2014年07月15日
こころ動くこと ★デイサービス 阿部千恵子【2014年7月号】
銀河の里に就職して3ヶ月が経とうとしている。今回の研修は、以前の生活と大きく状況が変わった今の気持ちを整理するために与えられた機会のように感じる。
前職は接客業であったが、マニュアルにのっとり、時間・業務に追われる生活をしていた。今、振り返れば、人との関わり方ですらマニュアル化されていた。人とじっくり関わっていきたい私は、効率の良さや成績を追求される流れに押されて、自分の中に自然と浮かんでくる喜怒哀楽や疑問・戸惑いには蓋をして、見て見ぬふりをすることに精一杯だったように思う。全否定する訳ではないが、少なくとも前職は私には合っていなかった。自分の自然なこころの動きを活かせないのはとても辛いことだった。
そんな中で里に就職した。ここでは、社会人としての良い子ちゃんだけでは通用しない世界がある。実際、効率の良さを優先して上辺だけの言葉でアプローチしても利用者さんには届かない。見透かされてしまう。繕った自分ではなく、自分を賭けた勝負がないと通じない。
例えば認知症の利用者さんの個人的な行動を見ていて「ずっと同じところを気にしているな。痛いのかな?」と感じる。そんな時に出てくる言葉や態度はマニュアルとは全く関係のないことだ。自分のこころの動きがもたらす言葉や態度しか通じない。
利用者さんや里の空気に救われて、私は長らく封印したまま失いつつあった本来の「こころの動き」に気づける自分が返ってきたように思う。
そんな自分らしさを取り戻しつつある中で参加した今回の研修だった。私は今の自分がどんな感想を持ち帰るのか楽しみだった。
初日の演劇「海辺のカフカ」。私は原作を読まずに観劇参加という荒技で臨んだ。舞台が始まる時の何かが迫ってくる怖いくらいの緊張感が、私を舞台へ引き込んだ。日ごろ見る映画は、内容が分かりやすく主人公に感情移入しながら見られる作品が多い。その点カフカは話しのスジがわかりにくい。「世界でもっともタフな15歳になる」という自分探しを思わせるフレーズが心に響く。想像力を使う中で、自然と様々な感情が沸いてきた。舞台にもっと触れていきたいと感じた。想像力を使いすぎてか休憩の時もポーッとしてしまい、言葉が出てこなかった。後半も想像力はフル稼働。スパッと答えが出る作品ではない分、心が動いた。
カフカの想像の世界に対して、翌日の「相田みつを美術館」はストレートな作品ばかりだった。今の私に響く言葉が並ぶ。相田みつをの息子の言葉に「もしこの文字がお手本のようにきれいな文字で書かれていても同じように感じるでしょうか?」とあった。
みつをはひとつの作品を作りあげるのに、何百枚、何千枚と同じ文字を書いていたそうだ。少しの墨の滲み方でも納得できなければ、それはお風呂を沸かすときに火を起こすために燃やして使ったという。今、私たちが目にする文字の形式が完成するまでに30年もかかったという。
それほどのこだわりが、たくさんの人のこころを動かし、時にはこころを受け止めてくれる。時間を忘れて作品に見入っていたために、大きな美術館ではないが一日がかりになった。
研修で、私のこころはふたつの作品によって大きく動いた。少し前の私なら、こんなに多方面にこころが動く私ではなかったと思う。里という環境は、自分の「こころの動き」を見逃さずにどんどん自分らしくなっていけるように思う。こうした環境と出会いに感謝しながら、毎日を大切にしていきたい。
前職は接客業であったが、マニュアルにのっとり、時間・業務に追われる生活をしていた。今、振り返れば、人との関わり方ですらマニュアル化されていた。人とじっくり関わっていきたい私は、効率の良さや成績を追求される流れに押されて、自分の中に自然と浮かんでくる喜怒哀楽や疑問・戸惑いには蓋をして、見て見ぬふりをすることに精一杯だったように思う。全否定する訳ではないが、少なくとも前職は私には合っていなかった。自分の自然なこころの動きを活かせないのはとても辛いことだった。
そんな中で里に就職した。ここでは、社会人としての良い子ちゃんだけでは通用しない世界がある。実際、効率の良さを優先して上辺だけの言葉でアプローチしても利用者さんには届かない。見透かされてしまう。繕った自分ではなく、自分を賭けた勝負がないと通じない。
例えば認知症の利用者さんの個人的な行動を見ていて「ずっと同じところを気にしているな。痛いのかな?」と感じる。そんな時に出てくる言葉や態度はマニュアルとは全く関係のないことだ。自分のこころの動きがもたらす言葉や態度しか通じない。
利用者さんや里の空気に救われて、私は長らく封印したまま失いつつあった本来の「こころの動き」に気づける自分が返ってきたように思う。
そんな自分らしさを取り戻しつつある中で参加した今回の研修だった。私は今の自分がどんな感想を持ち帰るのか楽しみだった。
初日の演劇「海辺のカフカ」。私は原作を読まずに観劇参加という荒技で臨んだ。舞台が始まる時の何かが迫ってくる怖いくらいの緊張感が、私を舞台へ引き込んだ。日ごろ見る映画は、内容が分かりやすく主人公に感情移入しながら見られる作品が多い。その点カフカは話しのスジがわかりにくい。「世界でもっともタフな15歳になる」という自分探しを思わせるフレーズが心に響く。想像力を使う中で、自然と様々な感情が沸いてきた。舞台にもっと触れていきたいと感じた。想像力を使いすぎてか休憩の時もポーッとしてしまい、言葉が出てこなかった。後半も想像力はフル稼働。スパッと答えが出る作品ではない分、心が動いた。
カフカの想像の世界に対して、翌日の「相田みつを美術館」はストレートな作品ばかりだった。今の私に響く言葉が並ぶ。相田みつをの息子の言葉に「もしこの文字がお手本のようにきれいな文字で書かれていても同じように感じるでしょうか?」とあった。
みつをはひとつの作品を作りあげるのに、何百枚、何千枚と同じ文字を書いていたそうだ。少しの墨の滲み方でも納得できなければ、それはお風呂を沸かすときに火を起こすために燃やして使ったという。今、私たちが目にする文字の形式が完成するまでに30年もかかったという。
それほどのこだわりが、たくさんの人のこころを動かし、時にはこころを受け止めてくれる。時間を忘れて作品に見入っていたために、大きな美術館ではないが一日がかりになった。
研修で、私のこころはふたつの作品によって大きく動いた。少し前の私なら、こんなに多方面にこころが動く私ではなかったと思う。里という環境は、自分の「こころの動き」を見逃さずにどんどん自分らしくなっていけるように思う。こうした環境と出会いに感謝しながら、毎日を大切にしていきたい。
お互いにな ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2014年7月号】
「ちょっと!!助けてけてぇぇぇぇ〜〜〜〜〜〜!!」
隣のユニット・ほくとから、今にも死にそうな悲痛な声が聞こえてくると私は、“ごめんね、すばるのみんな!私は行かなければならないんだ!”そんな気持ちで、ほくとへ駆けてゆく。声の主は、時々ショートステイで来ているキヨ子さん(仮名)だ。
車イスに乗ったまま、グッ!グッ!と車イスを動かそうとしたり、立ち上がろうとしたりしているキヨ子さん。すごく一生懸命に何かをしようとしている姿に、“なんとかしてあげたい”と思うのだけれど、どうしたら良いのかさっぱりわからない。「ちょっと!押してけて!そこまで、押してけて!」と必死で訴える。私は考える、“押して行った先には何があるんだろう?押すのは本当に私で良いのかなぁ?”そんなことを考えてしまっている私に、「ちょっと!押してけて!何してらって!!オラ、こったなことされたことないよ!人、バカにして!!」とヒートアップするキヨ子さん。ますますためらってしまう私。
「何してらって!!人、バカにして!!」そう叫ばれても“バカになんてしてない!”必死で考えるけど分からない。私が戸惑ってる間も、「人、バカにして!!」が続く。私はさらにだんだんに、もうどうしたらよいか全然分からなくなって、「そんなこと言ったって、どうしたら良いのか全然わかんない!!」とキヨ子さんにぶつけ返すしかない。助けようと駆けつけたハズなのに、ケンカになってしまう。キヨ子さんの全力に、私も全力で返すと、いっつもケンカになる。
そんな「人、バカにして!!」のキヨ子さんもいるかと思えば、表情がコロころコロころ変わって、「稼ぎたいけど、足痛くて稼げねんだけど、稼がねばねんだし・・・」と泣き出しそうになりながら話すキヨ子さん。今まで頑張って、やっと人生ここまで歩いて来られたのだ、ということが感じられた。畑を見にテラスへ出た時には、「トマト、ナス、ピーマン、なってもやってら。東北で一番じゃねぇか?」と、妹さんがやっているという大きな畑を自慢する、誇らしげなキヨ子さんがいる。「ごはん食べねー!」と言いながらも、おやつのプリンは「最高です!!!」と、ニコニコと食べているキヨ子さん。まるで、一日のなかで短編の物語の起承転結が何度もあるみたい。
ある日の夜、薬を飲むか飲まないかで一悶着。「キヨ子さん、これ飲んでけて」に「はい」と一旦は応じてくれたのだが・・・。
いざ飲む段になって、「やっぱり飲まね!なんだか怪しい!」と言う。えっ??「キヨ子さん、いっつも飲んでるやつだよぉ?」と返しても「飲まね!飲まね!」と頑なだ。「寝る前に、これだけ飲んでけてぇ〜」を懇願すると、「何だってや?」と少し軟化。おっ!飲んでもらえるかなと思い、「お医者さんからもらってきた薬だよ〜」と言うと、「飲まね!言うことばり立派ぶりしたってわがねんだ!」と元に戻る。そんな感じでなかなか飲んでもらえず、だんだんに、またしてもケンカになる。
でもそんなケンカしながらも、楽しくなってくる。この後、“飲んでけて”“飲まね!”が、しばらく続いた。すると、私のあまりにしつこい迫りように折れたのか、「んで、貸して!」と結局は薬を飲んでくれた。
「こったなことされたの初めてだ!」ブツブツ言いながら床に入るキヨ子さん。なんだか申し訳なくなってきて、「ごめんね、キヨ子さん」と謝ったら、「お互い様だ」と言ってくれた。そして、「お互い愛しあってればそれでいいのだ」と言った。泣いて、怒ったり、そして笑ったり。いろいろあっても、愛しあってれば、それでいい。そんな言葉にキヨ子さんは、“今”を全力で生きているんだな、と感じる。毎日がドラマチックだ。
別のある日。荷物をまとめ、カバンに詰め込み、部屋から這って出てきたキヨ子さん。そのまま、部屋の前で、四つん這いでカバンに突っ伏している。その姿は、まさに悲劇のヒロイン。“ちょっと照明さん、何やってんの!キヨ子さんにもっとスポット当てて!”居るハズのない舞台スタッフに檄の声を飛ばしそうになる。しばらくその姿で死体を演じているものだから、スタッフが何人も入れ替わりキヨ子さんの近くにやってきては、それぞれの役を演じて去っていく。しばらくそれを観ていた私も、“これは私も行かなければ”と、「キヨ子さん、もっとスポットが欲しいよね。私はちゃんとキヨ子さんのこと見ているよ」と伝える。キヨ子さんはゆっくりと顔を上げて「お互いにな」と、ニヤリと一言。“あぁ、これで私も舞台に上げてもらったな”そう、思った。
共に泣き、共に笑い、共に怒り、お互いがお互いを見て。キヨ子さんと過ごす日々はわからないことだらけで、私には理解もできず、言葉にできないこともたくさんある。それでも、そんな一日一日がキラキラと輝いていると感じる。全力のキヨ子さんに引きずり出されて、私も全力で“今”を生きる。そうして“今”を繋がることで、明日がやってくる。そんな日々がずっと続いていけばいいな、と思う。
隣のユニット・ほくとから、今にも死にそうな悲痛な声が聞こえてくると私は、“ごめんね、すばるのみんな!私は行かなければならないんだ!”そんな気持ちで、ほくとへ駆けてゆく。声の主は、時々ショートステイで来ているキヨ子さん(仮名)だ。
車イスに乗ったまま、グッ!グッ!と車イスを動かそうとしたり、立ち上がろうとしたりしているキヨ子さん。すごく一生懸命に何かをしようとしている姿に、“なんとかしてあげたい”と思うのだけれど、どうしたら良いのかさっぱりわからない。「ちょっと!押してけて!そこまで、押してけて!」と必死で訴える。私は考える、“押して行った先には何があるんだろう?押すのは本当に私で良いのかなぁ?”そんなことを考えてしまっている私に、「ちょっと!押してけて!何してらって!!オラ、こったなことされたことないよ!人、バカにして!!」とヒートアップするキヨ子さん。ますますためらってしまう私。
「何してらって!!人、バカにして!!」そう叫ばれても“バカになんてしてない!”必死で考えるけど分からない。私が戸惑ってる間も、「人、バカにして!!」が続く。私はさらにだんだんに、もうどうしたらよいか全然分からなくなって、「そんなこと言ったって、どうしたら良いのか全然わかんない!!」とキヨ子さんにぶつけ返すしかない。助けようと駆けつけたハズなのに、ケンカになってしまう。キヨ子さんの全力に、私も全力で返すと、いっつもケンカになる。
