合わせる対象より、手を合わせる姿勢こそが大切と思うようになった。自然や神仏に畏敬の念を持って真摯に願い祈ることは、この世に生きる人間が出来る唯一の「奇跡」かも知れない・・・。川戸道さんから「チヨ子さん(仮名)、初詣に行くと言ってます」との連絡を受け、複雑な気持ちながら一緒に出かけようと思った。
 初詣当日、私はかつて義母にプレゼントした曰く付きの白いダウンジャケットを着て出勤した。「無くした」だの「盗られた」と言って大騒ぎし、いくら探しても探し出すことが出来なかったダウンジャケット。しかし入居が決まった後、不思議にも玄関の衣紋掛けにかけられていた。私の中の宗教に対する不節操な日本人のDNAが誘惑したのか「厄除け効果があるかも知れない」と義母のダウンに初めて袖を通した。朝の天気は、「微妙・ビミョー」だった。雪がちらつくものの、時折太陽が顔を出し青空も見える。と思うと一転猛吹雪の様相。「こりゃ、スタッフも行くか行かないか、悩むだろうな。延期といったところかな」と半ば諦めかけていた。ところが「今日の初詣、決行します。ですが、チヨ子さんが行かないと言っているので説得をお願いします」という内線が事務所に入る。特養のオリオンに駆けつけると、スタッフが数人、困り果てた様子で義母を取り囲んでいた。義母の形相は、暗く硬く険しい「不動岩」のようだった。すでに、行く人は車に乗り込んでいるし「何で今、出発という段になって、心変わりをしたのですか?皆さんにご迷惑でしょ」と、私は責める気持ちにさえなった。結局「じゃ、私がお義母さんの分も拝んでくるよ」ということにし、私は義弟のヒロ君にお母さんの見守りを頼もうと、自宅に戻った。ヒロ君が不自由な身体を揺らしながら玄関で靴を履いていたとき、携帯に「チヨ子さん、行くことになりました」と連絡が入った。「またのどんでん返し!やってくれるなぁ」と苦笑する。玄関に義母の登場!そのとき私はその出で立ちに度肝を抜かれた。首から下が真っ赤な毛布にくるまれていた。初詣に行くことを決めたときには雪はやんでいたが、玄関を出るときは、また風と雪が舞っていた。あわてて私の首に巻いていたエンジ色のマフラーを頭に掛けると、全身赤ずくめになった。吹雪の中、真っ赤なものが異彩を放っている。行くだの行かないだの大騒動がなければ、この大胆な装束にはならなかっただろう。
 リーダーの齋藤さんが「雪がひどい場合は無理せず、車中からお参りしましょう」と声を掛け、定刻を少し過ぎて2台のワゴン車は出発した。車いすで乗車した義母は、具合が悪いのか顔色は土気色で、硬く目を閉じていた。「無理して連れてきて、大丈夫だろうか」と不安になった。20分ほどのドライブで神社に着いたときは、さらに猛吹雪だった。車を降りて境内に入ることは難しいので、駐車場に一旦車を止めて吹雪の収まるのを待った。しかし吹雪は収まりそうもなく、代表してスタッフに拝んできてもらうことになった。ところが「ここまで来て拝まないのはもったいない」と桃子さん(仮名)が「おれも行く」と言い出した。せっかく来たんだから少し無理しても行きたい人は行こうとなって、義母に拒否されることを前提に「行きますか?」と聞くと「行く」言う。何度確認しても行くと言うので根負けして、「じゃ、行こう」と私は義母の車いすを押して行くことにした。ますます激しくなる吹雪であったが、顔に当たる風雪は、なぜか心地よかった。お賽銭を私と義母の二人分入れ、鐘を鳴らそうとしたら、そこに紅白の布が垂れ下がっていた。私の白ダウンと義母の真っ赤な出で立ちが、神社の紅白の鐘の綱に巻き付いた紅白の布と重なった。この重なり具合は偶然とはいえ、どうだ。もうそれだけで御利益をもらったような気がした。(この「紅白」の意味はもっと深く、それをあとで知らされることになる。いつか「あまのがわ通信」で紹介できればと思う)
 昨年一年間、銀河の里で亡くなった高齢者の方達のご冥福をお祈りし、今年も義母の健康が守られるように願った。義母が何を祈ったかは怖くて聞けなかった。(家のいつもの神様と違うから、きっと本音をぶちまけず、社交で祈ったのではないかと・・・)

 里の高齢者の初詣は、生き神様の迫力に圧倒されるのだが、今年もやっぱり凄かった。吹雪が心地よく感じるほど、生き神様達の中でも選りすぐりの荒ぶれる神様達。里の今年一年も、そんな生き神様達に守られて暮らしがはじめられることに感謝である。スタッフが利用者に代わって引いたおみくじは、全員「大吉」だった。私が引いた義母のおみくじは「吉」であったが、境内を出た義母は、暗く硬い「不動岩」とは打って変わって、生気を取り戻してキラキラとした美しい笑顔で「ありがとうございます」を連発していた。家でも特養ホームでも変わりなく義母を演じてくれていることに安心した。これ以上の「大吉」を望むのは“欲張り”というものだ。

 義母は昨年からなぜか年取りの速度を速め、今年2月の誕生日が来ると92歳だと言い張っている。私がいくら「違う」と説明しても修正がきかず、年齢をも自在にコントロールする神の領域にいるようで恐れ入る。

 先日、能を見る機会があった。源平合戦のさなか劇的な運命に見舞われ、成仏できずにさまよう霊魂の二人の老武将を取り上げた「頼政」(シテ役:辰巳満次郎)と「実盛」(シテ役:観世喜正)の物語。どちらも前シテでは里の老人が現れ、後シテでは頼政、実盛の霊が登場するのだが、霊が呼び出される時のピンと張り詰めた緊張感と、高い笛の音と鼓の掛け合いが、臨場感を持って彼らの出現を予感させる。霊が演じる世界は、とても煌びやかで、武将として受けた屈辱や果たすことの出来なかった悔しさの情感がリアルに伝わってくる。老体が渋い演技によって花を咲かせる演目であり、老体を演じる演者の一挙手一投足に深い感動がある。世阿弥は「老いてなほ花なり」という言葉を残しているが、「老いたからこその花」に人生の深い美を見い出す。また霊の世界ゆえに、自由に幽玄の世界を演じられ、見る者のイメージが広がることを再認識させられた。

 「銀河の里」で沸き起こる不思議なエピソードの数々。それが見えるのは、能舞台における「あの世」と「この世」をつなぐ橋がかりが里にあるからではないかと思う。霊界に通じる橋がかりは、認知症高齢者の世界を、人生の荒波に鍛えられ、磨き抜かれた渋い老体の花と演技として見つめ、「存在」全体を受けとめようとするときに必要な仕掛だ。生き神様のような「性格」むき出しの本質が活躍し闊歩する銀河の里の舞台では、合理的な科学主義に取り込まれ、相互に管理し管理される現代人が陥った疲弊した状況に、衝撃と異変が起こる。そこには日本文化の琴線に触れる感動と、理屈ではなく「腑に落ちる」という納得がある。認知症高齢者の方々が大胆に煌びやかに舞い演じることのできる日常こそが、銀河の里の生命線であると実感した「初詣」だった。
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それぞれの夜 ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2015年2・3月号】

