2014年06月15日

「手植え日和」★佐藤 万里栄【2014年6月号】

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漂ようこと ★理事長 宮澤健【2014年6月号】

 最近、通信に記事を書こうとは思うのだがなかなか書けなくなってしまった。書こうとすると、説明のような文になってしまってつまらない文章になる。何と言っていいのか難しいのだが、私は文章を書くには自分が「漂って」いないと面白い文章は書けない。落ち着いて、決まった安定の中で書いたって、説明でしかない、読みたくもない内容になる。その点、ケースと向き合う現場は漂うことがかなり賦活されるところだと思う。

 通信の文書は、漂ってる人が書いた文章だから面白い。漂うことが嫌われ、現代社会の明確さを求める風潮に反して、漂える人もまだまだいると感じて頼もしくなる。当初はかちかちで漂うことが全くできなかったような人も、利用者に揺り動かされて漂えるようになることもある。もともと漂いすぎて、社会では適応できない人も、里ではホッと一息ついて、自在に漂っている人もある。

 タイプはいろいろで、漂い方もそれぞれなのだが、漂ってないと、答えがあるだけで、物事の本質に触れることができなくなる。男性に比べれば女性は漂うセンスに満ちているのかもしれない。通信を書く人は、女性がほとんどだ。
 硬く、きっちりとした経営、管理をやっていても、文章では平然と漂いながら書ける人も女性には多い感じがする。そういう意味で一般的に女性の世界は深いと感じる。両方を同時にできる人もたまにはいるのだが、実際にはどちらかに偏る人が大半だ。

 漂ってる人は、現実の仕事がこなせなかったり、滞りがちになる場合がある。里にはそのタイプの人が多い。里の柔らかい雰囲気や空気はそうしたタイプの人たちによってできあがっていると思う。そうしたタイプの人たちは、一般には仕事ができないと見なされてしまいがちだ。男性の場合にはよけいに、そうしたレッテルを貼られやすいように感じる。
 ピーターパンなのか座敷童なのかわからないけど、そんな妖怪が生き残る余地は現代にはない。ところが里にはそんな妖怪達が居ついて活躍してくれる。里では要介護度よりも、妖怪度が尊重される。それは妖怪度が高いほど、若い妖怪達を育て鍛える魔力が高くなるからだ。大賢人の魔術師達が、若い魔術師を育てる、そんな魔術学校が里なのだと最近つくづく感じる。そのことは世間の人にはほとんど理解できない。ただあやしいことはうすうす感づかれてはいるようだ。
 大事なのは、ピーターパンでも、座敷童でも現実の感覚で、仕事ができない人として惨殺されてしまう危険から守らなければならない。妖怪度も、世間では恐れられ、忌み嫌われ、困った人として管理と排除の論理でくくられて、現実からは葬り去られるのが普通だ。

 現実は多層な異次元で成り立っている。こんな当たり前のことが現代人には見えにくい。死は終わりのようであるけれども、その死こそ永遠であったりする。認知症の人が、常識や社会的秩序から解放され、豊かな精神性の世界を開くことは現場の我々からすれば常識で、当然のことだ。健常な世間の人の狭量に比較すれば、認知症の人の精神世界ははるかに世界が広く、豊かで魅力に満ちている。

 若い魔術師たちは、妖怪達に鍛えられ、その開かれた異相の世界に自在に漂えるようになる。漂った人が書く文章はとても面白い。それはこの通信の生命線だと思う。あやしい世界に浸りながら、生きていけることは貴重なことだと思う。もちろん、それには現実がむしろ大切になる。異化されて現実がリアリティを取り戻すことだってある。

 妖怪や魔術師達が、現代の風潮の中で惨殺されないように、私は気を配っていなければならない。世間の影はすぐにどこにでも忍び寄ってくる。あっという間に足をすくわれそうになることもしょっちゅうある。ティンカーベルや風の又三郎にもっと活躍してもらわなければならない。
 漂うことはどう始まるかと考えると、それは死と関連していると思う。死は一定なりで、決定的に決まった事実だが、それが何事なのかは誰も知らない。決して答えが出るはずのない不可解なこと、そこに漂いが生まれる。漂うことをやめてはっきりしたとき、死の実態からは離れるのだと思う。

 今、死は文化として医療の死に席巻されてしまって、我々は「終わり」で「敗北」でしかない死の文化を生きている。死の認識がここまで貧弱で幼稚なものに成り下がってしまったら、我々の魂も漂いようがない。虫ピンで標本に貼り付けにされたような自分をそれぞれが生きるしかない。
 あの世もこの世も越えて、いろんな異相を漂いたい。せめてそうしたたましいを持ちたい。そうでないと死ねない、敗北として終わるしかない。そんなバカなことはない。生は老いも病も死も含んでもっとはるかに豊かで痛烈であるにちがいない。

 「遺憾なことに、ほんとうのものは大抵は痛ましい中から生まれるものだ」棟方志功の芸術を評した陶芸家河井寛次郎の言葉
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枯竹を想う ★特別養護老人ホーム 千枝悠久【2014年6月号】

 特養に異動になって1ヶ月が経った。そろそろ、これまであったことを何かまとめようと思っていたところ、賢吾さん(仮名)から「孟宗竹のことは書いたったか?」と、声を掛けられた。賢吾さんの言う“孟宗竹のこと”とは、特養の玄関前の斜面に生えている竹のことだ。ちょうどこの頃、遠野へ花見に行き、私は桜のことばかり考えていて、そのことをまとめようかと思っていた。だが、“書くことは 身体すべての 運動と 楽しみながら 書くと思う”という歌をつくるくらい、短歌作りや日記書きと、書くことを欠かさない賢吾さんの言うことだ。竹に目を向け、これまであったことを、もう一度考え直したいと思った。
 天気の良いある日の午前中、日課の散歩で玄関から出て来た賢吾さん。私もちょうど外から戻ってきたところで、2人で玄関の椅子に座った。“あったかくて気持ちが良いな”そんなことを考えながら、ボーッとしていた私の横から、「あの竹は枯れているのか?」と声が掛かる。賢吾さんの目は、ジーッと斜面の竹の方に向いていた。その時初めて、私は竹が枯れていることに気付いた。
 竹のことなど何も知らず、そもそも斜面の竹にすらロクに目を向けていなかった私にとって、“竹が枯れている”ということは、何の意味かさえわからないことだった。「珍しいな、竹が枯れるなんて初めて見た。普通は枯れないんだども・・・」話を聞くうちに、“近くで見たい”と思い、近づいて見てみたのだが、その時の私には、ただ枯れた竹が目の前にあるだけだった。その日の午後、いつもは玄関先までしか出ない賢吾さんが、斜面の近くまで行って竹を見ていたと聞き、ようやく私も竹のことが気になり始めた。
 それから賢吾さんは、私に少しずつ竹のことを教えてくれるようになった。「孟宗竹というのは、元々日本には無くて、中国から来たもので・・・」「昔はなんでも竹で作ったった。魚とる時に腰につける“はきご”だの・・・」と語ってくれる。
 興味を持ち始めた私は、自分でも少し、竹について調べてみた。竹林に竹が何百本あろうと一つの個体であるために本体である地下茎がダメになればその林が一斉に枯れること、60年から120年くらいの周期で自然に枯れることもあるということだった。そうして私が知ったのは、どんなに驚異的な成長力があり、強い生命力を持った竹であろうと枯れることがあるのだという、当たり前で寂しい現実だった。
 私は賢吾さんから竹のことを問われるまで、竹を意識したことはなく、竹の成長速度に驚くことなんてなかった。竹細工なんて見向きもしていなかった。青々としていようと枯れていようと、竹は竹だとしか思っていなかった。竹に代わるものがいくらでもあり、使えなくなれば簡単に捨て、新しいものをすぐに買ってくれば、それで事が済む生活をしている。当たり前の寂しさを、ほとんど感じることなく生きてきた。だからこそ余計に、今は竹が枯れてしまったことが寂しい。
 最近賢吾さんは、自宅にあった松が枯れてしまったことも嘆いていた。「このくらいはあって、2人で抱えきれないくらい・・・」腕を大きく広げながら、幹の太さを教えてくれる。部屋にその松の木の写真があり、同じユニットの辰也さん(仮名)に、“家にあった松だ”とニコニコと見せていたが、その時も、「枯れてしまったった」と、嘆きの言葉が漏れる。その松は、太く力強い幹、大きく何ものにもとらわれることのない枝、青々と茂った葉を持ち、写真の中ですら、見る者を圧倒する生命力を持っていた。賢吾さんの嘆きを聞きながら、私自身にも松を枯らしてしまったことへの悔しさが湧き上がってきて、なんとかその生命を繋ぎ留めることができないかと考えた。もう何もできないのかもしれないが、枯れた松から何かを受け取りたい、とも思った。
 今、私は賢吾さんから詩吟を習っている。熱心に教えてくれる賢吾さんは“本格的に詩吟をやったらいい”とすすめてくれる。「オメさんは声がいいのだから、本格的に詩吟をやったらいい。そういう“道”というものがあるのだということを知ってもらいたい。私は、詩吟のおかげでたくさんの人と出会った」松も枯れ、竹も枯れてしまったが、それでも前を向こうとしている人の言葉だと感じた。
 詩吟を初めて習う人の吟題で、定番中の定番が、菅原道真の漢詩『九月十日』だ。私も賢吾さんに導かれ、『九月十日』を吟じている。菅原道真と言えば、「東風吹かば〜」という歌もあるとおり、梅のイメージが強い。
 枯れるものがあれば、咲くものもあるはずだ。松が枯れ、竹も枯れたが、それはこの“梅”を咲かせることに繋がっていたのではないかと思う。枯竹を想い、梅の花を咲かせたい。傷付こうと治りが早く、寒いときこそ美しく香る、そんな梅の花を咲かせたい。
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奇跡の宝探し ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2014年6月号】

