2014年02月15日
言葉の二面性 〜福は内!鬼も内!?〜 ★居宅 板垣由紀子【2014年2月号】
デイサービスで大声で騒いで周りを揺るがす利用者さん。そういう方は、たいていほかの事業所では「周りに迷惑をかける」と断られてしまう。ところが銀河の里ではそんな人に限って人気者になる。まずは、何で怒鳴っているのか、興味関心が湧く。たいていはそばに行くと怒られてしまう。「うるせぇ、来るな。あっちいげー」「はいはい」と一旦は引きながら、次のタイミングを計る。このあたりはわくわくしてくる。
初対面の間柄では厳つい顔の前を、ただ頭を下げて通るくらいしかできない。じーっとこちらを見ている目が、どこか見透かされているようで怖い。自分が「うさんくさい笑顔になってないかな」などとどきどきしていると、すかさず「誰だ〜!」と怒鳴ってくれて、名乗ることが出来たりする。そうして隣りに座ることが出来るとしめたもの、別人のように穏やかな声で話しかけてくれたりする。
このとき、私は、この極端な二つの顔に、人間らしさを感じてしまう。男性の怒りは苦手ではない。なんだか寂しさの裏返しのようで、むしろかわいく感じたりする。調子に乗って遊んでいると、「あどいい、あっちに行けー」とやられるが、またそれも楽しい。私は、童心に返って遊んでもらっているような気がする。その雰囲気が伝わるのか、周りもなんだかほっこりしてくる。笑って見てくれたり、応援してくれたり、いろんな形で参加してくれる。
高齢者にはつながる力が大いにあると感じる。私はそれに支えられる。周りを気にすることなく、自分を発信してくれる人は、つながれる窓がはっきりしていて、わかりやすく、私の中に眠っている子供がむくむくと顔を出す感じがする。遊んでもらっているうちに次のステージに入れてもらえる瞬間が来る。それは小さな声で、本気の語りだったりする。小声で誠実で、敬語になり、語ってくれたりする。そんな時は自分の本当の気持ちを伝えてくれることが多い。
特養の事務所に立ち寄ると、聞き覚えのある大きな声が聞こえた。ユニットに顔を出すと車いすに座っている。「また会ったねぇ」と声をかけると、「はい、こんにちは」と入れてくれる。
「おー、看護婦さん」と、どうやら職員に用事がありそう。「そんなに怒鳴ったらびっくりするから、優しく呼んでみたら?」と助言すると「看護婦さん」と、声のトーンが変わる。意外と素直な方なのだ。やりとりを聞いていて、気づいたスタッフが笑いながら、「看護婦じゃないけどいいですか?」と声をかけてくれる。すると、どうやら今日、ショートステイで入ってきたばかりで、荷物を心配してどこにやったのかと訪ねていた。
「まだ荷物の確認が終わっていないから、もう少し貸してほしい・・」と説明され、小さな声で「はいわかった」と答え、スタッフは業務に戻って行った。すると、大きな声で、「さっぱど、わがらねー」と怒鳴ったので、「えっ?何でハイって言ったのよ」と、おもわず笑ってしまった。小心で、不器用な感じが、ますます好きになってしまう。
きっと今までは、心の中に納めていたであろう声が、もう一つの声としてこちらに届けられているのだろう。
その方の背景を知ると、怒鳴りたくなる気持ちもわからなくもない。ついこの夏ころまでは、自分で歩いていたのだそうだ。それが今は、車イスとなると理不尽なことだ。ただ、怒鳴る人、言うことを聞かない人、集団になじめない人などと、十把一絡げにしようとするから怒りたくなる。ただでさえ何かに怒りたくなる。
ある施設では、持って行ったお茶を飲まずにこぼしたという。それを「まるで嫌がらせのようにこぼしたんですよ」と言った若い職員がいた。私はその言葉に暴力性を感じ、ショックだった。「嫌がらせと思った瞬間、それは嫌がらせでしかなくなるよなぁ」と思いながら、足取り重く銀河の里に戻った。その話をすると、心理的洞察力の鋭いデイスタッフの千枝さんが笑いながら「嫌がらせだったと思いますよ」と言った。関係の中で起こっているということだ。人はひとりで生きているわけではなく、相手との関わりのなかで感情が動くものだ。職員もそれだけ気持ちを揺るがされているのだろう。
ときとして、その人が背負った不安や、焦り、理不尽な出来事へのもって行き場のない怒りを、突然向けられることもある。こちらの感情も揺るがされる。認知症の方とおつきあいしていて、教わるのが、人の感情のリアリティだ。形を変えて出てくることも多いので、それを受け止めるだけの、想像力や理解がそこになければ、全く無視するか、逆に巻き込まれてへとへとになってしまうか、どっちにしてもストレスになってしまう。そんなとき助けになるのが、好奇心だったり、遊び心だったり、想像力だったり、自由なこころとでも言うのだろうか?
私は当初、四角四面のガチンコ勝負で、言い合いになることも多かった。そうしないと自分も相手も見えなかったような気がする。また理不尽な感情を受け止めるとき、壁になる必要に迫られるときもあった。生きている感じがエネルギーになってくる。本気の自分、逃げている自分、相手を通して見えてくるのは自分だった。その自分と向き合うことが、苦しいけど、生きているリアリティを与える。普段は隠して見せない、言葉にならない言葉が、私の中にもわいてきて、童心にかえったり、怒りが沸いたり、悲しかったり、悔しかったり、認知症の方の力は、そういったものをごまかすことなく受けとめ、感じてくれるところがある。
人と人が、本当の意味で出会えなくなった時代に、出会いを深める認知症の力は、私たち現代人が失ってきた関係を取り戻す救いであるのかもしれないと感じる。
初対面の間柄では厳つい顔の前を、ただ頭を下げて通るくらいしかできない。じーっとこちらを見ている目が、どこか見透かされているようで怖い。自分が「うさんくさい笑顔になってないかな」などとどきどきしていると、すかさず「誰だ〜!」と怒鳴ってくれて、名乗ることが出来たりする。そうして隣りに座ることが出来るとしめたもの、別人のように穏やかな声で話しかけてくれたりする。
このとき、私は、この極端な二つの顔に、人間らしさを感じてしまう。男性の怒りは苦手ではない。なんだか寂しさの裏返しのようで、むしろかわいく感じたりする。調子に乗って遊んでいると、「あどいい、あっちに行けー」とやられるが、またそれも楽しい。私は、童心に返って遊んでもらっているような気がする。その雰囲気が伝わるのか、周りもなんだかほっこりしてくる。笑って見てくれたり、応援してくれたり、いろんな形で参加してくれる。
高齢者にはつながる力が大いにあると感じる。私はそれに支えられる。周りを気にすることなく、自分を発信してくれる人は、つながれる窓がはっきりしていて、わかりやすく、私の中に眠っている子供がむくむくと顔を出す感じがする。遊んでもらっているうちに次のステージに入れてもらえる瞬間が来る。それは小さな声で、本気の語りだったりする。小声で誠実で、敬語になり、語ってくれたりする。そんな時は自分の本当の気持ちを伝えてくれることが多い。
特養の事務所に立ち寄ると、聞き覚えのある大きな声が聞こえた。ユニットに顔を出すと車いすに座っている。「また会ったねぇ」と声をかけると、「はい、こんにちは」と入れてくれる。
「おー、看護婦さん」と、どうやら職員に用事がありそう。「そんなに怒鳴ったらびっくりするから、優しく呼んでみたら?」と助言すると「看護婦さん」と、声のトーンが変わる。意外と素直な方なのだ。やりとりを聞いていて、気づいたスタッフが笑いながら、「看護婦じゃないけどいいですか?」と声をかけてくれる。すると、どうやら今日、ショートステイで入ってきたばかりで、荷物を心配してどこにやったのかと訪ねていた。
「まだ荷物の確認が終わっていないから、もう少し貸してほしい・・」と説明され、小さな声で「はいわかった」と答え、スタッフは業務に戻って行った。すると、大きな声で、「さっぱど、わがらねー」と怒鳴ったので、「えっ?何でハイって言ったのよ」と、おもわず笑ってしまった。小心で、不器用な感じが、ますます好きになってしまう。
きっと今までは、心の中に納めていたであろう声が、もう一つの声としてこちらに届けられているのだろう。
その方の背景を知ると、怒鳴りたくなる気持ちもわからなくもない。ついこの夏ころまでは、自分で歩いていたのだそうだ。それが今は、車イスとなると理不尽なことだ。ただ、怒鳴る人、言うことを聞かない人、集団になじめない人などと、十把一絡げにしようとするから怒りたくなる。ただでさえ何かに怒りたくなる。
ある施設では、持って行ったお茶を飲まずにこぼしたという。それを「まるで嫌がらせのようにこぼしたんですよ」と言った若い職員がいた。私はその言葉に暴力性を感じ、ショックだった。「嫌がらせと思った瞬間、それは嫌がらせでしかなくなるよなぁ」と思いながら、足取り重く銀河の里に戻った。その話をすると、心理的洞察力の鋭いデイスタッフの千枝さんが笑いながら「嫌がらせだったと思いますよ」と言った。関係の中で起こっているということだ。人はひとりで生きているわけではなく、相手との関わりのなかで感情が動くものだ。職員もそれだけ気持ちを揺るがされているのだろう。
ときとして、その人が背負った不安や、焦り、理不尽な出来事へのもって行き場のない怒りを、突然向けられることもある。こちらの感情も揺るがされる。認知症の方とおつきあいしていて、教わるのが、人の感情のリアリティだ。形を変えて出てくることも多いので、それを受け止めるだけの、想像力や理解がそこになければ、全く無視するか、逆に巻き込まれてへとへとになってしまうか、どっちにしてもストレスになってしまう。そんなとき助けになるのが、好奇心だったり、遊び心だったり、想像力だったり、自由なこころとでも言うのだろうか?
