2014年05月15日
はね返したターミナル ★特別養護老人ホーム 佐々木広周【2014年5月号】
特養のユニットすばるへ入居されているユキさん(仮名)は食べることにちょっと執着がある。2年前、誤嚥性肺炎で入院し、食事の形態が常食からソフト食というペースト状のおかず+お粥になった。飲み物にもトロミをつけて飲むことになった。ところがユキさんは「ご飯くださーい!お粥ばっかり!」「ベチャベチャづいのばり! みんなさは立派なのよこして、オラさは、な〜んにも!」等々、毎日、毎食、大声で不満をこぼすのが習慣になった。リビングで叫んでいるユキさんは「私はひどい目にあわせられてます」と周囲に宣伝しているようだった。
そこで、看護師がいる時間帯はお粥じゃなくて、柔らかめに炊いたご飯を食べてもらおうということになったのだが、朝食の時間帯だけは看護師が不在なのでお粥は変わらなかった。そうして「ごはんくださーい!」がユキさんの毎朝の恒例行事となった。栄養士も奮闘して、おかずもソフト食より食感のある刻みソフトという形状が作られた。
それでも、ユキさんの不満は収まらない。食べられないんだし、無理すれば詰まって肺炎になるし、どうしようもないんだからとムキになって言い返しても、そんな言葉は全くユキさんの耳に入らない。ひとしきり不満を吐き出してから食べ始める日々が続いた。
以前から、食事の最中に戻しやすい傾向があり、検査したが、特に所見はなかった。詰め込み食いが原因ではないか、気持ちの関係もあるのではないかと、何度も話し合ったが、去年の11月から急に食が細り、1日1食程度しか食べられなくなった。むせや嘔吐の回数が増え、「具合悪りぃ、食いたぐね、べっこ休む」と食事の途中で居室へ戻って休むことが増え、体重は次第に減っていった。
職員が隣について詰め込み食いを抑えようとしたが「食うなってか?食べてると取っけされる。んだば食わね!」とふてくされて居室へ戻ってしまったりした。それでも隣についていないと、詰め込んでしまって吐いてしまう。苦悩の日々が続いた。
11月に入ると、気管支炎を悪化させて肺炎となってしまった。絶飲食で点滴での治療となったが、のどが渇き「水っこー!飲ませてけで!」「オラもう死ぬ所だから・・・」と叫んだ。口の中を潤そうとしても「何するってや!」とスタッフに手も出る。入れ歯もつけたままで外してくれず、「取れねぇ歯なの!」と抵抗した。
この頃のユキさんは何かと戦っていたのだろうか。12月中旬に娘さんが寒そうだからと被せてくれた紫の毛糸の帽子をずっと被り続けた。しかも、愛用していたピン止めを帽子につけ、その数は毎日増え、針の山のような、穏やかじゃない姿になっていった。お風呂も入らず帽子を取ろうとすると怒った。しかたなくとってもらった時も「どこさやったの!? オラの兜!」と“帽子”と言わず“兜”と言った。確かにピン止めが何十本と刺さっている敵を寄せ付けない強そうな兜だった。そういえば以前、歯のことを“牙”と言ったこともあった。私は「しっかりね」と励ます位しかできなかったが、ユキさんは小さくうなずいてくれた。
その後、肺炎は治ったものの、さらに食べなくなり、栄養を補うために点滴が続けられた。元気な頃の“夜のユキさん”は昼とは別人のように優しく、柔らかい雰囲気なので、つい添い寝をしたくなったものだ。ところがこの頃のユキさんはそれも許さなかった。歳の暮れのある夜、添い寝する宮さんに・・・「皆、こうやってダンゴみてーにオレの隣さ来るけど、 ダンゴも食わせてねえで! べちゃべちゃずいの、どうやって食えって!」と言い「あっちさ行ってください!」と怒って手が出た。どこか“人から離れたい”という感じがあった。
なんとか年越しをして1月に入ったが、食べられず、点滴が続いていた。病院で家族さんも含めて話し合いがあった。嚥下訓練を受けるなどの案もあったが、高齢でもあり、それほどの効果は期待出来ないとのことだった。また「本人の希望に任せます・・・」との家族さんの意向もあり、病院から「帰りたい」とハッキリと言っているユキさんは入院治療はせず、銀河の里に戻ってきた。それは、事実上ターミナル期への突入を意味していた。
ところが、里へ帰ってくると、ユキさんはゴミ捨て(居室のゴミ箱からリビングの大きいゴミ箱へゴミを持ってくる)や、腹時計(眠っていても食事やおやつの時間にぴったり目覚める不思議な時計)を復活させ、生きる気持ちが灯った感じだった。それでも頑張って食べようとする想いとは裏腹にほとんど食べられず、「水っこー!飲ませてけで!」という叫びが毎日ユニットに響いた。
そんなある晩、ユキさんが動いた。夜、突然リビングへ出てくると水道の蛇口をひねり、水をコップで数杯ゴクゴクと飲み干した。私や他の職員の目の前だった。本来なら誤嚥の心配があり、トロミをつけて水分を摂ってもらっているので、職員としては止めに入らなければならないはずだ。けれども、誰も止めない。止められなかった。気迫に圧倒され、呆然と見ていただけだった。ユキさんはゴクゴクと数杯、水を飲み干すと、満足そうな表情を皆に見せた。
その表情はユキさんが“大丈夫だよ”と言っているようだった。その後、主治医から“ユキさんの好きな物を食べて良い”と絶食がとけた。ユキさんの食べたいものはなにかわかれば何でも出そうと、ユニット職員も栄養士も立ち向かった。ユキさんに尋ねても「美味しいもの食べたい♪」としか言わない。“自分達で考えろ!”と言っているようだ。みかん缶、甘酒、プリン、ポタージュスープ、にぎり寿司など、様々なものが並べられた。ユキさんは「こんなもの」と文句をつけるほど、本当は気に入っているという少女的ひねくれがある。ケチをつけながら食べてくれるその姿が愛おしかった。
そんな中、ユキさんが語った。「柄杓で水が飲みたい」「柄杓でパァーンっと!」と言ったのだ。“柄杓”・・・神社、初詣だ!
数日後、私はユキさんと初詣に神社に出かけた。体力を考えると、もう出かけるのは無理かもかもしれないと思っていたが、覚悟を決めた。車の移動だけで「疲れた・・・帰るべ」と洩らすほど体力はなかった。“もうすぐだから、頑張って!”と励ましながら鳥谷ヶ崎神社へ到着する。ユキさんが昔よく来たという思い出深い神社だ。
到着すると表情が明るくなり「オラ歩けないから連れてってけで♪」と乗り気だ。境内に入ると、一目散に手水舎に向かって行く。「水っこ!水っこのむ!」と気がせいている。ユキさんは自分で柄杓で水をすくって口に持って行く。その時、私は緊張が走って不安がよぎる。“誤嚥して、肺炎になってしまうかもしれない”。同時に“この水で生き返る”とも希望の光も感じた。一瞬の勝負のようだった。私は覚悟してユキさんを信じた。ユキさんも「私を信じろ」と言っているようだった。死んでもこの水を飲まずにはおれないユキさんを感じた。
ユキさんが柄杓の水をグイッと飲み干す。しばらく目を閉じ、なんとも幸せそうな表情で味わったあと「あ〜うまかった♪ ・・・さっ、帰るべ♪」と言ってのけた。初詣というより水を飲むことが目的だった。私はやった!と感じホッとして脱力した。
そのあと、お参りに拝殿へ向かう。「みんなのように歩きたいです!」とユキさんはお願いした。参道を二人で歩きながら、今までとは違う関係になったように感じた。
不思議な事にその日を境に、ユキさんは食事中むせることが急激に減り、嘔吐もほとんどなくなった。食事の量も次第に元気な頃と同じくらいに戻り、点滴はいらなくなった。ターミナルを覚悟したのが嘘だったかのようにユキさんは元気になる。ユキさんが自分の進む道を選択する時、それがどんな選択だとしても、私が受け入れられる覚悟が出来たから、ユキさんは蘇ったのではないかと感じる。生きていても、死んでも変わらず繋がっていられる関係になったような気がする。
2月、私はユキさんとまた烏谷ケ崎神社へ行った。前回同様、手水舎の水を美味しそうに飲み、お参りもする。今回は「3つお願いした♪」とユキさんは微笑む。前回より願い事が増え、意気揚々のユキさんだ。内容は「ヒミツ♪」と教えてはくれなかった、その表情は少女のようだった。秘密なのは初めてだった。
帰りには、いつものようにマルカンデパートへ寄る。普段はソフト食なのに、ここでは寿司をむせることなく完食。伝説の七不思議だ。さらに今回は吸い物やお茶までトロミをつけず口にした。そして「いい味してら♪」と笑った。
初詣のあの瞬間から、私とユキさんの関係はどこか別次元で繋がったようで、どこにいても信じ合える感じがある。今ユキさんは数年前に私が出会った頃よりも元気そうで、毎月の神社参りを楽しみにしてくれている。食事介助で隣に座った私の食事を堂々と食べたりもしている。頭には緩めのフワッとしたエメラルドグリーンの毛糸の帽子をかぶり、長きに亘った戦の証“針の兜”は、居室のすみにそっと置かれている。
そこで、看護師がいる時間帯はお粥じゃなくて、柔らかめに炊いたご飯を食べてもらおうということになったのだが、朝食の時間帯だけは看護師が不在なのでお粥は変わらなかった。そうして「ごはんくださーい!」がユキさんの毎朝の恒例行事となった。栄養士も奮闘して、おかずもソフト食より食感のある刻みソフトという形状が作られた。
それでも、ユキさんの不満は収まらない。食べられないんだし、無理すれば詰まって肺炎になるし、どうしようもないんだからとムキになって言い返しても、そんな言葉は全くユキさんの耳に入らない。ひとしきり不満を吐き出してから食べ始める日々が続いた。
以前から、食事の最中に戻しやすい傾向があり、検査したが、特に所見はなかった。詰め込み食いが原因ではないか、気持ちの関係もあるのではないかと、何度も話し合ったが、去年の11月から急に食が細り、1日1食程度しか食べられなくなった。むせや嘔吐の回数が増え、「具合悪りぃ、食いたぐね、べっこ休む」と食事の途中で居室へ戻って休むことが増え、体重は次第に減っていった。
職員が隣について詰め込み食いを抑えようとしたが「食うなってか?食べてると取っけされる。んだば食わね!」とふてくされて居室へ戻ってしまったりした。それでも隣についていないと、詰め込んでしまって吐いてしまう。苦悩の日々が続いた。
11月に入ると、気管支炎を悪化させて肺炎となってしまった。絶飲食で点滴での治療となったが、のどが渇き「水っこー!飲ませてけで!」「オラもう死ぬ所だから・・・」と叫んだ。口の中を潤そうとしても「何するってや!」とスタッフに手も出る。入れ歯もつけたままで外してくれず、「取れねぇ歯なの!」と抵抗した。
この頃のユキさんは何かと戦っていたのだろうか。12月中旬に娘さんが寒そうだからと被せてくれた紫の毛糸の帽子をずっと被り続けた。しかも、愛用していたピン止めを帽子につけ、その数は毎日増え、針の山のような、穏やかじゃない姿になっていった。お風呂も入らず帽子を取ろうとすると怒った。しかたなくとってもらった時も「どこさやったの!? オラの兜!」と“帽子”と言わず“兜”と言った。確かにピン止めが何十本と刺さっている敵を寄せ付けない強そうな兜だった。そういえば以前、歯のことを“牙”と言ったこともあった。私は「しっかりね」と励ます位しかできなかったが、ユキさんは小さくうなずいてくれた。
その後、肺炎は治ったものの、さらに食べなくなり、栄養を補うために点滴が続けられた。元気な頃の“夜のユキさん”は昼とは別人のように優しく、柔らかい雰囲気なので、つい添い寝をしたくなったものだ。ところがこの頃のユキさんはそれも許さなかった。歳の暮れのある夜、添い寝する宮さんに・・・「皆、こうやってダンゴみてーにオレの隣さ来るけど、 ダンゴも食わせてねえで! べちゃべちゃずいの、どうやって食えって!」と言い「あっちさ行ってください!」と怒って手が出た。どこか“人から離れたい”という感じがあった。
なんとか年越しをして1月に入ったが、食べられず、点滴が続いていた。病院で家族さんも含めて話し合いがあった。嚥下訓練を受けるなどの案もあったが、高齢でもあり、それほどの効果は期待出来ないとのことだった。また「本人の希望に任せます・・・」との家族さんの意向もあり、病院から「帰りたい」とハッキリと言っているユキさんは入院治療はせず、銀河の里に戻ってきた。それは、事実上ターミナル期への突入を意味していた。
ところが、里へ帰ってくると、ユキさんはゴミ捨て(居室のゴミ箱からリビングの大きいゴミ箱へゴミを持ってくる)や、腹時計(眠っていても食事やおやつの時間にぴったり目覚める不思議な時計)を復活させ、生きる気持ちが灯った感じだった。それでも頑張って食べようとする想いとは裏腹にほとんど食べられず、「水っこー!飲ませてけで!」という叫びが毎日ユニットに響いた。
そんなある晩、ユキさんが動いた。夜、突然リビングへ出てくると水道の蛇口をひねり、水をコップで数杯ゴクゴクと飲み干した。私や他の職員の目の前だった。本来なら誤嚥の心配があり、トロミをつけて水分を摂ってもらっているので、職員としては止めに入らなければならないはずだ。けれども、誰も止めない。止められなかった。気迫に圧倒され、呆然と見ていただけだった。ユキさんはゴクゴクと数杯、水を飲み干すと、満足そうな表情を皆に見せた。
その表情はユキさんが“大丈夫だよ”と言っているようだった。その後、主治医から“ユキさんの好きな物を食べて良い”と絶食がとけた。ユキさんの食べたいものはなにかわかれば何でも出そうと、ユニット職員も栄養士も立ち向かった。ユキさんに尋ねても「美味しいもの食べたい♪」としか言わない。“自分達で考えろ!”と言っているようだ。みかん缶、甘酒、プリン、ポタージュスープ、にぎり寿司など、様々なものが並べられた。ユキさんは「こんなもの」と文句をつけるほど、本当は気に入っているという少女的ひねくれがある。ケチをつけながら食べてくれるその姿が愛おしかった。
そんな中、ユキさんが語った。「柄杓で水が飲みたい」「柄杓でパァーンっと!」と言ったのだ。“柄杓”・・・神社、初詣だ!
