2014年09月15日

物語をつくる ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2014年9月号】

 ユニットすばるに入居されている賢吾さん(仮名)は、90歳を過ぎても家の庭の手入れをしたり詩吟の会で活躍したりして情熱に満ちた人だ。去年の秋、95歳で銀河の里に入居してからも、詩吟・謡曲・日々の散歩など…様々な事に精を出してきた。その一方で、ダムの底に沈んだふるさと「田瀬」の昔の様子を語ってくれる。私は去年、専属秘書のご指名をいただき、その語りを「田瀬物語」として書き留めてきた。
 たまに田瀬湖近辺にドライブで出かけるのだが、先日はドライブのついでに賢吾さんのお姉さんに会いに行く事になった。お姉さんは隣町に住んでおり、今年100歳を迎えるという。今は寝たきりだと賢吾さんは言うのだが、この数年会えてないので会いたい…とのことだった。お姉さんの話は度々出たのだが、タイミングが合わず、これまで会いに行けずにいた。家族さんから住所を教えていただき、いざ二人で向かった。
 道中、「ここをよく歩いたもんだ…」とぽつりと語る賢吾さん。その眼差しには、今ではなく、若かりし頃の、過去の思い出の風景が映っている。
 お姉さんの家に着いたのだが、あいにく留守の様だった。「(姉の息子嫁がいるはずなのに)おかしいなあ」と賢吾さん。二人でしばらく待ってみたが、いくらチャイムを鳴らしても返答は無い。私は、諦めて帰ろうと思っていると賢吾さんが「…あそこの家」と、向かいのおうちを指さした。「あそこは、妹の家なんだよ」
 お姉さん宅の向かいは、賢吾さんの妹さんの家だという。すぐ近くに住んでいたとは知らず驚いてしまった。賢吾さんから聞く話はほとんどお姉さんの事で、妹さんの事は聞いたことが無かった。
 いきなりだったが、その妹さんのお宅へ行ってみることにした。チャイムを鳴らすと、元気そうなお婆さんが顔を出し、賢吾さんを見たとたん「おじいさん!」と言った。賢吾さんと妹さんは20ほど歳が離れているそうで、賢吾さんの事を、兄妹であってもずっとおじいさんと呼んでいるそうだ。しっかりとした明るい方だった。事情を話すと、「私が姉の家をあけてあげます。せっかくなんだから、寄っていってよ」と言ってくれた。そこで賢吾さんは火が付いたのか、私に向かって「じゃあ…行きますか!」と小さく頷いた後、妹さんには「早くしろぉ!」といきなり怒りの顔になり、熊の様に叫んだ。威厳ある男の顔。これまでも田瀬物語を聞いているときなど、熱くなってくると、たまに「そこは違う!」と私にも厳しい顔を見せていた。現代ではなかなか見る事のない男の顔。今は女性が強く、軟弱な男性ばかりで、まして、小さい頃から父が居なかった私には、男性の怒りに触れる事が身近にはなかった。そんな賢吾さんの怒りの一面は少し苦手だったが(男性利用者さんの怒りは全般的に苦手)、最近はそんな怒りが自分に必要なのでは…と思い始めている。男性・父性のある人の怒りが私には必要なのかもしれないと・・・。妹さんは「はいはい♪」と、慣れっこの様でさすがだ。今の時代だったら、怒られたら「なによ!」とむくれる女性ばかりだが、昔の女性は懐が深い。だから男性も強くいられたのだろうか?
 妹さんがお姉さんの家の鍵をあけ、あとを賢吾さんと私がついて入る。中の畳の部屋にはベッドがあって、そこにお姉さんがいた。
 「姉さん、…来た!」
 賢吾さんがゆっくりと顔を覗く。真っ白の髪の毛で、ギラッとした目の、綺麗なおばあちゃんだった。私も顔を覗き込み、「こんにちは」と挨拶をした。お姉さんはうんうんと大きく3回頷いてくれた。目を大きく開き、賢吾さんを見つめる。賢吾さんもお姉さんを見つめ、お互いの今の「生」を確認し合っているようだった。そのとき二人の姿はとても神秘的で、姉弟とか家族を超えた存在同士の、魂の対話を見ているようだった。私は無言で動けなくなり、カメラを持っていったもののシャッターを切ることは出来なかった。僅か3分程の時間だっただろうが、違う宇宙に浮いているような感覚だった。
「…さっ、帰るべ」という賢吾さんの言葉で、私はハッと我に返った。

 お姉さんの家を出ると妹さんが、「近くに住んでいるけど、私も姉にはずっと会っていなかった。今日おじいさんと一緒に姉に会えてよかった」と言ってくださった。ひとりっこの私にはわからない感覚、親とはまた違う…重要な存在なのだろう。
 年老いた賢吾さんの姉弟の再会とやりとりは、言葉を越えて迫力があった。ひとりっこで現代人の私にはない、物凄いシーンとして残った。私は誰かと想いを共有したり、繋がったりする事があまりない。自分の世界の中に、自分だけの想いで生きている。よく周りからは「見えない」「何を考えているのか分からない」と言われる。確かに賢吾さんとお姉さんの関係には“繋がる力”がはっきりとあった。何が違うのだろう。生き方、時代・・・。考え続けようと思う。

 お姉さんにお会いできて、田勢物語にお姉さんの事も書きたい
と考えた。先日、ようやく田勢物語の仮の第一冊が出来上がったが、その冊子を見て、私は「自分は賢吾さんと何を作りたかったのだろう?」と考えた。田瀬の歴史本?・・・いや、私が記さなければならないのは、ただの歴史や文化の物語ではなく、賢吾さんの生きた物語そのものだと思った。賢吾さんの詩吟、家族、故郷への想いを書きとどめる。賢吾さんはエネルギーに満ちていて、私達に赤々と燃える情熱を与えてくれる。賢吾さんから詩吟を学ぶ「銀河の里吟詠会」も発足し、第一回目の発表会もやった。
 「趣味を持って生きる事が大切だ」と賢吾さんは言う。何かを通して、誰かと繋がり、それぞれが生きる喜び、感動を分かちあいながら生活する事が大事だという賢吾さんからの私たちへのエールがある。そんな賢吾さんの気持ちや、もちろん厳しい「男の顔」も受け止め・・・。田瀬物語・・・「賢吾物語」を専属秘書として完成させたい。
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神様と繋がる ★特別養護老人ホーム 齋藤隆英【2014年9月号】

 銀河の里さんさ隊に入り、太鼓を叩くことになってから三年目を迎えた。以前、音楽活動をしていたという理由もあってか、理事長と副施設長に勧められるがまま、何気なく参加することになったのがきっかけだった。
 盛岡さんさ踊りは知っていたが、観に行くと言っても、屋台の食べ歩きをして人混みに紛れるだけで、イベントに行くという感覚でしかなかった。
 打楽器の経験は殆どなく、初年度は練習をすればどうにか覚えられる、利用者さん達に喜んでもらいたいという思いで必死に覚えた。想像とは違い、リズムを覚えるのは難しく、やっとどうにか叩き方を覚えても、体の動き、足の動きと合せるとなると、てんでバラバラになり、練習場でのガラス越しに移る自分の姿を見てとても恥ずかしくなり、できることなら続けたくはないと思う程だった。そんな中での一年目の発表、利用者さん達は手を叩いて喜んでくれたり、普段眠っていることが多い静かな利用者さんのいつもとは全く違う表情をみて心が動き、続けてやっていこうと思えた。
 二年目、そんな経験を踏まえて、自分なりに太鼓にも上達を感じ、どこか余裕ぶっていた矢先だった。特養ホームで踊りが始まると、普段は温厚で優しく笑っている事が多い五七さん(仮名)が突然、「うるせえ!やめろじゃ!」と大声を出して怒った。デイサービスを利用していたから頃から五七さんを知っているが、そんなに怒り狂ったような姿を見たのは初めてでとても驚いた。もの凄い目つきで太鼓を睨み、「やめてください!こういうことは神社でやるもんなんだ!」「神様の踊り、神社の踊り、ちゃんとさねばねぇのよ。神の祈りをちゃんと納めて、そうして、みんなで、ちゃんとやってください、祈り」と言われ、今まで私は、利用者さん達に喜んでもらうためだけの、何かサークル的なクラブ活動を行っていただけだったと気づかされた。(あまのがわ通信H26年7月号参照)
 その五七さんが、今年の1月に突然、脳出血で倒れて亡くなられた。私は悲しみと同時に、去年のさんさへの五七さんの“言葉(教え)”を胸に刻んだ。
 そんな五七さんの想いを、今年のさんさメンバーは覚えていた。そして銀河さんさ隊は練習をスタートした。昨年とは違い、毎回の練習に対する心構え、想い、姿勢、表情が明らかに変わっていた。皆、「魅せる」と合わせて「伝える」というオーラも出ているように感じた。そして、それは新しく銀河さんさ隊に加わった新人スタッフにも自然と伝わっていた。太鼓、踊りのスキル、センスも個人差はあるとは思うが、私が一年目になんとかがむしゃらになってようやく覚えた、2番と3番。今年から新たに4番も追加して皆で踊る事になったのだが、さんさ未経験の新人スタッフも立派に披露できるまでになった。五七さんの思いが通じていたに違いない。そして初披露として送り火の日に踊ろうと決まった。
 利用者さん達の前では今年初めての披露だった。そのとき私は、五七さんの事や、同じく1月に亡くなった、さんさを楽しみにしていてくれたノブ子さん(仮名)、6月に亡くなった、脳梗塞からの麻痺で体が動かないのにさんさの音で両手を上げ、舞うように動かしていたヒサ子さん(仮名)、特養ホームでの練習を中庭越しに居室の窓を開けて見ていてくれ、太鼓の音色で床に着き、毎日のように「やっでけで〜」とお願いしてくるほど心待ちにしながら8月に亡くなったフキさん(仮名)たちの事が思い浮かんだ。考えていると、踊れるのだろうかというくらい体が鉛のように重く感じた。
 しかし、踊りが始まると吹っ切れたように体が軽くなり、頭の中がスーッとしてきた。何だ?何だ?と自分で驚くほど、自然に体が動く。目を閉じるとそれがなぜかわかった。真っ白い空間に、亡くなった方々が次々と現れた。みんなとても静かで柔らかい笑顔で踊りを見ていてくれた。それはとても気持ち良く、居心地の良い場だった。