私は当初、四角四面のガチンコ勝負で、言い合いになることも多かった。そうしないと自分も相手も見えなかったような気がする。また理不尽な感情を受け止めるとき、壁になる必要に迫られるときもあった。生きている感じがエネルギーになってくる。本気の自分、逃げている自分、相手を通して見えてくるのは自分だった。その自分と向き合うことが、苦しいけど、生きているリアリティを与える。普段は隠して見せない、言葉にならない言葉が、私の中にもわいてきて、童心にかえったり、怒りが沸いたり、悲しかったり、悔しかったり、認知症の方の力は、そういったものをごまかすことなく受けとめ、感じてくれるところがある。
人と人が、本当の意味で出会えなくなった時代に、出会いを深める認知症の力は、私たち現代人が失ってきた関係を取り戻す救いであるのかもしれないと感じる。
出会いと別れ★グループホーム第1 佐々木勝巳 【2014年2月号】
2014年1月15日。特養ユニット(オリオン)の利用者の紀子さん(仮名)が亡くなられた。95歳の大往生であった。心に残る出来事や思い出を紹介したいと思う。
平成21年4月、銀河の里の特養が開設となり私も介護職員として就職した。その年の10月にオリオンに配属となりそこで紀子さんと出会った。
オリオンの先輩スタッフの話によると紀子さんはほとんど居室で過ごし、とっつきにくく、スタッフともあまり話さないと言われていた。しかし私は紀子さんとはウマがあったようでまるで構えることはなくなじんだ。紀子さんもナースコールで私を呼んで、紀子さんから色々と話をしてくれた。紀子さんは「おめぇ、あねっこいんのが?・・・なんたらいねぇのが。はやぐ嫁っこ見つけろ」と、毎回も言われた。
紀子さんと、漬け物を一緒に漬けたり、お孫さんが働いているスーパーへ買い物に出かけたり、民謡の本を買いに行ったり、時計を直しに出かけたり。また、寿司屋に食べに行ったりと、なんやかんやと一緒に生活してきた。紀子さんは頼み事を私によくしてくれて、頼られていることが嬉しかった。
居室での紀子さんとの会話の中で紀子さんはよく自分の人生の事について話してくれた。
旦那さんを戦争で亡くし、子どもも早く亡くし、残された孫たちを女手ひとつで育てあげ、毎日毎日朝から晩まで稼いだと言う。「まわりはみんな死んでって、おらばり長生きしてしまった。はやぐ死にでぇ」と語ったこともあった。
ある日、紀子さんの親族の方が自殺した話をした。そのとき私は心に隠していたことを紀子さんに話した。実は私も自殺をはかり、奇跡的に命をとりとめた過去がある。紀子さんに自分の人生の暗闇を初めて明かした。紀子さんは泣きながら「もう二度と自殺なんてするな・・・おめぇ以上に残されだもんがもっと悲しむんだ。・・・おれのような思い、させねでけで」と話してくれた。私も泣きながら何度も紀子さんに謝った。
平成23年、あの大震災もなんとか乗り越えたが私自身は仕事の事、人間関係のこと、様々な苦悩に破れ体調を崩してしまった。理事長に相談し、休暇をもらった後、心のリハビリもかねて、グループホーム1に異動となった。やがてグループの生活に段々と慣れてきたが、自分の中では紀子さんの事がずっと気がかりだった。でも紀子さんは私のことはもう忘れてしまったのではないか?と思って悩んだ。
ある日、意を決して紀子さんに会いに行くと、紀子さんは覚えていてくれ「おめぇ、体壊したってがぁ、何たら弱え。んでも早ぐ治して俺んどごさ来い」と言ってくた。私はうれしかった。私が弱いばっかりだと、紀子さんを悲しませるがら強くなんねばと、自分で勝手ながら誓った。
紀子さんとは直接には職場が離れた生活となったが、離れていても繋がることが出来た。オリオンから内線で「話したいから」と電話してくれたり、紀子さんがスタッフと遊びに来てくれたり。1、2ヶ月に一回は買い物に一緒に行ったりもした。
また毎年、恒例のケアハウス訪問(以前の住まい)も、施設長の計らいでご一緒させてもらった。毎回紀子さんの周りには、どんどんと友達やスタッフが集まり、しまいにはケアハウスの施設長も加わり、昔話で盛り上がった。「来る度に、一歳づつ若返っているようだね」と言われ、「おら、死なねぇよ!」と、笑顔で応えていたことを思い出す。紀子さんとは3回ケアハウス訪問に行ったが、確かに年々若くなっていく紀子さんを感じたものだった。私の誕生日に合わせて訪問日を決めてもらっていたので、今年も4回目を予定していたが、もうそれは叶わないことになった。
去年、紀子さんが食が進まず点滴を受けていた時期があった。私は紀子さんと買い物に行き、菓子パンを二人分買って一緒に食べた。紀子さんは「うめぇ、うめぇ」と喜んでほおばった。わたしが「紀子さん、喰えんじゃん」と、つっこみを入れると、紀子さんは「おめぇ、いだがらよう」と言ってくれたこともあった。
紀子さんが亡くなった当日、「どんと焼き」が行われる日だった。当日の朝は食欲がありとても元気そうだったという。どんと焼きも参加し、午後もおやつを食べて昼寝に入った。30分後、その昼寝のまま紀子さんは帰らぬ人となった。
その日の夜、私はお通夜に伺った。紀子さんの顔は穏やかで、寝ているようだった。今年に入り、私は紀子さんと会えずにいた。それが悔やまれた。私は紀子さんに「遅くなってしまった・・・」と、謝りながら最後の別れを告げた。
生前に紀子さんがよく「あどは、いつ死んでもいい」と言っていた。様々な体験をして、人生を語って死を受け入れる境地。紀子さんの人生95年のうち、私はたった4,5年しか一緒に暮らせなかったが、最期はホントに生き様の全てを理屈じゃなく、私の人生にしっかり刻んでくれたと思う。紀子さんとの出会いは、私の人生においても大きく暖か出会いだった。私のことを思ってくれて心配もしてくれた紀子さん。本当にありがとう。
平成21年4月、銀河の里の特養が開設となり私も介護職員として就職した。その年の10月にオリオンに配属となりそこで紀子さんと出会った。
オリオンの先輩スタッフの話によると紀子さんはほとんど居室で過ごし、とっつきにくく、スタッフともあまり話さないと言われていた。しかし私は紀子さんとはウマがあったようでまるで構えることはなくなじんだ。紀子さんもナースコールで私を呼んで、紀子さんから色々と話をしてくれた。紀子さんは「おめぇ、あねっこいんのが?・・・なんたらいねぇのが。はやぐ嫁っこ見つけろ」と、毎回も言われた。
紀子さんと、漬け物を一緒に漬けたり、お孫さんが働いているスーパーへ買い物に出かけたり、民謡の本を買いに行ったり、時計を直しに出かけたり。また、寿司屋に食べに行ったりと、なんやかんやと一緒に生活してきた。紀子さんは頼み事を私によくしてくれて、頼られていることが嬉しかった。
居室での紀子さんとの会話の中で紀子さんはよく自分の人生の事について話してくれた。
旦那さんを戦争で亡くし、子どもも早く亡くし、残された孫たちを女手ひとつで育てあげ、毎日毎日朝から晩まで稼いだと言う。「まわりはみんな死んでって、おらばり長生きしてしまった。はやぐ死にでぇ」と語ったこともあった。
ある日、紀子さんの親族の方が自殺した話をした。そのとき私は心に隠していたことを紀子さんに話した。実は私も自殺をはかり、奇跡的に命をとりとめた過去がある。紀子さんに自分の人生の暗闇を初めて明かした。紀子さんは泣きながら「もう二度と自殺なんてするな・・・おめぇ以上に残されだもんがもっと悲しむんだ。・・・おれのような思い、させねでけで」と話してくれた。私も泣きながら何度も紀子さんに謝った。
平成23年、あの大震災もなんとか乗り越えたが私自身は仕事の事、人間関係のこと、様々な苦悩に破れ体調を崩してしまった。理事長に相談し、休暇をもらった後、心のリハビリもかねて、グループホーム1に異動となった。やがてグループの生活に段々と慣れてきたが、自分の中では紀子さんの事がずっと気がかりだった。でも紀子さんは私のことはもう忘れてしまったのではないか?と思って悩んだ。
ある日、意を決して紀子さんに会いに行くと、紀子さんは覚えていてくれ「おめぇ、体壊したってがぁ、何たら弱え。んでも早ぐ治して俺んどごさ来い」と言ってくた。私はうれしかった。私が弱いばっかりだと、紀子さんを悲しませるがら強くなんねばと、自分で勝手ながら誓った。
紀子さんとは直接には職場が離れた生活となったが、離れていても繋がることが出来た。オリオンから内線で「話したいから」と電話してくれたり、紀子さんがスタッフと遊びに来てくれたり。1、2ヶ月に一回は買い物に一緒に行ったりもした。
