2014年03月15日
「 BIG幡(ばん)プロジェクト 」★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2014年3月号】
★奈良県障害者アート創出事業実行委員会が主催する「BIG幡プロジェクト」によせた作品をイメージし、再び描きました。
東大寺の重要な法事の際に使われる「旗」を「幡」と呼び、大仏殿前の芝生に立てられ、人々の平和を祈ったり、魔除けの意味があると言われています。このプロジェクトでは、奈良県や岩手県、宮城県、福島県の障害のある人たちから「花鳥風月」をテーマに作品をよせてもらい、その作品らが幡にプリントされ、2月1日から9日にかけて大仏殿前にたてられました。
東大寺の重要な法事の際に使われる「旗」を「幡」と呼び、大仏殿前の芝生に立てられ、人々の平和を祈ったり、魔除けの意味があると言われています。このプロジェクトでは、奈良県や岩手県、宮城県、福島県の障害のある人たちから「花鳥風月」をテーマに作品をよせてもらい、その作品らが幡にプリントされ、2月1日から9日にかけて大仏殿前にたてられました。
「新年会 2014」★ワークステージ 村上幸太郎【2014年3月号】
★2月7日に山の神温泉「優香苑(ゆうかえん)」にて、ワークステージの利用者と職員の総勢50名で新年会を開催しました!優香苑は初めての利用で、宮大工建築と英国風庭園が特徴の温泉宿でした。豪華なご馳走や盛り上がったカラオケ大会、ワイワイとにぎやかに入ったお風呂など、当日の様子が伝わってくるイラストですね!
看取りを超えた特別な時間 ★特別養護老人ホーム 山岡 睦【2014年3月号】
先日、100歳を迎えた清子さん(仮名)。そのお祝いに清子さんの誕生日である2月9日温泉旅行を計画した。清子さんの義理の息子さんの三郎さん(仮名)を始め、孫さん、ひ孫さんを含めた3家族と銀河の里職員3名、合わせて14名の大人数での温泉旅行になった。
清子さんは一昨年の春、特養に入居された。89歳で一人娘に先立たれ、それからは義理の息子である三郎さんと2人で在宅生活を送っていた。清子さんに認知症の症状が出てからも三郎さんは懸命に介護をしてきたが、ほとんど2人きりの生活。どうしても限界があり、銀河の里と出会い、デイサービスやショートステイの利用を経て入居となり里での生活が始まった。
入居2年目の春、清子さんは体調を崩し、食べることも難しくなり、入院を繰り返した。その時、家族、スタッフがそれぞれにターミナルを覚悟した。“清子さんと最期をどう過ごすのか”が問われた。そんな中、「妻(清子さんの一人娘)の命日に毎年行っている公園でお花見したい」という三郎さんの思いを、是非実現したい!とお花見を企画した。「最後かもしれない」という思いは誰の胸にもあったと思う。果たしてお花見に出かけることができるだろうか。体調次第だ。清子さんがすごいのは、毎回企画するたびに体調バッチリで応えてくれることだ。この日は天気も味方して満開の桜を見ながら散歩したあと、マルカンでおやつを食べて過ごせた。この一日は、三郎さん御家族にも、私にも、とても大きい日だった。その後、花見を経て、夏の花火、マルカンドライブ、秋の自宅への里帰り、クリスマスライブ、お正月・・・等と、一つ一つ大事に時を重ねてこの一年間を過ごしてきた。その間私もずっと清子さんの傍で過ごし、たくさん支えてもらってきた。
三郎さんも一つ一つを、一日一日を大切に受け止め、清子さんと今日もまた一緒に過ごせたことに幸せを感じながら、何度も何度も私たちに身に余るほどの感謝と励ましを与えてくださった。清子さんとの関係だけではなく、三郎さんと私たちスタッフの関係も築かれていった。三郎さんは時に感謝の気持ちを形にして私たちにくれることもあった。その思いが積み重なり、大きな貯金になっていった。
その貯めてきた三郎さんの思いを何とか形に出来ないだろうか、何か清子さんと三郎さんのために何か出来ないだろうか、と考えた末に出た案が温泉旅行だった。
清子さんを温泉に連れて行きたいという、三郎さんの思いを実現したかったが、果たしてこの計画を誰と組んでやればいいのかという不安もあり、温泉の下調べはしたもののその先になかなか踏み出せずにいた。
そこに川戸道さんが「私も清子さんと温泉行きたいです!」と名乗り出てくれた。川戸道さんは今年2年目のスタッフで、最初の一年は私と一緒に組んでおり、共に清子さんと三郎さんの存在に支えられてきた。思えば私の特養一年目、川戸道さんは銀河の里一年目に、清子さんが入居になり共に過ごしてきたのだ。現場が異動になってからも、清子さんのことを気にかけてくれる、ユニットを超えても繋がれる川戸道さんの存在に私は救われていた。
三郎さんは彼女のことを“天使だ”と言う。教育者であった三郎さんからすれば、未来のあるひたむきな新人介護者は本当に天使として映るに違いない。スタッフと家族が、清子さんを通じて互いに支え、支えられる存在になっていた。
私が温泉を調べていることを伝えると、「私、計画立ててもいいですか?」とすごく張り切っていた。その勢いに支えられて安心し、家族さんに話を切り出した。清子さんと三郎さん達家族への思いに突き動かされ、計画を進めていく川戸道さんが頼もしく思えた。清子さんを通して、川戸道さんが育まれていく様子を目の当たりにしたような気がする。「こと」のスタッフ菜摘さんも参加することになり、心強い体制で温泉旅行が実現に向かうことになった。
温泉の話を切り出すと、初めは「いや〜行けるかなぁ」と不安げだった三郎さんも、次第に現実的に前向きになり「おばあちゃんの誕生日はちょうど日曜日だし、8日から9日にかけて泊まるようにしたらどうだろう?」とわざわざ電話をくださった。清子さんは私たちが計画を立てている様子を黙って見守り、「一緒に温泉行こうね」と声をかけると「行かね、フフ」と言ってみたり、穏やかに微笑んで頷いたりと色んな反応を見せていた。「行けるかな、行きたいな」とドキドキしながらその日を待つ私たちの様子を見守りながら、清子さん自身も様々な思いがあったのだろう。
誕生日が近づいた頃、清子さんは、食事があまり進まず、「行けるかな。大丈夫かな・・・」と少し心配した。私はどこか“食べない”という意志も感じていて、清子さんは食べないことで今、私たちに何を伝えようとしているんだろう?清子さんは温泉に行くこと、本当はどう思ってるんだろう?私たちの自己満足に過ぎないのかもしれないな・・・と色々考えたりもした。それでももう二度とないかもしれないこの機会を逃すまい!清子さんのためだけではなく家族全員にとって、そして私たちにとっても大事な時間になるはずだ!と心を奮い立たせた。
当日の朝も「食べね」と口にするほど清子さんの気持ちは決まっていて、でもその代わり飲み物だけは飲んでくれた。“飲む”ことでしっかり命を繋いでいるように思った。朝から表情は硬く、怒りをも感じるような力強い触れ方をする清子さん。手でつねったり、腕を掴んだり、手のひらを重ねたり、清子さんからは触れてくれるがこちらが触れようとすると突き放す。私の中にも清子さんとのこれまでのこと、今日の温泉のこと・・・清子さんにまつわる色んな思いが頭の中を巡り、落ち着かずにいた。そんなこちらの緊張が清子さんにも伝わっていたのかもしれない。いざ出発の時間になると清子さんの硬さはとれて、“行く覚悟を決めた”清子さんがそこにいた。
雪の中温泉に向かう。「おっかね」「どこまで」「どこさ行く」と身を乗り出しながら何度も言う清子さん。一緒に特別などこかへ向かっているということはしっかり認識している清子さんに“力”と“期待”を感じ、嬉しくなる。途中で自宅に寄り、三郎さんも乗せて温泉へ向かう。温泉に向かう道中から既に「おばあちゃんとドライブ出来るなんて夢にも思わなかった」と胸がいっぱいな様子の三郎さんに、いい時間を過ごせることを願った。
温泉で孫さん一家と合流し、少し休んでから予約していた貸切風呂へ向かう。貸切風呂は広くゆったりとしたスペースで心地よい空間だった。私と川戸道さんが清子さんを抱え、三郎さんが背中を流し、孫さんとひ孫さんが体を洗う。一つ一つの動作に尊いものを感じる。始めは少しびっくりした様子だった清子さんも少しずつ体を慣らしていき、私たちに身を委ねながらゆっくりとお湯に浸かっていた。
以前「逆デイサービス」と名付けて自宅へ日帰りで出かけた際、「おばあちゃんを家のお風呂に入れてあげたいんだけど無理だろうか」と三郎さんに相談されたことを思い出す。家のお風呂ではないけれど、温泉という形で叶った。
入浴を終え、皆で手伝って浴衣に着替えていると、清子さんが突然「ありがと」と言った。清子さんの“一言”はとても重く、込められた思いは深かった。その一言に“ありがとう”を超えたたくさんのものが込められている気がして胸が熱くなった。その場にいた全員がその言葉を聞き逃さず、清子さんの表情や思いを味わい、感動で胸がいっぱいになる。「おばあちゃん、いがったね」「いがった」「温泉入ったね」「うん」・・・そんなやりとりがひたすらあたたかかった。
宴会場を貸し切った夕食には、旅館側から金の屏風と垂れ幕が用意され、正面に三郎さんと清子さんが座るとまるで結婚式のような雰囲気。三郎さんの挨拶に始まり、乾杯、プレゼント贈呈、清子さんにまつわる様々な思い出話、ケーキの登場、孫さん一家のマジックショー、皆で歌う『星影のワルツ』・・・その間、清子さんは注がれたビールを受け取り口にしたり、勧めた料理を少しずつつまんだりしながら、終始目をぱっちりと開け、疲れた様子も見せず(三郎さんが先に疲れてしまった程・・・)皆の様子を見守り、その場に居てくれた。『星影のワルツ』を皆が歌いだすと、満面の笑み。清子さんの嬉しさや興奮が伝わる。あっという間に時間が過ぎていった。
会食会場を出て部屋に向かう時、清子さんは、ひ孫さんの手、三郎さんの手、と色んな人の手を握ろうと体を前のめりにして手を伸ばした。そして最終的に握った私の手をぎゅっと掴んで離さず、そのまま部屋までの道を一緒に歩いた。絶対に離すまいと力を込める清子さん。ぎゅっと力を込めたり、引っ張ったり、力の加え方を色々に変えて何かを伝えてくる。不思議と私はその手の感触が強くて優しくて心地よく感じた。
私にとって“清子さんの手”は特別で、これまでずっと清子さんと手と手のやりとりを重ねてきた。言葉では説明できない感覚なのだけど、私は清子さんの手にずっと守られ、支えられてきた。この時も清子さんの手に触れ、感じながら、今までのことを思い返した。支えてもらったり、甘えさせてもらったり、時に怒られたり、突き放されたり・・・色んな私を肯定も否定も全部ひっくるめて清子さんはずっと受け止めてきてくれたなぁと、思い巡らせながら、「ありがとう」の気持ちを込めてその手をぎゅっと握り返した。
次の日の朝も清子さんは、元気いっぱいだった。昨晩の疲れを心配していたが、予想外に早起きの清子さんに驚くしかなかった。「夜中、おばあちゃんと目と目で会話したんですよ」と語る三郎さん。2人が枕を並べて寝る時間を持つことができたことを嬉しく思った。
朝ごはんはバイキングだったのだが、清子さんは自分からどんどん手を伸ばしては頬張り、気持ちいい程の食べっぷりを見せてくれた。これまで食べなかった分を取り戻すかのように、そして私たちの思いに応えるように。その姿を見て嬉しくてたまらなくて、清子さんが食べそうなものを皆それぞれに選んでは勧めていた。
清子さんが美味しそうに食べる姿は、見ているこっちまで力を貰うような気持ちになる。多分あの場にいた皆が思い切り食べる清子さんの姿に感動し、力を貰っていたと思う。ここまで見せてくれる清子さんの姿に、涙が出そうになった。
今回の旅行は“清子さんの100歳のお祝い”として計画したことだった。ところが気づけば一緒に行った全員が清子さんに励まされた。清子さんが私たちの願いを叶え、支えてくれた。ターミナルを告げられて一年、ターミナルの域を超えた次元を感じた温泉だった。
再び春がめぐってきた。温泉での夜、三郎さんが「今夜が最後でもいいと思えるくらい夢のような一日だったね」と感慨深く呟いた言葉が残る。ターミナルを意識した去年の春から一つ一つ“これが最後かもしれない”とその瞬間を精一杯大切にし、積み重ねてきた。今回の温泉旅行だけでなく、清子さんはこの一年間ずっと私たちに大事なものを教えてくれたと思う。
清子さんと三郎さんに出会い、“2人の関係を支えること”“家族のつながりを守ること”が私たちの役目ではある。でも私たちの方が2人の関係に支えられ、励まされてきた。清子さんと三郎さん、三郎さんと私たち、清子さんと私たち、それぞれの思いと存在が支え支えられながら生きることができた。
私はこの春に里を卒業する。旅立ちの時である今、この温泉旅行はとても大きい。清子さんは私にとって目指す魅力的な“母”だ。これまで清子さんに貰ったものを胸に、自分の中の母を育てていきたいと思う。清子さん、本当にありがとう。
清子さんは一昨年の春、特養に入居された。89歳で一人娘に先立たれ、それからは義理の息子である三郎さんと2人で在宅生活を送っていた。清子さんに認知症の症状が出てからも三郎さんは懸命に介護をしてきたが、ほとんど2人きりの生活。どうしても限界があり、銀河の里と出会い、デイサービスやショートステイの利用を経て入居となり里での生活が始まった。