 その不思議な場は、さんさの披露が終わると同時に消えていった。気がつくと、涙がこぼれそうになっていた。我に返ってあたりを見ると、五七さんへの想いを一番に感じてさんさに賭けていた菜摘さんと、去年の夏に亡くなった新一さん(仮名)へのとても深い想いがあった宮さんが、二人とも泣きながら笑っていた。これは、五七さんと新一さんが喜んでくれている姿に違いないと私は直感した。
 翌日、家神様とのやりとりで私を劇的に成長させてくれた響子さん(あまのがわ通信H25年3月号・11月号参照)に会いに行くと、こちらが声をかける前に響子さんの方から、「浮田にさんさ踊り来た」と突然言ったのでとても驚いた(響子さんの自宅が浮田にあり、敷地内に家神様の神社がある)。響子さんのこの言葉で何か答えが見つかったような気がした。
 私は毎年、花巻祭りに御神輿を担いで参加している。祭りとは本来、豊作祈願や無病息災など、想いを込めて祈りながら神様と繋がる場だと思う。しかし、今までは酒を飲んで、笑って神輿を担ぐだけの楽しい遊びのひとつにすぎなかった。
 銀河さんさの太鼓も、これまでは、自分でもよくわからないままやっていたことだった。友達や職場のスタッフに「なんで太鼓やっているの?」と聞かれても答えようがなかった。でも今は自分の中ではっきりわかる。それは、さんさ踊りで太鼓を叩きながら、亡くなった人々(神様)と繋がることができるからだ。
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煙談義 ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2014年9月号】

 “銀河の里に憩いの喫煙スペースをつくりたい”最近の私は、そんなことばかり考えている。現状、銀河の里ではタバコを外で吸うしかないのだが、これからの季節、外は寒いよ?あったかい喫煙スペースでゆったりとタバコを吸ってもらいたいし、吸いたい。
 こんなことを考えるのも、最近ひとつの楽しみができたからだ。それは、夜勤明けに吸う一本のタバコだ。夜勤明けにはいつも、グループホームから特養に散歩に来る修さん(仮名)に会う。修さんは、交流ホールでコーヒーを飲んだ後、特養の外に出てタバコを吸うのを習慣にしている。初めは会っても挨拶程度だったが、段々に外に出てタバコを一本頂戴し、一緒に吸うようになった。
 煙を吸い込み、目を閉じ、ゆっくりと吐き出す。目を開けると朝の日差しが眩しいけれど、何とも言えない充実感を感じられる。学生の頃に“なんとなく”で吸っていたタバコとは全然違う。たった一本吸うだけのわずかの間が、永遠に感じられるくらいゆったりとした時間に変わるタバコだ。そんな短くて長い時間に、修さんと話をする。
 「俺は、もうすぐだべから、なんぼ吸ってもいいんだ。俺の親父は70幾つだかで死んだ。俺も酒はやらねども、タバコはやるから、多分早いんだ」
「修さん、酒飲まないんすねぇ〜」
「タバコと、コレ(小指を立てる)な」
「あははっ」
「親父が早かったから、多分俺も・・・」
 「そんなことないって!ウチの親父もタバコやってて、“俺の親父は60まで生きたから、俺は61まで生きりゃいい”とか言ってるけど、まだ全然ピンピンしてますよ?」
 「両親は元気なのか?」
 「まあ、なんとか」
 「オメェは長男なのっか?」
 「ええ」
  ・
  ・
 以下、グダグダだらだらとした会話が続く。お互い、流暢に話せる方ではないので、会話が続かない気がしていたが、タバコがあると、よく言われるように“間が持つ”。会話が続くことも驚きだったが、修さんとこんなふうに話をするようになったこと自体も、私にとっては驚きだった。
 修さんとは、5年前、デイサービスで知り合った。デイでの修さんは怒りやすく、時に気に入らないことがあれば物を投げつけることもあった。怖いイメージと情けないイメージとが同時にあって、あまり話すことができない相手だった。それは修さんがグループホームに行ってからも私のなかであまり変わらず、顔なじみということでいくらか話をするようにはなったけれども、緊張感は抜けなかった。
 それが、グダグダだらだらした時間を過ごすうちに、いつの間にかそんなことは忘れてしまっていた。修さんが以前より柔らかくなったのか、私が凝り固まったイメージから抜け出すことができたのか分からない。あるいは、そのどちらもなのかもしれない。
 デイサービスに居た頃の私は、修さんのことを知らなかったし、知ろうともしていなかったのだと思う。修さんとタバコを吸うようになったら、桃子さん(仮名)に怒られた。「なんで身体に悪いって分かってるもの、そったに吸うって!!!」「止めたいったって、止められなくなるんだから、そったなの吸うもんでねぇ!!!」月に2〜3度の楽しみなのに、すごい言い様だ。確かに桃子さんの言うことは正論なのだが、私も、「そんなこと言ったって、今の世の中、身体に悪いものなんていくらでもあるよ?タバコだけが悪いわけじゃ・・・」と応じてみる。すると、「そんなこと言うもんでねぇ!!!止めたいったって止められなくなるんだぞ!!!俺の息子も、タバコ吸ってるから倒れたった!!!」すごい剣幕だ。よくよく聞くと、タバコが原因ではないみたいだけれど、そんな話があっては、桃子さんにとってタバコが絶対的な“悪”であるのも無理がない。
 桃子さんは日頃から、「オレは曲がったことが大嫌いだ!」と言っている。「根性悪いスタッフ居たから、よくケンカしたった」そう、教えてくれた。でも今は、そのスタッフは居ない。どことなく寂しそうに見える桃子さん。「ほかのスタッフとケンカしたら?」と言ってみたら、「相手にならない」と笑っていた。「ケンカ相手、募集しようよ!」「そったなこと、言うもんでねえ!」笑い話を二人でしていた。
 そんな桃子さんと、タバコのことでケンカしてたら、横から邦恵さん(仮名)が「私もタバコ吸ってたけど、止めたったよ〜」と、ニコニコと話に入ってきた。「いつ吸ってたの?」と聞いてみたら、「東京に居たころにね。吸ったら1万円取るって言われて、1万円取られるの嫌だったから止めたの♪」邦恵さんに何があったのだろう? すごく気になるが、邦恵さんには邦恵さんの、タバコをめぐる物語があったのだろう。
 グループホームに居る清さん(仮名)は、「昔、映画館でタバコ吸って、頭クラクラして、それ以来吸ってない」と教えてくれ、私もお約束として「それ、幾つの時の話ですか?」と聞いてみたら、「今で言う・・・中学生くらいかな!」と笑っていた。その時に、花巻にあった映画館のことも教えてくれた。「花巻座に、東宝に、中央劇場。あとは、文化座、だったっかな。み〜んな無くなってしまった」東宝には、私の祖父も足繁く通ったそうで、私も幼い頃に映画を観に行った思い出がある。
 タバコにしても、映画にしても、つい50年位前までは本当に身近にあったはずのものが、いつの間にやら遠くへ行ってしまった感じがする。「小さいころ、タバコ作るの手伝わされて、その時から慣れ親しんでるから、だからタバコは止められないんだ」そんなの言い訳にならないと思うが、でも、それだけ日々の暮らしのなかにタバコが密着していたのだとも思う。時代が変わったと言ってしまえば、それまでなのかもしれないが、でもそんな時代を生きてきた人たちがたしかに居るわけで・・・。タバコが、遠くへ行ってしまうのは、私にはどうしても寂しく感じられるのだ。
 そういう寂しさもあるから、きっと私は次の夜勤明けにも修さんとタバコを吸うのだと思う。そして、きっと桃子さんに散々怒られる。桃子さんに、これでもかって言うくらい冷たくされるのだから、その後はあったかい所でタバコを吸わせてもらいたい。そういう所を、ここにきっとつくることができるのだと思っている。
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あなたと出会いたい ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2014年9月号】

