2014年08月15日

「迎え火」★佐藤万里栄【2014年8月号】

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夏の夜に響く ★特別養護老人ホーム 高橋愛実【2014年8月号】

 銀河の里では、夏が来ると「さんさ隊」の太鼓の音が鳴り響く。
 ある日の夜、交流ホールから聴こえる太鼓の音に誘われて、私は繁雄さん(仮名)とカヨさん(仮名)と一緒に見に行ってみることにした。繁雄さんはとてもユニークな元大工さんだ。大工道具をもってこい!と突然仕事をはじめたり、こんなところにいられねえ!と眠らず車椅子を動かし続ける日もあれば、「むかし漫才をやっていた」と冗談のような話も出てくる。繁雄さんの多彩な語り口を追いかけるのは楽しいのだが、「一緒に感じる」ような関わり方は少ないように思っていた。カヨさんも自分のイメージでどんどん突き進んでいくような人で、カヨさんの言葉の向こう側は想像もつかない広い海のようで、いつもカヨさんの背中を追い続けているように感じていた。そんな2人と「一緒に感じる」ことができたら、と私の中に小さな期待があったのかもしれない。

 私自身、盛岡さんさ踊りの経験はないが、幼少期から聞き覚えのある祭りの音に懐かしさと高揚感を感じていた。日本の夏祭りのなかでは群を抜いて魅力的だと感じる。繁雄さんはさんさ踊りを前にすると、放心したようにしばらく眺めていた。「繁雄さん、どう?」と聞いてみると「見事だ、うまいもんだ」と笑顔を見せる。
 繁雄さんの反応がうれしくて、しばらくゆっくり眺めていた。隣にいるカヨさんも目を細めて見入っている。こんなふうに一緒に何かを見るということは、私にとってただそれだけで喜ばしいことだった。繁雄さんやカヨさんとひとつになっているようだった。ふと2人の顔を見ると、2人とも笑いながら涙を流していた。 「太鼓の音がいいなあ」と繁雄さんはつぶやく。カヨさんは身体を震わせながら何度も私の顔を見ては、言葉にならない言葉をこぼしていた。それぞれなにを思い出していたのか、なにを感じていたのかはわからない。繁雄さんとカヨさんの中にあった何かが引き出されたのかもしれない。私はそのとき、自分が生まれるずっと前の遠い昔から聴こえてくるような「夢」を3人で共有していたような気がする。
 人が踊り、音色を響かせることが、どうしてこんなに心を動かすのだろう。私たちはどんなに近くにいても「個」として引き裂かれているような存在だ。心を開いたり、閉じたり、繋がれた、繋がれない、という葛藤をもっている。その断絶を、「踊り」は大きなうねりのようにひとつに包んでくれる。幼少期の記憶だけではない、もっと遠い昔のいのちの記憶を呼びさますような力が「踊り」にはある。繁雄さんとカヨさんはその夜たしかにそれを教えてくれた。
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細く長く、流れゆく ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2014年8月号】

 毎年、七夕の竹を見て、“流しそうめんしたいなぁ”と、ぼんやりと思っていた。けれどもそれには太い竹が必要で、それを割らなければならなくて、きれいに仕上げて、組み上げて…。いろいろ課題が多くて、それを一つ一つクリアしてでもやりたいことなのかと問われれば、そこまででもないような気もしてきて。結局、ただの夢でしかないまま、今まで来た。それが今年、私が特養に来て最初の夏、“すばるで流しそうめんを!”という話になった。
 以前も特養でやったことがあるという話だったし、流しそうめん用の太い竹も取って来てもらった。それでも、私の中ではまだ半信半疑だった。これを割って削るなんて大変で、そんなのやったことがないし、「本当にできるのか?」と思ってしまう。また、“したいなぁ”で、終わってしまうような気がして、自分では何もしないまま、幾日かが過ぎた。
 そうしていたら、ユニットの隅で毎日竹を削り続けているスタッフの宮さんの姿を見るようになった。来る日も来る日も竹を削り続けていた。“いつのまに職人さんを雇ったんだろう?”そう見間違えてしまうくらい竹を削り続ける宮さん。その宮さんを見守り、時に静かに寄り添い、竹を押さえてくれている辰也さん(仮名)の姿もあった。WS利用者の翔くん(仮名)と冬美さん(仮名)も、ヤスリがけを手伝ってくれていた。みんなひたすらに、ただ、ひたすらに。
 そんな姿を見ているうちに、祥子さん(仮名)の言うセリフが思い出された。「理屈ばっかりこねてないで、やってみたらいいんだ!やればわかるんだ、やらねばわからねよ〜」「ごんぼほりたくなったら、にんじん蒔けばいい!」誰かが何もせずに文句ばかり言ってるのを見ると、よくそう言って怒っていた。でも、祥子さんも自分のこととなると、「ごめんなさいねぇ、迷惑かけて。埒明かなくなってしまって〜」と言う。私はその度、祥子さんに「埒はブチ破るものでしょ?」と切り返していた。・・・・・あぁ、そうか。私も私自身の周りの埒をなんとかしなければな、と思う。私の中で、“流しそうめんをやりたい!”という思いが、空に浮かびそうなくらい大きく膨らんだ。
 「どれ!押さえててけるっか?」と見ていられなくなった感じで、竹を割っていた私のところに辰也さんが来てくれた。「楔打てばいいんだ!」「ちょっと待て、こっちが・・・」「これだったら、下まで割れるんでないっか?」宮さんを静かに見守る感じとはまた違い、教え育てようとしている感じ。意外な感じがしたが、ありがたく、そして嬉しかった。コーヒーとジャズがよく似合い、“街の人”というイメージが強くて、鉈や鋸は辰也さんに似合わないと思っていた。辰也さんとは、デイサービスの頃から数えると4年くらいの付き合いになるけど、こうして汗をかきながら一緒に何かに取り組むというのは初めてだった。
 竹を削り続けていたら、フキさん(仮名)が「頑張ってらっちゃ〜、ご苦労さま」と声をかけてくれた。フキさんは、私がドタバタしていると、「あいや、やんかことぉ〜!」「男なんだから、もう少し落ち着きなさい!」と、よくたしなめてくれた。自分が情けなく思えて、フキさんに少しでも認められるようになりたいと思っていた。だから、この言葉をもらった時は、たまらなく嬉しかった。
 いざ、流しそうめん当日。組み上がった竹を見て、ワクワクした。いろんなものを流せそうな感じがした。隣のほくとから、サエさん(仮名)がスーッと静かに来て、一番上流の良い場所にごくごく自然にスタンバイ。この日からショートステイだった千春さん(仮名)も来てくれた。ぞくぞくと人が集まって来て、いよいよ流しそうめんが始まった。
 さっそくその上流で穏やかではないバトル。サエさんが隣の祥子さんを叩いてしまったらしい。でも、その隣に居た千春さん(仮名)は、「ハハッ」と笑っている。聞いてみたら、サエさんが祥子さんにそうめんを「食べて」と差し出したら、祥子さんが「たくさんだ」と突き返し、それに怒ってサエさんは叩いてしまったようだ。この頃の祥子さんは食が細くて、サエさんがそうめんをすすめたくなる気持ちはすごくよく分かった。でも、祥子さんには祥子さんで、「余計なお世話だ!」という思いがあったのだと思う。手が出てしまったことで穏やかではなくなったが、でも話の内容は微笑ましい。だから私も千春さんに倣って、「ハハッ」と笑うことにした。流しそうめんって、「争って食べる」の弱肉強食のバトルだと思ってたのに、まさか「食べて/いらない」でバトルが起こるとは思わなかった。
 私の隣のユキさん(仮名)は、車イスなので低くて「見えねっちゃ〜」と叫んでいる。下流の一番見えやすいところにいたのだが、それでも車イスに座ったままだと、高さが少し足りなくて見えなかったのだ。なかなかそうめんがうまく取れず。普段、「美味しいもの、ぺ〜っこでいいから食べたい」と言っているユキさん。流しそうめんを楽しんで、いっぱい食べてもらいたいと思い、どうにか見えないかと、私はちょっとずつレーンを傾けてみた。もう、ちょっと・・・あと、少し・・・・・ガシャーーーーーーン!!レーンを崩してしまった。
 元通り組み上げ、レーン全体をユキさんの方に寄せてもらって、なんとかユキさんもそうめんの流れが見えるようになった。「もうたくさんだー」と言いながらも、そうめんが流れてくると必ずスッと箸を出し、嬉しそうに頬張るユキさんがいた。いっぱい食べるユキさんを見て、私もいっぱい嬉しい気持ちになった。
一番下流では、上流のみんなが取れずに流れてきたそうめんを、スタッフの宍戸さんが待ち構えてハシッ!とつかむと、せっせとトヨ子さん(仮名)の元へ運ぶ。セレブな感じのトヨ子さんはゆったり構えて、少し離れたところからみんなを見守り、優雅に楽しむ。トヨ子さんらしいなぁ、と思えた。でもなんだかんだ宍戸さんのおかげで、実は一番食べたんじゃないかな?
 同じく車イスで、そんなに乗り気ではない感じで食べていたフキさんも、気がつくといつの間にか車イスから立ち上がっていた!ニコニコはりきって、隣の戸來さんと「食う/食われる」のバトルを繰りひろげる。遂には上流の千春さんが取ろうとしていたそうめんも、手を伸ばして食べていた。流しそうめんを一番満喫してる感じで、こんなにイキイキとしていたフキさんを見るのは初めてだった。
 ドタバタハチャメチャで、それぞれ勝手で、一見するとバラバラのようだけれど、みんながたしかに一つになった流しそうめんだった。私自身、“したいなぁ”と思い続けていた流しそうめんが、何年か越しにこんな風に実現するとは思っていなかった。でも、ずっと思い続けていれば、いつか実現することもあるのだ。細くてもどこまでも長く、そして流れゆく。そんな思いを持ち続けたいと思った。それはきっと、みんなを一つにする力があるのだと思う。
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覚悟 ★特別養護老人ホーム 佐藤万里栄【2014年8月号】