入居2年目の春、清子さんは体調を崩し、食べることも難しくなり、入院を繰り返した。その時、家族、スタッフがそれぞれにターミナルを覚悟した。“清子さんと最期をどう過ごすのか”が問われた。そんな中、「妻(清子さんの一人娘)の命日に毎年行っている公園でお花見したい」という三郎さんの思いを、是非実現したい!とお花見を企画した。「最後かもしれない」という思いは誰の胸にもあったと思う。果たしてお花見に出かけることができるだろうか。体調次第だ。清子さんがすごいのは、毎回企画するたびに体調バッチリで応えてくれることだ。この日は天気も味方して満開の桜を見ながら散歩したあと、マルカンでおやつを食べて過ごせた。この一日は、三郎さん御家族にも、私にも、とても大きい日だった。その後、花見を経て、夏の花火、マルカンドライブ、秋の自宅への里帰り、クリスマスライブ、お正月・・・等と、一つ一つ大事に時を重ねてこの一年間を過ごしてきた。その間私もずっと清子さんの傍で過ごし、たくさん支えてもらってきた。
三郎さんも一つ一つを、一日一日を大切に受け止め、清子さんと今日もまた一緒に過ごせたことに幸せを感じながら、何度も何度も私たちに身に余るほどの感謝と励ましを与えてくださった。清子さんとの関係だけではなく、三郎さんと私たちスタッフの関係も築かれていった。三郎さんは時に感謝の気持ちを形にして私たちにくれることもあった。その思いが積み重なり、大きな貯金になっていった。
その貯めてきた三郎さんの思いを何とか形に出来ないだろうか、何か清子さんと三郎さんのために何か出来ないだろうか、と考えた末に出た案が温泉旅行だった。
清子さんを温泉に連れて行きたいという、三郎さんの思いを実現したかったが、果たしてこの計画を誰と組んでやればいいのかという不安もあり、温泉の下調べはしたもののその先になかなか踏み出せずにいた。
そこに川戸道さんが「私も清子さんと温泉行きたいです!」と名乗り出てくれた。川戸道さんは今年2年目のスタッフで、最初の一年は私と一緒に組んでおり、共に清子さんと三郎さんの存在に支えられてきた。思えば私の特養一年目、川戸道さんは銀河の里一年目に、清子さんが入居になり共に過ごしてきたのだ。現場が異動になってからも、清子さんのことを気にかけてくれる、ユニットを超えても繋がれる川戸道さんの存在に私は救われていた。
三郎さんは彼女のことを“天使だ”と言う。教育者であった三郎さんからすれば、未来のあるひたむきな新人介護者は本当に天使として映るに違いない。スタッフと家族が、清子さんを通じて互いに支え、支えられる存在になっていた。
私が温泉を調べていることを伝えると、「私、計画立ててもいいですか?」とすごく張り切っていた。その勢いに支えられて安心し、家族さんに話を切り出した。清子さんと三郎さん達家族への思いに突き動かされ、計画を進めていく川戸道さんが頼もしく思えた。清子さんを通して、川戸道さんが育まれていく様子を目の当たりにしたような気がする。「こと」のスタッフ菜摘さんも参加することになり、心強い体制で温泉旅行が実現に向かうことになった。
温泉の話を切り出すと、初めは「いや〜行けるかなぁ」と不安げだった三郎さんも、次第に現実的に前向きになり「おばあちゃんの誕生日はちょうど日曜日だし、8日から9日にかけて泊まるようにしたらどうだろう?」とわざわざ電話をくださった。清子さんは私たちが計画を立てている様子を黙って見守り、「一緒に温泉行こうね」と声をかけると「行かね、フフ」と言ってみたり、穏やかに微笑んで頷いたりと色んな反応を見せていた。「行けるかな、行きたいな」とドキドキしながらその日を待つ私たちの様子を見守りながら、清子さん自身も様々な思いがあったのだろう。
誕生日が近づいた頃、清子さんは、食事があまり進まず、「行けるかな。大丈夫かな・・・」と少し心配した。私はどこか“食べない”という意志も感じていて、清子さんは食べないことで今、私たちに何を伝えようとしているんだろう?清子さんは温泉に行くこと、本当はどう思ってるんだろう?私たちの自己満足に過ぎないのかもしれないな・・・と色々考えたりもした。それでももう二度とないかもしれないこの機会を逃すまい!清子さんのためだけではなく家族全員にとって、そして私たちにとっても大事な時間になるはずだ!と心を奮い立たせた。
当日の朝も「食べね」と口にするほど清子さんの気持ちは決まっていて、でもその代わり飲み物だけは飲んでくれた。“飲む”ことでしっかり命を繋いでいるように思った。朝から表情は硬く、怒りをも感じるような力強い触れ方をする清子さん。手でつねったり、腕を掴んだり、手のひらを重ねたり、清子さんからは触れてくれるがこちらが触れようとすると突き放す。私の中にも清子さんとのこれまでのこと、今日の温泉のこと・・・清子さんにまつわる色んな思いが頭の中を巡り、落ち着かずにいた。そんなこちらの緊張が清子さんにも伝わっていたのかもしれない。いざ出発の時間になると清子さんの硬さはとれて、“行く覚悟を決めた”清子さんがそこにいた。
雪の中温泉に向かう。「おっかね」「どこまで」「どこさ行く」と身を乗り出しながら何度も言う清子さん。一緒に特別などこかへ向かっているということはしっかり認識している清子さんに“力”と“期待”を感じ、嬉しくなる。途中で自宅に寄り、三郎さんも乗せて温泉へ向かう。温泉に向かう道中から既に「おばあちゃんとドライブ出来るなんて夢にも思わなかった」と胸がいっぱいな様子の三郎さんに、いい時間を過ごせることを願った。
温泉で孫さん一家と合流し、少し休んでから予約していた貸切風呂へ向かう。貸切風呂は広くゆったりとしたスペースで心地よい空間だった。私と川戸道さんが清子さんを抱え、三郎さんが背中を流し、孫さんとひ孫さんが体を洗う。一つ一つの動作に尊いものを感じる。始めは少しびっくりした様子だった清子さんも少しずつ体を慣らしていき、私たちに身を委ねながらゆっくりとお湯に浸かっていた。
以前「逆デイサービス」と名付けて自宅へ日帰りで出かけた際、「おばあちゃんを家のお風呂に入れてあげたいんだけど無理だろうか」と三郎さんに相談されたことを思い出す。家のお風呂ではないけれど、温泉という形で叶った。
入浴を終え、皆で手伝って浴衣に着替えていると、清子さんが突然「ありがと」と言った。清子さんの“一言”はとても重く、込められた思いは深かった。その一言に“ありがとう”を超えたたくさんのものが込められている気がして胸が熱くなった。その場にいた全員がその言葉を聞き逃さず、清子さんの表情や思いを味わい、感動で胸がいっぱいになる。「おばあちゃん、いがったね」「いがった」「温泉入ったね」「うん」・・・そんなやりとりがひたすらあたたかかった。
宴会場を貸し切った夕食には、旅館側から金の屏風と垂れ幕が用意され、正面に三郎さんと清子さんが座るとまるで結婚式のような雰囲気。三郎さんの挨拶に始まり、乾杯、プレゼント贈呈、清子さんにまつわる様々な思い出話、ケーキの登場、孫さん一家のマジックショー、皆で歌う『星影のワルツ』・・・その間、清子さんは注がれたビールを受け取り口にしたり、勧めた料理を少しずつつまんだりしながら、終始目をぱっちりと開け、疲れた様子も見せず(三郎さんが先に疲れてしまった程・・・)皆の様子を見守り、その場に居てくれた。『星影のワルツ』を皆が歌いだすと、満面の笑み。清子さんの嬉しさや興奮が伝わる。あっという間に時間が過ぎていった。
会食会場を出て部屋に向かう時、清子さんは、ひ孫さんの手、三郎さんの手、と色んな人の手を握ろうと体を前のめりにして手を伸ばした。そして最終的に握った私の手をぎゅっと掴んで離さず、そのまま部屋までの道を一緒に歩いた。絶対に離すまいと力を込める清子さん。ぎゅっと力を込めたり、引っ張ったり、力の加え方を色々に変えて何かを伝えてくる。不思議と私はその手の感触が強くて優しくて心地よく感じた。
私にとって“清子さんの手”は特別で、これまでずっと清子さんと手と手のやりとりを重ねてきた。言葉では説明できない感覚なのだけど、私は清子さんの手にずっと守られ、支えられてきた。この時も清子さんの手に触れ、感じながら、今までのことを思い返した。支えてもらったり、甘えさせてもらったり、時に怒られたり、突き放されたり・・・色んな私を肯定も否定も全部ひっくるめて清子さんはずっと受け止めてきてくれたなぁと、思い巡らせながら、「ありがとう」の気持ちを込めてその手をぎゅっと握り返した。
次の日の朝も清子さんは、元気いっぱいだった。昨晩の疲れを心配していたが、予想外に早起きの清子さんに驚くしかなかった。「夜中、おばあちゃんと目と目で会話したんですよ」と語る三郎さん。2人が枕を並べて寝る時間を持つことができたことを嬉しく思った。
朝ごはんはバイキングだったのだが、清子さんは自分からどんどん手を伸ばしては頬張り、気持ちいい程の食べっぷりを見せてくれた。これまで食べなかった分を取り戻すかのように、そして私たちの思いに応えるように。その姿を見て嬉しくてたまらなくて、清子さんが食べそうなものを皆それぞれに選んでは勧めていた。
清子さんが美味しそうに食べる姿は、見ているこっちまで力を貰うような気持ちになる。多分あの場にいた皆が思い切り食べる清子さんの姿に感動し、力を貰っていたと思う。ここまで見せてくれる清子さんの姿に、涙が出そうになった。
今回の旅行は“清子さんの100歳のお祝い”として計画したことだった。ところが気づけば一緒に行った全員が清子さんに励まされた。清子さんが私たちの願いを叶え、支えてくれた。ターミナルを告げられて一年、ターミナルの域を超えた次元を感じた温泉だった。
再び春がめぐってきた。温泉での夜、三郎さんが「今夜が最後でもいいと思えるくらい夢のような一日だったね」と感慨深く呟いた言葉が残る。ターミナルを意識した去年の春から一つ一つ“これが最後かもしれない”とその瞬間を精一杯大切にし、積み重ねてきた。今回の温泉旅行だけでなく、清子さんはこの一年間ずっと私たちに大事なものを教えてくれたと思う。
清子さんと三郎さんに出会い、“2人の関係を支えること”“家族のつながりを守ること”が私たちの役目ではある。でも私たちの方が2人の関係に支えられ、励まされてきた。清子さんと三郎さん、三郎さんと私たち、清子さんと私たち、それぞれの思いと存在が支え支えられながら生きることができた。
私はこの春に里を卒業する。旅立ちの時である今、この温泉旅行はとても大きい。清子さんは私にとって目指す魅力的な“母”だ。これまで清子さんに貰ったものを胸に、自分の中の母を育てていきたいと思う。清子さん、本当にありがとう。
鋭いより子さん 〜 姑さん?お母さん? ★グループホーム第2 米田 亜紗美【2014年3月号】
2月19日、利用者のより子さん(仮名)とリーダーの詩穂美さんと私の3人で一泊温泉旅行に出かけた。昨年からより子さんは、アクティブな感じで、活動的でヒマをもてあましている感じだった。理事長からこの勢いなんだから、温泉にでも泊まって来たらどうだろうと話があった。そうしようという話にはなったのだが、なかなか日程も場所も決まらずぐずぐずしていた。
温泉に行こうという話題がでた直後の12月のある日、より子さんと詩穂美さんで買い物に出かけた。その車の中で、温泉に行ったら「夜は何しよう?」など話になったという。その時、焼き芋があったので、詩穂美さんが買おうとすると、より子さんは「自分で食べたい」と自分でお金を出した。しかしより子さんは食べることなくグループホームに持ってかえり、なぜかスタッフに焼き芋を配った。その場に私もいたのだが、より子さんは私のことは目に入っていないかのように、無視した感じで、私以外のスタッフ全員に焼き芋を配った。「今日スタッフこれだけだったか?」と言うより子さん。スタッフが「米田さんは?」と言うと、「米田さんにはけだくね!」ときっぱり言うと、そのまま夕食の席に着いて夕飯を食べはじめた。私は無視されたり、一人ハブにされて、“どうしてだろう?”と泣きそうになったが、泣くのはいやで、必死で涙をこらえた。より子さんを見ることができず、“どうして?”と聞くこともできずにいた。
そこに、夜勤スタッフの北館さんが「(米田さんに芋)あげたらいいでしょう。温泉に連れってってもらえなくなるんだから」と言った。より子さんは少し考えているようだったが、しばらくして「これ、米田さん受け取ってくれるべか?」と言っていたらしい。それからより子さんは私に、焼き芋を持ってきてくれたが、テーブルに少し乱暴に置いて、さっさと自分の席に戻った。私は複雑な気持ちで「ありがとう」と言って受け取ったものの、本当は、素直に食べたいとも思えず、本音は“いらない”“食べたくない”という気持ちのほうが強かった。でも、気を使ってくれたより子さんの、気持ちを受け止めなければと思って無理して食べた。
より子さんが私にそうした態度をとったのは、なぜだったんだろう。考えてみると思い当たる節はあった。その日の昼食の片付けをより子さんが1人でやっていたのだが、私は任せたままで、手伝おうとしなかった。そのことは気にしていなかったのだが、後でスタッフにより子さんがその話をしていたとのことだった。より子さんは午後から出かける予定のあった詩穂美さんに代わって、片付けをしてくれていたのだが、私は“やらなきゃ”という気持ちはあったが、声を掛けることもできず、動くこともできずにいた。
私はいつも、思っていることを言えないでいる。ある時より子さんに「思ったことの半分は言った方がいい」「私の半分あげたいわ」「足して2で割れたらいいのに…」などと言われたこともあった。気持はあっても、言葉にして伝えられないのは、私の課題だ。より子さんからみれば、遠くてカベを感じるのかもしれない。より子さんから向かってきてくれるのに、私はそれを避け、何も起こらないようにかわしてしまっていたにちがいない。誰かと出会うことが、なぜか怖く感じて、向き合うことができない。