 私は今年度の新体制の初日、配属になったばかりのユニットオリオンで、何も出来ずにただ仁王立ちするしかない新人状態から始まった(通信4月号)。そんな私に声を掛け、するどい問いかけをしてくれていた文則さん(仮名)が、5月1日に肺炎で入院となった。一ヶ月の入院中、何度かお見舞いに通ったのだが、初めのうちは「またすぐに元気になって、怒鳴ったり、問いをくれたりしてくれるんだろうな」と思っていた。しかし、体調は徐々に回復するものの、いつもの「君はバカだねー!」とか「貴様!今なんて言った!」と力強く叱ってくれることは全くなくなっていった。なんと声を掛けても「うん」「あー」としか返ってこない。目もうつろな感じで、以前の文則さんとは全くの別人に見えた。
 6月11日に退院となるが、まだ37℃台の微熱は続いており、抗生剤が処方された状態でオリオンへ戻ってきた。暑くなってきた時期ということもあり、クーラーのあるリビングで過ごすこととなった。
 文則さんはソフト食で食事を摂っていたが、一日通して一食分摂れればかなり良い方だった。退院後もずっと微熱が続いてはいたが、入院中に比べ、やりとりは出来るようになってきた。「おーい!文則さん!どこにいるー!いたっかー?」と大声でぶつけると、「いたぞー!このやろー!!」と返ってくる。「俺はここにいるぞー!」にも「おめぇ、いたなー!分かった!」と返す文則さん。食事中には、急に「君はダメだねー。だってねぇ・・・」と言ったかと思うと、肝心なところで黙ってしまう。「だって何?」と聞くと、「君はうるさいねー!」と一喝されてしまう。それでも、文則さんらしさが少し戻ってきてくれて嬉しかった。
 しかし、7月に入って間もなく、38℃まで熱が上がり、氷枕でクーリングする日々が続いた。食事もなかなか摂れず、やりとりも少なくなっていく。通院することが増え、7月中旬には経鼻栄養となった。
 鼻から胃まで通したチューブから、一日3回の栄養剤と水分を流し込む。口からの食事は中止となった。また、37〜38℃の発熱がずっと続き、24時間つねに脇と股の間にクーリングを挟むようになった。更に、咽せ込みも多くなったため、定期的に吸引が必要になった。そんな状態の文則さんと向き合っていくうちに、知らず知らずのうちに、文則さんを“病人”と位置づけてしまった自分がいたように思う。こまめに体位交換をし、圧迫しないようクッションを体のあちこちに挟む。数時間ごとに体温を計り、溶けた氷枕を交換する。咽せ込みがあればベットのギャッチを高くし、ひどいようであれば看護士に痰吸引してもらう。吸引の後で息の上がっている文則さんに「大丈夫っか?」と声をかける。そして、「あー」という返答に安心して、その場を離れる。身体状況は変わっても文則さんの中身は何も変わってはいないのに、日々の繰り返しのなかで、いつしか自分のなかで、文則さんを患者や病人に仕立てあげてしまっていたのだと思う。
 そんな折、隣の協力ユニットことのスタッフ酒井さんは、ほぼ毎日、文則さんの所へと足を運んでいた。介護職員なのかパンクロッカーなのか、何者かよくわからない酒井さんだが、文則さんに会いに来るたび、「おとやーん!おとやーん!」と声を掛け、目をのぞき込む。更に、何かを確かめるかのように、ぐっぐっと力強く丁寧に、文則さんの肩から全身を触っていく。そして、文則さんの口癖と同じく「大丈夫だな」と言って去っていく。いつもそれをやっていた。今思うと、私は文則さんを“介護”し、酒井さんは“関わり”をやっていたんだろうなと感じる。
 8月のある日、酒井さんと文則さんのことを話した。「俺、文則さんとどう居ていいのかわからないんだ・・・。文則さんとは、出会ってまだ数ヶ月しか経っていない。文則さんのこと、なんも知らないんだよね」と話すと、酒井さんは靖国神社の話をしてくれた。以前から文則さんは「俺はなぁ、家の墓には入らねぇ。靖国に行くんだ」と話していた。酒井さんもそれを知っており、私がオリオンに来る前には、文則さんと酒井さんは兵隊同士のような関係だったと言う。文則さんに「お前、一回死んでこい」と言われたことがあったらしく、酒井さんは東京まで行って靖国神社を参拝してきた。そして、靖国神社の御守りを文則さんに手渡したのである。
 この話をした頃から、酒井さんと二人で、文則さんのことをよく話すようになった。私が「文則さんのこと、病人として見てしまっていた」と打ち明けたときには、酒井さんは、ぐったりと横たわっていた文則さんの姿勢をシャンと正し、ぼさぼさだった髪の毛をポマードでセットした。その姿に、私は驚いた。“兵士”のようだった。中屋さんも「戦う男の人のにおいがする」と感激していた。
 お盆の頃になると、家族さんが文則さんの面会に何度かいらっしゃった。その際に、お孫さんから文則さんの話を聞くことが出来た。「おじいちゃんは、一年に何回かひとりで靖国神社に行ってたんです。歳をとってからは、私も一緒に行ったことがあります。昔から“貴様!”が口癖でした。戦争中に一度、死にかけた事があったそうです。三途の川を泳いで渡ろうとしたけれど、向こう岸でお母さんが立っていておじいちゃんを押し戻したらしいです」と話してくれた。また、和菓子が好物だったり、俳句や詩を詠んで楽しんでいたとも教えてくれた。銀河の里に入居する前の文則さんの話をたくさん聞かせていただき、自分の知らない頃の文則さんに私は興味を持ち始めた。そして、「患者でも病人でもない文則さんともっと一緒にいたい」と思った。
しかし、何をすればいいのかわからなかったので、とりあえず天気の良い日に、ベットごと外へ出てみた。スタッフ三人がかりでベットをテラスへ移動する。プランターで育てていたキュウリを収穫し、文則さんに握ってもらう。何かを悩んでいるのか、陽射しがまぶしいのか、文則さんの目に力が入っていた気がする。しばらくすると、隣のユニットことの窓から酒井さんが顔を出し「おとやーーーん!!」と大声で呼んでくれた。更にその日は、久しぶりに熱が落ち着いていたため、退院後初の入浴へと向かった。大したことはやっていないが、「これでようやく、文則さんとまた始まるんだ!」と確かに感じることのできた日だった。
 その数日後、「おい!文則さん、ライブやるぞ!」と酒井さんが来て、「居室でやろう!」と提案してくれた。私は嬉しくて「了解!」と返事し、9月1日に決まった。その日は、以前にいたユニットすばるへ私が異動する予定になっていた。
 当日の夜7時。日の丸国旗とでっかいスピーカーが居室にセッティングされ、ギターと薄暗いライトの空間へ、ベットごと文則さんと一緒に入場する。他にも何人かの利用者さんとスタッフがやってきた。8畳ほどの居室の薄暗い照明、日の丸が掲げられ、異界の洞窟の中にいるような感じだった。パンクロッカー酒井さんは国歌をスピーカーから流したのち、オリジナル曲をガンガンと歌い出す。銀河の里で出会った利用者とのやりとりから生まれた曲たち。こめかみに血管が浮き出て切れそうなくらい、渾身のどでかい声で歌い続けた。
文則さんは、ライブの間ずっと動かず目を閉じていた。聞いているのかもわからないし、どこかへ行ってんじゃないかとも思えたが、確実に同じ時間を同じ異空間の中で過ごしていた。文則さんが私をどこかへ連れて行ってくれてたようにも思えた。以前、文則さんと出会った頃に言われた“二股の話”を思い出していた。
 「お前もハッキリしない男だなー、兄ちゃんよ。いつも二股なんだぜ!迷ってても選ばなきゃないんだぞ!待ってはくれないんだ!どーなんだ?兄ちゃんよー!俺だって悩むさ。お前だってそうだろ。そう、悩まないと人間じゃねぇんだ!二股の前でな。その先がわかればいいんだけどもよぉ。今俺だって何もわからない状態だぞ!そういうもんじゃねーか?」
 涙が勝手にあふれてくる。「今の自分は、二股の前で悩んでいたのではなく、知らんぷりして避けていただけかもしれない。文則さんは今現在も悩み続けているにちがいない。なのに自分は・・・」と、酒井さんの歌と動かない文則さんが気づかせてくれる、私を照らしてくれる。悔しくて、大声を出して逃げ出したかった。でも、文則さんは逃げずに二股と向き合っているんだと思うと、そうは出来なかった。