そんな「人、バカにして!!」のキヨ子さんもいるかと思えば、表情がコロころコロころ変わって、「稼ぎたいけど、足痛くて稼げねんだけど、稼がねばねんだし・・・」と泣き出しそうになりながら話すキヨ子さん。今まで頑張って、やっと人生ここまで歩いて来られたのだ、ということが感じられた。畑を見にテラスへ出た時には、「トマト、ナス、ピーマン、なってもやってら。東北で一番じゃねぇか?」と、妹さんがやっているという大きな畑を自慢する、誇らしげなキヨ子さんがいる。「ごはん食べねー!」と言いながらも、おやつのプリンは「最高です!!!」と、ニコニコと食べているキヨ子さん。まるで、一日のなかで短編の物語の起承転結が何度もあるみたい。
ある日の夜、薬を飲むか飲まないかで一悶着。「キヨ子さん、これ飲んでけて」に「はい」と一旦は応じてくれたのだが・・・。
いざ飲む段になって、「やっぱり飲まね!なんだか怪しい!」と言う。えっ??「キヨ子さん、いっつも飲んでるやつだよぉ?」と返しても「飲まね!飲まね!」と頑なだ。「寝る前に、これだけ飲んでけてぇ〜」を懇願すると、「何だってや?」と少し軟化。おっ!飲んでもらえるかなと思い、「お医者さんからもらってきた薬だよ〜」と言うと、「飲まね!言うことばり立派ぶりしたってわがねんだ!」と元に戻る。そんな感じでなかなか飲んでもらえず、だんだんに、またしてもケンカになる。
でもそんなケンカしながらも、楽しくなってくる。この後、“飲んでけて”“飲まね!”が、しばらく続いた。すると、私のあまりにしつこい迫りように折れたのか、「んで、貸して!」と結局は薬を飲んでくれた。
「こったなことされたの初めてだ!」ブツブツ言いながら床に入るキヨ子さん。なんだか申し訳なくなってきて、「ごめんね、キヨ子さん」と謝ったら、「お互い様だ」と言ってくれた。そして、「お互い愛しあってればそれでいいのだ」と言った。泣いて、怒ったり、そして笑ったり。いろいろあっても、愛しあってれば、それでいい。そんな言葉にキヨ子さんは、“今”を全力で生きているんだな、と感じる。毎日がドラマチックだ。
別のある日。荷物をまとめ、カバンに詰め込み、部屋から這って出てきたキヨ子さん。そのまま、部屋の前で、四つん這いでカバンに突っ伏している。その姿は、まさに悲劇のヒロイン。“ちょっと照明さん、何やってんの!キヨ子さんにもっとスポット当てて!”居るハズのない舞台スタッフに檄の声を飛ばしそうになる。しばらくその姿で死体を演じているものだから、スタッフが何人も入れ替わりキヨ子さんの近くにやってきては、それぞれの役を演じて去っていく。しばらくそれを観ていた私も、“これは私も行かなければ”と、「キヨ子さん、もっとスポットが欲しいよね。私はちゃんとキヨ子さんのこと見ているよ」と伝える。キヨ子さんはゆっくりと顔を上げて「お互いにな」と、ニヤリと一言。“あぁ、これで私も舞台に上げてもらったな”そう、思った。
共に泣き、共に笑い、共に怒り、お互いがお互いを見て。キヨ子さんと過ごす日々はわからないことだらけで、私には理解もできず、言葉にできないこともたくさんある。それでも、そんな一日一日がキラキラと輝いていると感じる。全力のキヨ子さんに引きずり出されて、私も全力で“今”を生きる。そうして“今”を繋がることで、明日がやってくる。そんな日々がずっと続いていけばいいな、と思う。
ある夜 ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2014年7月号】
ショートステイで特養に来られる優子さん(仮名)。きれいな白髪と少し焼けた肌が特徴。そろばんが得意で、若い頃は事務の仕事をしていたそうだ。以前は他の施設を利用していて、お喋り好きで社交的だったのだが、他の利用者さんに手を出したり、怒ったりするということで断られ、銀河の里を利用するようになったということだった。
優子さんは半身麻痺の方で、左手足は動かないものの、右手足を器用に使って車いすを操り自在に動きまわる。それは優子さんのどこかへ遊びに行きたい思いや、家へ帰りたい思いが籠もっている。
優子さんが動く理由はひとつじゃなく色々ある…。外の動きはもちろん、気持ちの動きにも沿いたいと、優子さんのショートステイの際にはユニットスタッフを優子さん対応として一人増やした体制をとっている。
私もそんな優子さんの動きを追いながら過ごしたことが数回ある。歌を歌ったり、本を読んだり、昔話を聞いたり、一緒に昼寝をしたり、優子さんの一日はけっこう忙しい。優子さんが居れる感じの時はすごく楽しめるのだが、「家へ帰る」気持ちが強くなったときは、「帰る!どうして帰られないの!」と怒りをあらわにして、たたいたり、付近にあるものをぶん投げたりする。そんな触れられない優子さんになると、怒りがおさまるのをただ待つしかなくて、苦手な利用者さんだった。
ある夜、私は夜0時までの勤務だった。22時過ぎ頃、優子さんは、布団からもぞもぞ動き出して「助けてー!」と何度も叫んだ。優子さんが誰かを呼びたい時の台詞だ。「どうしたの」と優子さんを車いすに起こす。体の内で何かが渦巻いているようなエネルギーを感じた。それは「怒り」そのものだった。勢い余って車いすで動き出しながら私を問答無用で攻撃する。「どこに行くの、どうしたらいいの?」という私の存在そのもの全てを振り払われる感じがする。
私は業務として、夜中にひとりで動いて怪我をさせるわけにはかないという現実的な思いと、優子さんの気持ちを分かりたい思いで揺らいで苦しくなる。仕方なく後ろをついて車いすを押したりしながら、あてもなく特養内を巡る。
どこかに向かいたい優子さんの気持ちはおさまらない。私は優子さんの気持ちに沿いたいと思いながら振り回される感じで辛くなっていく。でもこのときは、夜の暗闇をもくもくと行かなければならない優子さんと、見えない苦しみを抱えながら一緒に歩いてみようと思った。
途中で、スタッフの万里栄さんと会った。万里栄さんは「優子さん、辛そうだね」と言ってくれた。私はその言葉に「そんなの分かってるよ」と感じてしまって、さらにぐっと苦しくなり、足早に万里栄さんから離れた。しかし、その言葉をきっかけに、私の苦しさではなく、「優子さんの辛さ」に視点が移った感覚があった。とたんに優子さんが別人になった。表面から見える動きの激しい怒りではなく、もっと奥深いところにあって優子さんを支配している怒りを感じ始めた。それまでは優子さんがよく言う「家に帰る」や「男の人に会いに行きたい」という言葉にとらわれていたが、本当は深くて触れられない場所から怒りは湧いているに違いない。実際に玄関を出ようとしてみても、現実に帰りたい気配は優子さんにはなかった。玄関で優子さんは「どうしたの…?寒い、疲れた」と言った。それで部屋に戻った。
部屋に戻ると優子さんは「疲れた」と何度もつぶやく。本当にぐったりしていたが、まだ怒りは消えていなかった。移乗している私の腕に爪をたてて表情も険しくなる。私は悲しくなってきた。怒りでしか表現できないことはある。怒りに支配されると、それは相手にとっても自分にとっても辛い。
私はそのとき食い込む爪の痛さに思わず優子さんの右手を握った。その瞬間なぜかそのお互いの手をずっと繋いでいたい気持ちになった。むしろ手を離すのが不安だった。爪が痛いけれど、手を離したら、また優子さんは見えない怒りの中にひとりになる気がした。優子さんは「何だ!離せ!」と怒って暴れるが、私はどうしてもこの時だけは離したくなかった。そのまましばらくしていると「…寝る」と、あきらめたように眠った。私は何も理解できずモヤモヤしたままだったが、怒りでしか出せない、何か大きなものが動いていると感じてから、優子さんと過ごす時間が少し大事に、いとおしくなった気がした。今までは「追い切れない、よく動くおばあちゃん」でしかなかったのが、もっと繊細に追いたい感じになった。
この二日後の朝、優子さんと顔を合わせた。優子さんはすっきりとしていて、「おはよう!」と独特のイントネーションで挨拶をしてくれた。そして、一緒に朝ご飯を食べた。あの夜の事は忘れているかもしれないが、私の中の優子さんが少し変わったので、優子さんと私の関係も時間も変化したように思う。
優子さんの過去の歴史や人柄を知ってみたくなった。もしかしたら優子さんの闇が少し見えるかも知れない。「知りたい」という気持ちが、この仕事を全うするための責任として、沸いてきている。苦しかった夜は、ほんのわずかなやりとりの時間だったかもしれないが、重要な「時」として私の中に残った。
優子さんは半身麻痺の方で、左手足は動かないものの、右手足を器用に使って車いすを操り自在に動きまわる。それは優子さんのどこかへ遊びに行きたい思いや、家へ帰りたい思いが籠もっている。
優子さんが動く理由はひとつじゃなく色々ある…。外の動きはもちろん、気持ちの動きにも沿いたいと、優子さんのショートステイの際にはユニットスタッフを優子さん対応として一人増やした体制をとっている。
私もそんな優子さんの動きを追いながら過ごしたことが数回ある。歌を歌ったり、本を読んだり、昔話を聞いたり、一緒に昼寝をしたり、優子さんの一日はけっこう忙しい。優子さんが居れる感じの時はすごく楽しめるのだが、「家へ帰る」気持ちが強くなったときは、「帰る!どうして帰られないの!」と怒りをあらわにして、たたいたり、付近にあるものをぶん投げたりする。そんな触れられない優子さんになると、怒りがおさまるのをただ待つしかなくて、苦手な利用者さんだった。
ある夜、私は夜0時までの勤務だった。22時過ぎ頃、優子さんは、布団からもぞもぞ動き出して「助けてー!」と何度も叫んだ。優子さんが誰かを呼びたい時の台詞だ。「どうしたの」と優子さんを車いすに起こす。体の内で何かが渦巻いているようなエネルギーを感じた。それは「怒り」そのものだった。勢い余って車いすで動き出しながら私を問答無用で攻撃する。「どこに行くの、どうしたらいいの?」という私の存在そのもの全てを振り払われる感じがする。
私は業務として、夜中にひとりで動いて怪我をさせるわけにはかないという現実的な思いと、優子さんの気持ちを分かりたい思いで揺らいで苦しくなる。仕方なく後ろをついて車いすを押したりしながら、あてもなく特養内を巡る。
どこかに向かいたい優子さんの気持ちはおさまらない。私は優子さんの気持ちに沿いたいと思いながら振り回される感じで辛くなっていく。でもこのときは、夜の暗闇をもくもくと行かなければならない優子さんと、見えない苦しみを抱えながら一緒に歩いてみようと思った。
途中で、スタッフの万里栄さんと会った。万里栄さんは「優子さん、辛そうだね」と言ってくれた。私はその言葉に「そんなの分かってるよ」と感じてしまって、さらにぐっと苦しくなり、足早に万里栄さんから離れた。しかし、その言葉をきっかけに、私の苦しさではなく、「優子さんの辛さ」に視点が移った感覚があった。とたんに優子さんが別人になった。表面から見える動きの激しい怒りではなく、もっと奥深いところにあって優子さんを支配している怒りを感じ始めた。それまでは優子さんがよく言う「家に帰る」や「男の人に会いに行きたい」という言葉にとらわれていたが、本当は深くて触れられない場所から怒りは湧いているに違いない。実際に玄関を出ようとしてみても、現実に帰りたい気配は優子さんにはなかった。玄関で優子さんは「どうしたの…?寒い、疲れた」と言った。それで部屋に戻った。
部屋に戻ると優子さんは「疲れた」と何度もつぶやく。本当にぐったりしていたが、まだ怒りは消えていなかった。移乗している私の腕に爪をたてて表情も険しくなる。私は悲しくなってきた。怒りでしか表現できないことはある。怒りに支配されると、それは相手にとっても自分にとっても辛い。
私はそのとき食い込む爪の痛さに思わず優子さんの右手を握った。その瞬間なぜかそのお互いの手をずっと繋いでいたい気持ちになった。むしろ手を離すのが不安だった。爪が痛いけれど、手を離したら、また優子さんは見えない怒りの中にひとりになる気がした。優子さんは「何だ!離せ!」と怒って暴れるが、私はどうしてもこの時だけは離したくなかった。そのまましばらくしていると「…寝る」と、あきらめたように眠った。私は何も理解できずモヤモヤしたままだったが、怒りでしか出せない、何か大きなものが動いていると感じてから、優子さんと過ごす時間が少し大事に、いとおしくなった気がした。今までは「追い切れない、よく動くおばあちゃん」でしかなかったのが、もっと繊細に追いたい感じになった。
この二日後の朝、優子さんと顔を合わせた。優子さんはすっきりとしていて、「おはよう!」と独特のイントネーションで挨拶をしてくれた。そして、一緒に朝ご飯を食べた。あの夜の事は忘れているかもしれないが、私の中の優子さんが少し変わったので、優子さんと私の関係も時間も変化したように思う。
優子さんの過去の歴史や人柄を知ってみたくなった。もしかしたら優子さんの闇が少し見えるかも知れない。「知りたい」という気持ちが、この仕事を全うするための責任として、沸いてきている。苦しかった夜は、ほんのわずかなやりとりの時間だったかもしれないが、重要な「時」として私の中に残った。
「三人の旅」★特別養護老人ホーム 高橋愛実【2014年7月号】
私はこの春、しばらく働いた東京からふるさとに戻ってきて、銀河の里に就職した。全く経験のなかった介護現場は戸惑いも多かった。特に当初の配属になったユニット「オリオン」は、スタッフ側から積極的に繋がろうとしなくても、利用者の方から言葉や感情が嵐のようにこちらに飛びかかってくる。「家に帰りたい!」「やめろー!」「頭が痛い!」「ちょっとー!」と呼ぶ声があちらこちらで飛び交う。利用者同士の喧嘩もよくあり、何もしなくても何かが起きてしまう。その目まぐるしさに呆然としてしまうことがしばしばあった。