私は昨年9月に特養からグループホームに異動になったのだが、初め、より子さんは私の作った夕飯に「こんなガキの作ったものなんか食べられない!」と言って、食べないことがあった。その頃は何を言われても、「はい」と言うことしかできなかった私に、より子さんは「‘はい’って言えばいいと思って。かわいくない」と言った。思ったことをそのまま言うより子さんの厳しさに、私はなかなか近づくことができなかった。でも徐々になじんで、一緒にキッチンに立ったり、料理を教えてもらうこともあった。「口数は少ないけど、はっきり言うよね」と言われたこともある。
より子さんは、色んな私を引き出してくれるようにも感じる。
あるとき、鍋のふたを開けて「あさみちゃん!」と呼んだことがある。私はまだどこかに隠れていて、出てきていないんだなと思った。また、私がドアをあけたままにしているとすかさず「ドア閉めてって言ってるでしょ!」とか、何かにつけ「何やってんの!」と口うるさいより子さんを、姑のようにも感じていた。
温泉旅行の日程と場所をなかなか決められずにいた。より子さんは、「あんたたちの都合に合わせるよ。泊まる所は料理の美味しいところがいい」と言ってくれた。一人で抱えて悩むタイプの私は、決めかねて時間ばかりが過ぎてしまった。ぐずぐずしている私に、理事長も「パンフレット見ながら、出かける日までの楽しみがあるだろう」と宿泊場所を提案して、決めてくれた。食事はどうするか保留だったが、せかす理事長により子さんは、「女3人で行くんだからあんたは口出さないの」と言った。理事長も「そりゃそうだね。3人で決めなきゃ」と決めない私にゆだねてくれた。より子さんは私に決めてほしい気持ちや、相談したかったのだと思う。そうした気持を大切にできず、結果的に踏みにじってしまう私がいるような気がした。
より子さんは、気分の上下が周期的にあるのだが、温泉までの約2ヵ月は、気持が下がることもなく、上がった状態で頑張った。旅行に出かける日が近づくにつれ、「夜は何を話そうか?」とか、「果物か何か買って行って部屋で食べたいね」などと旅行のことを話すことが増え、より子さんも楽しみな様子だった。
旅行の前日、それまでほとんどリビングで過ごしていたより子さんが、その日は自分の部屋に籠もっていた。“旅行の準備でもしているのかな?”と私は考えていた。ところが、夕方、リビングで「部屋に置いていたものがない!無くなるはずないのに…警察呼ぶ!」と興奮しているより子さん。私が勤務を終えて帰る際にも、いつもの「おやすみ」の言葉はなく、「言わない…」とこちらを見なかった。旅行の前だから気持ちが落ち着かないのかな?と思った。当日の朝、私は早番で出勤した。より子さんに、「おはよう」と挨拶しても、チラッと見るだけでそのまま行ってしまう。“あれ?無視?”と、少し悲しい気持ちでいると、後でやってきて「よろしくね」と小さい声で言ってくれた。私は戸惑って「はい」と答えることしかできなかった。
出発は、私の早番の勤務が終わってからに予定していた。より子さんはその日も、食事以外は部屋で過ごしていた。気持ちが下がってきたのかな?と気になった。でも一度リビングに出てきて、「予定の時間には出られそう?あさみちゃん仕事遅いもんね。出来ないことは言わないから」と出発を気にしてくれた。
出発予定時間のかなり前にリビングに出てきたより子さん。ピンクの素敵な服を着て準備バッチリ。「あんたたち、一旦家に帰るんでしょ?」と言われ、私と詩穂美さんは、普段着じゃだめなのと焦った。しかし、時間もなくて、そのまま出かけるしかなかった。みんなに「いってらっしゃい」と見送られるが、より子さんは「何も言わない」と挨拶無しに外に出て、車に乗り込んだ。
いざ八幡平温泉に向けて出発。ところがいつもと違って、車中で、口数の少ないより子さん。「何か話して」と言うと、「私だっていつもしゃべるわけじゃないんだから。それに、夜話すことがなくなるでしょ」と言いながら、静かに窓の外の景色を眺めていた。途中、西根の道の駅に寄り、ほうれん草ソフトクリームを3人で食べる。「やっぱりこっちは寒いね〜」と話しながら温泉へ向かう。途中、私の実家が通り道にあるので2人に紹介した。地元でもあり、下見もしていたので宿まで、迷うことなく到着した。無事についたが、宿に入ったところでより子さんが滑って転んでしまった。けがはなかったが、ハッとした。
夕食の時間まで部屋で「どんな料理だろうね〜」と楽しみにしながらゆっくり過ごした。夕食はメインのしゃぶしゃぶに、カニやてんぷらなど、種類が多く、より子さんも満足のようだった。夕食後、少し休んだ後、いよいよ温泉に3人で入った。より子さんは長く湯船に入らない。私はゆっくり何度も入るので「また入るの?」とより子さんに言われた。露天風呂は「寒そう」とより子さんは入らずに「いいよ、待ってるから」と先にあがって、着替えて、私と詩穂美さんを待っていてくれた。
部屋では、旅行の前から楽しみにしていた夜。家族の話や恋愛の話など、普段なかなか話せないことをゆっくり話した貴重な時間だった。私や詩穂美さんに、「今度はあんたが話して」といいながら、気づけばより子さんがしゃべっていた。普段は自分のことをあまり話さない私も、結構いろんなことを話せた。まくら投げをしようという話もあったが、「そんな歳でもないんだから…」と、今回は遠慮した。
夜、私が飲み物を買いに行こうとすると、より子さんは「迷子にならないでね」と心配してくれる。眠くなった私に気を使って「先に休むんだ」と言ってくれた。私は眠くなり、先に横になった。その後、詩穂美さんが話しかけると「しーっ、あさみちゃん寝てるんだから!」と気遣ってくれた。「楽しかったね」というとより子さんは「まだ言わないで、帰ってから言うんだ」と言った。
次の日の朝、より子さんは早起きで、私が目覚めるともう起きていた。朝食を食べ、帰る際により子さんは上着を準備してくれたり、靴を整理してくれたりした。帰りの車では、「あんたたち前に乗って」と、私と詩穂美さんの2人を並んで座らせようとした。お土産を買って、帰ってきた。より子さんは温泉の様子をグループホームでみんなにしてくれた。
より子さんは旅行中、いつもと違った雰囲気で、私と詩穂美さんを常に気にかけてくれて、お世話をしてくれる感じだった。それはまるで‘お母さん’のように感じた。いつもの自己主張は影を秘め、何でも「あんたたちの良いようにして」と、少し後ろから見ていてくれる感じだった。私は、生まれてすぐに両親が離婚し、‘母親’を知らないで育った。この温泉旅行で‘お母さん’を感じられたことは、私にとって不思議な体験だった。それはとても大きいことのように思う。温泉旅行が終わった後からの、より子さんは、それまでとは一転し、自分の部屋にこもって過ごしているが、やりとりは穏やかに接してくれる新しい感じがある。旅行まで、気持ちを上げた状態でいてくれたんだなと思う。
私は銀河の里に就職して、そろそろ1年になる。人と、深い関係でいられる場所で私もそうありたいと思うのだが、実際には表ヅラばかりで、自分を出せない自分がいる。誰かと出会い、向き合うことで、自分が変われる機会があるのだが、いざとなると、怖くなって避けて、なかったことにして、逃げてしまう。自分を出して、相手も、自分も変わることに怯える自分がいる。そんな、いるのかいないのかわからないような私をなんとか引き出そうと、より子さんは無視したり、意地悪してまで、頑張ってくれたのだと今は思える。ナベの中まで声をかけて私を捜してくれたより子さん。まだまだ先のことなのかもしれないが、より子さんの呼びかけに応えて、逃げずに向かって行ける自分になりたい。怖いけど少しずつでも変わっていきたいと思う。
温泉に行こうという話題がでた直後の12月のある日、より子さんと詩穂美さんで買い物に出かけた。その車の中で、温泉に行ったら「夜は何しよう?」など話になったという。その時、焼き芋があったので、詩穂美さんが買おうとすると、より子さんは「自分で食べたい」と自分でお金を出した。しかしより子さんは食べることなくグループホームに持ってかえり、なぜかスタッフに焼き芋を配った。その場に私もいたのだが、より子さんは私のことは目に入っていないかのように、無視した感じで、私以外のスタッフ全員に焼き芋を配った。「今日スタッフこれだけだったか?」と言うより子さん。スタッフが「米田さんは?」と言うと、「米田さんにはけだくね!」ときっぱり言うと、そのまま夕食の席に着いて夕飯を食べはじめた。私は無視されたり、一人ハブにされて、“どうしてだろう?”と泣きそうになったが、泣くのはいやで、必死で涙をこらえた。より子さんを見ることができず、“どうして?”と聞くこともできずにいた。
そこに、夜勤スタッフの北館さんが「(米田さんに芋)あげたらいいでしょう。温泉に連れってってもらえなくなるんだから」と言った。より子さんは少し考えているようだったが、しばらくして「これ、米田さん受け取ってくれるべか?」と言っていたらしい。それからより子さんは私に、焼き芋を持ってきてくれたが、テーブルに少し乱暴に置いて、さっさと自分の席に戻った。私は複雑な気持ちで「ありがとう」と言って受け取ったものの、本当は、素直に食べたいとも思えず、本音は“いらない”“食べたくない”という気持ちのほうが強かった。でも、気を使ってくれたより子さんの、気持ちを受け止めなければと思って無理して食べた。
より子さんが私にそうした態度をとったのは、なぜだったんだろう。考えてみると思い当たる節はあった。その日の昼食の片付けをより子さんが1人でやっていたのだが、私は任せたままで、手伝おうとしなかった。そのことは気にしていなかったのだが、後でスタッフにより子さんがその話をしていたとのことだった。より子さんは午後から出かける予定のあった詩穂美さんに代わって、片付けをしてくれていたのだが、私は“やらなきゃ”という気持ちはあったが、声を掛けることもできず、動くこともできずにいた。
私はいつも、思っていることを言えないでいる。ある時より子さんに「思ったことの半分は言った方がいい」「私の半分あげたいわ」「足して2で割れたらいいのに…」などと言われたこともあった。気持はあっても、言葉にして伝えられないのは、私の課題だ。より子さんからみれば、遠くてカベを感じるのかもしれない。より子さんから向かってきてくれるのに、私はそれを避け、何も起こらないようにかわしてしまっていたにちがいない。誰かと出会うことが、なぜか怖く感じて、向き合うことができない。
私は昨年9月に特養からグループホームに異動になったのだが、初め、より子さんは私の作った夕飯に「こんなガキの作ったものなんか食べられない!」と言って、食べないことがあった。その頃は何を言われても、「はい」と言うことしかできなかった私に、より子さんは「‘はい’って言えばいいと思って。かわいくない」と言った。思ったことをそのまま言うより子さんの厳しさに、私はなかなか近づくことができなかった。でも徐々になじんで、一緒にキッチンに立ったり、料理を教えてもらうこともあった。「口数は少ないけど、はっきり言うよね」と言われたこともある。
より子さんは、色んな私を引き出してくれるようにも感じる。
あるとき、鍋のふたを開けて「あさみちゃん!」と呼んだことがある。私はまだどこかに隠れていて、出てきていないんだなと思った。また、私がドアをあけたままにしているとすかさず「ドア閉めてって言ってるでしょ!」とか、何かにつけ「何やってんの!」と口うるさいより子さんを、姑のようにも感じていた。
温泉旅行の日程と場所をなかなか決められずにいた。より子さんは、「あんたたちの都合に合わせるよ。泊まる所は料理の美味しいところがいい」と言ってくれた。一人で抱えて悩むタイプの私は、決めかねて時間ばかりが過ぎてしまった。ぐずぐずしている私に、理事長も「パンフレット見ながら、出かける日までの楽しみがあるだろう」と宿泊場所を提案して、決めてくれた。食事はどうするか保留だったが、せかす理事長により子さんは、「女3人で行くんだからあんたは口出さないの」と言った。理事長も「そりゃそうだね。3人で決めなきゃ」と決めない私にゆだねてくれた。より子さんは私に決めてほしい気持ちや、相談したかったのだと思う。そうした気持を大切にできず、結果的に踏みにじってしまう私がいるような気がした。
より子さんは、気分の上下が周期的にあるのだが、温泉までの約2ヵ月は、気持が下がることもなく、上がった状態で頑張った。旅行に出かける日が近づくにつれ、「夜は何を話そうか?」とか、「果物か何か買って行って部屋で食べたいね」などと旅行のことを話すことが増え、より子さんも楽しみな様子だった。
旅行の前日、それまでほとんどリビングで過ごしていたより子さんが、その日は自分の部屋に籠もっていた。“旅行の準備でもしているのかな?”と私は考えていた。ところが、夕方、リビングで「部屋に置いていたものがない!無くなるはずないのに…警察呼ぶ!」と興奮しているより子さん。私が勤務を終えて帰る際にも、いつもの「おやすみ」の言葉はなく、「言わない…」とこちらを見なかった。旅行の前だから気持ちが落ち着かないのかな?と思った。当日の朝、私は早番で出勤した。より子さんに、「おはよう」と挨拶しても、チラッと見るだけでそのまま行ってしまう。“あれ?無視?”と、少し悲しい気持ちでいると、後でやってきて「よろしくね」と小さい声で言ってくれた。私は戸惑って「はい」と答えることしかできなかった。