 とても長く感じたライブが終わると、文則さんは目を開けチラッと正面を見た。何かを確かめた様に見えた。そして、みんなが退室したのち、居室が静かになってから、文則さんにも酒井さんにもお礼と文句を言った。

 今月からユニットすばるに移り、文則さんとは場所は離れてしまったが、あのライブがあったから大丈夫な気がしている。今はユニットは違えど、顔を見に行き「大丈夫だ」と声を掛けにオリオンへ寄っている。これからは、患者や病人としてではなく“文則さん”と出会っていく。
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昌子さんの通路!★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2014年9月号】

 【画伯とプリン展】
 毎年恒例の岩手の芸術家有志によって開かれる8月のプリン展に、昌子さん(仮名)が「今年も作品を出す」と張り切っていた。プリン同盟の会長さんよりお誘いのメールをもらう前からすでに制作を進めていたようで、「プリンの絵、描いたから」と、なんと20枚も持ってきた。意欲が伝わってくる。タイトルが添えてある作品もいくつかあったが、大半は私には何を描いてあるのかよくわからなくて、いつもワクワクとイメージを掻き立てられる。「これは懐中電灯?」「違うよ〜、アイスクリームだよぉ」とか「これは・・・クロワッサンだ!」「ちっがうよぉ!コアラだよ〜、もう!」などと、作品を味わう時間も楽しい。
 昨年までは2〜3作だったので会長さんから額をお借りして出品していたが、多作の今年はどうするか一緒に考え、会長さんにも相談した。搬入日にギャラリーに誰とどうやって行くか、昌子さんのスケジュールが決まっていった。
 最近の昌子さんは多忙だった。ワークステージに出勤し、ハウス班のリーダー大森さんも頼りにする欠かせない存在で仕事をしている。家では炊事や洗濯などの家事をこなし、身体が弱ってきたお父さんの食事や介護も背負って切り盛りする日々。「仕事も家もちゃんとやって、介護もして、さらに絵も描いてる〜!」と恐れ入ったのは、ほくとスタッフ万里栄さん(絵を描く者として昌子さんを尊敬している)。「どれもかなわない・・・」と私も呟いてしまったが、「うふふ♪」と笑っている昌子さんだった。絵を描くことが、昌子さんの日常を“支え”ているのだろう。

 搬入の当日。万里栄さんと今年の新人・愛実さんも誘って、女性4人で盛岡のギャラリーに出かけた。初対面が苦手な昌子さんなので、前もって愛実さんを紹介していた。対面しても愛実さんの柔らかい雰囲気に安心した様子なのは、愛実さんも絵描きで、銀河の里に来る前から通信を見て昌子さんの絵のファンだということは大きかった。当日、待ち合わせの時間を勘違いして遅刻した愛実さんに「はぁ?寝坊ぉ?」とお姉さんらしく突っ込みを入れる余裕もある。愛実さんのうっかりが功を奏して緊張がほぐれ、道中の車中、おしゃべりが弾んだ。その日は雨、「傘ちゃんと持ってきたよ」と、愛実さんとの相合い傘で余裕の昌子さんだった。
 ギャラリーには、すでにプリン同盟の方々が大勢いた。例年の会場(素敵なマスターのいる某喫茶店)と違って今年は初めての“ギャラリー彩園子”。初めての場所、人混みにも緊張しやすい昌子さんだが、プリンだけあってぷるぷるでゆるゆるな空気に、動揺する様子もなくすんなりと会場へ入る。会長・三河さんのゆるゆる〜なリーダーシップにより、各自の展示場所がなんとな〜く決まっていく。昌子さんのスペースも贅沢に広くいただいて、さっそく展示作業開始! 20枚をどう貼るか、昌子さんが配置を決め指示する。それを受け、万里栄さんと愛実さんがトンカチと虫ピンで壁に貼り付ける。一枚一枚が等間隔か、曲がってないか、中屋と昌子さんで遠目からチェック。一番上の列を背伸びして苦労していると、プリン同盟の親方・岩淵さんが手を貸してくれて、「ここでいい?曲がってない?」と自然な感じで昌子さんとやりとり。ダンディーでゆるゆるな叔父様にみんなメロメロ。昌子さんもウキウキと楽しそう♪
 あらかた作業を終え、お互いの作品も見てまわる。「これ、この色が好き!」とか「これ、こわい・・・」とか、ひとつひとつに自分の感想を述べる昌子さん。自分の作品への質問にもちゃんと応えている。年配の絵描きさんが声をかけてくれた。「ちょっと見てみて、あなたのこれとおじさんのと、おんなじ♪」描かれたプリンアイスが一緒だった! 外見だけではちょっと硬そうな叔父様も、プリンの魔法でぷるぷるしてる?! 互いの作品を見比べて、うふふ♪な二人。思えば、対人恐怖でいつも泣いていた昌子さんが、絵描き同士ではどんな大人とも普通に話せるのが不思議ですごい。

【画伯の成長】
 理由はプリン同盟の人たちの“ゆるさ”だ。対人恐怖症の緊張から縮こまって泣くしかない一面を持つ昌子さんが、ここではのびのびと活き活きする。昌子さんに限らずワークステージの他の利用者も、怯えた表情を見せる人は多い。障がいを抱える人たちが経験してきた周囲からの目が、いかに冷たかったかを感じる。ああしてはいけない、こうしてはダメだと、規則・禁止に縛られ、「いっつも何しても怒られた」と語る利用者もいる。規則やシステムが不必要だとは言わないが、“個人へのまなざし”がないと、それらはとたんに暴力的に個人を消してくる。いのちへの否定と拘束にしかならない。
 里に来たばかりの昌子さんの、今にも消え入りそうで、口もきけず震えて泣いてばかりいた痛々しい姿を思い出す。絵を描く行為は昌子さんにとって、自分の人生を自身の手で取り戻す作業ではなかったか。否定され閉じ込められ、何者にも繋がっていかない人生を、絵を通して切り開いていった。周囲に怯え閉じた世界で泣くことしかできなかった昌子さんが、絵で他者と繋がっていった。硬く緊張していても、「一緒に描こうよ」と声をかけてくれたお姉さんと、床に紙切れを広げると、すぐに笑顔になってお絵かきを始めたこともあった。芸術に関わる人の“個”に対して開かれた姿勢が、“個と個の関係”を支え繋いでいく様子が見て取れた。芸術と絵描きの人たちの視点は、昌子さんの個を世界を開く通路となった。障がい者支援の福祉関係者は大いにここから学ぶべきことがあるだろう。