 5月のゴールデンウイークに修さん(仮名)の奥さんと次男さんが銀河の里に会いに来られた。普段はひとりの時間を過ごすことの多い修さんだが、家族さんへの想いは秘めたるものがあるようで、その来訪をとても喜んでいた様子だった。
 そのとき、次男さんからお小遣いを三千円もらったことで、急に太っ腹になった修さん。早速、お気に入りのスタッフ二唐さんにアプローチをする。「アイスクリーム食べに行くべ」と誘って二人でおやつドライブに出かけた。そのドライブは楽しく行ってきたのだが、小さな諍いが二人の間に起こった。その日を境に、二人の関係はぎくしゃくし始めた。修さんにとって、二唐さんはかわいい娘や孫のような、近しい存在なんだろうし、恋人のような感覚さえあると思う。
 二唐さんにとっても、修さんは気の置けない存在で、自分を飾ったり、気を使わなくていい楽な相手だ。遠慮なく怒りもぶつけられるし、意見も言える。「盛岡の小岩井農場までデートドライブがしたい」との甘えた要求に二唐さんが歯に衣着せぬ物言いで拒絶したことから、二人の関係がぎくしゃくし始めた。修さんは二唐さんに直接イライラをぶつけても収まらないと見えて、これみよがしに「こんなところ出て行く」と何かに理由をつけて家出をくりかえすようになった。以前から家出は修さんの常套手段で、足腰が元気だったころはどこまでも歩いて行って警察に捜査をお願いするようなことが何度もあったらしい。最近は足腰が弱り、遠くには行けないので、敷地内のデイサービスだったり、長くても歩いて5分の特養までのプチ家出しかできなくなっている。
 こうして、二唐さんとの関係のぎくしゃくが続き、朝早くからのプチ家出も毎日行われるようになっていたさなかのある日のことだった。夕食後、いつも通り自分の部屋に入って眠ったはずの修さんだったが、しばらくするといきなり真っ青な顔で、部屋から慌てて飛び出してきた。ちょうどその日、遅番だった私は、その様子をみて何事かと驚いた。普段はゆっくり歩くのがやっとの足どりなのだが、部屋から駆け足で出てきて、リビングのゴミ箱をあさっている。額にはびっしょり汗をかいていた。
 「どうしたの?」と聞くと、「昨日、煙草の空箱をゴミ箱に捨てたんだけども、その中さ二千円入ってらったの忘れてそのまま捨ててしまった」と言うではないか。どうやら寝ていてふとそのことを思い出したらしい。ところが、捨てたのは昨日の話なので、昨日のゴミは今朝のうちに、ゴミ箱からキレイに処分されていた。
 「なにやってるの〜」とその場にいたスタッフはみんな呆れてあきらめていた。もちろん私も、昨日、ゴミ箱に捨てたとしたら、もうそんなお金は戻ってこないと諦めるしかなかった。一通りゴミ箱を探したあと、修さんはソファでうなだれていた。
 「もらった千円で美奈子(二唐)とアイスクリーム食べて、残りの二千円で温泉と競馬さ行きたかったなぁ」とつぶやいている修さん。ちょうど5月いっぱいで退職することになっていた深田君と二人で温泉に行く約束もしていた。いわば大切な二千円だった。私もそれができなくなるのはとても残念だったし、自分のお財布に二千円さえ入ってなかった時の心細さを思い出すと、二千円かぁ…貴重な二千円だったよな…と修さんが急に切なく思えてきた。
 いや、あきらめるのは早いかも、今日はもしかしたらゴミの収集車が来ない日だったんじゃない。私は最後の望みに賭けて「探してみる?今日ゴミ収集車きたかな?」と聞くと、修さんも「今日来てないようだったな〜」と言う。「じゃ〜探してみるか…」外はすでに真っ暗だし、夜中に、ゴミ集積所に入ってゴミ袋の中を探すなんてとてつもない嫌な作業だなと思いつつも、いっぺんやるしかないと決心した。
 私は覚悟を決めるために、深田君にゴミ集積所にゴミ袋がどのくらいためてあるか偵察を頼んだ。見てきた深田君は「う〜ん…ざっと見て20袋以上はありましたね」と苦笑いしている。ゴミ袋を全部開けて、ひとつひとつひっくり返して探すとなると何時間もかかる作業になるな、下手すりゃ明け方だと覚悟した。
 そのときはまだ、夕食後の就寝介助中だったので、みんなが寝静まってから行こうと約束した。9時過ぎになって修さんは上着を着てやる気で出てきた。「これから宝探しだ!」と私と二人で懐中電灯を持って、少し離れた敷地内にあるゴミ集積所まで車で向かった。
 夜の暗闇の中、さあやるぞと、半分もうやけくそ状態で車から降りて、ゴミ集積所の扉を開けた。山のように積み重なったゴミ袋に圧倒されながら、もうあきらめて作業に取りかかろうとした。そのとき、一番手前のゴミ袋が異様に目についた。その袋は、ゴミ捨てのルールに反して、袋の口が結ばれておらず、中身がみえたままの状態で置いてあった。
 そのゴミ袋は一番手前にあるし、口は開いてるし、なんか変だった。何気なくその袋をのぞくとなんと一番上に修さんがいつも吸っている見慣れた煙草の箱があるではないか。驚く暇もない。探すどころか、たばこの箱が向こうから来るのを待っていたようなもんだ。「これじゃない!?」私はドキドキとウキウキが混ざって緊張してるんだか、昂揚してるんだかわからないようななんとも言えない感覚で煙草の箱を取り上げて修さんに渡した。修さんが真剣な顔で箱の中を確認する。そしてそこに二千円を発見する。笑いながら修さんは二千円を手にとって私にみせた。「あったーーーーー!!あははは」と夜のゴミ集積所で、二人で歓喜の声をあげた。
 夜の宝探しはひとつの袋も開けることなく、5分もしないうちに終わった。なんだかすごい達成感だった。車に乗ると、修さんは私にお礼だと千円を渡した。私は「いらないよ」と言うが「探してもらう前から探し賃やろうと思ってらったからよ」と話す。私は、ソファでうなだれていたときの修さんを思い出した。馬好きの私は「んじゃその千円で競馬いくとき私も連れてって」とお願いして千円は受け取らず、代わりに、いつか一緒に競馬場に行くことを約束した。
 修さんは5月末に無事に深田君と温泉に行って思い出作りをした。私は、煙草の箱に隠し持っている千円を修さんがまたなくしてしまう前に競馬場に連れてってもらいたいと思うのだが、その前に、二唐さんとの小岩井ドライブの課題があった。夜の宝探しの後も、数日の間は二唐さんとの葛藤は続いていた。ケース会議もおこなって、プチ家出はしばらく続きそうだし、もうしばらくは二唐さんと修さんの関係は戻らないのではないかとも話し合った。ところが、それから数日して修さんの方から折れて、二唐さんに声をかけるようになり、やがて二人の間は元の親しい関係に戻った。
 競馬場にはまだ行けてないのだが、修さんは二唐さんに小岩井ドライブを誘うのはあきらめたのか、最近は私に、小岩井に一緒に行って昔知り合いだった人を探してたいと話す。二千円を探せたように、会いたい人がみつかるかどうか、奇跡の宝探しができるとも限らない。探す旅もなかなか面白いと私は思うのだが、修さんは私の魔法の力に頼ろうと狙ってるのかも知れない。私はたまに奇跡を起こすことがあるのだが、めったやたらに魔法は使わないように心がけているので、小岩井で奇跡がおこるとは保証できない。修さんにもそのことはわかってもらいたい。それより私は馬を見に連れてってほしい。ちなみに私は馬券は買わない。馬券を当てる魔法も私は持っていない。ただ馬が好きなのだ。
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ユニットご飯を通して ★特別養護老人ホーム 照井春佳【2014年6月号】