また毎年、恒例のケアハウス訪問(以前の住まい)も、施設長の計らいでご一緒させてもらった。毎回紀子さんの周りには、どんどんと友達やスタッフが集まり、しまいにはケアハウスの施設長も加わり、昔話で盛り上がった。「来る度に、一歳づつ若返っているようだね」と言われ、「おら、死なねぇよ!」と、笑顔で応えていたことを思い出す。紀子さんとは3回ケアハウス訪問に行ったが、確かに年々若くなっていく紀子さんを感じたものだった。私の誕生日に合わせて訪問日を決めてもらっていたので、今年も4回目を予定していたが、もうそれは叶わないことになった。
去年、紀子さんが食が進まず点滴を受けていた時期があった。私は紀子さんと買い物に行き、菓子パンを二人分買って一緒に食べた。紀子さんは「うめぇ、うめぇ」と喜んでほおばった。わたしが「紀子さん、喰えんじゃん」と、つっこみを入れると、紀子さんは「おめぇ、いだがらよう」と言ってくれたこともあった。
紀子さんが亡くなった当日、「どんと焼き」が行われる日だった。当日の朝は食欲がありとても元気そうだったという。どんと焼きも参加し、午後もおやつを食べて昼寝に入った。30分後、その昼寝のまま紀子さんは帰らぬ人となった。
その日の夜、私はお通夜に伺った。紀子さんの顔は穏やかで、寝ているようだった。今年に入り、私は紀子さんと会えずにいた。それが悔やまれた。私は紀子さんに「遅くなってしまった・・・」と、謝りながら最後の別れを告げた。
生前に紀子さんがよく「あどは、いつ死んでもいい」と言っていた。様々な体験をして、人生を語って死を受け入れる境地。紀子さんの人生95年のうち、私はたった4,5年しか一緒に暮らせなかったが、最期はホントに生き様の全てを理屈じゃなく、私の人生にしっかり刻んでくれたと思う。紀子さんとの出会いは、私の人生においても大きく暖か出会いだった。私のことを思ってくれて心配もしてくれた紀子さん。本当にありがとう。
キャッチボール★デイサービス 千枝悠久【2014年2月号】
「家では、テレビと相撲取ってら」
この言葉を義男さん(仮名)から聞いたのは、3年前の秋のことだった。今でも、この言葉が忘れられない。“家では特にすることがないから、コタツでテレビを見ている”という、特にどうということもない意味なのだが、義男さんの口から聞くと特別な言葉に私には聞こえた。
義男さんとの出会いは、4年前の夏。認知症で「学校に行かなければならない!」と家を飛び出すことが多く奥さんは困っていた。デイサービスでも午後になると、「部屋に行く!」と、デイサービス内や、隣のグループホーム内を探して歩くことが常だった。誰かれなく部屋を開けるので、入居者とケンカになってしまうことがよくあった。新人だったその頃の私は、そんな義男さんにただただ付いて歩くばかりだった。何を求めているのか、何を探しているのか、分からないままの旅だった。
午後から落ち着かなくなり歩き出して、時には諍いになるので、スタッフもいろいろ工夫して、一緒に歌を歌ったり、踊ったり、運動をしたり、書き物をしたりと義男さんを誘った。「部屋に行く!」は相変わらず続いていたけど、やがて義男さんの午後はたくさんの活動に彩られ、時には記録の活動内容の欄が書ききれない程になった。ともあれ、楽しそうに過ごしている義男さんを見て私もそれで安心していた。
春になると、ばっけやフキを採りに外に出た。もともと趣味が山菜採りだっただけあって、デイサービスに来ると、毎日ハリキって出かけた。“山歩きに慣れている”とはいえ、時々、急斜面でも果敢にアプローチするのでスタッフはハラハラさせられた。某有名栄養ドリンクのCMみたいになってしまうこともあったが、それでも、義男さんがやりたいと思うことを一緒にやりながら過ごす時間を大切にしたかった。
わからないままの義男さんの旅が、やりたいことを見つけ、自分で実行していることが私は嬉しく感じたし、救われる感覚もあった。分からないままの旅や必要のないケンカにエネルギーを使うのは虚しいが、急斜面に挑んでどんなにハラハラしようと、フキを採ってきた、あの、やりきった感のある笑顔を大事にしたいと思った。私もそんな時の義男さんの笑顔に救われた。
やがていつの頃からか、義男さんはデイサービスでみんなのことを笑わせてくれる、スターのような存在になっていた。義男さんが動けば、スタッフもハリキッて動く。義男さんから、楽しいこと、嬉しいこと、ビックリすること、ハラハラすること、いろんなことが生まれる。義男さんはそんな存在になっていった。
秋のある日のこと。ボールを棚から取り出した義男さんは、一人で、壁に向かってキャッチボールを始めた。“退屈なんだろうな、でもなにも一人でキャッチボールをしなくても”と思った私は、キャッチボールにつきあおうとテラスに義男さんを誘った。誘ったまではよかったが、私は今までの人生で、“キャッチボール”
ということをした経験がほとんどなかった。ボールを受け取って、投げ返す、ただの繰り返しだよな?と軽い気持ちで、なんとなくキャッチボールを始めた。しばらくは2人の間をボールがただ行き来するだけのキャッチボールが続いた。そのうち“あぁそういえば、こういうときって他愛もない会話をするんだっけな”と漫画やドラマで見たようなキャッチボールのイメージを思い出し、何気ない軽い気持ちで声をかけてみた。「義男さん、デイに来ない日は、家では何やってるんですか?」と。その時、返ってきたのが、冒頭の言葉だった。
たしか、その後もキャッチボールは続いていたと思う。他愛のない会話も、続けていたと思う。でも、私の心の中はその言葉にかき乱れていた。家では一人テレビをずっと見て過ごしている義男さん。みんなの輪の中にいて、笑いを巻き起こしている姿からはほど遠くて想像がつかない。その言葉から、義男さんの深い寂しさを感じて、いたたまれなくなった。
義男さんは、スタッフとのやり取りは多いけど、利用者さんとのやり取りはあまりなかった。なんでも楽しめて、どんどん動ける義男さんのエネルギーに、合わせられる利用者さんがいなかったということもあった。みんなを楽しませ、学校でみんなと遊ぶイメージの義男さんと、“仕事”のイメージで来ている男性利用者さんと反りが合わないこともあった。そんな寂しさから一人で壁を相手にキャッチボールを始めていたのだと感じた。今までの動きも寂しさから来ていたのかも知れない、それにスタッフが付いて歩く、それがこれまでのパターンだったのだ。
キャッチボールをした後から私は、義男さんと他の利用者さんとの関係が出来ないか、そんなことばかりを考えて、いろんな利用者さんと義男さんを一緒に、外へ誘ったり、話たりした。反りが合わなくて、ケンカになることもあったが、そんななか、利用者のキミさん(仮名)が義男さんの相手をしてくれるようになった。キミさんは、デイホールに歌声を響き渡らせていて、おやつ作りでも畑仕事でも、何でもテキパキこなす、凄いエネルギーの持ち主だ。これまであまりやり取りがなかった2人だったけど、オセロを通して2人の関係は深まっていく。
毎日のようにオセロをしている2人がいた。「また負けたぁ〜〜〜〜〜〜!!でも、負けても楽しい♪」とキミさん。「5つくらい、勝ったか」と控えめな義男さん。すごくテンポが速いオセロで、始まると、見ている人がついていけないくらいの速さで、2人だけの世界。キミさんはそのうち、義男さんのことを「ニーデウォーデファンズ♪(満州語で“あなたは私の彼氏”という意味らしい)」と言い始めた。そうなるとなんだかもう、義男さんにはキミさんしか関わっちゃダメ!みたいなそんな雰囲気まで出てきた。
私は、“テレビと相撲”の話を聞いたあの日から、義男さんとのキャッチボールはずっと続いていると感じている。時々、どこに飛んでいくのか分からないような球を投げてくることもある義男さん。消える魔球みたいなのだって投げてくる。そんな球を一つ一つ喰らいついてキャッチしながら、ずっとキャッチボールを続けて行きたいと思う。
この言葉を義男さん(仮名)から聞いたのは、3年前の秋のことだった。今でも、この言葉が忘れられない。“家では特にすることがないから、コタツでテレビを見ている”という、特にどうということもない意味なのだが、義男さんの口から聞くと特別な言葉に私には聞こえた。
義男さんとの出会いは、4年前の夏。認知症で「学校に行かなければならない!」と家を飛び出すことが多く奥さんは困っていた。デイサービスでも午後になると、「部屋に行く!」と、デイサービス内や、隣のグループホーム内を探して歩くことが常だった。誰かれなく部屋を開けるので、入居者とケンカになってしまうことがよくあった。新人だったその頃の私は、そんな義男さんにただただ付いて歩くばかりだった。何を求めているのか、何を探しているのか、分からないままの旅だった。