数日後、私はユキさんと初詣に神社に出かけた。体力を考えると、もう出かけるのは無理かもかもしれないと思っていたが、覚悟を決めた。車の移動だけで「疲れた・・・帰るべ」と洩らすほど体力はなかった。“もうすぐだから、頑張って!”と励ましながら鳥谷ヶ崎神社へ到着する。ユキさんが昔よく来たという思い出深い神社だ。
到着すると表情が明るくなり「オラ歩けないから連れてってけで♪」と乗り気だ。境内に入ると、一目散に手水舎に向かって行く。「水っこ!水っこのむ!」と気がせいている。ユキさんは自分で柄杓で水をすくって口に持って行く。その時、私は緊張が走って不安がよぎる。“誤嚥して、肺炎になってしまうかもしれない”。同時に“この水で生き返る”とも希望の光も感じた。一瞬の勝負のようだった。私は覚悟してユキさんを信じた。ユキさんも「私を信じろ」と言っているようだった。死んでもこの水を飲まずにはおれないユキさんを感じた。
ユキさんが柄杓の水をグイッと飲み干す。しばらく目を閉じ、なんとも幸せそうな表情で味わったあと「あ〜うまかった♪ ・・・さっ、帰るべ♪」と言ってのけた。初詣というより水を飲むことが目的だった。私はやった!と感じホッとして脱力した。
そのあと、お参りに拝殿へ向かう。「みんなのように歩きたいです!」とユキさんはお願いした。参道を二人で歩きながら、今までとは違う関係になったように感じた。
不思議な事にその日を境に、ユキさんは食事中むせることが急激に減り、嘔吐もほとんどなくなった。食事の量も次第に元気な頃と同じくらいに戻り、点滴はいらなくなった。ターミナルを覚悟したのが嘘だったかのようにユキさんは元気になる。ユキさんが自分の進む道を選択する時、それがどんな選択だとしても、私が受け入れられる覚悟が出来たから、ユキさんは蘇ったのではないかと感じる。生きていても、死んでも変わらず繋がっていられる関係になったような気がする。
2月、私はユキさんとまた烏谷ケ崎神社へ行った。前回同様、手水舎の水を美味しそうに飲み、お参りもする。今回は「3つお願いした♪」とユキさんは微笑む。前回より願い事が増え、意気揚々のユキさんだ。内容は「ヒミツ♪」と教えてはくれなかった、その表情は少女のようだった。秘密なのは初めてだった。
帰りには、いつものようにマルカンデパートへ寄る。普段はソフト食なのに、ここでは寿司をむせることなく完食。伝説の七不思議だ。さらに今回は吸い物やお茶までトロミをつけず口にした。そして「いい味してら♪」と笑った。
初詣のあの瞬間から、私とユキさんの関係はどこか別次元で繋がったようで、どこにいても信じ合える感じがある。今ユキさんは数年前に私が出会った頃よりも元気そうで、毎月の神社参りを楽しみにしてくれている。食事介助で隣に座った私の食事を堂々と食べたりもしている。頭には緩めのフワッとしたエメラルドグリーンの毛糸の帽子をかぶり、長きに亘った戦の証“針の兜”は、居室のすみにそっと置かれている。
アップル会議を開催して ★居宅ケアマネ 板垣由紀子【2014年5月号】
今年度は、地域密着型事業所「銀河の里」の運営推進会議を、『認知症セミナー』という形で展開することになりました。きっかけとなったのは、昨年5月に花巻中央包括が主催する家族介護者教室の「認知症を学ぼう」というテーマで講師をさせていただいたことでした。私は銀河の里のグループホームで、初めて認知症の方と出会いました。現場では、毎日が驚きと発見でワクワクしました。こんなに自分を全開にして、人と付き合った経験はそれまでの人生ではなかったのです。認知症の方には、本質で繋がる力があります。この10年の経験で、私は人間的に鍛えてもらえたと感じます。
ところが、ケアマネになって2年半「家族の認知症介護」という視点から見たとき、家庭では施設と違って守りの枠が少なく、365日24時間、逃げ場のない状況で追い込まれてしまいやすい側面に気づかされます。介護教室で、1人1人に話してもらったとき、予定の時間を過ぎてしまうほど話が尽きない感じがあり、「個々人と時間をかけて話せる場がほしい」と思いました。認知症の人との付き合いに、ハウツーは使えません。小手先ではなく、閉じられがちな関係を、いかに他の支援者や地域に開いていくかということが大切なのだと思います。家族介護者教室と、今回のアップル会議では、そのヒントとなればと、映画『毎日がアルツハイマー』のDVDを鑑賞しました。
会の名称『アップル会議』は、昨年度から施行された「認知症施策5カ年計画」通称オレンジプランに掛け、地方色を入れ『アップル会議』としました。リンゴの産地、花巻、色や形も様々な人が集える場をイメージしています。オレンジプランは、これまでの認知症のケアのあり方を根底的に変える仕組み作りです。「認知症の人は、精神科病院や、施設を利用せざるを得ない。」という考えを改め、「認知症になっても本人の意思が尊重され、できる限り住み慣れたよい環境で暮らし続けることができる社会」の実現を目指しています。こうした取り組みが、今後、市町村単位で展開されることになります。
第一回アップル会議(4/21開催)には、案内から開催まで3週間と駆け足だったにもかかわらず、16名のご家族と市の長寿福祉課からも参加いただきました。銀河の里のスタッフも各部署から12名参加しました。
最近デイサービスを利用しはじめた方のご家族からは、「どう対応して良いかとまどっていて、話を聞いてほしい。認知症のことを知りたい。こういう機会を与えてもらってよかった。」との声をいただきました。今回は初回ということで、DVD鑑賞のあと、みなさんのニーズがどのようなところにあるのか一言ずついただきましたが、今後個別相談の機会も考えていきたいと思っています。
認知症の対応で「どこまでも歩いて行って、戻れなくなる。常に見ている訳にもいかない。また、見ていたとして、不穏になってしまったときは、家族の言うことを聞かないということも多い。」と言う声が多くあります。それは何度も繰り返されますし、理屈ではないのでやめさせることは難しいのが現状です。そういった状況を、家族だけで抱えるには限界があり、無理なことです。今後、認知症の人が予備軍を入れて800万人になると予測される社会で、「家族の誰かが認知症」という状況は、他人ごとではなく、地域作りの基盤として切実な課題になってきます。自分たちの住む地域を、未来に向かってどうデザインしていくかが、喫緊の課題として問われています。
現在、認知症の方を介護している人たちの経験は、これからの地域を考える上で重要な方向性を指し示す事ができる可能性を孕んでいます。認知症になっても安心して暮らせる町作りには、認知症の人を中心に、その家族の体験から生み出されていく必要があります。
戦後、物質的に豊かな社会が築き上げられてきたものの、その一方で地域は崩壊し、人の関係も薄くなってしまいました。自由で気軽で便利にはなったものの、現代人は孤独や空虚を抱えて、生きざるを得ない状況を作ってしまいました。そんな時代と社会に、大量に出現してくる認知症の人たちは、人々の心の深いところに関わり、近年、日本人が断ち切ってきた人間の関係を、繋ぎ直す力を持った存在だと感じます。地域を未来に向かって拓く力は、認知症の中にしかないのかも知れないとさえ思えてなりません。
その認知症の威力を活かすには、認知症に関わる当事者や関係者の知恵と戦略が求められます。みんなで認知症の介護や関わりの経験に基づきながら、喫緊の課題を解決するとともに、将来の理想や夢を語り合い、未来の子ども達にも誇れる地域社会を創造していけたらと願っています。
アップル会議に、是非多くの方のご参加をお待ちしています。
次回開催日時:6月17日(火)午後1時30分〜3時30分
場所:特養 交流ホール
ところが、ケアマネになって2年半「家族の認知症介護」という視点から見たとき、家庭では施設と違って守りの枠が少なく、365日24時間、逃げ場のない状況で追い込まれてしまいやすい側面に気づかされます。介護教室で、1人1人に話してもらったとき、予定の時間を過ぎてしまうほど話が尽きない感じがあり、「個々人と時間をかけて話せる場がほしい」と思いました。認知症の人との付き合いに、ハウツーは使えません。小手先ではなく、閉じられがちな関係を、いかに他の支援者や地域に開いていくかということが大切なのだと思います。家族介護者教室と、今回のアップル会議では、そのヒントとなればと、映画『毎日がアルツハイマー』のDVDを鑑賞しました。
会の名称『アップル会議』は、昨年度から施行された「認知症施策5カ年計画」通称オレンジプランに掛け、地方色を入れ『アップル会議』としました。リンゴの産地、花巻、色や形も様々な人が集える場をイメージしています。オレンジプランは、これまでの認知症のケアのあり方を根底的に変える仕組み作りです。「認知症の人は、精神科病院や、施設を利用せざるを得ない。」という考えを改め、「認知症になっても本人の意思が尊重され、できる限り住み慣れたよい環境で暮らし続けることができる社会」の実現を目指しています。こうした取り組みが、今後、市町村単位で展開されることになります。
第一回アップル会議(4/21開催)には、案内から開催まで3週間と駆け足だったにもかかわらず、16名のご家族と市の長寿福祉課からも参加いただきました。銀河の里のスタッフも各部署から12名参加しました。
最近デイサービスを利用しはじめた方のご家族からは、「どう対応して良いかとまどっていて、話を聞いてほしい。認知症のことを知りたい。こういう機会を与えてもらってよかった。」との声をいただきました。今回は初回ということで、DVD鑑賞のあと、みなさんのニーズがどのようなところにあるのか一言ずついただきましたが、今後個別相談の機会も考えていきたいと思っています。
認知症の対応で「どこまでも歩いて行って、戻れなくなる。常に見ている訳にもいかない。また、見ていたとして、不穏になってしまったときは、家族の言うことを聞かないということも多い。」と言う声が多くあります。それは何度も繰り返されますし、理屈ではないのでやめさせることは難しいのが現状です。そういった状況を、家族だけで抱えるには限界があり、無理なことです。今後、認知症の人が予備軍を入れて800万人になると予測される社会で、「家族の誰かが認知症」という状況は、他人ごとではなく、地域作りの基盤として切実な課題になってきます。自分たちの住む地域を、未来に向かってどうデザインしていくかが、喫緊の課題として問われています。
現在、認知症の方を介護している人たちの経験は、これからの地域を考える上で重要な方向性を指し示す事ができる可能性を孕んでいます。認知症になっても安心して暮らせる町作りには、認知症の人を中心に、その家族の体験から生み出されていく必要があります。
戦後、物質的に豊かな社会が築き上げられてきたものの、その一方で地域は崩壊し、人の関係も薄くなってしまいました。自由で気軽で便利にはなったものの、現代人は孤独や空虚を抱えて、生きざるを得ない状況を作ってしまいました。そんな時代と社会に、大量に出現してくる認知症の人たちは、人々の心の深いところに関わり、近年、日本人が断ち切ってきた人間の関係を、繋ぎ直す力を持った存在だと感じます。地域を未来に向かって拓く力は、認知症の中にしかないのかも知れないとさえ思えてなりません。
その認知症の威力を活かすには、認知症に関わる当事者や関係者の知恵と戦略が求められます。みんなで認知症の介護や関わりの経験に基づきながら、喫緊の課題を解決するとともに、将来の理想や夢を語り合い、未来の子ども達にも誇れる地域社会を創造していけたらと願っています。
アップル会議に、是非多くの方のご参加をお待ちしています。
次回開催日時:6月17日(火)午後1時30分〜3時30分
場所:特養 交流ホール
母なる語り★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2014年5月号】
勝子さん(仮名)は一年ほど前から、銀河の里のデイサービスや特養のショートステイを利用していて、今年の2月にグループホームに入居された。
特養のショートステイから、グループホームへ入居となったので、その日、私は勝子さんを迎えに特養に行った。勝子さんのことは申し送りなどでよく聞いていたが、直接接触するのはこのときが初めてだった。
最初の出会いが肝心なんだよなぁと思いながら、ドキドキしていくと、向こうから明るい声と笑顔の勝子さんが特養のスタッフと一緒に歩いてきた。特養の玄関では「勝子さん頑張ってー」と人気者の勝子さんらしく、大勢のスタッフに見送られた。勝子さんも「頑張りましょう!」と元気よく応えていた。
二人になった車内で、勝子さんはこれからどこへ行くのか不安だったりしないだろうかと私は緊張していたが、キレイな声で歌を歌ってくれたりしている。私は案外リラックスしてるのかな?と思ったがやはりそうではなかった。グループホームに到着したものの、なかなか車から降りようとしない。「緊張する?」と声をかけると「うん!」と応えた。車内では無理して空気を作ってくれたのかな?と勝子さんの気遣いを感じた。
それでもしばらくしてなんとか車から降りて、グループホームの玄関に入った。そこに歩さん(仮名)と二唐さんが迎えてくれた。その雰囲気に勝子さんも安心したようで、グループホームのリビングにはまることができた。その日のうちにグループホームの雰囲気に馴染んだ感じで、すぐに勝子さんの大活躍が始まっていく。
「ちょっと、私ゆっくりする為にきたのでなくて稼ぐ為にきたから何すればいいの?」とスタッフに聞いてやる気満々だった。最初は「人の加減がわからないの」と戸惑いも見せながらだったが、かつて商店を切り盛りし、やり手で、社交的な勝子さんは明るく元気に日々を暮らしていった。スタッフの動きや人間をよく見ていて、いろんな言葉をかけてくれるのだが、それが、個々にぴったりの言葉で、ただよく見ているだけでなく、なにか不思議な力で見通しているようだった。
夜、ケアプラン会議に一緒にはまっていた勝子さんが、会議中いきなりスタッフの里美さんに「お産?いつ産まれるの?」と聞いた。それだけの事だったのだが、後で理事長は「里美さん子どもできるな。勝子さんは外さないからなあ。絶対に当たる。いや、見通してるから」と言っていた。里美さん自身まだ自分の妊娠に気もつかない時期だった。その一か月後、里美さんは妊娠が発覚!勝子さんは見事に妊娠を当てた!!不思議、でも、やっぱり!と当然な感じもあった。