 私は昨年、栄養短大に在学中、就職活動で、ある求人情報サイトを通じて「銀河の里」を知った。農業にも力を入れていて、他の施設にはない魅力を感じ、去年の夏に見学に来たのだった。
 そこには、施設とは思えない、柔らかな空気とマイペースな時の流れがあり、まさに“暮らし”が感じられた。そして、栄養士ということで、三日間厨房で実習をした。実習後の面談では「栄養士としての枠に限定せず、介護や食品開発などの勤務になるかも知れないがどうか」と打診された。その時点ですでに私は“栄養士として働きたい”という気持ちよりも“銀河の里で働きたい”という気持ちが大きくなっていた。私は何でもやってみたいと思った。
 そして、この新年度から特別養護老人ホームに配属され、私は介護スタッフとして働いてきた。介護は短大時代の実習で食事介助をしたことがあるぐらいで、何もかもが初めてで戸惑いの連続だったが、3ヵ月経って、この頃、やっと少しずつ落ち着いて現場で物事が見られるようになってきた。ここまでは現場の仕事を覚えるので精一杯で、利用者さんが私に伝えてくれているものを受け止めきれていないのではないか…と悩んだ。利用者さんと向き合えていない自分に気づいて辛かった。
 そんな、一杯一杯の私をちゃんと見守って支えてくれたのは利用者さんだった。私も何かやろう…と考えたとき、想い浮かんだのは“食事”だった。食の細い利用者さんにはいろいろな食べ物を沢山食べてもらいたい。自分から進んで“食べたい”と思えるような食事を作りたい。逆に肥満ぎみの利用者さんには、ヘルシーな美味しいものを沢山食べてもらいたい…など、利用者さん一人一人にあった食事を考えたいと思った。そこで、厨房よりも利用者さんとより近いユニットで、作るところから食べるところまでやれる“ユニットごはん”という企画があがった。

 ミエさん(仮名)とのやりとり。
 ある日、利用者のミエさんは落ち着かない様子で、車いすを自走して事務所へ行ったり、廊下をいったりきたりしていた。話しを聞くと花巻の“実相寺”へ連れてってと言う。そこで私が運転し、先輩スタッフの角津田さんとミエさんと3人でドライブに出た。
 走っているうちにミエさんは行き先が、“実相寺”から“小舟渡”、小舟渡から“駅”と次々に変わっていく…最終的には運転手にお任せしますという感じ。私は戸惑いながらどうしていいかわからずとりあえず、40分ほど走って銀河の里へ戻ってきた。しかし、ミエさんはまだどこか心残りがあるようだった。とりあえずリビングに戻ったものの、ミエさんの気持ちは落ち着くどころか強くなっていった。「帰らせてけで!お願いします!」と何度も何度も訴える。そして帰してけで!!帰してけで!!と激しくなっていった。

 私はそれを家に“帰して”と言っていると思いこんでいた。その後もミエさんは想いが強く、叫んで声がかれるほどだった。車いすで玄関から外にでて、段差も乗り越えようとぶつかっていく。今にも泣きそうな、険しい顔で私に思いをぶつけてくる。私はどうすればいいのか分からずどうにもできない自分が悔しくて涙が溢れてきた。どこかに行きたくてあがいているミエさんの横にただ居ることしかできなかった。
 私が困り果てているのをみかねて、副施設長の戸来さんが助っ人に来てくれた。戸来さんの運転で3人でドライブに出た。すると程なくミエさんは落ち着き、いつもの穏やかな表情に戻った。30分ほど走って帰ってくると、ごはんに誘っても食べる気持ちになってくれてそのまま夕食になった。
 様子を見ていたパンクロッカーの先輩スタッフ酒井さんは、ミエさんはおまえに向かって叫んでいたんだぞ。「帰してけで!」は家に帰してけで、じゃねえ。気持ちを「返してけで!」おまえの気持ちを聞かしてよ!って叫んでるんじゃねえか…と言ってくれた。
 私はミエさんの気持ちをきちんと受け止められず、自分の気持ちもごまかしていたんだなと感じながら、アプローチしてくれたミエさんに、申し訳ない気持ちと、感謝の両方の気持ちを込めて「今日は、ありがとう」と伝えた。するとミエさんは「春が来る、春が来る、春が来る」と三回私に言ってくれた。私は鳥肌が立ち、言葉に出来ないなにかが熱くこみあげてきた。春は始まりの季節…“あなたにも春がくるよ、期待してるよ”と言ってくれたような気がした。見守るという優しさを越えて、挑戦状を突きつけられた感じだった。私は受けて立とうと思った。必ずその気持ちに応えてみせるとそのとき心に決めた。