 夜がそんなに怖くなくなったのは、いつの頃からだっただろう? 子どもの頃は、夜が怖くて眠れないこともよくあった。いつの間にか忘れてしまっていたが、里での夜は、そのことを思い出させてくれる。
 「夜は長いねぇ」とユキさん(仮名)が言う。若い頃は、夜の12時くらいまでテレビを見て、朝の4時くらいには起きて草刈りをしていたそうだ。ここでの生活だと、夜の8時くらいには疲れて眠くなるのもあり、「頭痛いから、寝る!」となり、朝ご飯は皆と同じ朝の7時くらい。“みんなと一緒がいい!”からというのもあるが、これだと夜が長く感じられるのも当然だと思った。
 そんなユキさんは時々、夜に「おばけ出たぁ〜!白い着物着たの!」と、怖がっていることがある。私は初めの頃、“冗談か何か?そんなに怖がることなの?”くらいにしか思っていなかった。それが、初めてユニット‘こと’に日勤で入った日の夜、フミさん(仮名)が夜におばけを怖がっているのを見て、考えが変わった。同じような怖がり方をしていたのだが、それがずっと長く続くし、真に迫っている。ユキさんの姿が重なり、私自身の子どもの頃の夜が怖かった思い出がよみがえった。
 子どもの頃、夜が怖かったのは、暗闇の中に何かが潜んでいるように思えたからだ。夜の静寂の中、時計の秒針の音、木の葉の擦れ合う音、風の音、遠くで聞こえるサイレンの音、そんな全ての些細な音たちが、コチコチ、ザワザワと心を掻き乱した。手の平を天井に伸ばしてみても、暗闇で自分の手すら見えず、自分自身がいるのかいないのかも分からなくなる。このまま朝にならないで、ずっと夜が続くのではないかとさえ思えてくる。
 もちろん、感じ方というのは人それぞれで、ユキさんが怖がっているのは、そうした闇の怖さとは違ったものだろうし、ユキさんにとっての夜も違うものだと思う。でも、私にとっての夜の怖さは、そんな闇の深さからきた。それでも、私の感じた夜の永遠と、ユキさんの言う「夜は長いねぇ」は、どこか繋がっているように感じられた。フミさんに、「夜って、怖いものですよね?」と聞いてみたら、「うん。当たり前なんだよぉ〜。みんな忘れたフリしてるだけなんだ!」と言う。
 私は、忘れていたものを取り戻したくなり、思い切って夜中に遠野のデンデラ野を訪れた。初めて訪れる場所、もちろん街灯もなく真っ暗で、どこをどう進んでよいのかわからず、途中から歩いてそこを目指した。携帯のわずかな灯りを頼りに進んだが、自分の周り全てを包み込む闇の中には、本当に何か潜んでいるのではないかと思えるくらいだった。たどり着いたそこは、何もない場所。広々とした草原、遠くに森。私はきっと、“そこに行けば何かがある”と期待していたのだろうが、そこについてたたずむと、何を期待していたのだかも分からなくなった。ただ、しばらくそこに座っていた。
 そして、ふと空を見上げてみた。たくさんの星が輝いていた。小さな小さな星たちの光までも届いてくる。空に手を伸ばしてみた。微かな明かりに照らされて、自分の手がうっすらと見える。星を掴んだ。星の明かりが身体に染み込んでくるように感じられた。帰り道はほんのりと明るく、もう迷わなかった。星明かりというのは、こんなにも暖かいものだったのか。
 私が初めて夜勤に入ったのは、ツユさん(仮名)が特養に入居して初めての夜でもあった。この日、ツユさんは部屋で眠ることはなく、夜の間ずっとリビングに居て、語ってくれた。「やぁま〜に、きがあってぇ・・・くり、くりのき!このくらいの!かわあってぇ・・・」子どもの頃にテレビで見ていた“まんが日本昔ばなし”の語りを彷彿とさせる。「だれもしんじねぇけど・・・いまは足、ダメになってしまったからだけど・・・このあいだまで、あずき!あずき5升運んだんだぁ!」ニコニコとゆったりとした語り口で語るツユさん。暗く冷たい夜の中で、そこだけぼんやりと明るく、暖かかった。暖炉の火にあたりに行くような気持ちで、夜勤の合間あいまに、私は何度もツユさんのもとを訪れた。
 また別なある夜、私がキッチンで洗い物をしていたら、部屋から出て来たツユさん。おしり歩きで、クイッ!クイッ!とこっちの方に向かって来る。普段はリビングに出て来ても、部屋の入り口近くにいることが多く、自分からこちらに来ることは珍しい。「どうしたの?」と聞いてみても答えてくれず、ただ一心にキッチンを目指している。そして、キッチンに着くと、「ここさ、あるべ?」と。もしかして?と思い、洗い終わった食器の入ったカゴと食器拭きを、手元に下ろしてあげたら、真剣な表情で一枚一枚拭き始めた。ツユさんの拭くペースに遅れないよう、私も懸命に残りの洗い物を洗い続ける。何か話をできるような雰囲気ではなく、キッチンとその足元とで、ひたすら手を動かし続ける。終わった後、「ありがとう」と伝えたら、ニコッとして部屋にまたクイッ!クイッ!とおしり歩きで戻っていった。初めてのことで驚いたが、なんだかすごく力をもらえた感じがした。
 それぞれの夜にはさまざまなカタチがあって、そのなかには暗くて、冷たくて、怖い夜もある。でも、そんな夜を越えてゆける暖かさも、たしかにある。夜は怖い。でも、どうにかこうにか、私は越えてゆくことができそうだ。
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育休中に想う“里の女性性” ★デイサービス 米澤里美【2015年2・3月号】

 昨年の春に第三子がお腹に宿っていることがわかった。頭の上に何かいるんだろうな〜、漂っているかな〜というような感覚、魂の気配があった。意識では、いやいやまだ早いな〜と思っていたが、わかった時はとてもうれしかったし、自分の直感に驚いた。病院で確認してみると、鉛筆の芯程の大きさの赤ちゃんがいた。その2週間後には、しっかり心臓が動いていて、命の誕生というのは本当にあっという間で、理性や思考なんかぶっ飛んだところにあるのかもしれない。
 私の身体はみるみるうちに変化していった。お腹まわりはあっという間にふっくら。身体の中にもう一人の人間が“居る”という感覚は、異物感、制御不能という感じで、私の身体は完全に赤ちゃんに乗っ取られていた。動かない身体を動かそうと努力し、グループホーム第2へ通った。当時は新体制がスタートしたばかりで、新人スタッフに伝えたいことがいっぱいあったからだ。そんな私を見て、優子さん(仮名)は「あんたが欲しくて授かった子供でしょ?私は応援することはできるけど、守れるのはあんたしかいないんだから、大事にしなさい」と、私の無理を制した。
 そんななかフミ子さん(仮名)が突然倒れた。しばらく不整脈が続いてはいたが、「マグロだの卵だの食べたいなぁ」と気持ちはとっても元気だった。ある日の食事中、フミ子さんは突然意識を失った。食べ物が気道に入った窒息だった。「フミ子さん!まだダメ!まだ行っちゃダメだ〜!!」私は、スタッフの詩穂美さん、二唐さんも大声で叫びながら必死で応急処置をした。すぐに事務所やデイサービス、特養からもスタッフが駆けつけてくれ、救急車が来るまでになんとか意識は取り戻した。私はフミ子さんも赤ちゃんも連れて行かれてしまうイメージが湧き、内心、怖くて震えが止まらず、そのまま倒れて動けなくなってしまった。私の心臓と子宮がドクドクとしていた。
 フミ子さんは、病院につく頃には自分の名前を話せるまでに回復し、医師からはすぐホームに帰っても大丈夫、と言われた程だった。しかし、以前から不整脈が続いて心配だったため、病院嫌いのフミ子さんを説得して、念のための検査入院となった。ところが翌日の朝、フミ子さんは急変し、あの世に旅立った。一方、私の方は切迫流産とわかり、そのまま自宅療養となった。身体の強制終了という感じで、身動き取れない状態の中フミ子さんを想いながら眠りにつくと、フミ子さんの夢をみた。

 フミ子さんは、グループホームのいつもの部屋にいて、二唐さんと私を呼んでいる。フミ子さんは裸でいて、トイレに連れていくように頼む。私と二唐さんはフミ子さんと一緒にトイレへ行く。私たちはフミ子さんにオレンジ色のワンピースを着てもらい、車いすを押してリビングへ向かうと、気持ちのいい風が吹き、リビングはキラキラしている。

 フミ子さんは、今まではトイレは自分でしていたが、最近の体調不良が続いてからは、初めて介助に入らせてもらった。フミ子さんが着ている服は常に茶色や黒のズボンが多く、スカート姿は見たことがなかったので、とても印象的な夢だった。私は最期のお別れもできず悲しかったのだが、夢で会えたことにとても救われた。会えなくても魂はつながっていると思えた。
 昨年11月、グループホーム第1の前川さんから「ヨツ子さん(仮名)が入院中でターミナルかもしれない」と聞いていた。ヨツ子さんは、銀河の里に10年間暮らした方だ。とても女性的で、90代まで着物を着こなし、とても品がよく、現役の色気があった。「私のお部屋にいらして〜♡」と誘ってくれ、よく一緒に居室でおやつをご馳走になった。怒ると「てやんでぃ!バカヤロウゥ〜!」と鬼ヨツ子さんになるのだが、子宮の声そのままを全開にして生きているようなヨツ子さんが大好きだった。去年、他施設に移られたのだが、勝巳くんが他の利用者さんの受診で通院した際、ヨツ子さんの入院がわかった。
 前川さんは、電話でヨツ子さんの知らせを聞いたときには東京にいたのだが、聞いた直後に、ヨツ子さんの居室担当を10年担って昨年退職された西川さんに、偶然にも東京駅で会って、ヨツ子さんの近況を知らせたという。ヨツ子さんの身体は病床にありながらも、ヨツ子さんの魂の、空間を超えてつながる力に圧倒される。
 私の方は、連絡を受け、すぐにでも会いに行きたいけれど、切迫流産の危険があって身体が動かない状況は続いていた。その夜、微弱陣痛があった。10分間隔で痛みが来ては遠のき、その波は6時間くらい繰り返してやっと痛みは去った。翌朝、目が覚めるとヨツ子さんが他界されたと連絡をもらった。もしかして、私のお腹にノックしに来たのかもしれないな、と前川さんに話した。もうこの世界で会えなくても、ヨツ子さんの魂は近くに“ある”と感じられる。これらのエピソードは、単なる思い込みや偶然の出来事かもしれないし、科学的な根拠も証拠もない。だけど、私はそのとき確かに、フミ子さんやヨツ子さんを感じたのは事実だ。

 切迫流産が落ち着くと、転倒して顔に大怪我をした。怪我が落ち着くと、切迫早産となり入院となった。我ながらよくここまでいろいろ引き寄せてしまったものだと思う。身動きの取れない身体の強制終了は、“自分を見つめなさい”という赤ちゃんからのメッセージだろうと思うことにした。自分の内側とトコトン向き合う時間は出産するまで続くこととなった。頭痛がひどく座位をとるのも苦しくて、ほとんど寝て過ごした6ヶ月間だった。映画を見るか本を読むか、お手軽なのはスマートフォンだった。気になることを検索すると必要な情報がすぐに手に入った。そのとき、世間では妊活や子宮がブームになっていることに気づいた。SNSやブログ、You Tubeでは、実に多様な観点から性を語り発信している女性が多いことに驚いた。現代は男性社会に支配されていると思っていたけど、その時代は終焉し、女性性の時代に突入しているのかもしれない。さらに10年後は、認知症が5人に1人の時代になるという。男性社会の、制度やマニュアルや数字などでガッチガチに固まったモノ・コトが、緩やかにやわらかくなっていく・・・そんなイメージが湧いた。併せて、頑張ってきた女性の身体は妊活をしなきゃないぐらい、子宮は冷え冷えし、女性の疾患で悩んでいる方が多いことも知った。「子宮をあっためよう、子宮の声を聞こう・・・」と自らの人生を振り返り、今生きている体感から発信する女性たちの声は、とっても熱かった。
 子宮の声は魂の声、子宮は女性の神社、膣は産道(参道)という考え方がある。女性である私は、自らにパワースポットを持っているんだ! 私は私の参道をお清めし、お宮をお掃除し、奉納すること(つまり生きているだけ)、自分を大事にするだけで幸せなんだぁ・・・との考え方に妙に納得した。お宮のお掃除は頭で理解していなくても、しっかり身体がしてくれていた。月に一度ある月経は、私のお宮のお掃除だった。いつでも命を迎えるためのベッド作りでもありながら、イライラや痛みは溜め込んだ感情を吐かせたり、感情のお掃除をしてくれていたんだと私の身体に感動する。
 何かをしなきゃいけない、達成しないといけない、と思って頑張って身動き取れなくなると、動けない自分をただ責めて罪悪感を感じてきた。だけど、思考を静めてただ息を吸って吐いてるだけで、私のお宮にいる赤ちゃんが生きている。私は、女として生きて“いる・ある”だけで良かったんだなぁ・・・と思うと、どこか身体の力が抜けた。
 先月号で、理事長がクォールズ・コルベットの『聖娼』を取り上げ、里の女性性について触れていた。この本は、私が里で働き始めて間もない頃、理事長から借りた本だった。当時の私は読んでもピンとこなかったが、今ならじわじわ〜と沁みてくる。感情に揺らがない、システム化され構築された男性社会は、コルベットの言う“片足がもがれてしまった”状況かもしれないけれど、今の社会もここで一度何かが破壊され、再生されていくんじゃないだろうか。