3月21日から新人も加わり、新年度がスタートした。グループホーム第2は新人スタッフと、去年の9月からの米田さん、今年ワークからグループホームに異動してきたばかりの今野さんの若いスタッフの新体制で、まだまだチームができるには時間が必要で、連携にも苦戦していた。そんな時期、スタッフが集まった席に一緒に座っていた勝子さんが、ひとりひとりを指さして「みんなバッケみたい」と言った。ちょうど季節は春。雪の下からやっとに芽を出したふきの芽をここらあたりの方言で「バッケ」と言う。春になるのを待ちきれないかのように雪が消えると一番に出てくるバッケ。若いスタッフをバッケみたいと例え、これから伸びる人材に期待をしてくれている。
若いスタッフを抱えながら、今いちリーダーとしては頼りない私を支えようと、去年の12月から第2にやってきたベテランの里美さんが妊娠となると、産休に入るまえにチームを作り上げておかなければならない。里美さんが抜けた後、私と組んで、チームを引っぱっていかなくてはならない2年目の米田さんに勝子さんは注目する。米田さんに面と向かって「あんたはここのお嫁さんになるんだから」と、しっかりやってほしいと言わんばかりだ。「今日は婚礼があるよ」と、米田さんを嫁として迎える儀式まで用意してくれた。
私も米田さんも言葉で伝えることが妙に苦手だ。口数は少なく、伝えたり語ったりしないで1人で抱え込んでしまうところがある。そんな二人に勝子さんは言う。「1人じゃないんだから。これから2人でやるの。本当!本当!」と語ってくれた。そしてリーダの私には「頑張りなさい、あなたはここの主だから」と、何度も繰り返して言ってくれる。あるときなどは米田さんと二唐さんを私の隣に並んで座らせると「さっ、話して…」と私に振った。新人ではない米田さんと二唐さんの二人を選んで、私に話す場まで設定してくれた。
グループホームに来て日の浅い勝子さんだが、大活躍の日々だった。そんな折り、4月に入って、他の特養施設に入居になる話しが決まった。いろいろな事情があり、勝子さんは5月19日にグループホームを退所して銀河の里以外の特養に行くことが決定した。
退所が決まったあたりから、勝子さんはどこかそのことをわかったように、私たちスタッフに伝えることを急いでいるようだった。
里美さんには「なんでもあっていいんだよね。物語にしてくれてありがとう」と言った。その話を里美さんから聞いていた私には「あまやかしていられね!オラ知らね!自分たちでやりなさい!」と怒り気味で言う。その怒りの勢いで、グループホーム内を走って転びそうになる。心配して私が声をかけると「知らね!自分たちでやりなさい!」と言った。「人の心配してんな!そんな場合じゃないでしょ」といわれたように感じた。
そのまま外に出て行って歩く勝子さんと、ちょうど米田さんが出勤して来たところに出くわした。勝子さんは「嫁ごか?黙ってないでそのくらいやりなさい」と米田さんを叱りながらしっかり迎えて、一緒にグループホームに帰ってきた。そして「この人も段々にね。嫁に来たのだから頑張りなさいよ」と米田さんを激励していた。それぞれにかける言葉が全くはずしていない。認知症の人は、大事なことをはずさない特徴があると、いつもながら感じるのだが、勝子さんはそれに加えて、人などを見通す力を持っている。
ある日、米田さんが勝子さんを入浴に誘ったのだが、「赤ちゃんが待っているから」と誘いを断って私の出勤を待っていた。私が出勤すると、私を指しながら里美さんに「あの人、赤ちゃん産まれたって。男の子か女の子か分からないけど、あんた分かる?(お祝いを)包まなきゃないからね。私はあっちこっち行かなきゃないから(あんた)頼むよ」と里美さんに語った。その後、
勝子さんの隣に座った私に「だんだん良くなるからね。昔の人のこと、お母さんわかっているから。私は私なりで頑張ってくださいね」と言葉をくれた。それを私に語り終えると、一度拒否した入浴の誘いにすんなりと乗ってお風呂に入った。勝子さんは、私にこの言葉を伝えるために待っていてくれたのだと思った。「私は私なり」とは、「自分らしく自分を見失わないでやって行けば良くなるよ」と言われたように感じた。確かに私はこのところ自分らしさを失いがちだった。それじゃあ、何もできないはずだ。私が私らしさを失わなければだんだんよくなるに決まってる。そのことが私には見えていなかったが、勝子さんは見抜いていた。
私が夜勤のとき、勝子さんの隣の部屋のより子さん(仮名)が寝言なのか眠れなかったのか「かあさーん」と叫んだ。ぐっすり眠っていた勝子さんだったが、その呼び声にいきなり飛び起きて「はい!」と反射的に返事をした。そして「だれかお母さんって私のこと呼んだよね?」と気にかけてしばらく眠りにつけなかった。勝子さんはいつも母なんだと感じた。
勝子さんはときどき怒りの言葉で思いをぶつけてくることもあるが、怒っていてもその裏にとても暖かい愛情を感じる。勝子さんのくれたいろいろな言葉は優しくて、厳しくてお母さんの言葉だった。その言葉は当てずっぽうや、いいかげんな言葉ではない。ひとりひとりの本質に向かってはずさない言葉として発せられている。それはひとりひとりの本質を見つめながら包み育む言葉だ。
里美さんの妊娠など、現実的には知るよしもない勝子さんだが、その妊娠を予言して当てた上に、3人目の子どもをおなかに授かった里美さんに「赤ちゃんいつ産まれるの?かわいい子が産まれるよー」と応援の言葉をくれる。米田さんはお嫁さんとして迎えてくれて、「お嫁さんになるの」と覚悟を迫っている。二唐さんには「あなたはいい人だねー。学校の先生きて褒められるよ。あなたは子供つくって、大きい人つくって頑張ってください」と言っている。それぞれに母としての語りを感じる。私には特に「頼むよ、ここの主なんだから」と何度も言葉をくれた。母という器が全く育っていない私だが、リーダーとしてしっかりして、若い人を育てて行くよう励ましてくれたのだと感じる。
勝子さんとは、僅か3か月間の短いお付き合いだったが、そんな短かさを感じさせないくらい大事で重い言葉をいっぱいくれて、濃密な日々を過ごさせていただいた。言葉でどんどん伝え、繋がり、人の和を作っていく勝子さん。何があってもぶれることなく、動じることなく、負けないでどんとしている。まさに母の強さがそこにある。今のグループホーム第2にも私個人にもそれが全く足りない。勝子さんは私や若いスタッフの心に「母」という偉大な存在の種を蒔いてくれたのかも知れない。甘えて逃げて、伝えず黙って、籠もって抱えて、すぐに動揺してブレて、自分を見失いがちな幼稚な乙女。そんな幼稚で成熟のないわがままばかりの女ではどうしようもない。
風のように現れ、あっという間に去って行ってしまう勝子さんだが、その僅かの間に、私達乙女の心に蒔いてくれた「母」の種は、とても大切だと思う。勝子さんがいなくなっても、私のなかの母を育ててみたい。勝子さんに及ばないまでも、私らしい母なるものを育てる必要があるだろう。それが私達が今ここで、勝子さんと出会った意味なんだと思う。
ありがとうございました。どうぞお元気で。
特養のショートステイから、グループホームへ入居となったので、その日、私は勝子さんを迎えに特養に行った。勝子さんのことは申し送りなどでよく聞いていたが、直接接触するのはこのときが初めてだった。
最初の出会いが肝心なんだよなぁと思いながら、ドキドキしていくと、向こうから明るい声と笑顔の勝子さんが特養のスタッフと一緒に歩いてきた。特養の玄関では「勝子さん頑張ってー」と人気者の勝子さんらしく、大勢のスタッフに見送られた。勝子さんも「頑張りましょう!」と元気よく応えていた。
二人になった車内で、勝子さんはこれからどこへ行くのか不安だったりしないだろうかと私は緊張していたが、キレイな声で歌を歌ってくれたりしている。私は案外リラックスしてるのかな?と思ったがやはりそうではなかった。グループホームに到着したものの、なかなか車から降りようとしない。「緊張する?」と声をかけると「うん!」と応えた。車内では無理して空気を作ってくれたのかな?と勝子さんの気遣いを感じた。
それでもしばらくしてなんとか車から降りて、グループホームの玄関に入った。そこに歩さん(仮名)と二唐さんが迎えてくれた。その雰囲気に勝子さんも安心したようで、グループホームのリビングにはまることができた。その日のうちにグループホームの雰囲気に馴染んだ感じで、すぐに勝子さんの大活躍が始まっていく。
「ちょっと、私ゆっくりする為にきたのでなくて稼ぐ為にきたから何すればいいの?」とスタッフに聞いてやる気満々だった。最初は「人の加減がわからないの」と戸惑いも見せながらだったが、かつて商店を切り盛りし、やり手で、社交的な勝子さんは明るく元気に日々を暮らしていった。スタッフの動きや人間をよく見ていて、いろんな言葉をかけてくれるのだが、それが、個々にぴったりの言葉で、ただよく見ているだけでなく、なにか不思議な力で見通しているようだった。
夜、ケアプラン会議に一緒にはまっていた勝子さんが、会議中いきなりスタッフの里美さんに「お産?いつ産まれるの?」と聞いた。それだけの事だったのだが、後で理事長は「里美さん子どもできるな。勝子さんは外さないからなあ。絶対に当たる。いや、見通してるから」と言っていた。里美さん自身まだ自分の妊娠に気もつかない時期だった。その一か月後、里美さんは妊娠が発覚!勝子さんは見事に妊娠を当てた!!不思議、でも、やっぱり!と当然な感じもあった。
3月21日から新人も加わり、新年度がスタートした。グループホーム第2は新人スタッフと、去年の9月からの米田さん、今年ワークからグループホームに異動してきたばかりの今野さんの若いスタッフの新体制で、まだまだチームができるには時間が必要で、連携にも苦戦していた。そんな時期、スタッフが集まった席に一緒に座っていた勝子さんが、ひとりひとりを指さして「みんなバッケみたい」と言った。ちょうど季節は春。雪の下からやっとに芽を出したふきの芽をここらあたりの方言で「バッケ」と言う。春になるのを待ちきれないかのように雪が消えると一番に出てくるバッケ。若いスタッフをバッケみたいと例え、これから伸びる人材に期待をしてくれている。
若いスタッフを抱えながら、今いちリーダーとしては頼りない私を支えようと、去年の12月から第2にやってきたベテランの里美さんが妊娠となると、産休に入るまえにチームを作り上げておかなければならない。里美さんが抜けた後、私と組んで、チームを引っぱっていかなくてはならない2年目の米田さんに勝子さんは注目する。米田さんに面と向かって「あんたはここのお嫁さんになるんだから」と、しっかりやってほしいと言わんばかりだ。「今日は婚礼があるよ」と、米田さんを嫁として迎える儀式まで用意してくれた。
私も米田さんも言葉で伝えることが妙に苦手だ。口数は少なく、伝えたり語ったりしないで1人で抱え込んでしまうところがある。そんな二人に勝子さんは言う。「1人じゃないんだから。これから2人でやるの。本当!本当!」と語ってくれた。そしてリーダの私には「頑張りなさい、あなたはここの主だから」と、何度も繰り返して言ってくれる。あるときなどは米田さんと二唐さんを私の隣に並んで座らせると「さっ、話して…」と私に振った。新人ではない米田さんと二唐さんの二人を選んで、私に話す場まで設定してくれた。
グループホームに来て日の浅い勝子さんだが、大活躍の日々だった。そんな折り、4月に入って、他の特養施設に入居になる話しが決まった。いろいろな事情があり、勝子さんは5月19日にグループホームを退所して銀河の里以外の特養に行くことが決定した。
退所が決まったあたりから、勝子さんはどこかそのことをわかったように、私たちスタッフに伝えることを急いでいるようだった。
里美さんには「なんでもあっていいんだよね。物語にしてくれてありがとう」と言った。その話を里美さんから聞いていた私には「あまやかしていられね!オラ知らね!自分たちでやりなさい!」と怒り気味で言う。その怒りの勢いで、グループホーム内を走って転びそうになる。心配して私が声をかけると「知らね!自分たちでやりなさい!」と言った。「人の心配してんな!そんな場合じゃないでしょ」といわれたように感じた。
そのまま外に出て行って歩く勝子さんと、ちょうど米田さんが出勤して来たところに出くわした。勝子さんは「嫁ごか?黙ってないでそのくらいやりなさい」と米田さんを叱りながらしっかり迎えて、一緒にグループホームに帰ってきた。そして「この人も段々にね。嫁に来たのだから頑張りなさいよ」と米田さんを激励していた。それぞれにかける言葉が全くはずしていない。認知症の人は、大事なことをはずさない特徴があると、いつもながら感じるのだが、勝子さんはそれに加えて、人などを見通す力を持っている。
ある日、米田さんが勝子さんを入浴に誘ったのだが、「赤ちゃんが待っているから」と誘いを断って私の出勤を待っていた。私が出勤すると、私を指しながら里美さんに「あの人、赤ちゃん産まれたって。男の子か女の子か分からないけど、あんた分かる?(お祝いを)包まなきゃないからね。私はあっちこっち行かなきゃないから(あんた)頼むよ」と里美さんに語った。その後、
勝子さんの隣に座った私に「だんだん良くなるからね。昔の人のこと、お母さんわかっているから。私は私なりで頑張ってくださいね」と言葉をくれた。それを私に語り終えると、一度拒否した入浴の誘いにすんなりと乗ってお風呂に入った。勝子さんは、私にこの言葉を伝えるために待っていてくれたのだと思った。「私は私なり」とは、「自分らしく自分を見失わないでやって行けば良くなるよ」と言われたように感じた。確かに私はこのところ自分らしさを失いがちだった。それじゃあ、何もできないはずだ。私が私らしさを失わなければだんだんよくなるに決まってる。そのことが私には見えていなかったが、勝子さんは見抜いていた。
私が夜勤のとき、勝子さんの隣の部屋のより子さん(仮名)が寝言なのか眠れなかったのか「かあさーん」と叫んだ。ぐっすり眠っていた勝子さんだったが、その呼び声にいきなり飛び起きて「はい!」と反射的に返事をした。そして「だれかお母さんって私のこと呼んだよね?」と気にかけてしばらく眠りにつけなかった。勝子さんはいつも母なんだと感じた。
勝子さんはときどき怒りの言葉で思いをぶつけてくることもあるが、怒っていてもその裏にとても暖かい愛情を感じる。勝子さんのくれたいろいろな言葉は優しくて、厳しくてお母さんの言葉だった。その言葉は当てずっぽうや、いいかげんな言葉ではない。ひとりひとりの本質に向かってはずさない言葉として発せられている。それはひとりひとりの本質を見つめながら包み育む言葉だ。