6月に「オリオン」から「ほくと」へ異動になった。「ほくと」はオリオンの現実的な会話とは打って変わって、利用者はそれぞれ自分の世界を淡々と生きている感じで、話しかけてもこころのチューニングが合わないと返事が来ないことが多い。返事があったとしても別の次元からの言葉であったりするので、理解することを保留にして、一旦どこかに沈ませておくこともある。こちらから繋がろうと意識してアクションを起こさないと、交わりを持つことがなかなか難しい印象があった。
そんなある日、利用者の方から私を動かしてくれるような出来事があった。夕飯を食べ終わったしげおさん(仮名)は「家さ帰る!」と言いながら車椅子を動かしはじめる。私は市蔵さん(仮名)の食介中で、なかなか食がすすまず辛そうな市蔵さんの表情と、家に帰ろうと動くしげおさんに、心が落ち着かず申し訳ないような気持ちになっていた。そんなときタエ子さん(仮名)が側に来て、市蔵さんに「帰りましょう!」と小声でささやいた。一緒にいる私のことはちらりとも見ずに、仲間であるかのように市蔵さんだけに何度も「家に帰りましょう」と言い続けた。当初、そう言われた市蔵さんは唐突なので驚き困惑した表情になったが、どこか大事な話をされていると理解しているように見えた。
そのうちタエ子さんは私にも声をかけてきた。「家に帰ります」「もう遅いですし今夜はここに泊まりましょう」と説得しても「じいとばあがいますから」「帰ります」と真剣なまなざしで訴えてくる。今まで見たことがない切迫した様子のタエ子さんに私はたじろいだ。しげおさんの動きも止まらない。利用者さんたち全員が「わたしたちの家はここではない、だからここから出て行く」と言っているかのように思えてきて、私は突然、利用者との距離を感じ、一瞬ぞくっとした感覚になった。
そのときユニットリーダーの万里栄さんが「しげおさんとタエ子さんと行ってくればいいよ」と言ってくれた。そうか私も一緒に行っていいのか、とホッとして少し肩の荷が降りた。リビングは寛恵さんと万里栄さんに守ってもらい、私はしげおさんとタエ子さんと3人で玄関を目指し歩いて行った。外はもう薄暗く、通路の向こうに見えるリビングの灯りが玄関を照らしていた。「玄関は鍵かかかっていて開かない」と言うと、「ぶっこわせ!」としげおさん。車椅子に座って腕を組んでいる本人は一見冷静だが、言ってることはかなり過激だ。「どうしましょう、タエ子さん」と相談すると「大工さんを呼びましょうか」と現実的なタエ子さん。「大工さんいないですよ」と言うと「大工は俺だ!」としげおさんは言い、ガンガン!と玄関を足で蹴りはじめた。しげおさんは実際に若い頃大工の仕事をしていたのだ。タエ子さんはしげおさんのその様子を真剣に見守っている。
外へ出ようとする勢いのふたりの様子を、私はハラハラしながら見ていたが、玄関ではなく、別のルートを探そうと提案してみる。「やっぱりここは開かない扉みたいだよ」と言った。するとしげおさんは少し考えたあと「こっちじゃねえ!あっちだ!」と、灯りがついているあっち(リビング)に行き先を変えた。タエ子さんも「あっちですね」と一緒に行く。
リビングはいつものまったりとした雰囲気で三人を待っていてくれた。ところがしげおさんはまだ目的地に行き着いていないようで、車椅子をどんどん動かしている。こうなったらとことん着いていくしかないと思い、しげおさんの案内するままについていくと、タエ子さんの部屋に入り窓に突き当たった。「開けろ」と言うので言われた通り窓を開けると、「おりろ」としげおさんが言う。窓を開けた先は中庭になっている。そこは実際に下に降りれるようにはなっていないのだが、しげおさんは何かあるとき「おちる」と言う言葉を使う。もうこれは行かねばならないと腹を決め、私は窓をにじり降りて中庭に出た。
庭に出た私は、窓を境界にしげおさんと会話した。そのときのしげおさんはリビングにいるときのいつものしげおさんではなかった。中庭の景色は特養ではなく何か別の世界に来たようだった。
「しげおさんも来る?」と言うと、しげおさんは車椅子から立ち上がり窓から出ようと手をかけて壁をよじのぼろうとする。しげおさんの言う「おちる」のはここなんだと感じた。そのどこかへ「行く」とも、移動するともとれるしげおさんの「おちる」をそのとき私は体験していたのかもしれない。ただ、現実にはしげおさんがその窓から裏庭に出るのは身体的に無理がある。私は「これ以上は出れないよ!」と声をかけ、少し離れたところから万里栄さんも「戻ろうよ!」と呼んでくれた。しげおさんは、しばらくしてハッとしたような顔になる。しばらくして私も同じ窓をよじのぼってタエ子さんの部屋に戻った。そのあとは、しげおさんは徐々に落ち着きを取り戻し、もう動かなくていいようだった。お茶を飲みトイレに行くと、そのままリビングでいつものように眠りに落ちた。
夢オチの結末ではないのだが、まさにこのときの三人の旅は、しげおさんの見た夢であったかのようだった。リビングを守ってくれたスタッフとタエ子さんの存在も大きい。その夜は、タエ子さんはしげおさんが眠りに落ち着くまでずっと起きて見守っていてくれたらしい。
私がしげおさんの代わりに窓の外に出たことで、しげおさんの「おちる」が果たされたのかどうかはわからない。ただタエ子さんの「家に帰りましょう」がきっかけとなり、しげおさんと一緒に私を何かの旅に連れて行ってくれたのは確かだ。私はどこに連れて行ってもらったのだろう。ある夜の不思議な出来事だった。
6月に「オリオン」から「ほくと」へ異動になった。「ほくと」はオリオンの現実的な会話とは打って変わって、利用者はそれぞれ自分の世界を淡々と生きている感じで、話しかけてもこころのチューニングが合わないと返事が来ないことが多い。返事があったとしても別の次元からの言葉であったりするので、理解することを保留にして、一旦どこかに沈ませておくこともある。こちらから繋がろうと意識してアクションを起こさないと、交わりを持つことがなかなか難しい印象があった。
そんなある日、利用者の方から私を動かしてくれるような出来事があった。夕飯を食べ終わったしげおさん(仮名)は「家さ帰る!」と言いながら車椅子を動かしはじめる。私は市蔵さん(仮名)の食介中で、なかなか食がすすまず辛そうな市蔵さんの表情と、家に帰ろうと動くしげおさんに、心が落ち着かず申し訳ないような気持ちになっていた。そんなときタエ子さん(仮名)が側に来て、市蔵さんに「帰りましょう!」と小声でささやいた。一緒にいる私のことはちらりとも見ずに、仲間であるかのように市蔵さんだけに何度も「家に帰りましょう」と言い続けた。当初、そう言われた市蔵さんは唐突なので驚き困惑した表情になったが、どこか大事な話をされていると理解しているように見えた。
そのうちタエ子さんは私にも声をかけてきた。「家に帰ります」「もう遅いですし今夜はここに泊まりましょう」と説得しても「じいとばあがいますから」「帰ります」と真剣なまなざしで訴えてくる。今まで見たことがない切迫した様子のタエ子さんに私はたじろいだ。しげおさんの動きも止まらない。利用者さんたち全員が「わたしたちの家はここではない、だからここから出て行く」と言っているかのように思えてきて、私は突然、利用者との距離を感じ、一瞬ぞくっとした感覚になった。
そのときユニットリーダーの万里栄さんが「しげおさんとタエ子さんと行ってくればいいよ」と言ってくれた。そうか私も一緒に行っていいのか、とホッとして少し肩の荷が降りた。リビングは寛恵さんと万里栄さんに守ってもらい、私はしげおさんとタエ子さんと3人で玄関を目指し歩いて行った。外はもう薄暗く、通路の向こうに見えるリビングの灯りが玄関を照らしていた。「玄関は鍵かかかっていて開かない」と言うと、「ぶっこわせ!」としげおさん。車椅子に座って腕を組んでいる本人は一見冷静だが、言ってることはかなり過激だ。「どうしましょう、タエ子さん」と相談すると「大工さんを呼びましょうか」と現実的なタエ子さん。「大工さんいないですよ」と言うと「大工は俺だ!」としげおさんは言い、ガンガン!と玄関を足で蹴りはじめた。しげおさんは実際に若い頃大工の仕事をしていたのだ。タエ子さんはしげおさんのその様子を真剣に見守っている。
外へ出ようとする勢いのふたりの様子を、私はハラハラしながら見ていたが、玄関ではなく、別のルートを探そうと提案してみる。「やっぱりここは開かない扉みたいだよ」と言った。するとしげおさんは少し考えたあと「こっちじゃねえ!あっちだ!」と、灯りがついているあっち(リビング)に行き先を変えた。タエ子さんも「あっちですね」と一緒に行く。
リビングはいつものまったりとした雰囲気で三人を待っていてくれた。ところがしげおさんはまだ目的地に行き着いていないようで、車椅子をどんどん動かしている。こうなったらとことん着いていくしかないと思い、しげおさんの案内するままについていくと、タエ子さんの部屋に入り窓に突き当たった。「開けろ」と言うので言われた通り窓を開けると、「おりろ」としげおさんが言う。窓を開けた先は中庭になっている。そこは実際に下に降りれるようにはなっていないのだが、しげおさんは何かあるとき「おちる」と言う言葉を使う。もうこれは行かねばならないと腹を決め、私は窓をにじり降りて中庭に出た。
庭に出た私は、窓を境界にしげおさんと会話した。そのときのしげおさんはリビングにいるときのいつものしげおさんではなかった。中庭の景色は特養ではなく何か別の世界に来たようだった。
「しげおさんも来る?」と言うと、しげおさんは車椅子から立ち上がり窓から出ようと手をかけて壁をよじのぼろうとする。しげおさんの言う「おちる」のはここなんだと感じた。そのどこかへ「行く」とも、移動するともとれるしげおさんの「おちる」をそのとき私は体験していたのかもしれない。ただ、現実にはしげおさんがその窓から裏庭に出るのは身体的に無理がある。私は「これ以上は出れないよ!」と声をかけ、少し離れたところから万里栄さんも「戻ろうよ!」と呼んでくれた。しげおさんは、しばらくしてハッとしたような顔になる。しばらくして私も同じ窓をよじのぼってタエ子さんの部屋に戻った。そのあとは、しげおさんは徐々に落ち着きを取り戻し、もう動かなくていいようだった。お茶を飲みトイレに行くと、そのままリビングでいつものように眠りに落ちた。
夢オチの結末ではないのだが、まさにこのときの三人の旅は、しげおさんの見た夢であったかのようだった。リビングを守ってくれたスタッフとタエ子さんの存在も大きい。その夜は、タエ子さんはしげおさんが眠りに落ち着くまでずっと起きて見守っていてくれたらしい。
私がしげおさんの代わりに窓の外に出たことで、しげおさんの「おちる」が果たされたのかどうかはわからない。ただタエ子さんの「家に帰りましょう」がきっかけとなり、しげおさんと一緒に私を何かの旅に連れて行ってくれたのは確かだ。私はどこに連れて行ってもらったのだろう。ある夜の不思議な出来事だった。
祈り ★特別養護老人ホーム 佐藤万里栄【2014年7月号】
「今年の迎え火を盛大にやりたい」と、ユニットすばるのスタッフ宮さんが言った。
私は一瞬、「何故?」と聞きそうになったが、すぐに、宮さんがなぜそう言ってるのかが分かった。
宮さんは、去年の夏に亡くなったすばるの利用者、新一さん(仮名)への想いがあるのだ。
新一さんは、すばるの中でもひときわ威厳を放つ人だった。地元のリーダーとして地域の中でもその存在は大きく、人望もあって、彼に支えられてきた人も少なくなかったようだ。最期は特養のユニットで里の若いスタッフを鍛え、育ててくれて、今でも心の支えになっている存在だ。
そうしたスタッフの中でも特に宮さんは、新一さんの居室担当だったこともあり、思い入れは強かった。まるで理想の父親のようでもあり恋人のようでもあり、お互いがお互いを認め合っているような関係に見えた。
宮さんの新一さんへの想いは、ご本人が亡くなった今でもひときわ輝いていて、私はそこにある祈りに、時たまハッと息をのむことがある。今回のこの迎え火のこともそうだった。
「新一さんは、他にも会わなければいけない人がたくさんいるから、大きく迎えないと気づいてもらえないかもしれない」と宮さんは言う。
いつも抱いている新一さんへの想いを「迎え火」の時に傾けて、あの世とこの世が繋がるその時に、再会への想いを込めているにちがいない。
宮さんは「太鼓をたたいたりもしたい」とも言う。去年の夏、すばるのベランダで花火をした時に、銀河の里のさんさ隊がさんさを踊った。ベッドに寝たままベランダに出た新一さんは宮さんがさんさを踊るのを見つめていた。その時の宮さんは、新一さん専属の踊り子のように私は感じた。
私はその時のことを思い出して、宮さんに浴衣で踊ってほしいと提案した。宮さんはそうしたいと言ってくれた。
宮さんはきっと日々新一さんに想いをはせながら祈っているのだろう。しかしその祈りは、慌ただしい日常の中では目には見えない。繊細な祈りは、日常の中に組み込まれてしまえば、一瞬にして掻き消えてしまいそうだ。だからこそ、そうした祈りは『迎え火』という儀式をもって昇華されることで、その日々の祈りの中に、いつでもその人がいるということに、改めて心よせることができるのだと思う。
私は一瞬、「何故?」と聞きそうになったが、すぐに、宮さんがなぜそう言ってるのかが分かった。
宮さんは、去年の夏に亡くなったすばるの利用者、新一さん(仮名)への想いがあるのだ。
