2015年01月15日

「 初詣 」★佐藤万里栄【2013年1月号】

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里のこれまでとこれから ★理事長 宮澤健【2015年1月号】

 ある日、ワーク利用者のAさんから「時間あったら買い物連れてって」と電話が入る。Aさんは里に通い始めてもう10年になる。6年前、県と県の福祉事業団の施設からひどい嫌がらせを受けて苦しんだことがあった。当時、続けていた私との面談に対して、なぜか施設側は、裏で面談を止めろと、ほとんど脅しで、執拗にAさんに迫った。身寄りのないAさんに「面談を止めないなら施設を出て行きなさい」とまで言っている。彼女は私にその事を言えず、かといって面談は絶対に嫌やめたくないという葛藤にさいなまれ、リストカットに至るまで追い込まれた。面談には彼女の人生がかかっていて、理不尽な自らの運命と向き合う必要があった。長年ひとり心の中に抱えながら放置されてきた課題があった。能力はあるのに集中力がなく作業が続かないという違和感から面談は始まったのだが、「お母さんに会いたい」というこの世では叶うことのない、切ない思いが語られ、長い旅が始まった。その面談がなぜか目の仇にされた。県に解明を求めたが、真相はうやむやのままだ。
一昨年、その施設の職員が、当時から利用者のお金をトータル1650万円の横領をしていたという事件が発覚した。私は新聞報道でしかそのことは知らないが、本来なら同業者の不祥事だから、県が事実関係を明らかにし、同様の事件の再発を防ぐべく情報が共有され、リスクマネージメントとして検討されるべきだ。ところが例のごとく古い体質の中で、事件は精査されるどころか、なかったことのように葬り去られ、職員の個人的な犯行として事件の本質は隠蔽された。彼女を苦しめ、私をおとしめようとしたのは、施設で常態化していた犯罪の隠蔽であったのではないかと勘ぐってしまう。それ以外に利用者を脅してまで面談を阻もうとする理由が他になにかあっただろうか。真相はおそらくこれからも闇の中だ。県も施設側も明らかにしようとする姿勢とは真逆に、必死に隠そうとしている。近代的な市民社会とはほど遠い現実にあきれるが、これが実態だ。
Aさんとは週一回の面談が6年続いた。その間、彼女が面談を休むことはなかった。途中で大きな難局を乗り越えたおかげか、面談は展開をし、新たな段階に進み、Aさんは今、仕事でも能力を生かした活躍をしている。面談を終えて2年になるが、彼女とは、ともに戦った戦友のような、親子のような感覚があって、たまに何かあると電話をくれては、買い物などでしばしの時間を過ごし、またお互いの現場に戻るような関係が続いている。
健康診断で引っかかる年齢になり、最近、精密検査をした。その検査が辛かったようで、電話をくれたようだ。「人生大変だ」とぼやく。確かに人生いろいろある。
 運命を背負い長年ひとり耐えてきたAさんと、そこに向き合うべく面談に臨んだ私。その面談が、なぜ県と施設からひどい仕打ちを受けたのか、今まではただその理不尽に対する怒りでしかなかったのだが、そこにはある種、文化的な摩擦があったのではないかと考えるようになった。
 里の創設から14年が過ぎた。当初はいろんなところから嫌がらせや圧力が激しかった。たいていはそれを楽しめる方なのだが、利用者が巻き込まれるのは、苦しかった。ただ、県や同業者からすれば、里はかなり違和感のある存在だったのだろう。おおざっぱに言ってしまえば、県も大半の施設も、利用者を社会から隔離し、問題を起こさせないように管理する対象としてとらえている。それに対抗する形で、里ではスタッフが利用者と一緒に生きようとする姿勢で、個々が抱えた運命や、人生そのものに深く迫ろうとするのだから、文化的なギャップが違いすぎて、県や同業者からすればかなり不気味だったにちがいない。
 里が始まって3ヵ月の頃、研修に参加した当時新人の中屋さんが、この道30年という講師にくってかかったことがあった。「あなたは誰とも出会ったことのない人だ!」若気のいたりもあって、痛烈な人間批判だった。福祉の大先輩には、なんのことだか全くわからなかったことだろう。「君はもっと制度を勉強したほうがいい」とその講師はおっしゃったという。象徴的なエピソードだ。
 里は人間へのまなざし、人間への関心をその中心においてやってきた。ほとんどの施設関係者の頭は大半、制度の運用者でしかない。県などの行政が、制度のその外で、人間そのものにまなざしをもつことなどあり得ないだろう。
 昨年から、里では研修としてアウシュビッツへの見学などを行ってきた。人間のもつ悪については、当初から意識し考え続けてきたが、人間が生きるとき、悪は避けがたいこととしてついてくる。それをないことにして、ごまかしてやっていると、逆に悪に飲み込まれ、気がつかないままひどいことも平気でやってしまうのが人間だ。ヒトラーだけが悪魔なのではない、善人になるか悪魔になるかは役割分担にすぎない。
 それを克服する道は、積極的な美の創造にあるのではないかと感じてきた。だからこそ運命を引き受けて生きる一人の人間に畏敬を感じ、そこで人と出会い、ともにあることを誇りとし、深めていきたいと思う。それは極めて当然のあたりまえのことなのだが、これがなかなか理解されず、通じにくいのが現実で、下手をすれば不気味がられて、怪しいやつにされてしまう。里は宗教だとか、怪しいとか言われてきた。14年の経験を経て、それが光栄なことだと感じられるようになってはきたのだが、その怪しさの本体はなんなのだろう。
 里には地母神や女性神が生きていると考えるとどうだろう。日本でも近代、現代になるにつれ、男の神が社会を支配するようになってきた。ユング派の女性心理学者クオールズ・コルベットはその著『聖娼』のなかで、「神なる女性、女神があがめられなくなると、社会の構造や心の構造は過剰に機械化され、政治化され、軍事化される。思考、判断、合理性が支配的な要素となり、関係性、感情、自然への気遣いや気配りといったことを求める気持ちは顧みられないままになる。自分自身の内側にも、外界にもバランスや調和がなく、情熱的な愛と密接に関係する元型的イメージが無視されることによって、心のなかに、様々な価値の分裂や一面性が生じる。結果として私たちは、全体性と健康を探し求めようにも、悲しくも片足をもがれてしまっている」と述べている。豊穣な女性神をどうやって取り戻すかなのだが、コルベットは「それは無意識の中の暗く神秘的な空間へと“掘り下げ”そこに眠っているイメージを意識の光なかへ持ち出せばいいのだ」と結論している。
 里の構造がこの言葉によってみえてくる。確かに相当怪しいことになることも致し方ないのかもしれない。里は怪しい世界で勝負してきたと言ってもいいくらいだ。それは現代においてとてつもなく必要なことではあるが、果てしなく困難な仕事なのだろう。ただ、心ある人たちはそのことにとっくに気がついているようで、たとえば世界保健機関(WHO)の憲章前文で健康を「身体的健康」「社会的健康」「精神的健康」と3要素で定義しているが、これに加えて「魂(スピリチュアル)の健康」の項目を入れるべきだとした改訂の議論がなされたのは1998年のことだった。定義変更はされてはいないが、実際の現場ではスピリチュアルの内容が積極的に取り入れられている。これは四つ目の項目が増えるだけのことではなく、生命活動をダイナミックにとらえる新たな人間観をもたらそうとする動きだ。こうした議論に賦活されて、国際生活機能分類(ICF)も出てきた。これまでの病院論に強く引きつけられた医療モデルの人間観を超えて、すでに国際的には諸要素の複雑な関連のなかに人間を位置づけようとする趨勢があるのだ。特に震災以降、「魂」という言葉がかなり使いやすくなったのは、誰もが無視できなくなってきているからだ。
 福祉関係者がICFを理解しようと研修で頭を抱えるなかで、里はICFを遙かに超えてるなどと冗談めいて豪語してきたのは、スピリチュアルな観点で新たな人間観の方向性を実践的に模索してきた経験の積み重ねがあるからだ。ただそれは、一元的な報告や説明になじまなず、記述が難しく、複雑な構造を持っている。そこで、里では河合隼雄先生が提唱された「物語」や「事例」の考えに沿って発表、研究を行ってきた経緯がある。
一昨年の全国グループホーム大会で、そうした事例を実践報告として発表し提案したのだが、業界関係者にはまったく通じず、全国的にはおろか、県内でも提案は無視され、結果、否定された形で終わってしまった。逆に全国で唯一、事例報告、事例研究に取り組む珍しい福祉施設ということになってしまった。ところが、世間でのマイノリティを自覚しいてるうちに、里の内部でも、いつのまにか物語や事例がマイノリティになってしまった感がある。面倒だし、こむずかしいという感覚はわかるのだが、やっぱり現代の中では、わかりやすい物語に引っ張られてしまいやすいのだろう。現状として里らしい取り組みは薄れてしまい、管理的、形式的な活動に終始する傾向に流れている。
 私がいなくても里は回るようになった分、皮肉なことに、それにあわせて世間からの評価は上がって来ている。今ではスタッフとの面談はほとんどなくなり、通信も10、11月と2ヶ月も発行できなかったのは初めてのことだ。物語が紡がれなくなったのは、里にとっては、かなり危機的な状況に感じる。ただ、利用者の人たち、運命を引き受けて生きる人たちは語り続けてくれている。特に死者たちは、語らずとも饒舌に深いメッセージを届けてくれている。多くの死者たちとの語らいが、久々の通信の紙面を飾っている。通信が異界との通路になっているかぎり、まだ救いがあるかもしれない。異界を漂える力を持った彼らからイメージをもらいながらやっていくしかない。しかしそうした声は聞こえる人にしか聞こえない。コルベットは「暗く神秘的な空間へと“掘り下げ”そこに眠っているイメージを意識の光なかへ持ち出せばいいのだ」と言うが、その空間はものすごい世界で、ある意味、危険きわまりない世界だ。神々が存在し、幾重にも儀式に守られている時代ではない。現代人は、闇の世界からの魑魅魍魎に対して極めて無防備で危うい存在だ。一対一で、お互いの深い闇の中に降りてイメージを取り出してくるのは恐ろしい探検、冒険だ。だからこそ、世の中は制度やシステム、マニュアルで固め、防御を固めて身を守っている訳だ。
 それでも内的な知的探検に臨むのか、安全に生きるのかはそれぞれの選択だ。冒険だけが正しいとは言えない。しかし探検なくして解決しない運命を背負う人もいる。対人支援とは言うが、存在の深い次元にまで降りていくのは不可能に近いことだ。それでも行くのかどうか、自らが問うしかない。

