2014年10月15日

アップルカフェを開催して ★ケアマネージャー 板垣由紀子【2014年10月号】

 先日9月27日(日)に、銀河の里の交流ホールで、第一回アップルカフェを、お試しで開催しました。一日、自由に出入りできるカフェスタイルで、銀河の里のデイサービスとショートステイを利用されている方にご案内をしました。認知症カフェは、昨年からオレンジプランの中で取り組みが始まっており、それぞれ地域の特徴を活かして独自のスタイルで全国的に行われています。認知症のご本人とその妻が、支援団体の協力で月に一回レストランをひらいているケースや、認知症の専門医が中心になって、ケアマネや、介護のスタッフとボランティアで月一回開催するケースなど、様々な取り組みが始まっています。
 銀河の里では、障がい者部門のワークステージの惣菜班、畑班、厨房班がコラボして、野菜や惣菜の販売と、銀河の里の米や野菜を使ったお食事を用意しました。普段は介護している方が、カフェにきて、思い思いの時間が過ごせたり、ちょっと預けて用足しに出かけたり、誰かと気軽に話せて、出会えたりする場になったらいいなと考えています。
 これまでアップル会議で出た声の中にあった、「どこに相談していいかわからない。窓口で、介護者支援プログラムに誘われてもなかなか気軽には行けない」そんな悩みも解決できたらいいなと思います。
 当日は、開店間もなく、「毎アルを見たい」とリクエストをくださる家族さんがおいでになりました。「家の用事もあったけど、時間をもらってきました。いつもは夫が介護しているけど、休みの日は私も手伝えればと思って」と、アップル会議にも関心を持っていただいて嬉しく感じました。平日は参加できない人もあって日曜日に開催した甲斐がありました。
 また、「母に行く?と聞いたら、行く、と言うので来てみました」と親子で来店され、デイサービスのスタッフと、娘さんを交えてくつろいで行かれた方もありました。デイのスタッフからも、普段なかなかお会いできない家族さんと、ゆっくり話せてよかったとの声もありました。デイのスタッフが子供を連れて参加してくれたのは、とても効果的で、子供がいるだけで場が和みます。御家族と一緒に来ていたデイの利用者の正雄さん(仮名)も、御家族の方は施設を見学に行かれ、正雄さんひとりでカフェに残って、子供の遊ぶのを見ながら自然と顔もゆるんで、おじいちゃんの顔になっていました。いつの間にかテーブルにはおもちゃが広げられて人が集まっていました。
 今回のカフェは6組の方が来店され、特養とグループホームからも参加があり、カフェは賑やかに盛り上がりました。「まずやってみよう」とはじめた今回のカフェでしたが、子供と認知症の方の繋がる力に助けられた感じです。これからの高齢化時代に地域を創っていくのは、この力が大きいだろうと感じました。子供は、はじめは警戒して、母親から離れないでいても、そのうち自然に遊び始めます。怖がって逃げていたかと思っていたら、いつの間にか一緒に遊んでいたりします。その周りに、笑顔で見守る大人達がいる。そうした風景が地域になくなってしまいましたが、認知症の人たちの力をかりて、認知症カフェがそうした繋がりとやりとりを取り戻せる場所になったらいいなと感じました。
この日、カフェを終えた帰り、ある保育園の前を通ったら、知り合いのお母さんが子供を連れて歩いていたので車を降りてお話をしました。そのとき園庭に親子がいて、子供がこっちに近づいてきたので、「いくつ?」と声をかけると、その子は「3歳」と応えたので、しばしおしゃべりをしていました。ところがその間、その子のお母さんはスマホに集中していました。お母さんは、スマホを終えて立ち上がるやいなや、その子を呼んで、会釈の挨拶もなく帰って行ってしまいました。20代の若いお母さんだったと思います。若い世代の親たちは、スマホで繋がることはできても、目の前の人とは出会えなくなっているのでしょうか。これから高齢化し認知症の人も増えていく地域を考えるとき、子供達や、その親の世代の協力はとても大切なことと感じます。
今回カフェを開いてみて、これから地域に必要なのは、認知症の人を軸に、子供や障がい者、地域の元気な高齢者も含めて、誰もが集まり交流できる場ではないかと感じました。実際に何ができるか、何が必要か、参加してくださるみなさんと一緒に考えていきたいと思います。
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霊魂に会いに ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2014年10月号】