 そして、第一回目のユニットごはんを私は引き受けた。季節の山菜や筍などの天ぷらを載せた、肉みそうどんととかけうどんの2種類のメニューを考え、他にも卵スープ、ポテトサラダ等を添えて、「春のうどん祭り!」を企画した。
 当日の5月22日、私は午前中からうどん作りを始めた。ミエさんは居室で休んでいたのだが、そのとき普段車いすのミエさんが歩いて居室から出てきた。私は驚いて名前を呼びながら叫んだ。ミエさんは無事にスタッフに支えられながらリビングに歩いて出てきた。まるで、初のユニットごはんに挑戦する私を“全力で”応援してくれるようなミエさんの行動だった。そのとき私は、絶対成功させるよ、おいしいうどんかせるよ…!と燃えた。
 利用者さんに生地をたくさん踏んでもらい、うどん作りはとても良い雰囲気ですすんだ。できたての肉みそうどんをミエさんに渡す…ミエさんは、無言でどんどん口に運んでくれた。「美味しい?」と聞くと、私の目を見て笑顔で“うん”となずく。その瞬間、私は緊張がほぐれ嬉しくなった…。
 ユニットごはんも終わって、いつもなら部屋に帰るミエさんだが、この日はリビングに最後まで一人残っていた。私は耳の遠いミエさんに「ミエさん、返しましたよ!」と紙に書いてみせた。唐突な行動と言葉なのだが、ミエさんは瞬時に「んだぁ〜、返したの」と笑顔で答えてくれた!伝わった…!気持ちが通じる感じがとても嬉しかった。しかし、私はまるで足りない、「返した」なんて本当はまだまだ早い。これからだ。
 私は今、一般的な栄養士の枠組みとはちがう次元の、介護の現場で働いている。しかし、利用者さんと直接出会い、利用者さんの目の前で一緒に料理を作ることができる環境の中にいる。これほど手応えがあって、やり甲斐を感じられる仕事ができることは、普通ではあり得ないとても貴重な経験なんだと思う。私ができることを精一杯尽くし、毎日の生活の中で感謝の気持ちを伝えていきたい。また、“食事”を通して私自身をひとりひとりに伝えていきたいし、ひとりひとりを感じていきたいと思う。
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辰也さんとの夜 ★特別養護老人ホーム 佐藤万里栄【2014年6月号】

 夜、スタッフの千枝さんが96歳の男性利用者、辰也さん(仮名)と動いていた。辰也さんは久しぶりに怒りが出て、怒鳴りながら、玄関に向かった。私は玄関に一番近いユニット北斗からその声が聞こえたので、様子を見に行った。
 辰也さんは、千枝さんに「お前には関係ない!ほっといてくれ!!」というような言葉をたたきつけている。苦しい気がしながら様子をみていたが、そこは二人の空間になっていて私は入れなかったので、私は一度その場を離れてユニットに戻った。
 数分して、二人が気になりもう一度玄関に見に行った。ひとりで行くのは勇気が必要だったが、北斗利用者のカヨさん(仮名)がついてきてくれた。カヨさんの独特の雰囲気が、閉ざされた二人の空間に私を入らせてくれそうな気がした。カヨさんは何も言わず、私と一緒にいてくれた。
玄関には二人はいなかった…!玄関の入り口が開いている、外に出たのか?外はもう暗い。見ると二人は外の駐車場を歩いていた。辰也さんは自分の車を探しているようだ。辰也さんは先ほどよりは少し穏やかになっている様子だった。千枝さんも「どれですかねぇ〜」と、車を探しながら辰也さんと歩いている。
 二人に声をかけようかとも思ったが、しかしそれでは辰也さんがせっかく外に出た意味がなくなってしまうと思いなおし、玄関の明かりをつけて、辰也さんが帰ってくるのをカヨさんと待った。少しすると、二人は戻ってきた。そのときには辰也さんはニコニコして、怒りは消え、持ち前のおちゃめな感じも取り戻していた。
普段なら、この時間には消している、ユニット北斗に続く廊下の明かりを、辰也さんが部屋に帰る道しるべになればと思ってつけておいた。その灯りに引き寄せられるように、辰也さんは私と、カヨさんと3人で歩いて行った。北斗のリビングにつくと、辰也さんは一緒に歩いてきたカヨさんを気にかけてくれて、私に「おい、おばあちゃん、見てなくていいのか?」と言った。そしてにこっと笑って、「生きてるんだぞ?」と付け足した。
 私はその言葉になんとも言えないような気持ちになり、「辰也さんは生きてる?」と聞いた。辰也さんは笑って、「生きてるよ!」と返してきた。私はほっとした気持ちで「死なないでね」というと、今度は少し寂しそうに、「…死ぬ」と返しながら、辰也さんは続けた。「あのなぁ、眠る薬があるんだよ。それを飲むと眠る。人は眠ると死ぬんだよ」
 人は眠ると死ぬんだ。この言葉を聞きながら、私はすごく切ない気持ちになった。辰也さんは、毎夜死んでいるのか?悲しくなってきた私に辰也さんは言う。「お前と一緒に寝たいけど…無理だろ?」と微笑みながら言った。脈絡からすれば、一緒に寝ることは、一緒に死ぬことだ。私は「まだ覚悟ができていない」と言うと「何の?」と返してきた。「…添い遂げる覚悟」と伝えると、「あはは!わかりました!じゃ、おやすみなさい!」と自分の部屋に帰っていった。その後ろ姿を見つめながら私は、辰也さんにすがりついて、引き留めたい衝動に駆られた。そして、私はひとりで泣いた。

 辰也さんは、きっと私と一緒に死んでほしいのだ。辰也さんが抱えている底知れない寂しさがある。私が一緒に寝て、一緒に死んだら、彼は癒されるのかもしれない。
 でも辰也さんも、私も、一緒に死ねないことを知っている。この果てしない隔たりがとても切ない。その切なさが、言葉を越えたところで響いて深い悲しさがおそってくる。
 でも、お互いに一緒に死ねないと気づいたとき、どこかで私たちは一緒に死んでいるような気もした。再び巡る朝がまた二人を蘇らせ隔たりに立たされるとしても。

 新年度の4月、私は里の研修で、現代美術家の杉本博司がコーディネートした、文楽「曽根崎心中」を観に行った。そのときは、愛し合う男女の心中という結末がどうしても納得がいかなかった。心中物語なんだから死ぬのは当たり前なんだけど、なんで愛し合っている二人が死という形で結ばれなければならないのか。素直な疑問で納得できなかった。一緒に行ったスタッフに「何故、どうして」と尋ねまくった。中屋さんは、「自分を刺し殺してくれる相手がいることは幸せだ」と言っていたが、よくわからなかった。
 でも、今夜、辰也さんが投げかけてくれた言葉で、一緒に死ぬという究極の愛が、イメージとして突然衝撃的に私に降り注いできた。一緒に死んでくれる人がいることで、傷つき寂しさを抱えてつぶれそうな私達はかろうじて癒やされ救われる存在なんだ。でも一緒に死ねることなんか到底できやしない。それでも深い闇の中で引き離され、遠く隔たったとき、そこにはお互いの一緒の死がやってくるような気がした。
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『ゲド戦記』 − そなたの真の名は ★施設長 宮澤京子【2014年6月号】