午後から落ち着かなくなり歩き出して、時には諍いになるので、スタッフもいろいろ工夫して、一緒に歌を歌ったり、踊ったり、運動をしたり、書き物をしたりと義男さんを誘った。「部屋に行く!」は相変わらず続いていたけど、やがて義男さんの午後はたくさんの活動に彩られ、時には記録の活動内容の欄が書ききれない程になった。ともあれ、楽しそうに過ごしている義男さんを見て私もそれで安心していた。
春になると、ばっけやフキを採りに外に出た。もともと趣味が山菜採りだっただけあって、デイサービスに来ると、毎日ハリキって出かけた。“山歩きに慣れている”とはいえ、時々、急斜面でも果敢にアプローチするのでスタッフはハラハラさせられた。某有名栄養ドリンクのCMみたいになってしまうこともあったが、それでも、義男さんがやりたいと思うことを一緒にやりながら過ごす時間を大切にしたかった。
わからないままの義男さんの旅が、やりたいことを見つけ、自分で実行していることが私は嬉しく感じたし、救われる感覚もあった。分からないままの旅や必要のないケンカにエネルギーを使うのは虚しいが、急斜面に挑んでどんなにハラハラしようと、フキを採ってきた、あの、やりきった感のある笑顔を大事にしたいと思った。私もそんな時の義男さんの笑顔に救われた。
やがていつの頃からか、義男さんはデイサービスでみんなのことを笑わせてくれる、スターのような存在になっていた。義男さんが動けば、スタッフもハリキッて動く。義男さんから、楽しいこと、嬉しいこと、ビックリすること、ハラハラすること、いろんなことが生まれる。義男さんはそんな存在になっていった。
秋のある日のこと。ボールを棚から取り出した義男さんは、一人で、壁に向かってキャッチボールを始めた。“退屈なんだろうな、でもなにも一人でキャッチボールをしなくても”と思った私は、キャッチボールにつきあおうとテラスに義男さんを誘った。誘ったまではよかったが、私は今までの人生で、“キャッチボール”
ということをした経験がほとんどなかった。ボールを受け取って、投げ返す、ただの繰り返しだよな?と軽い気持ちで、なんとなくキャッチボールを始めた。しばらくは2人の間をボールがただ行き来するだけのキャッチボールが続いた。そのうち“あぁそういえば、こういうときって他愛もない会話をするんだっけな”と漫画やドラマで見たようなキャッチボールのイメージを思い出し、何気ない軽い気持ちで声をかけてみた。「義男さん、デイに来ない日は、家では何やってるんですか?」と。その時、返ってきたのが、冒頭の言葉だった。
たしか、その後もキャッチボールは続いていたと思う。他愛のない会話も、続けていたと思う。でも、私の心の中はその言葉にかき乱れていた。家では一人テレビをずっと見て過ごしている義男さん。みんなの輪の中にいて、笑いを巻き起こしている姿からはほど遠くて想像がつかない。その言葉から、義男さんの深い寂しさを感じて、いたたまれなくなった。
義男さんは、スタッフとのやり取りは多いけど、利用者さんとのやり取りはあまりなかった。なんでも楽しめて、どんどん動ける義男さんのエネルギーに、合わせられる利用者さんがいなかったということもあった。みんなを楽しませ、学校でみんなと遊ぶイメージの義男さんと、“仕事”のイメージで来ている男性利用者さんと反りが合わないこともあった。そんな寂しさから一人で壁を相手にキャッチボールを始めていたのだと感じた。今までの動きも寂しさから来ていたのかも知れない、それにスタッフが付いて歩く、それがこれまでのパターンだったのだ。
キャッチボールをした後から私は、義男さんと他の利用者さんとの関係が出来ないか、そんなことばかりを考えて、いろんな利用者さんと義男さんを一緒に、外へ誘ったり、話たりした。反りが合わなくて、ケンカになることもあったが、そんななか、利用者のキミさん(仮名)が義男さんの相手をしてくれるようになった。キミさんは、デイホールに歌声を響き渡らせていて、おやつ作りでも畑仕事でも、何でもテキパキこなす、凄いエネルギーの持ち主だ。これまであまりやり取りがなかった2人だったけど、オセロを通して2人の関係は深まっていく。
毎日のようにオセロをしている2人がいた。「また負けたぁ〜〜〜〜〜〜!!でも、負けても楽しい♪」とキミさん。「5つくらい、勝ったか」と控えめな義男さん。すごくテンポが速いオセロで、始まると、見ている人がついていけないくらいの速さで、2人だけの世界。キミさんはそのうち、義男さんのことを「ニーデウォーデファンズ♪(満州語で“あなたは私の彼氏”という意味らしい)」と言い始めた。そうなるとなんだかもう、義男さんにはキミさんしか関わっちゃダメ!みたいなそんな雰囲気まで出てきた。
私は、“テレビと相撲”の話を聞いたあの日から、義男さんとのキャッチボールはずっと続いていると感じている。時々、どこに飛んでいくのか分からないような球を投げてくることもある義男さん。消える魔球みたいなのだって投げてくる。そんな球を一つ一つ喰らいついてキャッチしながら、ずっとキャッチボールを続けて行きたいと思う。
命のマグロ握り★特別養護老人ホーム 三浦元司【2014年2月号】
私が銀河の里に来てまもなく4年が経つ。その間、多くの利用者さんとの出会いと別れがあった。利用者ひとりひとりのストーリーと共に日々を過ごしながら、それぞれの個性あるターミナルも経験してきた。若者を育て、大事な何かを伝えながら最後まで生き抜く姿をみせていただいたことはただ感謝しかない。パワフルに歩いていた方々が今では車イスを使用していたり、言葉を発する事ができなくなっていたりと、時の経過を感じるが、その“老い”や“認知症”のパワーやエネルギーのおかげで、自分も鍛えられ成長してきたと実感している。本当にありがたいことだと感じる。
ユニットすばるの“チーム90”の先駆けのユキさん(仮名)は、暮れから「そろそろターミナル期でユニットでどう寄り添うか」という局面を迎えた。これまで何度もユキさんとの勝負を重ねて展開してきたが、92歳の冬にいよいよか・・・と感じられた。
ユキさんは11月まで、嘔吐が毎日のようにあった(先月号の三浦の記事を参照)が、12月中旬に肺炎で体調を崩し、絶食で点滴の日々が続いた。その間も、ユキさんはひたすら居室で叫んでいた。これまでの「ご飯ください!オラ朝からなんも食わせらんねぇもん!べちゃべちゃーっとしたおかゆばり!!」というエネルギッシュな叫びとは違って、泣きながら、「頼む〜!ぺーっこでいいから、井戸の冷たい水が飲みたい・・・ひしゃくでパァーっと飲みたい、持ってきてけろ〜!」と頼み込むような感じになった。スタッフは頻繁にユキさんの居室に通い、声を掛けたり一緒に寝ころんだりして過ごしたが、点滴絶食はしばらく続き、次第にユキさんは衰えていった。
年末には、点滴は一日おきになり絶食も解除されたので、「ユキさんとどんなおいしい物を食べようかな」と絶食中から考えていたユニットのスタッフは「マルカンデパートで寿司を食べよう」と盛り上がった。
ところが新年を迎え、おせち料理やお餅などの御馳走が並んでも、以前とは様子が違った。まず、「ご飯ください!」と叫ばなくなり「オラ食ったもん、後で食べる」と言って食事にならなかった。「ユキさん、一緒に食べようよ!おいしいの作ったんだよー!」とリビングに誘っても、すぐに車いすを自走して居室へ戻ってベットに横になってしまった。
自分から「食べる」とリビングに出てきた時でさえ、なかなか箸をつけず、長いときには30分以上も食事を前に、黙って座っていた。ようやく箸を付けたかと思うとすぐに「うっぷ」と喉に引っかかって吐いてしまったりすると、「食わない」と居室に戻ってしまうのだった。
今までは、食事に文句をつけた上で、猛スピードで口にかきこみ、「うぅっぷ、おぇーー!」と豪快に嘔吐し「もう食いたくね!こんなベちゃーとしたの!」と食事の皿を手で払い除ける。しかも少しすると皿を手元に戻してまた食べ始める・・・といった過激なスタイルだった。しかし、肺炎以降は、一日の食事量はほんのわずかになり、水分も500cc飲めたら良い方といった感じになった。口にするのは厨房の特製甘酒とみかんの缶詰だけで痩せていった。この頃は、厨房の食事と特製甘酒の中からユキさんが飲み込めるものだけを与えていたに過ぎなかった。
ユニット会議で話し合っても、出てくるのは、現状についてばかりで「ユキさんとどうしたいの? 何がしたいの?」という見通しは出てこなかった。特に私は、喉に詰まらせて苦しそうにしているユキさんを見るのが辛くて、不安から何もできなかった。