新一さんは、すばるの中でもひときわ威厳を放つ人だった。地元のリーダーとして地域の中でもその存在は大きく、人望もあって、彼に支えられてきた人も少なくなかったようだ。最期は特養のユニットで里の若いスタッフを鍛え、育ててくれて、今でも心の支えになっている存在だ。
そうしたスタッフの中でも特に宮さんは、新一さんの居室担当だったこともあり、思い入れは強かった。まるで理想の父親のようでもあり恋人のようでもあり、お互いがお互いを認め合っているような関係に見えた。
宮さんの新一さんへの想いは、ご本人が亡くなった今でもひときわ輝いていて、私はそこにある祈りに、時たまハッと息をのむことがある。今回のこの迎え火のこともそうだった。
「新一さんは、他にも会わなければいけない人がたくさんいるから、大きく迎えないと気づいてもらえないかもしれない」と宮さんは言う。
いつも抱いている新一さんへの想いを「迎え火」の時に傾けて、あの世とこの世が繋がるその時に、再会への想いを込めているにちがいない。
宮さんは「太鼓をたたいたりもしたい」とも言う。去年の夏、すばるのベランダで花火をした時に、銀河の里のさんさ隊がさんさを踊った。ベッドに寝たままベランダに出た新一さんは宮さんがさんさを踊るのを見つめていた。その時の宮さんは、新一さん専属の踊り子のように私は感じた。
私はその時のことを思い出して、宮さんに浴衣で踊ってほしいと提案した。宮さんはそうしたいと言ってくれた。
宮さんはきっと日々新一さんに想いをはせながら祈っているのだろう。しかしその祈りは、慌ただしい日常の中では目には見えない。繊細な祈りは、日常の中に組み込まれてしまえば、一瞬にして掻き消えてしまいそうだ。だからこそ、そうした祈りは『迎え火』という儀式をもって昇華されることで、その日々の祈りの中に、いつでもその人がいるということに、改めて心よせることができるのだと思う。
少女性−憧れと嫌悪−を考える ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2014年7月号】
2014年5月号で「母性」について書いたが、関連して今回は「少女」について考えてみた。
【魔法少女と魔女にみる少女性】
巷で『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメが流行っているとのことで気になっていた。原作はコミックで、2011年、深夜のテレビ放映で高視聴率を記録。アニメファンの域を超え、社会現象化し、同年の「文化庁メディア芸術祭アニメーション部門」で大賞を獲得。他にも国内外での賞を総なめにしたらしい。翌2012年には、テレビシリーズの内容を2編に分けた総集編が劇場公開された。その後も人気は衰えず、2013年秋、劇場版の新作『叛逆の物語』が公開された(原作:Magica Quartet/脚本:虚淵玄/キャラクター原案:蒼樹うめ/アニメーション制作:シャフト/異空間設計:劇団イヌカレー/総監督:新房昭之)。
私が映画館に足を運んだのは公開からすでに一ヶ月ほど経ってからだったが超満員だった。さらにその約一ヶ月後に他の映画館で二度目を観たのだが、そのときも満席だった。客層は、小学生の家族連れから、いかにもアニメファンといったお兄様おじ様らの大人も結構いるなかで、中高生くらいの女の子たちが友達同士で来ているのが目立っていた。物語に登場するのは、まさに中学生、可愛らしい“少女”たちが活躍する。
一見、何の変哲もないどこにでもいそうな少女たちが、キラキラの魔法を使って大変身、みんなで力を合わせて魔女を退治し、街を守って大活躍!といった、いわゆる人気の「美少女もの」や「変身ヒロインもの」に見える。しかし、ショッキングなストーリー展開と、独創的な、甘いけどどこか毒入りなセンスを感じさせる映像世界にぐいぐいと呑み込まれる感じになる。可愛いくて華奢だけど闇や棘を隠し持っている、そんな登場人物らの心理描写にもリアルな叫びがあって、他人事ではない痛みを感じて苦しくもなる。鑑賞後の身体の重さと偏頭痛は、まるで生理のときの体感とよく似ていて、ぼぉ〜とした微熱が全身に残る感じがある。理不尽に荒れる女の怒りそのもののような作品だとも感じた。
二度、三度と観るうちに、その“微熱のようなモノ”が何だったのか、だんだんとわかってくるような感覚があった。少女によって引き出される“私自身のなかの少女”に対するたまらない嫌悪感と、“少女性”そのものへの強い憧れ。ものすごく惹かれるのに、吐き気がするくらい気色悪い・・・。正反対の感情が同居する、ちょっと面倒臭いエネルギー。それが、理屈も根拠もぶっ飛ばして爆発しちゃうような、なんとも暴力的で厄介な“熱”だったかもしれない。
登場人物名が幾分ややこしい。ともえ・まみ/さくら・きょうこ/みき・さやか/かなめ・まどか/あけみ・ほむら・・・名字も名前みたいだから、誰が誰だか混乱する。でも、ただの可愛らしいネーミングってだけじゃない気がする。(名前がふたつあるんだ、自分の中に違う人物がふたり居るってことかも・・・)相反する人格のどちらも紛れもなく本当の自分で、自我が引き裂かれるような痛みを抱える生き物。あるいは、傷つきやすいこころや本体は身体から切り離して、綺麗な宝石に閉じ込め、抜け殻になった生き物。それが“少女”というモノなんだろうか・・・。そんなふうに考えていたら、タテタカコさんの歌が思い浮かんだ。♪これからも女の子のお伽話 続くの? 成長を後戻りした小悪魔に仕えるのかしら? /出ておいで出ておいで 逸話の中じゃ生きられない /女の子の魔法は 女の子しか解けない♪
ごく普通の女の子が、大切な人のために希望を願って、その代償に妬みや恨み、呪いを引き受け、魔女と戦う運命を背負う魔法少女になる・・・という設定は、私には、“自分自身と向き合う戦い”の象徴に思えた。大切なモノを守るために魔女をやっつけるという大義名分はあっても、こころが弱いと、ついなんぼでも自分の都合のいいように魔法を使ってしまえる。時間を止めたり巻き戻したりできる魔法の武器に頼って、いつまでも少女の結界に閉じ籠もり続けたら、身体から離れたこころは、徐々に呪いを溜め込んで、やがて真っ黒に濁り、いつか自分でも気がつかないうちに、絶望をまき散らす魔女になってしまう。自分自身の記憶を書き換えて己を騙し、偽りの殻の中で完結する心地良さに浸っちゃって、他人の言うことなんかには耳も貸さず、いつまでも大人になんかなりたくないと叫んでいるだけ。(時折ひょっこり顔を出す、お子ちゃまな私の我がままっぷりが、まさにこれだ・・・)と、自分の絶望を見た気がして愕然としてしまった。
魔法少女と魔女は、その希望と絶望の両方を抱えた表裏一体の存在。その運命は、「円環の理(ことわり)」に回収されるという。その大いなる力の救済に、身を委ねるのか抗うのかで、道は大きく異なってくるように思う。「欲望と秩序、あなたはどっちを大切にする?」なんて問いを発すること自体が大変な我がまま、子供っぽさという暴力なんだ。ぜんまい仕掛けの歯車で時間も空間も身勝手に操っているうちに、大いなる宇宙の摂理から外れいく。そうやって、いつまでも都合のいいこころの中の世界に逃げ込んで甘えていては、やがて魔女になってしまう。誤魔化し続けても、とっくにボロが出ていることに、そうそういつまでも知らんぷりはできない。外からの干渉を遮断した世界で、つじつまの合わなくなった因果の糸に絡め取られ歪んでいく自分に、息苦しくなるのは当の本人なのだ。少女は何と戦い、どう成熟し、大人になっていけばいいんだろう。それができなければ本当には世界は成り立っていかない。いつまでも我がままばっかり言ってると、希望や祈りも絶望や呪いに呑まれてしまうだけだ。
【成長の拒絶】
少女の我がまま、暴力性をどう克服するのか? 未成熟な少女が、大人の女性、新しい何かを生み出す“母なるもの”となっていく成長過程には、異物としての異性の侵入を受け入れる必要がある。傷つくことから逃げてばかりでは済まない。傷つき折れてしまう弱さだけでも成り立たない。苦痛や傷を自らの心身に引き受けていくということは、分離された身体とこころを繋いでゆくことだ。“傷・涙・汗・血”などを伴った深い体験(ジェイムズ・ヒルマンは“塩”の体験と述べている)によって、分かたれたモノとモノとのあいだが繋がれるとき、そこに、たましいが輝いてくる。その“たましいの体験”の瞬間を積み重ねていくことこそが、“成熟”を育むのではないか。
しかし、そもそも“少女”は成長などしたがってはいないのかもしれない。本田和子先生は、少女とは、「成長とは無縁の純粋の結晶」であり「成長を拒否して夭逝する存在」だと言う。『まどか☆マギカ』でも主役級の少女が物語の序盤にあっさり死んでいく。ギリシャ神話の少女ペルセポネは、冥界の王ハデスに連れ去られ死の世界で生きる。彼女の母、豊穣の神デメテルは激怒し、嘆き悲しみ、大地に実りをもたらすのをやめてしまう。また、シェイクスピアの『ハムレット』に登場する少女を描いた、水死の『オフィーリア』(J.E.ミレー画)は、永遠の少女のまま水の中に浮かび続けることで人々を魅了している。
“少女たちがそのさながらであり続けるとは、「成熟」とその結果としての「産むこと」の拒否であり、自身の肉体を「豊穣」のしるしから無縁に置くという、逸脱したありように他ならない / 少女が少女として死んだとき、「再生」は機会を失い、そのゆえに「豊穣」のしるしは、世界に絶縁を告げたのである。このとき、一般に女性のものとされる「時の円環」、「生→死→再生」とめぐるそれは、少女によって無化された”(本田和子)。
生きること、産むことの拒否は、母なる大地とは無縁の別世界、死の世界を漂うことだろう。“女性性”のなかのとりわけ“母性”は、「子を産む胎」として秩序体系に組み込まれるが、「成熟」も「産むこと」も拒否する“少女性”は、その体系から逸脱し浮遊し続ける。
【地獄マンダラにみる女性の罪】
京都の建仁寺の地獄絵を見たことがある。現世で犯した罪の内容によって、地獄で受ける罰も決まっているそうだが、釜茹でや針の山などの拷問がずらりと並ぶ阿鼻叫喚のなかに、妙に静かな場面が目に付いた。竹藪のなかに何人かの女の姿だけで、周りには罰を与える獄卒(地獄の鬼)たちもいない。特別に血を流したり叫んだりしている様子もなく、ただめそめそと泣いているように見える。よく見ると、そのそばに「不産女」と書いてあった。愕然とした。子を産まずに死ぬことは罪なのか? そしてその罰も、身体を引き裂かれたり焼かれたりするような地獄の残酷絵図からは、ぽっかりと浮いて見える。地獄からも逸脱してしまう存在・・・。
子供のうちに死んだ者は、賽の河原で石を積む。親より先に死ぬという親不孝をした罪を負い、積んだ石で償う。しかし、その償いも、積み終わろうかという直前に獄卒によって崩されてしまう。その業苦からは永久に逃れられない。それでも、獄卒にさえ見放され侘びしさに満ちた、産まない女の罰よりはまだましだと思った。竹林の根を、灯心(とうしん=あんどんや蝋燭の芯)を使って掘らされる永遠の不毛に、ただ涙する女たち。寂しい。切り刻んだりすり潰したり皮を剥いたり、ちゃんと痛めつけてももらえない。
「不産女(うまずめ)地獄」は「石女(うまずめ)地獄」とも書く。生産性の無い不毛さが、硬く閉じた石に象徴されているように思う。ちなみに、「血の池地獄」は全ての女人が墜ちる地獄だそうで、その罪は“月経や出産による出血が不浄をもたらすことによる血穢れの罪”とされている。少女から大人の女性になっていく過程、成長すること自体が罪なのか? 女として生まれたことそのものが重大な罪悪のようだ。かつて、自分の身体が変化していく思春期の不安のなか初潮を迎えた私に、母は赤飯を炊いて「お母さんと同じになったね」と喜んでくれた。そうやって、成長を祝福された体験があることは、きっとすごく幸せなことなんだろう。たとえ、逃れられない“女人としての原罪”を負っていても。
【逃がされた女性性】
『古事記』では、ヒルコ(国生みの男神イザナギと女神イザナミの間に生まれた最初の子)は、異形の態で生まれたため不吉だとされ、恵みの大地に触れさせまいとでもするように、直ちに水に流され追放されてしまう。交合の契りの際、女神の方が先に言葉を発したことが災いして良からぬ子が生まれたとされている。まるで「男性原理優位の掟に則らない限り、正しいモノは生まれない」とでも言うかのようだ。
『竹取物語』は“日本最古の物語”だそうだが、原作が生まれた当時、王朝文化が繁栄した奈良〜平安時代初期。女神である天照大御神を皇祖神とする国も、いよいよ男性原理の力が強くなってくる。王権の下に制度化の進む秩序社会にあって、母性性や女性的なモノの価値は補佐的、あるいは政治の道具となって、後ろに控えるようになった。父性原理優勢の社会で、「閉じられていく女性性をなんとか守ろう、秩序社会の業から遠ざけよう」とした意味合いがあったのかどうか、物語は、姫を少女のままに月へ逃がした。現代の甘ったれ少女が、少しでも嫌なことがあろうものなら「月に帰っちゃおうかなぁ〜♪」なんて(可愛く言ったってダメ、図々しくて身勝手な正体はもうすっかりバレている)、そんな我がままを言ってるだけなのとは訳が違う。文明社会のなかで“文化的営み”が男性性と同一視される限り、女性性はその原始的な“身体的営み”のゆえに、自然により近く動物的と劣位される。あえて逃がすことでしか、アニマ(※1)の救出は不可能だった、ということなのか?