里美さんの妊娠など、現実的には知るよしもない勝子さんだが、その妊娠を予言して当てた上に、3人目の子どもをおなかに授かった里美さんに「赤ちゃんいつ産まれるの?かわいい子が産まれるよー」と応援の言葉をくれる。米田さんはお嫁さんとして迎えてくれて、「お嫁さんになるの」と覚悟を迫っている。二唐さんには「あなたはいい人だねー。学校の先生きて褒められるよ。あなたは子供つくって、大きい人つくって頑張ってください」と言っている。それぞれに母としての語りを感じる。私には特に「頼むよ、ここの主なんだから」と何度も言葉をくれた。母という器が全く育っていない私だが、リーダーとしてしっかりして、若い人を育てて行くよう励ましてくれたのだと感じる。
勝子さんとは、僅か3か月間の短いお付き合いだったが、そんな短かさを感じさせないくらい大事で重い言葉をいっぱいくれて、濃密な日々を過ごさせていただいた。言葉でどんどん伝え、繋がり、人の和を作っていく勝子さん。何があってもぶれることなく、動じることなく、負けないでどんとしている。まさに母の強さがそこにある。今のグループホーム第2にも私個人にもそれが全く足りない。勝子さんは私や若いスタッフの心に「母」という偉大な存在の種を蒔いてくれたのかも知れない。甘えて逃げて、伝えず黙って、籠もって抱えて、すぐに動揺してブレて、自分を見失いがちな幼稚な乙女。そんな幼稚で成熟のないわがままばかりの女ではどうしようもない。
風のように現れ、あっという間に去って行ってしまう勝子さんだが、その僅かの間に、私達乙女の心に蒔いてくれた「母」の種は、とても大切だと思う。勝子さんがいなくなっても、私のなかの母を育ててみたい。勝子さんに及ばないまでも、私らしい母なるものを育てる必要があるだろう。それが私達が今ここで、勝子さんと出会った意味なんだと思う。
ありがとうございました。どうぞお元気で。
平成26年度 新人研修に参加して ★特別養護老人ホーム 高橋愛実
新人研修で事例検討をおこなった。発表事例は一昨年、特養で亡くなられたクニエさん(仮名)の事例を三浦君がまとめた「クニエさんと生きる〜繋がれる命〜」。
入居当初から関係の深かったスタッフのほなみさんが、クニエさんのターミナルの時期を自身の妊娠、出産を通して関わったプロセスを中心に描かれている。クニエさんの長男さんをはじめご家族、三浦くんなどユニットのスタッフのやりとりや関係を通じて、死と生のプロセスがリアルに感じられる事例である。
参加者の新人、高橋愛実さんの研修レポートを紹介する。(理事長:宮澤健)
4月12日の新人研修にて、事例検討「クニエさんと生きる 〜継がれる命〜」に心と身体が揺さぶられた。
事例発表は、三浦さんの語る不思議な物語が、その場所に集う私たちを1つの神聖な空間に包み込んでくれたような時間だった。
現実の語り尽くせないほどのできごとに、事例を通じてほんの一握りしか触れることができないが、私自身の記憶と身体がちゃんと共鳴していたことに驚いてしまった。
クニエさん、ほなみさん、三浦さん、ユニット、家族さん、と同時発生するそれぞれの出会いが、大きなひとつのエネルギーに動かされていくかのように繋がっていったこと。それぞれの関係性に思いを馳せてみたい。
クニエさんとほなみさん
女性の身体を共有している2人は、言葉より信じられる何かに支えられながら、現実を生きた。ほなみさんのお腹には水の中に眠る赤ちゃんがいて、クニエさんはやがて生まれる前の水の中へ帰ろうとしている。そんな状況での繋がり方を想像すると、女性の身体は絶え間ない水の流れのように思える。水は穏やかになったり、激流になったり、姿かたちを変えながら絶え間なく流れつづける。やがて大きな海に注がれ天にのぼり、新しい雨を降らす。
2人は言葉の向こうに漂う海を知っている女性同士として、いのちを継いでいったのだと思う。
クニエさんと息子さん
息子さんの腕のなかで息をひきとったクニエさん。生まれたばかりの息子さんを腕のなかに抱いていたクニエさんを思うと、共に生きることの喜びとせつなさを感じる。「死」が終わりではなく、はじまりであるということは、喜びでもあると同時に、「生」がせつないものでもあること、必ず終わりがあるということを教えてくれる。私たちはそんな日常を生きている。
クニエさんと三浦さん
クニエさんとほなみさんの間を右往左往した三浦さん。自身、男性はなにもできないと言っていたが、2人の「生」の火を絶やさぬよう守り続けた頼もしい存在だったのだと思う。焼き芋を食べるクニエさん、ビデオレターを見るクニエさんなど、一瞬一瞬の残り少ない命の火を燃やし続けたことが色鮮やかなシーンとして伝わった。実家がある遠野の不思議な空間へ連れていってもらったエピソードも必然的なように思えた。
目が覚めていても、世界のこと、あの人のこと、自分のことは揺れ動く断片でしか知ることができない。それでも、何万年も前から生きている私たち人間の身体は、ちゃんといのちを記憶している。そう感じることができた事例発表だった。
入居当初から関係の深かったスタッフのほなみさんが、クニエさんのターミナルの時期を自身の妊娠、出産を通して関わったプロセスを中心に描かれている。クニエさんの長男さんをはじめご家族、三浦くんなどユニットのスタッフのやりとりや関係を通じて、死と生のプロセスがリアルに感じられる事例である。
参加者の新人、高橋愛実さんの研修レポートを紹介する。(理事長:宮澤健)
4月12日の新人研修にて、事例検討「クニエさんと生きる 〜継がれる命〜」に心と身体が揺さぶられた。
事例発表は、三浦さんの語る不思議な物語が、その場所に集う私たちを1つの神聖な空間に包み込んでくれたような時間だった。
現実の語り尽くせないほどのできごとに、事例を通じてほんの一握りしか触れることができないが、私自身の記憶と身体がちゃんと共鳴していたことに驚いてしまった。
クニエさん、ほなみさん、三浦さん、ユニット、家族さん、と同時発生するそれぞれの出会いが、大きなひとつのエネルギーに動かされていくかのように繋がっていったこと。それぞれの関係性に思いを馳せてみたい。
クニエさんとほなみさん
女性の身体を共有している2人は、言葉より信じられる何かに支えられながら、現実を生きた。ほなみさんのお腹には水の中に眠る赤ちゃんがいて、クニエさんはやがて生まれる前の水の中へ帰ろうとしている。そんな状況での繋がり方を想像すると、女性の身体は絶え間ない水の流れのように思える。水は穏やかになったり、激流になったり、姿かたちを変えながら絶え間なく流れつづける。やがて大きな海に注がれ天にのぼり、新しい雨を降らす。
2人は言葉の向こうに漂う海を知っている女性同士として、いのちを継いでいったのだと思う。
クニエさんと息子さん
息子さんの腕のなかで息をひきとったクニエさん。生まれたばかりの息子さんを腕のなかに抱いていたクニエさんを思うと、共に生きることの喜びとせつなさを感じる。「死」が終わりではなく、はじまりであるということは、喜びでもあると同時に、「生」がせつないものでもあること、必ず終わりがあるということを教えてくれる。私たちはそんな日常を生きている。
クニエさんと三浦さん
クニエさんとほなみさんの間を右往左往した三浦さん。自身、男性はなにもできないと言っていたが、2人の「生」の火を絶やさぬよう守り続けた頼もしい存在だったのだと思う。焼き芋を食べるクニエさん、ビデオレターを見るクニエさんなど、一瞬一瞬の残り少ない命の火を燃やし続けたことが色鮮やかなシーンとして伝わった。実家がある遠野の不思議な空間へ連れていってもらったエピソードも必然的なように思えた。
目が覚めていても、世界のこと、あの人のこと、自分のことは揺れ動く断片でしか知ることができない。それでも、何万年も前から生きている私たち人間の身体は、ちゃんといのちを記憶している。そう感じることができた事例発表だった。
まだ続く我が家の毎アル 〜呪われた母の日〜 ★施設長 宮澤京子
そうか、今日は母の日だ。この春、東京の大学に行った一人息子からは何の音沙汰もない。そういえば我が家にはもう一人母がいる。その母への感謝を忘れて、我が身の「母の日」に淡い期待をしていたことが恥ずかしくなる。早速、特養に入居している義母の祝会をしようと、珍しくセンチな嫁心に煽られた。外食しようと思ったが、実際、義母を外に連れ出すのは、至難の業だ。
【回想】
以前、誕生祝いに外食をしたとき、それはもう上機嫌で、和食膳を褒めちぎりデザートまで残さずに食べてくれた。岩手に義母を呼び寄せて、初めてできた外食だった。毎月一回でもこんな時間が持てたらいいなぁと、調子に乗って、次に「ご飯食べに行こうか?」と誘ったが、睨み返され「わしゃ、どこへも行かん」と完全拒否だった。
病で身体が不自由になり、介護が必要になって炊事ができなくなってから、私が作って出すおかずは、一品しか手をつけない。ご飯の上に鮭のフレークや鯖の味噌煮、それに昆布の佃煮をのせて、あとは具たくさんの味噌汁だけ。肉や卵焼きや煮物、サラダなどを付けて出すが、手を付けない。それはどうやら私への遠慮であり、負担をかけている事に対しての自らへの抵抗らしいと分かってきた。デイサービスでは、毎日完食なので、栄養的には問題ないので、寂しく貧しいメニューの食事形態が続いてきた。今年2月に在宅介護6年目を経て、特養ホーム入居となった。ホームでは毎3食とおやつを、どれもおいしく頂いているとのことで、安心した。
【まず作戦】
ベッドで横になっているときに誘っても、絶対断られる。「この身体で、どこに行っても、迷惑をかける」と決め込んでいる節があり、タイミングが必要だ。特養に電話をかけて今日の様子を尋ねると、丁度、珍しく外出して花の苗などを買ってきたという。「疲れてるかなぁ・・・?本人に、食事に行くか聞いてもらえる?」と伝言を頼むと「行くって言ってますよ」との返事。諦めていただけに、誘っておきながら、こちらの方があわててしまった。
早速、息子である理事長を呼び、かつて一度だけ義母との外食で印象の良かった某ホテルに出かける。迎えに行くと、いつになく笑顔で社交的だ。絶好調?ともかくうれしいことだ、こちらが母の日のプレゼントをもらったような気分になる。玄関を出るとき3人の職員に見送られて、ちょっと大げさな見送りと、義母のはしゃぎように違和感はあった。
車に乗って走り出すと「あや?ここの坂は急じゃから、遠回りするんかいのぉ」と言う。家に帰るつもりでいたらしい。先ほど、義母としては「お世話になりました。もう会うこともないだろうけどお元気で」とお別れの挨拶をしていたのだ。「どきっ!」と私。「これからご飯食べに行くとこじゃ」と理事長。「そうかっ」となんのこともないような返事をしている。
「もう田植えをしたんじゃのう」などとコメントしながら、15分ほどのドライブ。「あんなところに布団干してからに、もう暗くなるのに湿気るでぇ」「あれは、芝桜じゃ。花よぉ」「ほぉ、花柄(のふとん)か」庭の芝桜を干した布団に見立てるなんぞ、なかなかセンス良いなぁと私も楽しくなる。ホテルの駐車場から、嫁と息子に手を引かれ、それはうれしそうに歩みを進めた。ちょっとふらつきながらも、支える私たちに身を任せてくれる義母に、親子をやってる感じがしていい気になっていた。
「ここには、前に来たことがあるのぉ、5人で来よったが」と、4年も前のことを、私達が忘れていることも語り出すので驚愕する。(認知症じゃなかったっけ?)レストラン内を見渡し、「お客が少ないのぉ、これじゃ、赤字になるわい」と店の心配までしている。耳が遠いこともあり、声が大きい。店員が来ても大声で「こりゃ、大変だわい」と経営者のように困っている。
和食膳がやってくると「ほぉー、ごちそうじゃね。こんなおつくり(刺身)、4年前に食べたきりじゃ。珍しいのぅ。」「これはなんじゃ、豆腐のようじゃな(茶碗蒸し)、わしが“今”住んでるところは、山ん中じゃけん、豆腐を売りに来るモンもおらん」「あの倉庫(特養ホーム)には、いろんな人がおる・・・。山ん中じゃけん魚も食べたこともない」大胆な台詞と今日のその食べっぷりに、複雑な気持ちになる。それでもとてもおいしそうに大半を食べ「あぁ、もうこれ以上食べたら、腹がパチーンと裂けそうじゃ」と、笑顔満面で満足気な義母の言葉で「母の日晩餐会」は終わった。
【2日後の豹変】
翌々日、特養ホームから、「家に帰ると頑なで説得が効かず、今、家に来ています」との、多少戸惑った様子の電話が入った。家に戻ってみると、賑やかな人だかりで、離れたところに、一人ぽつんと息子のヒロ君(重複障害があり家にいるため母と過ごす時間は長く、よくお世話をしている)が「もぉ、もぉ」と頭を振りながら憤りを露わにして混乱している。義母はすでに板の間に座り、社交の笑顔で私を迎え「京子さん、わがまま言って申し訳ありません。帰ってきました」と丁寧にお辞儀をした。特養のスタッフには「もう帰ってください。わしのことは、ええ(良い)ですから」と、これまた社交で、有無を言わせず「帰れ」と言っている。覚悟するしかないだろう・・・。
在宅時レンタルしていたベッドはもうないので、ヒロ君のベッドに寝てもらうと、すぐに目を閉じた。疲れた表情で足も浮腫んでいた。私は足を揉みながら、夕ご飯あたりには、ヒロ君と理事長で特養に送ってもらおうと、甘い考えでその場をやり過ごし、眠ったのを確認して仕事に戻った。その後夕方になって、理事長が誘い、玄関までは出て靴を履くまでは行ったらしいが、突然「わしゃ行かん!絶対死んでも行かん」と、ものすごい速さで後ずさりしてベッドに戻ってしまったという。
【深夜の壮絶な闘い】
第一弾
夕食は、ご飯に鮭と筋子をのせ、麻婆豆腐を一品付けて、カニ汁を出した。どうせ、麻婆豆腐は残してくるだろうと予想した。ところが、いつもなら手を付けないはずの麻婆豆腐はきれいに食べ、ご飯と汁を残してきた。しまった裏をかかれたと思ったときはすでに遅かった。「これはただごとではない」と、主婦の嗅覚がそれを感じた。
案の定、食事の後、ヒロ君に指図して、布団を押し入れから出させている。私もそれを手伝ってヒロ君用の寝床を作ったつもりだった。ところが義母は「わしが、ここに寝る」と頑として聞かない。「立ち上がりが難しいし、ベッドの方がトイレにも近いんだから、ベッドに寝て」と言うが全く聞く耳持たずだった。
しばらくすると、いつものように頭痛を訴え、ヒロ君に薬を出せと執拗に迫り、諍いが始まった。ヒロ君はたまらず部屋から飛び出して、廊下でクールダウンしている。それからが大変だった。次にリビングの私の所にやってきて「ヒロ君は、わしが手も足も動かんようになったいうのに、さっぱり言うことを聞いてくれん」と訴える。今にも倒れんばかりの足取りで、歩行器を曳いてきた。(あれっ、歩行器の役目が違う?)