 最後に井筒俊彦の『神秘哲学』の冒頭の文を引用して自らを鼓舞したい。
「誘爆たる過去幾千年の彼方から、四周の雑音を高らかに圧しつつある巨大なものの声がこの胸に迫ってくる。殷々と耳を聾せんばかりに響き寄せるこの不思議な音声は、多くの人々の胸の琴線にいささかも触れることもなく、ただいたずらにその傍らを流れ去ってしまうらしい。人は冷然としてこれを聞き流し、その音に全く無感覚なもののように思える。しかしながら、この恐るべき音声を己が胸中に絃ひと筋に受けて、これに相応え相和しつつ、鳴響する魂もあるのだ。」
 『神秘哲学』は、ソクラテス以前の哲学者たちの断片集を読んで「そこに立ちこめる妖気に呪縛された」と言う井筒が、その妖気の本体を究明しその淵源を最後までさぐってみたいと挑んだ著作だ。「言いしれぬ霊気とそこから迸出する巨大なる音響は、彼らの思想の根底に一種独特な体験の生々しい生命が伏在しているからだ」と彼は言う。「はじめに思想があった」のではなく「はじめに直感がある」。つまり「はじめに有無を言わさぬ体験があった」のだと井筒は言う。里では主観や直感を大切にしてきた。客観的に何が正しいかはそのあとだ。確かに怪しいが、その怪しさの中でこそ、場が生まれ、運命を抱えた一人一人の存在が認められるではないだろうか。
 ソクラテス以前の哲学者達の取り組みを、井筒は「根源体験をロゴス的に把握し、ロゴス化しようとする西欧精神史上最初の取り組み」だとして、これを「自然神秘主義」と呼んだ。新たなスピリチュアルを必要とするこの時代にあって、「自然神秘主義」の哲学者に通じるような作業を里は求められていると思う。それは里が発足以来、歩もうとしてきた道ではあるが、それを歩き続けることはかなり困難なことのようだ。里が簡単に制度に転落しないことを祈りたい。

参考文献:
『神秘哲学』 井筒俊彦著作集1 (中央公論社)
『スピリチュアルケア』
企画・編:鎌田東二/ビイング・ネット・プレス
『聖娼』クォールズ・コルベット
 訳:高石恭子 他 (日本評論社)
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戦後から未来へ ★施設長 宮澤京子【2015年1月号】

 歴史家の半藤一利氏が、あるテレビ番組で戦後を生きる日本人への提言を「不戦の努力」と語った。第二次大戦以降、日本は内戦もなく、また戦争で命を落とした人がいない稀少な国である。しかし、それは戦争に巻き込まれる可能性を何とか回避して平和を守ってきた訳で、決して棚ぼた式に平和が維持できたのではないという。日本人はこれからも、その努力をし続けるべきだという提言だった。
 戦後日本人は「無謀な戦争になぜ突入したのか」、「アジア諸国への侵略をどう反省すべきか」など、各々が深く考察することなく「一億総懺悔」の標語で曖昧にされ、戦後生まれの我々は、民主主義やら平和憲法のかけ声の下に教育がなされ、悲惨な戦争は自分たちに関係のない過去のことであり、高度経済成長以降はまるで「戦争は、なかったこと」を決め込んでいたようにさえ思える。アジア諸国への侵略も、日本が島国ということもあり、その悲惨さを直接的に見聞きする機会が少なかったことにもよるのかも知れない。敗戦直後の日本は、原爆の投下をはじめ爆撃で焼土と化した。日本国民みんなが貧しく飢えていたとき、「戦争の責任」に対する問いに応えるどころではなかったこともまた事実だったろう。日本人は飢えを充たすために懸命に働き、1950年の朝鮮戦争の特需をきっかけとして、奇跡的な経済復興を遂げるに至った。だが飢えが充たされ豊かになっても、日本人はやっぱりその問いを深く考察することはなかった。私自身も戦争の歴史を振り返ることはなかった。恥ずかしい話しだが、やっと最近になって、韓国や中国の方達との歴史認識の違いに愕然とさせられ、被害国の立場からの「第二次世界大戦」を考えるとともに、日本の戦争責任を考えるようになった。
10年前、フィリピンに語学研修に行った時、一緒に学ぶ韓国の学生から「竹島問題をどう思うか?」と熱く問いかけられ「竹島?それは何ですか」と聞き返したことがあった。すでに政治的な戦後処理は済んでいるのかも知れないが、今問題になっている歴史を絡む諸問題を我が問題として考えることがなかった。しかし、今からでも平和を維持していくために考えていかなければならないと思う。「不戦の努力」と語った半藤氏の言葉から、私達がしなければならない「平和のための努力とは何か」を問うていきたい。
 そのなすべき努力の一つに国際貢献や国際交流があると思う。アジア諸国とのEPA(経済連携)に看護師・介護士の受け入れがあり、当法人も来年度受け入れ施設として準備を進めており、フィリピンから2名の人を迎えることが決まっている。そうした動きもあって、去年10年ぶりにフィリピンに行ったのだが、英語研修だけだった前回とは違って、就労の受け入れを前提に地元の人たちの現実に触れながらそこで見聞きしたことは衝撃であった。十分な教育を受けていないために仕事に就けない人々も多くあり、そうした老若男女が路上にたむろっている現実。また、大学で看護や介護の勉強をして資格を取っても就職先がないという切実な声も聞いた。資格を取った後も病院でボランティアをしたり、研修生としてお金を払って、外国で仕事をするためのキャリアを積んでいる人も多くいる。国内には病院や施設の就職先がなく、国内で就職できたとしても、低賃金と重労働で社会的地位も非常に低いということだった。そのような状況もあってなのか、EPA関連で、日本に来て働きたいという看護師・介護士の今年度の応募者はフィリピン国内で3000名を越えているという。そのうち、日本の施設とマッチングが決まった人は280名程で、1年間の日本語研修に励んでいるということだった。あとの9割以上の人達は、フィリピン国内で失業状態に置かれるのだろうか。日本の人手不足の現状からすると大変もったいない話である。日本では、高齢化が進み介護施設も病院もその担い手不足で苦労している。先日も新聞に、「特養ホームの介護職の配置基準が満たせない施設が出てきている」との記事が掲載されていた。この状況は今後ますます深刻化すると予想される。高齢者施設を作っても、看護・介護職が集まらず開設が出来ないといった事態がすでにおこっている。言葉のハードルはあるものの、彼らが日本に来て働くことは、学んできた専門を活かす場を提供することであり、また日本の施設にとっては看護や介護の専門知識や経験を積んだアジアの人達の受け入れは、現場の質の低下を防ぐ意味からも有難いことである。施設運営の面からも、もっと積極的に受け入れをしていくべきだと思う。
一方で、彼らの稼ぐ賃金は、その家族や親族全体の生活支援に直結している。その根底にあるのは、カルチャーとしての家族関係であり、また経済基盤が脆弱な国の事情でもある。とにかく彼らは自分がやりたいことだけではなく家族や親族そして国をも背負って日本に来ようとしているように感じた。その想いはピュアで明るく、エネルギーに満ちている。私は、日本には消えてしまったような、そのピュアな感覚とエネルギーに魅力を感じた。
 アジアから来た人たちと一緒に働くことは、単なる労働としての人材確保だけでなく、お互いの国の文化や生き方を理解し合う事であり、ひいては国境を越えた平和を紡ぐ一路になるのではないかと期待する。また、そうしなければならないと思う。決して日本の3K職場を充たす外国人労働者として完結してはならない。病院や介護施設が深刻な人手不足によって外国の労働力に頼らざるを得ない現状だが、こうした施設の現場は、とてつもない人生の奥義を秘めた場所なのである。「生きること、死ぬこと、繋がること」を暮らしの場で共に考え体感できる場なのである。このステージで、異文化の交流は、より豊かな広がりを生みだしていくだろう。疲弊した日本社会とそこに生きる若者達への起爆剤にもなり得ると考える。混ざり合いながら一緒に生きて、ワイワイと関わりながら、出会いを深め、衝突を繰り返しながら、新たな文化が生まれてくるのではないだろうか。そんなこんなのなかにこそ、未来の明るい地域作りが目指せるような気がする。当法人にとっても、全く異次元の新たな出会いと交流が始まりそうだ!
 いろんな国の人たちと混ざり合いながら“一緒に生きる”・・・このことは銀河の里の「希望」を越えて、高齢社会の日本の「希望」そして世界平和に繋がる一歩になるだろうと思う。国際交流の本来的意義はそこにあり、私達にとっての「不戦の努力」は、当たり前の日常におこる現実的な諸問題を争いの火種にせず、また大義名分を持ち出して、政治的解決に委ねるのではなく、草の根のつながりを積み上げていくことにある。
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ハルミさんの旅立ち ★ケアマネージャー 板垣由紀子【2015年1月号】