かぐや姫に象徴される“女性性”は、応急処置的に(そして過保護的に?!)、少女のまま月の世界へ逃げ帰ってしまったが、生まれ、生き、成長し、産み出していく可能性まで絶たれたとは思いたくない。一度は逃げたものの、もう充分に守られ力を蓄えたのではないのか。そろそろちゃんと“こっち”に戻ってきて、何かを守り育んでいく者になっていい頃合いだろう。ここからは先は、男性性と女性性の統合の物語が必要なんだと思う。実際の性別や年齢、子育て経験の有無、そんなものはもはや関係ない。男女を問わずいつまでも大人になりきれない少女的な人ばっかりだ。現代の病だろうか。世界を構築する“父性”と“母性”を獲得していく戦いの物語に、それぞれが向き合っていく必要があると感じる。
【統合の先に豊かな道を信じて】
『まどか☆マギカ』とちょうど同時期に観た映画『かぐや姫の物語』(原案・監督:高畑勲/脚本:坂口理子)に登場する姫も、見ようによれば見事な我がまま女だ。求婚者に無理難題を押しつけて、誰のモノにもなろうとせず、育ててくれた翁と媼の老後の世話もしないで、さっさと月へ帰ってしまう。
なぜ、今、最古の物語を取り上げたのか? 原作では触れられていない、主人公かぐや姫の心情に想いを馳せ、そこから構想を得た作品なのだと語る高畑監督。月の世界(=死の世界)の姫は、かつて地球の世界(=生の世界)に降り立ったことのある天女から、色彩に溢れ生命に満ちた地上の話を聞き、強く憧れる。姫は、禁を破って天女の記憶を呼び覚まし、地上の思い出によって天女を苦しめたという罪を問われるが、その罰として、いのちあるモノの苦しみや穢れを自らも味わうべく地上へ降ろされた。人間の愛も憎も、善さも愚かさも知ってなお、「生きる手応えがほしい」と願った姫でさえ、「天地(あめつち)よ、わたくしを受け入れて
と懇願してもなお、こころ沸き立ついのちの記憶を捨てて、こころ乱されることのない月の世界に還って行く他に、道はなかったのだろうか。
猛烈に自分勝手だけど、どこまでもピュア。純粋な祈りと希望を願う姿、たとえそれが我がままであっても、迷うことなく貫き続ける。それが“少女”というモノなのか。最後まで純粋な存在、そこに強く憧れる。でも、純粋なだけじゃ・・・、いつしか自分のことが大嫌いになっていく。何かを生み出していく力にはなれない、硬く閉じ籠もっていくしかない。いつまでも甘えている自分の姿が、醜く感じられて居心地が悪くなってくる。逆に、特別「大人になりたくない」とか、意固地になってだだをこねる必要はない。わざわざ魔女になってしまわなくたって、変容していく自分自身を受け入れるだけでいいのでは? そこには、成熟していく苦しい戦いが発生する。苦しいけれど、誰かや何かのせいにして文句を言ってないで、自分自身と対峙する勝負に挑んでいけばいい。大人になっちゃったって純粋でいられるはずじゃない? また、そのくらいじゃなきゃ弱い、偽りのピュアだ、身勝手な側面だけが際立って、返って始末が悪い。少女とは、そのようなか弱く危うい、そのくせとんでもなく頑なで扱いにくい、特異な存在なのかもしれない。少女の抱える祈りと呪いのアンバランスが放つ、とんでもないエネルギーを、なんとか“生み出すチカラ”にしたいのだけれど・・・。
そのバランスを調整する、頼もしい男性原理の侵入を受け入れる度量を持って、己のなかのアニムス(※2)を鍛えていく厳しさが問われる。“ホントにピュアな少女性”を兼ね備えた“カッコイイ大人な母性”を獲得する道程は、「いつまでも純粋でいたい」とかなんとか、甘えたことだけ言ってらんない。・・・でしょ? もう! 女は自分次第!
魔法少女あけみほむらは、その純粋な我がままと理不尽なものへの怒りを、最後まで克服することができなかったんだと思う。宇宙の要(かなめ)であり、身体とこころを繋ぐ窓(まど=通路)としての機能を持つ、大いなる存在の力、円環の理(=かなめまどか)に還っていくことすら拒んだ。最愛の人でさえも救いにはなれず、身勝手な「希望より厚く絶望よりも深い愛」を抱いた「神をも蹂躙する悪魔のような存在」になってしまった。それまでは少女たちを利用して実験していたインキュベーター(※3)を、逆に少女が、閉じ籠った世界で膨らみ続ける絶望を処理するために利用する。ニヤリと笑って「協力してもらうわよ」と言う少女にインキュベーは震え上がる。
秩序社会のトップ・帝の求愛さえも、「従わなきゃいけないなら死にます」と断言して蹴散らした姫は、幼い頃の初恋の相手、「捨丸兄ちゃんとだったらやっていけたかも」と思う。しかし、時を逸した。少女の成長過程に不可欠な異なる存在、変容のチャンスを与える侵入者としては、残念ながら、捨丸は機能し得なかった。永遠に少女のまま、色彩を欠いた世界で、産むことも死ぬこともない存在。“真の意味で生きる・死ぬ”ことには繋がっていないと感じる。
けれど、それでも高畑監督は、「この世もまだまだ捨てたもんじゃない、生きるってことはそんなに悪くないというメッセージを子供たちに伝えたい」とインタビューに応えていた。いのちを謳歌しきれず月へ還った少女が憧れ続けるこの地に、未来の希望と可能性を信じている大人がいることに感動する(やっぱり何かモノを創っている人、生み出している人はカッコイイ!)。
特養のユニットで、一緒に添い寝しておしゃべりするひととき、私の手を握ったり髪を撫でたりするユキさん(仮名)は、母のようでもあり乙女のようでもある。
おめさん、いいなは〜
まだ若いんだ、これからの人なんだ
世界は広いんだもの、この先きっと、
いろんなことがいっぺぇあるよ
おら、もう90だけど、まだまだ頑張ってるよ〜
おめさんも頑張って、うんと苦労して、ね
男性も女性も自らの内面に何を育てていくか、そろそろ真剣に考えた方がいい。甘えたジャリばっかりうじゃうじゃ湧いて出て、ずうずうしいオバハンとしょぼくれたオジサンしかいない・・・なんてぇことじゃ、とても未来に希望はない。高齢化社会をバネに成熟したカッコイイ大人が育って、豊かな文化を生み出し伝えていけないものだろうか。
※1)アニマ:男性の無意識人格の女性的な側面。男性の有する未発達のエロス(関係の原理)。
※2)アニムス:女性の無意識人格の男性的な側面。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)。
※3)インキュベーター=男性性か?ちなみに、incubate:卵を抱く・かえす/計画・考えなどを生み出す の意。
参考 『少女浮遊』(弘文堂)
『オフィーリアの系譜』(青土社)著者:本田和子(ほんだますこ)お茶の水女子大学教授 児童学専攻
『かぐや姫幻想』(森話社)著者:小嶋菜温子(こじまなおこ)立教大学教授 中古文学専攻
『地獄の本』(洋泉社MOOK)
『女の子』作詞・作曲:タテタカコ(CD『そら』より
【魔法少女と魔女にみる少女性】
巷で『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメが流行っているとのことで気になっていた。原作はコミックで、2011年、深夜のテレビ放映で高視聴率を記録。アニメファンの域を超え、社会現象化し、同年の「文化庁メディア芸術祭アニメーション部門」で大賞を獲得。他にも国内外での賞を総なめにしたらしい。翌2012年には、テレビシリーズの内容を2編に分けた総集編が劇場公開された。その後も人気は衰えず、2013年秋、劇場版の新作『叛逆の物語』が公開された(原作:Magica Quartet/脚本:虚淵玄/キャラクター原案:蒼樹うめ/アニメーション制作:シャフト/異空間設計:劇団イヌカレー/総監督:新房昭之)。
私が映画館に足を運んだのは公開からすでに一ヶ月ほど経ってからだったが超満員だった。さらにその約一ヶ月後に他の映画館で二度目を観たのだが、そのときも満席だった。客層は、小学生の家族連れから、いかにもアニメファンといったお兄様おじ様らの大人も結構いるなかで、中高生くらいの女の子たちが友達同士で来ているのが目立っていた。物語に登場するのは、まさに中学生、可愛らしい“少女”たちが活躍する。
一見、何の変哲もないどこにでもいそうな少女たちが、キラキラの魔法を使って大変身、みんなで力を合わせて魔女を退治し、街を守って大活躍!といった、いわゆる人気の「美少女もの」や「変身ヒロインもの」に見える。しかし、ショッキングなストーリー展開と、独創的な、甘いけどどこか毒入りなセンスを感じさせる映像世界にぐいぐいと呑み込まれる感じになる。可愛いくて華奢だけど闇や棘を隠し持っている、そんな登場人物らの心理描写にもリアルな叫びがあって、他人事ではない痛みを感じて苦しくもなる。鑑賞後の身体の重さと偏頭痛は、まるで生理のときの体感とよく似ていて、ぼぉ〜とした微熱が全身に残る感じがある。理不尽に荒れる女の怒りそのもののような作品だとも感じた。
二度、三度と観るうちに、その“微熱のようなモノ”が何だったのか、だんだんとわかってくるような感覚があった。少女によって引き出される“私自身のなかの少女”に対するたまらない嫌悪感と、“少女性”そのものへの強い憧れ。ものすごく惹かれるのに、吐き気がするくらい気色悪い・・・。正反対の感情が同居する、ちょっと面倒臭いエネルギー。それが、理屈も根拠もぶっ飛ばして爆発しちゃうような、なんとも暴力的で厄介な“熱”だったかもしれない。
登場人物名が幾分ややこしい。ともえ・まみ/さくら・きょうこ/みき・さやか/かなめ・まどか/あけみ・ほむら・・・名字も名前みたいだから、誰が誰だか混乱する。でも、ただの可愛らしいネーミングってだけじゃない気がする。(名前がふたつあるんだ、自分の中に違う人物がふたり居るってことかも・・・)相反する人格のどちらも紛れもなく本当の自分で、自我が引き裂かれるような痛みを抱える生き物。あるいは、傷つきやすいこころや本体は身体から切り離して、綺麗な宝石に閉じ込め、抜け殻になった生き物。それが“少女”というモノなんだろうか・・・。そんなふうに考えていたら、タテタカコさんの歌が思い浮かんだ。♪これからも女の子のお伽話 続くの? 成長を後戻りした小悪魔に仕えるのかしら? /出ておいで出ておいで 逸話の中じゃ生きられない /女の子の魔法は 女の子しか解けない♪
ごく普通の女の子が、大切な人のために希望を願って、その代償に妬みや恨み、呪いを引き受け、魔女と戦う運命を背負う魔法少女になる・・・という設定は、私には、“自分自身と向き合う戦い”の象徴に思えた。大切なモノを守るために魔女をやっつけるという大義名分はあっても、こころが弱いと、ついなんぼでも自分の都合のいいように魔法を使ってしまえる。時間を止めたり巻き戻したりできる魔法の武器に頼って、いつまでも少女の結界に閉じ籠もり続けたら、身体から離れたこころは、徐々に呪いを溜め込んで、やがて真っ黒に濁り、いつか自分でも気がつかないうちに、絶望をまき散らす魔女になってしまう。自分自身の記憶を書き換えて己を騙し、偽りの殻の中で完結する心地良さに浸っちゃって、他人の言うことなんかには耳も貸さず、いつまでも大人になんかなりたくないと叫んでいるだけ。(時折ひょっこり顔を出す、お子ちゃまな私の我がままっぷりが、まさにこれだ・・・)と、自分の絶望を見た気がして愕然としてしまった。
魔法少女と魔女は、その希望と絶望の両方を抱えた表裏一体の存在。その運命は、「円環の理(ことわり)」に回収されるという。その大いなる力の救済に、身を委ねるのか抗うのかで、道は大きく異なってくるように思う。「欲望と秩序、あなたはどっちを大切にする?」なんて問いを発すること自体が大変な我がまま、子供っぽさという暴力なんだ。ぜんまい仕掛けの歯車で時間も空間も身勝手に操っているうちに、大いなる宇宙の摂理から外れいく。そうやって、いつまでも都合のいいこころの中の世界に逃げ込んで甘えていては、やがて魔女になってしまう。誤魔化し続けても、とっくにボロが出ていることに、そうそういつまでも知らんぷりはできない。外からの干渉を遮断した世界で、つじつまの合わなくなった因果の糸に絡め取られ歪んでいく自分に、息苦しくなるのは当の本人なのだ。少女は何と戦い、どう成熟し、大人になっていけばいいんだろう。それができなければ本当には世界は成り立っていかない。いつまでも我がままばっかり言ってると、希望や祈りも絶望や呪いに呑まれてしまうだけだ。
【成長の拒絶】
少女の我がまま、暴力性をどう克服するのか? 未成熟な少女が、大人の女性、新しい何かを生み出す“母なるもの”となっていく成長過程には、異物としての異性の侵入を受け入れる必要がある。傷つくことから逃げてばかりでは済まない。傷つき折れてしまう弱さだけでも成り立たない。苦痛や傷を自らの心身に引き受けていくということは、分離された身体とこころを繋いでゆくことだ。“傷・涙・汗・血”などを伴った深い体験(ジェイムズ・ヒルマンは“塩”の体験と述べている)によって、分かたれたモノとモノとのあいだが繋がれるとき、そこに、たましいが輝いてくる。その“たましいの体験”の瞬間を積み重ねていくことこそが、“成熟”を育むのではないか。
しかし、そもそも“少女”は成長などしたがってはいないのかもしれない。本田和子先生は、少女とは、「成長とは無縁の純粋の結晶」であり「成長を拒否して夭逝する存在」だと言う。『まどか☆マギカ』でも主役級の少女が物語の序盤にあっさり死んでいく。ギリシャ神話の少女ペルセポネは、冥界の王ハデスに連れ去られ死の世界で生きる。彼女の母、豊穣の神デメテルは激怒し、嘆き悲しみ、大地に実りをもたらすのをやめてしまう。また、シェイクスピアの『ハムレット』に登場する少女を描いた、水死の『オフィーリア』(J.E.ミレー画)は、永遠の少女のまま水の中に浮かび続けることで人々を魅了している。