 どんなに伝えようとしても、伝わらないことがある。どんなに繋がろうとしても、繋がることができないものがある。私は、この半年間、霊魂という、現実的には伝えることも繋がることもできない、目に見えないものの話を通じて、祥子さん(仮名)と関わってきた。その中で、祥子さんが見えなくなってしまうような感覚になったこともあったし、自分自身が居なくなってしまったような気持ちになることもあった。それでも、祥子さんが話し続ける霊魂というものに、私は会いたかった。
 春先にすばるに異動しても、2ヶ月間くらい、私は祥子さんの部屋に入ることができなかった。入浴の時も女性スタッフがついているので、単に男性である私が、部屋に入ることがためらわれたということはある。ただ、それにも増して、祥子さんについて伝え聞いていた幽霊の話に、怪しさを感じ、すばるの中で唯一、鍵が掛けられていることが多い祥子さんの居室に近づき難かった。だから、いつも祥子さんとは部屋の出口で出会い、入り口でさようならだった。シャンシャンと歩き、トイレにも自分で行ける祥子さんだったから、それで良かった。
 祥子さんはよく、「嘘ついたら地獄に行くんだよ〜」と話していた。そのくらいの話だったら、笑って聞くことができた。「じゃあ私は地獄に1万回くらい行かないとないねぇ」なんて返していた。「夢で地獄さはよく行くのだけれど、極楽へは扉の前まで行くんだけど、開けられなかった」という話もしていた。これも、「どんな扉だったの?」なんて面白がって聞いていたけれども、何度も繰り返される“嘘ついたら地獄に行く”の話に、“嘘”と“地獄”が祥子さんにとってどういう意味を持つものなのか気になり始めた。
 そんなある日、“嘘ついたら・・・”の話をしていた祥子さんが、急に、「あのねぇ、パン作ったったのよ」と話し始めた。「パンを作ったの。みぃ〜んなニセモノで。みんなにナイショにして、みんなのとこに持ってって、どうぞ〜♪なんて言って。そしたら、みぃ〜んな何にも知らないから、おいしそ〜って言って・・・」以前スタッフと、“ニセパンでだますイタズラ”をしたらしく、そのことを笑いながら、楽しそうに話してくれた。けれども、私はどこか奥底の方で、笑えていない祥子さんを感じた。そして最後に祥子さんは、「その夜からだったよ〜、地獄の夢見るようになったのは」と言った。
 ニセパンの思い出は、祥子さんにとって楽しい思い出だった。でも、そこで小さな思い残しが生まれた。それは、後悔というにはとても小さなもので、祥子さん自身もなんと表現したらよいか分からないのだろう。ニセパン作りで生まれた小さな思い残しを今、話してくれる祥子さんと一緒にそれに向き合いたいと感じた。
 今まで、祥子さんに感じていた怪しさは、そんな積もった思い残しから来るのではないかと思えた。楽しそうにお出かけしたり、踊りを踊ったり、話をしている祥子さん。でも、奥底には違うものがある。笑ってても泣いているし、怒ってても笑ってるし、泣いてても怒っている。うまく言葉にできないが、そんな感じ。行き場をなくしたものたちが、グルグルと巡っている。それらに触れるのが怖くて、私は祥子さんの部屋に近づくことができなかったのだと思う。けれども怪しさの根っこがそういうものならば、そんな怪しさは、私自身に全てはね返ってくるもので、それほど意識することはないが、私にも思い残しがたくさんあるのだと思った。言葉にできず、行き場をなくしたそれらが、ふとした瞬間に表に出て来て苦しくなる。祥子さんの怪しさに向き合うことは、私自身の怪しさと向き合うことだ。だから、祥子さんの話す幽霊にも、会いたいと思うようになった。
 その頃、祥子さんは体調を崩し始めた。足に強い痛みを訴えるようになり、歩くことすらままならなくなった。一人では立ち上がることが難しく、介助が必要になっていた。私にとっては、祥子さんと向き合おうという思いと、部屋に入る必要性とが重なった。
 意を決して、初めて祥子さんの部屋に入った日、話は、「ここに来た頃、自殺考えたったよ〜。よっぽどテーブルの上で自殺しようかと思ったった!」から始まった。「薬飲んで自殺しようと思って、玄関まで行ったのだけれど、どこに行くんですか?って止められて。部屋に人が勝手に入ってくることあって、ここは精神病院ですか!?って言ったら、鍵閉められたったよ〜」と続く。ここに来た頃の祥子さんにとって、納得できないことがたくさんあって、それを訴えたのだけれど伝わらなくて、苦しんで、自分が居なくなろうとまで思い詰めて・・・。私は開けてはいけない扉を開けてしまったような気持ちになったが、祥子さんの話しは続いた。
 話は怪しさを増していく。「いっつも男抱いて寝てた人居て、男も何でも言うこと聞いて!女の色キチガイというのは恐ろしいよ〜!でもその人、今では歩けなくなって車イスでいる。幽霊の祟りというものがあるんだ〜」事実はどうだったかは分からない。でも、祥子さんと私にとっては、それが真実だ。そして話は、祥子さんが見たという幽霊の話へ。「私、朝寝てたら、窓の外に立ってらった。女の人と、その娘と。娘、部屋の中に入ってきて、何かと思ったら、窓の外に立ってらった〜」祥子さんの部屋は中庭に面していて、その中庭に立っていたのだという。「親分(理事長)の前の奥さんだ、って言ってらっけ。自殺したんだねぇ〜。キレイな人だったよ〜」
 何度も繰り返される幽霊の話。話が見えなくなってくる。祥子さんは今、ここに居るのか?私は今、どこに居る?何が良くて、何が悪い?何が本当で、何が嘘?分からない。分からなくて、苦しくなる。返す言葉が見つからなくなっていったが、なぜ中庭に幽霊が出るようになったのかを聞いてみた。すると、「ここの土はどこから持って来たんだ?って親分に聞いたら、山から持って来た、って言ってた。“ざんかけ”から持って来たんだ!亡くなった人の骨が埋まってるんだ!だから、霊魂が出るんだよ〜。霊魂出るから、草も生えねかった!」昔は、供養することができずに、亡くなった人の死体を“ざんかけ(崖)”に埋めていた、という。
 話を聞いているうちに季節は移り変わり、秋に差し掛かっていた。幽霊になんて会えるわけないと思うが、それでも、この渦巻く部屋から抜け出し、何かに会いたい、と強く思うようになっていた。それで、「お彼岸に、お墓参りに行こう!」と祥子さんのご両親が眠るお墓へ一緒に行くことになった。
 彼岸の中日を迎えて、お墓へ向かう車内では、「よくお墓見つけられたったねぇ〜」と言ってくれ、「毎年、一人で墓にだけは行ったった。実家には行きたくなかったから行かなかったども」ここでも、祥子さんの思い残しが語られた。「兄貴と私とで一生懸命稼いで家建てたのに、売られてしまったった!誰が稼いだんですかって!!入院してら時、全然来ねかったんだもん。この間、嘘つかれて、みんな売られてしまって・・・」声を震わせて語る祥子さん。怒りと悔しさと寂しさと、いろいろなものが溢れていて、話があっち行ったりこっち来たりする感じ。祥子さんのかわりに、私が「コノヤローッ!!」って叫んだ。“ニセパン”とか、家のこととか、幽霊とか、いろいろな思い残しを抱いて、墓地に到着した。
 車を停めたところからお墓までは20メートルくらい。だが、足に痛みがある祥子さんの歩みはゆっくりで、時間がかかる。また、私にとっても、お墓参りをすることで何が出てくるのか、何かが変わるのか、そして何に会えるのか、不安なのか期待なのかよく分からない感情を抱えての道のりはとても長く感じられた。
お墓の前に着くと、「娘ですよ〜。来ましたよ〜」と話し始める祥子さん。「今まで守ってもらいました。ありがとうございました」まるで目の前にいるような話し方で、祥子さんと両親の霊魂とが、本当に近くにいることが感じられた。そして、この瞬間、私の中でグルグルと渦を巻いていたものが融けていき、スーッと解き放たれていく感じがした。そこにあったのは幽霊の話の怪しさではなく、亡くなったものたちとも確かに繋がっている、崩れない、消えない、見えない絆だった。その絆を信じられた。
だから、自然と私も、“守ってください”と、両手を合わせていた。「おかげ様で、今まで長生きできましたよ」とも話し、「また来ますよ!」と言って、別れた。何と会えたのか上手く言うことができない。けれども、これから、祥子さんの幽霊の話を、また違ったイメージで聞けると思う。
 墓参りから少し経ったある日の夜、「あの人に、言われたったよー!自慢するんだっけもん!」誰のことだか分からなかったが、延々と文句が続く。聞いていたら急に、「フキさん(仮名)は、病院さ行って、亡くなったよ」と言う。フキさんは祥子さんと隣同士の席だった人で、今年の夏の初めに亡くなられた。私には、フキさんがすぐ近くで聞いてくれてるように感じられ、「フキさんもきっとどこかで聞いてるね。祥子さんもフキさんに聞いて欲しいんでしょ?」と聞いてみた。すると、「本当はね。あんなに元気だった人、亡くなってしまって・・・今だから(言いたかったことが)言える」と話してくれた。
 ふたりの間に何があったのか分からない。でも、ふたりは今やっと、言いたいことを言い合えるようになったのだと思えた。フキさんだって、本当は祥子さんに、言いたいことを言ってもらいたかったのだと思えた。私にとってフキさんは、すばるに来て初めてお別れをした人だったのだが、祥子さんを通して、完全にお別れではなかったことを、確かに感じられるようになった。
 幽霊の話や地獄の話は、祥子さんにとって大切だからこそ苦しめられていると思う。またある日、ベッドに横になる前、「動けねくなって、迷惑ばかり掛けてるから、極楽さは行けない。夢でも、地獄への桟橋行ったり来たりしてるよ〜」と、いつもと変わらない表情で話していたが、奥底では泣いていたと思う。迷惑を掛けてばかりいたら、極楽にいくことができないのだろうか。霊魂を大切にしている祥子さんが極楽に行けないなんて、私には思えない。「極楽への行き方はひとつじゃないと思うよ!一緒に他の行き方を探そうよ!」祥子さんへの提案だったのだが、それは同時に、私自身にも勇気を湧かせた。守られている感じがした。