出発は、私の早番の勤務が終わってからに予定していた。より子さんはその日も、食事以外は部屋で過ごしていた。気持ちが下がってきたのかな?と気になった。でも一度リビングに出てきて、「予定の時間には出られそう?あさみちゃん仕事遅いもんね。出来ないことは言わないから」と出発を気にしてくれた。
出発予定時間のかなり前にリビングに出てきたより子さん。ピンクの素敵な服を着て準備バッチリ。「あんたたち、一旦家に帰るんでしょ?」と言われ、私と詩穂美さんは、普段着じゃだめなのと焦った。しかし、時間もなくて、そのまま出かけるしかなかった。みんなに「いってらっしゃい」と見送られるが、より子さんは「何も言わない」と挨拶無しに外に出て、車に乗り込んだ。
いざ八幡平温泉に向けて出発。ところがいつもと違って、車中で、口数の少ないより子さん。「何か話して」と言うと、「私だっていつもしゃべるわけじゃないんだから。それに、夜話すことがなくなるでしょ」と言いながら、静かに窓の外の景色を眺めていた。途中、西根の道の駅に寄り、ほうれん草ソフトクリームを3人で食べる。「やっぱりこっちは寒いね〜」と話しながら温泉へ向かう。途中、私の実家が通り道にあるので2人に紹介した。地元でもあり、下見もしていたので宿まで、迷うことなく到着した。無事についたが、宿に入ったところでより子さんが滑って転んでしまった。けがはなかったが、ハッとした。
夕食の時間まで部屋で「どんな料理だろうね〜」と楽しみにしながらゆっくり過ごした。夕食はメインのしゃぶしゃぶに、カニやてんぷらなど、種類が多く、より子さんも満足のようだった。夕食後、少し休んだ後、いよいよ温泉に3人で入った。より子さんは長く湯船に入らない。私はゆっくり何度も入るので「また入るの?」とより子さんに言われた。露天風呂は「寒そう」とより子さんは入らずに「いいよ、待ってるから」と先にあがって、着替えて、私と詩穂美さんを待っていてくれた。
部屋では、旅行の前から楽しみにしていた夜。家族の話や恋愛の話など、普段なかなか話せないことをゆっくり話した貴重な時間だった。私や詩穂美さんに、「今度はあんたが話して」といいながら、気づけばより子さんがしゃべっていた。普段は自分のことをあまり話さない私も、結構いろんなことを話せた。まくら投げをしようという話もあったが、「そんな歳でもないんだから…」と、今回は遠慮した。
夜、私が飲み物を買いに行こうとすると、より子さんは「迷子にならないでね」と心配してくれる。眠くなった私に気を使って「先に休むんだ」と言ってくれた。私は眠くなり、先に横になった。その後、詩穂美さんが話しかけると「しーっ、あさみちゃん寝てるんだから!」と気遣ってくれた。「楽しかったね」というとより子さんは「まだ言わないで、帰ってから言うんだ」と言った。
次の日の朝、より子さんは早起きで、私が目覚めるともう起きていた。朝食を食べ、帰る際により子さんは上着を準備してくれたり、靴を整理してくれたりした。帰りの車では、「あんたたち前に乗って」と、私と詩穂美さんの2人を並んで座らせようとした。お土産を買って、帰ってきた。より子さんは温泉の様子をグループホームでみんなにしてくれた。
より子さんは旅行中、いつもと違った雰囲気で、私と詩穂美さんを常に気にかけてくれて、お世話をしてくれる感じだった。それはまるで‘お母さん’のように感じた。いつもの自己主張は影を秘め、何でも「あんたたちの良いようにして」と、少し後ろから見ていてくれる感じだった。私は、生まれてすぐに両親が離婚し、‘母親’を知らないで育った。この温泉旅行で‘お母さん’を感じられたことは、私にとって不思議な体験だった。それはとても大きいことのように思う。温泉旅行が終わった後からの、より子さんは、それまでとは一転し、自分の部屋にこもって過ごしているが、やりとりは穏やかに接してくれる新しい感じがある。旅行まで、気持ちを上げた状態でいてくれたんだなと思う。
私は銀河の里に就職して、そろそろ1年になる。人と、深い関係でいられる場所で私もそうありたいと思うのだが、実際には表ヅラばかりで、自分を出せない自分がいる。誰かと出会い、向き合うことで、自分が変われる機会があるのだが、いざとなると、怖くなって避けて、なかったことにして、逃げてしまう。自分を出して、相手も、自分も変わることに怯える自分がいる。そんな、いるのかいないのかわからないような私をなんとか引き出そうと、より子さんは無視したり、意地悪してまで、頑張ってくれたのだと今は思える。ナベの中まで声をかけて私を捜してくれたより子さん。まだまだ先のことなのかもしれないが、より子さんの呼びかけに応えて、逃げずに向かって行ける自分になりたい。怖いけど少しずつでも変わっていきたいと思う。
「我が家の毎アル」パート2(最終回)★施設長 宮澤京子【2014年3月号】 新たなステージで大活躍? 新たなステージで大活躍?
生まれてから80年間ほど暮らしてきた広島を離れ、長男(理事長)の住む花巻に来て10年が経つ。チヨコさん(仮名)はその間、自然脊椎閉塞の大病で、9死に1生を得、その後5年の在宅介護の後、この2月に特養ホーム入居になった。私は、当初チヨコさん(義母)を広島から岩手に呼び寄せることは、“ラクダが針の穴を通るより難しい”と思っていた。人嫌いで、外出も極端に厭がる人だったからだ。どんなにこちらがオファーしてもテコでも動かない。
ところが、ある日突然「わしゃ、岩手にいくけん看てくれんか」ということで、移住が決まった。そこは前回の「我が家の毎アル」に記載したが、今回の特養ホーム入居の申し込みも「わしを、老人ホームに入れてくれ」と懇願の末、入居が決まった。「わしの人生、何んもええことがなかった。早よう死にたい!」が口癖だったが、これだけ自分の意志を貫き、周囲を動かすエネルギー(我)に満ちた人は、そうそういないと感じる。
「老人ホームに入れるよ」と報告すると、驚きの表情のあと「ありがとうございます」と、深々と礼をして、早速タンスからものを引っ張り出して、荷造りをはじめた。しかし、翌日には、その荷物はまた片付けられている。昨夜と今朝では人格が両極に入れ替わったかのようだ。その日の深夜、歩行器をキコキコ押してやってきた。「今日は京子さんに、大事な話しをせにゃならん」と神妙な顔つきだ。「わしは小さい頃から、人が好きじゃのうて、今でいう“不登校”じゃった」えっ80年前の不登校とは、何と前衛的!と感動する私。「小学校に入った時、嫌がるわしのために、すぐ上のお姉ちゃんが、自分の勉強はほっておいて、一緒について来てくれて、1年生の教室で勉強をしてくれたんじゃ」「一番上の姉が、母親にそれを告げ口したもんじゃけ、わしを牛小屋に引きずって行ってのぉ、えさ桶の横の柱に縛り付けたんじゃ。そして外に出られんよう、かんぬきまで掛けよった。牛が餌を食べに寄ってきて、大きい角が、こおぅて、こおぅて、わしは大声で泣いたんよ。その声をききつけて、告げ口した姉がひもを解いてくれて、命が助かったんじゃ。その時は嬉しゅうて、野っ原を駆け回ったぁ」子どものようなキラキラした目で話した。
話を聞きながら「一体、この話しで、私に何を訴えようとしているのだろうか」と警戒の姿勢を崩すことが出来ない。「だからのぅ、わしは小さいときから人が集まるところは、大嫌いなんじゃ。大・大・だーい嫌いなんじゃ。この性分は今も変わらん、この性分は一生治りゃせん!だから、わしは老人ホームには行かん」と断言した。「そこか」と腑に落ちる。ここで、小学校時代の話が聞けるとは思わなかった。
そんなこんなもありながら、チヨコさんは非常な寒がりで「岩手の寒さは、広島では経験したことがないけえ、身に堪える」と言い、雪かきも気になってストレスをためていた様子だった。そこでショートステイを利用させてもらい、そのままホーム入居に移行してもらった。暖かくなったら家に帰るというのか、このまま特養ホームで暮らすのか、どう出てくるかは未知数だ・・・。
先日、会いに行くと「いつも遠くからわざわざ来て頂き、ありがとうございます。」と、機嫌良く挨拶された。遠くからと言っても、歩いて1分の距離なのだし、職場なのだからわざわざと言われるものではなく返答に困る。「ヒロ君(3男)は、毎日来てくれとるが、健ちゃん(長男:理事長)は、事務所には来るようだが、ここへは一切来ん!」という。さすが、それぞれの距離感も適切で、その鋭さに驚く。「ここは暖かくて良い。一番のお友達も出来た。ご飯も3食出るけん、他に何も食べたいとは思わん。痛いところは、どこもありゃせん」と、特養ホームの生活に満足な様子で伝えてくる。
「お友達」という言葉が、人嫌いで不登校だったチヨコさんの口から出て来るのもびっくり。寝たきりの人のベットの傍らで「辛いけど頑張るんよ」と、励ましている姿にも驚いた。また掃除のチェックは鋭く、小さな塵一つ、髪の毛一本さえ見逃さない。「あそこにのぅ、見えるじゃろ、そうそう」と指示したり、ヒロ君に指示しながら自分の部屋をぴかぴかに磨き上げている。「足も手も不自由で何もできん」と言ってるのに、どうやって拭き掃除をしたのかと、私の「はてな?」は膨らむ。スタッフ達も「何で、あんな小さいものが見えるのか?」と驚いている。チヨコさんらしい潔癖さと、どんな手段を使ってでも、彼女なりの秩序を貫く我の強さは、特養入居後になっても健在だ。
チヨコさんが特養ホームに移ってからの、我が家の散乱ぶりはひどい!玄関周りには、落ち葉や塵が積もり、廊下は綿埃が我が物顔で鎮座している。ヒロ君もタガが外れたように、洗濯・掃除・着替え・身繕いが“ずぼら”になった。今まで、それら全てを支配するように、チヨコさんは秩序立ててやってきていたのだ。その存在の大きさは、恐るべきで、ヒロ君はチヨコさんがいないのに、一人でケンカをしていることがある。「えっ、一体誰と?」と部屋を覗くと、ピタッと静かになる。怪しい!時々チヨコさんは、我が家に帰ってきているようだ。チヨコさんとの喧嘩は、ヒロ君の言語回路に刻印されてしまったようで、本人がいようといまいと関係ないのだ。その関係の深さにまた驚かされる。
私はチヨコさんが深夜にキコキコと歩行器を引きずってやってくることへの緊張感はなくなったが、うずたかく積まれた市販薬の籠にチヨコさんを感じて、ただ“ぼんやり”している。特養ホームに行くと「遠いんだから暗くならないうちに、早く帰って下さい」とピシャリと言われ、ぼんやりでは太刀打ちできないと思った。(チヨコさんは標準語と広島弁を、相手との距離間の違いで、上手に使い分けることが出来る。)
理事長はこの秋から「ヒゲ」をのばしている。それに対してのコメントも非常に面白かった。“ひげそり“を忘れて出かけた、10月の富山研修を機に伸ばしはじめたのだが、その真意はわからない。最初は、息子の大学入試の願掛け?と思ったが、そうでもないらしい。とにかくムサイ!見た目のインパクトが強烈でギョッとして後ずさりする。ヒゲを伸ばしはじめた同時期に、急転直下、志望校を180度変更した息子は、坊主にしてきた。「そんな頭だと滑るじゃん!」と私の怒りを買う。息子は「これで案外、引っ掛かるんだよ」と、毛糸の帽子に引っかかる様子をリアルにみせる。「全く!」と、私の怒りは収まらない。この親子のひげと坊主頭に、私は苛立つ。
チヨコさんにひげの話を向けると「広島に、ああいう人がおった」と顔をしかめながら、身振り手振りで話す。「ボロを着てのぉ、リヤカーに鉄くずや段ボールを積んで曳よった。ヒゲぼーぼーでルンペンじゃ。」続けて「弟も、一生に一度は記念にあぁいう格好をして、写真を撮っておきたいんじゃろ」と余裕たっぷりだ。「えっ、弟?」時に応じて息子は弟になる。「じゃが、他人のことじゃ、わしゃ余計なことは言わん」と、最初のしかめっ面から一転し、楽しげに笑う。ここでもまた、私はチヨコさんから“距離の取り方”を学んだように思う。
ヒロ君は、お母さんが特養ホームに入居したことで、介護と、スパルタ自立訓練の日々から解放された。それでも一日も欠かさずお母さんに会いに、特養の居室に通っている。通っていく場所ができて嬉しそうでもある。時々、市販薬の配達を頼まれ、着替えの洗濯物を受け取り、注文の衣類を届けている。私も気持のゆとりができて、お義母さんのブラックユーモアが楽しみで、部屋を覗いてちょっかいを出している。お義母さんは、私を遠い存在に置くことで、今までのような「嫁に世話になっている」という気兼ねなしに、昔話をしてくれたりして、一緒に笑えるようになった。
近いうちにチヨコさんの部屋にL字のソファを置き、甘いコーヒーとあんパンを用意し、家族5人で過ごせたらと目論んでいる。チヨコさんの第一の友達ということになっているモヨ子さんも入れて、お茶会や密談もしたい。頭が痛いと寝込んでいるときには、手を握ったり、マッサージをして傍らに座っていたいとも思う。自宅では出来なかった会話や、新たな関係ができそうな気がする。そして、チヨコさんの“人生最終章”を、この特養ホーム「銀河の里」で、穏やかに過ごしてもらえたらと願う。
チヨコさんは小さい頃、霊感があったという実母から「お前は不幸な運命を背負った娘じゃ」と予言されたという。米寿越えしてなお、「死なせてくだせぇ、殺してくだせぇ、いつまで酷いめにあわせるんですか」と仏壇に向かって叫んでいた。特養ホームの存在が、その予言の呪縛から解放されるための「希望」を与えてくれるように思う。
「我が家の毎アル」は今回で終わりになるが、特養での毎アルに乞うご期待!