やっとリビングのいすに座ると、「わしが何か言うと、ぷいっと外に出てしまう。なんでじゃろうも。何であがん子になってしもうたんじゃろ。ヒロ君、ヒロ君!」と叫ぶ。呼ばれたヒロ君は「もう知らん、知らん、嫌いだ」とリビングに来ようとしない。
その様子を察して「わしゃ、健ちゃん(理事長)が来るまで、ここ動かん。話を聞いてもらわにゃ」と、この仲裁に理事長を指名するあたりはブレてはいない。連絡するがしばらく経っても来ず、沈黙に耐えられなかったのか「わしゃ、腰が痛くなったけん、寝て待っとるけん。来たら呼んでくんさい」と部屋に帰っていった。その時の足取りはなぜかしっかりしていた。戻った場所は、やはりベッドではなく、床に敷かれた布団で、潜り込んだものの鬱々として眠れてはいない様子で何事かしゃべり続けている。
第二弾
しばらくしてやっと理事長登場。これが親子の会話かと驚くほどあっさりしている。「どうしてヒロ君は、わしのゆうこと、きかんようになったんじゃろか」「そりゃ、おかんが、口うるさいけんじゃ」「わしゃ、うるそうは言うとらんがのお」「いいや、もう3時間責めっぱなしじゃ。今日はもう寝えやぁ」と寝床に連れて行き、布団に入ったので、そのまま眠って収まったかと思った。
しかし理事長に面談の電話が入って出かけたあと、深夜0時、また大声が聞こえてきた。「かぁちゃんが悪かった。ヒロ君よぉ、かぁちゃんが、こがんチンバになったんで、おみやぁは恥ずかしかったんじゃのぉ、わかったもう、集会所には行かん。こんな身体になって、かぁちゃんも悔しい。今までヒロ君がそんな思いでおったことを気づかんかった。ごめんやぁ」と独り言で繰り返している。ヒロ君は、布団をかぶってひたすら寝たふりをしている。義母の語りは夜が更けるほど迫力を増してくる。聞いていた私も辛くなり襖を閉めざるを得なかった。
1時間ほどして、まだ声がするので、襖を開けてみると、義母が夜灯の薄明かりの中で、布団をかぶっているヒロ君の顔の上に覆い被さるような位置で喋っている。「ヒロ君からも集会所へは行かんと断りぃ。かぁちゃんは、もうヒロ君に恥ずかしい思いさせんけん」と迫っている。その光景はまるで鬼子母神だ。私は襖を閉め自室に戻って頭から布団をかぶり「今見たことは、なかったことにしなければ」と、ぎっちり目をつぶった。
朝5時、「ご飯は?」と言われて、ヒロ君が用意を始めたので、私が準備し朝食と薬をヒロ君に持って行ってもらった。一晩ほとんど2人は、眠っていない様子だし、私も久々に頭が痛い。食後、トイレに立った足取りがたどたどしいので「お義母さん、ベッドに寝てください」と懇願すると、脱力してダーンと布団に崩れ落ち、「ヒロ君のベッドじゃ、ヒロ君の許可をもらわんと、わしゃ寝られん」と言い張る。ヒロ君に「かぁちゃん、ここに寝ぇや」と言ってもらい、やっとベッドに寝て静かに目を閉じた。大騒動の一夜が明けた。義母は「特養には戻らないだろうなぁ」と、私はあきらめて仕事に出かけた。ヒロ君は健康診断の日で、検査結果に影響しなければいいなと気にかかりながら送り出した。
ところが、昼前に義母が特養に戻ったと知らせがあった。迎えに来たスタッフとすんなり特養に帰ったと言う。いつも裏をかかれて追いつかない。母の日の食事会も、絶好調で良い嫁をやらせてもらったはずだったが、その夜、特養に戻って「あんな不味い寿司は、食べたことない。寿司なのに酢の味がしない。おかしな話じゃ」と、わざわざ起きてきて、スタッフに語ったと言う。これまた傷つく話しだが、刺身御膳は寿司とは関係ない。酢の臭いが欲しかったんだろうか。お寿司だったらよかったのかなぁ。わからない。
【原因を探る】
「母の日外食」に出るとき、ヒロ君はすでに夕食を済ませてしまっていて、誘ったが断られたので、3人で出かけたのだが、日常一番身近に居てくれるヒロ君の欠席が原因だったのか。長男の理事長を「弟」と言うことも多いが、その日は絶対的な親子協議がしたかったのか。はたまた不自由になった自分の身体が不憫で、その悔しさを吐き出したかったのか。嫁に介護を頼む覚悟をするための一夜の演技であったのか・・・。どれも当たっているような気がするし、全部はずれているような気もする。こんな修羅場があっても、私はまだ傍観者でいることに、「はっ」と気づかされる。我が家の呪われた母の日の出来事は、私に鬼子母神の姿を見せるための一夜であり、私の「母性」への挑戦だったのかもしれない。どうもそれが一番しっくりするような気がする。
【回想】
以前、誕生祝いに外食をしたとき、それはもう上機嫌で、和食膳を褒めちぎりデザートまで残さずに食べてくれた。岩手に義母を呼び寄せて、初めてできた外食だった。毎月一回でもこんな時間が持てたらいいなぁと、調子に乗って、次に「ご飯食べに行こうか?」と誘ったが、睨み返され「わしゃ、どこへも行かん」と完全拒否だった。
病で身体が不自由になり、介護が必要になって炊事ができなくなってから、私が作って出すおかずは、一品しか手をつけない。ご飯の上に鮭のフレークや鯖の味噌煮、それに昆布の佃煮をのせて、あとは具たくさんの味噌汁だけ。肉や卵焼きや煮物、サラダなどを付けて出すが、手を付けない。それはどうやら私への遠慮であり、負担をかけている事に対しての自らへの抵抗らしいと分かってきた。デイサービスでは、毎日完食なので、栄養的には問題ないので、寂しく貧しいメニューの食事形態が続いてきた。今年2月に在宅介護6年目を経て、特養ホーム入居となった。ホームでは毎3食とおやつを、どれもおいしく頂いているとのことで、安心した。
【まず作戦】
ベッドで横になっているときに誘っても、絶対断られる。「この身体で、どこに行っても、迷惑をかける」と決め込んでいる節があり、タイミングが必要だ。特養に電話をかけて今日の様子を尋ねると、丁度、珍しく外出して花の苗などを買ってきたという。「疲れてるかなぁ・・・?本人に、食事に行くか聞いてもらえる?」と伝言を頼むと「行くって言ってますよ」との返事。諦めていただけに、誘っておきながら、こちらの方があわててしまった。
早速、息子である理事長を呼び、かつて一度だけ義母との外食で印象の良かった某ホテルに出かける。迎えに行くと、いつになく笑顔で社交的だ。絶好調?ともかくうれしいことだ、こちらが母の日のプレゼントをもらったような気分になる。玄関を出るとき3人の職員に見送られて、ちょっと大げさな見送りと、義母のはしゃぎように違和感はあった。
車に乗って走り出すと「あや?ここの坂は急じゃから、遠回りするんかいのぉ」と言う。家に帰るつもりでいたらしい。先ほど、義母としては「お世話になりました。もう会うこともないだろうけどお元気で」とお別れの挨拶をしていたのだ。「どきっ!」と私。「これからご飯食べに行くとこじゃ」と理事長。「そうかっ」となんのこともないような返事をしている。
「もう田植えをしたんじゃのう」などとコメントしながら、15分ほどのドライブ。「あんなところに布団干してからに、もう暗くなるのに湿気るでぇ」「あれは、芝桜じゃ。花よぉ」「ほぉ、花柄(のふとん)か」庭の芝桜を干した布団に見立てるなんぞ、なかなかセンス良いなぁと私も楽しくなる。ホテルの駐車場から、嫁と息子に手を引かれ、それはうれしそうに歩みを進めた。ちょっとふらつきながらも、支える私たちに身を任せてくれる義母に、親子をやってる感じがしていい気になっていた。
「ここには、前に来たことがあるのぉ、5人で来よったが」と、4年も前のことを、私達が忘れていることも語り出すので驚愕する。(認知症じゃなかったっけ?)レストラン内を見渡し、「お客が少ないのぉ、これじゃ、赤字になるわい」と店の心配までしている。耳が遠いこともあり、声が大きい。店員が来ても大声で「こりゃ、大変だわい」と経営者のように困っている。
和食膳がやってくると「ほぉー、ごちそうじゃね。こんなおつくり(刺身)、4年前に食べたきりじゃ。珍しいのぅ。」「これはなんじゃ、豆腐のようじゃな(茶碗蒸し)、わしが“今”住んでるところは、山ん中じゃけん、豆腐を売りに来るモンもおらん」「あの倉庫(特養ホーム)には、いろんな人がおる・・・。山ん中じゃけん魚も食べたこともない」大胆な台詞と今日のその食べっぷりに、複雑な気持ちになる。それでもとてもおいしそうに大半を食べ「あぁ、もうこれ以上食べたら、腹がパチーンと裂けそうじゃ」と、笑顔満面で満足気な義母の言葉で「母の日晩餐会」は終わった。
【2日後の豹変】
翌々日、特養ホームから、「家に帰ると頑なで説得が効かず、今、家に来ています」との、多少戸惑った様子の電話が入った。家に戻ってみると、賑やかな人だかりで、離れたところに、一人ぽつんと息子のヒロ君(重複障害があり家にいるため母と過ごす時間は長く、よくお世話をしている)が「もぉ、もぉ」と頭を振りながら憤りを露わにして混乱している。義母はすでに板の間に座り、社交の笑顔で私を迎え「京子さん、わがまま言って申し訳ありません。帰ってきました」と丁寧にお辞儀をした。特養のスタッフには「もう帰ってください。わしのことは、ええ(良い)ですから」と、これまた社交で、有無を言わせず「帰れ」と言っている。覚悟するしかないだろう・・・。
在宅時レンタルしていたベッドはもうないので、ヒロ君のベッドに寝てもらうと、すぐに目を閉じた。疲れた表情で足も浮腫んでいた。私は足を揉みながら、夕ご飯あたりには、ヒロ君と理事長で特養に送ってもらおうと、甘い考えでその場をやり過ごし、眠ったのを確認して仕事に戻った。その後夕方になって、理事長が誘い、玄関までは出て靴を履くまでは行ったらしいが、突然「わしゃ行かん!絶対死んでも行かん」と、ものすごい速さで後ずさりしてベッドに戻ってしまったという。
【深夜の壮絶な闘い】
第一弾
夕食は、ご飯に鮭と筋子をのせ、麻婆豆腐を一品付けて、カニ汁を出した。どうせ、麻婆豆腐は残してくるだろうと予想した。ところが、いつもなら手を付けないはずの麻婆豆腐はきれいに食べ、ご飯と汁を残してきた。しまった裏をかかれたと思ったときはすでに遅かった。「これはただごとではない」と、主婦の嗅覚がそれを感じた。
案の定、食事の後、ヒロ君に指図して、布団を押し入れから出させている。私もそれを手伝ってヒロ君用の寝床を作ったつもりだった。ところが義母は「わしが、ここに寝る」と頑として聞かない。「立ち上がりが難しいし、ベッドの方がトイレにも近いんだから、ベッドに寝て」と言うが全く聞く耳持たずだった。
しばらくすると、いつものように頭痛を訴え、ヒロ君に薬を出せと執拗に迫り、諍いが始まった。ヒロ君はたまらず部屋から飛び出して、廊下でクールダウンしている。それからが大変だった。次にリビングの私の所にやってきて「ヒロ君は、わしが手も足も動かんようになったいうのに、さっぱり言うことを聞いてくれん」と訴える。今にも倒れんばかりの足取りで、歩行器を曳いてきた。(あれっ、歩行器の役目が違う?)
やっとリビングのいすに座ると、「わしが何か言うと、ぷいっと外に出てしまう。なんでじゃろうも。何であがん子になってしもうたんじゃろ。ヒロ君、ヒロ君!」と叫ぶ。呼ばれたヒロ君は「もう知らん、知らん、嫌いだ」とリビングに来ようとしない。
その様子を察して「わしゃ、健ちゃん(理事長)が来るまで、ここ動かん。話を聞いてもらわにゃ」と、この仲裁に理事長を指名するあたりはブレてはいない。連絡するがしばらく経っても来ず、沈黙に耐えられなかったのか「わしゃ、腰が痛くなったけん、寝て待っとるけん。来たら呼んでくんさい」と部屋に帰っていった。その時の足取りはなぜかしっかりしていた。戻った場所は、やはりベッドではなく、床に敷かれた布団で、潜り込んだものの鬱々として眠れてはいない様子で何事かしゃべり続けている。
第二弾
しばらくしてやっと理事長登場。これが親子の会話かと驚くほどあっさりしている。「どうしてヒロ君は、わしのゆうこと、きかんようになったんじゃろか」「そりゃ、おかんが、口うるさいけんじゃ」「わしゃ、うるそうは言うとらんがのお」「いいや、もう3時間責めっぱなしじゃ。今日はもう寝えやぁ」と寝床に連れて行き、布団に入ったので、そのまま眠って収まったかと思った。
しかし理事長に面談の電話が入って出かけたあと、深夜0時、また大声が聞こえてきた。「かぁちゃんが悪かった。ヒロ君よぉ、かぁちゃんが、こがんチンバになったんで、おみやぁは恥ずかしかったんじゃのぉ、わかったもう、集会所には行かん。こんな身体になって、かぁちゃんも悔しい。今までヒロ君がそんな思いでおったことを気づかんかった。ごめんやぁ」と独り言で繰り返している。ヒロ君は、布団をかぶってひたすら寝たふりをしている。義母の語りは夜が更けるほど迫力を増してくる。聞いていた私も辛くなり襖を閉めざるを得なかった。
1時間ほどして、まだ声がするので、襖を開けてみると、義母が夜灯の薄明かりの中で、布団をかぶっているヒロ君の顔の上に覆い被さるような位置で喋っている。「ヒロ君からも集会所へは行かんと断りぃ。かぁちゃんは、もうヒロ君に恥ずかしい思いさせんけん」と迫っている。その光景はまるで鬼子母神だ。私は襖を閉め自室に戻って頭から布団をかぶり「今見たことは、なかったことにしなければ」と、ぎっちり目をつぶった。
朝5時、「ご飯は?」と言われて、ヒロ君が用意を始めたので、私が準備し朝食と薬をヒロ君に持って行ってもらった。一晩ほとんど2人は、眠っていない様子だし、私も久々に頭が痛い。食後、トイレに立った足取りがたどたどしいので「お義母さん、ベッドに寝てください」と懇願すると、脱力してダーンと布団に崩れ落ち、「ヒロ君のベッドじゃ、ヒロ君の許可をもらわんと、わしゃ寝られん」と言い張る。ヒロ君に「かぁちゃん、ここに寝ぇや」と言ってもらい、やっとベッドに寝て静かに目を閉じた。大騒動の一夜が明けた。義母は「特養には戻らないだろうなぁ」と、私はあきらめて仕事に出かけた。ヒロ君は健康診断の日で、検査結果に影響しなければいいなと気にかかりながら送り出した。
ところが、昼前に義母が特養に戻ったと知らせがあった。迎えに来たスタッフとすんなり特養に帰ったと言う。いつも裏をかかれて追いつかない。母の日の食事会も、絶好調で良い嫁をやらせてもらったはずだったが、その夜、特養に戻って「あんな不味い寿司は、食べたことない。寿司なのに酢の味がしない。おかしな話じゃ」と、わざわざ起きてきて、スタッフに語ったと言う。これまた傷つく話しだが、刺身御膳は寿司とは関係ない。酢の臭いが欲しかったんだろうか。お寿司だったらよかったのかなぁ。わからない。
【原因を探る】
「母の日外食」に出るとき、ヒロ君はすでに夕食を済ませてしまっていて、誘ったが断られたので、3人で出かけたのだが、日常一番身近に居てくれるヒロ君の欠席が原因だったのか。長男の理事長を「弟」と言うことも多いが、その日は絶対的な親子協議がしたかったのか。はたまた不自由になった自分の身体が不憫で、その悔しさを吐き出したかったのか。嫁に介護を頼む覚悟をするための一夜の演技であったのか・・・。どれも当たっているような気がするし、全部はずれているような気もする。こんな修羅場があっても、私はまだ傍観者でいることに、「はっ」と気づかされる。我が家の呪われた母の日の出来事は、私に鬼子母神の姿を見せるための一夜であり、私の「母性」への挑戦だったのかもしれない。どうもそれが一番しっくりするような気がする。