“少女たちがそのさながらであり続けるとは、「成熟」とその結果としての「産むこと」の拒否であり、自身の肉体を「豊穣」のしるしから無縁に置くという、逸脱したありように他ならない / 少女が少女として死んだとき、「再生」は機会を失い、そのゆえに「豊穣」のしるしは、世界に絶縁を告げたのである。このとき、一般に女性のものとされる「時の円環」、「生→死→再生」とめぐるそれは、少女によって無化された”(本田和子)。
生きること、産むことの拒否は、母なる大地とは無縁の別世界、死の世界を漂うことだろう。“女性性”のなかのとりわけ“母性”は、「子を産む胎」として秩序体系に組み込まれるが、「成熟」も「産むこと」も拒否する“少女性”は、その体系から逸脱し浮遊し続ける。
【地獄マンダラにみる女性の罪】
京都の建仁寺の地獄絵を見たことがある。現世で犯した罪の内容によって、地獄で受ける罰も決まっているそうだが、釜茹でや針の山などの拷問がずらりと並ぶ阿鼻叫喚のなかに、妙に静かな場面が目に付いた。竹藪のなかに何人かの女の姿だけで、周りには罰を与える獄卒(地獄の鬼)たちもいない。特別に血を流したり叫んだりしている様子もなく、ただめそめそと泣いているように見える。よく見ると、そのそばに「不産女」と書いてあった。愕然とした。子を産まずに死ぬことは罪なのか? そしてその罰も、身体を引き裂かれたり焼かれたりするような地獄の残酷絵図からは、ぽっかりと浮いて見える。地獄からも逸脱してしまう存在・・・。
子供のうちに死んだ者は、賽の河原で石を積む。親より先に死ぬという親不孝をした罪を負い、積んだ石で償う。しかし、その償いも、積み終わろうかという直前に獄卒によって崩されてしまう。その業苦からは永久に逃れられない。それでも、獄卒にさえ見放され侘びしさに満ちた、産まない女の罰よりはまだましだと思った。竹林の根を、灯心(とうしん=あんどんや蝋燭の芯)を使って掘らされる永遠の不毛に、ただ涙する女たち。寂しい。切り刻んだりすり潰したり皮を剥いたり、ちゃんと痛めつけてももらえない。
「不産女(うまずめ)地獄」は「石女(うまずめ)地獄」とも書く。生産性の無い不毛さが、硬く閉じた石に象徴されているように思う。ちなみに、「血の池地獄」は全ての女人が墜ちる地獄だそうで、その罪は“月経や出産による出血が不浄をもたらすことによる血穢れの罪”とされている。少女から大人の女性になっていく過程、成長すること自体が罪なのか? 女として生まれたことそのものが重大な罪悪のようだ。かつて、自分の身体が変化していく思春期の不安のなか初潮を迎えた私に、母は赤飯を炊いて「お母さんと同じになったね」と喜んでくれた。そうやって、成長を祝福された体験があることは、きっとすごく幸せなことなんだろう。たとえ、逃れられない“女人としての原罪”を負っていても。
【逃がされた女性性】
『古事記』では、ヒルコ(国生みの男神イザナギと女神イザナミの間に生まれた最初の子)は、異形の態で生まれたため不吉だとされ、恵みの大地に触れさせまいとでもするように、直ちに水に流され追放されてしまう。交合の契りの際、女神の方が先に言葉を発したことが災いして良からぬ子が生まれたとされている。まるで「男性原理優位の掟に則らない限り、正しいモノは生まれない」とでも言うかのようだ。
『竹取物語』は“日本最古の物語”だそうだが、原作が生まれた当時、王朝文化が繁栄した奈良〜平安時代初期。女神である天照大御神を皇祖神とする国も、いよいよ男性原理の力が強くなってくる。王権の下に制度化の進む秩序社会にあって、母性性や女性的なモノの価値は補佐的、あるいは政治の道具となって、後ろに控えるようになった。父性原理優勢の社会で、「閉じられていく女性性をなんとか守ろう、秩序社会の業から遠ざけよう」とした意味合いがあったのかどうか、物語は、姫を少女のままに月へ逃がした。現代の甘ったれ少女が、少しでも嫌なことがあろうものなら「月に帰っちゃおうかなぁ〜♪」なんて(可愛く言ったってダメ、図々しくて身勝手な正体はもうすっかりバレている)、そんな我がままを言ってるだけなのとは訳が違う。文明社会のなかで“文化的営み”が男性性と同一視される限り、女性性はその原始的な“身体的営み”のゆえに、自然により近く動物的と劣位される。あえて逃がすことでしか、アニマ(※1)の救出は不可能だった、ということなのか?
かぐや姫に象徴される“女性性”は、応急処置的に(そして過保護的に?!)、少女のまま月の世界へ逃げ帰ってしまったが、生まれ、生き、成長し、産み出していく可能性まで絶たれたとは思いたくない。一度は逃げたものの、もう充分に守られ力を蓄えたのではないのか。そろそろちゃんと“こっち”に戻ってきて、何かを守り育んでいく者になっていい頃合いだろう。ここからは先は、男性性と女性性の統合の物語が必要なんだと思う。実際の性別や年齢、子育て経験の有無、そんなものはもはや関係ない。男女を問わずいつまでも大人になりきれない少女的な人ばっかりだ。現代の病だろうか。世界を構築する“父性”と“母性”を獲得していく戦いの物語に、それぞれが向き合っていく必要があると感じる。
【統合の先に豊かな道を信じて】
『まどか☆マギカ』とちょうど同時期に観た映画『かぐや姫の物語』(原案・監督:高畑勲/脚本:坂口理子)に登場する姫も、見ようによれば見事な我がまま女だ。求婚者に無理難題を押しつけて、誰のモノにもなろうとせず、育ててくれた翁と媼の老後の世話もしないで、さっさと月へ帰ってしまう。
なぜ、今、最古の物語を取り上げたのか? 原作では触れられていない、主人公かぐや姫の心情に想いを馳せ、そこから構想を得た作品なのだと語る高畑監督。月の世界(=死の世界)の姫は、かつて地球の世界(=生の世界)に降り立ったことのある天女から、色彩に溢れ生命に満ちた地上の話を聞き、強く憧れる。姫は、禁を破って天女の記憶を呼び覚まし、地上の思い出によって天女を苦しめたという罪を問われるが、その罰として、いのちあるモノの苦しみや穢れを自らも味わうべく地上へ降ろされた。人間の愛も憎も、善さも愚かさも知ってなお、「生きる手応えがほしい」と願った姫でさえ、「天地(あめつち)よ、わたくしを受け入れて
と懇願してもなお、こころ沸き立ついのちの記憶を捨てて、こころ乱されることのない月の世界に還って行く他に、道はなかったのだろうか。
猛烈に自分勝手だけど、どこまでもピュア。純粋な祈りと希望を願う姿、たとえそれが我がままであっても、迷うことなく貫き続ける。それが“少女”というモノなのか。最後まで純粋な存在、そこに強く憧れる。でも、純粋なだけじゃ・・・、いつしか自分のことが大嫌いになっていく。何かを生み出していく力にはなれない、硬く閉じ籠もっていくしかない。いつまでも甘えている自分の姿が、醜く感じられて居心地が悪くなってくる。逆に、特別「大人になりたくない」とか、意固地になってだだをこねる必要はない。わざわざ魔女になってしまわなくたって、変容していく自分自身を受け入れるだけでいいのでは? そこには、成熟していく苦しい戦いが発生する。苦しいけれど、誰かや何かのせいにして文句を言ってないで、自分自身と対峙する勝負に挑んでいけばいい。大人になっちゃったって純粋でいられるはずじゃない? また、そのくらいじゃなきゃ弱い、偽りのピュアだ、身勝手な側面だけが際立って、返って始末が悪い。少女とは、そのようなか弱く危うい、そのくせとんでもなく頑なで扱いにくい、特異な存在なのかもしれない。少女の抱える祈りと呪いのアンバランスが放つ、とんでもないエネルギーを、なんとか“生み出すチカラ”にしたいのだけれど・・・。
そのバランスを調整する、頼もしい男性原理の侵入を受け入れる度量を持って、己のなかのアニムス(※2)を鍛えていく厳しさが問われる。“ホントにピュアな少女性”を兼ね備えた“カッコイイ大人な母性”を獲得する道程は、「いつまでも純粋でいたい」とかなんとか、甘えたことだけ言ってらんない。・・・でしょ? もう! 女は自分次第!
魔法少女あけみほむらは、その純粋な我がままと理不尽なものへの怒りを、最後まで克服することができなかったんだと思う。宇宙の要(かなめ)であり、身体とこころを繋ぐ窓(まど=通路)としての機能を持つ、大いなる存在の力、円環の理(=かなめまどか)に還っていくことすら拒んだ。最愛の人でさえも救いにはなれず、身勝手な「希望より厚く絶望よりも深い愛」を抱いた「神をも蹂躙する悪魔のような存在」になってしまった。それまでは少女たちを利用して実験していたインキュベーター(※3)を、逆に少女が、閉じ籠った世界で膨らみ続ける絶望を処理するために利用する。ニヤリと笑って「協力してもらうわよ」と言う少女にインキュベーは震え上がる。
秩序社会のトップ・帝の求愛さえも、「従わなきゃいけないなら死にます」と断言して蹴散らした姫は、幼い頃の初恋の相手、「捨丸兄ちゃんとだったらやっていけたかも」と思う。しかし、時を逸した。少女の成長過程に不可欠な異なる存在、変容のチャンスを与える侵入者としては、残念ながら、捨丸は機能し得なかった。永遠に少女のまま、色彩を欠いた世界で、産むことも死ぬこともない存在。“真の意味で生きる・死ぬ”ことには繋がっていないと感じる。
けれど、それでも高畑監督は、「この世もまだまだ捨てたもんじゃない、生きるってことはそんなに悪くないというメッセージを子供たちに伝えたい」とインタビューに応えていた。いのちを謳歌しきれず月へ還った少女が憧れ続けるこの地に、未来の希望と可能性を信じている大人がいることに感動する(やっぱり何かモノを創っている人、生み出している人はカッコイイ!)。
特養のユニットで、一緒に添い寝しておしゃべりするひととき、私の手を握ったり髪を撫でたりするユキさん(仮名)は、母のようでもあり乙女のようでもある。
おめさん、いいなは〜
まだ若いんだ、これからの人なんだ
世界は広いんだもの、この先きっと、
いろんなことがいっぺぇあるよ
おら、もう90だけど、まだまだ頑張ってるよ〜
おめさんも頑張って、うんと苦労して、ね
男性も女性も自らの内面に何を育てていくか、そろそろ真剣に考えた方がいい。甘えたジャリばっかりうじゃうじゃ湧いて出て、ずうずうしいオバハンとしょぼくれたオジサンしかいない・・・なんてぇことじゃ、とても未来に希望はない。高齢化社会をバネに成熟したカッコイイ大人が育って、豊かな文化を生み出し伝えていけないものだろうか。
※1)アニマ:男性の無意識人格の女性的な側面。男性の有する未発達のエロス(関係の原理)。
※2)アニムス:女性の無意識人格の男性的な側面。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)。
※3)インキュベーター=男性性か?ちなみに、incubate:卵を抱く・かえす/計画・考えなどを生み出す の意。
参考 『少女浮遊』(弘文堂)
『オフィーリアの系譜』(青土社)著者:本田和子(ほんだますこ)お茶の水女子大学教授 児童学専攻
『かぐや姫幻想』(森話社)著者:小嶋菜温子(こじまなおこ)立教大学教授 中古文学専攻
『地獄の本』(洋泉社MOOK)
『女の子』作詞・作曲:タテタカコ(CD『そら』より
認知症介護から地域を考える ★居宅 板垣由紀子【2014年7月号】
7月3日、花巻市主催の介護支援専門員研修が「地域ケア会議と介護支援専門員の役割」と題して、県立大から講師を招いて行われた。「地域ケア会議」は地域包括ケアシステムを構築する上で重要な項目だ。困難ケースや地域の課題について、多職種や他機関が集まり総合的な支援を話し合い、一つ一つのケースからニーズを把握し、社会資源を構築していく大事な場となる。地域ケア会議はH20年の地域ケアシステムの取り組み開始とともに、介護支援専門員が抱える困難支援ケースを多職種連携してケース検討する場として提案されてきたが、花巻市ではまだ開催されていないのが現状だ。困難事例中心の対応が求められるこれからの時代に要請される、ネットワーク型の「地域ケア会議」は体質的に忌避されている。従来の縦割り行政の悪弊から抜け出せない感じが見て取れる。
今回の研修も「地域ケア会議における介護支援専門員の役割」というのだから、「花巻市の包括ケア構築の一端を担っていきたい」と思い参加した。
内容は、NHKのドラマ「サイレント・プア」を用いて具体的でわかりやすく、おもしろく聞けたのだが、システムの説明で終わり、期待していた具体的な展望は見えなかった。陸前高田市と大槌町の取り組みが紹介されたが、それぞれ地域包括支援センターが中心になり取り組んでいる。大震災で地域が崩壊し、ゼロからの早急な取り組みが求められた背景がある。花巻市はこれから取り組むとしているが、その認識にどこか「遅れ」や「ずれ」を感じる。せっかく市内のケアマネ集まって、県立大から講師を招いたのに、これまでの県や協会の研修のおさらいのような形で終わってしまった。しかも、地域ケア会議を開いていく展望はまだない。
そこにも花巻地域の古い体質を感じる。アップル会議で、四世代同居の農家のおひっこさんを介護する孫嫁さんが、夜通し認知症のおばあさんに付き添い、翌日は寝不足のまま農作業で、精神的に追い込まれる現状を話された。「介護者が殺人を犯してしまう気持ちがわかる気がする」と言われる。周囲の人に話しても「年なんだから」で済まされ、「自分の家族は自分でみなければならないという圧力も感じた」とあったが、“介護は家族がやるのがあたりまえ”で、外から見ればやれているように見える。そこに甘えていたのでは、地域の崩壊の前に家族の崩壊がおこりかねない。
7月16日の朝日新聞には老老介護が5割を越えたと報じられていた。高齢夫婦二人暮らし、認知症で要介護5の妻を、12年間介護してきたケースは「このままで、自分の体力が持つかどうか。一日でも長く一緒に暮らしたいが、在宅介護にも限界がある」と語る。独居や老人世帯は年々増えている。団塊の世代が75才以上になる2025年には、全国の高齢化率は30%を超し、家族の『介護力』は年々弱まっている。(朝日新聞)