 女性の身体の中で月に一度起こる「破壊と再生」。作っては壊し、作っては壊す、その繰り返しの中で女性は生きている。その破壊と再生に希望を見い出したい。
 里の現状は、物語が語られず、管理的、形式的な活動に終始し、崩壊寸前ではないかと理事長は嘆く。しかし、里に地母神や女性性が生きていると考えるならば、再生するために一度破壊される必要があり、破壊されなければ再生はない。そうやって、生命の物語はつながっていくにちがいないと信じたい。
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たましいのまなざし ★特別養護老人ホーム 中屋 なつき【2015年2・3月号】

 最近、ユニット‘すばる’で料理をする光景が増えた。控えめで大人しいスタッフ米田さんから何か表情や発言が出てこないかと期待して、「何かやりたいことはない?」とリーダー三浦くんが問いかけ続けた。そして、やっとこ出た声が「何か料理をしたい」だった。
 特養も5年目ともなると、開設当初はほぼ自立の生活を送っていた方も車イス生活になっていたり、食事量が減って体力も体重も落ちていたりと、身体状況の変化が激しく、生活の組み立て方にも今までとは違う工夫が必要となっていた。特にも祥子さん(仮名)の、毎日のように畑に出て稼いでいた姿や、生活のあれこれにやる気をみなぎらせ他利用者さんとケンカになるほど活き活きしていた姿は、今はもう見られない。身体の痛みや苦しさに顔を歪めて「だめだぁ・・・」と塞ぎ込み、食事も喉を通らなくなっていた。‘すばる’の中心的存在だったから、祥子さんが動かないとユニット全体の動きや表情も止まってしまったかのようだった。
 ちょうど悩み時でもあったので、「ユニットで利用者さんと一緒に料理をして、みんなでその雰囲気を味わい、みんなで美味しいモノを食べよう!」という提案はもってこいだった。まずは三浦くん提案の「キムチづくり」があった。手が真っ赤に染まり、リビング一帯がむわぁ・・・と何とも言えない強い香りに包まれた。キムチ・・・というより何か特別な漬け物といった感じの、不思議な味わいのモノができた。野菜を切ってくれた人、その切り方に物申したい顔でギッタリ睨んでいる祥子さん、タレの味見をしてあぁだこぉだ言っていた人、漬かり具合を気にかけながらみんなで待ちわびた時間・・・が、絶妙な調味料になったのかな?! 久々に活気に溢れた‘すばる’のリビングだった。

 さてその後、米田さんであるが、厨房から出る夕食献立に“まずは一品プラス”という控えめな企画でミニハンバーグを作った。豚バラを買ってくるはずが何を勘違いしたのかヒレ肉のブロックを買ってきた・・・というオトボケ全開なハプニングもあったが、「みんな美味しいって食べてくれました」と喜んでいた。米田料理第2弾は、‘すばる’特製キムチを使った「キムチ鍋」と決まった。
 当日は午後から仕込み。具材を切ったりしながら、リビングのテーブルをみんなで囲む。手は出さなくても口を出す人、コンロに煮立つ鍋からの湯気を見てニンマリしている人など、おのおの利用者さんの表情も出て、なかなかに賑わっている。そんななか、ちょうどショートステイに来ていた次郎さん(仮名)が、その日はなんだか少しイラめっていた。みんなのテーブルには座れず、‘ほくと’‘すばる’の間を行ったり来たりし、「はやく、はやく!」と焦っている? 鍋に近い席へお誘いしたら、やっと腰掛けてくれた。「腹が減ってるんだよ!」とか「はやく持ってこいよ!」と怒る次郎さんを、私は隣でなだめながら夕飯の仕上がりを一緒に待っていた。そのうち、次郎さんの表情が変わった。つみれを鍋に投入したり味付けの加減に迷って首をかしげたりしている米田さんをジッと目で追っている。あんなに急かしていたくせに目の前に来た皿を「来た来た!」でもなく、一口ぱくりとやっても「うまい!」とも何とも言わず、数口でなんかもう満足しちゃったような・・・。「もう食べないの?」と尋ねた私に、次郎さんは確信を持ったような表情でゆっくりと応えた。

 「今までは見えなかったけど、な、やっと顔が見えるようになったなぁ」
 一瞬、なんのことかわからなかった。次郎さんとのやりとりは聞き間違いの連続で噛み合わないことの方が多いし、独自のイメージ世界でストーリーがどんどん展開していくから、一言ひとことをじっくり味わうというよりは、その展開についていくのがやっとといった感じだ。でもこの時のこのセリフは、唐突ではあったけど、響いた。瞬間、「米田さんのことだ!」と、私も確信を持ってそう思った。同時に、そっちの席で聞いていた三浦くんと目が合ったが、同じくハッとした表情だ。思わず二人してバッと米田さんを見た。「な、そうだろ?」とでも言うように微笑んでいる次郎さんは、妙に満足気で深く納得したようにニコニコしている。すごかった、ありがたかった。
 鍋にかかりっきりだった米田さんには、次郎さんの言葉は聞こえなかったようだった。それでも、この次郎さんのセリフとまなざしは本当に力強かった。閉じ籠もりがちで、自分の思っていることをなかなか言葉に出せず、表情も硬かったこれまでの米田さんの姿を「今までは見えなかった」と見抜き、「やっと見えるようになった」と微笑む次郎さん。米田さんらしい表情やカラーがなんとか出てこないものか・・・とアプローチしてきたこちら側の想いまで、ちゃんとわかってくれていたんだと感動する。次郎さんは、ショートステイ利用で一ヶ月に一度だけ一泊のお泊まりに来るだけなのに、なんでここまで見事にわかるんだろうと驚く。新聞記者だった次郎さんは、甘いマスクで質問攻めにする取材モードになったり、急に気のいいじいちゃんモードでとぼけたセリフをかっ飛ばしたり、かと思えば、次の瞬間にはなんだか怒っていたり・・・なんとも憎めない味のあるお人柄で人気者だ。世間ではいわゆる重い認知症の人と言われている。でも、今回も、深いところで鋭く繋がるチカラで救い支えてくれる認知症の威力に、またしても感激させられた。

 鍋のあとで米田さんに次郎さんのセリフを伝えると「あぁ・・・」と、まだピンとはきてないようだったが、それからも米田さんは‘すばる’で「料理」を続けた。
 ギョウザをみんなで手作り・宮さんに教わったレシピで豆汁・煮魚・圧力鍋を使ってみよう・・・など、だんだんと「米田食堂」って感じになってきた。厨房のスタッフとレストラン研修にも行き、気に入ったメニューを再現してみようという計画も立てている。ミーティングでも発言するようになり、表情も豊かになって、よく笑うようになった。「里の小豆であんこを煮たい、そのあんこで小倉トーストを焼いて、祥子さんや澄子さん(仮名)に食べてもらいたい」と提案する米田さんも出てきた。そうやって、“米田さんのやりたいこと”によって‘すばる’の全体も動いていけばいい。「米田さんは、進む方向を決めるハンドルだね」と言われて、「私、重要ですね・・・」と自信なさそうに呟いていた頃とは大違いだ。チームには、ハンドルをしっかり支える三浦シャフトも、行く先の視界を見通しよくする千枝ワイパーもいる。勢いよく後押しする宍戸アクセルも、ふんわりガッチリ支えて安心を守る宮シートもいる。応援態勢バッチリだ。私は必要時に給油するくらいしかできないけれど、‘すばる’のチームが、利用者さんからいただくありがたいセリフや心強いまなざしをたくさん乗っけて、自由にのびのびとハンドリングしていってほしい。どこへ行くのか、どんな景色が見えてくるのか、行った先にどんな出会いが待っているのか、楽しみだ。
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理想の父親像だった浩文さん ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2015年2・3月号】