A:What do you do in your free time ?
B:I like reading and listening to music.
A:What kind of book do you like?
B:I read fantasy well. I like 『Tales from Earthsea』that Le Guin
(ル=グウィン)wrote.
 これは、私の英会話の初対面の時のアイスブレイクの練習の一コマだ。そのあと「どんな内容の話なの?どうしてファンタジーが好きなの?」と聞かれても、残念ながら私は、そのさき英語では答えられないので、これ以上には話は深まらない。
 ファンタジーといえば『ナルニア国物語』『指輪物語』『ハリーポッター』など、「本読んだよ、映画も見たよ」と、商業主義に乗せられ、楽しませてもらっただけではないのか・・・という後ろめたさはある。しかし、どの作品もイメージ豊かで、ヒーロー達に感情移入させられる。 物語のスケールが大きいほど、奇想天外であればあるほど、ワクワクさせられ、なんと言っても子どもから大人まで楽しめる。
 中でも『ゲド戦記』は、私の中で別格だ。若い頃はファンタジーが苦手で、やっと触れたのは30代半ばだった。「影との闘い」とか「言霊」といった深い内面性を示唆されると、気持ちが高揚し、さらに好奇心が沸いて、その物語の文体や構造にも興味がいく。
 しかし、そんな私の浅知恵を越えて『ゲド戦記』には、読む者ひとりひとりに深い感銘と共に、個々が生きるのに必要な霊的な糧を与えてくれるような気がする。
 ゲド戦記第1巻の衝撃は、影におびえ逃げ回るゲドに対して、師であるオジオンから「対峙する事」を助言され、ゲドは自らの影(闇)を自らに取り込んでいく。ゲド戦記の凄いところは、その後のゲドが魔法使いの頂点に立つ大賢人になってからの具体的活躍が書かれていないことだ。読者としては、ヒーローとしてのゲドの武勇伝をいっぱい聞きたいし見たいところだが、そこはすっぽり目くらましの術がかけられている。
 第4巻の「帰還」では、故郷に帰って来たゲドは、すでに魔法の力を失い、瀕死の状態で看護され介護されている様子が克明に書かれている。大賢人として大活躍する「doing」の価値ではなく、ただ在る「being」の価値を発見させてくれるところでもある。
 「生きること」が「死ぬこと」を意味するならば、そもそも限りある命の「すること」「在ること」にどんな意味があるというのだろう。そんな哲学的とも宗教的ともいえる根源的な問いに、ファンタジーはリアリティを持って応えてくれている。
 ゲドは、どこに誰といようが、何をしていようと、いつもブレず揺るがず、太古からの大地と、広がる海と大空につながっている。彼の知恵の深さと自他に向ける真摯な眼差しの世界は、若者に未来を「継ぎ・託す」ためであったのだろう。生と死の循環をここで見ることができる。

 今回、『ゲド戦記』によってこの10年ずっと引っかかっていたことが、「ファンタジー」の力で解けそうに感じた。(児童文学では、もともとその主人公がその世界の住人であるものを「メルヘン」とし、主人公が異世界を行き来するものを「ファンタジー」と分類している・・・This is it!「まさに、これだ」)
 ― 里のファンタジーから (概要) ―
 物語の主人公の“通り名”は「輝子」、そして“真の名”は「JUNE:ジュン」。
 輝子は、社会の仕組みに馴染まず、小さい頃から母の手厚い守りのなかで育った。すべて母が与えるもので満足し、それ以外の者に従うことも、与えられることにも関心がなかった。しかし、学校は輝子に教育を施し、大人達は社会に適応させようと躍起になった。どこか不思議な輝子の存在は、学校ではいじめの恰好の餌食になり、彼女は傷つき歪み、病んだ。臆病で怒りやすく、毎夜、呪いの言葉を繰り返した。いつしかその呪いは、彼女の小さな身体を埋め尽くす。彼女が生き延びるには、少しづつその呪いを、外に吐き出さなければならなかった。それは小悪魔を装い、他人を理不尽な言いがかりや中傷で困らせ、自分の排泄物でマーキングし、また自分の身体を傷つけた。輝子は闇の世界で「喰らわれし者」として生け贄になったアチュアンの大巫女アルハ同様、この10年間は一日たりと休むことなく労働に汗し、着実に足場を固め、闘う体勢を整えてきた。輝子は日々、送迎車という近代的な「移送」手段を介して、異界と現実を旅し、悩み苦しみのなかで生きてきた。
 しかし、真の名「ジュン」として姿を現し、その呪いを解く時が来た!
 あなたの小さなアカギレの手は、水をしたたらせ
 あなたの小さな身体は、怒りでわなわなと震え
 あなたの小さな瞳は、意思を伝えようと涙が溢れていた
 しかし今、あなたの足は、大地を踏みしめ自分で歩き出そうとしている
 私はあなたの意思を受けとめ、その行く道を祝福したい
 いつでも帰ってくれば良い。そのとき私は、あなたをまた抱きしめる

「傷は癒えたんだ。おれは一つになった。もう自由だ」
The wound is healed , he said , “I am whole, I am free.”
(ゲドと影はお互いに真の名を唱え、両者は一つになった。)
 輝子とジュンの統合は、まるで『ゲド戦記』第1巻のラストのセリフと重なる。私には「ファンタジー」によって、理不尽な自らの人生に折り合いをつけ、より強くより豊かに生きていこうとする彼女の姿として映った出来事だった。

 しかし輝子とジュンの話は、あくまでも「幻想としてのファンタジー」かもしれない。つまりこれは、彼女に起こったことではなく、私自身に起こったファンタジーだ。私はこの10年、彼女に対して「困ること・危ないこと」の認識はあっても、本当の意味で彼女の苦しみや痛みを感じることは出来なかった・・・排除こそしないが、まるっきり彼女の世界を理解しようとはしていなかった。毎年三月から六月まで、新人職員が生贄のごとくターゲットになり、また自らをも傷つけている姿は痛ましかった。彼女が社交的であればあるほど、私は「いつ、今の彼女の理性と柔和な笑いが豹変するのか」、「いつ、あっちの世界に埋没するか」という恐怖を感じていたし、巻き込まれないように距離を置いて接していた。管理者という立場上の視点や枠から外れる事が出来なかった事はもちろんだが、私の中で、なぜか異界に対する受容には、常に警戒心が働く。しかし、それを打ち破ってくれたのが、「ファンタジー」が秘め持つ“統合による和解”だった。私の中で「あなたを抱きしめ、あなたの意思を受けとめ、その行く道を祝福したい」という感情が沸き起こってきたとき、あなたがどのような状態にいても「もう、大丈夫。受けとめていく」という覚悟と確信が、初めて持てた。こんな事が私の中で起こること自体が奇跡ではないか!
 銀河の里」には、ファンタジーが溢れている・・・こんなことが、日々あちこちで起こっている。案外、人と人が出会うというのは、史実としてのドキュメンタリーだけではなく、ファンタジーの世界を共に生きていることなのかもしれないと認識を新たにした。出会い直しのためにもファンタジーが必要なのだ。
【資料】
 『ゲド戦記』を初めて読む人のために、その概要を紹介する。
 この世で最初の言葉を話したセゴイによって海中から持ち上げられ創られたと伝えられる、太古の言葉が魔力を発揮する多島世界(アーキペラゴ)・アースシーを舞台とした魔法使いゲドの物語。
 アースシーのうち、主にハード語圏では森羅万象に、神聖文字で表記される「真(まこと)の名前」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名で呼び合う。主人公を例に採れば、ゲドが真の名で、ハイタカが通り名である。なお、日本語版のシリーズ名は「ゲド戦記」となっているが、ゲドが主人公と呼べるのは実質的に第1巻のみである。また、戦記とあるが、本作では指輪物語のような戦争の描写はあまりなく、代わりに自己の許容や葛藤、心理的成長といった、内面的なテーマが主題として扱われている。実際に、シリーズ名は原題では「Earthsea」(アースシー、地海)であり、戦記が持つ戦いのイメージが強調されたものではない。

第1巻「影との戦い」 1968年
 ゲド(ハイタカ)の少年期から青年期の物語。ゲドは才気溢れる少年だったが、ライバルよりも自分が優れていることを証明しようとして、ロークの学院で禁止されていた術を使い、死者の霊と共に「影」をも呼び出してしまう。ゲドはその影に脅かされ続けるが、師アイハル(オジオン)の助言により自ら影と対峙することを選択する。

第2巻「こわれた腕環」 1970年
 カルガド帝国が舞台。アチュアン神殿の巫女テナー(アルハ)が中心の物語。名前(自己)を奪われ、地下の神殿の闇の中で育てられてきたテナー。しかしそこに、二つに割られ奪われた「エレス・アクベの腕輪」(銀製)を本来あるべき場所に戻し、世界の均衡を回復しようとする魔法使いゲドが現れる。少女の自己の回復と魂の解放の物語でもあり、ゲドとテナーの信頼、そして愛情の物語としても読める。