 8月某日の深夜、辰也さん(仮名)が転倒した。その後、いつもとは少し様子がおかしいので、翌朝私と通院することになった。確かにいつもよりぽーっとした感じはあったものの、意思の疎通は出来るので、念のために検査してもらおうということだった。
 病院までの車中、揺れる車に辰也さんは後部座席の上のでっぱりを右手でしっかりつかんでいた。病院につくと、「お前がかかるの?」と自分のことではないようなのんきな辰也さん。「辰也さんがだよー」と笑いながら、その明るい雰囲気に助けられ、二人で本を読みながら検査結果を待った。その待っている間に、辰也さんのろれつが少しずつ回りにくくなくなっていることに私は不安を覚えた。結果は脳室内出血ということだった。この出血があったために転倒したのではないかと医師から伝えられ、大きい病院へ行くことを勧められた。
 私は、ことの大きさに震えながら急いで次の病院へ向う。ひどく動揺していた。辰也さんとの今までのことや、これからのことをぐるぐると考えてしまう。うまく息もできないような気がしてきて苦しくなった。バックミラーをみると辰也さんも困ったような顔をしている。赤信号で止まったので、後部座席を振り返ると、困り顔の辰也さんの右手が変な位置で止まっている。最初の病院に向かうときは後部座席をしっかりつかんでいた右手は、麻痺してきて辰也さんの意志では上がらくなっているようだった。
 体の芯を何か冷たいものが落ちていく。不安と焦りが込み上げてきてボロボロと涙がこぼれる。泣きながら「つかまらなくても大丈夫だよ。安全運転で行くから」と伝えると、「そうか?大丈夫、大丈夫、大丈夫だもんな…」と唱える辰也さん。辰也さんの“大丈夫”が私を温めて、何とか病院へたどり着く。
 脳外科で、採血やレントゲン、CT…次々と検査に回される。「ここはどこ?」と尋ねるので「レントゲンとるとこ」と伝えると、「はぁ〜、細かくわかれている!」と辰也さんのいつものとぼけた聞き間違いの感じはご健在だ。でも、自分の左手を触りながら「この手、誰の手?」と聞いてくる。左手も麻痺が出ていて、感覚がたまになくなるようだ。「辰也さんの手」と返すと「違うよぉ〜…」と納得しない。何度目かに「私の」と答えると「そっか〜、やっぱりな」と返してくる。辰也さんの手と私の手が入れ替わる。お互いの境界線が薄くなっていくのを感じた。
 数ヶ月まえ、就寝で部屋に入る辰也さんに「おまえと一緒になれないのか」と聞かれたことがあった。「寝ると死んじゃうんだよ」のあとに来た言葉だったので、一緒に死んでくれないかと言われてような気がした。そのとき私は「まだ添い遂げる覚悟ができていない」と応えた。そう言いながら私はどうやったら一緒に行けるんだろうと考えていた。(あまのがわ通信H26年6月号参照)
 検査を待っている間のこと、突然辰也さんは「俺の金玉あるか!?」と聞いてきた。焦った感じで自分で手を入れて確認しようとしている。「え!?え?あると思うよ!?」と返すと「ちょっとたしかめて!ちゃんと!」と必死な感じで、もうのっぴきならない様子だ。そんなこと言ってここは待合室なんだよ…と困っている私に「『あるある、大丈夫!』って言ってけるの、おめーくらいのもんなんだよ」と言う。身体が痺れて、あちこちが麻痺しているのだろう。自分が消えていくような不安なのか、自分が自分でなくなる恐怖のなかで、自分を確かめようとしているのだろう。そんなこと頼めるのはおまえしかいないと言われるとほろっとする。ずるいなぁ…。こそっと手を入れてオムツの上から確かめて「あるある、大丈夫!」と言う。すると「よしよし、あるか、まだあるな」と納得してくれる。
 こういった瀬戸際の状態で私を求めてくれる辰也さん。見た目の形は男と女だけれど、内側の深いところでは、もっとあいまいに私達は揺らいで浸透している。