 去年の6月、浩文さん(仮名)がグループホームの入居者候補になった。デイサービス利用中だった浩文さんをグループホームに招いた。この頃はまだ入居者候補の一人だったのだが、初めてグループホームに足を踏み入れた浩文さんは、入居を、すでに自分で決めているかのようだった。デイサービスでは一人ひとりに挨拶し、「戦いだ」と万歳して出できたという。慣れない場所で少し緊張した面持ちの浩文さんだったが、おもむろに私の手を取って外に歩き出し、二人きりになったところで、「末永くよろしくお願いします、最後まで・・・頼むな、俺とずっと一緒に居てな、計画遂行を進めてください」という、腹を決めたかのような挨拶に驚いた。こうして、浩文さんをグループホームに迎えることが決まった。
 この頃、グループホーム第2には、何かが始まりそうで始まらない・・・繋がるようで繋がらない・・・そんな物足りなさがあった。浩文さんの独特で大胆な世界に私を巻き込んで開いてくれるような期待を感じていた。元トラック運転手だった浩文さん、「東京までの道わかるか?」と、私はトラック仲間になる。外に出て歩きながら、東京までどうやって荷物を運んで行ったらいいかと真剣に悩む浩文さん。この場をどうしようかと考える私、これを二人だけの世界でやっていると、私もだんだん苦しくなってくる。すると浩文さんは、玄関に戻って「おーい!油と免許証がないな〜、あるか!?」と言って、ホームの中と外を繋げてくれるように、リビングにいた職員にも声をかけて全体を巻き込む。この感じ!久しぶりに来たぞ!!と私はワクワクした。初日から職員を巻き込んで「みんなで力を合わせて、分担してやってください!」と語る浩文さんだった。
 浩文さんは和室に山盛りになっていた洗濯物を見て「なんだ、これは・・・」と、奥さんや娘さんの名前を呼びながら洗濯物をキレイに畳んでくれた。私はそのうしろ姿を見ながら、“家族をとても大切にする父親像”を感じた。父親という存在を知らずに育った私はとても感動した。理想の父親に会えたような気持ちがした。
 家族さんと離れて暮らすのは大丈夫かな?とスタッフの方が心配していたが、浩文さんはどっしりとしていて、「ここは家です、という気持ちでいますから」と腹が決まっていた。スタッフ一人ひとりをよく見て、不安を抱える職員には「大丈夫?しっかりね」と優しい言葉をかけてくれたり、「みんな協力してやってんだから渋い顔すんな」と喝を入れてくれることもあった。私には「力強く生きろ」と言葉をかけてくれた。私と利用者さんが激しくぶつかったケンカの場面では、「もめるな〜!まぁ、お茶でも飲んで」と間に入ってくれたり、「掘り返さないで、根に持ってたら、うまくやっていけないんだ」と仲裁に入ってくれた。リーダーの米澤さんが体調を崩して突然の産休休暇に入ったときは、「話し合ってしゃべっていけるように頑張ろう!」「楽しくやろうよ〜、頼むよ」「楽しむことが大事だ」とみんなをまとめようとしてくれた。浩文さんの穏やかでどっしりとした存在によって、グループホームの雰囲気がよくなることがたくさんあった。「生きるっていうのは難しいことなんだぞぉ。この家で俺にやれることあれば頼ってくれよな」と話してくれた夜もあった。夜遅くに他の利用者さんが起きていると、「まだ頑張ってた人いるな」と、自分が先に休むわけにはいかない働き者だった。
 当初、安定剤をたくさん服用していたので、少しずつ薬を減らしていこうという話も進んでいた。家族さんと協力しながら何度も通院した。一日のうちに不穏になる時間帯があり、スタッフも試行錯誤しながら浩文さんと向き合った。浩文さんは不穏になりながらも自分や周りをよく分かっていた。暴れても、誰かが傍に居続けると一体感を求めていたかのように落ち着いた。スタッフの二唐さんはそんな感じが苦手だったが、浩文さんは二唐さんをとても気に入っていて、手をぎっちり握って離さなかった。二唐さんも葛藤しながら頑張った。浩文さんは大きな器がある人で、家族が一体になることを求めていたと思う。人と人が一体になる感覚は、スタッフそれぞれが浩文さんと接して初めて経験したことだったと思う。

 7月に入ると戦争のことを語ってくれるようになった。「日本はアメリカに占領された。花巻温泉は一瞬にして占領された、泊まるところだからな。アメリカ兵に手を出すと、煙草とかもらえたんだ」と教えてくれた。そして7月12日に亡くなった守男さん(仮名)の姿を彷彿させるような手踊りをリビングで見せてくれた。守男さんから浩文さんが何かを受け継いだかのように私には思えた。鎮魂の踊りなのか、みんなから手拍子をもらい、柔らかい手の動きで最後まで真剣に踊った。「戦争に負けた・・・」「生きてても何もできないというのは死んでるのと同じだ」と、戦争のときの話を語った。
 守男さんよりも10歳ほど若い浩文さんが語る戦争体験は、出征した守男さんの戦地での話とは違って、戦いとは別のところで日本に居ながら苦しむ体験談だった。ときどき空襲のイメージになり、「おじいちゃんにつかまってろ!もう少し我慢してろよ」「低く横になれ!」等と叫びながら、私の身を必死で守ろうとしてくれた。浩文さんはいろんな年代を行き来した。あるときは子どもになって、「大変だ・・・先生・・・先生、どうしたらいいのでしょう・・・」と泣き崩れることもあった。「先生、学校に行くのに何もねくて行かれねじゃぁ」と悲しむ姿は、守男さんの出征の勇ましいイメージとは真逆だった。「子どもは大事なんだ」「助けに来ねんだ」と呟きながら、まるで草むらを四つん這いになって歩いているような姿もあった。
 「まったく訳がわかりません、私は誰なんでしょうか?」と混乱することもあったが、「これはな、運命なんだ」「辛いんだよぉ、でも頑張ってみます!これから先を思うとな、辛くてなぁ」と、老いや死に対する思いを抑えきれず溢れることもあった。
 誕生日には「人間、嫌でも歳をとります。その中で習うこと、気が付くこともたくさんあります。私も歳です。90になります。皆で教えて、教えられていきたいと思っているのでよろしくお願いします」「面倒みたり、みられたり、これは生きるという世界。すごいものだ。偉いものだ。ありがとう。忘れられない・・・この勢い。生きる姿そのものだ」と言って涙した。
 入居してからも家族想いの一家の大黒柱であることは変わらなかった。奥さんが会いにきてくれると、「よく似た人だ〜」と冗談を言って笑わせてくれたり、ときどき抱き合ったりして、本当に仲のいい夫婦なんだな〜と感じた。奥さんが帰られたあと「これからどう生きていくか・・・」「生きるとは苦労だった」と呟いたこともあった。
 ある日、親戚のお孫さんたちが面会に来てくださった。そのときは誰だかわからない感じだったのだが、帰られたあとに名前を呼んで探す姿になった。そのことを伝えたくてお孫さんに電話をすると、浩文さんが電話口に近づいて「おじいちゃん頑張るよ〜」と言ってくれた。混乱していても、浩文さんはどこかでは必ずわかっていたんだと感動した。
 通院の帰りには、よく自宅に寄った。奥さんに心配をかけるような話をすると「知らなくていい」と咎めた。心配をかけないようにがんばっていたんだと思う。女性スタッフに「俺は俺で生きていくから、お前たちは家を出ていけ!勝手にしろ!」と厳しい口調で言ったこともあった。でもぎっちりと握った手は離さない。娘の父親としての葛藤がそこにはあったように感じた。
 「おれはもう去るから、決めるのは皆さんでやってください」というセリフ。そして、自分の死を自ら決めたかのように、入れ歯を真っ二つに割って壊し、その頃から食が細くなった。そんなある日、激しい怒りが出てきたので、怒りを鎮めようと散歩に出た。浩文さんは私の手をぎっちりと握り、「オレ死ぬんだ」と繰り返した。死に場所を探しているかのようだった。そして柿の木の下に座り込み、「一緒に死んでくれないか?」と重苦しい空気になった。私は、「一緒に生きられる場所に戻ろうよ」と抱きしめた。すると、浩文さんは「生きるんだ、あとぺっこだどもな・・・生きる」と自分に言い聞かせるように言ってくれた。そして手を繋いで泣きながら戻った。

 秋になると、浩文さんはさらに食が細くなり、寝ていることが多くなった。11月28日、通院後、自宅に寄せてもらった。いつものように奥さんと娘さんに「お父さーん」と迎えてもらう。食が細くなったことを伝え、好きな食べ物を聞いた。すると娘さんが大きな干し柿を持ってきてくれた。浩文さんは毎年、自宅の柿を収穫して干し柿を作っていたそうだ。そのとき、ほとんど何も口にしなかった浩文さんが、干し柿をしっかり食べた。私は驚きながら特別な柿なんだな〜と思った。それで、干し柿をたくさんいただいて帰ったのだが、これが最後の帰宅になるとは思ってもいなかった。

 12月4日の朝、和室で横になっている浩文さんに「浩文さん痩せたー!」と顔を覗きこんで声をかけると、「ほー!」と驚いた顔を見せてくれて、元気?と聞くと「げ・ん・き」と口パクで伝えてくれた。脱水症状があり、点滴しているうちに、意識レベルが低下してきたので、家族さんに緊急連絡。奥さん、娘さん達がすぐに駆けつけてくれた。奥さんが「お父さん!」と呼びかけると、少しずつ表情が戻ってきて、“うんうん”と答え、奥さんの姿を目で追っていた。救急搬送となり、奥さんと私が救急車へ乗り込んだ。救急隊員が名前を呼んでも反応はなかったが、奥さんが「かあちゃんだよ」と声をかけると“うん”と笑顔で答えて、私と救急隊員を驚かせた。救急車の中で、奥さんから昔話を聞かせてもらう。「昔はよくケンカしたったよぉ、お酒飲んで帰ってくるのが遅くてさ・・・」と。浩文さんもよく「うちのやつ、きかなくてよぉ」とぼやきながらも、「ミツ(奥さんの仮名)は大きな‘かまど’なんだ」と自慢話も聞かせてくれた。口ではあれこれ言いながらも、こうやってつれ添ってきたんだなと感慨深かった。
 病院での検査中、待合室で娘さんから、浩文さんの話を聞かせていただいた。奥さんが仕事で忙しかったので、浩文さんがよく子どもの頃面倒をみてくれて、優しいお父さんだった・・・など。浩文さんは家族想いで、みんな浩文さんのことを大好きで、本当に素敵な家族を感じた。
 検査後、そのまま浩文さんは入院となった。その夜はベッドの上で大暴れし、手足を縛られてしまった。次の日、面会に行くと、手足の拘束は解けていて安心した。私が「浩文さーん」と呼ぶと「はーい」と返事してくれた。寝ている浩文さんの髭を剃りながら、静かな時間を過ごすことができた。ところがそれから後は、インフルエンザが流行して、家族以外の面会が禁止され、しばらく会えなくなってしまった。
 退院してきたら、浩文さんを囲んでみんなでお酒飲みたいね・・・とスタッフで話していた。12月17日、長女さんから電話が入り、浩文さんの体調が思わしくないので、今のうちに会っておいてくださいということだった。病院に駆けつけると、酸素マスクをして意識はない状態で、容態の変化に驚いた。それでも奥さんが耳元で「お父さん!佐々木さんが会いに来てくれたよ」と呼びかけると反応を見せてくれた。その後、施設長、理事長とスタッフが行った時、瞬間、血圧を200近くまで上げて反応してくれたという。
 翌日、娘さんから浩文さんが亡くなった知らせが電話で入った。血圧が安定したので、ちょうど奥さんが一旦自宅に帰った時とのことだった。奥さんを安心させてから、そっと旅立った浩文さん、本当に最後まで家族想いだった。私の中でも浩文さんはいつまでも理想のお父さんだ。
 浩文さんが亡くなった知らせを聞いた日、私は特養に勝子さん(仮名)に会いに行った。勝子さんは私の顔を見て「あんた、手紙書きなさいよ」と言った。スタッフの寛恵さんは「浩文さんの弔辞かな?」と言う。その日、連絡が入り、弔辞のご依頼を受けた。まさかと思っていたが、浩文さんの弔辞を述べさせていただけるのは、とてもありがたく感じた。ただ、想いが強すぎて文章が仕上がらず、葬儀の時間ぎりぎりまで格闘した。結局、理事長に軽トラに乗せてもらって葬儀会場までの雪道を飛ばした。弔辞の遅刻はありえない・・・理事長の方が私より焦っていたと思う。前を走っていた車が赤信号で停車すると、理事長が「今の、行けよ!」と怒鳴る。私はそれをどこかで聞いたことがある!と思った、浩文さんだった。一緒にドライブに出かけたとき、元トラック運転手の浩文さんは助手席でよくそう叫んでいた。私は浩文さんに送られている感覚になって、なんだか不思議だった。これからも浩文さんは私と一緒に、一体でいてくれる。浩文さんと関わったみんなとも、一体で生き続けてくれるにちがいないと思う。
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タイムスリップ、男二人旅 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2015年2・3月号】