 祥子さんは今度の誕生日、スタッフの三浦さんと秋田の男鹿へ行き、水族館に寄ったあと、日本海に沈む夕陽を見て来るのだという。三浦さんにとっての祥子さんは、里での一年目に“畑の先生”になってくれた人であり、宮古へ一緒に朝陽を見に行った人でもある。そのほかにも数多くのエピソードがあり、深い絆で結ばれた二人だ。そんな二人が、今度は夕陽を見て来る。朝陽は夕陽に変わり、そしてまた朝陽に変わっていくのだろう。そんな二人の絆を見つめながら、私自身も、“極楽への他の行き方”を探していきたいと思う。
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ダンスを通じて 〜夢と命を追う〜 ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2014年10月号】

 今、銀河の里ではワークステージのワーカーさんを中心にダンスの発表会に向けて練習に励んでいる。身体表現を通じて何を発見し掴むことができるのだろう?深みにはまっていくように…そんな事を考えながら、練習は続いている。
 
 私は、今年の3月の研修で、ピナバウシュ・ヴッパタール舞踏団の「コンタクトホーフ」を観た。“こころ”の内面をそのまま舞台にしたような男女のダンス。力強くて迫力のあるダンスに私の体まで鼓動を始めるようだった。その頃、里でもアフリカンダンスの練習が始まった時期だった。私は自分が何のために踊るのか、踊りたいのか踊りたくないのかもわからないままだった。けれど「コンタクトホーフ」を見て、身体表現の魅力に気付かされた。跳ねたい、飛び越えたい、そんな気持ちが溢れて、かき立てられた。
 一緒に研修に参加した中屋さん・万里栄さんに「ダンスがしたくなった」と話した。まだぷかぷかとしたイメージしかなかったが、この二人は言葉よりも“気持ち”を受け取ってくれて、「どんなダンスがしたいの?」と聞いてくれた。私は「“まる”がやりたい」と訳の分からないことを言ったのだが、さすが、二人は「あ〜〜〜!!!」とそのまま受け止めてくれた。
 完全なかたちの“まる”(円?丸?)・・・コンタクトホーフに触発されて、ダンスで表現したいことのイメージが「まる」だった。その“まる”のイメージを携えて練習に取り組んだが、私のダンスは“まる”とはほど遠かった。アフリカンダンスは、異国のもので、面白いかわりに難しい。私の動きはロボットみたいにぎこちなかった。
 半年が過ぎて、秋になった。振りは覚えたものの、なんだか先の見えない踊りでしかなかった。楽しいのだけど、そこから先が見えない。“まる”にはほど遠く、何のために踊っているのかさえよく分からなかった。
 そんな折、特養のスタッフの「銀河の里・吟詠会」の発表会が行われた。これは、特養の利用者賢吾さん(仮名)を先生に発足した詩吟チームだ。矢沢吟遊会のリーダーだった賢吾さんは、春から若いスタッフに詩吟を教えてきた。発表会は賢吾さんの夢の実現でもあったと思う。
 発表会の最中、満足気な笑みを浮かべる賢吾さんの表情を見ながら、賢吾さんの気持ちを察することが充分にできていない自分を感じて、引っ掛かりが残った。その日の夜のダンス練習。いつもの様に練習に取り組んだ。けれどやっぱり…いまいち手応えの無い練習だった。心の中で「またか」と思いながら、その手応えの無さが何なのかはっきりせず、言葉にすることもできなかった。
 ところが、踊っていたら、ある瞬間、なんだか変になってきた。どんどん景色が変わる。・・・あれ!?今までと同じダンスなのに頭の中が空になってゆく、体もどんどん軽くなる感じ。そして、私は空を飛んで、天に昇る感覚になった。天国に行ったのかと思った。からだの隅々にまでエネルギーが流れ、その自分自身の全体と対話している感覚。全てが見える、自分の『命』を身体全てで感じていた。練習が終わると、私はまた現実に戻った。ぽかーんとその余韻に浸る。なんだったのだろうあの感じは…。貧血になった時、目の前が真っ白になるそういう感じとは違う。別次元の世界に行ったという意識はあった。その余韻の中…吟詠会の発表の事を考えていたら、ピンとくるものがあった。