 結局そのまま入院になった。医師からは、左麻痺と、ろれつの回らなさ、自立歩行のできないことが、後遺症として残るだろうと説明された。これまで、辰也さんは、自分で歩いていろんなところに出かけて行った。医務室に通い、看護師に左ひざのシップを貼ってもらうのが日課だった。貼ってもらうと「どうもありがとう!助かった!」と元気よくお礼を言っていた。そんな日常の全てが失われると考えると私は怖くなった。これからの日々にも暗い陰を落としてしまいそうになる。けれどどこかで新たな辰也さんと出会えるような気もした。むしろ、そうでなければお互いに、この先、生きられないような気持ちになった。

 辰也さんは二日入院しただけで帰ってきた。しかし、特養に戻ってきたとたんに高熱が出て再受診。いろいろ検査しても、とくに異常はなく、熱の原因は特定できなかった。辰也さんは戻ってきて、熱と戦いながら、夢と現実の境を行ったり来たりしているような感じだ。
 辰也さんの中で劇的に何かが変わろうとしているのかもしれない。眠っている顔を見ながら、私の心中ばかりがざわざわしている。

 私と一体になりたいと言った辰也さん。私もそうしたいと思うけどどうすればいいのかわからない。「覚悟ができてない」と言ったのに対して、その覚悟を辰也さんは、今私に迫ってきたのかもしれない。まさにその覚悟をする時が訪れたのだと思う。
 一緒にどう居るのか、どう一緒に逝くのか。「人は眠ると死ぬんだよ」と語っていた辰也さん。体が不自由になり、熱が出て、今は眠る時間が増えた。熱はそのうち引いて、辰也さんは復活するのかもしれないが、それでも今、私は答えのない道を歩く大きな覚悟を求められてる。
 あの世に行こうとしている辰也さん、ついて行きたい私、お互い、彼岸と此岸に体を半分ずつ預けながら。
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ダンスを通じて ★グループホーム第2 今野美稀子【2014年8月号】

 現在銀河の里では、ワークステージのワーカーさんたち、各部署のスタッフ有志でアフリカンダンスに取り組んでいる。アフリカンダンスと言ってもたいていの人がなじみのないものかもしれない。私も最初アフリカンダンスと聞いてもまるで想像できなかった。実際体験してみると、ヒップホップや社交ダンスなどとはまったく違った踊りで、太鼓のリズムに合わせていろいろ振付が変わっていく。アフリカンダンスの振付は、何種類もある振り付けを自由に組み合わせて構成される。
 一つ一つ振付を教えてもらい、練習し、通して踊ってみる。最初は3つほどの振付の組み合わせだったが初心者なので覚えるのが難しかった。練習を重ねるに従って、振付もどんどん増えていった。全体の流れができると細かいところに意識をするように指導される。最初は踊ること自体に羞恥心もあり、動きも小さくただ流れを辿っているだけだった。指摘されて思い切り動いて初めて、アフリカンダンスはハードできつい踊りだと解る。しかし思い切り動いてみると、ダンスの面白さが感じられるようになった。
 習い始めた頃、よそのダンスクラスに参加してみた。それは私達が習っている同じ「マクル」というダンスだったが、自分たちがやっていない振付もあって、アフリカンダンスの奥深さを感じた。
 私は体を動かし汗をかくことが好きだ。スポーツも好きだが、今回、踊ってみると結構ダンスも気に入った。体を動かすことが好きなのは、動いて汗をかくことで自分が生きていると感じられるし、私はここにいて、生きて、動いているとはっきり表現し伝えられるからだと思う。現在は、様々なSNSやアプリツールが普及し、私も大いに利用しているのだが、ネット上にいる私は不確かであいまいな存在でしかないのではないかと感じることがある。匿名性の強いネット上での自分の存在は、何者にもなれるが、簡単に揺らぎ、すぐに消されてしまうから、結果何者にもなれないのではないかと思う。メールやラインで簡単に繋がることができるようになったが、本当には繋がっていないような気がする。
 下手をすれば常時接続されている我々は、繋がっているのではなく拘束されているようなものかも知れない。ネット上のコミュニケーションは、人間関係としてはなにか決定的なリアリティを欠いているような気がする。SNS、スマートフォンのアプリツールなどを媒体とした繋がりは、顔を合わせ直接的に交流していない分、体感的なリアリティはなく、その都度消えてしまう。それは本当の意味で人と人の関係ではないのかもしれない。媒体を使って言葉だけでやり取りをするのとは違った、直接的な表情やしぐさを含め、非言語的なオーラも含めてのコミュニケーションが、これからは特に求められる時代なのではないだろうか。
 ダンスや音楽などを介したコミュニケーションは、現代的なアプリツールや会話(言語的なコミュニケーション)と対称的に原始的な非言語的なコミュニケーションツールであるともいえる。ダンスや太鼓は、自分の体を使っての身体表現であり、踊ること、叩くことによって無意識的な何かを含めて発信し表現し伝えられる。身に纏う衣装や装飾なども表現ではあるが、何と言っても表現の根幹にあるのは「身体」そのものだ。生まれ持った身体こそ表現としてその中心にあっていい。
 ダンス表現などは、言語表現ほど明確に伝わらない。だからこそ切り捨てられるものが少ないとも言える。言語では伝えられないパッション、生命エネルギーなど、言葉では伝わらない大切なものが見捨てられずに伝わっていく。そこでは文化の違う人たちとも繋がることができる。非言語的な表現だからこそ無意識的な世界も含めて伝え、共感しあえるので、たましいの次元までも届き得るのではないだろうか。
 アフリカンダンスの舞台を見ていると、同じ振り付けでも、力強く踊る人もいれば滑らかに踊る人もいてそれぞれ個性的だ。体勢や動き方が人それぞれで違うのに、リズムを刻む太鼓と共に一体感を感じる。少し動きがズレる人がいても、それも味の一つになって全体に包まれる。見ている人たちも含めて一体になる感じは、言葉では言い表せない感覚だ。
 現在、里では各チームが練習に励み、ダンスに参加しない人たちも、衣装や宣伝といった部分で関わっている。そうして協力し合う中で、ワーカーさんとスタッフの新たな交流ができている。
 練習や準備を通じて、みんなこれまで見ることのなかった部分を発揮してくる。里のダンスは、11月1日土曜日、文化会館で本番を迎える。その本番でひとりひとりがどれだけ自分を表現できるのか。会場や参加者がどれだけ繋がれるのか楽しみだ。参加者も観客もそれぞれがなにか感じられるものがあれば幸いに思う。
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ポーランドへ旅立つ前に ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2014年8月号】

 施設長・副施設長に次いで、ポーランドへの研修に7月24〜30日に行ってきた。帰ってから「どうだった?」とみんなに聞かれるけれど、簡単に「こうだった」と一言では答えられない。「考えて生きていくこと・考え続けることが始まったんだ・・・」としか言いようがない。今回は、旅立つ前に書いた文章を振り返りながら、私の“考える旅”を始めようと思う。