 健吾さん(仮名)は、去年の春まで担当だったスタッフの川戸道さんと『田瀬物語』を綴っていた。『田瀬物語』は、田瀬ダム建設に伴いダムの底に眠ってしまった健吾さんの故郷の文化や暮らしについて、聞き書きしながら綴ったものだ。毎日のように川戸道さんと語り合っていた頃の健吾さんは、とても活き活きとしていた。しかし、聞き書きが終わってからの健吾さんは覇気がなく、ただの97歳のおじいさんになってしまって、食事後の散歩が日課となり、夕方から水戸黄門を見るだけの生活が続いていた。
 ところがいつだったか、健吾さんのお母さんが歌い残したという田瀬の民謡のテープをリビングで聴いていたことがあった。健吾さんは「懐かしいなぁ。昔はね、母屋があって、馬もいて、住み込みで農業を手伝う若者達がいたんですよ」と話す。これは『田瀬物語』の続きではないのかと思い、慌ててメモしたのだが、それ以降、田瀬の話はほとんど出なかった。
 それから何ヶ月か過ぎた頃、『第11回 岩手の民謡をたずねて』というチラシを目にしたとき、「健吾さんだ!」と思った。誘うと案の定、「いいですねぇ!」とひとつ返事で、男二人で出掛けることになった。

 当日の朝、健吾さんは早くから出かける気持ち満々で、早番の千枝さんとあぁだこぉだ言いながら準備をしていた。私が挨拶に行くと、「今日も生きてます!今日はお出掛け日和だねぇ。さっ、行くっか!」とそわそわしていた。お弁当、カメラ、さらにお菓子やコーヒーまで車に積み込んで準備万端。事務所の中屋さんとヤス子さん(仮名)に見送られて出発した。車が動き始めると「宍戸さんいねぇば、俺、準備されねっけぇ。悪いども、千枝さんではわがらねがっけ」と上機嫌。
 途中、健吾さんの自宅前を通る。「みんな家でのんびりやってらべぇ」と話していると、ちょうど玄関を出てきた息子さん夫婦とばったり会う。「何してんのやぁ?」と声を掛ける健吾さん。「今、杉の木、手入れするところだった!この木とこの木、どうするべ? 枝はらったほういいか?」と息子さん。「あそこ!はらってもいいべ。あそこも」と庭師の目つきで指示する。久しぶりに見た、活き活きとした表情だった。
 再び走り始めた車中では、年末に伐採した自宅の松の話が出る。「ほれ、三浦さん。笠松いだっちゃぁ。何百年とそこで立っていた木を、私は数十年ばっかし面倒見てたが、枯れてしまって、年越し前にばっさり切ってしまった。でも、根っこばりは太すぎて切れなかったんだねぇ、4メートルほど残ってる。私も今の笠松と同じ状態の様な気がするもんやぁ、残りわずかの命。あとは枝も葉もないがら、ただ迎えを待つだけだ。なのに・・・今日こんな私を連れて行ってくれるとは、ありがたいよ。もう、若い人達のためになんにもしてあげられないし、何かを残そうと必死で日々のことや昔のことを書いてきたけれど、手が動かなくなってしまった。何を書くつもりだったか思い出せないし、億劫になってしまった・・・」と、枯れて伐採された笠松根を見ながら、ゆっくり話す。「そっか・・・。でもね、俺は健吾さんの記録や語りは大事だと思ってるし、健吾さんに残して伝えてほしいと思っているんだ。テープで録音するのはどうだろうか? 健吾さんの語りを録音して、それを俺が文にしてみる」と伝える。少し考えて「・・・いいのっか?私はそれでもいいよ」と健吾さんは言った。
 その後の健吾さんは活き活きした感じになって、「私のおじいさんの話をしようか」と語ってくれた。「小学生ぐらいの頃、よくおじいさんと山に入って手伝いをしたんだよ。親指ほどの太さの木を切って製紙工場に運ぶんだ。その木は、切っても次の年には6尺以上の長さにまた伸びてくる特殊な木だ。100本束ねてひとつにし、馬に担がせるのさ。荷物運ぶ専用の鞍が昔の家には必ずあった。馬だけじゃなく人も運ぶんだども、私はまだ小さかったから、6尺以上の長さのものを背負子で背負ったら、木の方が長すぎて運べなくってさぁ。横にしてみたども、今みたいに道路は広くないしさ、そもそも山の中だから木ばっかりでしょう、引っかかって転んでしまって、おじいさんに笑われたのさぁ。製紙工場まで何時間もかけて運んでさぁ。ものすごく疲れるんだども、それでもおじいさんのこと好きでねぇ。よくついて行ったもんだ」・・・これまでの話は、青年時代や戦争、田瀬から移転してきた後の話が中心だったが、子どもの頃の話は初めてで新鮮だった。
 そんな話をしながら、盛岡の岩手県民会館へ到着。渋滞で予定より時間がかかり、持ってきたお弁当を駐車場で大急ぎで食べた。席に着くとまもなく講演がはじまった。三部構成で全38曲、計2時間40分という長いプログラムだった。

 オープニングは歌い手3名、かけ声2名、踊り手10名、尺八3名、三味線3名からなる大がかりな『南部俵積み歌』。すると、「懐かしい!!この歌は私もよく歌ったし、お袋の歌ったのもカセットテープに残してる!!」と興奮気味の健吾さんは、私の方を向いて手拍子で歌い出す。健吾さんの歌とステージとの大きなズレに加えて、会場の暗い雰囲気もあって、なにかどこかへタイムスリップしたような感覚に陥った。健吾さんは歌い終わると、「いいなぁ・・・」と目を瞑って呟いた。2曲目以降、健吾さんはいびきをかいて眠りについた。97歳、車に1時間以上も乗って、いつものお昼寝がなかったのもあってかお疲れだったのだろう。でも眠っている健吾さんはとても幸せそうだった。
 会場のお客さん達(60〜80歳ぐらい)も、ステージそっちのけで昔話に盛り上がっているようだった。健吾さんは『沢内甚句』が流れてくると目を覚ました。「仕事で行ったことあるんだけんども、沢内って所は花巻とも違う文化でねぇ・・・」と語り始めた。第一部が終わり、休憩の時間となっても、ずっとノンストップで語り続ける健吾さん。ところが第二部が始まると、途端に寝入ってしまった。それでも、どこか聴き入っている感じもした。途中、次に健吾さんが目を覚ましたのは『南部酒屋酛摺唄』だった。「これ!田瀬の餅つき唄だっちゃ!ほとんど同じだ!」と言う。確かによく聴くと、歌詞は違うもののほとんど同じ曲だった。以前、健吾さんに教えてもらった『田瀬餅つき唄』だったが、今回は伴奏があるのでとても分かりやすく、健吾さんも伴奏に合わせて教えてくれる。力を込めて教えようとしている健吾さん。この唄をなんとか残さないといけない思った。
 15時頃に公演は終わり帰路につく。さすがの健吾さんも疲れてしまったようで、「本当に良かった〜!」とは言いながらも、ぐったりとしていた。突然、「・・・また迷い始めた、どこで死んだらいいのか・・・。娘に相談したんだども、返答はなかった。書くこと、伝えること、歩くこと。それらをやっていると、もう終わりの準備をしていたはずなのに、また元気になってしまう。やりたくなるっけもんねぇ。んだども、体はついていかない。気持ちと体がうまくバランスをとってないんだよ。毎日長い夜の時間を利用して考えてはいるんだども・・・答えも出ないし、教えてくれる人もいない。歳をとるってことは、自分との葛藤なんだよねぇ。まぁだ三浦さんには分からないだろうけれども、いずれやってくるもんだから、誰しもが。私がまだどうやって死ぬのか私自身も知らないけれども、近い将来必ず死ぬ。何十年か先になって、三浦さんが私と同じ歳になったとき、こんなこと言っていたじいさんがいたっけなぁ・・・って思い出してもらえれば、幸いです」と、神妙な、いつもとはまた違った雰囲気で語る健吾さんに、私は精一杯、「分かりました」としか返せなかった。
 里に近づいた頃、「ここ曲がって!!」と大声で言う。「近道だから!教えてける」と細い田圃道に入る。確かに近道で、「なぁ、言ったべ?」と得意げな健吾さん。そんなこんなで二人旅は終わった。