花巻市にも圧倒的に厳しい現状がやってくると考えられる。若い世代が極端に減り、地域が成り立たなくなってきている。現場に近い立場のケアマネは見えないニーズ、声にならない声を、丁寧に拾い上げ、本人や家族と共に発信し、来るべき時代に対応していく使命がある。地域ケア会議は介護保険に位置づけされる方向で検討されている。もはや『介護』は家族だけで抱えられる時代ではない。多職種がそれぞれの立場で連携していく「地域ケア会議」のその実現と積み重ねが、未来の地域をつくっていくことに繋がっていくと思う。困難ケースは、表面上平穏を保っているように見える地域を、もう一度根本から振り返り、これからの時代をどう支え合い生きて行くのかを見直すきっかけを作ってくれる。
オレンジプラン(認知症施策5カ年計画)は『認知症になっても本人の意思が尊重され、住み慣れた地域のよい環境で暮らし続けることのできる社会』の実現を目指している。アップル会議から、みなさんの声を花巻のオレンジプランにつないでいきたい。
今回の研修も「地域ケア会議における介護支援専門員の役割」というのだから、「花巻市の包括ケア構築の一端を担っていきたい」と思い参加した。
内容は、NHKのドラマ「サイレント・プア」を用いて具体的でわかりやすく、おもしろく聞けたのだが、システムの説明で終わり、期待していた具体的な展望は見えなかった。陸前高田市と大槌町の取り組みが紹介されたが、それぞれ地域包括支援センターが中心になり取り組んでいる。大震災で地域が崩壊し、ゼロからの早急な取り組みが求められた背景がある。花巻市はこれから取り組むとしているが、その認識にどこか「遅れ」や「ずれ」を感じる。せっかく市内のケアマネ集まって、県立大から講師を招いたのに、これまでの県や協会の研修のおさらいのような形で終わってしまった。しかも、地域ケア会議を開いていく展望はまだない。
そこにも花巻地域の古い体質を感じる。アップル会議で、四世代同居の農家のおひっこさんを介護する孫嫁さんが、夜通し認知症のおばあさんに付き添い、翌日は寝不足のまま農作業で、精神的に追い込まれる現状を話された。「介護者が殺人を犯してしまう気持ちがわかる気がする」と言われる。周囲の人に話しても「年なんだから」で済まされ、「自分の家族は自分でみなければならないという圧力も感じた」とあったが、“介護は家族がやるのがあたりまえ”で、外から見ればやれているように見える。そこに甘えていたのでは、地域の崩壊の前に家族の崩壊がおこりかねない。
7月16日の朝日新聞には老老介護が5割を越えたと報じられていた。高齢夫婦二人暮らし、認知症で要介護5の妻を、12年間介護してきたケースは「このままで、自分の体力が持つかどうか。一日でも長く一緒に暮らしたいが、在宅介護にも限界がある」と語る。独居や老人世帯は年々増えている。団塊の世代が75才以上になる2025年には、全国の高齢化率は30%を超し、家族の『介護力』は年々弱まっている。(朝日新聞)
花巻市にも圧倒的に厳しい現状がやってくると考えられる。若い世代が極端に減り、地域が成り立たなくなってきている。現場に近い立場のケアマネは見えないニーズ、声にならない声を、丁寧に拾い上げ、本人や家族と共に発信し、来るべき時代に対応していく使命がある。地域ケア会議は介護保険に位置づけされる方向で検討されている。もはや『介護』は家族だけで抱えられる時代ではない。多職種がそれぞれの立場で連携していく「地域ケア会議」のその実現と積み重ねが、未来の地域をつくっていくことに繋がっていくと思う。困難ケースは、表面上平穏を保っているように見える地域を、もう一度根本から振り返り、これからの時代をどう支え合い生きて行くのかを見直すきっかけを作ってくれる。
オレンジプラン(認知症施策5カ年計画)は『認知症になっても本人の意思が尊重され、住み慣れた地域のよい環境で暮らし続けることのできる社会』の実現を目指している。アップル会議から、みなさんの声を花巻のオレンジプランにつないでいきたい。
ポーランド一人旅 〜アウシュビッツの地に立つ〜 ★副施設長 戸來淳博【2014年7月号】
【「考える大人」になるために】
年度初め、主任クラスの研修計画を聞く。研修は、施設長発案で、「考える大人になるために!」と題してポーランドへ一人旅をするということだった。クラクフの街を中心にヴァヴェル城・ヴィエリチカ岩塩坑・アウシュビッツミュージアムの3つの世界遺産を観てくる。ツアーではなく、航空券からホテル、現地での移動に関して自分で手配する。
英語力に乏しい私が海外に一人ででかけるなんて想像もしなかった。海外に興味はわくものの、どこか人ごとの話を聞いているようだった。行くとしても順番は終わりの方だと勝手に決めていた。
施設長から「世界の歩き方(現地のカイドブック)」とポーランド語が指さしで会話できる携帯本を渡され、その2冊とインターネットで現地を事細かに調べると色々な情報が集まるもので、その情報量の多さに驚かされる。出掛ける直前には、既に行ってきたかのような感覚になっていた。
【ホロコーストという歴史的事実から】
ポーランド一人旅に出る前にV・E・フランクル著の「夜と霧」を読み終える。アウシュビッツ収容所であるとか、ドイツによる虐殺があったことは知っていたが、恥ずかしながら具体的には殆ど知らなかった。今回の旅にでる前に数冊の本や映画を見たのだが、初めて知る事実が多かった。「夜と霧」を書いた著者本人が体験した収容所体験は、私にホロコーストという歴史的事実を突きつけ、人間の持つ悪について考えさせられた。当時を想像しながら、私自身が収容者にも監視役にも、またカポー(ユダヤ人であり監視役)にもなっている気がした。現実に戻れば、東日本大震災以後の日本の原発問題や世界各地にある紛争問題などに頭は巡り、もしかしたら人間の営み自体が悪なのではないかと自分に問い、悶々となりながらポーランドへ出掛けた。
【アウシュビッツへ】
旅行は5泊7日でワルシャワ、クラクフの2都市を巡った。飛行機での移動を除き中4日で、ワルシャワ市内、ヴァヴェル城、ヴィエリチカ岩塩坑と巡り、4日目にアウシュビッツ(ミュージアム)を見学してきた。
ワルシャワの観光地やヴァヴェル城、岩塩坑などは、多くの観光客で賑わっていた。それぞれに長い時間を超えて今も残る美しさや、作り上げた人間の力に圧倒された。旅自体は、片言にもならない片言英単語を駆使!?しての海外一人旅でハプニングだらけだったが、なんとか最終日のアウシュビッツ見学まで迎えた。
アウシュビッツミュージアムへは、クラクフ本駅から電車でオシフィエンチム駅へ向かう。ここまで来ると切符を買うにも、ホームを探すにも余裕がでている。切符売り場で事前に用意した「Oświęcim」と書いた紙を見せ切符を買い、片言英単語でホームナンバーを確認する。電車のホームへ降りてゆくと、久しぶりに数人の日本人を目にすることができた。目的地は一緒で、日本人ガイドの中谷さんの元へ行くのだろうと予測できた。
平日の通勤通学時間ではあったものの、電車移動は思ったよりも快適で、クラクフの街を抜けると乗客は殆ど居なくなった。空いた車両のどこかから日本人の声が聞こえる。「・・・昨日のランチのスープは・・・」「明日はどこのレストランに行こうか?」等の会話に、アウシュビッツに向かう私の心持ちとは真逆の雰囲気に、日本人はなんて暢気なんだろうとあきれた気持ちになる。
窓を開け外の景色に目をやる。6月のポーランドは気候は程よく暖かく気持ちの良い季節である。広大な畑に作物が作付けされ、周辺の木々も緑色に茂り、初夏の美しい景色が広がる。「ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン・・・」と小気味良く電車がレールを走る音が車両に響く。ふと、「夜と霧」や映画の一場面が思い浮かぶ。この線路で収容所に運ばれた人たちのことを想像する。ここを収容者達はどんな気持ちで運ばれていったのだろう、などと考えているうちにアウシュビッツの駅に到着した。
途中、道路と平行して今は使われていない線路が走っていた。収容所への当時の引き込み線なのだろうと予測がついた。20分ほど歩くとミュージアムに到着し、日本人ガイド中谷剛さんのガイドツアーに参加した。中谷さんはミュージアム唯一の日本語ガイドである。今回は日本人14名の方が参加していた。
中谷さんの案内でミュージアムのゲートを通り、収容所跡地へ足を踏み入れる。まずは街の呼称について説明を受けた。街は、第二次世界大戦時、ドイツ語でアウシュビッツと呼ばれ、元々はポーランド語でオシフィエンチムという街であった。私とするとアウシュビッツという呼称の方がなじみ深いのだが、やはり戦争体験者や地元の方の中にはドイツ語の呼称を嫌う方もいるという。収容所のゲートをくぐる。ゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と書かれている。有刺鉄線で囲まれた敷地内。生と死の境がかつてそこで分けられたのだ。有刺鉄線の中は煉瓦積みの建物が規則正しく綺麗に並んでいる。
建物の中では、当時の様子を写真や絵などで伝えている。収容者一人ひとりの写真が展示され、収容された日時と亡くなった日時が記載されている。どの方もほぼ3ヶ月で亡くなっている事に愕然とする。また当時の収容者の鞄や履き物、眼鏡、毛髪など・・・・が、それぞれ綺麗に選別され積み上げられている。ガス室で用いられたチクロンBの空き缶も山のように積み上げられている。鞄には、個人の名前が書かれている。いずれ返すと言われ、収容者自身が書いたものだが、本人の元へ帰ることはなかった。戦後遺族が肉親の鞄や遺品を見つけることもあったという。収容者の髪の毛は織物の材料にされ、金歯は金の延べ棒に変えられた。現在流通している金の中に、ユダヤ人の金歯が混じっているかもしれないと中谷さんは説明する。
中谷さんは当時のホロコーストの歴史的事実から、人種問題、現在の世界情勢までをふまえて説明してくれる。また、あえてドイツ側に立っての説明もあった。経済不況にあえぐドイツは、国民を救うすべとして、政策を打ち立てた。ホロコーストは当時移民として国内で生活していたユダヤ人を国外へ移住させようというところから始まったという。社会権を保証した憲法や世界に先駆けた民主的(国民主義的)な政治システムを持っていたドイツが、経済的な理由で国策として行った事業だった。国家元首は選挙で選ばれたヒトラーである。そして少数派の反ナチの活動家からアウシュビッツへ送られていった。この事実は現代社会にも重ねられるのではないかと中谷さんは参加者に問いかけ、「日本人はおとなしすぎる、もっと主張しないとダメ」と言う。そこにはたぶん、民主主義国家の多数決有利のリスクから、政治や社会にコミットしない無関心について語っていたのだと思う。
また、何度も繰り返し語られたことは被害者と加害者という枠を超えてこの問題を見つめると言うことだった。世界有数の高い医学や教育、政治、哲学、建築技術などを誇っていたドイツが、何故このような事をおこなったのか、この問題を考えなければならないと強く語っていた。ホロコーストを通して考えることは、世界で起きている紛争問題を抱える世界や社会へ向けたメッセージであり、人間の存在価値を取り戻すことでもあるということだろう。
アウシュビッツ収容所跡の見学を終えると、バスで5分ほど移動して、ビルケナウ収容所に移った。当時、運ばれてくる収容者がアウシュビッツで収まらなくなり新たにビルケナウ収容所が作られた。線路の引き込み線があり、まずはじめに目にするのが映画などで見かける収容所の入り口、死の門である。死の門を通り貨車は止まる。そこで移送者の内、働けるものとそうでないものに選別される。7〜8割がすぐにガス室へと誘導されたそうである。
広大な草地に煉瓦作りのバラックが並び、その奥に煙突だけが並ぶ。当時資材が無くなり木造でバラックを建てた。現在は木造部分は朽ち、暖房用の暖炉の煙突部分だけが残っているという。敷地も広大で、そのバラック跡の数は数え切れない。有刺鉄線や監視塔も見ながら奥の方へ進むとガス室跡地が、終戦時、証
拠隠滅のためドイツ軍によって爆破されたままになっている。
当時の建物や遺品が生々しく、痛々しいものばかりで、言葉を失い、愕然とするばかりだった。この事実を、咀嚼するには時間が掛かりそうである。
【クラクフの街へ戻る】
ミュージアムの見学を終え、クラクフへ向かう。昼食の時間でもあったが、しばらく空腹のままで居たかった。駅で電車を待ち、行きと同じ路線でクラクフへ戻る。クラクフの街と人の雑踏にホッと一安心する。旧市街の広場にある聖マリア教会を見学することにした。1222年に建てられた教会は、煌びやかな装飾品や彫刻、ステンドグラスで飾られている。祭壇にはポーランドの国宝だという聖書の一節を表現した大きな木造彫刻がアウシュビッツから戻った心を静めてくれた。
広場のカフェで昼食兼夕食を食べる。明日の移動費を除くと少し豪華な食事になった。食事をとりながら、片手にビールをもつ。目の前のテーブルに日本人の親子がつき食事をとっていた。父親と息子のようだった。息子の手元に「世界の歩き方(ポーランドのガイドブック)」が置いてあった。息子は父親を訪ねて旅をしてきたのだろうか、父親はビールを飲みながら、上機嫌で話が弾んでいる。その光景をみながらなぜだか自然に涙が流れた。世代や関係が断裂され、個人が個人として扱われない社会があった事実に怖くなったのかもしれない。アウシュビッツで見た光景は、長い年月を経た姿ではあったが、生々しく痛々しいこの世の地獄だった。