【素朴な疑問】
 私が初めてアウシュヴィッツに触れたのは小学校3年生だった。家族全員で(小学1年と幼稚園児の弟たちも!)、盛岡市内の公民館で開催されていたホロコーストの展示会に連れられて行った。幼かったので意味もわからず観たのだろうが、父や母の解説を聞きながら、「なんで髪の毛でカーペットなんかつくるの?」「人間の身体の脂で石鹸ができちゃうの?」など、子供ながらに疑問を口にしたようだ。労働力にはならない小さな子供を真っ先に“処分”したという選別のためのバー(120cmの高さに棒が吊されている)も再現されていて、弟と一緒にくぐったのを覚えている。

【出さなかった感想文】
 中学のとき、母の本棚にあった『アウシュビッツからの手紙』(著:早乙女勝元)を読んだ。著者が中学生の少年とその母親と共に強制収容所跡の博物館を訪問する様子が、子供向けにわかりやすく描かれている。館内を見学しながら歩く描写に、同じく中学生の私は臨場感を持って読み入った。小学生の時に観たあの展覧会が蘇り、このときになってやっと恐ろしいことだと理解した。にわかには信じられない呆然とした気持ちと共に、「人間ってこんな怖いことやっちゃうんだ・・・」と、ぞっとして吐き気がした。
 夏休みか何かの宿題にこの本を選び、読書感想文を書いた。国語の先生がコンクールに出品すると張り切って添削してくださり、何箇所か書き直すことになった。説明不足を補ったり、言い回しを変えればもっと読みやすくなるという部分に手を入れることには抵抗はなかったのだが、“自分の感じたこと”を書いた部分に先生の思惑が入り込んでくるような書き換え方には微妙な違和感があって、私はどうしても納得いかなかった。「こんなふうに書くなら、これはもう先生の感想でしょ? 私の感想文じゃなくなっちゃうので、先生の名前で出したらどうですか」とかなんとか、ずいぶん生意気なことを言って(言ったか思っただけだったか、いずれ)、面食らった表情の先生を横目に、私は出品自体を拒否した。他人からの評価を気にするより自分の思ったことを貫いた(と言えばカッコイイけれど、要するに我がままで、ずうずうしい性格だったのは、今に始まったことではないんだな・・・)。

【自分の中のナチス】
 高校では美術を専攻する学科でデッサンや油絵に没頭する毎日だった。学校帰りによく立ち寄った古本屋で美術雑誌『芸術新潮』を手にし、表紙の“ヒトラーの退廃芸術”という文字が目に止まり購入した。自分自身を表現することに賭けている絵描き仲間同士が互いに刺激し合う環境で、自分らしい表現って何だろうと模索しながら描いていた当時の私の、芸術に対する憧れや想い。そんなものが全部、がらがらと音を立てて砕かれるような気分だった。尊敬する大好きな画家や彫刻家のことごとくが、その作品と精神世界をまるごと非難され弾圧されている。その上、極端に偏った単一の価値観だけで判断されたもののみが良しとされている。「そもそも芸術に善し悪しなんてないじゃん! 誰だって何だって、個人の表現の自由を踏みにじっていい訳がない!」という怒りの感情が湧いてきた。一方では、無限に広がる自由な表現世界だと信じていた芸術も、時代や環境によって一変してしまうんだなと、妙に冷静に悟った。
 その後、仙台市の美術館で開催されていた『芸術の危機』と題した、退廃芸術関連の展覧会を観に行った。偶像崇拝をしないユダヤ教の特徴を受けているのだろうか、当時のユダヤ人作家の多くが、具象的表現よりも抽象的な表現による作品をたくさん生み出している。人体は歪み、皮膚の色はさまざまで、キュビズムのような表現が「狂っている」「劣った人種」と見なされ、ゲルマン民族であるドイツ国民を優位し鼓舞するための格好の餌食にされていた事実が見えてきた。
 人間が、他の民族そのものを消し去ろうと考えるなんて、とても信じ難いのだが、画家になりたいという夢を抱きながらも誰からも絵を褒めてもらえなかったという少年ヒトラーを知ると、「あぁ、この人も寂しい人だったのかもな・・・」と、ヒトラーの孤独や絶望みたいなものも感じていた。
 「他人と比べて優れているか劣っているか、そのせめぎ合いに囚われて、本来の自分自身の価値を見失っていく。自分で自分が信じられない生き方なんて、弱い。そんなふうには絶対なりたくない」中高時代、大勢の中で何番目かを競わされ、数値でしか評価されず、“自分の本体”はまるで無いかのような気分にさせられていくような不安と不満を語った友人がいた。良い点数さえとってりゃいんでしょ?と大人を見下して冷め切った友人もいた。そんな偏差値世代の寂しさや苦痛にも通じるような気がした。私自身は偏差値の意味すらわかっていなかった(!!)し、先生が勧めるハイレベルの進学校にも興味がなかった。どこの学校がどのくらいのレベルだとか、自分の成績だったらどこそこに行けるとか、考えてもいなかった。「絵が描ける高校に行く」とだけしか思っておらず、滑り止めを考慮している友人たちの気持ちも、いまいちよくわかっていなかった。
 中学時代のいじめの体験にも発見があった。クラスの女子全員から無視され嫌がらせをされていた(らしい)が気付かず(!!)、隣のクラスの子から「なっちゃんは強いね、いじめられてても学校に来て」と言われて初めて、そういえばと思い当たることがいくつかあった(強いっていうか鈍感っていうか・・・)。主犯の女の子も大体の目星は付く。トイレに入っているとき、何人かのクスクス笑いと共に、上から多量のペーパーが降って来たことがあったが、急いで出て「こんなことして楽しいの?」と詰め寄った。ぐっ・・・と言葉に詰まった女の子たちの顔が忘れられない。やっとのことで「むかつく!」と一言だけ返してきた。次の日、登校すると、私の机と椅子が、黒板消しでたたいた粉で真っ白になっていた。ざわめいている教室、私は教壇に上がった。「やった人が自分で拭いて」静まる教室。「こんなガキっぽいこと、誰がやったか、わかってる。二度とやんないで」当時、女の子特有のぐじぐじぐやぐやが面倒臭く、男子生徒との方が馬が合った私は、どうやら女子らから“恨み”を買っていたらしい。「くっだらねぇ、気にすんな」という男子の一言で教室は平常を取り戻したのだが、事の核心にはもっと複雑な心境が渦巻いていたようだ。標的(私)がさっぱり堪えていないのでいじめてもつまらなかったのだろう、翌日から仲間割れ? 私をいじめていたグループの中のひとりが標的に変わっていた。私は、その子とも主犯の子とも、仲良くも悪くもなく以前と変わらずに接した。
 高校では、描きかけの油絵にいたずら書きをされたこともある。これも誰がやったか、なんとなくわかってしまった。一学年上の先輩だった。初めて挑んだ自画像のキャンバスの裏に「いい気になってんじゃねぇ」とかなんとか書いてあって、両目が真っ黒に塗りつぶされていた。いい気になるどころか自信などある訳もなかったし、ただ楽しくて描いていただけだったから、そんな
 ことを言われるのは心外だったけれど、描き直すのも悔しかった。“妬み”だな、とわかった。理由も理屈もなく「気にくわない」ってことってあるよな、と妙にリアルにその気持ちがわかって単純には憎めず、でも「だからってこんなことしていいはずはない、そんなの美しくない」というメッセージを伝えたくて、その自画像はしばらくそのまま美術室に放置しておいた。「私がその人を責めるより、本人が自分自身の醜さを責める方がよっぽど苦しいに違いない」と思った。偉そうに結構ひどい仕打ちをしてしまったよな・・・と今では思う。
 他者を否定することでしか自分自身を保っていられないギリギリの心境。いじめられる対象が次々に変わったり、いじめていた側の子が次の日には標的にされないとも限らない。話せばひとりひとりは良い子なのに、グループになると途端にみんな一律、平気で意地悪い顔になる。「ひとりでいるのが怖いからつるんでるだけ。自分が無いから不安でたまらない。流されていれば楽だから。でしょ?」と、他人事で、関わらないようにしていたかもしれない。恨みや妬みの感情からどうしようもなく生じてしまう闇。どっちが悪いとか誰が悪者だとか単純には言えない状況を、私は傍観者として見ていただけだったということにも気付く。「人間ってそんなに弱い生き物なんだろうか、寂しすぎる」ヒトラーは、ナチスは、身近な日常生活のなかにいる、むしろ自分かも・・・と途方もなく怖くなった。世界で起こっている戦争や宗教対立も、学校の中のいじめも地域の中の差別も、その根源には同じく、どうしようもなく抗いがたい人間の弱さや性があるんだと、身震いした。