 賢吾さんは「何かに情熱をそそぐ事が、人生において大事なのだ」といつも言う。賢吾さん自身が若い頃から、そして今もなお、そんな姿勢で生きてきたのだろう。『何かに没頭し、真剣に向き合う事が、自分を変えたり世界を変える。何かに賭けて熱意を持て』という事なのだと思う。賢吾さんは、私たち若者の未来を期待してくれている。活力ややる気を、出し惜しみせず使って、命を燃やしなさい、賢吾さんはそう教えてくれている。私がダンスで感じた『命』は、賢吾さんが期待してくれている命そのものだと思った。
 発表会ではそれぞれが“誰か”に届くように、一句一句、想いを込めて詩を吟じていた。賢吾さんの微笑は、みんなに「詩吟を教えたい」という気持ちを超えて、それぞれの想い・情熱が輝きを放つ瞬間を見ていたのだと思った。

 賢吾さんの微笑みを思い出しながら、私にとってのダンスとは何なのかが、ほんの少し分かった気がした。“まる”をイメージしてきたダンス。私がヴッパタール舞踏団から感じた“まる”とはなんだったのか?…自分の命を見つめて感じて、過去・現在・未来が包括された世界…宇宙の中で自分の生を感じる。誰かに見せるためではなく、自分自身の命との対話のダンス。脈々と流れる命のエネルギー。賢吾さんはそれを私達に伝えようとしているのだと思うし、私はそんなダンスがしたいのだと気がついた。
 ダンスをしながら他の皆はどんな事を考えているのだろう?ダンスの先生は「踊っているときは何も考えて無い」と言っていた。確かに、頭や意識で考える必要はないのかも知れない。ダンスを通じてひとりひとりが何かを見つめることが出来ればいいと思う。
 ワークステージのワーカーさんも、ダンスを通じてそれぞれの物語が生まれているに違いない。色んなテーマがあって、色んな想いが渦巻いているだろう。踊ることが、私たちの気持ちをこんなにも動かすことに注目し、大事にしていきたい。そしてみんなと命を感じながらダンスができたらすばらしい。そうすれば“まる”が実現できるのかもしれない。
 最近高校時代の友人と話をしたら、「夢はない」と言っていた。仕事にもやりがいも無いとつまらなそうだった。夢を抱くのは、とても難しい時代なのだろうか?便利になった分、人と人の繋がりは薄くなり、心は動かなくなる一方のこの時代に、夢は抱きようはないのだろうか。私がイメージした「まる」は夢なのかもしれない。銀河の里には世間とは違うなにかがある。賢吾さんたち世代を継いできた高齢者と、私達若者が出会い向き合う。音楽、ダンス、詩吟等々いろんな事がある。忙しくて大変だけど、便利に気楽に生きていける時代にあって、なぜかぐるぐるしてる私。そこから、見失しなうわけにはいかない夢が生まれてくることを願う。
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ダンスで起こるなにか ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2014年10月号】