巡ってきた春、見つけたもの ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2014年5月号】
4月27日、特養の利用者、清子さん(仮名)と家族さんと一緒にお花見に行った。スタッフは、ユニットリーダーの菜摘さんと、新人の照井さんも参加した。清子さんは11年前の89歳の時に、一人娘を亡くしており、それから毎年娘さんの命日に鳥谷ヶ崎公園で家族でお花見をしてきたという。一昨年清子さんが銀河の里に入居してからは、スタッフも花見にご一緒させていただくようになった。
去年のお花見は、清子さんの体調がすぐれず、食事もできなくなりつつあった頃で、後数ヶ月かもしれないと覚悟を迫られた時期で、ドクターからもターミナル期に入ったと告げられていた。去年はそんな渦中の花見だったので、これが最後だとの思いを込めて参加した。
ところが、夏の花火大会も、クリスマスもお正月も過ごして、今年2月の誕生日には温泉で総勢14名が集まって一泊の大宴会を開催し、なんと今年の花見を、去年よりも元気に迎えたのだった。去年のお花見に参加できなかった私は、今年こそは清子さんと花見に一緒に行きたいと思っていた。
誕生日の温泉旅行(通信2014年3月号、山岡睦さんの「看取りを超えた特別な時間」を参照)は参加人数もさることながら、100歳の誕生日に温泉で家族、親族、スタッフが集って祝い、宿泊して盛り上がるなどというこんな事があり得るのかという驚きと、感動に満ちた時間だった。
そんな大きな誕生日を終えて以降、ホッと一息ついた感じで清子さんと穏やかな日々を過ごしていたが、花見の時期がやってきた。正直、誰もが今年の花見を清子さんと一緒に迎えられるとは思ってもいなかったと思う。去年の花見はそれぞれがこれで最後の花見だと覚悟していたと思う。
(4月中旬、清子さんは軽い肺炎になったが、その後体調を取り戻し、今年の花見を迎えた。去年もこの時期に体調を崩していたが、清子さんと家族さんの気持ちの強さが運命を動かしているようにさえ感じる。)
今年の春は、体調もよく穏やかな清子さんに安心感のある日々だったのだが、花見当日の朝は、私は緊張していた。清子さん自身の顔も硬い感じだった。出発して花見会場の鳥谷ヶ崎公園に向かう車中も落ち着かなかった。去年の花見とはまた違った日になるようで、どこか胸騒ぎがした。この日は風のない暖かな絶好の花見日和だった。
公園につくと、すでに息子さん(娘さんの夫)、二人のお孫さん、さらに二人のひ孫さんが待っていてくれた。ところが家族さんに会っても清子さんの顔は硬いままだった。
毎年娘さんの命日に花見をしてきて、記念撮影をする場所も決まっているとのこと。今年もそこで写真を撮った。息子さんはいつもよりも更に気合いが入っているように見えた。“お花見の撮影会”を超えた魂に関わる仕事のように感じた。
清子さんは、終始、硬い表情を崩さなかった。いつも左手をきゅっと握って離さないのだけれど、今日はすぐにぱっと離した。
清子さんもなにか動いているようだった。
午後からは清子さんの自宅で過ごせるよう予定をたてていた。自宅に着くとやっと清子さんの表情が微笑んだ。清子さんはソファに座って、からだの緊張をほぐしていく。
今日のために、赤飯や寿司、団子などたくさん料理が用意してあった。清子さんは皆の食べる姿をじっと見ていた。お茶をすすめられると美味しそうに1口飲んだ。梅ジュースやお吸い物など、清子さんは“一緒に食べる”ではなく“一緒に飲む”で宴に参加してくれた。
息子さんは「埴生の宿」という唱歌を英語で清子さんに贈った。(息子さんは元英語教師で、今でも英語への情熱が凄い。)
埴生の宿も 我が宿、玉のよそい うらやまじ・・・
「ホームスウィートホーム。ハウスは冷たい建物を表すけど、ホームは暖かな家庭のことを言うんだよ。ホーム・スウィートホーム…」 息子さんが歌うと、清子さんは微笑んで「上手だ。」と言った。その言葉に、胸が温かくなった。
穏やかに家での時間を過ごしたが、15時過ぎにそろそろ帰ろうということになった。帰る間際、私は孫さんにずっと気になっていたことを聞いた。「清子さんが使っていた裁縫箱ってありますか?」。それは、清子さんが認知症が始まった頃はいつもその裁縫箱を風呂敷に包んで「家さ帰る」と歩いて出ていった事がしばしばあったと息子さんからも何度か聞いていたのだが、実際にはまだ見たことがなかった。「あるかな〜?」と孫さんが探して裁縫箱を持って来て下さった。
その瞬間、それまで疲れてぐったりしていた感じの清子さんの目の色が変わり「おれのだ!」と両手をのばした。その場にいた全員が、その勢いに驚いた。「おれのだ、おれのだ。」とその裁縫箱を抱えて離そうとしない清子さん。私は、清子さんの執着ぶりにとてつもない衝撃を受けた。そんなに大事なものなら、銀河の里に持って帰るか…?という話しになったのだが、そこで息子さんは躊躇した。「おばあちゃん、どうする?これ、大事なら家に置いてくか?」と清子さんに尋ねる。その言葉に清子さんは「置いてく、置いてく。」と答えた。生活している銀河の里に持って行くか、それとも家に置いておくか、その場にいた全員が葛藤したと思う。
清子さん自身も「置いてく」と言ったものの抱きかかえて離そうとしない。私はとても辛い選択に感じた。その場は重い空気になり、皆で悩んだ。清子さんはずっと裁縫箱を掴んでいたので、悩んだ末、私は息子さんに「清子さんのそばに置かせて頂きたい」と話して、銀河の里に持って帰らせてもらう事にした。息子さんは「おばあちゃんが死んだら、次は僕が大事にこの家に置いておくからね。」と清子さんに伝えた。
裁縫箱の中には、清子さんが好んで使っていたという様々な色の絹糸、針刺、そしてたくさんのアクセサリーが入っていた。孫さんと私がそのアクセサリーを見ようとすると、清子さんはさっと手で覆った。その仕草にハッとした。見てはいけないもの、秘めておきたいものなのか。後日、息子さんは「この裁縫箱は、もともとおばあちゃんのものだったけれど、僕の妻(清子さんの娘さん)と一緒に使っていた。そして僕も一緒に使っていた。おばあちゃんは、大事なものを裁縫箱に入れる。入っている口紅は、妻とおばあちゃんが兼用していたものだ。」と言うことだった。
思い起こせば、清子さんが入居された当初から「見つけて」「見つける」…と、何か(誰か)を探すような言葉が頻繁に出ていた。ずっとそれが何なのか分からず、考えてきたのだが…今回この裁縫箱を見つけた時の清子さんの感じ(力強い眼差し)からすると「やっと見つけた、離さないよ」と言っているようで「見つけて」はこの裁縫箱のことだったのだと直感した。私は感動したと同時に「見つけてしまった」という絶望感のようなものに包まれた。清子さんはこれで準備を整えて逝ってしまうのではないかと怖くなったからだ。
私は最近、清子さんが亡くなる夢を見た。清子さんの血圧を測っていたらどんどん血圧が下がって息をひきとる夢だった。夢のなかで私は「行かないで」「寂しい」…という気持ちで泣き叫んでいた。「ありがとう」「お疲れ様」という感謝ではなく…。
先日、清子さんが私に語った。「バスで行くから。おれは足が立てないから、(歩いていくのではなく)バスで行く。花巻のバス。列車でも良い。…行くのは私ばり。帰ってこないから。」と。私はどうしても死を連想してしまい「じゃあいってらっしゃい」とは言えなかった。清子さんは、『しょうがないんだ』と言い、そして最後に「いがべ?」と聞いてきた。私は辛い気持ちになって「嫌だよ」と返したら、清子さんは笑って「ふふ。…寝る」と言って眠った。
死は一定だ。いつかその時は必ず来る。けれど生きていて欲しい、ずっと居て欲しい、「清子さんの隣」という暖かな日なたのような、静かな木陰のような場所を私は失いたくない。考えれば考えるほど・・・私の中の清子さんは「私のための清子さん」でしかない。私は貰ってばかりでなにもできないでいる。
清子さんの「いがべ?」は、「私は行くけどあなたは大丈夫?」という事だろうか。清子さんの「見つけて」という言葉は、私もなにか見つけなきゃならないということか。清子さんの裁縫箱を見つけたときの私の絶望は、私がまだ何も見つけていないからにちがいない。裁縫箱が見つかり、あの世へ向かう準備が整って、清子さんが居なくなったら…現実にそこに居てくれる清子さんが居なくなったら、清子さんの隣を失った私はどこにいけばいいのか分からなくなる。そんな怖さと不安に苛まれる。
裁縫箱は清子さんが生活してきた証。そして娘さんの魂そのもの。裁縫箱が見つかって、またここから何かが始まる。それは清子さんにとっても息子さんにとっても、私やスタッフにとってもそうだ。娘さんを偲ぶ日に、家族と共に見つけた…重いもの。これから清子さんと共に過ごすには、何かを見つけたり、何かに気付かなきゃならない。花見までの、清子さんとの「何もない」安心しきった時間は、穏やかでいい時間ではあったが、そんな時間の中では、知らないうちに何かを失ってしまうかもしれない。私も探さなければならない。それは私が生きていく上で大事なもの。
私は何を探せばいいのだろう。私には探し出して巡り会わなければならない何かがある。それを見つけなくては、私はなにも始まらないような気がしていた。
その後、5月18日。清子さんは「ううー、おかあさん、おかあさん。着物、縫って作ってくれた」と大きな声で泣き続けた。今まで清子さんは「おとうさん」(息子さんなのか実父なのか)と呼ぶのが口癖だったのだが、「お母さん…」は、聞いたことがなかった。いつもの凛とした清子さんではなく、母を強く求めて泣きながら叫んでいる。
裁縫箱と再会してから、清子さんは「お母さん」が出るようになり、よく泣いた。「お母さんのもとへ行く」と言ったこともある。裁縫箱を見つけたことがきっかけで心に閉ざしてきた母への愛や記憶を、やっと思いのままに出せるようになったんだと私は感じた。そう気がつくと裁縫箱に抱いていた疑問が吹っ切れて大きな安らぎを感じた。
この春になって…やっと「母」を叫ぶことができた清子さん。個人の存在を超えたいのちの繋がり。私が呼びかけると清子さんは嬉しそうに応えてくれる。清子さんのいのちが今、父親や母親などと共に存在しているような喜びが伝わってくる。
泣きながら清子さんは「Aさん(娘さんの名前)」とも言った。清子さんの亡くなった娘さんだが、かけがえのない、大事な人…。そういうものと清子さんは繋がっている。大いなる「母」のもとに還ろうとしている。今まで、私は死が悲痛なものであるとしか考えられなかった。この日、なにか巡りゆくみちすじが私の中に見えたような気がして大きな安心を感じたのだった。清子さんにも、はっきりと見えてるだろう母の元への通路。私の中では天の川のような輝く星の世界のイメージ。「いってらっしゃい」と言えるような気がする。そして、「私も行くからね」と、私の還る場所も少し見えた気がする。
去年のお花見は、清子さんの体調がすぐれず、食事もできなくなりつつあった頃で、後数ヶ月かもしれないと覚悟を迫られた時期で、ドクターからもターミナル期に入ったと告げられていた。去年はそんな渦中の花見だったので、これが最後だとの思いを込めて参加した。
ところが、夏の花火大会も、クリスマスもお正月も過ごして、今年2月の誕生日には温泉で総勢14名が集まって一泊の大宴会を開催し、なんと今年の花見を、去年よりも元気に迎えたのだった。去年のお花見に参加できなかった私は、今年こそは清子さんと花見に一緒に行きたいと思っていた。
誕生日の温泉旅行(通信2014年3月号、山岡睦さんの「看取りを超えた特別な時間」を参照)は参加人数もさることながら、100歳の誕生日に温泉で家族、親族、スタッフが集って祝い、宿泊して盛り上がるなどというこんな事があり得るのかという驚きと、感動に満ちた時間だった。
そんな大きな誕生日を終えて以降、ホッと一息ついた感じで清子さんと穏やかな日々を過ごしていたが、花見の時期がやってきた。正直、誰もが今年の花見を清子さんと一緒に迎えられるとは思ってもいなかったと思う。去年の花見はそれぞれがこれで最後の花見だと覚悟していたと思う。
(4月中旬、清子さんは軽い肺炎になったが、その後体調を取り戻し、今年の花見を迎えた。去年もこの時期に体調を崩していたが、清子さんと家族さんの気持ちの強さが運命を動かしているようにさえ感じる。)
今年の春は、体調もよく穏やかな清子さんに安心感のある日々だったのだが、花見当日の朝は、私は緊張していた。清子さん自身の顔も硬い感じだった。出発して花見会場の鳥谷ヶ崎公園に向かう車中も落ち着かなかった。去年の花見とはまた違った日になるようで、どこか胸騒ぎがした。この日は風のない暖かな絶好の花見日和だった。
公園につくと、すでに息子さん(娘さんの夫)、二人のお孫さん、さらに二人のひ孫さんが待っていてくれた。ところが家族さんに会っても清子さんの顔は硬いままだった。
毎年娘さんの命日に花見をしてきて、記念撮影をする場所も決まっているとのこと。今年もそこで写真を撮った。息子さんはいつもよりも更に気合いが入っているように見えた。“お花見の撮影会”を超えた魂に関わる仕事のように感じた。
清子さんは、終始、硬い表情を崩さなかった。いつも左手をきゅっと握って離さないのだけれど、今日はすぐにぱっと離した。
清子さんもなにか動いているようだった。
午後からは清子さんの自宅で過ごせるよう予定をたてていた。自宅に着くとやっと清子さんの表情が微笑んだ。清子さんはソファに座って、からだの緊張をほぐしていく。
今日のために、赤飯や寿司、団子などたくさん料理が用意してあった。清子さんは皆の食べる姿をじっと見ていた。お茶をすすめられると美味しそうに1口飲んだ。梅ジュースやお吸い物など、清子さんは“一緒に食べる”ではなく“一緒に飲む”で宴に参加してくれた。
息子さんは「埴生の宿」という唱歌を英語で清子さんに贈った。(息子さんは元英語教師で、今でも英語への情熱が凄い。)
埴生の宿も 我が宿、玉のよそい うらやまじ・・・
「ホームスウィートホーム。ハウスは冷たい建物を表すけど、ホームは暖かな家庭のことを言うんだよ。ホーム・スウィートホーム…」 息子さんが歌うと、清子さんは微笑んで「上手だ。」と言った。その言葉に、胸が温かくなった。
穏やかに家での時間を過ごしたが、15時過ぎにそろそろ帰ろうということになった。帰る間際、私は孫さんにずっと気になっていたことを聞いた。「清子さんが使っていた裁縫箱ってありますか?」。それは、清子さんが認知症が始まった頃はいつもその裁縫箱を風呂敷に包んで「家さ帰る」と歩いて出ていった事がしばしばあったと息子さんからも何度か聞いていたのだが、実際にはまだ見たことがなかった。「あるかな〜?」と孫さんが探して裁縫箱を持って来て下さった。