【事実から考える】
 大学は、教育学部の美術科に進学。高校教員の父から「教師を目指すなら必読書だ」と言って勧められた数冊の本の中に『夜と霧』があったが、期待に反して、私は教師になる気もなく、本もすぐには読むことができなかった。小さい頃からずっと眺めていた父の書棚の中から、タイトルの言葉の響きに惹かれ、それと知らず手にとり巻末の資料写真を目にしたことがあったためだ。“怖い本”と敬遠していた『夜と霧』をやっと読んだのは、大学卒業間近になってからだった。劣悪な環境での過酷な強制労働の日々、常に死と隣り合わせの恐怖、理不尽極まりない仕打ちの連続で肉体も精神も極限まで追い詰められ、人が人間ではなくなっていく。明日があるかどうかなんて保証のない状態にあっても、暮れゆく夕陽を美しいと感じる心を失わなかった者が生きることを諦めなかった人たちだった・・・というくだりに鳥肌が立ち、勇気づけられた。精神科医の視点から善も悪も持つ人間の姿を語った美しい書物、自らの体験を語った勇気ある物語だと思った。
 劇場で『シンドラーのリスト』を観たのが高校時代だった。後から、時代背景や第二次世界大戦の状況などを補足してもらいながら、世界史の先生と映画の感想をシェアした記憶があるが、今回のポーランド行きを機に、再度、観賞した。“日本のシンドラー”と言われる杉本千畝は中谷さん(アウシュヴィッツの日本人ガイド)のガイドブックで知り、テレビドラマ『六千人の命のビザ』も観た。いずれも、個人が抹殺される異常で凶悪な時代であっても、自分で考え、貫き、生きた人物がいたということに希望を感じる。
 ちょうど施設長が旅立つ少し前、映画『ハンナ・アーレント』が公開されていたが、収容所経験もある当事者でありながら、感情に押し流されることなく、法廷でのアイヒマンの証言に耳を傾け、深い思考の末に「悪の凡庸さ」を唱えた演説シーンには、思考する人間の格好良さや強さを感じた。映画『さよなら、アドルフ』では、戦犯を問われるナチス親衛隊員の子供たちの戦後の運命が描かれており、私たち人類共通の今後の課題を考えさせられた。

【福祉の中の暴力】
 大学卒業後、福祉のふの字も介護や認知症のなんたるかも知らずに、銀河の里にやってきた。農家でもなく祖父母と暮らした経験もなかった私にとって、「おじいちゃんおばあちゃんと一緒に田圃や畑をやりながら暮らす」というワクワクの生活が始まった。認知症の人が見せてくれる世界の、なんと個性的でリアルで魅力的なこと! その豊かさと力強さに驚かされる出来事の連続で、「絵を描くこと以外でこんなにクリエイティヴな自分が引き出されることってあるんだ!」という発見に、毎日こころが湧いた。なのに・・・県内の福祉関係者が集う研修に参加した際の、つまらなさと幻滅と怒りと言ったら今も忘れられない。認知症高齢者を一括りにして扱う感じ、利用者主体の介護が大切と謳いながらも実は上から目線の冷たい感じ、マニュアルやシステムを押し付けてくる感じ・・・に、違和感どころか腸煮えくりかえった。「あなたは他者と出会ったことのない人だ」社会に出たてのド素人な小娘が講師先生に噛み付いたもんだから、他の参加者たちから、変な子、大丈夫かしら的に心配までされてしまった。「あんたたちも何なのよ、こんな暴力的なひどい話し聞いて、すごいですね素晴らしいですねじゃないじゃん、おかしいと思わないの?!」 と福祉関係者のレベルの低さにがっくりする。
一緒に暮らしている、サチさん・タツオさん・ヨリコさん・キミコさん(全て仮名)・・・がサチさん・タツオさんそれぞれじゃないモノにされちゃう感じ、消されちゃう感じが怖くてたまらないのに、そこがぜんぜん伝わらない。それは、私もナツキでいられなくなってしまうってことだ。個人を無視して人間を掻き消すことが介護だって言うなら、そんなの暴力だ、介護なんかしちゃいけない!と訴えた。その私に講師先生は、「あなたはもう少し制度についても勉強しなきゃね」と言った。論点をズラしてうまく逃げられた気分だけが残った。今思い出しても悔しいやら呆れるやら・・・制度とシステムの番人でしかない人たち。福祉の世界にもナチスはあった。今も私の原点となっている“個を消してくるモノとの戦い”が、この時始まっていたように思う。

【いざ出発!】
 そういう訳で、アウシュヴィッツは折に触れ、私の生い立ちと共にずっと纏わり付いている。いつかは訪れるべき場所、対峙しなければならないことだと思っていた。しかし、できるなら、知らないままでいて考えずに済ませたいと思ってしまう。自分の悪を照らし出され、重い責任を突きつけられることは予想がつく。「怖い、行きたくない」と、やっぱり気持ちは尻込みしてしまう。反面、自分が何を感じ考えることができるのか、期待もしている。今年度の主任研修「ポーランド“アウシュヴィッツ”の歴史を、その地に立って“考える”」というテーマに、逃げずに向き合いたい。自分で考える大人であるために。

 以上が出発前に綴ったぐるぐるだが、次回は研修旅行後のぐるぐるを書きたいと思う。耐えがたい難局を、力を振り絞って生き抜いていく知恵と忍耐が必要とされる。地道に考えてやっていくしかない。
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物語るということ ★理事長 宮澤健 【2014年8月号】