このまま平穏に日々が過ぎるとは思えない。密かに、チヨコさんとの鬼対決を楽しみにしている。
ところが、ある日突然「わしゃ、岩手にいくけん看てくれんか」ということで、移住が決まった。そこは前回の「我が家の毎アル」に記載したが、今回の特養ホーム入居の申し込みも「わしを、老人ホームに入れてくれ」と懇願の末、入居が決まった。「わしの人生、何んもええことがなかった。早よう死にたい!」が口癖だったが、これだけ自分の意志を貫き、周囲を動かすエネルギー(我)に満ちた人は、そうそういないと感じる。
「老人ホームに入れるよ」と報告すると、驚きの表情のあと「ありがとうございます」と、深々と礼をして、早速タンスからものを引っ張り出して、荷造りをはじめた。しかし、翌日には、その荷物はまた片付けられている。昨夜と今朝では人格が両極に入れ替わったかのようだ。その日の深夜、歩行器をキコキコ押してやってきた。「今日は京子さんに、大事な話しをせにゃならん」と神妙な顔つきだ。「わしは小さい頃から、人が好きじゃのうて、今でいう“不登校”じゃった」えっ80年前の不登校とは、何と前衛的!と感動する私。「小学校に入った時、嫌がるわしのために、すぐ上のお姉ちゃんが、自分の勉強はほっておいて、一緒について来てくれて、1年生の教室で勉強をしてくれたんじゃ」「一番上の姉が、母親にそれを告げ口したもんじゃけ、わしを牛小屋に引きずって行ってのぉ、えさ桶の横の柱に縛り付けたんじゃ。そして外に出られんよう、かんぬきまで掛けよった。牛が餌を食べに寄ってきて、大きい角が、こおぅて、こおぅて、わしは大声で泣いたんよ。その声をききつけて、告げ口した姉がひもを解いてくれて、命が助かったんじゃ。その時は嬉しゅうて、野っ原を駆け回ったぁ」子どものようなキラキラした目で話した。
話を聞きながら「一体、この話しで、私に何を訴えようとしているのだろうか」と警戒の姿勢を崩すことが出来ない。「だからのぅ、わしは小さいときから人が集まるところは、大嫌いなんじゃ。大・大・だーい嫌いなんじゃ。この性分は今も変わらん、この性分は一生治りゃせん!だから、わしは老人ホームには行かん」と断言した。「そこか」と腑に落ちる。ここで、小学校時代の話が聞けるとは思わなかった。
そんなこんなもありながら、チヨコさんは非常な寒がりで「岩手の寒さは、広島では経験したことがないけえ、身に堪える」と言い、雪かきも気になってストレスをためていた様子だった。そこでショートステイを利用させてもらい、そのままホーム入居に移行してもらった。暖かくなったら家に帰るというのか、このまま特養ホームで暮らすのか、どう出てくるかは未知数だ・・・。
先日、会いに行くと「いつも遠くからわざわざ来て頂き、ありがとうございます。」と、機嫌良く挨拶された。遠くからと言っても、歩いて1分の距離なのだし、職場なのだからわざわざと言われるものではなく返答に困る。「ヒロ君(3男)は、毎日来てくれとるが、健ちゃん(長男:理事長)は、事務所には来るようだが、ここへは一切来ん!」という。さすが、それぞれの距離感も適切で、その鋭さに驚く。「ここは暖かくて良い。一番のお友達も出来た。ご飯も3食出るけん、他に何も食べたいとは思わん。痛いところは、どこもありゃせん」と、特養ホームの生活に満足な様子で伝えてくる。
「お友達」という言葉が、人嫌いで不登校だったチヨコさんの口から出て来るのもびっくり。寝たきりの人のベットの傍らで「辛いけど頑張るんよ」と、励ましている姿にも驚いた。また掃除のチェックは鋭く、小さな塵一つ、髪の毛一本さえ見逃さない。「あそこにのぅ、見えるじゃろ、そうそう」と指示したり、ヒロ君に指示しながら自分の部屋をぴかぴかに磨き上げている。「足も手も不自由で何もできん」と言ってるのに、どうやって拭き掃除をしたのかと、私の「はてな?」は膨らむ。スタッフ達も「何で、あんな小さいものが見えるのか?」と驚いている。チヨコさんらしい潔癖さと、どんな手段を使ってでも、彼女なりの秩序を貫く我の強さは、特養入居後になっても健在だ。
チヨコさんが特養ホームに移ってからの、我が家の散乱ぶりはひどい!玄関周りには、落ち葉や塵が積もり、廊下は綿埃が我が物顔で鎮座している。ヒロ君もタガが外れたように、洗濯・掃除・着替え・身繕いが“ずぼら”になった。今まで、それら全てを支配するように、チヨコさんは秩序立ててやってきていたのだ。その存在の大きさは、恐るべきで、ヒロ君はチヨコさんがいないのに、一人でケンカをしていることがある。「えっ、一体誰と?」と部屋を覗くと、ピタッと静かになる。怪しい!時々チヨコさんは、我が家に帰ってきているようだ。チヨコさんとの喧嘩は、ヒロ君の言語回路に刻印されてしまったようで、本人がいようといまいと関係ないのだ。その関係の深さにまた驚かされる。
私はチヨコさんが深夜にキコキコと歩行器を引きずってやってくることへの緊張感はなくなったが、うずたかく積まれた市販薬の籠にチヨコさんを感じて、ただ“ぼんやり”している。特養ホームに行くと「遠いんだから暗くならないうちに、早く帰って下さい」とピシャリと言われ、ぼんやりでは太刀打ちできないと思った。(チヨコさんは標準語と広島弁を、相手との距離間の違いで、上手に使い分けることが出来る。)
理事長はこの秋から「ヒゲ」をのばしている。それに対してのコメントも非常に面白かった。“ひげそり“を忘れて出かけた、10月の富山研修を機に伸ばしはじめたのだが、その真意はわからない。最初は、息子の大学入試の願掛け?と思ったが、そうでもないらしい。とにかくムサイ!見た目のインパクトが強烈でギョッとして後ずさりする。ヒゲを伸ばしはじめた同時期に、急転直下、志望校を180度変更した息子は、坊主にしてきた。「そんな頭だと滑るじゃん!」と私の怒りを買う。息子は「これで案外、引っ掛かるんだよ」と、毛糸の帽子に引っかかる様子をリアルにみせる。「全く!」と、私の怒りは収まらない。この親子のひげと坊主頭に、私は苛立つ。
チヨコさんにひげの話を向けると「広島に、ああいう人がおった」と顔をしかめながら、身振り手振りで話す。「ボロを着てのぉ、リヤカーに鉄くずや段ボールを積んで曳よった。ヒゲぼーぼーでルンペンじゃ。」続けて「弟も、一生に一度は記念にあぁいう格好をして、写真を撮っておきたいんじゃろ」と余裕たっぷりだ。「えっ、弟?」時に応じて息子は弟になる。「じゃが、他人のことじゃ、わしゃ余計なことは言わん」と、最初のしかめっ面から一転し、楽しげに笑う。ここでもまた、私はチヨコさんから“距離の取り方”を学んだように思う。
ヒロ君は、お母さんが特養ホームに入居したことで、介護と、スパルタ自立訓練の日々から解放された。それでも一日も欠かさずお母さんに会いに、特養の居室に通っている。通っていく場所ができて嬉しそうでもある。時々、市販薬の配達を頼まれ、着替えの洗濯物を受け取り、注文の衣類を届けている。私も気持のゆとりができて、お義母さんのブラックユーモアが楽しみで、部屋を覗いてちょっかいを出している。お義母さんは、私を遠い存在に置くことで、今までのような「嫁に世話になっている」という気兼ねなしに、昔話をしてくれたりして、一緒に笑えるようになった。
近いうちにチヨコさんの部屋にL字のソファを置き、甘いコーヒーとあんパンを用意し、家族5人で過ごせたらと目論んでいる。チヨコさんの第一の友達ということになっているモヨ子さんも入れて、お茶会や密談もしたい。頭が痛いと寝込んでいるときには、手を握ったり、マッサージをして傍らに座っていたいとも思う。自宅では出来なかった会話や、新たな関係ができそうな気がする。そして、チヨコさんの“人生最終章”を、この特養ホーム「銀河の里」で、穏やかに過ごしてもらえたらと願う。
チヨコさんは小さい頃、霊感があったという実母から「お前は不幸な運命を背負った娘じゃ」と予言されたという。米寿越えしてなお、「死なせてくだせぇ、殺してくだせぇ、いつまで酷いめにあわせるんですか」と仏壇に向かって叫んでいた。特養ホームの存在が、その予言の呪縛から解放されるための「希望」を与えてくれるように思う。
「我が家の毎アル」は今回で終わりになるが、特養での毎アルに乞うご期待!