 昌子さんが絵を描き始めたきっかけは、気の許せるスタッフができたが、それでも言葉では「うまくお話できないから」と、絵手紙をプレゼントしたのが始まりだった。絵で他者とコミュニケーションする。これはただのお絵かきではない。絵画だけでなくどんな芸術にとっても、繋がるためのコミュニケーションは基本で、芸術の本質に関わることだと思う。現代日本画家・千住博は、「人間に芸術が必要なのではなく、人間という存在自体が芸術によって成立しているのです」と言ってるが、まさにそれを体現している。
 昌子さんは他人の作品に対して自分の意見を持って語る。数年前、一緒に松本竣介の展覧会を観に行ったとき、「人の顔の絵がよかった」と感想を述べた後、万里栄さんの通信の絵について「マリエッティの絵、いっつも目がないよねぇ?」と言っていた。いずれ目が描ける、その時はきっと人と深く出会えるようになるはずだと、成長を期待する当時の理事長の読みを、昌子さんもどこかで感じているんじゃないかと驚いた。同じ描き手としての課題や苦しみも見抜いている昌子さんだ。
 昌子さんは、作家の仕事に関心を寄せる。「松本竣介ってどこにいる人?絵、描いてるとこ、見てみたい!」と、作家の仕事場や制作に向かう姿にまで興味を示す。最近では、某タレントの展覧会に、ワークの新人・陽子さんと行くのを楽しみにしている。「お仕事しながら描いてたんだねぇ!」と自分と重ね合わせているようだ。
 プリン展の搬入前に、近くのギャラリーに寄った。大学の同期や先輩後輩も出品しており、東北の作家による意欲的なグループ展だったが、万里栄さんも愛実さんも刺激を受けたようだった。昌子さんはある作家の絵に釘付けだった。「これがいい!今、うちも細かいの描きたくて描いてるから、こういう細かい絵、好き!色もいい」とぴょんぴょん飛び上がっていた。
 ちょうど同時期にプリン同盟の会員でもあり造形作家の鎌田紀子さんの個展が、石神の丘美術館で開催されていた。コワかわいい人形の雰囲気が昌子さんは「怖い・・・」ようで苦手だったのだが、なんと「いつ行く?」と自分から誘ってきたからすごい。

【私も負けていられない】
 昌子さんに負けじと今年、私も8年のブランクをこえて銅版画制作に向かった。友人には「また創作意欲が湧くなんて、何か心境の変化でも?」と驚かれたが、やってみると本人が一番びっくりしている。インクのにおい、銅板の夕焼け色、ニードルで引っ掻く音、版画用紙の手触り・・・どれも本当に久しぶりでワクワクした。「まだ私に版画が摺れるのか」と心配だったが、取りかかってみると、その工程を身体はしっかり覚えていた。そして何より、自分のなかから“何かが生まれてくる感覚”が、息が詰まるように懐かしく、心地よかった。不来方高校の芸術学系卒業生有志によるグループ展に、「久々に出品してみないか」と声をかけられたのが大きなきっかけではあったが、ちょうど「そろそろ何か生まないと、からだとこころによくないぞ」と感じていた時期だった。何が出てくるかちょっと恐ろしいけれど・・・、「何が出てきても責任持てない」と開き直って冗談を言うと、笑って受けてくれた先輩のおかげで重荷にならず参加を決めることができた。
自分の再確認と新しい発見とがあって、やっぱり“つくる”をやっていると調子がいいと感じた。自分のからだとこころのために創る。そして、作品を他人に見せる行為は、そこからさらに一段、何かをのぼっている。“表現する”とき、そこには誰か他者のまなざしを求めている。昌子さんが絵で“人と繋がる自分”を勝ち取ったように、私もまた、誰かと繋がろうとし始めたのだろうか?
盛岡でやっていた不来方展に、わざわざ足を運んでくれた昌子さん。律儀に感想ノートに一筆、残してくれた。つぼみの絵。未来がぎゅっと詰まってぷくっとした、今にも咲きそうな・・・!

【昌子さんと私と里のこれから】
 プリン展の最終日、搬出作業には昌子さんと二人で行った。道中、「あのね、ジジチョー(舌足らずで“理事長”がこうなる)ね、観に行ったって言ってたよ!」と話してくれる。「お、それは嬉しいねぇ!どうだったって?」「絵、よかったよ、だって!展示方法もっとどうにかならんかったのか、って言ってたぁ、あは〜♪」と満面の笑顔だ。釘を抜いたり絵を包んだり、他の人のも手伝って楽しく作業。芳名帳もしっかりチェックして理事長の名前を発見!「わあ!ジジチョーさん、観に来てくれたんだぁ!」と、今初めて知ったとでもいうように新鮮に驚き、拍手して喜ぶ姿に、私も嬉しくなる。プリン同盟のメンバーにも「またね」と手を振って搬出終了。「来年はどこでやるんだろうね」と、もう次のことを考えている!
 その後、ずっと楽しみにしていた映画『思い出のマーニー』を観に行った。ジブリお得意の飛行シーンや派手なスペクタクルはない。自分のルーツや自分探しとかいった思春期の没入がテーマになっているような、興行的なウケはどうかな?といった作品。
 原作は児童文学だが子ども向けには難しい。子どもではないが、昌子さんには退屈だったのではと気になる。上演が終わっても動かず、ぽぉっとしてたので、ちょっと難しかったのでは・・・と思っていると、「感動した!」と言ったので驚いた。目をキラキラさせている。「おばあちゃんだったんだねぇ!」と話の筋もちゃんと理解していて、帰りの車中もずっと、「絵がきれいだったね、音楽もよかったね」と感想を伝えてくる。何より、絵を描く主人公の女の子に刺激された様子で、「絵、上手だったね!うちはあんまり風景画は描いたことないけど、今度描いてみようかなぁ」と、絵描きとしての発言で意欲も燃やしている。そして「あのね、ひとりぼっちの気持ち、わかるよ」と、マーニーやアンナに感情移入しながら、幼い頃の自身の体験も語ってくれた。自分の感覚で作品(物語)を味わう力の豊かなことに感動する。
 最近では、「自分の絵が描きたい」とよく言うようになった昌子さん。“自分の”というところがすごいと思う。奈良の「たんぽぽの家」からお誘いをいただいて、東大寺の播にする絵を描き、式典にも参加させてもらったことがあるが、その絵が帰ってきたので一緒に額装した。それを見て「はじゅかしいな・・・」と言った。「恥ずかしいって感じるのは、絵に“自分”が出てるからだと思う」と理事長に話すと、「昌子さんはすっかり絵描きの領域を生きている」と理事長も感嘆していた。その昌子さんがはっきり「自分の絵が描きたい」と言うのだから、いよいよ本腰を入れてきたなと頼もしくなる。誰もが“自分の物語”を生きていいはずだ。物語のなかで他者と出会って関係を紡いでいく。“あなたとの関係”によって“わたしの物語”は支えられ進んでいく。プリン展が終わったら20枚の作品を「綴じて本にする」と言っていた昌子さんは、スタッフの陽子さんにそれをプレゼントしたようだ。絵の交換日記をしている二人、この関係もどう展開していくか楽しみだ。

 銀河の里では、個々の物語、関係の物語を丁寧に紡いできた。福祉施設の介護屋ではない。他者・世界とコミュニケートしようと全力で試み、作品を生み出していく芸術家の仕事に近い。銀河の里には、酒井さんのギターと歌をはじめ、音楽の才能を活かした里バンドの活動もある。今年は詩吟の会も発足した。硬く閉じた身体を思いっきり解放して個性を表現しようとダンスにも取り組んでいる。美術に関わってきたスタッフもいる。さんさ隊も一歩深い次元に今年は挑み、活動の場を地域にさらに拡げた。いい線は行っている。その活動のなかに、個人の物語と関係のプロセスを発見するまなざしを持って、生まれてきたモノを語っていく責任が問われている。あと一歩、その力をつけたい。ひたむきな苦しい道程ではあるが、挑むしかない!
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知的刺激と知的挑戦 ★施設長 宮澤京子【2014年9月号】

 明治大学心理臨床センター開設10周年記念行事に参加した。式典のテーマが「子どもの声を聴く」− 子どもたちの今と心理療法 −というもので、興味津々で出かけた。このセンターの初代センター長である弘中先生には、里にも何度かおいでいただいて、事例検討会や箱庭の研修をお願いしたこともあり、かれこれ30年来のおつきあいになる。昨年は、里の活動を先生の授業のなかで紹介させてもらったりして大変お世話になった。
 それはさておき、今回、中沢新一氏の特別講演「天使の心、悪魔の心」に久々の知的興奮を喚起されたので、紹介を兼ねて、子どもが顕著に持つという、この二面性について考えてみたい。
中沢氏がこだわる「野生」という視点だが、私の中ではこれは、人間が本来持つ「生命の躍動」であり、自然の原理に則った秩序性を持ち、そこには破壊や暴力をも含み、極限には死という宿命を負っているが、同時に回復や再生という循環の営みの希望を持つものではないかと理解している。現代社会が「野生」を排除し、管理の中で「飼育化」「家畜化」「ペット化」状態に晒され疲弊していく在りようを照らす貴重な研究と感じた。