理事長などから、様々な観点で、これまでのユキさんのプロセスから、今の意味を捉えようと話があったが、まったく私には入ってこないまま、ユキさんがこのまま死んでしまうんじゃないか・・・という怯えだけが残った。
その数日後、やはり満足に食べれないまま寝ているユキさんの横で私は顔をただ見ていた。目が覚めると私の方をチラチラと見て「オラばりなんも食わせらんねぇもん」と小さくつぶやいた。
私は「俺だってユキさんにはおいしいご飯食べて欲しいよ」と思っていたのだが、だんだんに「オラばりなんも食わせらんねぇもん」が、「オラは大好きなマグロが食いたいんだもん」と言っているように聞こえてきた。「わかった!マグロ買ってくる!ユキさんの目の前で俺がマグロのお寿司作るから!今晩一緒に食べよう、約束だぞ!」と勝手に約束した。「オラ、マグロなんか食いたくない!」と言うユキさんを後ろに「約束だかんな!」と言い放って私はマグロを買いに出かけた。
夕方「約束通りマグロ買ってきたよ!お寿司にするから一緒に食べようよ!」と言うと「オラ、食ったもん」とふてくされた表情で布団を深く被るユキさん。しつこく誘い続けると、ようやく起きてくれた。そこでさっそくユキさんの目の前で寿司屋を始める。柔らかいご飯で2センチほどの小さいシャリを握り、極薄に切ったマグロを3センチほどにカットして握った。初めのうちは「オラ、いらねっちゃ」と言っていたが、しばらくするとひとつ、箸でつかみ醤油を付けて口に運んだ。「うまぐね!」と言う。やった、これが出れば本調子だ。まったく咽せ込みもなく6カンを食べてくれた。おまけに「食べるっか?」と1カンを私に分けてくれる余裕のユキさん。この瞬間、私のなかの不安や怖さが吹き飛んだ。翌日も残りのマグロを醤油で漬けて出すと、ユキさんは「うまぐね!」と言いつつ完食した。
それから、ユキさんの夕食にはマグロの刺身が付くようになった。厨房でユキさん用のマグロを注文してくれて、おいしいマグロをユニットの冷蔵庫に入れてもらった。ユキさんは一週間、マグロを食べ続けるうち、食事量もだんだんと戻ってきた。
しかしそこで疑問を持った。「食べられるかどうか分からないけど、ユキさんにマグロを食べてほしい」という想いと、「マグロなら食べられるので、新鮮なものを冷蔵庫に用意しておき、毎夕食に出して様子を見る」という対策との違いを感じたのだ。
マグロはスズキ目サバ科マグロ属に分類され、100gあたり144kcalと栄養素も決まっている。食べれば、ユキさんのエネルギーとなるのは確実だ。ただそれでも、“ユキさんと一緒に食べたいマグロ”と、しなければならない“栄養摂取”とは、まったく別物ではないのか。
マグロは、いつの間にか味気ないものになってしまっていた。厨房が購入・加工・提供したマグロが、ユニットの冷蔵庫に入り、ユニットスタッフが夕食の直前に冷蔵庫を開ける。その時に「マグロがあるなぁ」と気がつき、そのマグロをお皿にのせてユキさんに出す。なんだか、どこか大切な想いというか、命が抜けてしまっているようで気になった。実際、ユキさんはそのマグロを食べて食欲が戻り、結果、栄養摂取できて元気になり「ご飯くださーい!」と大声で叫んでいる。結果オーライ・・・でも、どこか違和感があった。
“栄養価も高くおいしくて飲みやすい甘酒”というのを、栄養士が試行錯誤しながら力を注いで作ってくれている。実際、私が飲んでみても、おいしいし飲みやすくて「あの人にこの甘酒を飲んでもらいたい!」という想いがあるのはすばらしい。しかし「食事摂取量が少ないからカロリーを取るための甘酒」となってしまうとおもしろくなくなる。物語りの違いだ。栄養士の想いと、介護スタッフの想いが重なり最初から最後まで「あの人に飲んでもらいたい」がなければつまらない。手作りじゃなくてもコンビニの甘酒でも変わらないと思う。たぶんコンビニの甘酒ではエネルギーにはなるが、生きる力には繋がらないような気がする。
亡くなられる利用者さんの多くは、だんだん食べられなくなり息を引き取られる。その、だんだん食べられなくなっていく時にこそ、大事な何かがある。その時間には、利用者と私たちの葛藤や不安があり、しんどいながらも特別な“食”がある。「炊きたてご飯の上に手作りの麹納豆」とか、「ソフト食は食べられないが、味噌パンならなんとか食べてくれる」、「小さい冷蔵庫の中の筋子」など、利用者ひとりひとりとの“あなたと私の関係”を土台に、ユニットの冷蔵庫は食材と手料理が埋まっていたはずだった。
今は、どこのユニットの冷蔵庫もスカスカで「あなたと食べたいコレ!」というのがなくなっている。特養に限らず、家庭でも同じような現象は起こっているような気がする。食材をたくさん買って、冷蔵庫につめてあればいい訳ではないが、冷蔵庫を開ければ、人の関係がよく見えるのも確かなことだ。
2月に入り、ついこないだまで心配をしていたことなんて、なかったかのようにモリモリと食べ、元に戻りつつあるユキさん。一安心だが、ユキさんと食べたいコレ!という関係がなくなったらつまらない。ユニットすばるの冷蔵庫が、“あなたと私の関係”で膨らんでいれば、生きることがもっとおもしろくなってくるように感じる。生きる力に繋がるようなマグロの握りをいつも一緒に食べたい。
ユニットすばるの“チーム90”の先駆けのユキさん(仮名)は、暮れから「そろそろターミナル期でユニットでどう寄り添うか」という局面を迎えた。これまで何度もユキさんとの勝負を重ねて展開してきたが、92歳の冬にいよいよか・・・と感じられた。
ユキさんは11月まで、嘔吐が毎日のようにあった(先月号の三浦の記事を参照)が、12月中旬に肺炎で体調を崩し、絶食で点滴の日々が続いた。その間も、ユキさんはひたすら居室で叫んでいた。これまでの「ご飯ください!オラ朝からなんも食わせらんねぇもん!べちゃべちゃーっとしたおかゆばり!!」というエネルギッシュな叫びとは違って、泣きながら、「頼む〜!ぺーっこでいいから、井戸の冷たい水が飲みたい・・・ひしゃくでパァーっと飲みたい、持ってきてけろ〜!」と頼み込むような感じになった。スタッフは頻繁にユキさんの居室に通い、声を掛けたり一緒に寝ころんだりして過ごしたが、点滴絶食はしばらく続き、次第にユキさんは衰えていった。
年末には、点滴は一日おきになり絶食も解除されたので、「ユキさんとどんなおいしい物を食べようかな」と絶食中から考えていたユニットのスタッフは「マルカンデパートで寿司を食べよう」と盛り上がった。
ところが新年を迎え、おせち料理やお餅などの御馳走が並んでも、以前とは様子が違った。まず、「ご飯ください!」と叫ばなくなり「オラ食ったもん、後で食べる」と言って食事にならなかった。「ユキさん、一緒に食べようよ!おいしいの作ったんだよー!」とリビングに誘っても、すぐに車いすを自走して居室へ戻ってベットに横になってしまった。
自分から「食べる」とリビングに出てきた時でさえ、なかなか箸をつけず、長いときには30分以上も食事を前に、黙って座っていた。ようやく箸を付けたかと思うとすぐに「うっぷ」と喉に引っかかって吐いてしまったりすると、「食わない」と居室に戻ってしまうのだった。
今までは、食事に文句をつけた上で、猛スピードで口にかきこみ、「うぅっぷ、おぇーー!」と豪快に嘔吐し「もう食いたくね!こんなベちゃーとしたの!」と食事の皿を手で払い除ける。しかも少しすると皿を手元に戻してまた食べ始める・・・といった過激なスタイルだった。しかし、肺炎以降は、一日の食事量はほんのわずかになり、水分も500cc飲めたら良い方といった感じになった。口にするのは厨房の特製甘酒とみかんの缶詰だけで痩せていった。この頃は、厨房の食事と特製甘酒の中からユキさんが飲み込めるものだけを与えていたに過ぎなかった。
ユニット会議で話し合っても、出てくるのは、現状についてばかりで「ユキさんとどうしたいの? 何がしたいの?」という見通しは出てこなかった。特に私は、喉に詰まらせて苦しそうにしているユキさんを見るのが辛くて、不安から何もできなかった。
理事長などから、様々な観点で、これまでのユキさんのプロセスから、今の意味を捉えようと話があったが、まったく私には入ってこないまま、ユキさんがこのまま死んでしまうんじゃないか・・・という怯えだけが残った。
その数日後、やはり満足に食べれないまま寝ているユキさんの横で私は顔をただ見ていた。目が覚めると私の方をチラチラと見て「オラばりなんも食わせらんねぇもん」と小さくつぶやいた。