 去年、理事長に紹介され、アフリカンダンスなる教室に行った。コレが結構おもしろい体験だった。ゆっくりとしたストレッチのあと、ハードな踊りで、普段の生活ではありえない量の汗と開放感を味わった。そのダンスを、今年の春からワーカーさん達と踊る企画があがり、11月1日に市民文化会館で発表会をすることとなった。
 これまで、ほとんどのワーカーさん達とは面識がなく、練習の場で自己紹介から始まったのだったが、練習を重ねるうちにワーカーさん達の個性も見えるようになってきた。
 5月頃からはチームが決まり、ワーカーさん4名とスタッフ3名の計7人のチーム『弁慶』に私は入った。その中のひとり大原君(仮名)は、身長180cmもあり、坊主頭に黒縁眼鏡、独特の歩き方で、朝夕、理事長宅の犬の散歩をしている。なにごとにも一生懸命で手を抜かないが、無表情で無口だった。なにを聞いても、「うん」か「・・・」の無言で、私が里に来て4年間、大原君と会話を交わしたことはなかった。
 大原君は普段、厨房の調理補助として働いており、ユニットで食器洗いや盛りつけ作業を手伝ってくれる。彼と触れる僅かな時間に、「今日のご飯は何?」と聞いても、「魚」とか「野菜」と素っ気ない返事で、目を合わさず黙々と作業を続けて、話は発展しなかった。
 ある日、ダンスメンバー用に、自分のニックネームや好きなキャラクターやアイドルの名前など、それぞれカラフルな名札を作った。そのとき大原君は黒いペンを持ったまま、ひと文字も書けずにいた。「なんでもいいんだよ。みんなは、好きなタレントやアイドルの名前が多いみたい。大原君は誰が好きなの?」と、声をかけてみた。すると更に挙動不審になって、大原君の額から汗が出てきた。「無理しなくていいよ。俺は洋画ドラマ、フレンズのチャンドラー役、マシュー・ペリーって俳優の名前にしようかな。好きなんだよねー」と独り言でごまかしていた。すると突然「マイケル」と大原君が言った。驚きながら「え?マイケル?歌手の?」と聞き返すが「違う」とだけ返ってきた。「俳優?スポーツ選手?」とまた聞くが、「違う」と言う。「うーん…」と悩んでいると、日本人のフルネーム5人の名前を上げた。どの名前も耳にしたことがなく、「え?作家?政治家?博士?」とまた質問するが「違う」としか言わない。そして、その時、ニヤリと微笑んだ。初めて大原君の表情を見た。
 ダンスの練習では、大原君は一生懸命で、毎回汗だくで踊り続けて誰よりも先に振り付けをマスターした。ただ、ずっと無表情で無言のままだった。
 夏場になると、ある程度のフォーメーションが決まり、どうにかダンスらしくなってきた。なかなか振り付けを覚えられず、動きのタイミングが分からないワーカーさんに、大原君が「こっち!」「立って!」「コレだよ!」とぼそっと声をかけることがあった。ついにはリーダーのように指示も出すようになり、スタッフにも「こうだよ!」と教えてくれた。一人で踊っているような感じから、チームを意識し始めた大原君だった。
 9月になり、いよいよ各チームのダンス構成は完成に近づき、チーム『弁慶』もフィニッシュまで構成が決まり、大原君のソロパートも組み込まれた。
 いつものように練習をしていると、大原君が何かをブツブツとしゃべっていた。「何したの?」と聞いても「ん」としか返ってこない。ブツブツは続き、急にニヤニヤし始めた。そこで私は、大原君と同じ表情をしてみた。すると、大原君も顔マネを返してきた。そうしてまねっこ合戦が始まり、初めは顔だけだったが、次第に手や足も入って、しまいには、体全体で妙な動き合戦になった。ついにおかしくて「あははは〜!」と笑うと、大原君も「ふふふふふ!」と笑った。そして、その変な動きが大原君のソロパートの振り付けになった。
 その辺りから、大原君はどんどん動いてきた。ダンスに自信がついたのか、チームが盛り上がってきたからか、表情がまったく違ってきた。それまでの愛想のない無表情は一変し、明るい表情へと変わった。練習中も、顔をくしゃくしゃにして笑ったり、「デンデンデンデン♪」「ドゥンドゥン♪」「テッテテー♪」と口でリズムを刻んでいたりする。大原君の中にダンスが入ったような感じで、楽しそうだった。この頃から普段もニヤッとこちらを見て笑ってくれたりして、いままでの固いイメージが一転した。
 ある日、メンバーの祥くん(仮名)が「俺のチームなんだからさ、俺のユニットでやろうよ!」と特養ユニットすばるでのダンス練習を提案してきた。そこで、リビングを練習会場にして、十数名の利用者さんがみてくれている前で練習が始まった。いつもの練習とは違った緊張感があった。ガチガチで踊って一回目のフィニッシュのポーズで「もっかい!アンコール!」と声がきた。二回目は「ヘ〜イ!!」と声が自然に出たりして、リラックスして踊れた。フィニッシュが決まると拍手が湧いて「今日の練習はこれで終わり!」と閉めたはずだった。
 ところが大原君の舞台がここから始まった。腰を曲げ、床にある何かをつかんで両拳をグーにし、左右の拳を上下交互に動かしている。おどけた表情でそれを高くあげ掴んで、それを受け取ってくれという動作をした。私が慌ててその何かを受け取ってみると、なんだかヌルヌルとした感覚だった。それは逃げようとするので、私も大原君と同じ動きで両手を上下に動かす。「おっと。おっと」と声も出しながら隣にいた人にパスする。次に受け取った人も同じ動きになる。それがパスされて再び大原君の元へ戻って来ると、腰に付けていたかごの中にそのヌルヌルとしたものを素早く入れてしまった。その場にいたみんなはドジョウすくいの劇場にいた。その後、大原君は数匹捕まえた後、急に表情を硬くすると、それを台の上に置き、尖った物で刺すやいなや、上手にさばき、続いて3本串を刺すと、手のひらで炭をパタパタとおこした。更にタレの壺に突っ込んでは出してパタパタと扇ぐ。ここまで来るとなんだか良い香りまで漂ってきて、おなかが減ってくる。そして最後に、大原君は、お重を取り出し、熱々のご飯の上にうなぎをのせて、焼きたてのうまそうな鰻重ができた。
 その時、酸素を鼻につけた102歳のおばあちゃんが正面にいて、大原君と目が合った。そのおばあちゃんは、最近ほとんど食が細く、一日でぶどう10粒だけという日もある程だった。その場にいたスタッフは、焼きたての香ばしいフワフワの鰻重を「頼む〜!食べてくれ〜!」という祈る想いで見守った。ところがその瞬間、大原君は少しも戸惑うことなくその鰻重を食べてしまった。「あ〜〜!!」というスタッフのため息がユニットに響き、おばあちゃんも食い逃してキョトンとなった。でも、なんかとても笑えた。
 この大原君のパントマイムなのかなんなのか、エアのうなぎ取りから食べるまでの流れは、ものすごく感動的だった。打ち合わせも準備もしていない。ダンスから、なぜ鰻重になったのか全くわからない。ダンスの何かがマッチしたんだろうか。波長か何かが合ったんだろうか。そこは謎だが、あのうなぎの感触と鰻重の香りは本物だった。
 目前に迫ったダンスの発表会は、ただのイベントではない。踊る人の身体表現と、観る人との空間がどうなっていくのか未知の期待がある。しかし初めての取り組みで、ままならずあたふたしている現状もある。ただスケジュールをこなしたり、時間に追われたりで、ただのサークル活動に陥りがちではあるが、最後の追い込みを踏ん張って、ダンスを通じて、何が見えてくるか期待したい。
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マニラだより ★施設長 宮澤京子【2014年10月号】

 フィリピンには、今回で三度目の滞在になる。一度目は10年ほど前「これからは、福祉も英語で現場の論文が書けるようでないと駄目だ!欧米の論文を翻訳するだけの学者で成り立つ時代じゃない。超高齢化社会の最先端の日本の現場から、日本の文化に基づいた斬新な実践を世界に発信していかなくては」という理事長の妄想に奮起して、スタッフの中屋と二人、勇んでセブ島での一ヵ月の語学研修に向かった。
 しかし、セブ空港に降り立ったところで私は撃沈した。湿気を伴う、むせ返るような暑さと甘酸っぱい独特な臭い、群がってくる子どもたち、「旅行者は狙われますので、貴重品は鞄から出してはいけません。着けている貴金属も取られるので、注意して下さい。子どもはもちろん、物乞いの人には絶対お金や物をあげないで下さい。フィリピンの自立のために、皆さんのご協力をお願いします」という現地のアナウンスがあった。
 車に乗り込むと、窓のすぐそばに子どもたちの顔があって、工芸品や水などを、片言の日本語で売りこんでくる。もう、どうしていいか分からなくて、早く学校の寮に着いて欲しいと、その光景を避けて目をつぶった。
 学校の入り口には見張りが立っており、外部からの侵入者を厳重にチェックしていた。かつてホテルだったという建物が学校と寮になっており、便利ではあるが驚きに満ちていた。トイレにペーパーはなく、各自で持って行き、ペーパーを流すことはもちろん厳禁だった。私達は韓国料理の毎日に耐えかね、勇気を出してタクシーで大型モールに出かけ、少し高級なフィリピン料理のお店に入り、野菜料理をいっぱい食べて満足した。その帰り、タクシー待ちをしていたところ、突然のスコールに遭って戸惑っていた。雨風だけではなく、何やら黒い大群が足下に押し寄せてきた。よく見るとゴキブリの大群だった。普段、ゴキブリ1匹でも悲鳴を上げる私だが、このおびただしい量に絶句し固まってしまった。踏みつけないように、足に乗られないように彼らが排水溝に飲み込まれていくのを眺めていた。その光景は今も鮮明に焼き付いている。
 そんな具合で、本題の英語のことは話題に登らない。マンツーマンスタイルが主流で、グループレッスンも4〜6人ほどの少人数だったが、帰国一週間前ほどになって「英語が全く何も身についていない」と恐怖に陥った。日本に戻っても、セブの一ヶ月間については、封印したように黙して語らずだった。「英語習得は、現地に行けば何とかなる」という甘い考えが、見事に打ち砕かれた痛烈な挫折体験だった。