【講演内容から】−「天使の心と、悪魔の心」−
 中沢氏は人類学の知見から、近代以前に「子ども」はどのような存在として考えられていたのか、そこから語り始めた。アリストテレスは、「子どもに酒を飲ませてはいけない」と言ったという。それは「脳の発達に悪影響を与える」といった現代の科学的根拠からの理由とは違って、子どもの心は「火」だから、そこにアルコールを注いではいけない!ということらしい。「火」という上昇していく力を孕み、変幻自在に燃え盛るのが子どもの心であるので、取り扱いは慎重でなくてはならなかったのだという。
 またインドでは、今でも子どものしつけを語るとき「シャイタニ」とよく口にするが、これは英語で「サタン:悪魔」を意味するという。キリスト教国ではサタンは悪で排除されるべき存在であるが、インドでは「子どもはかわいいだけでなく、シャイタニ(サタン)を持っている」つまり天使と悪魔の両方を持った存在として捉えられてきたという。

 200年前のヨーロッパや100年前の日本でも、まだ子どもが社会の一員とみなされていなかった時代にあっても、子どもが“主人公”になる「祭り」があったが、それには二種類のタイプがある。稚児行列のように、大人が肩に乗せたり抱き上げて、神の使いとして、空中に天使のように浮かび上がらせ、稚児は汚してはいけない(土に付けてはいけない)存在、このように上昇させるタイプがひとつ。もうひとつは、クリスマスのように「よい子にプレゼント」を持ってくるおじいさんが登場する、来るのを待つタイプだ。日本では「なまはげ」が「泣く子はいないか、悪い子はいないか」と恐い神様としてやってくるのもある。

 「なまはげ」とは全く逆の祭りもあったという。家でおとなしく待っているのは大人で、子どもが恐ろしい神に変装して隊をなして家々を巡り、「よこせ!」と言ってプレゼントを強奪し、大人を襲撃するのだという。私が子どもの頃、まさにこの通りの祭りを体験している。5〜7人くらいの組を作って近所を回り、「ローソク出せ、出せよ、出さぬとかっちゃく(ひっかく)ぞ、おまけに食いつくぞ」と声をそろえて脅迫し、ローソクだけではなくお菓子やらお金を強奪?する祭りが確かにあった。お盆の頃で、子どもたちがたくさん集まり、盆踊りが終わってから、年長者の後にくっついて私も近所巡りをしたことを思い出した。その日だけは「夜遊び」が許された、夏休みの一日だったように記憶している。
 フランス・ドイツ・オーストリアなどのヨーロッパ諸国では、青年組の行動が過激になり、社会問題化したという。これらはヤンキーの原型とも言えるもので、喧嘩っ早く、合コンが大好きで、すぐ子どもを作る・・・。非難されがちな最近の日本の成人式の大暴れもあながち人類学的には的外れではないらしい。

 【野生と凡庸さ】 さて本題?
 人間が発生できる言語音は、元々は非常に多様であるが、それを制限し、言葉は少数の母音と子音の組み合わせの体系によって成り立っており、そうした約束事で共通の理解(コミュニケーション)が図られているという。つまり、多様性を切り捨てたところで、社会の秩序は成り立っているという。つまり、言語獲得前の子どもはノイズだらけであるが、それ故に多くの可能性を秘めた「野生」のエネルギーが全領域に燃え盛っている状態にある。しかし、だんだんと言語を媒介とした社会に組み込まれていくとき、「社会適応」という名のもとに凡庸化されることで秩序をもたらす。その極限にあるのが法律で、そうなった社会は秩序は成り立つが、非常につまらないので、芸術や宗教が必要になってくるという。

【子どもが持っている「天使の心と悪魔の心」】
 悪は、自然の力を持った存在で、倫理的善悪の思考はなく、人間の根本を作っている。大天使(自然)の象徴としてあげられる像は、二つの頭を持った巨大な鳥、そしてもう一つの象徴はケルビムで知恵・知性の存在であり、いたずら者、笑う存在である。知と愛を守っている複雑な様態をなしている。こうしたイメージは二元論を越えた存在であり、天使も単なる善ではなく、大いにノイズを含んだ存在なのだという。これはまさに、言語獲得前の社会化される以前の「子ども」に当てはまる。臨床知における子どもの心の像の本質や普遍性との関連を「文化人類学」から照らす中沢氏だった。

【生後間もない子どもの観察から】
 現代の乳幼児に関する観察からの発見として、心理学者スピッツの「アナクライズ」とフロイトの「死のタナトス」を取り上げた。
 中沢氏の自著『チベットのモーツァルト』から引用する。心理学者スピッツは、生後間もない乳児が、母親の身体との接触やその温かさや母乳がふたたび自分の方に戻ってくることを求める呼びかけを「アナクライズ」という。呼びかけに応じて乳房を差し出すと、新生児は母乳を飲んで「原始的ナルシシズム(自己陶酔)」の前に、柔らかな笑いをもたらす。それは乳房だけに限定されるのではなく視覚や聴覚のどれにおいても、受け止めてもてなされることで、この「アナクライズの笑い」はこぼれてくるという。
もうひとつ、フロイトの逸話については、これも自著『ポケットの中の野生』からの引用で、フロイトじいさんが、姪から生後1歳6ヶ月の子守を頼まれ、その時の子どもの行動の観察からの発見だという。フロイトの観察眼と考察の鋭さは、科学的根拠によるアプローチとは次元の違う感覚がある。
 母親の留守にその幼子は、いつも母親が使っている糸巻き車を使って奇妙な一人遊びを始めたという。糸巻き車を投げては「いない!」といい、引き寄せては「いた!」という行動を繰り返している。フロイトはそれを観て、人間という生き物の衝動には、生に向かう「エロス」の欲動と、死に向かう「タナトス」の衝動がセットされており、糸巻きを投げる行為は「いない!」という死をイメージし、引き寄せる行為は生の衝動に重なるという発見をする。母親の不在は、その幼子にとっては理不尽な状況であり、不安や悲しみに満ちている。では「いない」状況を敢えて再現するのはどういった意味があるのか・・・それは、「死」を作り出すと共に、引き戻すことで、自らの力で「再生」する作業を糸巻き車という象徴を使って、幻想的につかみ取っているのではないかという・・・この考察。フロイトの天才ならではの観察と発見だ。こじつけのような、目から鱗のような不思議な感動で、頭が渦巻いてくる。これこそ「野生」の混沌体験だったのかもしれない。
【まとめとして】
 「凡庸さ」を身にまとうことで社会化されている我々は、「野生」を取り戻すために何をすべきか・・・「野蛮」ではいけないが、この境界はかなり難しく危い。日本は戦後69年間、他国と戦争をすることなく過ぎてきた。人を殺すことのできなくなった人間であるという点では「野蛮」ではないはずだ。誇っても良いのかもしれない。しかし、人を直接殺せなくなった日本人は、罪の呵責もなく、管理的に人を支配し、人格を殺すことに長けたとも思える。「野生」の反逆は、一見平和で整えられた社会にこそ、歪曲した形で表出してくることに敏感でなければならない。

 「子供の声を聴く」のテーマは、「老人の声を聴く」にそのまま繋がる、同じことだなぁと思いながら聞いていた。というより自らのうちに沸々している「怒り」や、小さくしぼんでいる「勇気」のような、言葉に表わせない、表したくない、表したら嘘になるような混沌とした心の声を聴くことではないかと思った。そう考えていくと、里では、一人一人の「野生」が噴出・暴発状態が起こりやすい場だ。「凡庸さ」「秩序」「管理」とどう折り合いを付けるかと日々知恵を絞り闘っているような気がする。つまり、「野生」を封じ込めるのではなく、バランスを取っていくことなのだが、そのためには「知性」や「イマジネーション」そして「アート」といった武器を持つ必要があるようだ。「野生」の逆襲による歪曲された「殺人」をしないで済む一つの方向がそこにあるのかもしれない。これは凄い発見に違いない!