その瞬間、それまで疲れてぐったりしていた感じの清子さんの目の色が変わり「おれのだ!」と両手をのばした。その場にいた全員が、その勢いに驚いた。「おれのだ、おれのだ。」とその裁縫箱を抱えて離そうとしない清子さん。私は、清子さんの執着ぶりにとてつもない衝撃を受けた。そんなに大事なものなら、銀河の里に持って帰るか…?という話しになったのだが、そこで息子さんは躊躇した。「おばあちゃん、どうする?これ、大事なら家に置いてくか?」と清子さんに尋ねる。その言葉に清子さんは「置いてく、置いてく。」と答えた。生活している銀河の里に持って行くか、それとも家に置いておくか、その場にいた全員が葛藤したと思う。
清子さん自身も「置いてく」と言ったものの抱きかかえて離そうとしない。私はとても辛い選択に感じた。その場は重い空気になり、皆で悩んだ。清子さんはずっと裁縫箱を掴んでいたので、悩んだ末、私は息子さんに「清子さんのそばに置かせて頂きたい」と話して、銀河の里に持って帰らせてもらう事にした。息子さんは「おばあちゃんが死んだら、次は僕が大事にこの家に置いておくからね。」と清子さんに伝えた。
裁縫箱の中には、清子さんが好んで使っていたという様々な色の絹糸、針刺、そしてたくさんのアクセサリーが入っていた。孫さんと私がそのアクセサリーを見ようとすると、清子さんはさっと手で覆った。その仕草にハッとした。見てはいけないもの、秘めておきたいものなのか。後日、息子さんは「この裁縫箱は、もともとおばあちゃんのものだったけれど、僕の妻(清子さんの娘さん)と一緒に使っていた。そして僕も一緒に使っていた。おばあちゃんは、大事なものを裁縫箱に入れる。入っている口紅は、妻とおばあちゃんが兼用していたものだ。」と言うことだった。
思い起こせば、清子さんが入居された当初から「見つけて」「見つける」…と、何か(誰か)を探すような言葉が頻繁に出ていた。ずっとそれが何なのか分からず、考えてきたのだが…今回この裁縫箱を見つけた時の清子さんの感じ(力強い眼差し)からすると「やっと見つけた、離さないよ」と言っているようで「見つけて」はこの裁縫箱のことだったのだと直感した。私は感動したと同時に「見つけてしまった」という絶望感のようなものに包まれた。清子さんはこれで準備を整えて逝ってしまうのではないかと怖くなったからだ。
私は最近、清子さんが亡くなる夢を見た。清子さんの血圧を測っていたらどんどん血圧が下がって息をひきとる夢だった。夢のなかで私は「行かないで」「寂しい」…という気持ちで泣き叫んでいた。「ありがとう」「お疲れ様」という感謝ではなく…。
先日、清子さんが私に語った。「バスで行くから。おれは足が立てないから、(歩いていくのではなく)バスで行く。花巻のバス。列車でも良い。…行くのは私ばり。帰ってこないから。」と。私はどうしても死を連想してしまい「じゃあいってらっしゃい」とは言えなかった。清子さんは、『しょうがないんだ』と言い、そして最後に「いがべ?」と聞いてきた。私は辛い気持ちになって「嫌だよ」と返したら、清子さんは笑って「ふふ。…寝る」と言って眠った。
死は一定だ。いつかその時は必ず来る。けれど生きていて欲しい、ずっと居て欲しい、「清子さんの隣」という暖かな日なたのような、静かな木陰のような場所を私は失いたくない。考えれば考えるほど・・・私の中の清子さんは「私のための清子さん」でしかない。私は貰ってばかりでなにもできないでいる。
清子さんの「いがべ?」は、「私は行くけどあなたは大丈夫?」という事だろうか。清子さんの「見つけて」という言葉は、私もなにか見つけなきゃならないということか。清子さんの裁縫箱を見つけたときの私の絶望は、私がまだ何も見つけていないからにちがいない。裁縫箱が見つかり、あの世へ向かう準備が整って、清子さんが居なくなったら…現実にそこに居てくれる清子さんが居なくなったら、清子さんの隣を失った私はどこにいけばいいのか分からなくなる。そんな怖さと不安に苛まれる。
裁縫箱は清子さんが生活してきた証。そして娘さんの魂そのもの。裁縫箱が見つかって、またここから何かが始まる。それは清子さんにとっても息子さんにとっても、私やスタッフにとってもそうだ。娘さんを偲ぶ日に、家族と共に見つけた…重いもの。これから清子さんと共に過ごすには、何かを見つけたり、何かに気付かなきゃならない。花見までの、清子さんとの「何もない」安心しきった時間は、穏やかでいい時間ではあったが、そんな時間の中では、知らないうちに何かを失ってしまうかもしれない。私も探さなければならない。それは私が生きていく上で大事なもの。
私は何を探せばいいのだろう。私には探し出して巡り会わなければならない何かがある。それを見つけなくては、私はなにも始まらないような気がしていた。
その後、5月18日。清子さんは「ううー、おかあさん、おかあさん。着物、縫って作ってくれた」と大きな声で泣き続けた。今まで清子さんは「おとうさん」(息子さんなのか実父なのか)と呼ぶのが口癖だったのだが、「お母さん…」は、聞いたことがなかった。いつもの凛とした清子さんではなく、母を強く求めて泣きながら叫んでいる。
裁縫箱と再会してから、清子さんは「お母さん」が出るようになり、よく泣いた。「お母さんのもとへ行く」と言ったこともある。裁縫箱を見つけたことがきっかけで心に閉ざしてきた母への愛や記憶を、やっと思いのままに出せるようになったんだと私は感じた。そう気がつくと裁縫箱に抱いていた疑問が吹っ切れて大きな安らぎを感じた。
この春になって…やっと「母」を叫ぶことができた清子さん。個人の存在を超えたいのちの繋がり。私が呼びかけると清子さんは嬉しそうに応えてくれる。清子さんのいのちが今、父親や母親などと共に存在しているような喜びが伝わってくる。
泣きながら清子さんは「Aさん(娘さんの名前)」とも言った。清子さんの亡くなった娘さんだが、かけがえのない、大事な人…。そういうものと清子さんは繋がっている。大いなる「母」のもとに還ろうとしている。今まで、私は死が悲痛なものであるとしか考えられなかった。この日、なにか巡りゆくみちすじが私の中に見えたような気がして大きな安心を感じたのだった。清子さんにも、はっきりと見えてるだろう母の元への通路。私の中では天の川のような輝く星の世界のイメージ。「いってらっしゃい」と言えるような気がする。そして、「私も行くからね」と、私の還る場所も少し見えた気がする。
さすらう“母性”?!★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2014年5月号】
(ごめんなさい、私は未だに、我がままぶっこいている。女ってぇ生き物はずいぶん自分勝手だな・・・)と、誰にということなく、なんだかとても申し訳なくなった。
これは、村上春樹の新作短編集『女のいない男たち』を読んで、こころに浮かんだ想いだ。37歳にもなって未だお気楽にひとりでふらふらしている自分の、ここ数年の生き様を振り返らざるを得ないような感じだった。最近の何人かの男性利用者さんとのやりとりも絡み、どろどろぐるぐるして苦しいけど、現時点でのこれが自分だ。その辺をちょっと書いてみたいと思う。
銀河の里に入居した当初、家族と離れた寂しさが募ってか、女性スタッフを極度に求める男性利用者さんがいる。私のなかの女性(私個人ではなく、私を通して彼らが見ている“女性性”)を求めるんだろうなと感じる。人によっては、求愛するセリフや性的に際どいボディタッチも出るので苦しくなることもある。また、母的な大いなるものの存在に包まれることを望みながら果たされず、切ない感じがする場合もある。“帰りたい”気持ちが限界になって暴力的になる人もあるが、いずれも、底には“寂しさ”を感じる。「この寂しさは私の寂しさでもある」と気付いてからは急に辛さは消えた。自分でも手に負えない自分の中の“女”の部分よりも、もっと普遍的で柔らかな世界との繋がりを求めて訴えてこられる感じに私の感覚も関係も変化した。
ある男性利用者さんは、隣に座った私の手を「きれいな手だなぁ」と握った。「俺のはこったにぼっこぼこだぁ」と言うごっつくて大きな手を、「今まで一生懸命、家族のために稼いできたんだもん、美しい手だよ」とさすりながら返す。すると、「泣きたくなった」と目を押さえて涙をこらえ、「ついに追ん出された、俺などいらねんだな・・・最初は“おめだけだぁ”なんて言って良い仲になったって、最後はじゃまにされるだけだ」としょんぼりする。「男っつのはそんなもんだ、女っつのはそんなもんだ・・・」しばらく私と腕を組んで一緒にいたい感じで、語りは続く。「自分で自分の成すこと信じてやってきたつもりだったけど、今になって初めて信じられなくなった・・・」自分を信じられないなんて寂しいね・・・と返すと、「そうだね、寂しいよ、寂しさがここまで(のどや胸を撫でながら)きてる、みっちりと寂しい」と呟いた。
別の男性は、家族さんの迎えを待つのだと事務所にやってくる。ある日、ミュシャの画集を一緒に見ながら過ごしていた。花や樹に包まれて舞う女の人の絵を見て、「きれいだなぁ・・・お前みたいだ」と言う。とんでもございません、お世辞にもきれいなんていう柄じゃない・・・と言いたかったが、「そうか、男の人には女の人がこういうふうに見えるんだなぁ」とも感じた。優しく美しく微笑みをくれる女性。「こういう人がそばにいてくれたらなぁ」てへへ♪と可愛く笑いながら、私の手をとりすりすりする。「でもなぁ、お前は我が強くて、きかない性格だからなぁ」なんて、言い得たことを付け足すから、私にゲンコツを振り上げられて首をすくめ、また笑っている。こうやって、気の許せる間柄でじゃれ合うこと自体、癒やしの体験なんだろうなぁとも感じて、私もなんだか心地よい時間となる。いつの間にか、家に電話してくれという訴えは消えている。寂しさが、束の間、和らいだのかもしれない。「俺と結婚しないか? こうやってふたりで笑って暮らせたら、どんなに幸せだろう・・・」と語りが続く。
社交的な挨拶を交わす程度の間柄でも、ふと次元が変わり、不思議なことが起こることもある。いつものように他愛のない話ににこやかに相槌を打っていたある男性利用者さんが、何気なく突然、背中を撫でてくる。ん?と少しびっくりしたが、他意はないかのように表情も変わらない。世間話を続けるうち、手が太腿にきた。ん?とまた驚く。そのうち撫でる手の加減がだんだん強く、しかもちょっと際どく伸びてきて・・・、なんだろう? リビングには他の利用者もスタッフもすぐ近くにいる。う〜ん、確かにいやらしい感じは全くないんだけど・・・、普段の関係からは考えられない距離感に困惑する。で、私はイスから立ち上がり肩を揉む。一見、普通のマッサージの場面なんだけど、肩を揉む私の手に懸命に触れてきて、やっぱりなんか違った、不思議な感触が残る。言葉で語ることの少ない人の“ことば”に触れたような感覚。寂しさを肌のぬくもりで埋められることがある、そんな感じだった。
みんな、ふと、自分でもどうにもできない根源的な寂しさや怒りが湧き出てくることに、本人も驚き悲しんでいるような表情をする。切ないけれど、センチメンタルは役に立たない。誰かと一緒にしか生きていけない人間の、普遍的な寂しさや業を見せられたようで、とても他人事とは思えない。
こんなやりとりが続き、男の人の寂しさをぐるぐる考えていた折、古くからの絵描き仲間の男友達と久しぶりに電話で話していて、“寂しさ”が話題にのぼった。春樹の新作の感想もシェアしながらの議論となった。何らかの渇望や孤独が表現の原動力となる画家や詩人、作家や音楽家たち。あまたの男性芸術家たちが、その創作活動の生涯を通して、実に多くの女性に支えられている、と友人。確かに、個人的な親密な男女関係としてはもちろん、モデルとして、愛と美の神ヴィーナスとして、“女性”はインスピレーションの源であったのだろうと、作品に触れる度に感じる。それは芸術家として、というより人間として生きていく、根源的なエネルギーを与えてくれる絶大な存在だろう。そういう“女性性”に対して、心からの尊敬と憧れをまっすぐに表現する彼らは、その芸術的才能にも増して、やっぱり男として魅力的だ。女だってほっとくはずがない、なんぼ苦しくったって支えたいと思う気持ちがよくわかる、と私。単純な疑問も投げかけてみる。「男の人にとって、女の人って何?」との質問に、「ふるさと」と即答。これには、「わぁ!」と驚くと同時に「そうか・・・」と一瞬にして深く納得してしまった。“命のふるさと”だと友人は付け加えた。
男性利用者さんたちから向けられる寂しさが、いやらしく感じて苦しくなり、情けなく感じて「しっかりしてよ!」みたいな怒りも湧き、また逆に愛おしくも感じていた。いろんな面を照らし出され、私のなかの女性性もそのたびに戸惑う。しかし、“ふるさと”にまで行き着くと、これはもう、男女を超越する。そんなおっきなものを求められても、まだまだ私は、女特有のつまらない怒りでどろどろだ。“ふるさと”など、ほど遠い・・・。
我が身を照らす苦しい戦いに向き合っていくしかない。自分は守られ支えられてばっかしなくせに、他を守り支える覚悟のない女の甘えが見え透いている。我がままで威張ってる上に文句ばっかりでは、どうしようもない。一方、女に縛られ、支配され、所有され、管理されて、利用されてる、ふにゃふにゃな男もどうだ? それでいいの? それが心地いいの? 命を懸けてロマンを追い、“自分”を生きる、かっこいい男でいてほしい。男がそう生きられないのは、女の母性がなくなったからだろうか。甘えた女ばっかりでは、男が育たないのも無理はない。利用するだけ利用して、寄りかかっているだけの女も女だ。男はそんなもん、女はそんなもん? どっちも絶望的にかっこよくない。きれい事だけ言って、うわべだけの関係で対峙せず、自身と向き合おうとせず、楽な関係に甘んじては、お互いが腐っていく。何も生まない女にも、喰ってしまう女にもなりたくない。そんなことなら最初から関わりたくない。・・・それは、逃げ、私の弱さなんだろうなぁ・・・。
今は亡き修治さん(仮名)の言葉を私は今でも大切にしている。特養開設当初、荒んだ介護工場のような雰囲気をなんとか打開しようと、まさに里を挙げて戦っていたさなかだった。深夜、みんな就寝して、リビングには修治さんと私だけだった。田圃なのか牛なのか、稼ぐ気持ちでぐんぐんと歩き続ける修治さんの後を私は歩いていた。修治さんは、ふと振り返えると、なんの脈略もなく言った。「おたくさん、体の中に猛獣、飼ってらな」・・・っ!!!な、なぜご存じで・・・と絶句する私。にやりとして、また修治さんは歩いて行った。見抜かれた・・・と恐ろしくなると同時に感動もしていた。“真のことば”が降りてきた感じ? 深い認知症で、父性も母性もあらゆるものを超越した次元に到達している修治さんの、大いなる境地に優しく厳しく照らされたような・・・、そんな衝撃があった。その日以来、修治さんへの深い感謝と共に「いつの日か、鬼も蛇も、飼い慣らしてみせる」との誓いを胸にやってきた。・・・つもりだが、果たして・・・?!