 介護や支援をするという行為は、自分がどういう人間であるかを迫られることだ。介護や支援に限らず、「誰かと生きる」ことを前提にした行為には、人間とは何か、自分とは何かという「本質的な問いかけ」がある。その問いかけは、人間が考えることを始めた源流なのだと思う。
 「本質的な問いかけ」を持たないまま、介護や支援のような対人関係に入るとしたら、気がつかないうちに暴力に直結しがちだ。そうした暴力はいつでも我々を呑み込もうと狙っている。意識していないと簡単に転落する。
 人と間近に接して、相手から何かを伝えられ、何かを感じることは、自然に言葉を越えたやりとりがそこに生まれてくる。ましてや介護など直接に身体を通じて関わることは、本来はたましいのやりとりそのものに違いない。それは死も生も含んだ人生そのもの、生命そのものに直接、深く関わることだと感じる。
 保育や介護は、日常的な行為ながら、人間の親密で深遠な、存在の崇高に繋がる通路として開かれている重要なことなのではないだろうか。自然に対してか弱い人間がその美と脅威に畏怖すると同じように、他者という存在と出会い自らを発見するという魔法がそこにはある。そうした圧倒的な経験が、音楽や絵画などの芸術に通じるような表現とコミュニケーションを生み出し、人間は人間になったに違いない。
 人間を人間たらしめる要素は、多様に日常にちりばめられているのだろうが、それが感動と表現という芸術行為に昇華され、コミュニケートが生まれなければ人間は人間になり得なかったと思う。自然と生命の奥にうごめく神やたましいといった、目には見えない何ものかを感じ、それを互いに伝え合い、共有し、畏敬し、ひれ伏し、祈る。そこにこそ人間が生まれ得るのだと思う。
 ただ、現代人はそうした源初的経験とはかけ離れ、自然からも離れ、断絶された場所で、安全に隔離されたような場に身を置いている。さらに他者からも遠ざかり、個々人が隔離されてシステマチックに効率的に過ごせるようになって来た。日常は科学的思考によって判断され続けるうちに、芸術的な感性がやせ細り、身動きがとれなくなって生命そのものへの畏敬が失われていきつつある。
 介護関係はたましいの通路であると定義したいのだが、介護業界では、そんな話はまるで通じない。作業が効率よく行われるだけの乾いた関係は、介護現場が一気にアウシュヴィッツに変換されたような衝撃で何度もうちひしがれるような思いにさせられてきた。
 介護施設、福祉施設はおろか、ケースワーカー達の持つ暴力性に打ちのめされるきつい経験を何度もしてきた。そしてそれは今のところ改善される気配はどこにもないように感じる。福祉現場には現代のアウシュヴィッツがある。
 そうした現状を乗り越え、介護関係の通路の向こうに、まるで違った世界を見いだそうと、別次元の感覚で出発したはずの里でさえ、幾度も暴力に呑み込まれそうになる危機があった。なんとか乗り越えてはきたものの、これからも常に危機的な状況は訪れ、それと戦い続けなければならないのだろう。
 一頃、認知症の対応には、脳のどの部位がやれているかで対応が異なり、やられている部位を知って適切に対応することが必要だなどといったことがまことしやかに語られることがあった。薬を処方する医師にはそれは必須だろうし、認知症の種類を厳密に把握する必要がある。しかし、生活の現場で認知症の人と関わるとき、脳の損傷部位を配慮して対応するだろうか。あくまで人間として個性的に耳を傾け、話をし、共に時間を過ごすことを尽くすしかないではないか。例えば「ものを盗まれた」とか「家に帰りたい」と認知症の方がよく言われるが、そのとき脳の損傷部位を思い浮かべていても何もならないことはすぐ解る。その人の生い立ち、経歴、性格、家族構成、人間関係などそうしたことを、普段からできるだけ深く把握し理解して話を聞き、語りかけるしかない。しかも、ありきたりのマニュアルは通じない。時には自分の存在を賭けて、人格勝負で向き合うことが求められる。
 10年くらい前、県で主催した研修に、福祉先進国のスウェーデンから来たという講師が、それを言っていた。前頭葉、側頭葉がどうだという話に辟易した。怒りと共に、「あなたの国のあなたの神はどこへ行ったのか」とその講師に手紙を書いた記憶がある。物事を分けて分けて行けば、何でも物事が理解できると信じているらしい。原因が解れば、それを取り除くことで解決ができるといった安易な考えに呑み込まれすぎていると感じた。認知症の人を前にして、打つ手を失い、苦し紛れに更に人間を切り刻もうとする姿勢にうんざりした。因果論の科学主義を信奉して来た現代人は、もう人間を人間としてとらえられなくなってしまったのだろうか。そこに、殺伐と乾いた人間の生命の枯渇を感じて寂しくなった。
 先月、NHKスペシャル認知症最前線で、外国から画期的な認知症対応メソッドが紹介されるというので期待して聞いていたら、「あくまで人間的に接すること」というので拍子抜けした。つまり国際的にも、認知症に対してこれまで、頭がおかしくなった人としてしか捉えて来なかったということだ。それに対してやっと、馬鹿にして下に見て接するのではなく、人間として真っ当な姿勢で関わることが大切だと気がついたというわけだ。今さら何を言っとるんだというような話だが、それが現状なのだ。
 そのメソッドを体験的に導入した施設では、利用者が見違えるように目を輝かせ、話せないと思われていた人が言葉を発したり、元気に動き出したりするのをみて、スタッフが泣きながら感動していた。裏を返せば、今までどれだけ馬鹿にしていたんだということになる。日本の高齢者福祉はお世辞にも褒められない。だいたいが安かろう悪かろうの粗悪品であるという現状は認識しなければならない。
 何年か前、里でシンポジュームをお願いした、福祉担当の女性弁護士が語ったことがある。「我々の所にはいい話は一切ない。問題しかこない。だが、その問題のひとつひとつが人生そのものなんです」この一言でなんの説明もなしでこの人とは理解しあえることが解る。彼女は、弁護士として表面上は問題解決を依頼されるのだが、問題を見ているのではなく、人間とその人生をまなざしている。そのまなざしの先に彼女はひとりひとりの物語を紡いでいたに違いない。
 問題を取り除き処理しようとするのか、問題を通して、個々の人生の物語を紡いで読み解くのか、この違いは大きい。人が抱える問題は、たましいへの通路となって見えない世界に通じている。見えないたましいは破綻のない物語を描こうとする。
 科学主義にやられて、関係を断ち、細かくきり刻むことしかできないのが現代人の悪弊だ。我々は切り刻んだ分だけ、再び関係から立ち上がらなければならない。関係は物語を生む。物語は世界を成り立たせる。認知症の本質は関係を必要とする病だと思えてならない。あらゆる関係を切り刻んだ歴史の上に、彼らは関係を取り戻そうと現れて来た救世主だと私は信じたい。
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物語のはじまり ★特別養護老人ホーム 角津田美香 【2014年8月号】

 私は4月から特養ユニットの「ほくと」から「こと」へ異動となった。新人スタッフの照井さんも配属となり、ユニット「こと」は新体制でスタートした。
 ことの利用者のタエさん(仮名)は、若いころ教師をされていた方だ。いつもおっとりとした雰囲気で、よくご飯を食べ、よく眠る印象だった。そのタエさんが私に迫ってきた。ユニットことの利用者さんとスタッフとの間に物語が生まれつつあった。