 健吾さんと行った民謡公演は、様々な意味合いがあったような気がする。川戸道さんと綴ってきた『田瀬物語』の続きのようでもあり、健吾さんのお母さんに会いに行ったような感じもある。笠松を自分と重ねて戦友のように慰め合ってもいた。また、民謡を聴きながら眠っていた健吾さんは、遠い昔の風景の中で当時の匂いを確かめていたようにも感じた。健吾さんは死を強く意識しながら、まだまだ、物語を綴って行く。自分が生きた時代なのか、生きた証なのかを見せてくれるにちがいない。どんな展開になるのかわからないが、私も気合いを入れ直してついて行きたい。
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ひなの世界、秘密の国 ★理事長 宮澤健【2015年2・3月号】

 先日、高校時代からの友人Y君に会った。彼は東京で小学校の教師をしているのだが、3年前に会ったとき、担任しているクラスが学級崩壊になりかけているとのことで憔悴していた。長年、教師をやってきて、「今年のクラスは何かが違う」と最初から感じたと言う。「何も打つ手はない。ただ日々を耐えるしかない」と、そんな話をしてくれた。その後どうなったか、気になりつつ会えずにいた。
 「乗り切った?」と聞くと、「いや、乗り切ったとは言えない、通り過ぎただけだ」と彼らしく謙虚だった。校長から「教室に行くな」と言われて憤慨したこともあったと言う。現場を投げ出すまいと日々戦場に向かったのだろう。「味方だったはずの人が次の日には豹変している」というような、誰もが互いを信じられない状況に投げ込まれた日々は、いかほどか苦しかっただろう。子ども達に、生きることのすばらしさを伝え、未来の夢を描ける教師であろうとしてきた情熱はうち砕かれそうだったに違いない。
 話しながらふと気がついたのは、これまでの彼にはなかった精悍な深みだった。「通り過ぎただけ」と口では言いながら、戦士にしか宿らないたくましさを、来年、定年を迎える同級生の親友Y君の横顔に感じた。彼自身も気がつかないところで相当な戦いを乗り切ったのだろう。
 その直前に、私は優秀な若い人材を求めてベトナムに行った。ある高校を訪ね、教室に入ったとたん、20数名のクラス全員が一斉に立ち上がった。誰かの合図があったのだろうか、気がつかないほど息が合っていた。さらに驚いたのは、彼らの輝く目のそのエネルギーだ。私を見ていると言うより、入ってくる。一瞬で繋がってしまっている。通訳を介して堅苦しい挨拶をしてる場合ではない。私は思わず、知り合いと再会したような気持ちで片手をあげて「Hi!」と叫んだ。すると、彼らは間髪入れずに全員がHi!と手を上げて応じた。反応の速さ、繋がれる力に圧倒され、その輝く表情に感動させられる。後でベトナム人の通訳に「こんな光景はもう日本の学校では見られない、日本では学級崩壊さえある」と話したが、日本に2年留学していたという彼もそれは理解できないようだった。
 夢を描きようがない時代。そんな中で銀河の里では、失ってはならない大切なことを、利用者から学び、発見し伝えようとしているのではないかと思う。昨年末、大学の同窓会でも、銀河の里は希望だと言ってくれる人がいて感動したのだが、確かに、認知症の高齢者や自閉症の人の繋がる力、人間的な威力は、ベトナムの高校生の輝くエネルギーとも通じている。日本の若者達からも社会からも消えた希望は、かろうじて認知症や自閉症の人たちの中にこそ残されている。

 先日、研修で倉本聰の『ノクターン』を鑑賞した。震災、原発事故後の時代の絶望を描いているようで、救いのない感じだった。2010年に観た『帰國』は、戦没した若者が現代に蘇ってくるというストーリーで、里の仕事にそのまま通じるものがあって、いたく感動したのだが、今回は違った。忘れることで生き延びようとし、忘れることが得意な文化の日本人は、隣国から戦争責任について責められている。震災も原発事故も日本人は、また忘れるのだろうか。劇中では、一億年後、震災と原発事故を忘れず覚えていたのはピエロの彫刻だけだった。それは死者たちなのだが、我々日本人は、現実を忘れてごまかしても死者のことは忘れない民族ではなかったか。たとえ生き延びるために忘れることが必要だとしても、たましいに記憶し続けなければならないことはあるだろう。

 ひな祭りの日、たまたまラジオで、作家の小川洋子さんが石井桃子の作品について語っていたのを耳にした。昨年、小川さんと山際寿一氏の対談がおもしろかったのが記憶にあって聞き入った。石井に「三月ひなのつき」という絵本作品がある。主人公よし子は小学生。家にはひいひいおばあさんから代々伝わってきたひな人形があったのだが、それはお母さんが子どもの頃、戦争で焼けてしまった。お母さんは、それに代わるひな人形をよし子に渡したいのだが、それがなかなか出会えない。あの手作りの木彫り人形に匹敵するひな人形は探しようがないのだ。失ってしまった大切なものは取り返しがつかない。でも、それに叶う何かをよし子に伝えようとするお母さんと、それを理解していくよし子の物語。
 私の理解では、少女があるときに体験する「ひなの時間」は大切な世界の体験なのだと小川洋子さんは語っていた。尾崎真理子氏による『評伝 石井桃子』のタイトルは「秘密の王国」。少女達の「ひな体験」は「秘密の王国」として、現実を生きる彼女たちの心の中に存在し続ける。よし子のお母さんが与えたかったのは、ひな人形そのものではなく、よし子に「秘密の王国」を伝えられる霊力なのかもしれない。少女は「ひなの世界」の体験を通じて「秘密の王国」に行き、個人としての母になるのではなく、個人を超えた大いなる母の存在になったのではないだろうか。
 少女に「ひな体験」がなくなり、「秘密の王国」を持たなくなったらどうなるのだろう。かつては個人としての母を超えて、母子の関係の背後に大いなる母が存在したのかもしれない。母個人にそれを要求すると暴力的な悲劇にも繋がるが、母子が共有する「ひなの世界」や「秘密の王国」の体験は、女性にとってだけではなく、男達にとっても重要なことだと思う。 
 具体的にはどういうことだろうか。たとえば、ワークステージの利用者の多くが「イッパンシュウロウ」を目標としてインプットされている傾向がある。いろんな生き方があっていいはずなのだが、ワークも数年前から就労支援事業所と法的に位置づけられている。文化を担っていく視点はかけらもなく、制度は働いてお金を稼ぐことが自立だという。
 ワークの利用者Aさんは、料理が得意だ。なかでもお菓子作りには人生をかけている。お菓子の家、お菓子の国、サンタのアップルパイ、次々に出てくる。7年ほど前、就労支援に制度が変わったころ、彼女もイッパンシュウロウを目指して、レストランの中華部門で実習したことがあった。仕事はできたが、彼女はとても不機嫌だった。結果、レストランからも就労は断られ、本人も二度と行きたくない感じだった。
 彼女には彼女の「ひなの世界」があるのだと思う。それはレストランで皿を洗ったり、ラーメンを煮るような世界とは別次元の世界だ。その後、里の特養が開設になると、厨房で活躍してきた。スタッフの主任栄養士よりも以前から里にいるので、すっかりお局さんで、新人は「つかえねーな」と切り捨てられ、彼女に泣かされない人はいないほどだ。先日、新人さんと取っ組み合いになり、仲裁に入った栄養士が引っかかれ、傷を負った。話を聞くと、どうも言葉に怒りが出るらしい。喋らなければ一緒に作業はできるが、言葉をかけたとたんに怒りが出る。新人さんは仕事ができるようになろうと必死だから、言葉は業務の言葉でしかない。その言葉に、彼女の「ひなの世界」が壊されるように感じるのだろう。彼女のキラキラした世界を理解しているかどうか。先輩栄養士はそこは解っているようで、「上からでも、下からでもダメ、真横からいくしかない」と言う。社会は綿密に上や下で成り立っているが、彼女の「秘密の国」では、存在として真横でないと、言葉は入らないどころか怒りが暴発する。そんな言葉は使わないに限る。彼女にとって「秘密の国」がいかに大切で守らなければならない世界であることか、その怒りから理解するしかない。

 グループホームの利用者Bさん(90歳女性)は元教員で、根っからの教育者といった感じの人だ。彼女はコップに描かれた豚の絵を見て、「ブーちゃんごめんなさい。これまで何匹のブーちゃんをつぶしてきたことでしょう。ごめんなさい」と語ってくれたりする。美しくも残酷な響きのある、詩的な語り口だ。おそらく彼女は、少女時代に「秘密の国体験」があり、遠い昔から母から母へ連綿と伝えられてきた「ひなの世界」を受け継いできたに違いない。しかし戦争や戦後の近代化など時代の状況から、働く女性として活躍しながら、いつの間にか「秘密の国」を失ってしまったのではなかろうか。彼女は入居以来、娘さんのことをことさら心配してきた。「男の人に騙されて連れて行かれてしまった」というストーリーは、まさに自分自身の失った「ひなの世界」を語っているのかもしれない。失ってはならなかった大切な何かを、認知症になって、グループホームという場で取り戻そうとしているように感じる。彼女が引き継いできた「秘密の王国」を取り戻し、これから母になる若いスタッフ達にも伝えてもらいたいと願う。
 スタッフとそんな話をしたのがひな祭りの夜だったが、その二日後、Bさんはファンデーションなどが入ったポーチを持って語ってくれた。「5つぐらいあったのに盗まれてしまった。ずっと探してしたんだけど、今日やっと3つ見つけた」と喜んでいる。ポーチと娘さんは、Bさんにとってはイコールのようで、そのまま「娘達が男の人に騙されて乱暴されていないか心配だ」との話になる。彼女の「ひなの世界」は、男の人たちの乱暴で壊されてしまったのかもしれない。彼女は語る。「私が18、19のころは、親にかっちり見守られてて、だから無事だったんですよ。今は私が親の立場になって守ってやらなきゃならないんです。乱暴されていないか心配だったんですけど、ポーチが3つ見つかったんです。ほんとに良かった」Bさんが守ろうとしている何かを、一緒に守っていきたい。
 同じグループホームのCさんは、現実的でエネルギッシュな方で、おそらく「ひなの世界体験」はあまりなかったのではないかと感じる。そのCさんが深夜に「お母さん!」と叫ぶことがある。グループホームに来てからイメージの中で、だんだん若くなって娘になり、ついに赤ちゃんになってしまったこともあった。それぞれが自分の「ひな体験」をしなければならないようだ。
 ワークの利用者Dさんは、利用当初、広場恐怖、パニックで最初の一ヶ月は毎日面談室のテーブルの下でやりとりした。どうなるかと思ったがハウス作業にはまり、自傷行為などに苦しみながらも10年以上活躍した。ただ、スタッフなどとお出かけするときは少女らしくかわいく着飾るのに、里には、小汚い労働服で通い続けたのだった。3年前、原付バイクの免許を取得したのだが、その頃から、市や県などに、だまされて連れてこられたと、電話で訴える行動が頻繁になった。そして昨年の暮れに里に区切りをつけて卒業していった。聞くところによると、生き生きと新しい働き場所を探しているそうだ。彼女は里を去ることで、自分の中の「秘密の王国」を守り続けようとしたのではなかろうか。里は彼女の「ひなの世界」を獲得する場であって、働く場ではなかったのだろう。労働服で身を固めていたのは、逆説的に彼女の「秘密の王国」の守りであったのかもしれない。世間に出ていくだけの「ひな体験」を得た故の旅立ちであることを信じたい。 