このまま平穏に日々が過ぎるとは思えない。密かに、チヨコさんとの鬼対決を楽しみにしている。
暴力について(第3回)★理事長 宮澤健【2014年3月号】
自らの暴力をどう見つめるのか、考える必要があるということで3回連続で書いてきた。施設で起こりやすい暴力にどう対抗するのかという課題を負って、銀河の里が始まったことも書いた。先月は岩手の施設、適正化委員会、県の福祉課の実際のケースを書いた。
福祉現場では、決定的な強弱の力関係によって、秘めた暴力を引き出されやすい環境にあることを理解し、意識していなければならない。先月の実例も、施設や県、適正化委員会の担当者が残虐で非人道的だと告発しているのではない。極めて普通の人、職務に忠実で、実直な人にこそ、暴力は発現しやすいということだ。
ちょうど先月、映画『ハンナ・アーレント』が盛岡で上映されていたので観に行った。アーレントは実在の人物で、ナチスの強制収容所に入れられた経験もあり、哲学者ハイデッガーとも親密だったとされる女性哲学者だ。映画はナチスの暴力に対する裁判をテーマにしている。戦後10年以上過ぎて、潜伏先のアルゼンチンでイスラエル特殊警察に捕らえられたアイヒマンは、大戦中、アウシュビッツなどの収容所にユダヤ人を移送する担当者だった。大量のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ残虐を問われ裁判にかけられる。アーレントはその裁判に対する記事を出版社に依頼される。ユダヤ人達と多くの大衆は、悪の権化として、アイヒマンを断罪し裁かれることを期待した。収容所でかろうじて死を免れたアーレントにもそのラインでの主張が期待された。ところが裁判を傍聴してアイヒマンの余りの凡庸さに、思わず吹き出してしまいそうになったことに衝撃を受ける。そこから彼女は人間の悪の問題を、哲学者として徹底して哲学的に思索する。そして、単純で、根源的ではない悪、「凡庸な悪(悪の陳腐さ)」を発見し発表した。ユダヤ人はじめ期待に反した大衆からは轟々たる非難がおこり、ユダヤ人の旧知の友人達も感情的な反発で去っていき、大学の職さえ追われそうになる。そうした辛い渦中、映画の後半で、大学で行った講演が圧巻だ「凡庸で職務に忠実な人こそ、思考ができなくなり、意識せず悪を遂行する」「我々は考えなければならない。考えることで強くなり、危機的状況であっても破滅に至らないために」
私が現場で向きあってきた悪は、まさにアーレントの言う「悪の凡庸さ」にある。先月号に書いた、施設の職員も、県の役人も、適正化委員会事務局も職務に忠実な凡庸な人たちだ。「何か問題があるんですか。なにも問題はないですけど」と苛立ちとともに繰り返された言葉も、ケースの人生や人間に対する関心の希薄さも、本人がものを言えない環境での聞き取りをして「本人が問題ないと言ってる」との結論を得るのも、まさに陳腐さが見て取れる。一連の手続きをして「問題はない」ことに納めてしまいたいだけなのだ。
彼らは、ケース個人の抱えた課題や、そのアプローチとプロセス、変化に関して関心を持たないので、話し合いにならないのが特徴だ。管理することしか意識にないから、考えようとしない。考え、深めながら取り組むアプローチは、やっかいで、めんどくさいこととしか映らない。そこにある人生や、人間の課題とは向きあうこともせず、システムのなかに落とし込んで手続きとして処理してしまう。
アーレントが、アウシュビッツをはじめ、ナチスの行った途方もない犯罪を見届けようと、裁判所で見た、アイヒマンの生身のナチスは、それは怪物でも、悪魔でもなく、極めて凡庸な滑稽なくらい陳腐な人間だった。この衝撃を理解しようと2年の歳月をかけて得た結論は「恐るべき、言葉にも言い表すことも、考えてみることもできぬ、悪の陳腐さ」だった。映画の中でアーレントは言う。「歴史的に人間は思考を自分自身との静かな対話だと考えてきた。アイヒマン達はそれを放棄した。思考しなくなると、平凡な人間が残虐行為に走る。思考の嵐がもたらすのは知識ではない。判断力、見分ける力だ。私が望むのは、人間が考えることで強くなることだ」生涯をかけて、人間の持つ「悪」と向き合い取り組んだ彼女の姿勢がそこにある。
5年前、NHKのディレクター、川村さんの紹介で訪ねた、島根の酪農家の佐藤中吉さんは、「農業は考えるためにやるんです」と言われていた。「食べ物があれば戦争をする必要はない。そのために農業をやるんだ」彼の農業も思索に収斂され、そこから意味を見いだしている。明治以来、村の若者が戦争にとられた悲惨の歴史を背負っての言葉でもあると、そのとき感じた。
考えることが人間の質の根底にあるということだ。考えることがそのまま暴力と対峙している。ところが、我々現代人は、ますます考えることから逃避し、遠ざかっている。考えることは、面倒で、辛いことなのだろうか。いずれにせよ、そこから逃げることは人間ではなくなっていく。結果、極めてくだらない悪が破壊的に行われる方向に知らないうちに向かう。整然とシステム化され、考えなくても生きていける便利と効率の只中に、大きな落とし穴がある。平和で戦争などの残虐が起こらないかもしれないが、福祉現場や介護関係のなかに、破壊的な悪がうごめいているのが現代なのかもしれない。
地域のケースワーカや関係機関にケース会議を呼びかけると「銀河さんと組むとめんどうだ」と言われたこともあった。考えようとするとめんどくさいと排除されてしまう。システムや制度で機械的に解決してしまえばいいという姿勢が趨勢だ。しかし、考えることによって強くなるしかない人間の資質がある。あらゆる職業も考えるためにあると捉えてもいい。ところが考えることは、現代人にとってかなり難しい作業になりつつあるようだ。
この通信が、ほとんんど読まれないような長文を毎月書き連ねるのも、思索、思考の痕跡を留めておきたいという意図もあると考える。その姿勢を崩すわけにはいかない。ところが同業者はおろか、時代があまりに陳腐で話の合うところがないのが現状だ。思考に孤独はつきものなのかもしれない。ただ、話の合うものがなく、孤独だとぼやいているうちに、自らの思考が閉ざされてしまっては元も子もない。去年、さらなる思考を拡げたいと、里の外に出ようとしたのだが、結局は通じなかった。
一方で、スタッフも、里の内部に埋もれて、日常をこなして回してさえいればよしとして、介護現場の日常に埋没し、そこに甘えて逃げようとする傾向がある。それは考えない道に進む兆候ではないかと危惧する。考えることは、かなり能動的な作業だ。それは立体的に行われる必要がある。歴史の中の一点に自分を置いて、数百年単位の中で自分を見つめる必要もあるし、世界的な広がりのなかで、地域と自分を見つめる必要もある。考えるとは閉じこもるとは全く逆の、広がりと探索を求められる行為ではないかと思う。他がどうであれ、銀河の里では、それぞれが世界を拡げながら考え続けていきたいと思う。
蛇足になるが、谷川俊太郎の詩「みみをすます」は、「考える」行為とかなり通じるように感じる。知的な思考に留まらず、イメージを使い、想像力も駆使しながら、世界を捉え感じていく。こうした体感的な思考が実際には必要なように思う。
福祉現場では、決定的な強弱の力関係によって、秘めた暴力を引き出されやすい環境にあることを理解し、意識していなければならない。先月の実例も、施設や県、適正化委員会の担当者が残虐で非人道的だと告発しているのではない。極めて普通の人、職務に忠実で、実直な人にこそ、暴力は発現しやすいということだ。
ちょうど先月、映画『ハンナ・アーレント』が盛岡で上映されていたので観に行った。アーレントは実在の人物で、ナチスの強制収容所に入れられた経験もあり、哲学者ハイデッガーとも親密だったとされる女性哲学者だ。映画はナチスの暴力に対する裁判をテーマにしている。戦後10年以上過ぎて、潜伏先のアルゼンチンでイスラエル特殊警察に捕らえられたアイヒマンは、大戦中、アウシュビッツなどの収容所にユダヤ人を移送する担当者だった。大量のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ残虐を問われ裁判にかけられる。アーレントはその裁判に対する記事を出版社に依頼される。ユダヤ人達と多くの大衆は、悪の権化として、アイヒマンを断罪し裁かれることを期待した。収容所でかろうじて死を免れたアーレントにもそのラインでの主張が期待された。ところが裁判を傍聴してアイヒマンの余りの凡庸さに、思わず吹き出してしまいそうになったことに衝撃を受ける。そこから彼女は人間の悪の問題を、哲学者として徹底して哲学的に思索する。そして、単純で、根源的ではない悪、「凡庸な悪(悪の陳腐さ)」を発見し発表した。ユダヤ人はじめ期待に反した大衆からは轟々たる非難がおこり、ユダヤ人の旧知の友人達も感情的な反発で去っていき、大学の職さえ追われそうになる。そうした辛い渦中、映画の後半で、大学で行った講演が圧巻だ「凡庸で職務に忠実な人こそ、思考ができなくなり、意識せず悪を遂行する」「我々は考えなければならない。考えることで強くなり、危機的状況であっても破滅に至らないために」
私が現場で向きあってきた悪は、まさにアーレントの言う「悪の凡庸さ」にある。先月号に書いた、施設の職員も、県の役人も、適正化委員会事務局も職務に忠実な凡庸な人たちだ。「何か問題があるんですか。なにも問題はないですけど」と苛立ちとともに繰り返された言葉も、ケースの人生や人間に対する関心の希薄さも、本人がものを言えない環境での聞き取りをして「本人が問題ないと言ってる」との結論を得るのも、まさに陳腐さが見て取れる。一連の手続きをして「問題はない」ことに納めてしまいたいだけなのだ。
彼らは、ケース個人の抱えた課題や、そのアプローチとプロセス、変化に関して関心を持たないので、話し合いにならないのが特徴だ。管理することしか意識にないから、考えようとしない。考え、深めながら取り組むアプローチは、やっかいで、めんどくさいこととしか映らない。そこにある人生や、人間の課題とは向きあうこともせず、システムのなかに落とし込んで手続きとして処理してしまう。
アーレントが、アウシュビッツをはじめ、ナチスの行った途方もない犯罪を見届けようと、裁判所で見た、アイヒマンの生身のナチスは、それは怪物でも、悪魔でもなく、極めて凡庸な滑稽なくらい陳腐な人間だった。この衝撃を理解しようと2年の歳月をかけて得た結論は「恐るべき、言葉にも言い表すことも、考えてみることもできぬ、悪の陳腐さ」だった。映画の中でアーレントは言う。「歴史的に人間は思考を自分自身との静かな対話だと考えてきた。アイヒマン達はそれを放棄した。思考しなくなると、平凡な人間が残虐行為に走る。思考の嵐がもたらすのは知識ではない。判断力、見分ける力だ。私が望むのは、人間が考えることで強くなることだ」生涯をかけて、人間の持つ「悪」と向き合い取り組んだ彼女の姿勢がそこにある。
5年前、NHKのディレクター、川村さんの紹介で訪ねた、島根の酪農家の佐藤中吉さんは、「農業は考えるためにやるんです」と言われていた。「食べ物があれば戦争をする必要はない。そのために農業をやるんだ」彼の農業も思索に収斂され、そこから意味を見いだしている。明治以来、村の若者が戦争にとられた悲惨の歴史を背負っての言葉でもあると、そのとき感じた。
考えることが人間の質の根底にあるということだ。考えることがそのまま暴力と対峙している。ところが、我々現代人は、ますます考えることから逃避し、遠ざかっている。考えることは、面倒で、辛いことなのだろうか。いずれにせよ、そこから逃げることは人間ではなくなっていく。結果、極めてくだらない悪が破壊的に行われる方向に知らないうちに向かう。整然とシステム化され、考えなくても生きていける便利と効率の只中に、大きな落とし穴がある。平和で戦争などの残虐が起こらないかもしれないが、福祉現場や介護関係のなかに、破壊的な悪がうごめいているのが現代なのかもしれない。
地域のケースワーカや関係機関にケース会議を呼びかけると「銀河さんと組むとめんどうだ」と言われたこともあった。考えようとするとめんどくさいと排除されてしまう。システムや制度で機械的に解決してしまえばいいという姿勢が趨勢だ。しかし、考えることによって強くなるしかない人間の資質がある。あらゆる職業も考えるためにあると捉えてもいい。ところが考えることは、現代人にとってかなり難しい作業になりつつあるようだ。
この通信が、ほとんんど読まれないような長文を毎月書き連ねるのも、思索、思考の痕跡を留めておきたいという意図もあると考える。その姿勢を崩すわけにはいかない。ところが同業者はおろか、時代があまりに陳腐で話の合うところがないのが現状だ。思考に孤独はつきものなのかもしれない。ただ、話の合うものがなく、孤独だとぼやいているうちに、自らの思考が閉ざされてしまっては元も子もない。去年、さらなる思考を拡げたいと、里の外に出ようとしたのだが、結局は通じなかった。