 5月8日の午後、車椅子でタエさんが自走して動き出した。ことのリビングを出て長い廊下を事務所にまで行った。事務所では特に何か用事を済ませるでもなく、再びことへ戻ってきた。そして、ことのリビングで、タエさんは停まることなく車椅子で巡り続けた。
 その様子に「どこかへ行くの?」と私が尋ねると「どこさも行かねぇ」とタエさんは言った。「じゃあ何か探しているの?」と問うと「安住の地」と返してきた。突然タエさんの口から出てきたその言葉に、私はどきりとした。『安住の地』…タエさんは、安らげる最期の居場所を探そうとしているのか……と、その時の私は思った。でも、それはここではないのだと言う。「私も一緒に探します」と伝えるが「いい、苦(く)しねぇで」「探さなくていい」と断るタエさん。でも、そう言いながらタエさんはなんだかとても苦しそうだった。「一緒に行きます」と私が何度も詰め寄るように声をかけたからか「しめられて(責められて)やんたぐなったから、あっち(事務所)の方さ行って決める」とスタッフの照井さんに告げてタエさんはまた、一人で出て行った。「たすけて〜」「すみませーん」と言いながら事務所を通り抜け、その先の玄関に向かう。「この、長靴履いていく」と玄関の長靴を履き、「あど、車出してもらえればいいなは」と、完全に外に“出て行く”気持ちだった。

 私もタエさんと玄関から外へ出た。「どこに行けばいいの?安住の地って?」私はぐるぐるしながらも、でも「行くんだ」と車を準備した。だが、その時の雰囲気から迫ってくる重圧を私は一人では受け止めきれず、とても不安だった。そこで(半ば助けを求めて)「中屋さんも行きませんか……」と、事務所にいた中屋さんを誘って、同乗をお願いしていた。
 私が車を準備している間、タエさんは「運転手さんが、あれするから」「運転手さんに任せる」と中屋さんに言っていたそうだ。運転手次第…はじめから、このドライブは私に全ての決定権が託されていたのだった。しかし、私はそれを受け止める余裕もなく、ただ『タエさんの安住の地』を目指さなければならないと(全然わからないのだが)困惑しながら車を走らせていた。

 車中では、タエさんは、出発前のようなキラリとした瞳ではなく、影のある顔……、どこか厳しく重みのある表情で、ただ真っ直ぐに前を見つめていた。「どごさ行ぐの」と私に聞いてくるタエさん。相変わらず、“目的地”が分からずにぐるぐる混乱している私。「ハァ〜」と時々、後ろ座席からタエさんの深いため息が聞こえてくる。どうしよう、タエさんが呆れている……。でもどこに向かえばいいのだろう。『安住の地』って何なのだろう。どうにも分からないけれど、車を出した以上は進むしかない、行かなくては!「えい、えいっ!」と、交差点や曲がり角になる度に、私は声を出して進んだ。右か左かともかく選んで、自分で決めて、前に行かなくちゃならないんだ。そうして進んでいった先に、『安住の地』は見つけられるのだろうか・・・。
 私の心のぐるぐるは、そのままぐるぐるのままドライブを終えて、小一時間ほどで里へ戻って来た。戻っては来たけれど……これで良かったのだろうか。不安なまま納得はいかない。ともかく「着いたよ」とタエさんに声をかける。「ここで終わり?はぁ〜、ここまでなんだな」と拍子抜けの感じのタエさん。「ご飯にしようか」と中屋さんに声を掛けられると「あぁ、ご飯ね」と明るい返事。道中の、あのずしんとした表情は何だったのか…。車から降りようと車椅子のロックを外すと、タエさんは車椅子から立ち上がった。そのまま、支えられて歩いて降りて、外に置いた車椅子にぼすん、と座った。そのとき、車内にいた私にタエさんが言った。「あんたは、ここで終わり」。“もう終わりですよ” というニュアンスに、(え、私はここで終わりなの?)と面食らう私。タエさんは続けて言った。「まだつながるんでしょ?」

 その頃の私は、仕事に対してどこかもやもやしていた。ほくとからことへのユニットの異動で不安はあったが、新天地が楽しみでもあった。けれど、どこか心ここにあらずの自分がいることも感じていた。誰かと向き合うこと、誰かのことを思って、考えて、心をつなげて、その人と共にいること。それは心を動かすことだ。私は、心を動かすのが怖かったんだと思う。もやもやしたものをずっと拭いきれなくて、いっそのこと離れてしまおうかとさえ考えてもいた。そんな時に言われたタエさんの言葉が心にしみた。

 「あんたは、ここで終わり?まだつながるんでしょ?」あなたはここで終わりじゃなく、まだここから先へ続けて、ずっと続いていくんでしょ?まだ終わりにしないで、続けて進みなさいと言われたように感じた。もやもやしている自分をタエさんに見つけられた気がして、私は思わず泣いてしまった。
 「ここで『終わり』かもしれないけれど、終わった後にもつながって続いていくものがあるんだね」と、私とタエさんのドライブに付き合って終始見てくれた中屋さんがそう言った。後を繋いでいくのは、タエさんをはじめ利用者さんと今一緒にいる私たちなのだと私は思った。「(あとは)いいようにしてけで」とタエさん。『タエさんの安住の地』を探そうと出発したドライブ。でも、目的地はタエさんの安住の地ではなかった。タエさんは揺らぐ私の行く先を後ろから見守りながら、導こうとしてくれていたにちがいない。『安住の地』は利用者さんに対して、私が創り出さなければならない場ではなかったか――。

 タエさんが連れ出してくれたドライブ。あてもなくぐるぐる巡りながら、私はこの時スタートに立たせてもらったのではないかと思う。新体制のチームで始まった「こと」では、利用者さんとスタッフの関係を軸に、このあと壮大な物語が生まれてくる。この時の私とタエさんとのドライブは、その物語の始まりだったと思う。数々の出来事は、点と点を結んでいくように、やがて繋がって大きな物語になっていく。自分を切り離した位置からの冷たい観察や処置ではなく、誰かと繋がって声(語り)を受け止め紡いでいく限り、物語は生まれて、繋がって、続いていく。生まれる物語を丁寧に追いながら、語り遺していけたらと思う。
(繋がって広がる物語を、次号以降に書いていきたいと思う。)
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祖父と出会った銀河の里 ★特養入居者(故守男さん) 家族【2014年8月号】

 4年以上にも渡り、祖父の守男(仮名)をお世話頂き、ありがとうございました。お陰様で、7月15日(火)葬儀を終えて祖父を送ることができました。葬儀の日には、私はなぜか「こんな幸せな事があるのだろうか」というくらい満ち足りた思いを抱いていました。