 担当していた一人暮らしのハルミさん(仮名)が突然旅立たれた。亡くなる前日、訪問したヘルパーにハルミさんの体調不良を伝えてくれたのは、近所に住むハルミさんの友人Kさんだった。その日は日曜日で病院が休みのため、どこに連れて行ったらいいか判らず困っていたKさん。相談を受けたヘルパーが私に連絡をくれた。私は出張で岩手を離れていたが、休日当番医を広報で調べて受診するよう伝えた。Kさんは車の運転はできるが道が判らないと言うので、ヘルパーが先導して病院まで案内してくれた。本来のヘルパーの業務を越えて動いてくれた。頼りにしている友人のKさんも、診断こそ受けていないが高齢で、最近の様子から物忘れが心配されはじめていた。病院に行った当のハルミさんは、先生から具合を聞かれても「どうしてそんなことを聞くのか」と、いぶかる感じもあったという。心配された脳梗塞の再発でないことが分かり、翌日の午前中に主治医を受診することになった。
 しかし翌朝、主任ヘルパーが気にかけて出勤途中に様子を見に寄ってくれたところ、ハルミさんは意識がなく脈も触れない状態だったので救急車を呼んだとの連絡が入った。私も直行し、救急車で人工呼吸を受けながら病院に行ったが、ハルミさんの死亡が確認された。霊安室に移され、付き添いが必要という病院の要望で、私が付き添うことにした。
 後妻だったハルミさんには実子がなく、他県に住む義理の息子さん夫婦が身元引受人になっていた。息子さんに連絡し、親戚のどなたかと連絡を取って病院に来てもらえないか相談するが、なかなか折り返しの連絡が来ない。私は急遽、仕事をキャンセルして、ハルミさんに付き合うことに腹を決めた。ハルミさんの隣りで私は孤独を感じていた。それは、いずれ一人になるであろう自分と重なったからだ。
 昼過ぎに、葬儀業者が決まったとのことだったので、親族はまだ見えなかったが、後をまかせて霊安室を後にした。夕方、孫に当たる方から連絡があり、息子さん夫婦は明日来ること、葬儀は身内で行いたいので他言無用でお願いしたいとの意向を伝えられた。そこで今までの経緯をお話して、ヘルパー事業所には伝えたいこと、葬儀には参列させてほしいとのお願いをした。翌日、葬儀の参列と弔辞の依頼もあり、お引き受けした。
葬儀は、孫さん夫婦とひ孫さんも見えていて、そこではじめてひ孫さんがいることを知った。小さいころはハルミさんとの交流もあったらしい。葬儀を終えて、義理の息子さんから「連絡を受けて動揺してしまい、仕事にミスが出てその後始末もあって連絡が遅れてしまった。本当なら、ハルミさんの実家にも知らせるのが筋だが、そうなると、3日間では葬儀を終えることができないため、後で自分が話をすることにした」と話された。
 息子さん夫婦とは、ハルミさんが金銭管理が難しくなったとき、何度か連絡を取りあった経緯がある。普段のハルミさんの様子がわからないため話が通じにくかったり、介護制度への誤解もあったりで、なかなかすんなりはいかなかったが、話し合いを重ねるうちに、家族が抱えている背景や本人との関係の難しさが見えてきた。そこには友人Kさんとの関係もある。しかしハルミさんからは、一人になったからKさんにいろいろ相談にのってほしいと頼んだと聞いている。一緒に畑を作り、御飯を食べたり、けんかしたり、家族のようなつきあいをしていた。以前脳梗塞を起こしたときに、民生員に連絡を入れてくれたのもKさんだった。ハルミさんの一人暮らしには、Kさんという存在が必要だったと思う。世間体よりもハルミさんが選んだ「人生」を大切にしたい。
 今思うと、ハルミさんは、脳梗塞になって介護保険のサービスを使うようになったが、本人にとってそれは意に沿わないことだったのかもしれない。「ヘルパーが来るから出かけられない」「掃除はできるけど、ヘルパーがやるって言うから残してら」と辛口だった。ヘルパーが訪問すると姿が無く、捜索したところ、親戚の法事に出るのに美容院に出かけていたということもあった。私にとっては、月に一度の訪問がおばあちゃんの家に行くような感じになっていった。
 物忘れが進行し「わけわからなくなった」と言うようになった頃、はじめてサービスを必要としてくれたように思う。Kさんからも「施設に入った方がいいのでは」という話も出るようになっていた。社協の生活自立支援事業で金銭管理をお願いし、月に1回支援員と訪問するようになって、ハルミさんも自分で金銭のやりくりを意識するようになっていった。暮らしぶりは変わらず、ハルミさんの家の庭はいつもきれいに手入れしてあって、石が並べられていたり、花が植えてあった。私は、この生活がまだまだずっと続くと思っていた・・・。
私が、霊安室で感じた孤独感はなんだったのか。人の死がこんなに突然やってくるのだという事実?霊安室に一人のハルミさんだったが、ハルミさんは孤独ではなかった。Kさんが訪れてハルミさんの思い出話をしてくれた。家族さんとのタイムラグで、Kさんとお別れの時間を持つことができた。葬儀では、孫さんやひ孫さんとのつながりを感じることもできた。息子さんも突然の死に動揺があり、そこにも息子さんの想いが感じられた。
私は「死」を、いつの間にか「病気になって、食べられなくなって、その先にある」と限定して考えていたのかも知れない。自分のこととしてとらえる機会を失っていたのかもしれない。思えば、父も突然死だった。死を前提にどう生きていくのかを意識しはじめた。
 ハルミさんの凄いところは、淡々と当たり前に暮らし続けたところにある。私など今の現役世代にはそれが難しい。効率よく便利な生活に慣れ、一方で時間に追われている。暮らすという力を持たずに生きている。それを意識しなくても生きていける時代なのか。ただ、これからの超高齢社会を生き抜くことを考えると、ハルミさんのような「暮らす力」、必要な時に「人と繋がる力」が必要になってくる。私がおばあちゃんの家にいくような感覚にさせられたのは、ハルミさんが周りの人を、介護保険のサービスを越えて、人として関わることを自然と育んでおられたからだ。自分が地域でどう暮らしていくのかという「知恵」がそこにあったのだと思う。
 ハルミさんのご冥福を祈りつつ。
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生まれ、生きているということ ★特別養護老人ホーム 高橋菜摘【2015年1月号】

 9月29日、その日休みだった私はふと、「勇治さん(仮名)に会いたい!」と思い、病院に向かった。勇治さんは、私のユニット「こと」に3週間いたおじいちゃんで、私にとってとても特別な人だった。
 5月に自宅で転倒し骨折、花巻病院で治療してきたが入院中に認知症状があらわれ、身体能力も衰えた。自宅に帰る前に『生活に慣れる』ためのショートステイで8月5日に、ユニットことに来た。頑固な人だという話だったが、初日、「よろしくお願いします」と私が挨拶すると「・・はい」と緊張した様子で頑固さはみじんも感じなかった。
 ところが翌日から、うまく動かない手で食べるのが難しそうなので、スタッフが手伝いの声をかけても「いい」「大丈夫」と断り、なんと3時間かけて自力で昼食を食べきった!その後も、勇治さんは食べるときの介助を拒んだ。一食に2時間かかるので、食後は疲れてしまい三食は食べられない。また、歯磨きにもこだわり、日に何度も、何十分もかけて磨いた。食事と歯磨きで一日が終わった。
 勇治さんは本当に頑固だった。その理由が『家に帰る』ためだとわかったのは、数日してからだ。勇治さんにとって、ショートステイはまだ病院だった。元気になって退院許可をもらわないといけない。そのためには何でも自分でできないといけない。その想いの表れが、何十分もかける歯磨き、2時間かかるご飯だった。勇治さんは必死に、これからも『生きていく』ための準備をしていたのだ。
 入所して一週間、勇治さんのペースが掴めてきて、これから一緒に何をしていこうかと思っていた朝、多量に吐いた。「薬を変えてもらう」とドクターを待ちリビングを車いすでぐるぐると回った。疲れない?と聞くと「疲れた」と言うのだが止まらない。「元気だね!」と言うと「元気なフリだ」と言った。“こんなに動けるくらい俺は元気だ”と先生に見せたかったのだ。吐いたことで退院がのびることを恐れた、不安の表れだった。
 見ていても切ないので、酒井さんが無理やりベッドに寝かせたが、「起きる!」と怒った。ここで動けなくなったら家に帰れなくなる不安を抱えて勇治さんはもがいていた。
私が酒井さんと代わると、女性だからか怒りを抑えてくれた。家に帰る話をすると「帰れねぇ、具合悪いから」と呟く。「半月後には帰るんだよ」と伝えると、勇治さんは「そうなのか」と、ようやく安心したようで「じゃあ休む」と眠ってくれた。
 その後も、体調が悪化していった。『家に帰りたい』その強い想いで勇治さんは頑張るが弱っていく一方だった。スタッフも、いつ急変するかもしれないと覚悟しながら必死だったが、ついにご飯も水分ものどを通らなくなった。それでも勇治さんは「もっと、水を」と、元気になろうとしていた。ショートステイから自宅に帰る予定だったが、再入院するしかない状態になり、入所して3週間で病院に戻ることになった。
5月末に自宅で転倒するまで、奥さんの介護をし、90歳近い男性なのに、料理もしていたと聞いて驚いた。気持ちは、帰って奥さんと暮らすつもりだった、奥さんを守るつもりだった。息子さんも、急激に弱っていく勇治さんに気持ちが追い付かないと言ってうなだれた。
 勇治さんは苦しそうに息をしていた。帯状疱疹ができて、体に少し触れるだけでも痛がった。満身創痍だった。「病院に・・」と繰り返し、入院だと聞くと「これで元気になれる!」と安堵の表情だった。どうしてこんなに弱っても、生きる気持ちを失わないで、希望を無くさないでいられるのだろう。付き添ってる私のほうがグッタリしているのに。「生きる」ことを諦めないその姿が私を揺さぶった。
私は何でも投げ出し、逃げ出すことばかりして生きてきたような気がする。辛いとすぐ逃げたくなる。だから、勇治さんの揺るがない、強い生きる意志に、自分が恥ずかしくてたまらなくなった。私は元気な体を持っているのに、何をしているんだろうと思った。弱り切った体の勇治さんのほうが私よりよほど強いパワーを漲らせて生きている。