一方で、スタッフも、里の内部に埋もれて、日常をこなして回してさえいればよしとして、介護現場の日常に埋没し、そこに甘えて逃げようとする傾向がある。それは考えない道に進む兆候ではないかと危惧する。考えることは、かなり能動的な作業だ。それは立体的に行われる必要がある。歴史の中の一点に自分を置いて、数百年単位の中で自分を見つめる必要もあるし、世界的な広がりのなかで、地域と自分を見つめる必要もある。考えるとは閉じこもるとは全く逆の、広がりと探索を求められる行為ではないかと思う。他がどうであれ、銀河の里では、それぞれが世界を拡げながら考え続けていきたいと思う。
蛇足になるが、谷川俊太郎の詩「みみをすます」は、「考える」行為とかなり通じるように感じる。知的な思考に留まらず、イメージを使い、想像力も駆使しながら、世界を捉え感じていく。こうした体感的な思考が実際には必要なように思う。
さぁ でかけよう ★デイサービス 千枝 悠久【2014年3月号】
一郎さん(仮名)はいつもデイホールの中を自由に歩き回り、廊下にある戸棚や冷蔵庫を開けて何かを手に入れている。初めの頃、その“何か”が、食べ物だったことが多かったため、お腹が空いて何か食べ物を探しているのかな?と、私は単純に考えていた。それくらい一郎さんの行動は自然だったし、結果としての行動だけを見ていたため、そう考えることしかできていなかった。
やがて一郎さんの“何か”はどんどんカタチを変えていった。生クリームの絞り口が入った小袋だったり、ベーキングパウダーの缶だったり。食べ物ばかりではなく、いろいろな物を手に入れていた。そして、食べ物を手に入れているときも、どうやら、お腹が空いたからという理由だけではないことが分かってきた。テーブルの上に食べ物があっても見向きもせず、戸棚や冷蔵庫に向かうことがあったからだ。
なんでなのかモヤモヤとしていたところに、デイスタッフの高橋さんの「なんでコーラじゃなくて・・・、ベーキングパウダーの缶なんて!」という一言が光を与えてくれた。冷蔵庫の中には、コーラの缶がたくさん入っていた。それにも関わらず一郎さんが手に入れたのは、戸棚に入っていたベーキングパウダーの缶だった。コーラを飲み物だと思っていないのかと思いきや、「これは缶入りの飲料だな」と、一郎さんは話していた。どうせ持って行くなら、おいしいコーラの方を持って行けばいいのに!という高橋さんの思いからでた言葉だった。
「食べ物を探しているわけではなくて、一郎さんが良いと思った物を手に入れているのでは?」「コーラの缶を戸棚に入れておいたらどうなるだろう?」そんなことを話しているうちに、一つの考えが浮かんできた。一郎さんは、“狩り”をしているのではないか、と。
フィールドを自由に駆け巡り、獲物を見つけ、それを手に入れ(あるいは手に入れた気持ちになり)また次の獲物を探す。私だってフィールドと獲物は違えど、同じようなことをしながら暮らしている。誰だってある程度、似たようなことをしているだろう。そう考えると、一郎さんの行動は、男として、人として、そしていきものとして自然な“狩り”をしているのではないかと思えてきた。そんな視点で見ていると、一郎さんとホール内を歩くのは、発見と感動に満ち溢れた冒険の旅になり、廊下の奥に置かれた冷蔵庫のドアを開ける時には、洞窟の奥の宝箱を開けるような気持ちになった。
一郎さんとの“狩り”にワクワクし始めていた頃、デイサービスに新しく広政さん(仮名)が来ることになった。広政さんが来る前の週の金曜日の朝、ホールに特養の三浦さんと見知らぬ男性が来ていた。大きな体で杖をついて歩く姿からは威厳が感じられて、“社長”と呼ぶには固すぎず、“組長”と呼ぶには優しさと暖かさを携えていて、男としてワクワクさせられる感じは、なんとなく“忍者の頭”のようだった。「頭領・・・というか・・・」と、私が言うと、「校長先生をしていた人だ。イタズラを許してくれる校長先生!」と、三浦さんが教えてくれた。私が感じたワクワクと、三浦さんが嬉しそうに話す感じとが一致した感じがした。
その日の午後、戸來副施設長に会った時、広政さんについて話してもらった。里のショートステイを利用時のエピソードを教えてもらったのだが、聞けば聞くほど、一郎さんと同じ感じだと思った。広政さんも特養で、いろいろなもの(主に食べ物)を手に入れているらしい。朝、三浦さんと来た男性が広政さんだったとその時知った。忍者のお頭みたいで、イタズラを許してくれる校長先生で、一郎さんみたいに“狩り”をする人で・・・。と私の中で、広政さんのイメージが広がり、デイに来てくれる日が、楽しみになっていった。
土曜日の夕方には、特養の万里栄さんから電話が入る。電話が取り次がれる直前、電話口から「電話でもいいのかな?」という声が聞こえた。その言葉に私は、大切な何かが感じられた。「こっちからも広政さんのことを伝えたくて・・・」という話だった。私が、一郎さんの“狩り”を話すと、「一郎さんが狩人なら、広政さんは悪ガキというか・・・私に、見つけてきた獲物を見せながら『取って来た』と悪ガキ同士みたいになったり、ルパンと銭形みたいになったり・・・」と万里栄さんは話してくれた。体重が増えてきているので、間食は少し控えて欲しいという。それより何より、やり取りが楽しい人らしいことが伝わってくる。“ルパンと銭形”で、すごく納得がいった。広政さんは、心を盗んでいくんだろうな、と私は思った。
翌週、デイに来た広政さんは、初めは少し緊張していたみたいだったが、そのうち冷蔵庫へ行き、扉を開けた。“広政さんはどうするんだろう?”と関心を持った私は、「そこにコーラが入っています。」と、水を向けてみた。すると、「これにはアルコールは入っていないんだな。」と。どうやら広政さんは酒っこ狙いらしい。酒っこがないと分かると冷蔵庫は早々にあきらめていた。お昼前、「ジッとしているのは好きではないんだ。」と、隣のグループホーム第一へ向かった。扉を開けると、それだけで「おっ!」と、新しい世界を見つけた少年のよう。そして、第一の中を隈無く探索。2階へと上がる階段を発見!「おぉっ!」とそこでも新たな扉が開かれた。“よくぞ見つけてくれました!”嬉しく感じながら私も一緒に2階へあがる。
「おぉ〜〜〜〜〜〜っ!!」2階から見える景色を見て、2人で驚きの声を上げた。私にとっては2階から見慣れた1階が見えただけのはずだったのに、広政さんと一緒だと、まるで苦労して登った山の頂上から麓を見下ろしたかのような気持ちになった。しばらく絶景を堪能した後、2階の奥の方へ進む。そこには、缶入りのバニラ味のエンシュア(栄養剤)がたくさん入った箱があった。「これも、酒っこではないですね・・・」と言いながらも、私の中では、“缶の中身はマッコリに見えなくもないし、もしかして酒っこに近づいていってる!?”と期待が高まっていっていた。そして、隣の冷蔵庫に手を伸ばす広政さん。なんとそこには、ノンアルコールビールが!「ノンアルコールですね。」と私が言ったら、残念そうに元の場所にそれを戻していた。“すごい!本当にあと一歩のところまで酒っこに近づいた!”
結局、今回の冒険では“酒っこ”というお宝を手に入れることはできなかった。けれどもこの冒険は、広政さんの酒っこを求める嗅覚に、ただただ感心させられた冒険でもあった。どこかにきっと、広政さんの求める酒っこはある。そして、自分の足で探し回りいつかきっと手に入れる。そんな夢がふくらむ冒険だった。
実際に歩き回るのも冒険なら、広政さんや一郎さんをはじめとした利用者さんとの出会いそれ自体も冒険だと思う。自分の足でどこまでもどこまでも探し回って、それでやっと出会えるのだと思う。そして、出会いだけではなくて、別れもあって・・・。出会って別れて、出会って別れて、クルクル回って大変だ。上から見ている神様も、どう思っているのだろう?いろいろ考えていたら、出発が遅くなってしまう。カバンの中を軽くして、私も出かけようと思う。
やがて一郎さんの“何か”はどんどんカタチを変えていった。生クリームの絞り口が入った小袋だったり、ベーキングパウダーの缶だったり。食べ物ばかりではなく、いろいろな物を手に入れていた。そして、食べ物を手に入れているときも、どうやら、お腹が空いたからという理由だけではないことが分かってきた。テーブルの上に食べ物があっても見向きもせず、戸棚や冷蔵庫に向かうことがあったからだ。
なんでなのかモヤモヤとしていたところに、デイスタッフの高橋さんの「なんでコーラじゃなくて・・・、ベーキングパウダーの缶なんて!」という一言が光を与えてくれた。冷蔵庫の中には、コーラの缶がたくさん入っていた。それにも関わらず一郎さんが手に入れたのは、戸棚に入っていたベーキングパウダーの缶だった。コーラを飲み物だと思っていないのかと思いきや、「これは缶入りの飲料だな」と、一郎さんは話していた。どうせ持って行くなら、おいしいコーラの方を持って行けばいいのに!という高橋さんの思いからでた言葉だった。
「食べ物を探しているわけではなくて、一郎さんが良いと思った物を手に入れているのでは?」「コーラの缶を戸棚に入れておいたらどうなるだろう?」そんなことを話しているうちに、一つの考えが浮かんできた。一郎さんは、“狩り”をしているのではないか、と。
フィールドを自由に駆け巡り、獲物を見つけ、それを手に入れ(あるいは手に入れた気持ちになり)また次の獲物を探す。私だってフィールドと獲物は違えど、同じようなことをしながら暮らしている。誰だってある程度、似たようなことをしているだろう。そう考えると、一郎さんの行動は、男として、人として、そしていきものとして自然な“狩り”をしているのではないかと思えてきた。そんな視点で見ていると、一郎さんとホール内を歩くのは、発見と感動に満ち溢れた冒険の旅になり、廊下の奥に置かれた冷蔵庫のドアを開ける時には、洞窟の奥の宝箱を開けるような気持ちになった。
一郎さんとの“狩り”にワクワクし始めていた頃、デイサービスに新しく広政さん(仮名)が来ることになった。広政さんが来る前の週の金曜日の朝、ホールに特養の三浦さんと見知らぬ男性が来ていた。大きな体で杖をついて歩く姿からは威厳が感じられて、“社長”と呼ぶには固すぎず、“組長”と呼ぶには優しさと暖かさを携えていて、男としてワクワクさせられる感じは、なんとなく“忍者の頭”のようだった。「頭領・・・というか・・・」と、私が言うと、「校長先生をしていた人だ。イタズラを許してくれる校長先生!」と、三浦さんが教えてくれた。私が感じたワクワクと、三浦さんが嬉しそうに話す感じとが一致した感じがした。
その日の午後、戸來副施設長に会った時、広政さんについて話してもらった。里のショートステイを利用時のエピソードを教えてもらったのだが、聞けば聞くほど、一郎さんと同じ感じだと思った。広政さんも特養で、いろいろなもの(主に食べ物)を手に入れているらしい。朝、三浦さんと来た男性が広政さんだったとその時知った。忍者のお頭みたいで、イタズラを許してくれる校長先生で、一郎さんみたいに“狩り”をする人で・・・。と私の中で、広政さんのイメージが広がり、デイに来てくれる日が、楽しみになっていった。
土曜日の夕方には、特養の万里栄さんから電話が入る。電話が取り次がれる直前、電話口から「電話でもいいのかな?」という声が聞こえた。その言葉に私は、大切な何かが感じられた。「こっちからも広政さんのことを伝えたくて・・・」という話だった。私が、一郎さんの“狩り”を話すと、「一郎さんが狩人なら、広政さんは悪ガキというか・・・私に、見つけてきた獲物を見せながら『取って来た』と悪ガキ同士みたいになったり、ルパンと銭形みたいになったり・・・」と万里栄さんは話してくれた。体重が増えてきているので、間食は少し控えて欲しいという。それより何より、やり取りが楽しい人らしいことが伝わってくる。“ルパンと銭形”で、すごく納得がいった。広政さんは、心を盗んでいくんだろうな、と私は思った。
翌週、デイに来た広政さんは、初めは少し緊張していたみたいだったが、そのうち冷蔵庫へ行き、扉を開けた。“広政さんはどうするんだろう?”と関心を持った私は、「そこにコーラが入っています。」と、水を向けてみた。すると、「これにはアルコールは入っていないんだな。」と。どうやら広政さんは酒っこ狙いらしい。酒っこがないと分かると冷蔵庫は早々にあきらめていた。お昼前、「ジッとしているのは好きではないんだ。」と、隣のグループホーム第一へ向かった。扉を開けると、それだけで「おっ!」と、新しい世界を見つけた少年のよう。そして、第一の中を隈無く探索。2階へと上がる階段を発見!「おぉっ!」とそこでも新たな扉が開かれた。“よくぞ見つけてくれました!”嬉しく感じながら私も一緒に2階へあがる。
「おぉ〜〜〜〜〜〜っ!!」2階から見える景色を見て、2人で驚きの声を上げた。私にとっては2階から見慣れた1階が見えただけのはずだったのに、広政さんと一緒だと、まるで苦労して登った山の頂上から麓を見下ろしたかのような気持ちになった。しばらく絶景を堪能した後、2階の奥の方へ進む。そこには、缶入りのバニラ味のエンシュア(栄養剤)がたくさん入った箱があった。「これも、酒っこではないですね・・・」と言いながらも、私の中では、“缶の中身はマッコリに見えなくもないし、もしかして酒っこに近づいていってる!?”と期待が高まっていっていた。そして、隣の冷蔵庫に手を伸ばす広政さん。なんとそこには、ノンアルコールビールが!「ノンアルコールですね。」と私が言ったら、残念そうに元の場所にそれを戻していた。“すごい!本当にあと一歩のところまで酒っこに近づいた!”