 その数年後、日本とフィリピンとの経済連携(EPA)の中で、介護職と看護職を受け入れる方針が決まり、6年前に介護分野の人材を送り出す状況を視察するツアーに参加した。
日本の介護職員の不足と、フィリピンから海外への出稼ぎ先としての日本。その珍しいツアーには福祉関係の雑誌の記者も同行していた。フィリピンでは医療系の大学でも介護の教育を行い、ケアギバーの認定証を出しているとのことだった。日本の専門学校に近い介護技術実習室があり、ベッドから車いすの移乗や食事介助を演習しているのを見学した。学生からは「日本に早く働きに行きたい」という声が聞かれた。その他、リタイアした日本人を受け入れる高級施設やマニラにある教会経営のナーシングホームなど幾つかの施設を見て回った。日本とのEPA締結直後は、フィリピンにはたくさんのケアギバー養成校や日本語の語学学校が開設されたということで、フィリピン側のEPAに対する期待の大きさを実感させられた。
 しかし経済連携とはいうものの、実際は来日希望者と介護施設とのマッチングを経て、日本で働きながら3年後には、日本の介護福祉士の国家試験を日本語で受験するという高いハードルがある。また、合格できなければフィリピンに戻らなければならないという条件がある。日本は有資格者のみを受け入れる立場を貫いているが、その背景には業界の受け入れ反対や懸念がある。3年で日本語の習得を求められ、その上50%台の合格率の国家試験をパスしなければならない。受け入れ側の支援体制が大きく影響するだろうと思った。また受け入れ施設には、語学研修費やマッチング手数料などの費用負担があり、日本人の給料を下回ってはいけないという厳しい雇用条件など、双方にとってハードルは高い。
 来年度、当法人ではフィリピンから2名を受け入れる予定でいる。受け入れ施設になるための審査が通り、第一次候補者350名の中からマッチングで決まったのは、セブの大学を卒業した女性だった。セブとは縁があったと言うべきか。これをきっかけに当初の課題であった「海外発信」の第一歩を、実現できるかもしれないという期待まで持たせてくれる。

 そして今回は、3度目のフィリピン滞在で、トータル13週間の語学研修にリベンジだ。里で介護職に外国人(EPAではフィリピンのほかインドネシア・ベトナム)を受け入れるとなると、英語で対応する人が必要だし、日本語教育の指導もできないと困るだろうということで、還暦を機に420時間の日本語教師養成の勉強も平行して始めた。

 そんなおり、マニラでの最初の4週間を終えて一時帰国したときに、千葉に住んでいる方から「フィリピンにいる甥が、銀河の里を第2次マッチングで希望しているので、よろしくお願いします」という電話を受けた。本人とも、マニラに来て直接面接する機会を持てた。彼は24歳で、まだ第2次のマッチング結果は出ていないが、双方が第1希望で指名しているので決定の可能性は高い。書類選考だけでは彼の第1位指名には至らなかったと思う。なぜなら当初、受け入れ2名とも女性を希望していたし、財団が現地で行った彼の面接評価は高くはなかったからだ。
マニラで彼と母親に会って食事をし、私のおかしな英語と彼の拙い日本語のファーニーな会話に明るく気さくなお母さんが加わり、場が和むとてもいい時間を過ごした。7月の台風で養殖場が壊れ、両親は仕事を失ったとのことだった。お母さんが「家も人も助かって、みんなで助け合って生活しているので大丈夫!」と明るい笑顔で語るので、私の方が慰められた。彼が「日本で働いて、家族を助けたい」と懸命に語るのを聞きながら、日本ではなくなりつつある家族へのピュアで切実な思いが心に響いた。千葉のおばさんに学費を援助してもらって看護師の資格を得ており、その後2年間公立の病院で働いた経験も、現場で活かされると思う。
 私の英語は、なかなか上達しないが、こうした出会いのためにマニラに来たのではないかと思うと納得できる。ただ今回は、フィリピン語学学校とは思えない高い学費を自費でやりくりし、長い期間の留守をスタッフに託しての研修なので、10年前と同様の挫折で終わらせるわけにはいかない。今日のレッスンでもらったイディオム:Practice makes perfect.ではないが、私に課せられたミッションのためにも、頑張りたい。
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広政さんのシュガー ★特別養護老人ホーム 佐藤万里栄【2014年10月号】

 「これどこから持って来たの!」隣のユニット、すばるからスタッフの宍戸さんの叫び声が聞こえた。まもなく、私のいるユニット北斗に、利用者の広政さん(仮名)が「ひ〜」とか「くそー」とか言いながら逃げてきた。広政さんは、特養に限らず、銀河の里の他の部署全体を歩いていて、そこらにあるおいしいものをこっそり失敬してくる。他の施設で、「盗食が激しい」と利用を断られ、困っていたところで、主治医から里を紹介されて半年前から入居して暮らしている。
 里では「盗食」等という専門用語は概念として用いないので、「盗食」という「問題」は出現せず、広政さんの行為や行動は「何故?」という問いとして掲げられる。スタッフの千枝さんはデイに勤務していたとき、広政さんのそうした行動にひたすら同行したうえで「狩人」というイメージを導き出した。人間のオスの本質と絡めてその問いに迫った、とても豊かな解釈だと感心する。
狩人の広政さん『ははぁ、また何か獲物を持っていたんだな?』と私は内心ほくそ笑みながら、すばるに行くと、そこに、宍戸さんが、仁王立ちでこちらに向かって立っていた。そしてその手には広政さんの今日の獲物、大量のスティックシュガーが握られていた。
 宍戸さんによると、通りすがる広政さんのポケットに、スティックシュガーがちらっと見えたので、確認すると、予想外に大量に入っていたので、ついつい声を荒げてしまったとのことだった(私は度々ある、宍戸さんと広政さんのこうした攻防が、お母ちゃんといたずらな子どものやりとりに見えてとても好きだ)。