第3巻「さいはての島へ」 1972年
 大賢人となったゲドが登場する。世界の均衡が崩れて魔法使いが次々と力を失う中、エンラッドから急を知らせて来た若き王子レバンネン(アレン)と共にその秩序回復のため、世界の果てまで旅をする。
 なお、終焉と世界の変化を暗示する結末から、第4巻が発表されるまでの十数年間、ゲド戦記は「三部作」とされていた。

第4巻「帰還」 1990年
 ゲド壮年期の物語である。ゲドは先の旅で全ての力を失い、大賢人の地位を自ら降りて故郷の島へ帰ってきた。そこで子供たちを産み、未亡人となったテナー(ゴハ)は親に焼き殺されかけた所を危うく救われた少女テハヌー(テルー)と生活していた。ゲドはテナーと生活を始める。ところが元大賢人と元巫女という存在は故郷の一般の魔法使いにとっては目障りでしかなく、3人の「弱き者」たちを容赦なく悪意に満ちた暴力が襲う。魔法の力を失った後に見えて来るアースシーの世界を覆う価値観とは、一体何なのか。それを作者自らが問いかけている作品とも言える。
 第3巻と第4巻の間には発表までに長い間隔があり、フェミニズム色の強い第4巻に戸惑う読者も、また高く評価する読者も、少なくないようである。また、第5巻以降は「9.11」(アメリカ同時多発テロ)後の混沌としたアメリカの世界観が如実に表れている。
 旧版では“―ゲド戦記最後の書―”という副題が付されていた。

 映画『ゲド戦記』(英題:Tales from Earthsea)は、主に第3巻の「さいはての島へ」を原作とし、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』を原案とした長編アニメーション映画。スタジオジブリ制作。東宝配給で2006年7月29日に劇場公開。宮崎吾朗監督・脚本の独自解釈によるストーリーとなっている。
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研修に参加して− 舞台「海辺のカフカ」★特別養護老人ホーム 高橋愛実【2014年6月号】

 6月6日、さいたま芸術劇場で村上春樹の原作小説「海辺のカフカ」の舞台を鑑賞した。原作の小説は研修前に読み終えたばかりで、新鮮な終読感を抱えたままの観劇となった。物語のなかでは、「性」や「暴力」「生きること」の普遍的な問いかけがある。
 私がこの作品で考えさせられたのは「失われた時間」のことだった。主人公のカフカ少年と、もう一人の主人公である老人ナカタさんは、それぞれの「失われた時間」を取り戻す旅をしている。二人の旅はパラレルワールドとして別々の場所から並行して進んでいく。
 舞台は小説の感動とはまた違って、新しい身体に生まれ変わったかのように、私を4時間のパラレルワールドに連れていってくれた。物語の1シーンとなるサービスエリアや街の灯り、森や図書館が、水槽のようなガラス箱に入れられ舞台上を漂う。現実から切り離された仮想空間のような場所が次々と展開する。カフカ少年が身を寄せる四国の片田舎の図書館の司書である大島さんは「世界はメタファー(暗喩)だ、田村カフカくん」と言う台詞があるが、まさにそんな世界を表現しているかのようだった。

 15歳のカフカ少年は父親からかけられた「ある呪い」から逃れるため家出をし、高松の図書館に辿りつく。少年は幼少期に母親から捨てられたことで生きる意味を失いかけていた。図書館の管理者である佐伯さんは20歳のときに恋人を失ったときから、彼女にとってそれから現在までの時間は空白でしかない。二人は空白を埋めるような時間を共に過ごす。海辺を漂うような二人の時間。風にゆれるカーテンと佐伯さんのブルーのワンピースが舞台の奥深くに私を誘い込んで行く。

 老人のナカタさんは子どもの頃に体験したある事件で記憶喪失になり、読み書きもできなくなってしまう。「ナカタは怖いのです。ナカタはまったくの空っぽです。空っぽということは空家と同じなのです。鍵のかかっていない空家と同じなのです。なんだって誰だって自由にそこに入ってこられます。ナカタはそれがとても恐ろしいのです」そんなナカタさんは猫と会話できたり、空から魚が振ってくるのを予言したりする。
 空っぽのナカタさんが悪の象徴ジョニー・ウォーカーに出会い、自分が自分でなくなる感覚のなかでジョニー・ウォーカーを殺害してしまう場面がある。戦争で殺すか殺されるかの選択を迫られた兵士のような状況で、ナカタさんのなかに眠っていた得体の知れない何かがざわめきはじめる。自分が探している猫を救うには、殺人をしなければならない。猫が次々に殺されていく光景を目の前に「ナカタはもうナカタではないような気がするのです」と絶望的な叫びを絞り出すナカタさん。舞台では暴力的な場面が小説よりも視覚的で露骨な演出に目を背けたくなってしまう。ナカタさんが自分のなかの激しい「憤り」と出会った瞬間だった。

 トラック運転手の星野青年は、ナカタさんに出会い共に旅をするうちにナカタさんの目で世界を見るようになっていく。ナカタさんは青年のこれまでの「生」の空っぽに新しい光を与え、青年はナカタさんの空っぽに入っていく「悪」と対峙し、最終的にナカタさんの「生」を引き継ぐ存在となる。ナカタさんも佐伯さんも、あちら側に身体が半分浸っているためなのか影が半分しかない人たちで、いずれ死を迎えるのだが、カフカ少年や星野青年との出会わなければ、二人は誰にも思い出されることのない孤独な死を迎えたかもしれない。

 カフカ少年は捨てられた過去を受け入れ、少年が母親であると信じる佐伯さんの記憶を生きる。佐伯さんは、空白の数十年を共にしてきた、亡くなったかつての恋人が描いた絵を少年に託す。受け取ったカフカは現実世界へと帰って行く。
 「僕は生きることの意味がよく分からないんだ」と言う少年に、佐伯さんは「絵を見なさい」と言う。少年はこれから生きて行く中で何度も繰り返し、その絵を見ては佐伯さんを思い出すだろう。演劇では出てこなかったが、星野青年はナカタさんとの道中で聞き続けてきた名曲「大公トリオ」を聴いては「生」への希望を繋いでいくだろう。
 最後には、それぞれパラレルワールドで展開してきた佐伯さんと、ナカタさんが出会う場面が物語の圧巻の場面だ。失われた時間を空白のまま、思い出によって生きてきた佐伯さんと、思い出を持たないナカタさんが出会う。佐伯さんは言う。「思い出は、あなたの身体の内側から温め、それと同時にあなたの身体を内側から激しく切り裂いていきます」
 思い出を手放そうとしている佐伯さんに、ナカタさんは言う。「ナカタにも少しだけわかります。思い出というのが、どのようであるかがです。サエキさんの手を通して、ナカタにもそれは感じられます」
 カフカ少年は家出したときの空っぽの状態から成長を遂げ、大切な「母」の思い出を胸に家路につく。「失われた時間」は、そこに帰って行くためにあるのではなく、強く生きていくための「痛み」なのかもしれない。
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追いつめられた「母」★ワークステージ 日向菜採【2014年6月号】