 入院して一ヶ月ほどたった頃、私は勇治さんに突然会いたくなり病院に行った。病室がわからずケアマネの板垣さんに連絡すると「病院から、今日の明るいうちだろうって言われたって、今、息子さんから電話があった」と言うので驚いた。一瞬、思考が追い付いていかない。明るいうち?もう16時半なのに。息子さんは一旦自宅に帰られたとのことで、病室に二人だった。勇治さんは更に細く小さくなり、酸素マスクで呼吸をしていた。なんでもないふりで「ひさしぶり」と声をかけたが、ぼんやりとして目も動かさない姿に涙が止まらなくなる。
 病室には時々看護師がやってきて熱を測ったりするだけだ。いつ最後が訪れるかわからない・・私は「息子さんが戻って来るまでここにいるね」と、勇治さんの手を握った。その手に力はなく、時折ピク、と微かに揺れるだけだった。
 一緒にいると、少し伸びたヒゲが気になったので剃らせてもらう。それから爪が気になって、爪を切った。あぁ、会いに来るとこんなにもひとつひとつが気になるものなんだなぁ・・。丁寧に爪を切りながら濃密な時間が過ぎていった。
 ふと気づくと勇治さんの目が外を向いている。カーテンがその視界の邪魔になってることに気づいてよけた。すると、今度は窓の格子模様が気になってそれも開けた。網戸だけになった・・・邪魔だ!!外を直接見てもらいたい!強くそう思って網戸も開けた。遮るものが何もない風景に、勇治さんの目が開いた。今、確かに勇治さんがここにいると感じた瞬間だった。
 青空を、勇治さんはしっかりと片目を開けて見ている。どんなふうに見えているんだろう。私も窓の外を見つめた。静かな時間だった。久々にゆっくりと外の景色を見るなぁと思った。いつも何かにせかされているようで、常に「本当は何かをしなきゃならないのに」と焦っている感覚。ただぼんやりと過ごすこともできず、何をするでもない時間を過ごしては苦しくなる私だ。勇治さんと空を眺めた時間は、すごく久しぶりの感覚で、とても心が落ち着いた。
 外を見ているうちに日が暮れた。勇治さんはもともと片目がしっかり開かない人だったが、より一層閉じていた。「こっちの目も開けて、両目で見てもらえばよかったね」と、私は閉じた片目を開けた。すると、パチッと両目が開いた。あれ?と驚く。その目はしっかりと力を持ち、私を見つめた。「窓もう閉める?」と聞くと、首がわずかに動く。「まだ開けてる?」今度は確かに、目元が動いて小さく頷いた!やった。勇治さんが戻ってきた!!私は興奮する。「元気になって戻ってきて」「みんな待ってるよ」それまで言えなかった言葉が、自然と出た。勇治さんも頷いてくれる。もう終わりが目の前にあることはどこかでわかっていた。でも終わらない何かがあることを、その時確かに感じていたと思う。
 とりとめのない話をした。息子さん仕事かな?息子さん幾つかな?あれこれ勇治さんの反応を見ながら聞いていると、ふいに「わからね・・」と勇治さんが言った。それまで、何か言いたそうにしながらも唇を震わせることしか出来なかった勇治さんが、私のために力を振り絞って応えてくれた!その反応が嬉しくてしかたなかった。
 3時間二人きりで過ごし、すっかり外も暗くなった。少し勇治さんに元気が出てきた様子に安心して「今日は帰るね」と言うと、勇治さんは寂しそうな顔をした。「明日は難しいから、明後日来るから!」そう約束すると頷いてくれた。
 その明後日の朝、勇治さんは亡くなった。
 
 葬儀の前日、私は生まれたばかりの甥っ子に会うため実家に帰った。和室で眠っていたのは、生まれて一週間の小さな命だった。『初孫』に我が家はかつてないほどの愛情と幸福に包まれている。
赤ちゃんのウソみたいに小さな指にこわごわ触れた。こんな弱く小さなところからみんな始まったんだ。私も、勇治さんも。赤ちゃんと老人、始まりと終わり、生と死が私の中で繋がる。それは不思議な感動だった。
翌日の午後、勇治さんの葬儀にケアマネの板垣さんと参列した。遺影は、若く、片目はやっぱり閉じかけていて、キリッとしたカッコいい写真だった。自分でも不思議なほどに涙が出てきた。ご友人やお孫さんの弔辞からも、勇治さんがどれだけ愛されていたのかが伝わってきた。一人の人の死が、つまりは生が、これだけの人の心を動かす。
 最後に息子さんが挨拶をする。息子さんは、顔を上げて、堂々と言葉を述べた。入院する時、不安そうにうなだれていた人とは別人のようだった。後を継いでいく・・その気概があらわれていた。勇治さんはいろんな人にいっぱい伝え残してこの世を去っていった。
 お孫さんは弔辞で、「危ないと言われた夜に駆けつけたら、元気ないつものおじいちゃんで安心した」と言われた。それを理事長に伝えると「勇治さんの命を3日のばしたね」と言われた。もしそうなら嬉しいと思った。私と過ごしたあの時間が、勇治さんがもう少し生き延びることにつながって、家族さんやいろんな人に会えたのなら本当にうれしい。あの日、あの3時間、一緒に居られて本当に良かった。勇治さんが呼んでくれたのだと思った。勇治さんの死と、甥の誕生とが同時に私の前に現われ、人が生まれ生きているということが、私が今生きてここにいることの凄さを教えてくれたように思う。
 勇治さんはすぐにあきらめて投げ出そうとする私に喝を入れるように生きることへの勇気をくれた。死ぬことが命の終わりじゃないとずっと思ってきたけれど、こんなにも命と命は繋がっているんだと感じ、受け継いでいくものなんだと感じたのは初めてだった。私には勇治さんから伝えられた大事なことが沢山ある。それを、『次』に渡していかなければ勇治さんに申し訳ない。私なりにしっかりと生きて繋いでいきたいと思う。
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守男さんの法要 ★特別養護老人ホーム 角津田美香【2015年1月号】

 8月の下旬、昨年7月に亡くなられた守男さん(仮名)の法要に出席させていただいた。
 守男さんは、銀河の里のグループホーム(以下、GH)と特養を利用された方である。私が守男さんときちんと接したのは、守男さんが特養のユニット「こと」に入居された昨年の3月からだった。   
 守男さんのこれまでについては、GH時代の守男さんの居室担当だった、先輩スタッフの詩穂美さんの事例発表や通信の記事を通して知っているつもりだった。ひとりの人の人生の、ほんの一部を覗かせていただいたに過ぎなかったが、私は守男さんの雰囲気にどこか惹かれた。そんな曖昧な動機だったけれど、リーダーの菜摘さんとも話し合い、私は守男さんの居室担当をさせていただけることとなった。
 昨年の3月から、守男さんが亡くなる7月のなかばまでの、4か月に満たない本当に短い間だったけれど、私たちは守男さんと共に生活した。守男さんはその4か月の間に、7回も入院されている。本当に、生きる闘いだったのだと思う。特養にいる時には、ほぼ毎日、夜にお嫁さんとお孫さんがお二人で来里され、守男さんの居室で一緒に過ごされていた。
 
 守男さんの法要には、銀河の里からは詩穂美さんと私の二人が出席させていただいた。ご親戚の方々がたくさん集まるのではないか、と私たちは勝手に想像していたのだが、私たちの他にはお嫁さんと、お孫さんが三人、親戚のご夫婦が二人だけだった。本当に、守男さんのご家族に混ぜていただいたような、とても身近な雰囲気の中での法要だった。
 お寺での念仏が終わったあと、守男さんのお墓をお参りさせていただいた。ここが守男さんのお墓で、守男さんの遺骨が納められているのか、と考えると、不思議な気持ちだった。「骨壷、見ますか」と、お孫さんの友秋さん(仮名)がおっしゃった。えっ、よろしいんですかと、詩穂美さんと私は少し戸惑ったが、友秋さんは早速墓石をずらし、骨壷を見せてくださった。6面の壁で囲まれた骨壷。その壁の一面一面に、観音様が彫られていた。それは京都でただ一人の職人さんしかつくることが出来ないもので、守男さんが生前、息子さんと喧嘩しながら「絶対これにする」と京都まで赴いて職人さんにお願いし、つくってもらったのだそうだ。「一番(のもの)がいい人だったから」と、友秋さん。守男さんの、頑固で真っ直ぐな一面にここでも触れたような気がした。
 GHで守男さんが舞を踊っている場面や、にこっとした笑顔で写っている写真を、私は里で見かけていた。だから、私の守男さんのイメージは、陽気で明るくて、朗らかな優しい雰囲気の方、だった。でも、詩穂美さんや、ことスタッフの酒井さんから、GH時代の守男さんのエピソードを教えてもらうことがあり、少しずつだけれど私の中の『守男さん像』は変わってきていた。それは、守男さんが亡くなってしまった後のことであるから、またちょっと不思議な感じだ。お墓参りの後、詩穂美さんと私は守男さんのお家にお招きしていただいた。
 お家では、まず仏壇を拝ませていただいた。遺影の守男さんは、少しお若く、その表情は、きりっと引き締まっている。特養で見ていた写真や、ことで過ごしていた頃の「はぁい」とやわらかく返事をしてくれた守男さんとは、まるで別人のようだ。(守男さん、この度は、お墓を拝ませていただき、お家にもお邪魔させていただいて、ありがとうございます。生前は、とてもお世話になりました……。)詩穂美さんと二人で、仏壇に手を合わせる。
 守男さんのお家では、私たちのためにごちそうが準備してあった。家庭のやわらかくてあたたかな食卓の雰囲気の中で、守男さんとの思い出話に、時折笑い声もまじる。孫の友秋さんは、守男さんが亡くなった際のことや、葬儀の時のエピソードなどいっぱいお話ししてくださった(あまのがわ通信9月号を参照)。どこか、はつらつと語られる友秋さんからは、悲しみなどとは違う、強さとか、逞しさが溢れているのが感じられた。「友秋さん、最初の頃とは雰囲気がずいぶん変わったなぁ」と、帰りの車内で詩穂美さんが言う。きっと、守男さんと過ごされて、そして、守男さんが亡くなってからも、友秋さんはこれから先を生きていく人として、守男さんのこころや生き方のようなものをしっかりと受け継がれたのではないかと思う。
 私が特養へ戻ると、たまたまGHからスタッフの寛恵さんとクミさん(仮名)が来た。礼服姿の私を見て、寛恵さんが「あ〜、そっか」と言った。クミさんは、守男さんがGHで生活されていた頃、よく一緒に過ごされていた利用者の一人だ。守男さんの特別な、大切な日だということ、その場にスタッフが参加し関わらせていただいたことを、クミさんはどこかで感じ取ったのだと思う。そして、守男さんが亡くなるまで過ごしていた「こと」へ、自然と当たり前のように来てくれたのだ。そのことを一瞬で理解した寛恵さんの一言はそれで全て解りあえた。
 私が特養に戻ったのは、ちょうど昼食の頃だった。それまでずっと眠っていた利用者のタエさん(仮名)は、私が声を掛けた時に、その日初めて目覚めたらしい。でも、私がスタッフと守男さんの話をした後、また眠ってしまった。言葉ではなく、漂いながら何かと何かを繋いでいる、空気みたいなものを、利用者さん達は(利用者さんだからこそ)感じとり動いてくれるのだなぁと、改めて思った。
 気持ちが良いくらいによく晴れた、あたたかい日だった。ユニットことでは、なぜだか皆が昼食におにぎりを食べていた。皆が笑っていて、賑やかな、大切な景色だと思った。守男さんは、亡くなった後も、里と家族の方々を繋ぎ、守男さんが遺してきたものが誰かの心を動かしている。今度は私たちそれぞれが何らかの形にしてそれを伝えていきたいと思う。