 今、私は蒸し暑いマニラのホテルの一室で、夢うつつ状態で妄想をかき立てている。
− なぜ、マニラにいるのか。−
My purpose in coming here in the Philippines is to enhance my English communication skills, so that I can talk to foreigners.
つまり私は「英語」を使って少しでもコミュニケーションが図れるようになりたいと、語学研修のためにマニラに来ている。発端は、里の暮らしの営みを通して、負のイメージを持つ「病」「障がい」「死」というものの価値を、「英語」で発信したいということから始まっている。日本語で日本人に発信することの限界や無力感が、私の行動的を大胆にさせた。もっと広く国を越えて発信できたら、繋がれる人たちに出会えるのではないかとの期待もあった。
 戦後、日本はアメリカの占領下におかれたが、「英語」を話せる日本人は少ない。受験英語は熱心で、中学・高校で英語を学んできたはずなのに、挨拶一つ緊張する。普段英語を使用する機会がないからだ。さすが鎖国を300年続けてきた民族だけあって、独自の文化を創り上げてきただけのことはある。戦後、朝鮮戦争の特需もあり、経済大国にのし上がったが、これからの少子・超高齢社会を迎え、またグローバル化している社会にあって、国内産業だけで成り立たせていけるのか。今後、日本が言語の壁をどう乗り越えるのか課題になってくると思われる。
 フィリピンには国内産業が極めて少なく、国外に出て働き「仕送り」をして家族を支えるためには、英語を学んでいなければ即刻「貧困」に直結するのだ。そのため、すでに乳幼児期や学童期の授業も英語が中心に使われているという。今やフィリピンのEnglish speaker の人口の多さは経済的な力を持ち、「英語教師」という国内での就職枠を広げ、韓国や日本の学生や社会人そして企業の英語教育を担っている。スカイプの英語教師のほとんどが、人件費の安いフィリピン人であることも頷ける。また、海外で求められる技術が「介護や看護」であることをふまえ、多くの人が大学でその資格や免許を取得している。日本とフィリピンとの経済連携であるEPAに、当法人も介護労働者の受け入れを視野に入れた展開を進めているところである。
さて、英語が話せれば良いわけではない。伝えたいことを、英語で発信したいのである。そうなると極端に少ない私の英語の語彙では、発信したいことなど全く伝えられないということになる。また、英語脳に切り替えられないジレンマのダブルで、今は途方に暮れている。英語の構造は、まず主語が誰で、何をしたいのか(動詞)、それらが肯定・否定・疑問なのかをチョイスし、時制を確定し、そのあと誰といつという順序だ。WhyとBecauseは常にセットで語られる。明快な起承転結で、曖昧さや躊躇は許されない。この強迫観念に、まず息苦しくなる。多分、60年間日本の文化にどっぷり染まりきった私には、他言語を受け入れるセンスも容量も極端に狭くなってしまっているのだろう。
 乳幼児期の「野生」の混沌は、言語に対して非常に敏感で、生きていくために必要で絶対不可欠な要素であるから、必ず言語獲得ができ、同時に選択の余地なく「文化」も導入されてしまう。ここは切っても切れない宿命的なものだ。とするなら、私の場合、言語獲得が難しいかわりに、文化の創造性に期待してもいいのかもしれない。わたしの「野生」は、乳幼児期の混沌の力に戻るのではなく、「日本語」を通して繊細に巧みに創造的に文化を生み出すことを可能にするのではないか。「英語」に対峙する「日本語」こそが、私の回復すべき「野生」なのかもしれない。私の「野生」を活性させるためにも、「英語」を「文化」として、しっかり学び続けていきたいと強く思う。何か面白くなりそうな予感もする。新たなチャレンジだ!
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アップル会議「認知症との対話」★ケアマネージャー 板垣由紀子【2014年9月号】

 認知症800万人時代を迎え「認知症行方不明1万人」の現状を描いたNHKスペシャルは、認知症の徘徊の現実を伝える番組で衝撃的だった。認知症ケアの背景には、2025年問題、少子高齢化、老老介護、認認介護などの社会問題があり、医療も介護も今のままでは対応しきれない時代が来る。
そんななか、8月22日に3回目のアップル会議を開催した。認知症の介護をしている方に実際の現実を語ってもらいながら、認知症になっても住みやすい地域社会を作るにはどうあるべきかを見出そうという目的で始めた会議だ。今回のテーマは「徘徊との対話」で、みなさんの体験談を中心にお話しいただいた。
 
 認知症の人の徘徊は、内に秘めたものすごいエネルギーによって突き動かされる感じがあり、他から説得してそれを止めることは難しい。むしろ無理に止めるのは禁物で、暴力などの周辺症状が悪化してしまうこともある。経験者の皆さんも、センサーや二重ロック等いろいろ試されて、歩いてもらうしかないと理解をされているようだった。ただ、外に出るとそこは世間であり、いろいろな目があり、しがらみや、課題があふれている。  
 ただでも負担を背負っている認知症の介護者が、更に傷つき、追い込まれるようなことのないよう、認知症時代に対応した地域社会を作ろうとする動きが全国で始まろうとしている。大枠は二つあり、ひとつは、認知症の人が安全に安心して歩ける(徘徊できる)地域社会を作ることであり、もうひとつは、介護者が周囲から多様な面で支えられる地域社会を目指すことだ。
 こうした認知症対応の地域づくりは待ったなしの喫緊の課題ながら、ほとんど対応されておらず、成り行き任せの野放し状態が花巻の現状ではないだろうか。今、現に認知症を介護している人たちの経験を、貴重な体験として受け止め、地域ぐるみで近未来の地域社会像をイメージして、それを実行に移さなければ間に合わない。
 会議のお話からも重要な課題が見えて来る。認知症に対応できる成熟した地域社会が求められるにもかかわらず、地域社会はすでに崩壊しており、残っているのはしがらみだけという現状。更に、高齢者や認知症の人を支える土台であるべき家族もすでに崩壊しているか、危機的状況であるというのが現状だ。
日本の伝統的社会や家族は、嫁の犠牲の上に成り立ってきた。この地域では、いまだにそうした空気がありありと残っていて、問題は全て嫁になすりつけることで解決を図ろうとする傾向が強い。それに耐えられる嫁はもはや数少ないし、すき好んでそんな嫁になろうとする女性はまずいない。責める対象を欠いて、バランスを失った家族と地域社会が揺らいでいる。
 地域柄、今でも、3世代同居の世帯は少なくはないのだが、世代間のギャップと、時代のギャップが大きく横たわり、若い世代は地域とも、家族とも断絶してしまいやすい傾向がある。若い世代にとって、地域は居づらく、高齢者とは話しが合わない。
 地域を考える上で大きな課題となるのが、花巻独特の閉鎖的な空気だ。シャイと言えば聞こえはいいのだが、本音は語らないで、暗く閉鎖的で、他を監視するような居づらくなる雰囲気に満ちている。成熟した地域社会とは遠く離れた、重苦しさに満ちている。これでは、なかなか、「うちのじいちゃん、ばあちゃんが認知症になったのでよろしくお願いします」とは、気楽に切り出せそうもない。お互い親身になって優しく気を使い合えるような市民として育っていかなければならない。こうした地域の重苦しい空気は認知症時代には致命的なことだ。
 数年前、市内では実際に介護疲れからの殺人事件も起こっている。家族がひとりで抱えて、精神的、肉体的に追い詰められるようなことにならないような相談体制や多様な支えが必要であるが、何より、追い詰められる前に、現状を語り気楽に助けを発信できるような、ふわりとした柔らかい地域社会の雰囲気が特に重要だと思う。
 支援サービスについては具体的な提案があった。認知症の介護者に合った家族リフレッシュのサービスは現状ではなかなかない。要介護者と一緒に参加しても、家でも、出かけてまでも一緒ではリフレッシュにならないという現実的な意見もあった。また認知症の徘徊に見守りでついて歩くが、電車もバスも二人分の料金がかかる。障がい者だと手帳があって、付き添う人への補助があるが、認知症の人にもそういった交通費免除のようなものがあったらいい。こうした当事者ならではの発言には実感がこもっている。
 認知症の人が暮らすにはとても厳しい地域社会であることが実情として見えてくる。こうした現状をまず認識することから始める必要がある。古い体質や、世代間のギャップ、閉鎖的な感覚など、乗り越えなければならない課題がたくさんある。認知症800万人という現実に、今ある地域の課題を突きつけられることで認識をすることができる。そして否応なしに現実はやってくる。今から課題を解決する方向に動き出さないと大変なことになる。
 認知症の人にとって居心地がよく生きやすい社会は、同時に誰にとっても心地よい成熟した社会である。ただ、そうなるにはかなりの困難があるだろうことは想像に難くない。現に今、地域を担っているのは、主に頭の硬い高齢者であるし、その下の世代にしても柔らかい発想や思考ができる人たちが揃っているようには思えない。成熟した地域社会への道のりは、ほとんど絶望的な話になるのだが、今ある希望としては、子ども達ではないだろうか。明るく気さくに挨拶をして、コミュニケーションをする人間のやりとりが大切なんだと子ども達に教え、実践してもらうことから、新たに地域を創り出す運動を始めてはどうだろうか。子ども達が開かれた暖かい地域社会を創ろうと意識しているところで、大人達が重く暗く閉じているわけにはいかなくなるだろう。子ども達に、このままでは認知症800万人時代に対応できない最悪の地域になると今の現状を認識してもらい、そのためには人と繋がり、暖かく血の通った関係を作り出し、お互いに支え合う姿勢が人間として美しいのだということを教え、体現してもらって、そうした子どもから大人が影響を受けて変わっていくしかないような気がする。
 がんばっている介護者が追い込まれるような社会の空気を一変させなければ、地域の未来はない。認知症の人が、おかしい人だと後ろ指さされないで、尊重され親しまれ、受け入れられる社会を目指したい。そういう意味では、認知症は、地域の未来を指し示す、希望になり得るのではないかと思う。
 アップル会議に集まっていただいた、認知症介護をしておられる家族さんは、大変な経験をされた上で、とても明るく、前向きな力強さを感じさせる方達だ。
 認知症が正しく理解されるためには、認知症の介護経験者や、ケアマネ、地域包括支援センターなど認知症への理解や専門性が必要にもなってくる。気軽に相談できて必要なときにいつでも手助けしてもらえる、近くにある支援の場も必要だ。自治体と地域、施設、企業や商店など、あらゆるところが認知症とその家族の理解者、援者となっていく社会が求められる。そうした地域は、認知症介護にとどまらず、子育てや障がい者支援にも、誰にとっても暖かく優しい街である。