男の人にとって母性は必須。少女の成長にとっても必要だろう。ただ、女は自らのなかに母を育んでいける。最近ふと、「男は女次第、女は自分次第」とよく呟いてしまう。
本田和子先生によると、女人とは、どうやら、少女性と母性という違った顔を持っているらしい。さらに、少女のなかには、か弱くあどけない一面と男を虜にする魔性の一面があるし、母のなかにも生み育てる母と呑み込む母とがいる。こんなにも複雑で混沌としてるんだ、女って・・・と、途方もない気持ちになる(例えば、源氏物語に登場する大勢の女性は、ひとりの女人のなかの多様な心象だとの見方もある)。どの顔が善で悪かを論じるのは無意味だ。どれが仮面でどれが本体かということでもない。どの顔も本当の私であって、いつも流動的に水のように移り変わっている。淀んだり濁ったりしないバランスが大切なんだと思う。いずれかの一面に引っ張られ偏ると、怒りに我を忘れてしまったり、こころもからだも閉じて不毛になり、複雑な迷宮に囚われ闇に葬られるだけだ。
現場の利用者さんとの関わりに引き出され、リアルな感触があれこれ繋がって、ぐるぐるの思考が展開する。私の個人的な人間関係にも纏わり付いて、ちょっとしんどい時期だった。まさに迷宮入り、真っ暗闇?! そこへちょうど村上春樹の新作。短編集となめてかかって気楽に読み始めたのが迂闊だった。抱えていたテーマとシンクロし、感情の渦にどろどろとはまって、こころの深いところがうまく動かなくなっていたようだ。現実にしがみつき、やたら意識だけでガリガリと考えていた日々、大切な人に暴言を吐き、関係を壊してしまう。諦め気分で、もうどうにでもなれ・・・とやけっぱちになっていた。その夜にやってきた夢。夢(無意識)は現実を補う。
『行き交う人の流れのなか、私は街を歩いている。道端に男の人が、頭を垂れ膝を抱えてうずくまっているのを見つける。具合でも悪いのかなと、そのまま知らんぷりして通り過ぎることができず、「大丈夫ですか」と肩に手をかける。顔をあげた男の人の目からは涙が溢れている。あ、泣いてる、と思った瞬間、男の人は少年に変わっていた。声をあげて泣きじゃくる小さな子供。私は膝をついて少年を抱きしめる。鎖骨や胸元が涙と鼻水で濡れるのを心地良く感じながら、少年の頭や背中を撫でている。嗚咽する少年の泣き声に、「ずっと昔から私はこの子を知っていた、待っていた」と感じている』・・・目が覚めて、「あぁ、私は、この人を見捨てる訳にはいかないんだな」と思う。
潤いが戻ってくるような、私も棄てたもんじゃないかも?!と、希望を感じるような夢だった。まさか自分にもこうして誰かを守り支えようとする母性があったとは・・・。だからって、実生活の問題がすぐさま解決されるわけではない。今の時点では、鬼で蛇で猛獣で、暴力的・破壊的に怒り狂い、生みもしなければ支えもしない自分に、とことん嫌気がさしている。いずれ“母性”がますます足りなくなっている時代だ。まずは自分の中に住む少年少女を育てるしかない。自身の無意識に耳を傾けながら、希望はあると信じている。
これは、村上春樹の新作短編集『女のいない男たち』を読んで、こころに浮かんだ想いだ。37歳にもなって未だお気楽にひとりでふらふらしている自分の、ここ数年の生き様を振り返らざるを得ないような感じだった。最近の何人かの男性利用者さんとのやりとりも絡み、どろどろぐるぐるして苦しいけど、現時点でのこれが自分だ。その辺をちょっと書いてみたいと思う。
銀河の里に入居した当初、家族と離れた寂しさが募ってか、女性スタッフを極度に求める男性利用者さんがいる。私のなかの女性(私個人ではなく、私を通して彼らが見ている“女性性”)を求めるんだろうなと感じる。人によっては、求愛するセリフや性的に際どいボディタッチも出るので苦しくなることもある。また、母的な大いなるものの存在に包まれることを望みながら果たされず、切ない感じがする場合もある。“帰りたい”気持ちが限界になって暴力的になる人もあるが、いずれも、底には“寂しさ”を感じる。「この寂しさは私の寂しさでもある」と気付いてからは急に辛さは消えた。自分でも手に負えない自分の中の“女”の部分よりも、もっと普遍的で柔らかな世界との繋がりを求めて訴えてこられる感じに私の感覚も関係も変化した。
ある男性利用者さんは、隣に座った私の手を「きれいな手だなぁ」と握った。「俺のはこったにぼっこぼこだぁ」と言うごっつくて大きな手を、「今まで一生懸命、家族のために稼いできたんだもん、美しい手だよ」とさすりながら返す。すると、「泣きたくなった」と目を押さえて涙をこらえ、「ついに追ん出された、俺などいらねんだな・・・最初は“おめだけだぁ”なんて言って良い仲になったって、最後はじゃまにされるだけだ」としょんぼりする。「男っつのはそんなもんだ、女っつのはそんなもんだ・・・」しばらく私と腕を組んで一緒にいたい感じで、語りは続く。「自分で自分の成すこと信じてやってきたつもりだったけど、今になって初めて信じられなくなった・・・」自分を信じられないなんて寂しいね・・・と返すと、「そうだね、寂しいよ、寂しさがここまで(のどや胸を撫でながら)きてる、みっちりと寂しい」と呟いた。
別の男性は、家族さんの迎えを待つのだと事務所にやってくる。ある日、ミュシャの画集を一緒に見ながら過ごしていた。花や樹に包まれて舞う女の人の絵を見て、「きれいだなぁ・・・お前みたいだ」と言う。とんでもございません、お世辞にもきれいなんていう柄じゃない・・・と言いたかったが、「そうか、男の人には女の人がこういうふうに見えるんだなぁ」とも感じた。優しく美しく微笑みをくれる女性。「こういう人がそばにいてくれたらなぁ」てへへ♪と可愛く笑いながら、私の手をとりすりすりする。「でもなぁ、お前は我が強くて、きかない性格だからなぁ」なんて、言い得たことを付け足すから、私にゲンコツを振り上げられて首をすくめ、また笑っている。こうやって、気の許せる間柄でじゃれ合うこと自体、癒やしの体験なんだろうなぁとも感じて、私もなんだか心地よい時間となる。いつの間にか、家に電話してくれという訴えは消えている。寂しさが、束の間、和らいだのかもしれない。「俺と結婚しないか? こうやってふたりで笑って暮らせたら、どんなに幸せだろう・・・」と語りが続く。
社交的な挨拶を交わす程度の間柄でも、ふと次元が変わり、不思議なことが起こることもある。いつものように他愛のない話ににこやかに相槌を打っていたある男性利用者さんが、何気なく突然、背中を撫でてくる。ん?と少しびっくりしたが、他意はないかのように表情も変わらない。世間話を続けるうち、手が太腿にきた。ん?とまた驚く。そのうち撫でる手の加減がだんだん強く、しかもちょっと際どく伸びてきて・・・、なんだろう? リビングには他の利用者もスタッフもすぐ近くにいる。う〜ん、確かにいやらしい感じは全くないんだけど・・・、普段の関係からは考えられない距離感に困惑する。で、私はイスから立ち上がり肩を揉む。一見、普通のマッサージの場面なんだけど、肩を揉む私の手に懸命に触れてきて、やっぱりなんか違った、不思議な感触が残る。言葉で語ることの少ない人の“ことば”に触れたような感覚。寂しさを肌のぬくもりで埋められることがある、そんな感じだった。
みんな、ふと、自分でもどうにもできない根源的な寂しさや怒りが湧き出てくることに、本人も驚き悲しんでいるような表情をする。切ないけれど、センチメンタルは役に立たない。誰かと一緒にしか生きていけない人間の、普遍的な寂しさや業を見せられたようで、とても他人事とは思えない。
こんなやりとりが続き、男の人の寂しさをぐるぐる考えていた折、古くからの絵描き仲間の男友達と久しぶりに電話で話していて、“寂しさ”が話題にのぼった。春樹の新作の感想もシェアしながらの議論となった。何らかの渇望や孤独が表現の原動力となる画家や詩人、作家や音楽家たち。あまたの男性芸術家たちが、その創作活動の生涯を通して、実に多くの女性に支えられている、と友人。確かに、個人的な親密な男女関係としてはもちろん、モデルとして、愛と美の神ヴィーナスとして、“女性”はインスピレーションの源であったのだろうと、作品に触れる度に感じる。それは芸術家として、というより人間として生きていく、根源的なエネルギーを与えてくれる絶大な存在だろう。そういう“女性性”に対して、心からの尊敬と憧れをまっすぐに表現する彼らは、その芸術的才能にも増して、やっぱり男として魅力的だ。女だってほっとくはずがない、なんぼ苦しくったって支えたいと思う気持ちがよくわかる、と私。単純な疑問も投げかけてみる。「男の人にとって、女の人って何?」との質問に、「ふるさと」と即答。これには、「わぁ!」と驚くと同時に「そうか・・・」と一瞬にして深く納得してしまった。“命のふるさと”だと友人は付け加えた。
男性利用者さんたちから向けられる寂しさが、いやらしく感じて苦しくなり、情けなく感じて「しっかりしてよ!」みたいな怒りも湧き、また逆に愛おしくも感じていた。いろんな面を照らし出され、私のなかの女性性もそのたびに戸惑う。しかし、“ふるさと”にまで行き着くと、これはもう、男女を超越する。そんなおっきなものを求められても、まだまだ私は、女特有のつまらない怒りでどろどろだ。“ふるさと”など、ほど遠い・・・。
我が身を照らす苦しい戦いに向き合っていくしかない。自分は守られ支えられてばっかしなくせに、他を守り支える覚悟のない女の甘えが見え透いている。我がままで威張ってる上に文句ばっかりでは、どうしようもない。一方、女に縛られ、支配され、所有され、管理されて、利用されてる、ふにゃふにゃな男もどうだ? それでいいの? それが心地いいの? 命を懸けてロマンを追い、“自分”を生きる、かっこいい男でいてほしい。男がそう生きられないのは、女の母性がなくなったからだろうか。甘えた女ばっかりでは、男が育たないのも無理はない。利用するだけ利用して、寄りかかっているだけの女も女だ。男はそんなもん、女はそんなもん? どっちも絶望的にかっこよくない。きれい事だけ言って、うわべだけの関係で対峙せず、自身と向き合おうとせず、楽な関係に甘んじては、お互いが腐っていく。何も生まない女にも、喰ってしまう女にもなりたくない。そんなことなら最初から関わりたくない。・・・それは、逃げ、私の弱さなんだろうなぁ・・・。
今は亡き修治さん(仮名)の言葉を私は今でも大切にしている。特養開設当初、荒んだ介護工場のような雰囲気をなんとか打開しようと、まさに里を挙げて戦っていたさなかだった。深夜、みんな就寝して、リビングには修治さんと私だけだった。田圃なのか牛なのか、稼ぐ気持ちでぐんぐんと歩き続ける修治さんの後を私は歩いていた。修治さんは、ふと振り返えると、なんの脈略もなく言った。「おたくさん、体の中に猛獣、飼ってらな」・・・っ!!!な、なぜご存じで・・・と絶句する私。にやりとして、また修治さんは歩いて行った。見抜かれた・・・と恐ろしくなると同時に感動もしていた。“真のことば”が降りてきた感じ? 深い認知症で、父性も母性もあらゆるものを超越した次元に到達している修治さんの、大いなる境地に優しく厳しく照らされたような・・・、そんな衝撃があった。その日以来、修治さんへの深い感謝と共に「いつの日か、鬼も蛇も、飼い慣らしてみせる」との誓いを胸にやってきた。・・・つもりだが、果たして・・・?!
男の人にとって母性は必須。少女の成長にとっても必要だろう。ただ、女は自らのなかに母を育んでいける。最近ふと、「男は女次第、女は自分次第」とよく呟いてしまう。
本田和子先生によると、女人とは、どうやら、少女性と母性という違った顔を持っているらしい。さらに、少女のなかには、か弱くあどけない一面と男を虜にする魔性の一面があるし、母のなかにも生み育てる母と呑み込む母とがいる。こんなにも複雑で混沌としてるんだ、女って・・・と、途方もない気持ちになる(例えば、源氏物語に登場する大勢の女性は、ひとりの女人のなかの多様な心象だとの見方もある)。どの顔が善で悪かを論じるのは無意味だ。どれが仮面でどれが本体かということでもない。どの顔も本当の私であって、いつも流動的に水のように移り変わっている。淀んだり濁ったりしないバランスが大切なんだと思う。いずれかの一面に引っ張られ偏ると、怒りに我を忘れてしまったり、こころもからだも閉じて不毛になり、複雑な迷宮に囚われ闇に葬られるだけだ。
現場の利用者さんとの関わりに引き出され、リアルな感触があれこれ繋がって、ぐるぐるの思考が展開する。私の個人的な人間関係にも纏わり付いて、ちょっとしんどい時期だった。まさに迷宮入り、真っ暗闇?! そこへちょうど村上春樹の新作。短編集となめてかかって気楽に読み始めたのが迂闊だった。抱えていたテーマとシンクロし、感情の渦にどろどろとはまって、こころの深いところがうまく動かなくなっていたようだ。現実にしがみつき、やたら意識だけでガリガリと考えていた日々、大切な人に暴言を吐き、関係を壊してしまう。諦め気分で、もうどうにでもなれ・・・とやけっぱちになっていた。その夜にやってきた夢。夢(無意識)は現実を補う。
『行き交う人の流れのなか、私は街を歩いている。道端に男の人が、頭を垂れ膝を抱えてうずくまっているのを見つける。具合でも悪いのかなと、そのまま知らんぷりして通り過ぎることができず、「大丈夫ですか」と肩に手をかける。顔をあげた男の人の目からは涙が溢れている。あ、泣いてる、と思った瞬間、男の人は少年に変わっていた。声をあげて泣きじゃくる小さな子供。私は膝をついて少年を抱きしめる。鎖骨や胸元が涙と鼻水で濡れるのを心地良く感じながら、少年の頭や背中を撫でている。嗚咽する少年の泣き声に、「ずっと昔から私はこの子を知っていた、待っていた」と感じている』・・・目が覚めて、「あぁ、私は、この人を見捨てる訳にはいかないんだな」と思う。
潤いが戻ってくるような、私も棄てたもんじゃないかも?!と、希望を感じるような夢だった。まさか自分にもこうして誰かを守り支えようとする母性があったとは・・・。だからって、実生活の問題がすぐさま解決されるわけではない。今の時点では、鬼で蛇で猛獣で、暴力的・破壊的に怒り狂い、生みもしなければ支えもしない自分に、とことん嫌気がさしている。いずれ“母性”がますます足りなくなっている時代だ。まずは自分の中に住む少年少女を育てるしかない。自身の無意識に耳を傾けながら、希望はあると信じている。
「ダンスの振り付け」 ★ワークステージ 村上幸太郎【2014年5月号】
★身体を使うことの楽しさ、身体で表現するということを体験するため、昨年から講師に来ていただき、利用者・職員ともにアフリカンダンスに取り組んでいます。
その取り組みの目標として、11/1に花巻市文化会館にて発表会を開催する予定になっています!
今回のイラストでは、ワーカーさんダンス用の振り付けを細かく描きました!順番もバッチリです!
今後も、あまのがわ通信で練習の様子を伝えていくので、どうぞお楽しみに!
その取り組みの目標として、11/1に花巻市文化会館にて発表会を開催する予定になっています!
今回のイラストでは、ワーカーさんダンス用の振り付けを細かく描きました!順番もバッチリです!
今後も、あまのがわ通信で練習の様子を伝えていくので、どうぞお楽しみに!