 あまのがわ通信に守男さんとのエピソードを寄せてくださった、守男さんのご家族の皆様へ、この場をお借りして感謝を申し上げます。ありがとうございました。
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約束・熱いお別れ ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2015年1月号】

 昨年10月末、90歳の誕生日を迎えて4日後、文一さん(仮名)が亡くなった。平成24年入所以来、持ち前の力強い語り口でスタッフを励まし鍛えてくれた方だ(2013年10月号、寛恵さんの通信参照)。経鼻栄養となって約一年、変わらずユニット‘おりおん’の守り神のような存在として居てくれた。
 ユニット‘ほくと’で暮らす奥様のカヨさん(仮名)と一緒に誕生日を祝おうと計画した。スタッフ川戸道さんが「カヨさんの好きなおでんを文一さんの部屋でみんなで食べたい!(文一さんは食べられないのでおでんのいい香りを部屋いっぱいにしたい!)」と提案。それを文一さんにも伝える。目を閉じて言葉も少なくなっていた文一さんだったが、「おでんの具で好きなのは?」の問いにハッキリと「はんぺん」と応えたことに感激して、白身魚から手作りのはんぺんを作った川戸道さん。当日、深く眠り込んでいた文一さんの隣で、おでんを頬張るいい表情のカヨさんとのツーショットの写真が残っている。

 その日、明日が夜勤という酒井さんが「何か起こりそうな気がする」と言っていた。文一さんに大きな言葉をもらい、支えられ、靖国神社へ修行の旅に出た酒井さん(2014年9月号、三浦くんの通信参照)。文一さんを、親しみと尊敬を込めて「おとぉやん」と呼んで、男同士の絆で繋がっているような関係に私からは見えていた。その酒井さんが「何かが起こる」と言う。みんなも、文一さんがもうそんなに長くはないことは感じていた。一日いちにちを大事に一緒に過ごしたい、誕生日も思いっきり楽しくやった、覚悟はできていた。
午後になって文一さんの呼吸に変化があった。急いで家族さんに連絡をとる。他部署のスタッフや休みの人も、文一さんの部屋に大勢が集う。それぞれが文一さんとの思い出話を賑やかに語るなか、カヨさんが枕元で、文一さんの布団をひたすらいじっている。酒井さんは今晩が夜勤、日中は休んでいてほしくて連絡するのをためらったが、一応メールで知らせる。「いつでも臨戦態勢は整っています」との返事に勇気づけられる。家族さんの到着がないまま、焦りと不安が募るなか、文一さんの容態の変化は早かった。酒井さんを呼ぶ間もなく、文一さんの肩呼吸が大きくなる。「文一さん、まだだよ!」と三浦くん。「今に孫さん来るよ!」「娘さん向かってらってよ」とみんなから声をかけられる度に、頑張って大きく息を吸って応える文一さん。胸元の布団の端をギュッと握って離さないカヨさんは静かに文一さんの顔を見ている。最後のひと呼吸を深く吸い込んで「おう!」と吐いた瞬間だった、娘さんが部屋に駆け込んできた。「え、嘘みたい・・・じいちゃん? じいちゃん!」
 カヨさんと娘さんを残してみんな退室する。部屋の外でもスタッフがたくさん見守っていた。グループホームから駆けつけた寛恵さんは涙をためながら「今日はサチさん(仮名)が朝からずっと『泣いてら人いた、今にわかる』って言っていた」と話してくれる。今年度の新人の愛実さんは、慣れない仕事で不安いっぱいの時期を文一さんに支えられてきたことを振り返っているのだろうか、その想いを噛みしめるかのような表情で静かに泣いている。私は酒井さんに文一さんの最後の声を聞かせられなかったことが悔やまれたが、「文一さんの旅立ちは最後までかっこよかった」とメールした。
 間もなく孫さんも到着し、家族の大事な時間を過ごし、ドクターも到着。「結局、じいちゃんを看取ったのは、ばあちゃんだったね」と娘さんが微笑んでそう言ったのが印象的だった。普段は‘おりおん’と‘ほくと’で離れた生活、たまに顔を合わせても特別なんということはなく、お互い実に気持ちのいいほどさっぱりとあっさりとしたご夫婦だった。そんなカヨさんがその日はずっと静かに文一さんの傍らにいた。ドクターが退室するときにも、娘さんに手を引かれて部屋を出て、ドクターを見送った後、集まっていたスタッフに向かって、無言のお辞儀をひとつ、ゆっくりと頭を下げた。
 葬儀屋さんが来るのは明日、今晩は家族と共に文一さんも‘おりおん’に一泊していく、と決まったのは夕方だった。夜勤に備えてもう寝ているかとも思ったが酒井さんに知らせる。「俺も会って一言、御苦労様と声をかけたかった、良かった」との返事に、私もやっとホッとして「夜を頼みます」と託した。

 翌日。昨晩、カヨさんは遅めの夕飯をしっかり食べてぐっすり眠ったと聞いて安心した。ここ数日、夜間あまり寝ていないという申し送りが続いていた。「昨日はお疲れさんだったね、ありがとね」と声をかけると、いつも通りの余裕な表情で「ふふ」と笑うカヨさんだった。葬儀屋さんが迎えに来て、お見送りをする。家族さんとスタッフに‘おりおん’から運ばれて来た文一さんを‘ほくと’前の玄関で見送る。ストレッチャーが近づいてくると、急にカヨさんが駆け寄ったので驚く。いつもの足取りとはまったく違って、小走りで、顔をくしゃっとして、文一さんに掛けてあった布に手をかけた。早口で何か言ったのを聞き取れず、「え?」と聞き返したが、カヨさんは布を掴んだまま足早に文一さんの後についていく。すごい、カヨさん・・・、「一緒にいきたいよね」でも・・・。

 火葬と葬儀にはスタッフの代表として酒井さんが参列させて頂くこととなった。酒井さんはカヨさんと一緒に行きたかったようだったが、カヨさんは参列しないことに決まった。「カヨさんは何時でもカヨさんだし、どこに居ても父さんと居るし」とスタッフの万里栄さんが言う通り、みんな同感だった。
 文一さんをお見送りしたとき、ベッドサイドに飾っていた額を「お棺に入れてあげたい」と言ってくれた娘さんに「感動した」と語る酒井さん。おとぉやんとの靖国の話を娘さんにすることができた、と喜んでいた。「お前、靖国に行って、いっぺん死んでこい!」と文一さんに言われた酒井さんは、その言葉で、この国の戦争の歴史に目が開き、かつてグループホームで守男さん(仮名)から教えてもらったこともやっと実感を持って繋がった酒井さんだった。修行から戻り、靖国の御守りを額に入れて文一さんの部屋の壁に飾ったのだった。初めて会ったのに娘さんは、俺の想いをちゃんと聞いてくれた、と嬉しそうだった。
 酒井さんには考えていたことがあった。文一さんがまだ元気でよくしゃべっていた頃、「俺はな、死んだら靖国に行きてぇんだ」と言っていたのが強く印象に残っているようだ。火葬に参列させてもらって、ほんの少しでいいから骨をもらいたい、おとぉやんを靖国へ連れて行ってやりたいんだ、と言う。どうだろうと相談されたが、どうすべきかは、もう私にはわからない話だった。女には立ち入れない男同士の約束みたいに感じられて「任せる!」としか言えなかった。副施設長の戸來さんも、家族さんがどう受け取るか、常識や宗教上の感覚からは、けっこう怪しい話・・・ではあるけれど、「あとは家族さんと酒井さんとの関係に託すしかないよね」と言っていた。

 火葬の日。喪服に身を包んだ酒井さんが「勝負だ」と緊張しながら、カヨさんのところへ挨拶に寄った。すでに大仕事を終えて帰ってきた人みたいに表情が硬く、通りかかるスタッフが「あ、ご苦労様でした〜」「え、これから?」と声をかけるほどで、なんだかマジで緊張している?! 「ふふふ」とずっと静かに黙って酒井さんを見ていたカヨさんに、やっとこ、「カヨさん、おとぉやんに会って来るからね」と言って玄関に向かった酒井さん。その後ろ姿に、カヨさんが静かにひと言、呟いた。「あの人、あそこにはいねぇよ」・・・さすがカヨさん、鋭くお見通し。火葬場なんかには居ない、もうすでに文一さんの魂は靖国へ飛んでいる。そう言っているように聞こえた。
 そして火葬が行われる時間、14時ちょっと前、カヨさんが動いた。急に立ち上がり、「わね(ダメだ)、父さん、いなくなってしまう」と呟いたのを、スタッフの宍戸さんが聞き取っている。小走りで他の人の居室へ入っていくのを、止められるような雰囲気ではないと感じた愛実さんは、窓辺へ駆け寄るカヨさんと一緒に外を眺める。火葬場のある方角に向いた窓だ。空を仰ぎ見て「いた!」と言った、と愛実さんも驚いている。イスを持って行って、ゆっくり腰掛けてもらうと、窓に手を添えて一心に見ている。私は、そのカヨさんを隣で見て感じていたかった。しばらくして「父さん、いたっか?」と尋ねる。こっちをちらっと見て、また窓の外へ視線を向けると、「うっつぁ(家に)いたんだな」と言った。そうか、そうだよな、カヨさんにとって文一さんは、いつだって家で一緒にいる父さんなんだなぁ・・・と、ホッとした気持ちになる。
 ちょうどおやつの時間になって、スタッフの千津子さんが声を掛けてくれた。それに「ふたっつ」と応えたカヨさん。すかさず、「そっか、文一さんの分も、だね」と言って運んでくれる千津子さんにも感激する。窓辺のファンヒーターをテーブルにして、外を眺めながらおやつを頂く。カヨさんは、父さんの分までしっかり二人分平らげた。その後はヒーターをガタガタしたりコードを引っ張ったりして、いつものカヨさんの感じに戻った。コードを引っ張り、たぐり寄せ、コンセントに差し込んでひと言、「繋がってら」と、私に向かって言ってくれた。「うんうん、何かとどこかと、誰かと、いつも繋がってるんだもんね」と、妙に関心しながらも、思わず吹き出して笑った。
 そうやって窓際の時間がゆっくり過ぎ、ようやくカヨさんが立ち上がったのは16時頃、ちょうど帰ってきた酒井さんの車が駐車場に止まった時だった。結局、火葬の最中をずっと窓辺で過ごしたカヨさんだった。窓の前を通り過ぎるときに私たちに気付いて手を振る酒井さんの表情は、とても晴れやかだった。カヨさんもここで火葬の儀式にちゃんと参加していた様子を、酒井さんにも早く伝えたくてワクワクする。酒井さんもカヨさんのところへまっすぐ来てくれて報告してくれる。酒井さんにとってほとんど面識のなかった家族さんなのに、娘さんや孫さんたちと、初めてとは思えないほどすんなりと文一さんのことを語り合えた、と感動に震えている。「一施設職員の俺が、葬儀じゃねんだぞ、火葬だぞ、そんな場に俺がいること自体をすんなりあったかく迎え入れてくれて、おとぉやんの昔の話もいっぱい聞かせてもらった、俺の勝手な想いも話も、いちいちありがとうございましたって聞いてくれた、ありがてぇ! 靖国のことも孫さんの方から切り出してくれた、銀河に来る前に家族で一緒に靖国さ行ったんだってよ! それ聞いたらよ、おとぉやん、もう靖国さ行ってるんだ、俺そう思った、骨がどうのこうのじゃねかった、その事どうやって切り出そうか、俺さんざん昨日から考えてらった、勝負だ、おとぉやんとの約束、ぜってぇ果たす、勝負だと思ってらったが、端から勝負になってねかった、家族さんたちとおとぉやんの気持ちは、端っから繋がってらんだ、俺の出る幕ねかった、わかってる、家族さんたちわかってるよ、おとぉやん靖国さ行ったんだ、いや、すげぇよ、ホント! マジ、やべぇ!」