 人間は生まれるにも死ぬにも生きるにも、どこか大いなる世界、人智を超えた世界との繋がりが必要だ。倉本聰の『ノクターン』が、救われることのない現代社会と人間の絶望を描きながら、人類が絶えて久しい一億年後の記憶へと物語をたどるのは、まさにそうした宗教性が必要とされているということなのか。
 ワークの利用者Aさんが、イッパンシュウロウをしないで里の厨房で「ひなの世界」を守っていてくれることや、Bさんがそれを取り戻そうとがんばっていたり、「秘密の国」を訪ねようとしているCさんや、消え入りそうだったDさんの苦闘など、そこにこそ現代において残されたわずかばかりの希望があるのではないかと思う。ベトナムの高校生の輝く目をうらやんでも仕方がない。経済復興とともにそれはやがて消え失せてしまうだろう。先進的なところに立ってしまった日本人こそ、この絶望の淵から次を見いだす責任がある。支援だとか、介護だとか、ピント外れの話をしている場合ではない。真に利用者から学び、人のあるべき道を見いだすひたむきな労苦が求められる。それが現場に託されている本当の仕事ではないだろうか。
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ひなの世界、秘密の国 ★理事長 宮澤健【2015年2・3月号】

 先日、高校時代からの友人Y君に会った。彼は東京で小学校の教師をしているのだが、3年前に会ったとき、担任しているクラスが学級崩壊になりかけているとのことで憔悴していた。長年、教師をやってきて、「今年のクラスは何かが違う」と最初から感じたと言う。「何も打つ手はない。ただ日々を耐えるしかない」と、そんな話をしてくれた。その後どうなったか、気になりつつ会えずにいた。
 「乗り切った?」と聞くと、「いや、乗り切ったとは言えない、通り過ぎただけだ」と彼らしく謙虚だった。校長から「教室に行くな」と言われて憤慨したこともあったと言う。現場を投げ出すまいと日々戦場に向かったのだろう。「味方だったはずの人が次の日には豹変している」というような、誰もが互いを信じられない状況に投げ込まれた日々は、いかほどか苦しかっただろう。子ども達に、生きることのすばらしさを伝え、未来の夢を描ける教師であろうとしてきた情熱はうち砕かれそうだったに違いない。
 話しながらふと気がついたのは、これまでの彼にはなかった精悍な深みだった。「通り過ぎただけ」と口では言いながら、戦士にしか宿らないたくましさを、来年、定年を迎える同級生の親友Y君の横顔に感じた。彼自身も気がつかないところで相当な戦いを乗り切ったのだろう。
 その直前に、私は優秀な若い人材を求めてベトナムに行った。ある高校を訪ね、教室に入ったとたん、20数名のクラス全員が一斉に立ち上がった。誰かの合図があったのだろうか、気がつかないほど息が合っていた。さらに驚いたのは、彼らの輝く目のそのエネルギーだ。私を見ていると言うより、入ってくる。一瞬で繋がってしまっている。通訳を介して堅苦しい挨拶をしてる場合ではない。私は思わず、知り合いと再会したような気持ちで片手をあげて「Hi!」と叫んだ。すると、彼らは間髪入れずに全員がHi!と手を上げて応じた。反応の速さ、繋がれる力に圧倒され、その輝く表情に感動させられる。後でベトナム人の通訳に「こんな光景はもう日本の学校では見られない、日本では学級崩壊さえある」と話したが、日本に2年留学していたという彼もそれは理解できないようだった。
 夢を描きようがない時代。そんな中で銀河の里では、失ってはならない大切なことを、利用者から学び、発見し伝えようとしているのではないかと思う。昨年末、大学の同窓会でも、銀河の里は希望だと言ってくれる人がいて感動したのだが、確かに、認知症の高齢者や自閉症の人の繋がる力、人間的な威力は、ベトナムの高校生の輝くエネルギーとも通じている。日本の若者達からも社会からも消えた希望は、かろうじて認知症や自閉症の人たちの中にこそ残されている。

 先日、研修で倉本聰の『ノクターン』を鑑賞した。震災、原発事故後の時代の絶望を描いているようで、救いのない感じだった。2010年に観た『帰國』は、戦没した若者が現代に蘇ってくるというストーリーで、里の仕事にそのまま通じるものがあって、いたく感動したのだが、今回は違った。忘れることで生き延びようとし、忘れることが得意な文化の日本人は、隣国から戦争責任について責められている。震災も原発事故も日本人は、また忘れるのだろうか。劇中では、一億年後、震災と原発事故を忘れず覚えていたのはピエロの彫刻だけだった。それは死者たちなのだが、我々日本人は、現実を忘れてごまかしても死者のことは忘れない民族ではなかったか。たとえ生き延びるために忘れることが必要だとしても、たましいに記憶し続けなければならないことはあるだろう。

 ひな祭りの日、たまたまラジオで、作家の小川洋子さんが石井桃子の作品について語っていたのを耳にした。昨年、小川さんと山際寿一氏の対談がおもしろかったのが記憶にあって聞き入った。石井に「三月ひなのつき」という絵本作品がある。主人公よし子は小学生。家にはひいひいおばあさんから代々伝わってきたひな人形があったのだが、それはお母さんが子どもの頃、戦争で焼けてしまった。お母さんは、それに代わるひな人形をよし子に渡したいのだが、それがなかなか出会えない。あの手作りの木彫り人形に匹敵するひな人形は探しようがないのだ。失ってしまった大切なものは取り返しがつかない。でも、それに叶う何かをよし子に伝えようとするお母さんと、それを理解していくよし子の物語。
 私の理解では、少女があるときに体験する「ひなの時間」は大切な世界の体験なのだと小川洋子さんは語っていた。尾崎真理子氏による『評伝 石井桃子』のタイトルは「秘密の王国」。少女達の「ひな体験」は「秘密の王国」として、現実を生きる彼女たちの心の中に存在し続ける。よし子のお母さんが与えたかったのは、ひな人形そのものではなく、よし子に「秘密の王国」を伝えられる霊力なのかもしれない。少女は「ひなの世界」の体験を通じて「秘密の王国」に行き、個人としての母になるのではなく、個人を超えた大いなる母の存在になったのではないだろうか。
 少女に「ひな体験」がなくなり、「秘密の王国」を持たなくなったらどうなるのだろう。かつては個人としての母を超えて、母子の関係の背後に大いなる母が存在したのかもしれない。母個人にそれを要求すると暴力的な悲劇にも繋がるが、母子が共有する「ひなの世界」や「秘密の王国」の体験は、女性にとってだけではなく、男達にとっても重要なことだと思う。 
 具体的にはどういうことだろうか。たとえば、ワークステージの利用者の多くが「イッパンシュウロウ」を目標としてインプットされている傾向がある。いろんな生き方があっていいはずなのだが、ワークも数年前から就労支援事業所と法的に位置づけられている。文化を担っていく視点はかけらもなく、制度は働いてお金を稼ぐことが自立だという。
 ワークの利用者Aさんは、料理が得意だ。なかでもお菓子作りには人生をかけている。お菓子の家、お菓子の国、サンタのアップルパイ、次々に出てくる。7年ほど前、就労支援に制度が変わったころ、彼女もイッパンシュウロウを目指して、レストランの中華部門で実習したことがあった。仕事はできたが、彼女はとても不機嫌だった。結果、レストランからも就労は断られ、本人も二度と行きたくない感じだった。
 彼女には彼女の「ひなの世界」があるのだと思う。それはレストランで皿を洗ったり、ラーメンを煮るような世界とは別次元の世界だ。その後、里の特養が開設になると、厨房で活躍してきた。スタッフの主任栄養士よりも以前から里にいるので、すっかりお局さんで、新人は「つかえねーな」と切り捨てられ、彼女に泣かされない人はいないほどだ。先日、新人さんと取っ組み合いになり、仲裁に入った栄養士が引っかかれ、傷を負った。話を聞くと、どうも言葉に怒りが出るらしい。喋らなければ一緒に作業はできるが、言葉をかけたとたんに怒りが出る。新人さんは仕事ができるようになろうと必死だから、言葉は業務の言葉でしかない。その言葉に、彼女の「ひなの世界」が壊されるように感じるのだろう。彼女のキラキラした世界を理解しているかどうか。先輩栄養士はそこは解っているようで、「上からでも、下からでもダメ、真横からいくしかない」と言う。社会は綿密に上や下で成り立っているが、彼女の「秘密の国」では、存在として真横でないと、言葉は入らないどころか怒りが暴発する。そんな言葉は使わないに限る。彼女にとって「秘密の国」がいかに大切で守らなければならない世界であることか、その怒りから理解するしかない。