私は「俺だってユキさんにはおいしいご飯食べて欲しいよ」と思っていたのだが、だんだんに「オラばりなんも食わせらんねぇもん」が、「オラは大好きなマグロが食いたいんだもん」と言っているように聞こえてきた。「わかった!マグロ買ってくる!ユキさんの目の前で俺がマグロのお寿司作るから!今晩一緒に食べよう、約束だぞ!」と勝手に約束した。「オラ、マグロなんか食いたくない!」と言うユキさんを後ろに「約束だかんな!」と言い放って私はマグロを買いに出かけた。
夕方「約束通りマグロ買ってきたよ!お寿司にするから一緒に食べようよ!」と言うと「オラ、食ったもん」とふてくされた表情で布団を深く被るユキさん。しつこく誘い続けると、ようやく起きてくれた。そこでさっそくユキさんの目の前で寿司屋を始める。柔らかいご飯で2センチほどの小さいシャリを握り、極薄に切ったマグロを3センチほどにカットして握った。初めのうちは「オラ、いらねっちゃ」と言っていたが、しばらくするとひとつ、箸でつかみ醤油を付けて口に運んだ。「うまぐね!」と言う。やった、これが出れば本調子だ。まったく咽せ込みもなく6カンを食べてくれた。おまけに「食べるっか?」と1カンを私に分けてくれる余裕のユキさん。この瞬間、私のなかの不安や怖さが吹き飛んだ。翌日も残りのマグロを醤油で漬けて出すと、ユキさんは「うまぐね!」と言いつつ完食した。
それから、ユキさんの夕食にはマグロの刺身が付くようになった。厨房でユキさん用のマグロを注文してくれて、おいしいマグロをユニットの冷蔵庫に入れてもらった。ユキさんは一週間、マグロを食べ続けるうち、食事量もだんだんと戻ってきた。
しかしそこで疑問を持った。「食べられるかどうか分からないけど、ユキさんにマグロを食べてほしい」という想いと、「マグロなら食べられるので、新鮮なものを冷蔵庫に用意しておき、毎夕食に出して様子を見る」という対策との違いを感じたのだ。
マグロはスズキ目サバ科マグロ属に分類され、100gあたり144kcalと栄養素も決まっている。食べれば、ユキさんのエネルギーとなるのは確実だ。ただそれでも、“ユキさんと一緒に食べたいマグロ”と、しなければならない“栄養摂取”とは、まったく別物ではないのか。
マグロは、いつの間にか味気ないものになってしまっていた。厨房が購入・加工・提供したマグロが、ユニットの冷蔵庫に入り、ユニットスタッフが夕食の直前に冷蔵庫を開ける。その時に「マグロがあるなぁ」と気がつき、そのマグロをお皿にのせてユキさんに出す。なんだか、どこか大切な想いというか、命が抜けてしまっているようで気になった。実際、ユキさんはそのマグロを食べて食欲が戻り、結果、栄養摂取できて元気になり「ご飯くださーい!」と大声で叫んでいる。結果オーライ・・・でも、どこか違和感があった。
“栄養価も高くおいしくて飲みやすい甘酒”というのを、栄養士が試行錯誤しながら力を注いで作ってくれている。実際、私が飲んでみても、おいしいし飲みやすくて「あの人にこの甘酒を飲んでもらいたい!」という想いがあるのはすばらしい。しかし「食事摂取量が少ないからカロリーを取るための甘酒」となってしまうとおもしろくなくなる。物語りの違いだ。栄養士の想いと、介護スタッフの想いが重なり最初から最後まで「あの人に飲んでもらいたい」がなければつまらない。手作りじゃなくてもコンビニの甘酒でも変わらないと思う。たぶんコンビニの甘酒ではエネルギーにはなるが、生きる力には繋がらないような気がする。
亡くなられる利用者さんの多くは、だんだん食べられなくなり息を引き取られる。その、だんだん食べられなくなっていく時にこそ、大事な何かがある。その時間には、利用者と私たちの葛藤や不安があり、しんどいながらも特別な“食”がある。「炊きたてご飯の上に手作りの麹納豆」とか、「ソフト食は食べられないが、味噌パンならなんとか食べてくれる」、「小さい冷蔵庫の中の筋子」など、利用者ひとりひとりとの“あなたと私の関係”を土台に、ユニットの冷蔵庫は食材と手料理が埋まっていたはずだった。
今は、どこのユニットの冷蔵庫もスカスカで「あなたと食べたいコレ!」というのがなくなっている。特養に限らず、家庭でも同じような現象は起こっているような気がする。食材をたくさん買って、冷蔵庫につめてあればいい訳ではないが、冷蔵庫を開ければ、人の関係がよく見えるのも確かなことだ。
2月に入り、ついこないだまで心配をしていたことなんて、なかったかのようにモリモリと食べ、元に戻りつつあるユキさん。一安心だが、ユキさんと食べたいコレ!という関係がなくなったらつまらない。ユニットすばるの冷蔵庫が、“あなたと私の関係”で膨らんでいれば、生きることがもっとおもしろくなってくるように感じる。生きる力に繋がるようなマグロの握りをいつも一緒に食べたい。
暴力について2★理事長 宮澤健【2014年2月号】
福祉施設では、かなりの虐待が起こっていると思われるが大半は表に出ない。親身な介護ほどバーンアウトが起こりやすく、殺人や心中などの事件の報道も時折ある。人間は暴力を内に秘めており、これらは誰にも起こり得るのではないか。しかし問題が表面化すると、往々にして個人の特質の問題としてかたづけられる傾向がある。人は支援関係のなかで、自らの暴力を相当引き出されやすい状況に置かれる。前号で、銀河の里の構想は、障害者支援の現場で暴力に荒れた地獄を経験したことから始まったと述べたが、暴力が個人レベルを超え、組織全体に蔓延することも希なことではない。
自らの暴力を意識し、その暴発を免れるためには何が求められるのかを真剣に考えなければならないが、福祉現場ではそうした課題はほとんど意識されることなく、向きあうことを避けているのが現状であろう。
これまで、ひどい施設や、福祉関係者のとげとげしい人間性を多々見てきた。共通しているのは怒り、いらだち、傲慢、横柄といった態度だ。社会性を失い、他者を傷つける姿勢が日常化し、暴力体質に染まってしまう。自分の家族や地域で不快な日常にならないのだろうかと心配になるのだが、人格を入れ替え、仮面を脱ぎ変えているようだ。「暴力の凡庸」と言われるように、善良で実直な人こそ暴力の体現者になり得る。
里で授産施設を開設した平成16年、事業団の施設からも利用者がやってきた。彼らは個々の課題や問題を抱えながらも、それに対する眼差しがあまり向けられておらず、萎縮し怯えているように感じた。当初、怯えたり泣いたりしてなかなか仕事が手につかない人も何人かいた。また、やっきになって恋人を作ろうとする人もいた。出会い系など危ない場面にもなるので、スタッフが後をつけたりしなければならない事もあった。話を聞くと、事業団の施設では恋愛絶対禁止だったと言う。「恋愛は許さない。出てから好きなだけやれ」と言われたという。その言葉通り、「出たからがんばりたい」と言うわけだ。恋愛など、人間の基本的な感情を制限するのは恐れ多い事だが、問題が起きないよう管理するという姿勢が強くてそうなるのだろう。久しぶりに施設を尋ねたとき、玄関を入ったとたんに、腰が抜けて歩けなくなった利用者もいたので、本人にとっては、相当厳しい場所だったのではないだろうか。
また新人スタッフに、利用者3人がすがりついたこともあった。高見に立って見下す人間かどうか、利用者は特に敏感だ。安心して甘えられると解り、必死でしがみついた感じだった。ただ新人スタッフからすると、3人同時はきつかった。そこで私が3人の内の一人Aさんを担当して面談を開始した。彼女は面談を楽しみにして、毎週欠かさずやってきた。父親を17歳で亡くして、親族との縁も薄れ身寄りのない状態だった。能力はあるのに集中力がなくて、どんな作業も5分と持たなかった。コミュニケーション能力は高く、誰にも親しく話しかけるのだが、見捨てられ不安がつのるのか、相手の反応の前にいなくなってしまうような不自然さがあった。彼女のアプローチは、これまで誰かにきちんと受けとめられた経験がないように感じられた。
面接で彼女は、絵を描いたり箱庭を作ったりした。最初の箱庭作品は、高い山の頂上に鮫を一匹置おいた印象的な作品だった。彼女の持つエネルギーが山頂で喘いでいるような、孤独な感じが痛々しく伝わってきた。
面談では、幼少時から心で叫び続けてきたであろう「お母さんに会いたい」という素直な言葉を伝えてくれた。彼女の運命に対する言葉と受け止めた。現実には、お母さんに会える訳もなく、会ったとしても傷つくリスクの方が大きいと思われたが、心のお母さん捜しが始まった。お父さんは数年前に亡くなっており、たよりはお婆さんだった。彼女の住んでいるグループホームを運営する事業団の施設の担当者に相談をしたが、にべもなく「会わない方がいい」と言われた。理由は折り合いが悪いからだと言う。それではAさんの気持は、宙づりになるので、納得できなかった。お婆さんの住所地の役所に連絡すると丁寧に対応してくれて、元の住所地には誰も住んでいないとの事だったが、入院している病院を調べてくれた。しかしそこはすでに転院しており、再び調べて、現在入院中の病院がわかった。お婆さんの居場所を見つけるまで3ヶ月かかった。