ガイドの中谷さんが、未来への希望として話しされたことを思い出す。ミュージアムは、今、和解の地となっているという。ヨーロッパ各地から見学者が絶えず、年々世界各地からの来訪者は増加しているという。加害者たるドイツ人と被害者のユダヤ人がこの地で会い、同じフロアに立つこともあるという。
また来訪者の多くは、比較的若い年代だという。私が収容所を見学している際も、多くのバスが止まり、大学生や高校生だろうか、多くの若者が見学ツアーに参加していた。中谷さんの話を聞きに学校のプログラムで参加する方もいれば、自主的にこの地を訪れる方も多いという。若い世代が引き継ぎ、また次の世代に繋いていくことが大事だろう。その一人ひとりが責任を伝えていく使命があるのだろうと思うし、そのひとりとしての自分を感じた旅でもあった。
【ポーランドから戻って】
戻って数日後、スタッフ6名で村上春樹原作「海辺のカフカ」の舞台へ出掛けた。ポーランド出発前、原作本を読み終えた。15歳の田村カフカは父親と暮らしていた家から、「世界でもっともタフな15歳になる」と見知らぬ土地へ旅にでる。物語は不思議な世界を行き来しながら、少年の心の成長を予感させる。ポーランドひとり旅の不安な自分とカフカを重ねワクワクに変えた。
「海辺のカフカ」を観て研修から戻りホッと一息ついて振り返る。日本を飛び出し世界の歴史と文化に触れた研修は、自分の世界を少し広げてくれ、少し図太く、強く成長させてくれたように思う。片言英単語でも何とかなるものだと思ったりする。機会があれば、また日本を飛び出し、見知らぬ土地に立って歴史や文化に触れてみたいと思う。そして、またいつかアウシュビッツを訪れてみたい。また見る視点も感じ方も違うような気がする。アウシュビッツを通じて考える人間の悪、私自身の内なる悪を考え続けてまたいつかと思う。
年度初め、主任クラスの研修計画を聞く。研修は、施設長発案で、「考える大人になるために!」と題してポーランドへ一人旅をするということだった。クラクフの街を中心にヴァヴェル城・ヴィエリチカ岩塩坑・アウシュビッツミュージアムの3つの世界遺産を観てくる。ツアーではなく、航空券からホテル、現地での移動に関して自分で手配する。
英語力に乏しい私が海外に一人ででかけるなんて想像もしなかった。海外に興味はわくものの、どこか人ごとの話を聞いているようだった。行くとしても順番は終わりの方だと勝手に決めていた。
施設長から「世界の歩き方(現地のカイドブック)」とポーランド語が指さしで会話できる携帯本を渡され、その2冊とインターネットで現地を事細かに調べると色々な情報が集まるもので、その情報量の多さに驚かされる。出掛ける直前には、既に行ってきたかのような感覚になっていた。
【ホロコーストという歴史的事実から】
ポーランド一人旅に出る前にV・E・フランクル著の「夜と霧」を読み終える。アウシュビッツ収容所であるとか、ドイツによる虐殺があったことは知っていたが、恥ずかしながら具体的には殆ど知らなかった。今回の旅にでる前に数冊の本や映画を見たのだが、初めて知る事実が多かった。「夜と霧」を書いた著者本人が体験した収容所体験は、私にホロコーストという歴史的事実を突きつけ、人間の持つ悪について考えさせられた。当時を想像しながら、私自身が収容者にも監視役にも、またカポー(ユダヤ人であり監視役)にもなっている気がした。現実に戻れば、東日本大震災以後の日本の原発問題や世界各地にある紛争問題などに頭は巡り、もしかしたら人間の営み自体が悪なのではないかと自分に問い、悶々となりながらポーランドへ出掛けた。
【アウシュビッツへ】
旅行は5泊7日でワルシャワ、クラクフの2都市を巡った。飛行機での移動を除き中4日で、ワルシャワ市内、ヴァヴェル城、ヴィエリチカ岩塩坑と巡り、4日目にアウシュビッツ(ミュージアム)を見学してきた。
ワルシャワの観光地やヴァヴェル城、岩塩坑などは、多くの観光客で賑わっていた。それぞれに長い時間を超えて今も残る美しさや、作り上げた人間の力に圧倒された。旅自体は、片言にもならない片言英単語を駆使!?しての海外一人旅でハプニングだらけだったが、なんとか最終日のアウシュビッツ見学まで迎えた。
アウシュビッツミュージアムへは、クラクフ本駅から電車でオシフィエンチム駅へ向かう。ここまで来ると切符を買うにも、ホームを探すにも余裕がでている。切符売り場で事前に用意した「Oświęcim」と書いた紙を見せ切符を買い、片言英単語でホームナンバーを確認する。電車のホームへ降りてゆくと、久しぶりに数人の日本人を目にすることができた。目的地は一緒で、日本人ガイドの中谷さんの元へ行くのだろうと予測できた。
平日の通勤通学時間ではあったものの、電車移動は思ったよりも快適で、クラクフの街を抜けると乗客は殆ど居なくなった。空いた車両のどこかから日本人の声が聞こえる。「・・・昨日のランチのスープは・・・」「明日はどこのレストランに行こうか?」等の会話に、アウシュビッツに向かう私の心持ちとは真逆の雰囲気に、日本人はなんて暢気なんだろうとあきれた気持ちになる。
窓を開け外の景色に目をやる。6月のポーランドは気候は程よく暖かく気持ちの良い季節である。広大な畑に作物が作付けされ、周辺の木々も緑色に茂り、初夏の美しい景色が広がる。「ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン・・・」と小気味良く電車がレールを走る音が車両に響く。ふと、「夜と霧」や映画の一場面が思い浮かぶ。この線路で収容所に運ばれた人たちのことを想像する。ここを収容者達はどんな気持ちで運ばれていったのだろう、などと考えているうちにアウシュビッツの駅に到着した。
途中、道路と平行して今は使われていない線路が走っていた。収容所への当時の引き込み線なのだろうと予測がついた。20分ほど歩くとミュージアムに到着し、日本人ガイド中谷剛さんのガイドツアーに参加した。中谷さんはミュージアム唯一の日本語ガイドである。今回は日本人14名の方が参加していた。
中谷さんの案内でミュージアムのゲートを通り、収容所跡地へ足を踏み入れる。まずは街の呼称について説明を受けた。街は、第二次世界大戦時、ドイツ語でアウシュビッツと呼ばれ、元々はポーランド語でオシフィエンチムという街であった。私とするとアウシュビッツという呼称の方がなじみ深いのだが、やはり戦争体験者や地元の方の中にはドイツ語の呼称を嫌う方もいるという。収容所のゲートをくぐる。ゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と書かれている。有刺鉄線で囲まれた敷地内。生と死の境がかつてそこで分けられたのだ。有刺鉄線の中は煉瓦積みの建物が規則正しく綺麗に並んでいる。
建物の中では、当時の様子を写真や絵などで伝えている。収容者一人ひとりの写真が展示され、収容された日時と亡くなった日時が記載されている。どの方もほぼ3ヶ月で亡くなっている事に愕然とする。また当時の収容者の鞄や履き物、眼鏡、毛髪など・・・・が、それぞれ綺麗に選別され積み上げられている。ガス室で用いられたチクロンBの空き缶も山のように積み上げられている。鞄には、個人の名前が書かれている。いずれ返すと言われ、収容者自身が書いたものだが、本人の元へ帰ることはなかった。戦後遺族が肉親の鞄や遺品を見つけることもあったという。収容者の髪の毛は織物の材料にされ、金歯は金の延べ棒に変えられた。現在流通している金の中に、ユダヤ人の金歯が混じっているかもしれないと中谷さんは説明する。
中谷さんは当時のホロコーストの歴史的事実から、人種問題、現在の世界情勢までをふまえて説明してくれる。また、あえてドイツ側に立っての説明もあった。経済不況にあえぐドイツは、国民を救うすべとして、政策を打ち立てた。ホロコーストは当時移民として国内で生活していたユダヤ人を国外へ移住させようというところから始まったという。社会権を保証した憲法や世界に先駆けた民主的(国民主義的)な政治システムを持っていたドイツが、経済的な理由で国策として行った事業だった。国家元首は選挙で選ばれたヒトラーである。そして少数派の反ナチの活動家からアウシュビッツへ送られていった。この事実は現代社会にも重ねられるのではないかと中谷さんは参加者に問いかけ、「日本人はおとなしすぎる、もっと主張しないとダメ」と言う。そこにはたぶん、民主主義国家の多数決有利のリスクから、政治や社会にコミットしない無関心について語っていたのだと思う。
また、何度も繰り返し語られたことは被害者と加害者という枠を超えてこの問題を見つめると言うことだった。世界有数の高い医学や教育、政治、哲学、建築技術などを誇っていたドイツが、何故このような事をおこなったのか、この問題を考えなければならないと強く語っていた。ホロコーストを通して考えることは、世界で起きている紛争問題を抱える世界や社会へ向けたメッセージであり、人間の存在価値を取り戻すことでもあるということだろう。
アウシュビッツ収容所跡の見学を終えると、バスで5分ほど移動して、ビルケナウ収容所に移った。当時、運ばれてくる収容者がアウシュビッツで収まらなくなり新たにビルケナウ収容所が作られた。線路の引き込み線があり、まずはじめに目にするのが映画などで見かける収容所の入り口、死の門である。死の門を通り貨車は止まる。そこで移送者の内、働けるものとそうでないものに選別される。7〜8割がすぐにガス室へと誘導されたそうである。
広大な草地に煉瓦作りのバラックが並び、その奥に煙突だけが並ぶ。当時資材が無くなり木造でバラックを建てた。現在は木造部分は朽ち、暖房用の暖炉の煙突部分だけが残っているという。敷地も広大で、そのバラック跡の数は数え切れない。有刺鉄線や監視塔も見ながら奥の方へ進むとガス室跡地が、終戦時、証
拠隠滅のためドイツ軍によって爆破されたままになっている。
当時の建物や遺品が生々しく、痛々しいものばかりで、言葉を失い、愕然とするばかりだった。この事実を、咀嚼するには時間が掛かりそうである。
【クラクフの街へ戻る】
ミュージアムの見学を終え、クラクフへ向かう。昼食の時間でもあったが、しばらく空腹のままで居たかった。駅で電車を待ち、行きと同じ路線でクラクフへ戻る。クラクフの街と人の雑踏にホッと一安心する。旧市街の広場にある聖マリア教会を見学することにした。1222年に建てられた教会は、煌びやかな装飾品や彫刻、ステンドグラスで飾られている。祭壇にはポーランドの国宝だという聖書の一節を表現した大きな木造彫刻がアウシュビッツから戻った心を静めてくれた。
広場のカフェで昼食兼夕食を食べる。明日の移動費を除くと少し豪華な食事になった。食事をとりながら、片手にビールをもつ。目の前のテーブルに日本人の親子がつき食事をとっていた。父親と息子のようだった。息子の手元に「世界の歩き方(ポーランドのガイドブック)」が置いてあった。息子は父親を訪ねて旅をしてきたのだろうか、父親はビールを飲みながら、上機嫌で話が弾んでいる。その光景をみながらなぜだか自然に涙が流れた。世代や関係が断裂され、個人が個人として扱われない社会があった事実に怖くなったのかもしれない。アウシュビッツで見た光景は、長い年月を経た姿ではあったが、生々しく痛々しいこの世の地獄だった。
ガイドの中谷さんが、未来への希望として話しされたことを思い出す。ミュージアムは、今、和解の地となっているという。ヨーロッパ各地から見学者が絶えず、年々世界各地からの来訪者は増加しているという。加害者たるドイツ人と被害者のユダヤ人がこの地で会い、同じフロアに立つこともあるという。
また来訪者の多くは、比較的若い年代だという。私が収容所を見学している際も、多くのバスが止まり、大学生や高校生だろうか、多くの若者が見学ツアーに参加していた。中谷さんの話を聞きに学校のプログラムで参加する方もいれば、自主的にこの地を訪れる方も多いという。若い世代が引き継ぎ、また次の世代に繋いていくことが大事だろう。その一人ひとりが責任を伝えていく使命があるのだろうと思うし、そのひとりとしての自分を感じた旅でもあった。
【ポーランドから戻って】
戻って数日後、スタッフ6名で村上春樹原作「海辺のカフカ」の舞台へ出掛けた。ポーランド出発前、原作本を読み終えた。15歳の田村カフカは父親と暮らしていた家から、「世界でもっともタフな15歳になる」と見知らぬ土地へ旅にでる。物語は不思議な世界を行き来しながら、少年の心の成長を予感させる。ポーランドひとり旅の不安な自分とカフカを重ねワクワクに変えた。
「海辺のカフカ」を観て研修から戻りホッと一息ついて振り返る。日本を飛び出し世界の歴史と文化に触れた研修は、自分の世界を少し広げてくれ、少し図太く、強く成長させてくれたように思う。片言英単語でも何とかなるものだと思ったりする。機会があれば、また日本を飛び出し、見知らぬ土地に立って歴史や文化に触れてみたいと思う。そして、またいつかアウシュビッツを訪れてみたい。また見る視点も感じ方も違うような気がする。アウシュビッツを通じて考える人間の悪、私自身の内なる悪を考え続けてまたいつかと思う。
「お中元ギフト製造開始!餃子の皮の七変化」★ワークステージ 村上幸太郎【2014年7月号】
★「型ぬきの型がズレたりすると、いろいろな皮が登場するよ!」
餃子を製造中に、機械が皮をうまく包めなかったりすると、月の皮や家の形をした皮など、色々な形を見せてくれます。
左の絵は、スチームコンベクションから蒸しあがったたくさんの焼売の、蒸し加減をチェックしている様子です。お中元用のギフトにぜひ、銀河の里の餃子・焼売セットをよろしくお願いいたしますm(_ _)m
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