 記:銀河の里では「徘徊」という言葉は普段、使わない。徘徊は目的もなく歩き回ることだが、認知症の人には目的もあるし、大切な意味もあるからだ。それを理解するには多少、次元を変えて見る必要があるのだが、その次元の違った世界から、現代人が忘れている大切なことがたくさん見えてくる。私自身、認知症の方と歩きながら、気がつかなかったり、失っていた多くを得てきたように思う。今回あえてテーマに「徘徊」としたのは、共通言語としてわかりやすいこともあるが、「徘徊」はマイナスばかりではないし、その言葉にとらわれなくてもいいと思えたからだ。認知症の徘徊は地域を変える未来の希望に繋がると信じたい。
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アフリカンダンスに取り組む意味 ★ワークステージ 日向菜採【2014年9月号】

 約1年前、初めてアフリカンダンスのレッスンが銀河の里で開かれ、Moccolyさんというプロのダンサーが里に来てくださり、教えてもらうことになった。
 アフリカンダンスなるものを見たことも聞いたこともなかったのは、私だけでなく利用者全員もそうだったはずだが、何かワクワク感があった。ワークステージの利用者とスタッフ約40名でレッスンが始まった。Moccolyさんのピンクの髪と長い付けまつ毛やド派手な衣装が、利用者の視線を集める。日本の太鼓とは違ってアフリカンなアップテンポな音がホールに流れる。ダンスの振りは鳥のマネをして隣の人をつついたり、おしりを振ったり面白いものばかりだった。踊る恥ずかしさはいつの間にかなくなって、会場に一気に笑顔が溢れた。振りの面白さにも増して、体を動かすことが楽しかったのだと思う。気持ちが高ぶってくると、先頭をきって踊る貞春くん(仮名)や、振り付けなどお構いなしで自己流の振りでリズムにのる有野くん(仮名)と祐介(仮名)くん、作業では大人しいがダンスは意外にもノリノリで踊っているトシ君や奈美さん(仮名)など、それぞれの利用者にいつもは見られない驚きの発見があった。
 その日の夜にはスタッフ向けのダンスレッスンがあったが、私を含め、普段は頭ばかりで、体を上手に使うことができずに苦戦するスタッフが多かった。中には、生き生きと自己表現している勝巳さんや、メガネを飛ばしながらも必至についていく千枝さんなど、日常では見ることのできないスタッフの一面が見えた。身体を動かすことで一体感も生まれ、練習が終わったときの表情が自然な内からでてくる感じで印象的だった。私自身、踊った後は解放感から自然体になれるので、業務に追われながらの日々にあって、ダンスの練習は特別な時間になった。身体を動かし表現する面白さを、自分自身の体験からも利用者の様子からも感じ取ることができた。

 これまでも、利用者が秘めているエネルギーにはいつも驚かされてきた。毎年開催される新年会では、壮絶なカラオケ大会が行われる。端から見れば、ただの自己満足のカラオケなのだが、それぞれが一曲に込めるパワーに打ちのめされる。最近はその盛り上がりも変化しつつあるのだが、彼らの中に秘められたエネルギーは決して冷めてはいないはずだ。そのエネルギーを、身体を使ってダンスで表現しよう!それぞれにスポットライトがあたる日を年に一度でいいから作ってみたい!と、Moccolyさんの指導でアフリカンダンスの発表会をすることが決まった。
 ダンスに参加希望の利用者さんが30人も集まって3月にチーム編成をした。意外な参加者も多く、期待と不安に気持ちが高まった。全部で7チームに分かれ、スタッフのチーム、運動神経抜群の利用者チームと、個性的なスタッフ・利用者の混合チームが4つ、さらに周囲からの推薦で貞春くんはソロで出演することが決まった。
5月と7月には、各チームの振り付けが決まっていく。練習当日になって「私もやりたい」と参加を決める人や、かまってほしいがためにわざわざダンスの日を狙って休む人や、センターのポジションを奪われて泣いてしまう人など、ダンスを絡めて次々と色々なことが起こってくる。
 ワークステージだけではなく、特養などの高齢者部門のスタッフも利用者の様子を見守っていてくれる。また、利用者一人にいろんな部署のスタッフが関わることで、利用者の中のイメージや考えが広がっていくのがわかった。ワークステージは、高齢者の部署で作業している人も多くおり、他部署との関わりが日常的にあるはずなのに、作業に特化してしまい関係性を見落としがちだった。ダンスを機会に利用者がいろんな人を巻き込んで世界を広げていくそのパワーにも驚かされた。
 事が起こるのは利用者だけではない。スタッフチームは14名が踊る。これまで、これだけのスタッフが揃って取り組むということはほとんどなく、私は戸惑った。中心メンバーのスタッフと意見や価値観が合わず、何度も言い合いになった。そうしながらも様々なエピソードが生まれ、時間を共有できたことは意味があったと思う。身体表現は新たな分野になるが、これを通じてまた違った世界をひとりひとりが開いていけたらいいと思う。
 アフリカンダンスの発表会ではあるが、イベントにはしたくない。芸術性の高い完璧なダンスができる訳がない。身体表現によって個々の秘められたエネルギーを表現できたらいいと思う。身体に個が閉じ込められているのではなく、身体を通じて多くの人や宇宙と浸透できる可能性に開かれてみたい。うまい下手は関係なく、それぞれがダンスで爆発できたらいい。それによって観客にも、生きていることの意味や喜びが伝わるような会になることを願っている。
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「さんさ踊り」★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2014年9月号】

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★銀河さんさ隊で踊る、職員の佐々木さんをモデルに、浴衣姿とさんさ太鼓を描きました。大きな音が苦手で踊っている所を実際には見る事は難しい昌子さんは、写真を元にかわいらしい浴衣姿を描き、地域の盆祭りで披露する佐々木さんを応援したようです!
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「にんにくのミンチ加工」★ワークステージ 村上幸太郎【2014年9月号】

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★受託作業として、にんにくの皮むき、ミンチをして冷凍パックにする仕事を行っております。1個1個へたを切り、ミキサーでミンチにして、1kgずつ計量してパック詰めをします。1度に20kg近くもパックにする事も!食品加工場内はにんにくの香りで充満していま〜す。
【おまけ】JR石鳥谷駅付近に田んぼアートを毎年行っている田んぼがあります。今年は2羽のふくろうが仲良く佇んでいる様子が描かれています。帰り送迎の際に立ち寄って、見てきました!

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