早速お婆さんの面会に行くことになったが、折り合いが悪くて会ってくれないかとの心配もあった。しかしお婆さんは再会を涙をこぼして喜んでくれた。Aさん人に迷惑をかけないように諭し、付き添った私には丁寧に挨拶された。最後にお母さんの連絡先をAさんがおずおずと尋ねると、お婆さんはいきなり厳しい口調で「お前、身ぐるみはがされるぞ」と言った。Aさんと私は、その迫力に驚いた。
この経緯はAさんのグループホームの関係者に連絡し、細かい内容も文書で報告をしたが、反応はなかった。しかも面会の翌日、Aさんは「これからは一人で行くように」と叱られたという。交通機関を使って一人で行けなくはないが、細かい説明を伝えるのは困難だった。こちらと連携もとらず、裏で利用者本人に圧力をかける姿勢が信じ難かった。
ここでケース会議を申し込む場面だったが、連携を取れる感じもなく、一方的に「折り合いが悪いから会わない方がいい」とか、「甘えるな、一人で行け」と叱る態度に、人間としての嫌悪と不気味さを感じて、その気にならなず、お婆さんとの面会は相手側施設には伝えないで行くことにした。
夏になって、Aさんから「お父さんのお墓参りに行きたい」という話が出た。墓所をお婆さんに聞くと、お婆さんは「私も行きたいから案内する」とのことだった。病院から外出許可をもらい、出かけることになった。ところが出かける前日の夜になって、Aさんから電話が入り「行けなくなった」と言う。本人は泣いて話にならなず、グループホームの友達が代わって「行けない」と言う。どうやら内緒で出かけるようで心苦しかったのか、お墓参りに行くことを支援員に話したらしい。支援員は激怒して「こんな前日に急に何をいうのか、予定は早く出しなさい。お金も準備できないし、墓参りについては、聞いていない勝手な行動じゃない?」と言われたようだった。それをグループホームの利用者の友達に頼んで、電話で伝えて来たのだった。墓参りは中止になってしまった。この機会は、お婆さんと出かける最後のチャンスだった。翌年の夏にはお婆さんは寝たきりになり、認知症も進んで、お墓参りができる状態ではなくなった。
Aさんが板挟みで苦しんでいるため、ケース会議の開催を要請した。ところがなかなか応じてくれない。「何か問題があるんですか。こちらでは何も問題はありませんよ」と怒り口調だったが、施設間で連携をとらなければならないと押し通した。当日やってきた3人の支援員はかなり不機嫌だった。会議に臨むその態度は、社会的に許されないだろうと感じるほど居丈高だった。上司から「きちんと筋を通せ」と言って来るように言われたと、まるでそのスジの人ような物言いだった。
会議ではAさんにとって、「お母さん捜しもお墓参りもとても大切なことだ」と理解を求めたが、通じなかった。「何をしたいのか知りませんが、彼女はもう27歳だから、何をやっても人格は変わりません。無駄ですよ」と言い切る。何という暴言かと怒りが込み上げる。「私共は認知症高齢者とも生活をしていますが、100歳近い方達でも人間的な変容を感動を持って見せてくれます。ましてや若い彼女の可能性は大きいし、今抱ている課題を乗り越えていきたい」と伝え、今後は定期的な会議を持ちたいと要請した。
ところが、その翌日からAさんに対して、面談をやめるように迫る執拗な圧力がかけられた。「余計なことを言うんじゃありません」「甘えるんじゃありません」「面談をやめなさい。やめないんだったら、出て行きなさい」と毎日のように責められた。そのことを誰にも言えずAさんは、さらに板挟みで苦しんだ。身寄りのないAさんに「出て行きなさい」は、厳しい。それでもAさんは、面談をやめなかった。当時の彼女にとって面談は、命綱のようなもので、決して離せないものだったと思う。私は裏で行われているそうした動きに気がつけなかった。
その頃、Aさんと車で県の振興局の前を通りかかった。突然彼女がビクッと体を震わせて「ここに連れてこられて、いろいろ聞かれた」と言う。何を聞かれたのか、はっきりしなかったが、とてもつらいことがあったような様子だった。同じ時期に、Aさんとラーメン屋で食事をしていたとき、50代くらいの女性が入って来ると支援員かと怯えるので「嫌なの?」と聞くと、「怒る」と言った。
そうした矢先、県の振興局福祉部から福祉部長と課長がやってきた。「利用者が面談中にセクハラを受けているとの訴えがあったので、やめるように」と言うので驚いた。恋愛絶対禁止の中で、誰かを好きになると「セクハラをされた」と、ごまかして逃げてきた彼女の手法があったのだろう。誰にでも体をすり寄せ、愛着を示す当時の行動も、目をつけられ怒られていたに違いない。セクハラは、彼女なりの叱られないための言い逃れだった。
その言葉を施設側は利用し「面接でセクハラを受けている」と県に訴えた。3ヶ月執拗に面談をやめろと圧力をかけ続けても、やめようとしない彼女に業を煮やし、言葉尻を捉えて、でっち上げた感じだった。県では本人を呼んで調査をしたのだろうが、本人にとっては、取り調べを受けたに等しく、嘘がばれたような苦しい状態に追い詰められた。建物の前を通りかかったとき震えて、「ここ嫌だ」と言った理由がそこにあった。
県に対しては、とんでもない誤解で、きちんと調査し直すように求めたが、全く動かなかった。施設長が、相手施設の施設長に「なぜ施設長間で事実の確認や話し合いもせずに、いきなり県に上げたのか」と抗議し、県を入れて話し合いの場を持つように要請した。相手施設長は「いきなり県に上げたのは、間違いだった」と謝罪し、3者の会議を持った。会議で「なぜ執拗に面談をやめるよう裏で圧力をかけたのか」と問い詰めると、担当者は「大人として、自立してほしかった」と、もっともらしい返答だった。Aさんからすればイジメを受け続けた状態なので、深く傷つき、担当者との折り合いが悪すぎると指摘すると、折り合いが悪いことを担当者本人が認め、相手施設長も担当を替えることを約束した。セクハラ騒ぎはこれで解決し、県の誤解も解けたと感じ、今後はケース会議を定期的に持つよう相手施設に再度要請した。
ところが、その後も県では「セクハラはあった」という立場を改めない。事実と違うと再三申し入れたが、現在も公式記録には「事件性はないがセクハラはあった」ということになっている。3者会談の後、本庁の福祉部長と課長が尋ねて来たのが、どうやら謝罪の意味になっているらしい。本当のことはみんな分かっているから、これ以上追求しないで穏便にという訳で、「あのとき行ったでしょ」と県は言うのだが、私は間違いを認め取り消すべきだと主張するので、折り合わない。Aさんを傷つけ苦しめたのは事実だから、県と施設側は本人にも謝罪すべきだとの主張にも、謝罪はしないと言い切ってきた。
県の適正化委員会はさらにお粗末だった。この件で3度ほど相談を申し入れた。特に1度目は最悪で、利用者が板挟みで苦しんでいるから調整を頼みたいと依頼したのだが、事務長は相手側の施設と連絡を取ったようで、里に居丈高に電話をしてきた。「おまえの施設は、支援計画など整備しているのか」と追求口調だった。私はそれを聞いて折り返し適正化委員会は県や事業団側に一方的に味方する姿勢じゃなく、「苦しんで困っている利用者の立場に立って調査すべきだろう」と抗議した。すると事務長は話の途中で、一方的に電話を切った。社会人としてその態度は非常識だろうと再度電話して卑怯ではないかと抗議すると「受話器が、滑って落ちたんだよ!」と叫んだ。大人のやりとりではない。
その後も何度も適正化委員会には調整を申し入れたが、障害者本人の苦しい立場や、傷ついた心に寄り添う対応は一度もなかった。最後は適正化委員会は関わらないという逃げで終わる。理由が本人に意向調査を行ったが、「何も問題はない」と本人が言ってるので、動けないと言うのだった。Aさんが怖がっている支援員から、「調査員が来るから話すように」と伝えても、Aさんとしては話せる訳がない。これまた粗末な対応だ。