 7月2日(水)11時39分、私用でたまたま家におりましたところ、特養スタッフの佐藤万里栄さんより、祖父が入院の可能性があるとお電話頂き、東和病院に直行しました。祖父の傍らで1時間ほどお話をしましたが、自然に楽しくとても不思議な感じがしました。
 万里栄さんは、平成22年5月2日に、祖父が銀河の里のグループホームに入居した当初の担当介護士で、祖父がお別れの意味で、このとき小生と引き合わせたのかと感じております。話をしている最中にも、玄関で車椅子のおばあさんが自動ドアを通過出来ず困っていたのを見るや、さっと立ち上がって助けていました。万人に好感を与え、人に接するや軟らかき春風に吹かれるごとく雰囲気が伝わってきました。あまのがわ通信の顔である、表紙の絵を描いておられて毎月楽しみにしております。あの暖かい絵そのままの姿が万里栄さんだなとそのとき感じました。

 7月10日(木)14時頃、台風が来ている事で、農作業を休んで家におりましたら、何だか急に仏壇に観音経を奏上したくなり読経を始めました。いつもは父の月命日の1日にしているだけだったのですが…。読経をしながら涙が溢れ出る様な感じで止まらなくなり、幸福な感じになり、とても不思議な事が起こるものだなあと思っていました。今思えば、祖父が最後の挨拶に来ていたのかもしれません。
 翌日7月11日(金)早朝4時過ぎでした。祖父の危篤の電話が病院からきました。たまたま通院の為、3時前に起床して出かける準備をしていたところでした。あまりにもタイミングが良すぎてびっくりしました。そのまま東和病院に行き、母と2人で祖父に寄り添いました。
 6時過ぎに、スタッフの佐々木詩穂美さんが来てくれました。詩穂美さんが以前、祖父と家に来た時、祖父をおんぶした姿に、とても逞しい力強さを感じたことがありました。そして、何と言っても最も感謝したいのは、「戦争の傷を超えて未来を託す」と題してグループホームの全国大会で祖父の事例を発表していただいたことです。
 本来ならば、祖父の秘めた思いを聞きとり受け継ぐのは、小生の役目だったのだと思いますが…グループホームの暖かい関係の中でこそ祖父も心開き語りえたのだと思います。堅苦しく形式的な大会の場の雰囲気を一気に神秘的で深い次元に変え、1200人を越える参加者を静寂させた発表でした。心優しく柔らかな語り口で語られる祖父の物語に、小生も感極まり、号泣いたしました。祖父がこの人と決め、語り、託した理由がよくわかり、最も適した人だと納得しました。自分の弱さを素直に出せる、凛とした本当の強さを感じました。2度ほど、仮名の守男ではなく本名で発言し、ミスの様にも見えましたが、祖父が、何よりも人と争うことを好まない性格で、優しく奥ゆかしい詩穂美さんを通して発言したのだなと、最近になって感じました。祖父は戦争のことは一切語らない人で、戦争の話を向けられると激怒することもありました。戦争は絶対してはならないと訴えたかったのだと確信しております。そのことを、未来を生きる詩穂美さん達に語り伝えることができたのは、とてもありがたい事だったと思います。
 7時過ぎには、同じくスタッフの酒井さんが来てくれました。気合で激励する姿に、祖父に似た性格を感じました。発表の中でも、祖父と戦場の疑似体験をして、酒井さんが下士官になって訓示を受ける場面がありました。酒井さんとの出会いも祖父には大きかったと感じました。
 酒井さんには、特養で長渕剛の歌を祖父、母と共に聞かせて頂きました。夕食を食べてない母の為に、おにぎりまで作ってきてくれたのにはびっくりしました。悲しみを力強さで克服して行く酒井さんの歌の表現に、祖父も不自由な手や足を精一杯動かして、応えているようでした。祖父から託され、伝えられた使命を、得意の歌で返すという姿勢に爽やかさを感じました。
 その後、祖父の状態は嘘のように安定し、それぞれの個性を生かした応援の力を借り、熱も下がり、呼吸状態も安定、目も開いてみんなにお礼をしているような感じでした。想いの力って素晴らしいなと感動しました。
その後、母を残して家に帰り、朝食を食べていたら、9時51分、母より、看取りの部屋に移動したので早く来る様電話がありました。10時14分頃、母が手を握っていると、深く呼吸をすると安らかな表情になったといいます。
 4月22日(火)東和病院の面会の帰り際に母に祖父が「ありがとう」と言ったことがありました。そのとき母に看取られ亡くなるのを望んでいるのを確信しました。6月には髪が伸びていて、いつもなら酒井さんが散髪してくれるのですが、このときは母が最初で最後の散髪をしました。やはり、祖父は母を選んでいたと思います。
 10時19分頃、スタッフの角津田さんが、くノ一の様にひっそりと、ドアの脇に佇んでおられました。祖父は10時20分頃心肺停止状態になり、10時24分、永眠致しました。角津田さんと一緒に、祖父の永眠に立ち会えた事に感謝しています。毎晩20時頃、祖父に会いに行くと、角津田さんがいつもおむつ交換をして下さっていました。直向きに30分位かけて、丁寧に毎日繰り返す姿に、一般医療機関とは次元が違うなと思いました。こういう人の土台の上に、清潔な状態で、家族の看取りの時間が許されているのだなと感動と共に気づかせて頂きました。グループホームにいる時は、いつもリビングで会っていたので排泄介護に触れることもなく想像さえ出来ませんでした。万里栄さんと話したとき、食事介護も排泄介護もとても大事な時間なんですという言葉に、銀河の里の深さをみた感じがしました。健康状態を把握したり、人と人との出会い触れ合いを大切な事として認識している。奥深いなと感じました。
 角津田さんが、初めて祖父と会った時、是非、お世話をしたいと感じたそうです。その様に思っていただけたことを小生も大変嬉しく思います。祖父も、相当、感謝していて、その気持ちを伝えたくて、最後の看取りに角津田さんを引き寄せたのかなと感じています。病院から帰る時も、寡黙に、車まで荷物を運んでいただきました。
 建物、人材、研修といい、利益、効率は二の次で、霊、心、魂といった、人間として最も大切にしなければならない、目に見えないところを重視できる銀河の里の皆さんの生き方に最後まで感銘させられました。

 それから葬儀の過程でいろいろな不思議なことが起こりました。祖父が私に乗り移って、準備や挨拶など堂々とこなすことができました。亡くなった父も現れて、私の横で喪主を一緒にやってくれました。
 これからも、亡き父や祖父に支えられながらしっかりと生きていこうと決意をしております。皆さんありがとうございました。
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「アフリカンダンス&餃子製造&種蒔き」★ワークステージ 村上幸太郎【2014年8月号】

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★現在取り組んでいるアフリカンダンスの練習の様子です。幸太郎君の所属するチームは、女子がしゃがんでいる所から始まり、途中から男性陣が鳥のポーズで入場してきます。本番ではどんなダンスになるかな?
夏のギフトも8月いっぱいまで受付中です!餃子の製造も大詰めです!ハウス班は、冬野菜の種蒔きも始めました。ひとつひとつ丁寧にスポンジへ種蒔きをし、芽出しをする所ですね。

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「花火」★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2014年8月号】

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★夏の風物詩といえば、花火ですね。山よりも高く打ちあがった花火は、夜空と水面をキャンバスにして、綺麗に映し出されます
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