 私はこれまで、現場で7年を経てきたなかで「母性」を求める利用者のケースと少なからず対面してきた。生まれてから母親というものを一度も感じることができずにきた人や、家族に恵まれていても母親的存在が複数必要な人など様々である。また、実際の母親が必ずしも母性と結びつくというわけでもない。現実とは別に、個々の中にある母親像を求めることは、根源的な欲求であり、個を支える重要な課題として母なる存在が見えてくる。私自身はまだ子どもを育てた経験がない実際の母ではない。それでも、私の中に母を問われることが現場ではしばしば起こってくることがあった。それを精一杯受け止める姿勢でやってきたのだが、そうやってこれまで母を演じさせてもらったことで、私自身のなかの母が育ててもらえたように感じる。それでも、私の中の母はどれほど確かなのか、おぼろげで、まるで頼りなくて、器は小さい。
 そんな私の母を試し、鍛えるような、今までのケースをはるかに超える新しいケースにこの新年度は直面することになった。母親を求めるのは変わりないのだが、対象としての母像を求めると言うよりも、一体感の中に溶け戻ろうとするような、高温の破壊的なエネルギーが噴出し爆発した感じだった。私とケースに留まらず、周囲も含めて利用者もスタッフも多くの人たちがその凄まじい力に襲われ翻弄される。
 女性ではあるが、大人の大きな体が、私のひざの上にのって抱きつくと、激しい身体接触になった。ものすごい勢いで私に襲い掛かってくる。私が本気で抵抗しても、力ずくで襲ってくるので疲れ果ててしまう。それが毎日繰り返される。あまりにも過激すぎて、これは愛着行動と言うよりただの暴力ではないのかと思わされる。
 今までも男性利用者が母を足りなく感じて求めるとき、暴れたり、暴言になったりすることはあったのだが、それはまだ理解できる範囲に留まっていたように思う。
 これまで母を求められた経験とはまるで次元の違う暴力的な激しさを感じた。これまでは、一緒に時間を過ごすことや、思い出を共有するなど、ふたりの関係の中で積み重ねて行きながら、関係の深さや強さになってきたと思う。だが今回はそんな悠長な話とはまるで違って、形のないものや間接的、象徴的な積み重ねはまったく通用せず、直接的に具体的に母を求めてくる感じだった。
 その破壊力は相当で、その影響で、周囲の利用者もスタッフも多くの人が揺らがされることになった。他の利用者は「自分をもっと見てほしい」との思いが強くなり、これまで押さえていた人達もこらえていた堰が切れたように甘えたくなる人も出てきた。新人スタッフは、そうした渦に飲み込まれるように不安を煽られ仕事ができる状態ではなくなった。そんなこんなでワークステージでは新年度早々から、嵐の日々が続いた。
 一体これは何なのか。社会的にはもう立派な大人で、直接的に抱きつくなどして甘えるなどということは、したくてもどこかに戸惑いがあり、本人自身がひそかに押さえていたと思う。想いは直接的な愛着行動にいたらないまま、表には出ないでどこかで渦巻いていたのかもしれない。それが遠慮容赦なく爆発噴出した。社会性などお構いなしで、毎日襲い掛かってきた。時にはきつい口調で「やめて!」と拒否しても、まったく堪えていない様子だ。私は、他者としてではなく、自分の欲求を満たしてくれる自分の一部として捉えられているように感じた。完全な一体感は、私の強い拒否にも少しも傷つかない。これは、個が確立する以前の、母子一体化の状態にあるように感じた。
 時代は更に母を失いつつあるのかもしれない。数年前の求められ方とは次元が違う。今求められる母は、これまでよりもさらに幼い時代、身体的愛着のその先の、母子一体の時期にまで遡らないといけないのだろうか。
 最近、親子なのに女友達のような母と娘をよく見かける。仲良いのは素晴らしいことだが、親と子が分離できないまま、同じ位置にいる違和感がある。母と娘の一体化によって、母親は母になれず、娘はいつまでも母になれない。一体感のまま、自立できないで、社会的に大人や親になってしまい、子どもを育てていく立場になるという悪循環は、先の見えない連続性、永遠に空回りしているような大きな課題として存在しているのかもしれない。
 
 時代がどう病んでいようと、現実は我々の現場に押し寄せる。爆発力に満ちたこうしたケースに、どう取り組んでいくのか、まったく方法は見出せない。私の貧弱な母は追い詰められギリギリの極限に立たされる。それでも私のなかの母を鍛えながら、受け止めていこうと思う。ギリギリではあるが、逃げるつもりはない。どこかで信じている。変わらない訳はない。通じないはずはない。いつか何かが絶対に動くときが来る。簡単ではない。何年もかかるだろう。それでも希望は必ずある。根拠のない期待かも知れないが、確信はある。センチメンタルに信じている訳ではない。現実の手応えと、傷の痛みに耐えながら確信が湧いてくる。私自身が今までと違う次元の「母」を育て、鍛えながら、しばらく振り回されるしかない。
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“麻雀放老記”レポ@ ★施設長 宮澤京子【2014年6月号】

 以前、まだ銀河の里に特養がなかった頃、花形になりつつあった「ユニット新型特養」の先進地視察に参加し、施設内を案内してもらった時のことだ。何より私は、娯楽ホールに人がいなかったこと、立派な雀卓3台が寒々しく打ち捨てられていたことが印象に残っている。「驚くじゃないか!特養ホームで、雀卓を囲んでゲームを楽しむことが出来るのか?何と、品がないことよ」と、軽蔑の眼で見ていた。

 私には、競馬や競輪そしてパチンコや花札だの「賭け事」に対してのトラウマがある。小さい頃、父親の賭け事の勝敗が、常に我が家の空気を左右させていた。夕餉の膳がひっくり返されたり、デリッキの打ち下ろされる音と共に、罵声や怒鳴り声に、子ども達みんなが怯えるなどの苦い記憶が、鮮明に蘇る。だから、そういった世界には関わりたくなかったし、結婚して夫になる人の条件は、「賭け事をやらない人」と決めていた程だ。
 ところが高校の時、先輩後輩の上下関係の厳しい伝統ある卓球部に所属しており、卓球の練習の後には「麻雀」が恒例になっていた。もう45年も前のことだから「時効」ということで、ここで暴露するが、私は勉強など全くせず、部活と麻雀に明け暮れるという、とんでもない高校生活を送っていた。だから高校卒業と同時に北海道を飛び出した時は、手放しうれしかった。そして、「私のことを誰も知らない東京でなら、きっと新しい自分になれる」と言った根拠のない期待に胸を膨らませていた。
 ところで麻雀の腕前は、部活の卓球同様、「さっぱり」うだつの上がらない雀士だった。下手に牌を棄てると、「どうしてその牌が切れるかなぁ、場を読めよ」「そんな手で上がれるわけないだろう」「はやく捨てろよ、いくら考えても同じだろ」と、うるさく先輩達の指導やら攻撃を受けた。時々、ビギナーズラックで上がったりすると、「オメェの手、読めネェよ」と馬鹿にされた。振っても上がってもそんな訳で、さっぱり面白くなかった。だからその頃、卒業してからの新しい天地のことしか考えなかった。上京の理由は、実業団に入って卓球を続けることだったが、上京後すぐに卓球は挫折!全くお呼びじゃなかった。冷静に考えたなら「そんなこと、分かっていた」・・・今なら、上京するための口実としか思えないと確信する。なんて無謀な進路選択の一コマだったろう。しかし、10代の根拠のない期待と無謀な選択によって、今の自分があると思うと、人生何やら楽しくなる。

 さて45年経って、「銀河の里」の管理者である私が、デイサービスで時々「麻雀」をやっている。小さい頃のギャンブルのトラウマも、高校時代のコンプレックスもぶっ飛んで、今は麻雀であの頃の「心の負い」が解放されているように感じる。
 一体デイサービスにある雀牌は誰のものなのか、いつ誰が始めたのか、管理者なのに私は知らなかった。興味を持った今だから、目に入ったというのか?