 広政さんの狙う獲物の一つのスティックシュガー。よくあることなのだが、今回いつもと話が違ったのは、どこから持ってきたのかその出所が分からなかったことだ。いつもなら事務所あたりからなのだが、今回は違うとのことで、ではどこから持ってきたのだろうと、特養の全ユニットに確認したが、どこに聞いても心当たりなしだった。毎日通っているデイサービスにも聞いてみたがそこでもない…。あの量をどこで?いつ?どうやって!?しかも、誰にも気づかれずに!出所を詮索しながら私はワクワクしてくる。「どこから持って来たんでしょうねぇー」と困りながらも、一方でその不思議さに楽しくなって笑みが込み上げてきてしまう。
 その楽しさは私の想像が動き出して、想像の世界に誘われる楽しさなのだ。『広政さんのポケットは、広政さんにとってすごく都合のいい場所につながってるんじゃあないか…』とか、広政さんのポケットが魔法のポケットに思えてくるので楽しくなる。そうした想像の世界では、ステックシュガーは日常品とは別のものになって、広政さんだけが扱える、不思議な宝物に変わってしまう。

 「いったいどこから…」の不思議が続いて、私の想像の世界も広がっていたのだが、数日後、幕切れは突然やってきた。スティックシュガーの出所が発覚した。それは、なんのことはない特養の交流ホールの引き出しの奥にあったものだった。広政さんはそれを磨き上げたテクニックによって、誰にも見られることなく持ち出していたのだ。当然、スティックシュガーはそこから別のところに移された。広政さんは、スティックシュガーを粉薬さながらにサーッと飲んでしまうので、糖尿も心配される体を守るためには当然のことだ。

 当然の一方で私は、出所の判明に少し落ち込んだ。かつて、古代や、太古の昔と言われるころは、地球は平面で、海は端まで行くと滝のようになっているというような世界観があった。その最果ての海には、見たこともない怪物が居て、世界の果ては守られていると信じられていた。しかし、やがて、天文学や地学が興り、地球が平面であった世界観はとっくに終わりを告げてしまった。
地球が丸いとわかってもなおしばらく、地上にも未知の地はたくさんあって、人々は夢や想像を働かせてワクワクできた時代もあった。各時代の探検家達が命を賭けて未知の世界に探検に出かけた。ところが近代以降、地上には未知の地はもはやなくなって、宇宙に出るしかなくなってしまった。月がまだ「お月様」だった頃があった。人々はそこに神を見出したり、ウサギや麗しい姫君が住む世界を想像して手を合わせたりもした。しかし20世紀には遂に人類がその地に降り立ち足跡を残した。つまりお月様の世界を足蹴にしてしまったとも言えなくはない。天体としての月は、お月様から単なる硬質な物質になってしまった。

 地球が丸いことがわかり、月面に人が降り立ったことも、広政さんのスティックシュガーの出所が判明したことも、それはそれですばらしい功績には違いない。でもそれだけで想像の世界がかき消えて「事実」だけが呆然とたたずみ、乾いた世界が広がるだけでは、ドラえもんもピーターパンも住むところがなくなってしまうような気がして私は落ち込んだのだった。
 科学的事実の探求はとても強力で有効な手段であることは間違いない。それによって人類は地上を制覇し、宇宙を探検できるようになり、現実の豊かさを享受している。ただ、科学的手法で世界を暴くことも、事実を把握することも大切だが、更に本当に大切なのはそのまわりに広がっている途方もない想像の世界を忘れてはならないということだと思う。想像を欠いた事実なんてありえない。それは骨格だけで身体にもならないし、心も宿らない。豊かさのなかで、たましいが孤独に苛まれる現代、事実だけではワクワクできないことを私達は徐々にだが理解しつつある。
 果てが見えないあまりに途切れた海のように、表面の凹凸をウサギと呼んで愛でたように、広政さんのスティックシュガーが、魔法のポケットから湧いてくるのを想像するのは楽しい。狩人が未知の世界を探検して見つけてきた獲物だと想像するのは意味のないことだろうか。
 私は誰よりも先にシュガーの出所を見つけて、広政さんの体のために誰にも知られないように場所を移動して、自分の想像の世界と広政さんを守りたかったのかもしれない。想像の先にある、あらゆる世界たちは、現実で裏付けられることもされないまま、とても繊細に存在している。事実に飲み込まれて世界を消滅させては元も子もない。私達は、いつだって事実を超えた先を冒険して新たな世界を創造しなくては、心も身体もひからびて魂を殺してしまう。

 そんなことを考えながら、昨日、広政さんの部屋のクローゼットを開けると、そこにスティックシュガーが5本鎮座していた…。『よしきた!!』と嬉しくなりながら、私はそれをこっそり持ち出し、秘密の場所に仕舞いこんだ。広政さんのポケットが未知のどこかと繋がっていることを願いながら。
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不思議なナースコールとお参り ★特別養護老人ホーム 齋藤隆英【2014年10月号】