 やべぇ!と感激に打ち震えていた酒井さんだったが、その後、葬儀にも参列させて頂いた。行ったその場で弔辞を頼まれて仰天、びびって焦って大変だったらしい・・・。が、さすがはロックライブで勝負を賭けてきた男、本番に強い?! 名前を呼ばれるまでは心臓バクバクだったけど、にっこり微笑むおとぉやんの遺影を見たら、不思議だな、スッと心が落ち着いたんだよ、と本人が一番驚いていた。「文一さんの笑顔のように晴れた日ですね」とか、出だしのひと言、よく言ったよ、俺、って自分で思うくらい余裕が出てきて、おとぉやんに言いたかったこと、ちゃんと言えた、伝えてきた、と報告してくれる。再現して聞かせられるくらいに、何を言ったか覚えているのにも自分で驚いている。「おとぉやんにやられたな、でもマジで“なんとかなる、なるようになる”だった」と、文一さんからの宿題を見事やりきったような嬉しそうな表情だった。これまでの関わりのなかで文一さんへの想いが強烈に酒井さんのなかにあったからできたことだろうな、と私は感じた。「ライブで一曲歌ってきたみたいだねぇ」と戸來さんも笑っていた。

 文一さんは俳句を詠む人だったとは聞いていたが、その作品のほとんどが戦争体験の内容だったことや、カヨさんも「父さん、また戦争のこと」と半ば呆れたようにいつも言っていたこと等、孫さんが語ってくれたと言う。文一さんの魂が靖国神社に届いて、今頃は戦友に会っているだろうことを、カヨさんがわかってないはずがなかったんだ。“家に居る旦那さん”を見ている奥さんとしてのカヨさんの、文一さんへの深い理解を感じる。夫婦ってこんなかなぁ、と驚いてしまう。
 葬儀も終えてしばらくして落ち着き、家族さんたちが挨拶にいらしてくださった折、火葬の日のカヨさんの様子をお伝えしたが、みなさんも「ばあちゃん、ちゃんとわかってらんだねぇ」と笑顔を見せてくださった。私はその時、「“夫婦”っていうのともちょっと違うな、ふたりはちゃんと“文一さんとカヨさん”だったんだなぁ・・・」となんとなくそう思った。
 酒井さんは、火葬の時に聞いた「父兄参加の学校行事、山登りに、じいちゃんが来てくれた、当時60代だったが、先を登るじいちゃんが上で待っててくれた」という孫さんの思い出話からのインスピレーションで、新たな一曲、文一さんの歌を作曲した。いつも励ましてくれた文一さんの「やってみろ、お前ならできるはずだ」というセリフ、「なんとかなる! なるようになる!」という力強い口癖、それらが歌詞となっている。
愛実さんは涙ながらに、「文一さんが自分のなかに“入った”と感じる」と語っている。その後、カヨさんと三浦くんと四十九日のお墓参りに家族さんと共に行ったとき、「入ったな」との言葉をカヨさんからもらって、とても感動していた。三浦くんは、春が来たら文一さんに会いに靖国に行く、と決心しているようだ。
カヨさんはというと・・・、より一層の余裕とふくよかさをたたえて‘ほくと’にどっしりと居てくれている。それでもやっぱり時折、寂しそうな切なそうな表情をすることが増えた。ふと窓辺に駆け寄り、静かに外を眺めるカヨさんの姿がある。みんなのなかに文一さんが確かに残していったモノを、それぞれが暖め深めていきたい。「カヨ共々、これからもよろしくお願いします」と言ってくださった娘さんの言葉をありがたく受け取りながら、「いえいえ、こちらこそ、これからもどうぞよろしくね、カヨさん」と顔を覗くと、「ふふふ」と柔らかく笑うカヨさんがいる。
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フミさんを送った日 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2015年1月号】

 11月10日にフミさん(仮名)が、娘さん孫さんに見守られて亡くなった。私は特養に勤務するようになってからずっとフミさんと居させてもらった。そのとき悲しくはなかった。101年の人生をあっぱれに感じた。みんなも泣きながら幸せそうだった。

 フミさんは私が銀河の里に就職して2ヶ月目にユニットほくとへやってきた。フミさんは、娘さんを訪ねて横浜に行き、そこで骨折して何年か横浜で生活していた。元々は、花巻で農業をしてた人だが、当時97歳でキレイにパーマをかけて、髪を黒く染めていたり、粋なセーターを着ていた。足腰は弱っていたものの、笑顔で杖をついて歩いていた。良く笑うおばあちゃんで品があり、フミさんはユニットの人気者だった。
 洗濯物をフユさん(仮名)とたたんでくれたり、テーブルで剛さん(仮名)の大声にあきれ顔で食器を拭いてくれたり、よく働いてた。仕事がなくなるといつの間にかサイレントで杖をついてどこかへ消えてしまう。フミさんは、だれかと居るとその場でジッとしていることが多かったため、当時の変な空気のユニットほくとではそれが事故防止という位置づけで行われていた。でも、フミさんと誰かのツーショットは絵になった。
 私は、その頃、畑に耕耘機をいれて初めての畑作りを、祥子さん(仮名)に教えてもらっていた。カヨさん(仮名)が苗を持ってダッシュして消えたこともあった。ユニットからもフミさんやフユさんやセイ子さん(仮名)がじーっと畑を見つめているのに気がついた。ある暖かな日、大きく開いた窓からフミさんは私と目が合うたびに笑顔をくれた。「フミさん!おーい!」と両手を振ると、フミさんも両手を上げて返事をしてくれる。フミさんも車椅子で畑へ出てきて、一緒に草取りをしたこともあった。その隣では、フユさんが自分の手のひらをみながら、何か独特の世界に入って笑いのツボにはまっていた。お嬢のセイ子さんは「ばかー!」と怒鳴っている。その隣でスタッフの和美さんが「フユさんどうしちゃったのー。おかしいー。はははー」と笑ったり、「蹴らないでー。お腹に赤ちゃんいるんだよー!」とほのぼのとした時間が過ぎていた。隣のユニットからは、クニエさん(仮名)とほなみさんが「祥子さん!お茶っこ入ったよー!」と手を振っている。4年前のあの頃の感じが、今でも一番好きな光景としてよみがえる。

 フミさんは11月10日の夕方5時前に息を引き取り、11日の朝まで一晩家族さんと居室で過ごすことになった。二日間、娘さんは横浜から来て銀河の里に泊まって、たくさんフミさんの話をしてくれた。フミさんと出会う前の話は、どれもフミさんらしいエピソードや生き方で新鮮だった。97歳より前の話が聞けたのはよかった。11日の朝は「おはようフミさん」っていつものように言えたし、葬儀屋さんが迎えに来たときには「行ってらっしゃい」と送ることが出来た。
 ところが送ったあと、ものすごい寂しさが襲ってきて、誰とも口がきけなくなった。フミさんの居室整理をしていた広周さんや万里栄さんと目が合わせられない。伸也くんにも話しかけられるが答えられない。フミさんがやってきたころ、一緒に畑で作業していたカヨさんや祥子さんも今は身体的に弱ってほとんど畑に出なくなっている。その二人とも会話ができなかった。和美さんやほなみさんは出産で引退して里にはもういないし、フミさんやフユさんやセイ子さんは亡くなっている。なんだか一人ぼっちになった気分で、無性に泣きたくなってしまった。
 伸也くんに「畑へ行ってくる。ユニット頼む」と伝え畑へと向かった。鍬で土を掘り返したり、草を取ったり、木を燃やしてみたが、あのころの光景はもう無くて畑に一人ぼっちだった。「もう自分一人しかのこっていない。フミさんが亡くなった今、畑を見てくれている人はいなくなった」と感じながら、フミさんは畑にいて畑とリンク?していたような気がした。「フミさんたちがいる畑が好きだったのに。もう畑やめようかな」と考えていると、万里栄さんが「コレ…一緒に燃やしてちょうだい。フミさんのやつ」と小さな花を渡してきた。その小さな花を火の中へくべたときもう我慢ができなくなった。「寂しいよー!みんないないじゃんか!」と叫んで涙がこぼれ落ちた。久しぶりに泣いた。もう畑はやめようと思った。
 その時ほくとから「学さん(仮名)待ってよー」と伸也くんが学さんの車椅子を追ってテラスへと出てきた。学さんは「おっ!やってるな!火付いてねぇんじゃねーかよ。煙しか上がってない」と笑っていた。すばるからはフクさん(仮名)も出てきて「さみーじゃー!」と言ってる。中では、当時は無関心で「俺の気持ちー!」と9時にはデイサービスに向かっていた剛さんが、車椅子にすわって見ていた。サチコさん(仮名)も「うふふふ♪」と泣きのサチコさんではなく、色っぽいふくみ笑いで見守っていた。伸也くんが「畑やってらど!」とフクさんに話しかけていたり、万里栄さんが「あなた今日37度以上ある病人でしょうが!」と外に出ようとする学さんをとがめたり、真白さんが子供を連れてテラスで笑っていた。