結局、今回の冒険では“酒っこ”というお宝を手に入れることはできなかった。けれどもこの冒険は、広政さんの酒っこを求める嗅覚に、ただただ感心させられた冒険でもあった。どこかにきっと、広政さんの求める酒っこはある。そして、自分の足で探し回りいつかきっと手に入れる。そんな夢がふくらむ冒険だった。
実際に歩き回るのも冒険なら、広政さんや一郎さんをはじめとした利用者さんとの出会いそれ自体も冒険だと思う。自分の足でどこまでもどこまでも探し回って、それでやっと出会えるのだと思う。そして、出会いだけではなくて、別れもあって・・・。出会って別れて、出会って別れて、クルクル回って大変だ。上から見ている神様も、どう思っているのだろう?いろいろ考えていたら、出発が遅くなってしまう。カバンの中を軽くして、私も出かけようと思う。
ピンクのフレーム ★特別養護老人ホーム 川戸道 美紗子【2014年3月号】
先日、オリオンいちの稼ぎ屋おかあちゃん・桃子さん(仮名)が転んでしまって、その拍子に2年間愛用してきた眼鏡のフレームが壊れてしまった。かなり視力が悪いので次の日、一緒に眼鏡を買いに行った。
眼鏡屋で、壊れたフレームは修理はできないとのことで、新調することになった。「いくらかかるべ?」と桃子さんはお金のことを気にしている。それでもいざ「これなんかどうですか?」と店員さんに勧められると「派手だなあ〜♪80にもなるばばあにこれは若すぎるべ〜♪」と照れるのだが、新しい眼鏡に気持ちがウキウキしているのが分かった。そんな桃子さんを見て、私もワクワクしてきた。
桃子さんは見えない目をじーっと凝らしてフレームを探した。どうやら暖色系のフレームが好みのよう。(愛用していた眼鏡はピンクと茶色のフレームだった。それより以前に使っていた老眼鏡は琥珀色。)レンズが合うフレームも限られているので、選ぶのも難しいのだが、桃子さんはピンクのフレームを選んだ。とっても可愛いフレームだった。「ん〜・・・これがいいんでねーべか?」と言いながら桃子さんは鏡の前でフレームをかけ、顔の角度を変えてみたりしている。眼鏡屋さんではなく、ブティックに来ているような感じだった。
眼鏡ケースもサービスでついているとのことで、サンプルを見ると20種類もあった。桃子さんはまたも、宝石でも選ぶかのように「これも可愛いな」「これも色っこいいなあ〜」とひとつずつ手に取って選んでいた。フレームは可愛らしいピンクのものを選んだので、ケースもオレンジやピンクといった明るいケースを選ぶかと思ったのだが、「うーん。よし、これにするがな!」と桃子さんが選んだのは黒い眼鏡ケースだった。「えっ?」それでいいの?と思ったが、桃子さんは満足そう。
そしてレンズを入れてもらって完成した新しい眼鏡を受け取り、 桃子さんは黒い眼鏡ケースの中にピンクの眼鏡を入れていた。私は、そのコントラストに普段の桃子さんを感じた。「稼ぐ」「怒る」という結構ダイナミックで忙しい桃子さん。黒色のケースは男らしい(力強い?)方で、ピンクは心の中の、小さな桃色“乙女心”に見えた。そーっとしまいこむ黒いケース。ぱかっと開くと、ちらりとピンクのフレームが覗く。私には、桃子さんがとっても可愛らしく映った。
これまで私はユニットオリオンでの勤務は少なく、なかなか足を運ばないユニットだったので、桃子さんとは面識はあるが、それほど話をしたことはなかった。田植えや稲刈りの時に相談にのってくれたり、こびる作りに精を出してくれるのだが、ほんの一瞬の関わりしかない人だった。銀河の里のグループホームから移ってきた、かなり個性の強い人で、激しいエピソードがたくさんある。桃子さんを知るスタッフに色んな話を聞くと、以前とは違って、今はずいぶん丸くなったんだなという印象を持っていた。
そんな桃子さんと1対1で過ごした、今回の眼鏡ショッピングはとても新鮮だった。桃子さんの「乙女」な部分をもう少し覗いてみたいなと感じた。私は春からオリオンに異動になって、桃子さんと過ごすことになる。
桃子さんは、普段は食器洗いや米とぎ、野菜つくりや花を育てるなど、いっぱい稼いでいる。利用者さんやスタッフと激しい口喧嘩から、手が出ることも結構あるという激しい性格だが、一方で、ピンクのメガネのように「乙女」の部分が、きっと隠されている。そんな深いところにある、乙女の思い・安らぎなどの部分に触れてみたい。そんな桃子さんと、向き合い勝負してみたい。
眼鏡屋で、壊れたフレームは修理はできないとのことで、新調することになった。「いくらかかるべ?」と桃子さんはお金のことを気にしている。それでもいざ「これなんかどうですか?」と店員さんに勧められると「派手だなあ〜♪80にもなるばばあにこれは若すぎるべ〜♪」と照れるのだが、新しい眼鏡に気持ちがウキウキしているのが分かった。そんな桃子さんを見て、私もワクワクしてきた。
桃子さんは見えない目をじーっと凝らしてフレームを探した。どうやら暖色系のフレームが好みのよう。(愛用していた眼鏡はピンクと茶色のフレームだった。それより以前に使っていた老眼鏡は琥珀色。)レンズが合うフレームも限られているので、選ぶのも難しいのだが、桃子さんはピンクのフレームを選んだ。とっても可愛いフレームだった。「ん〜・・・これがいいんでねーべか?」と言いながら桃子さんは鏡の前でフレームをかけ、顔の角度を変えてみたりしている。眼鏡屋さんではなく、ブティックに来ているような感じだった。
眼鏡ケースもサービスでついているとのことで、サンプルを見ると20種類もあった。桃子さんはまたも、宝石でも選ぶかのように「これも可愛いな」「これも色っこいいなあ〜」とひとつずつ手に取って選んでいた。フレームは可愛らしいピンクのものを選んだので、ケースもオレンジやピンクといった明るいケースを選ぶかと思ったのだが、「うーん。よし、これにするがな!」と桃子さんが選んだのは黒い眼鏡ケースだった。「えっ?」それでいいの?と思ったが、桃子さんは満足そう。
そしてレンズを入れてもらって完成した新しい眼鏡を受け取り、 桃子さんは黒い眼鏡ケースの中にピンクの眼鏡を入れていた。私は、そのコントラストに普段の桃子さんを感じた。「稼ぐ」「怒る」という結構ダイナミックで忙しい桃子さん。黒色のケースは男らしい(力強い?)方で、ピンクは心の中の、小さな桃色“乙女心”に見えた。そーっとしまいこむ黒いケース。ぱかっと開くと、ちらりとピンクのフレームが覗く。私には、桃子さんがとっても可愛らしく映った。
これまで私はユニットオリオンでの勤務は少なく、なかなか足を運ばないユニットだったので、桃子さんとは面識はあるが、それほど話をしたことはなかった。田植えや稲刈りの時に相談にのってくれたり、こびる作りに精を出してくれるのだが、ほんの一瞬の関わりしかない人だった。銀河の里のグループホームから移ってきた、かなり個性の強い人で、激しいエピソードがたくさんある。桃子さんを知るスタッフに色んな話を聞くと、以前とは違って、今はずいぶん丸くなったんだなという印象を持っていた。
そんな桃子さんと1対1で過ごした、今回の眼鏡ショッピングはとても新鮮だった。桃子さんの「乙女」な部分をもう少し覗いてみたいなと感じた。私は春からオリオンに異動になって、桃子さんと過ごすことになる。
桃子さんは、普段は食器洗いや米とぎ、野菜つくりや花を育てるなど、いっぱい稼いでいる。利用者さんやスタッフと激しい口喧嘩から、手が出ることも結構あるという激しい性格だが、一方で、ピンクのメガネのように「乙女」の部分が、きっと隠されている。そんな深いところにある、乙女の思い・安らぎなどの部分に触れてみたい。そんな桃子さんと、向き合い勝負してみたい。
「英哲」の鼓音に触れて ★特別養護老人ホーム 佐々木 広周【2014年3月号】
以前、研修で、林英哲の弟子で構成される『英哲 風雲の会』の舞台を観る機会があった。その当時、私は太鼓にさほど興味も無く、ましてや観に行くなど考えた事も無かった。林英哲という名を知ったのもこの時が初めてだった。太鼓は、ピアノのように音階があるわけでもなく、一つの楽器でリズムを叩くだけで古臭い地味な感じ、といった印象を持っていた。それでも“せっかくの機会だし何かを学ぼう”という心構えだった。
演奏が始まると、初めは今まで聞いた太鼓の音と差ほど変わらないな、という印象を受けた。しかし、聴いているうちに、言い表しがたい心地良さを感じてきた。鼓音が体を突き抜け、包み込む。あたかも自分が“母胎”の中いるようだった。一定のリズムと音が、お経などにも通ずるようなゆったりと深いなにかを感じさせる。次第に自己と外界が曖昧になり、私は瞑想状態に入った感じがした。太鼓の演奏でこんな感覚になり、こんなに揺さぶられたのは初めてだった。本物に出会えた気がした。これをきっかけに太鼓の奥深さに触れ、私は太鼓に興味を持つようになった。そして、ぜひ林英哲の演奏も聴いてみたいと思った。
1月19日、仙台で林英哲『迷宮の鼓美術少年PARALLAX TRACKS』の舞台が公演され、今回も研修として参加させてもらった。前回、『英哲 風雲の会』の演奏で“母胎”を感じた私が、あれからどう成長し、今回はどのような太鼓を聴くことが出来るのか楽しみだった。
舞台は林英哲が太鼓人生を振り返る、といった内容のもので、演出は演劇色が強くセリフや歌もあり、英哲がどんな人物なのかを知るために、私にとっては願っても無い機会だった。林英哲に初めて会った私は、彼を知りたいと思い、全身全霊を舞台に傾けた。
演奏が始まると、やはり今回も、太鼓の音から“母胎”を感じた。そして、私は奏者にも注目する。今回は小ホールでの公演なので、彼らの姿、表情や息遣いも間近でリアルに感じることが出来た。
奏者がもがきながらも太鼓を叩く姿に、自分の中には安らぎの他に苦しみといった様々な感情が生まれ、これまでの人生を思い起こし、なぜここに自分が存在するのかを考え始めた。そして、以前感じた母胎のほかに“宇宙”も感じ始めた。
英哲は語る。「どの道を行っても同じだったと思う」と。その言葉から、私は人の生や死を感じた。次に彼は大太鼓めがけて一撃の拳を放った。その鼓音はバチを通した音とは違い、彼自身から放たれている感じがした。迷いの無いその音は、私を貫いて、どこまでも広がっていくようだった。その音から、私は林英哲という人間の父性を感じた。その時、弟子達の中心で英哲は輝いていた。英哲が神のようにも見えた。猛々しくも安らぎのあるその音は、父が子に一本の道筋を示しているようだった。彼らの演奏は、聴衆のためではなく、彼らが生まれ変わるための儀式のように感じられた。母胎という宇宙の中で、生きる術を父なる神が教えていた、とでも表現していいのか。その儀式を共にすることで、私も生まれ変われるような感じがした。
演奏が始まると、初めは今まで聞いた太鼓の音と差ほど変わらないな、という印象を受けた。しかし、聴いているうちに、言い表しがたい心地良さを感じてきた。鼓音が体を突き抜け、包み込む。あたかも自分が“母胎”の中いるようだった。一定のリズムと音が、お経などにも通ずるようなゆったりと深いなにかを感じさせる。次第に自己と外界が曖昧になり、私は瞑想状態に入った感じがした。太鼓の演奏でこんな感覚になり、こんなに揺さぶられたのは初めてだった。本物に出会えた気がした。これをきっかけに太鼓の奥深さに触れ、私は太鼓に興味を持つようになった。そして、ぜひ林英哲の演奏も聴いてみたいと思った。
1月19日、仙台で林英哲『迷宮の鼓美術少年PARALLAX TRACKS』の舞台が公演され、今回も研修として参加させてもらった。前回、『英哲 風雲の会』の演奏で“母胎”を感じた私が、あれからどう成長し、今回はどのような太鼓を聴くことが出来るのか楽しみだった。
舞台は林英哲が太鼓人生を振り返る、といった内容のもので、演出は演劇色が強くセリフや歌もあり、英哲がどんな人物なのかを知るために、私にとっては願っても無い機会だった。林英哲に初めて会った私は、彼を知りたいと思い、全身全霊を舞台に傾けた。
演奏が始まると、やはり今回も、太鼓の音から“母胎”を感じた。そして、私は奏者にも注目する。今回は小ホールでの公演なので、彼らの姿、表情や息遣いも間近でリアルに感じることが出来た。
奏者がもがきながらも太鼓を叩く姿に、自分の中には安らぎの他に苦しみといった様々な感情が生まれ、これまでの人生を思い起こし、なぜここに自分が存在するのかを考え始めた。そして、以前感じた母胎のほかに“宇宙”も感じ始めた。
英哲は語る。「どの道を行っても同じだったと思う」と。その言葉から、私は人の生や死を感じた。次に彼は大太鼓めがけて一撃の拳を放った。その鼓音はバチを通した音とは違い、彼自身から放たれている感じがした。迷いの無いその音は、私を貫いて、どこまでも広がっていくようだった。その音から、私は林英哲という人間の父性を感じた。その時、弟子達の中心で英哲は輝いていた。英哲が神のようにも見えた。猛々しくも安らぎのあるその音は、父が子に一本の道筋を示しているようだった。彼らの演奏は、聴衆のためではなく、彼らが生まれ変わるための儀式のように感じられた。母胎という宇宙の中で、生きる術を父なる神が教えていた、とでも表現していいのか。その儀式を共にすることで、私も生まれ変われるような感じがした。