 先月9月20日に、利用者の響子さん(仮名)とスタッフの杉澤と私の三人で、響子さんの自宅にある家神様の愛宕神社に参拝に出かけた。この参拝は昨年、一昨年と毎年行っている。(あまのがわ通信H25年3月号・11月号参照)
 9月24日が愛宕神社のお祭りだ。毎年、響子さんはそのお祭りを気にしていた。今年も8月下旬のある夜、響子さんのナースコールが鳴った。職員の三浦が行くと、「なくなったの、私、なくなった。ようやくいけた。今迄いっぱい若い人達に迷惑かけた。でも、ようやくいける。ありがとう。いいところだよ。過ごしやすい。体が楽になったもの」といつもとは違ったふわっとした穏やかな顔で語ったと言う。翌日、その話を聞いた私は、響子さんがあの世に行ってしまうのではないかと不安にかられ、早く愛宕神社へ参拝に行って「力をかりたい」と思った。
 しかし、娘さんに電話をかけたときその不安はすぐにぬぐわれた。電話が繋がるやいなや「家神様のお祭りの件だよね?」と言われ、気持は繋がっていると心が温かくなった。“神様”や“参拝”など、信仰心とは無縁だった自分が、見えない力に畏敬を感じる不思議な感覚とともに、不安が和らいでいった。
 響子さんも、私のそんな気持ちを察してくれたのか、「夢で家神様と寝てらった〜。大丈夫だよって言ってらった」と話し、さらに「戦争に行った人達の事を拝んでた。一人でなんにもできなかったども、神様がいたからやってこられたの。神様には、なれる人となれない人がいる」と人生を振り返りながら深い話しをしてくれた。
 参拝当日、響子さんは「紫の服を着て行ぐ」と、クローゼットの中を探した。そして今迄一度も見た事がない、神事の時に着るような紫色の羽織を取り出した。そして、普段は使っていない全くちがう眼鏡をかけた。その姿はどこか気高いオーラを放っていて、別人のように思えた。
 自宅に到着すると、少し早かったのか、御家族は不在だった。そこで娘さんに電話をかけて、先に参拝させていただく事にした。昨年、一昨年の参拝では、響子さんは自宅で待っていたのだが、今年は初めて一緒に神社の近くにまで行けた。車椅子で田んぼのあぜ道を歩き、裏山の麓に着くと、目の前に聳え立つ鳥居を前にして響子さんは、「立たせてけで〜歩いで行ぐ」と何かに取り憑かれたように必死になり、車椅子から身を乗り出した。二人で慌てて抱えたのだが、歩く事は難しかった。ましてや神社までは山道の急な斜面を登らなければならない。どうしたものか途方に暮れて困っていると「ここでいい。行ってこ」と響子さんから送り出してくれた。それにしても響子さんを一人残して山に登るのは不安だった杉澤は「齋藤さん行ってきて。俺は響子さんとここで待っているから」と言ってくれた。私はその想いを背負ってお神酒を持ち、山道を登って神社に向かった。
 息を切らせて10分ばかり登り、ようやく山頂の神社に到着したところで、やはり息を切らしながら杉澤が追いついてきた。「響子さんが、『わがね、一人ではわがねの。二人でねば』って言うので来た」と言う。二人で手を合わせ、今年もこの場所に来られた事への感謝と、来年も来られるようにと祈った。
 神社で拝んだあと山を下って行くと、鳥居が見えてきた。その鳥居を背後にした響子さんの姿が、夕日のまばゆい光に照らされていて、とても幻想的だった。
 もう一度、三人で鳥居の前でお祈りをした。そのとき響子さんは、「108歳まで生きるから。神様みてける」と言った。私が驚いていると、後ろから「お〜い!」と婿さんが帰宅されて声をかけてくださった。
響子さんは「この人達さ何か飲ませろ〜」と、すぐにお姑さんの顔に変わった。それから家の中でお茶をいただいたのだが、響子さんは親戚の人の消息や、近所の様子などを色々と聞いて確認していた。数日前、「娘と、婿、それと男の人ふたりの4人でやるの。私は歌が違うの。娘がやる方がいいの」と話していたのを思い出した。響子さんは、長い間の荷を降ろし、若い人に託したのだと感じた。
 後から婿さんに聞くと、響子さんは、75歳まで毎年のお祭りの準備をしていたということだった。しかし、その後病気で倒れ、そこから自宅を離れて暮らす生活が始まった。信仰深い響子さんのお祭りに対する強い想いは冷めることなく、一緒に来る事ができた3年前までの14年間、毎年この時期に家に帰って神社を拝みたいと吐露していた。しかし、以前の施設や当初の職員は、ただ家に帰りたいという帰宅願望と決めつけて、相手にしなかったにちがいない。この3回のお参りで、肩の荷を降ろすように、ようやく若い世代に託せたのだなと思うと、私は心を揺さぶられた。
 お茶を飲みながらいろいろ話していると婿さんから、響子さんと親しかった、小学校からの幼なじみの人が近くに住んでいるので会いに行こうと誘われた。その家に伺い、ひさしぶりの再会も果たす事ができた。幼なじみのその方は92歳とは思えないくらい元気でエネルギーに満ちあふれていて、紳士的で素敵なお爺さんだった。二人とも歌舞伎が大好きで、歳を重ねてからも、二人で盛岡まで足を運んでいたそうだ。「また行きたいね〜」と言われた。是非実現したいし、同伴させていただきたいと思う。「小学校の同級生はみんな、戦争や病気で亡くなったな〜。いい人ばっかり亡くなるな〜」と、響子さんと二人で話している姿が、とても印象的だった。

 最近の響子さんは、ナースコールを耳に当てて、電話のように“何処かの誰か”と話している。そして「ふたつあるの」と言う。3年前、始めて愛宕神社にお参りする前は一日中頻繁にナースコールを鳴らし続ける響子さんだった。ところがお参りができた後からナースコールは急になくなり、最近は“2本目のナースコール”がでてきた。見えないナースコールは、もしかすると“あの世”と繋がれる通路になっているのかもしれない。8月下旬のあの夜のように、「いってきた」とも話している。それはあの世への“旅”なのか、“見学”なのか・・・。「何にも苦しいことはなく、楽しいところだった」と語る響子さんは、あの世にいく心の準備を整えているのだろうか。
 不思議な世界に全く無縁だった私に、響子さんは新しい世界を広げて豊かにしてくれるような気がする。
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あまのがわ通信読者からのご感想 ★千葉県 畠山様【2014年10月号】

 今回のあまのがわ通信(平成26年8月号)、読んで、固まってしまったね。中屋なつきさんのは圧倒的でした。昔から、ホロコーストの因果がずっと頭にあり、神は不在かとか、人間は生来残酷な性ありとか、民族浄化を好む人間性とか、いやになるまで見つめてきたけど、敬虔な神父や牧師も、だれひとりちゃんと答えたひとを私は知りません。

 それと、理事長の「物語るということ」。これは、一冊の書籍くらい、厚みを覚えました。きれいごとではない、現実との交錯、マスコミの軽薄さ、祈りとはなにか。天体のもつ、太陽光の当たらない陰の部分まで見つめよ、とでもしかられているような厳しさを感じました。いまも、傷口に塩をすりこまれた痛みが走ります。介護世界への、えもいわれぬ嫌悪感、かといって、正視せずにはやり過ごせない関門。ひとは、こんなにも、孤独が恐い。ひっそり迫りつつある我が身の老後を踏まえるとき、倒れた老人をまずは抱き起こさずにはいられない、その行為に理屈はいらない。参りました(笑)。

 NHKのクローズアップ現代なんか、はなっから信じちゃいない自分としては、上っ面な企画ばかりを、らしく流してマンゾクしているマスコミなんか笑止。朝日も笑っちゃうし。

 真理、真実はやはり、現場に。でも、アリの目線になりがちなところを、鳥の目線で俯瞰する。分かっていても、これはほんとに困難なこと。ほんとに参った通信でした。すごい。
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