 私は「一人じゃないじゃん。みんないるじゃん。むしろ、フミさんやフユさんやセイ子さんもいるじゃんか!」と子どものように大泣きしながら、畑作業を続けた。嬉しかった。更に、すばる1号室前から「おーい!おーい!」と、身を乗り出し落ちそうになりながら、賢吾さん(仮名)が手を振って呼んでいる。近寄ると「コレ、内緒な。ごくろうさん」とティッシュ1枚で隠しきれてないオロナミンCを「ほれっ」と投げてきた。「いただきます!」と受けながらまた泣けた。やっぱり畑はやめないことにした。

 その後、午前中の入浴に賢吾さんを誘う。賢吾さんは、居室で書き物をしていた。「さっきはありがとう、オロナミンC!あのぉ、風呂行きませんか?俺も汗かいたんでよければ一緒に!」と伝えると、「はい!着替え、頼みます。ところで~、今日なんかあったんですか?1,2時間ほど前、人っこたくさん来ていたようだども?」と問われた。隣ユニットのフミさんが101歳で昨日亡くなり、さっき出発したと伝えた。「いや、そうでしたかぁ…。私もコレ!毎日日記書いていて、もうすぐ一年が終わるからと思って整理していたんだどもぉ、迷ってる。ここでこのまま死んでいいものなのか、それとも家に帰って死んだらいいものなのか。いつかは死ぬと夢のように思っていたんだども、どうも最近は一歩一歩確実に死に近づいている。この歳になれば分かるもんだっけ。そこで、まだしゃべれるうちに家族にそのことをどうしても確かめておきたいんです。私はどっちでもいいと、思ってはいる!でもね、家族が周りの目を気にして家に連れ帰すかもしれない。息子は、どこで死ぬかは任せる、どちらでもいい!とは言ってましたが、本音が知りたい。どこでどう死ぬか決まっていればいいなと思ってます。今度息子や娘が来たとき聞いてみようかとも思うのですがぁ…、聞きたくない気もするんだっけ。決まってればなんもいいんだども、どうなんだべね?やっぱり、ここで死ぬのが幸せなんだべか?家族が決めるんだべか?」と真剣で険しい表情だった。「うーん…、俺もまだ25歳になるところで親も元気だし経験したことないから分からないんだけども…。でもね、ここにタクヤさん(仮名)っておじいさんがいたったんだけど、賢吾さんが来る1ヶ月前に93歳で亡くなった、病院でね。ここで、4年間一緒に過ごした。すごく厳しく鋭い人で、最後まで面倒見てもらったった。タクヤさんは、亡くなる1週間前に病院に移った。それは、タクヤさんの意志ではなく息子さんが家族と話し合って決めた。タクヤさんは、地域を背負って生きてきた人だった。地域でタクヤさんを知らない人はいないってくらい有名だった。だからこそ、施設ではなく地域の病院でみんなが足を運びやすいようにと、1週間前に移ったのかもしれない。亡くなった後、葬儀に参列させてもらって弔辞を読ませてもらったけど、そんとき参列していた人の大半がタクヤさんに育てられた人達だったよ。60代、70代のおじさん達がずらーっと並んでいて、地域の人達で埋め尽くされていた。すごく立派な人だったんだなとわかった。よく分からないけれど、人それぞれの亡くなり方と亡くなる場所があるけれど、どんな形でも賢吾さんは大丈夫な気がする。その時が来たら決まるんだろうし、その決まったことで賢吾さんも納得するような気がするな」と話した。すると、「タクヤさんってのは、もしかして高橋タクヤさんのことっか?背っこの高くてガシッとした人だべ?」と返ってきた。「えぇ?そうだけども…タクヤさん知ってるの?」とびっくりしていると「知ってるも何も!!あぁ懐かしいな!タクヤさんがここにいたってか!亡くなったのっかぁ。もう一度会って話しっこしてがったなやぁ!!!」と、さっきまでの表情がうって変わってニコニコになった。「タクヤさんはここでどんな生活してだったのす?」と質問してくる。「タクヤさんは、女の人には優しいっていうか甘いくせに、男の人には厳しかったね~。怒鳴る事や殴る素振りもしたったっけ。でも、根は優しくていつも声を掛けてくれた。食事は全部食べる人だった。手が大きいけど不自由で、太いフォーク使って食ってたな。本も書いてたよ!“70年の思出”って本。読ませてもらった」と話すと「そうかそうかぁ。懐かしいよぉ!」と涙する。
 入浴中「今度は俺がタクヤさんの話を聞きたいな!」と言うと、賢吾さんは、兵隊時代の話をしてくれた。「私はただの新米兵から始まったんだけれども、4年かな?4年ぐらい戦地にはいたんだけれども、帰って来る頃には軍曹にまで位が上がったったのさ。んで、めったに軍曹って位になんてなれないんだども、私は銃剣術が得意でね。結構強かったんだよ。性格もね、自慢じゃないけれどもまじめで、初めは大砲を運ぶ仕事だったけれども、いつしかその位まで登り詰めたんだな。自慢じゃないけどもね、ふふふ。あとは、長距離が得意で負けたことなかったなぁ。だから軍曹になれたのだろうと、今思う。タクヤさんは、たしか柔道がものすごく強かったんだね。体格がいいし。近衛師団にいたはずだな。ようするに攻める兵隊でなく、守る兵隊さ。んで、お互い戦地から戻ってきてから青年学校指導員という役職で、出会うんだねぇ。位の高い兵隊が指導員となって、15歳から25歳ぐらいの若者に戦争の指導をするんだよね。同じ東和町出身ってのもあったし、私の何個か下の歳ってのもあってすぐに意気投合したった。また、私の弟も近衛師団だったしタクヤさんと同級生だったから、友達だったんだね。指導員勤務で同じ時間を過ごしたのはそんなでもないども、戦後も交流はあったったよ。元兵隊の集まりだったり、地域の決めごとなんかにはいっつも一緒だった。その都度話っこはしたったし、何回もその集まりで酒っこ飲みながら語ったよぉ!戦後、タクヤさんは自営業でいろいろやったった人でないっけか?麺だの…はてぇ、忘れだな。でも、いろいろやったと聞いた。なんだったがな。そのぉ、タクヤさんの書いた書物、読んでみてぇ!タクヤさんと会って話しっこしたがったなぁ」

 その日の午後は、毎年恒例の焼き芋をやった。毎年、フミさんは毎回一番大きいやつを選び、ハフハフしながら食べていた。今年もあつあつの焼き芋をぱかっと割ったときの匂いを味わってもらおうと今日、予定していた。しかし、その日に旅立ってしまい、本人の体はもういない。でも、午前中の畑で、みんな居るんだなって感じたので、予定通り焼き芋をやった。参加者は学さん、タミさん(仮名)、ノブ子さん(仮名)、上小路さん(仮名)ら新しいメンバーが集まった。かつてのメンバーは居なかったが存在している感じはした。焼き芋が終わると、私は気が抜けたようにフクさんのベットに入って爆睡してしまった。とても濃い一日だったし、タクヤさんはじめ、かつての過ごした昔のメンバーとも会う事が出来た。フミさんや賢吾さんが会わせてくれたんだなーと思った。居なくなるけど、人は死んだって関係なく、終わらないで続くもんなんだなぁと感じた。
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「もう遅いんだよぉ〜!」の梅酒 ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2015年1月号】

 春にユニットすばるで梅酒を作った。ところが、作ったこと自体をすっかり忘れてしまっていて、それはずっとユニットの隅っこの方で眠ったままだった。秋のある日、ふとした弾みでそれを思い出し、引っ張り出してみたら、なかなかにキレイな色をした梅酒が出来上がっていた。梅酒の瓶に貼られていたメモ紙には、作った日の日付と、「もう遅いんだよぉ〜!」という私の下手くそな文字。それを見て、梅酒を作った日のことを思い出した。
 小梅をたくさん採ってきたものの、どう使おうか、少しの間考えた。梅酒を作ろうと決めてからは早かったのだが、私にとっての“少し”は小梅たちにとっては“少し”ではなかったようで、青かった小梅は、すでに黄色く(若干赤く)色づき始めていた。私は、そんなことなど気にすることなく気軽に、祥子さん(仮名)、フキさん(仮名)を誘って梅酒作りを始めた。
 すると早速、「もう遅いんだよぉ〜!」と祥子さん。「こったなの、見たことない!」一個一個丁寧に、ヘタ取りや熟しすぎた実の選別をしてくれながら、怒っている。そんな状況にもかかわらず、そこいらで見つけてきたレシピの通りに作ろうとしている私に、「そったなやり方、聞いたことないよ!」とフキさん。しばらく手伝ってくれてはいたが、ついには「勝手にすれば!」と愛想を尽かす。手伝ってくれた二人にも、小梅たちにも申し訳ない気持ちになり、次に作る時にはもっと早くに作れるよう、瓶にその日の日付と「もう遅いんだよぉ〜!」という祥子さんの言葉を記した。
 と、まぁこんなエピソードがあったにもかかわらず、すっかり忘れてしまっていた。だから、引っ張り出す時には、“もうダメだろうな”と諦め半分だった。それでも、梅酒は出来上がってくれていて、小梅と焼酎と氷砂糖の力にただただ感謝、感謝だった。
 そういえば以前、デイサービスで味噌を造ったときも、どうなることやらと不安でいっぱいだったが、蓋を開けてみたらそれなりのものが出来上がっていて、大豆と塩と麹の力に感謝、感謝だった。粒が全然揃ってない大豆を見て、「こったな大豆、見たことねぇ!」と、キミさん(仮名)に怒られながら一緒に選別したことも思い出した。
 大豆は味噌になり、小梅は梅酒になった。そのくらいの時が経ったということなのだけれども、あまりその長さを感じられないでいる。食べて“おいしい!”と思ったら、その瞬間が全てで、それまでの時間なんて関係なくなっているのだと思う。ウン十年物とか、年代物を有り難がる神経が、今までいまいち理解できていなかったのだが、こうして時間がかかるものを作ってみると、その意味がほんの少しだけわかった気がした。 
さて、肝心の梅酒の方はというと、祥子さんがかなり薄めたお湯割りでも2、3口飲んだだけで「もうたくさん」となったため、試飲会ならぬ梅酒に漬けた梅の試食会となった。「もう1個ちょうだい!」と、ショートステイで来ていたフミさん(仮名)は3個、4個と次々と食べ、「これから毎日ごちそうになるわ〜」と上機嫌。初めは「いらねよ」と言っていた真澄さん(仮名)も、「いりません!」と頑なだったユキさん(仮名)も、いつの間にか目の前に置いてた梅をペロリ。私も、認知症のある皆さんも、作ったことはすっかり忘れてしまっていたが、こうしてみんなで食べた梅の味はみんな忘れないだろうと思った。
 次は、この梅酒を使って何を作ろう?作ったは良いものの、梅酒の使い方を知らず、今は、アレを作ろうかコレを作ろうかと考え続ける日々だ。でも、そのまま食べてもあれだけおいしいのだから、きっともっとおいしいものが作れるはず!そう思ったら、考えること自体がすごく楽しい。「もう遅いんだよぉ〜!」と言われることは、まだまだこれからもたくさんありそうだけど、“おいしい!”その一瞬を目指して、また作ろうと思う。
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吹雪の初詣 ★特別養護老人ホーム 齋藤隆英【2015年1月号】