 グループホームの利用者Bさん(90歳女性)は元教員で、根っからの教育者といった感じの人だ。彼女はコップに描かれた豚の絵を見て、「ブーちゃんごめんなさい。これまで何匹のブーちゃんをつぶしてきたことでしょう。ごめんなさい」と語ってくれたりする。美しくも残酷な響きのある、詩的な語り口だ。おそらく彼女は、少女時代に「秘密の国体験」があり、遠い昔から母から母へ連綿と伝えられてきた「ひなの世界」を受け継いできたに違いない。しかし戦争や戦後の近代化など時代の状況から、働く女性として活躍しながら、いつの間にか「秘密の国」を失ってしまったのではなかろうか。彼女は入居以来、娘さんのことをことさら心配してきた。「男の人に騙されて連れて行かれてしまった」というストーリーは、まさに自分自身の失った「ひなの世界」を語っているのかもしれない。失ってはならなかった大切な何かを、認知症になって、グループホームという場で取り戻そうとしているように感じる。彼女が引き継いできた「秘密の王国」を取り戻し、これから母になる若いスタッフ達にも伝えてもらいたいと願う。
 スタッフとそんな話をしたのがひな祭りの夜だったが、その二日後、Bさんはファンデーションなどが入ったポーチを持って語ってくれた。「5つぐらいあったのに盗まれてしまった。ずっと探してしたんだけど、今日やっと3つ見つけた」と喜んでいる。ポーチと娘さんは、Bさんにとってはイコールのようで、そのまま「娘達が男の人に騙されて乱暴されていないか心配だ」との話になる。彼女の「ひなの世界」は、男の人たちの乱暴で壊されてしまったのかもしれない。彼女は語る。「私が18、19のころは、親にかっちり見守られてて、だから無事だったんですよ。今は私が親の立場になって守ってやらなきゃならないんです。乱暴されていないか心配だったんですけど、ポーチが3つ見つかったんです。ほんとに良かった」Bさんが守ろうとしている何かを、一緒に守っていきたい。
 同じグループホームのCさんは、現実的でエネルギッシュな方で、おそらく「ひなの世界体験」はあまりなかったのではないかと感じる。そのCさんが深夜に「お母さん!」と叫ぶことがある。グループホームに来てからイメージの中で、だんだん若くなって娘になり、ついに赤ちゃんになってしまったこともあった。それぞれが自分の「ひな体験」をしなければならないようだ。
 ワークの利用者Dさんは、利用当初、広場恐怖、パニックで最初の一ヶ月は毎日面談室のテーブルの下でやりとりした。どうなるかと思ったがハウス作業にはまり、自傷行為などに苦しみながらも10年以上活躍した。ただ、スタッフなどとお出かけするときは少女らしくかわいく着飾るのに、里には、小汚い労働服で通い続けたのだった。3年前、原付バイクの免許を取得したのだが、その頃から、市や県などに、だまされて連れてこられたと、電話で訴える行動が頻繁になった。そして昨年の暮れに里に区切りをつけて卒業していった。聞くところによると、生き生きと新しい働き場所を探しているそうだ。彼女は里を去ることで、自分の中の「秘密の王国」を守り続けようとしたのではなかろうか。里は彼女の「ひなの世界」を獲得する場であって、働く場ではなかったのだろう。労働服で身を固めていたのは、逆説的に彼女の「秘密の王国」の守りであったのかもしれない。世間に出ていくだけの「ひな体験」を得た故の旅立ちであることを信じたい。 

 人間は生まれるにも死ぬにも生きるにも、どこか大いなる世界、人智を超えた世界との繋がりが必要だ。倉本聰の『ノクターン』が、救われることのない現代社会と人間の絶望を描きながら、人類が絶えて久しい一億年後の記憶へと物語をたどるのは、まさにそうした宗教性が必要とされているということなのか。
 ワークの利用者Aさんが、イッパンシュウロウをしないで里の厨房で「ひなの世界」を守っていてくれることや、Bさんがそれを取り戻そうとがんばっていたり、「秘密の国」を訪ねようとしているCさんや、消え入りそうだったDさんの苦闘など、そこにこそ現代において残されたわずかばかりの希望があるのではないかと思う。ベトナムの高校生の輝く目をうらやんでも仕方がない。経済復興とともにそれはやがて消え失せてしまうだろう。先進的なところに立ってしまった日本人こそ、この絶望の淵から次を見いだす責任がある。支援だとか、介護だとか、ピント外れの話をしている場合ではない。真に利用者から学び、人のあるべき道を見いだすひたむきな労苦が求められる。それが現場に託されている本当の仕事ではないだろうか。
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焼売の新たな挑戦!8万人にお披露目の晴れ舞台! ★ワークステージ 米澤充【2015年2・3月号】

 2006年から餃子と焼売を製造し続けてきたワークステージの惣菜班にとって、今年度は大きな転換期であった。いろいろと動いてきた成果として、2月に開催された「第49回スーパーマーケット・トレードショー2015」に、銀河の里の焼売を出展できたのである。スーパーマーケット・トレードショーは、一般社団法人 新日本スーパーマーケット協会が主催する日本で最大級の商談会で、業界関係者(商社や卸業者、百貨店、スーパー、飲食店等)のみが入場でき、3日間で8万人以上もの関係者が来場する。出展企業は中央大手メーカーや地方の大企業が名を連ねる。会場は東京お台場の東京ビックサイトだ。

 トレードショー出展に至るまでには、岩手の食材や商品を全国に販路展開を手がける企業との出会いがあった。そうしたご縁で、地元大手スーパーの催事で銀河の里の餃子と焼売を出店させていただいた。福祉イベント以外での出店は久しぶりであったが、この半年で3回出店させていただき、売り上げは好調で評判も良く、リピートで購入いただいたお客様も何人かいらっしゃった。その結果、スーパーの通常商品として置いていただける話が出て、デザインの一新とレシピ改善を検討してきた。
 デザインとレシピを新しくする機会に、たくさんの人に意見をいただき、さらに販路を拡大して利用者の工賃向上につなげたいということで、独立行政法人 中小企業基盤整備機構が企画する、東北被災地3県を対象の、トレードショーへ出展する無料支援の事業に応募し、受かったのである。(ちなみにトレードショーへの出展は1コマ30万〜50万円の出展料金がかかる)

 今回のトレードショーに出展して、強く感じた事が二つある。
 一つは、ある商品をリリースするという事は、見えない裏側で様々な業種の人々の協力があり、それぞれの思いやこだわりが入り混じり、時間をかけて作り上げる事なんだと改めて実感した。今回トレードショーに出展するにあたり、レシピを改良しデザインを一新しただけの事である。しかしながら、焼売1種類をリリースするまでに、デザイナー、料理研究家の先生、プランナー、バイヤー、包材業者、原料の卸業者、原料の生産者等々にとどまらず、それぞれの方々を紹介していただいた方、それぞれに関連する方(例えば、料理研究家の先生の関連で試食をしていただきアドバイスをくれた方)などなど、ここには書ききれないたくさんの協力があった。こちらが把握していない方の協力もあったにちがいない。
 これまでは、銀河の里内の資源(人材や機材など)で試行錯誤し、出来る限りの事は行ってきたのだが、限界もあったように思う。ただ、やみくもに外部に頼んでいたのでは、今回の焼売は出来ていなかった。約9年の歳月をかけて、焼売を作り続けてきたというベースがあり、その間、出会った方々との関係も大切な資源だ。美味しい焼売を作り、それをたくさんの人に食してもらいたいという思いが、様々な業種の方々とつながり、今回の新しい焼売が出来上がった。
 トレードショーの会場にはパッケージをデザインしていただいたデザイナーの青柳さんもかけつけていただいた。青柳さんは、私とお客様とのやり取りを聞いて、デザインの改良案も提示していただいた。今回一新したパッケージデザインは好評で、既存商品とは一線を画したオシャレなパッケージで、その効果で目を引くお客さんも多かったように感じる。青柳さんは今回のデザインにあたり200ものアイデアを発案したとの事。文字や写真の位置、フォントの色、サイズ。考えに考え抜いたデザインだ。昨年10月に初めて出会い、わずか約4か月でトレードショーでも通用するデザインに仕上げていただき感謝この上ない。

 二つ目に感じた事は、商品が消費者に届くまでには、「商品流通」の役割が大きいという事である。生産物が消費者に届くまでにはたくさんの人が関わっている事は、わかっているようで実際は現実味が無かった。近くのお店に行けばだいたい欲しいものが購入できるし、無い場合はネットショップで簡単に買える時代にあって実感しにくい。今回のトレードショーでは、一人でブースに訪れるバイヤーが多かったが、バイヤーと同行して卸業者の担当者(帳合と言うらしい)の2名で訪れるケースも多く見受けられた。要するにバイヤーがこの商品が欲しいと思った際に、メーカーから直接仕入れるのではなく、卸業者を通じて仕入れるのが一般的なので帳合と同行するようである。こちらも相手二人と名刺を交換してやっとその関係を理解する。知らない事だらけで、初日は頭がいっぱいいっぱいになり、うまく商品説明できたか、よく覚えていない。今まではネットや産直、催事等で直接消費者に販売したり、宅配便でお店に直接納品したりする事が大半だった。今後は卸売業者や仲買業者、小売業者といった関係を意識しながらの取引だ。つまり、一般企業と同じ土俵で商品を販売していかなければならず、そこには“福祉施設の商品”という甘えは一切通用しない。

 大手メーカーが名を連ねるトレードショーという土俵に、福祉施設の商品を出展し、普段では出会うチャンスがない大手商社の方々と名刺交換をさせていただいた意味合いは大きいと思う。今、トレードショーで頂戴した120枚もの名刺を前に、今後どんな展開でどんな出会いが広がって行くのか、またそれに対応する生産体制が取れるのか、不安もありつつもワクワクしている。挑戦は始まったばかりだ。
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