【銀河デイの麻雀クラブ】
 新型特養の視察先で見た立派な雀卓など、糞食らえだ。デイでは、長テーブルの半分に黒布が敷かれる。当然残り半分は、すでにオセロや将棋の盤がおかれて勝負が続行されている。周りは、アカペラの演歌や唱歌で場を盛り上げてくれる。ともかく麻雀は4人のメンバーが揃わないと出来ない。ひょんな事から、メンバーを探しているところに行き合った私。利用者2人と麻雀を全く知らないスタッフ2人じゃ話にならないだろう。「よっしゃ、久しぶりだけど仲間に入れて!」と割り込ませてもらったことから“麻雀放老記”は始まる。(これ以下の文章は、雀士のニックネームで書いていることを了解頂きたい)
 不思議なことに、記憶力が良かった10代に覚えた麻雀は、ルールだけでなく、あの頃交わされていた会話さえも次々思い出される。興奮して、私の言葉は止まらない。利用者2人も、私に刺激されたようで、ぽつりぽつりと話をしてくれる。いつもなら聞くことの出来ない話だったり、所作だったりする。「麻雀はよぉ、酒飲みながら奥さんの作ってくれるつまみを食べながらやるものよ。」「おぉ、いい手だな」「安い手だから、安心して振って良いぞ」等、二人は優しい。そして、ルールが緩いのも嬉しい。「あれっ、おれ牌の数、合わねぇ、一個もらっていいですか」と“菊新”。「違う違う、こっちから取って」と私。「それ、ポンですか?チですか?」との問いに、すかさず外野から「何々、ぶっ壊れポンチ?」と野次まで入る。ほんとに「ゆるジャン」は、居心地良い。ここでは、麻雀は「老い」の解放空間になっている。
 今のところ、私は新人スタッフの“菊新”に「へぼ雀」を教えながら、利用者二人と雀卓を囲む。この二人は時にメンバーが替わる。つまりデイ利用者の中に雀士が三人いるのだ。この組み合わせによっても場の雰囲気は変わる。ギャラリーも、女性が多かったり男性だけだったりと面白い。「私もやれるのよ、ホラこの白いの」などと、“菊新”の手の内をばらすエミ子さん(仮名)。「おぉ不味い、読まない読まない!お願いだから」と必死に頼んでいる姿も頬笑ましい。常に真面目な“ポキ公”は、真剣そのものだ。ポーカーフェースで「白ポン・次は東ポン・・・」と晒していく。「おっと、危ない危ない」と緊張しているところ、隣の“ハンター広”は4手で、すでにリーチを掛けている。なのに、この勝負流れた。“ハンター広”に「ねぇ、どの牌で待ってたの?」と、攻め寄るが「安い手、安い手」といって、見せてくれない。「リーチ一発・積なんて高望みはしないけど、せめて‘タンヤオ・ドラドラ・バンバン’なんて格好いいよねぇ」とつぶやくと、「そうだ、そうだ」と頷いてくれるが、“ハンター広”の早めのリーチは続く。「リーチのみ!ってのは、ひどくない?」「そうだ、そうだ」とニヤニヤ笑って、やっぱり早めのリーチをかけてくる。「もぉー、手(役)作れないじゃん」と私。そんな二人の会話にお構いなく、“ポキ公”は黙々と自分の手を作っていく。新人と思って油断していたら、何と‘三暗刻’でテンパっている“菊新”にドキッとさせられる。

 いつも3時頃から始まるので、丁度おやつタイムと重なる。黒布の上にお茶とおやつが運ばれてくる。4人分、いやいやギャラリーと隣のオセロ組がいるので、テーブルはしっちゃかめっちゃか状態だが、みんな一向にお構いなしだ。今日は、おいしい芋団子のみたらし掛け。お椀に箸、湯飲みが並ぶ。私はボリュームいっぱいのお椀から、「“ハンター広”、少し食べてくれない?」と、分けようとしてお椀を持って行くと、「いらね、いらねぇ」と断られる。フードゲッターの“ハンター広”に断られたのだ!!応援隊の栄子さん(仮名)はもちろんおやつには手をつけない。テーブルには手がつけられていない芋団子が並んでいる。この光景は、何なんだ。「勝負に食い物は、邪道って事?ねぇ、おやつ食べようよ!」
 さて“ポキ公”は、タイムキーパーだ。時間を見ながら、あと何回出来るかを計算し、どんなに盛り上がっていても、デイサービス送迎時間の4時半前にはすべての片付けが終えられるように段取りを組んでくれる。そして、私と目を合わせずに「オレ、木曜日来るからよ。お願いします」と次の“ポキ公”の利用予定日を教えてくれる。「お手柔らかに」と、私もうれしくなって返事する。案外私は、父親譲りのギャンブラーなのかもしれないと浮かれ気分になる。

 初めて“ニコ倫”とお手合わせさせてもらった時は、「オレ、もう90だよ」と余裕の笑顔が印象的だ。ところが、ゲームが始まると、とてつもなく慎重で、牌を捨てるときの時間が長い。じっくり考えている。みんなの捨て牌を、1巡目から丁寧にも指さし確認している。「でも、まだ始まったばかりだし・・・」と私は、我慢できず少しイライラする。なのに皆んなは、この長い間の取り方にも一向平気だ。考えている“ニコ倫”を、10分でも20分でも待ってくれそうな感じだ。ギャラリーの人達だって、誰を何を応援しているのか?麻雀が進展していなくても楽しげで、勝手に場が盛り上がっているのだ。凄いことだ!ここの世界のギャンブルには、通常ルールではない別ルールが存在しているとしか思えない。
 さて、『麻雀放浪記』に登場する闘魂凄まじき雀士とは異なり、個性的かつ異界力に満ちた銀河デイの雀士達と、彼らを取り巻く仲間達が繰り広げる摩訶不思議な“麻雀放老記”の第2弾をレポートしていきたい。乞うご期待下さい!

“麻雀放老記” 宮澤京子レポ
【雀士の紹介】 ゴメン!勝手に名前を付けさせてもらいました。
ハンター広(ヒロ)   :にんまり/狙った獲物(フード)は逃がさない
ポキ公(コウ) :ポーカーフェイス/真面目/完璧なタイムキーパー
ニコ倫(リン)  :にこやか/慎重の5乗 /ダンスの名手
菊新 (キクシン)  :(新人菊地)雀歴なしで独学中だが、ギャンブラーの素質ありやなしや?
ヘボ辛(シン)    :施設長の雀歴は2年(その間、辛酸なめ子状態を経験している)
注)『麻雀放浪記』 阿佐田哲也著 
 ご存じの方も多いと思うが、下記に「概要」をウィキペディアから転載する。
ギャンブルとしての麻雀を題材としており、文中に牌活字がしばしば登場する娯楽小説である。戦後復興期のドヤ街を舞台として、主人公「坊や哲」をはじめ、「ドサ健」、「上州虎」といった個性的な登場人物達が生き生きと描かれ、彼らが生き残りをかけて激闘を繰り広げるピカレスクロマン(悪漢小説)として評価が高い。
 1969年(昭和44年)、『週刊大衆』に最初のシリーズ(のちに「青春編」と呼ばれる)が連載され、昭和40年代の麻雀ブームの火付け役になった。以後、1972年(昭和47年)までに計4シリーズが連載された。
 私は、かつてこの本を読み、映画も観ました。何を隠そう、今も「坊や哲」真田広之のファンです。
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「あじさい」★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2014年6月号】

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★6月の花といえば、梅雨時期に咲くあじさいですね。青と紫のパステルカラーでかわいらしく、また存在感のあるあじさいを描きました。
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「スポーツ大会 水泳競技にて」★ワークステージ 河口さん【2014年6月号】

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★6月7日に開催された大会に、河口さんは選手として水泳競技に出場しました。声援を受け、がんばって泳ぐ姿を描きました!
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「手植えにて 〜 苗を投げて渡す様子」★ワークステージ 村上幸太郎【2014年6月号】

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★5月29日に行われた手植えには、ワーカーの方々も多数参加しました。
田んぼに入って植えている人の手持ちの苗が無くなった際に、畔(あぜ)から苗を投げて渡します。うまく手元に届けば良いのですが、外れてしまうと、バッシャーン!と泥水のしぶきがあがり、悲鳴やら笑いやら盛り上がります
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