 昨年末、世の中がせわしくなる歳の暮れ、ユニットオリオンでも毎年のように師走を感じさせてくれている利用者さんがいる。銀河の里のみんなの母ちゃん的存在のモエさん(仮名)だ。そんなモエさんがテーブルを拭きながら、「齋藤さん!あのよ!年明けたら、初詣さ行きてな〜!ここのみんなでよ〜!」と、言った。昨年モエさんにはいくつかの大きな出来事があった。長年会っていない、いつも気にかけていた息子さんにやっと会えた事。男性スタッフに色々と教えてくれる時に「俺の親方はそんな事やんねえぞ!」とよく言う、モエさんの中の理想の男性像であるお兄さんが亡くなられた事。そんなモエさんに初めて、「ここが俺の家だからよ〜」と言われた。皆で初詣に行きたい、色々な想いを“家族”で参拝しに行きたい、そう伝えてくれたのだと私は感じた。
 その想いをチームで感じながら、「オリオン一家みんなで行く」ための計画を立てることにした。オリオンのスタッフみんなが参加できるよう調整し、さまざまな身体状況の利用者さんに、どうやったら負担をかけないように行けるのかなど、チームで話し合った。私は当初「一家みんなで行く」というところを重点的に考えすぎていた。そこに、昨年一度入院し、2月で101歳になるサチさん(仮名)が極寒の中、外に出掛けるのは体力的に難しいのではないかとの指摘があった。モエさんとサチさんの関係は、苦楽を共にしてきた親子のよう、銀河の里で出会う前から繋がっていたような感じさえする。二人とも早くに旦那さんを亡くし苦労して子どもたちを育ててきた。私はサチさんを一緒につれて行きたかったが、明確な判断ができず「みんなで行きたい」と言っていたモエさんに、申し訳ないという気持ちのまま相談してみた。すると、「んだな〜、んでば、ばっちゃんの分も拝んでくればいんじゃね〜のか〜」と、とてもあっさりだった。その後モエさんと話をしていると、時々時間や空間を超えて独り言を話しているサチさんの話しになり、サチさんなら体は銀河の里にあっても、魂というか、気持ちや想いはみんなと一緒に初詣に行けるんだという話をしていた。
 そして初詣当日の朝、私は目覚めてすぐにベッドから飛び起き、すぐさま部屋のカーテンを明けた。天気は吹雪・・・。前日の天気予報をみて、あまりにも酷いときには中止にしようとみんなで話していたが、まさかここまで荒れるとは・・・。ため息をつきながら職場に着くと、少し雲が晴れて明るくなってきた。「お!行ける!」とユニットへ着くと、また吹雪に・・・。出発を11時に予定していたので、10時頃までには決断しなければならない。祈りながら様子をみる事にしたのだが、天候は荒れたり止んだりでなかなか決断に迷った。花巻の1時間毎の天気予報をみると、11時から12時の間だけ、雪マークではなく曇りマークがついていた。外をみると雪は弱まっていた!シフト調整、みんなで立てた計画・・・など色々な思いが甦り、「よし!行こう!」とみんなに声をかけた。
 しかし車に乗り込む直前、大吹雪になった・・・。花子さん(仮名)や、康子さん(仮名)が声を揃えて「助けて下さい!」と叫ぶほどだった・・・。更に追い打ちをかけるかのように、昨日まで行く予定だったチヨさん(仮名)がこの天気の影響を受けてしまったのか、「体が動かんけん、ワシは行かん・・・」とリビングのテーブルから立ち上がろうとしない。すでにみんな車に乗っている。私が慌ててユニットに戻ると、とても深い闇を纏ったようになっていて、何と声をかけていいかわからなかった。チヨさんはほぼ毎日、「頭が痛いので薬を下さい・・・」「お腹が痛いので薬を下さい・・・」と、闇を背負っているかのように、歩行器にもたれかかってリビングへ出てくる。
 年末のある日、そんな感じで出てきたチヨさん。ちょうどしめ縄作りの練習をモエさんとやっていて一本完成したところだった。私はそのしめ縄を隣のユニットに自慢しに行こうとしてチヨさんと遭遇した。「お兄さん・・・、お腹が痛いけん、薬を分けていただけませんか・・・」薬の飲み過ぎを抑えるために、スタッフは温かい紅茶や甘いお菓子を渡し、様子を伺う事が多いのだが、私は何を思ったのか、その時はしめ縄をチヨさんの歩行器に飾ってしまった。そのとたん、暗いチヨさんの雰囲気と歩行器にフィットした、しめ縄が一体となって、とてつもないオーラを放った。思わず周りにいた他のスタッフも一緒に手を合わせてお祈りしてしまったほどだ。すると、さっきまで闇を纏っていたチヨさんの顔が急に明るくなり、笑顔とともに光に包まれた。そして、「こうすれば、しっかり固定ささるんじゃなかろうか」とアドバイスまでしてくれる。さらに「これ、こうすれば・・・」と、しめ縄をお腹や頭に巻き、「痛いのもきっと吹っ飛ぶんじゃろうな〜」と、全身藁だらけになりながら去って行った。きっと信仰深い人なんだろうと感じた。だから、初詣も楽しみにしてくれていると思い込んでいた。
 チヨさんは気分が落ち込むと「体が上手く動かなくなったので、みんなに迷惑をかけるけん、ここを辞めさせて下さい。近くに住んでいるタケちゃん(息子さん)に迎えに来るように言って下さい」と訴えることがある。この時も同じような雰囲気で、どう説得しても「行けない・・・」と言うので、スタッフも諦めてチヨさんは残る方向で考え始めていた。私もどうする事もできず、「しめ縄の力を借りてみようかな・・・どうしよう・・・」と、悩みながらもチヨさんの隣に座ってみた。すると突然、「あの・・・タケちゃんは今日来るん?」と聞いてきた。私は咄嗟に、「来ます!」と嘘をついた。「あっ、やってしまった・・・」と、少し後悔していると、「そう・・・じゃあワシの分もお祈りしてきてと伝えてください」と返されてしまった。正直に伝えようと思い、「タケちゃんは来られません。でも、もしかすると、お母さんにお祈りしてきて欲しいと思っているかもしれません」と伝えた。すると、「そうか・・・でも、歩けんし・・・」と、少し扉が開きかかった。「大丈夫です!車椅子に乗って行きましょう」「ほんなら行こうかのう・・・」と立ち上がり、なんとか車椅子に移ってくれたではないか。この先きっと何かある!絶対に行きたい!と、再決心しながら、ホッと胸をなで下ろした。
チヨさんも乗ったし、神社に着く頃にはきっと雪は弱くなる・・・と自分に言い聞かせながら、利用者さんとスタッフの合計17名で2台のワゴン車は出発した。しかし外はだんだん荒れて、神社に到着したころには猛吹雪だった。緊急会議を行い、車の中でみんなでお祈りし、スタッフが代表で拝んでくるという案もでた。しかし「せっかく来たのに何言ってるんだ」という利用者さんのオーラに押されて、「頑張って行ってみよう!」という事になった。一番にモエさんが決心を固めた!ワークステージの奈美さん(仮名)も、「私も行きます!」と、続いた。また初詣をとても楽しみにしていた、元祈祷師の孝子さん(仮名)も「行ぐ」と一言。何人かは車に残ることになった。ところがなんと、ずっと寒がって車中毛布にくるまっていたチヨさんが行くというではないか。降りてから吹雪の中でもう一度聞いたが「行く」は変わらなかったので驚いてしまった。チヨさんは何を想ったのだろう・・・。
 こうして大吹雪の中、呼吸も難しいような状況をものともせず、一心不乱に神社の拝殿に向かった。みんな真っ白い息を吐きながら、車内に残っている仲間の想いも乗せてお賽銭を投げ、鐘を鳴らし、しっかりとお祈りした。祈り終わると、それぞれ晴れ晴れしい笑顔に満ちていたが、その中でも一際チヨさんの笑顔が眩しく、印象的だった。車で待っていた利用者さんのおみくじをスタッフが引いて車の中でそれぞれが開けた。祈祷師の孝子さんは、さすが、「あらかた分かるからいらね〜」とおみくじは引かず、“家内安全”のお守りを買っていた。きっと離れて暮らしている家族に祈りを込めたのだろうと思う。
 利用者さんが引いたおみくじを開けるとなんとどれも大吉で、歓声が沸き起こり車内は熱気に満ちあふれた。一緒に参加した施設長は、帰ってから「大荒れの吹雪は、オリオンの荒神達を象徴しているようで、その中でお祈りする光景はとても神秘的だった。帰りの車内の雰囲気は、今年一年を表すかのような温かさを感じた」と言われたのには、私もとてもうれしかった。
 帰ってからすぐに居室へ入ったモエさんが、しばらくして出てくると、「齋藤さん!」と呼ぶ。近づくと小声で「大吉だったじゃ〜」と、ニヤリ。午後からの天気は、午前中の大吹雪が嘘のように晴れ渡った。ユニットオリオン一家の激しい吹雪の初詣。今年はオリオンで、どんな物語が生まれるのだろう・・・。
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