その後、Aさんとの面談に圧力をかけられることはなくなり、面談は6年続き昨年終了となった。面談が終了になった理由はいろいろあるが、生まれた故郷で、お母さんの住んでるはずの横浜に行けたこと、お母さんのイメージを投影できるスタッフと出会えたこと、お墓参りを実現し、お父さんの死へのモーニングワークなど多くのことをやりきった事が挙げられる。結果的に、利用当初は集中力がなく5分と続かなかった仕事が、今は一日余裕で働けるようになった。何より施設で怒られなくなり、安心感が持てるようになったことは本人には大きいと思う。セクハラ騒動の時期は、職員がピリピリして話ができる感じではなかった。Aさんも怒られるのではないかと恐れて常にビクビクしていた。里の担当スタッフもセクハラ騒ぎで精神的にまいり、相手施設の職員と電話で話すことが嫌で、担当を降りて部署を変わった。後を引き継いだスタッフにも、相手施設の居丈高に責める態度は続いた。
Aさんの生まれ故郷の横浜に、前任と、引き継いだ二代の担当
者と私の4人で旅行に行く計画をたて、Aさん本人も楽しみにしていたのだが、実現するまでには相手施設の担当者からかなりの抵抗を受けた。父親の墓参りも、一泊の里帰りも本人の強い希望だったが、「なんでそんな一人だけ特別扱いをするのか」と抵抗が入った。Aさんからすれば、怒られるのが怖くて言えないだけで、なんでも言える関係や雰囲気があれば、いろいろやりたいこと、やらねばならないことがたくさんあった。相手側担当者にすれば、それは受け入れられないことのようだった。
相手側施設は、何度も「なぜ特別扱いするのか」と責め、「おたくでは、こういう特別扱いを平等にされてるんですか」と、施設のトップの言葉に呆れた。「ひとりひとり全員を特別扱いしています」と応えたが、通じなかっただろう。視点が違いすぎるのだ。
Aさんの事例の概要を記述したのは、お粗末な現状を訴えたいからではない。ここで考えたいのは人間に潜む暴力についてだ。特徴的な高圧的な態度と、ヒステリックないらだちにまいってしまう。かつて日本の軍隊にもそうした傾向を帯びた時期があったのではないだろうか。虐殺やホロコーストもそうした雰囲気を伴って生まれてくるように感じる。上からの視点で見ると、命に関することは大半のことが見えなくなる。個々の運命、気持やこころ、たましいなどは完全に抜け落ちる。話が合って通じるのが芸術家だったりするのは、芸術や美術は上からの視点では成り立ちえないからだと思う。
里では高齢者部門で、よその施設で断られた利用者を多く受け入れてきた歴史がある。よその施設で断られたケースに実際会うと、難しいことはほとんどなくて、むしろ興味深くて面白い人の場合がほとんどだ。要は個性的な人は管理になじまないからダメとされるだけで、個々の人間性や性格、想いに関心を持てばむしろ魅力に満ちた人なのだ。一般的な施設ではおとなしい人が管理上助かるということなのかもしれない。暴れたり、怒ったり、歩いたりする人はもちろん、帰ると言っただけでもダメだったり、冷蔵庫を開ける程度でも断られてしまう。そこからその人の世界が広がるのにもったいないと感じる。
一人の人間、人生を関心を持って見つめられるかどうかは、かなり決め手のように感じる。その奥にさらに心、魂など見えないものまで見つめようとしていく姿勢があることで、暴力からの守りになって行くのではないだろうか。平等などと、十把一絡げで管理しようとするのは、かなり危険な状態にあるとみていいだろう。映画『戦場のメリークリスマス』:原作『影の獄にて』は日本軍の捕虜となったイギリス兵が、粗暴で嫌われ者の軍曹を「ただの悪人じゃない」と見抜き、そこに友情が生まれるという物語だが、これも人間の個を見つめることで暴力を克服するような話ではないだろうか。暴力は誰しもが内包し、避けがたいが、個性、個人、心、魂と深めていくことで自らの暴力の渦に呑み込まれるのを回避できる方向が出てくるように感じる。
運命への「畏敬」も大事だ。障害を背負うことは運命を背負って生きることだ。それは重要な事であって、運命を背負うことに対する「畏敬」を持つ必要があると思う。あらゆるケースには霊性が宿っているとの認識と、そのことに深く頭を垂れる姿勢を学ぶべきだ(秋山さと子先生)との指摘もあった。そうしたことが感じられないと、誰もが傲慢になり、苛立ちと怒りを、弱さに向けて露わにする方向に行く。かなり意識し覚悟しないとそっちに流されてしまう。
平等などと言う概念で、それぞれの広大な宇宙に繋がる通路を絶ち、個を単なる管理の単位に押しつぶす行為は極めて暴力的な支配といわざるをえない。生のプロセスの多様性も、死の独自性も描かれることなく塗りつぶされる支配からの解放は必須だ。危ういのは、覚悟して戦わなければ、いつの間にか暴力の片棒を担ぐ側に必然的になってしまうということだ。
何を見つめるのかそれが重要なのかもしれない。極めて単純に言えば上から見るのではなく繋がって見ることが大事なのだと思う。上から見れば平等に管理するくらいしか考えられないが、繋がった通路の向こうには、広大な宇宙が広がっている。いつの間にか関係を切断する上からの目を人間は持つ傾向がある。それはわかりやすく効率的かも知れないが、上から見る限り、そこに暴力は確実に忍び寄る。
自らの暴力を意識し、その暴発を免れるためには何が求められるのかを真剣に考えなければならないが、福祉現場ではそうした課題はほとんど意識されることなく、向きあうことを避けているのが現状であろう。
これまで、ひどい施設や、福祉関係者のとげとげしい人間性を多々見てきた。共通しているのは怒り、いらだち、傲慢、横柄といった態度だ。社会性を失い、他者を傷つける姿勢が日常化し、暴力体質に染まってしまう。自分の家族や地域で不快な日常にならないのだろうかと心配になるのだが、人格を入れ替え、仮面を脱ぎ変えているようだ。「暴力の凡庸」と言われるように、善良で実直な人こそ暴力の体現者になり得る。
里で授産施設を開設した平成16年、事業団の施設からも利用者がやってきた。彼らは個々の課題や問題を抱えながらも、それに対する眼差しがあまり向けられておらず、萎縮し怯えているように感じた。当初、怯えたり泣いたりしてなかなか仕事が手につかない人も何人かいた。また、やっきになって恋人を作ろうとする人もいた。出会い系など危ない場面にもなるので、スタッフが後をつけたりしなければならない事もあった。話を聞くと、事業団の施設では恋愛絶対禁止だったと言う。「恋愛は許さない。出てから好きなだけやれ」と言われたという。その言葉通り、「出たからがんばりたい」と言うわけだ。恋愛など、人間の基本的な感情を制限するのは恐れ多い事だが、問題が起きないよう管理するという姿勢が強くてそうなるのだろう。久しぶりに施設を尋ねたとき、玄関を入ったとたんに、腰が抜けて歩けなくなった利用者もいたので、本人にとっては、相当厳しい場所だったのではないだろうか。
また新人スタッフに、利用者3人がすがりついたこともあった。高見に立って見下す人間かどうか、利用者は特に敏感だ。安心して甘えられると解り、必死でしがみついた感じだった。ただ新人スタッフからすると、3人同時はきつかった。そこで私が3人の内の一人Aさんを担当して面談を開始した。彼女は面談を楽しみにして、毎週欠かさずやってきた。父親を17歳で亡くして、親族との縁も薄れ身寄りのない状態だった。能力はあるのに集中力がなくて、どんな作業も5分と持たなかった。コミュニケーション能力は高く、誰にも親しく話しかけるのだが、見捨てられ不安がつのるのか、相手の反応の前にいなくなってしまうような不自然さがあった。彼女のアプローチは、これまで誰かにきちんと受けとめられた経験がないように感じられた。
面接で彼女は、絵を描いたり箱庭を作ったりした。最初の箱庭作品は、高い山の頂上に鮫を一匹置おいた印象的な作品だった。彼女の持つエネルギーが山頂で喘いでいるような、孤独な感じが痛々しく伝わってきた。
面談では、幼少時から心で叫び続けてきたであろう「お母さんに会いたい」という素直な言葉を伝えてくれた。彼女の運命に対する言葉と受け止めた。現実には、お母さんに会える訳もなく、会ったとしても傷つくリスクの方が大きいと思われたが、心のお母さん捜しが始まった。お父さんは数年前に亡くなっており、たよりはお婆さんだった。彼女の住んでいるグループホームを運営する事業団の施設の担当者に相談をしたが、にべもなく「会わない方がいい」と言われた。理由は折り合いが悪いからだと言う。それではAさんの気持は、宙づりになるので、納得できなかった。お婆さんの住所地の役所に連絡すると丁寧に対応してくれて、元の住所地には誰も住んでいないとの事だったが、入院している病院を調べてくれた。しかしそこはすでに転院しており、再び調べて、現在入院中の病院がわかった。お婆さんの居場所を見つけるまで3ヶ月かかった。
早速お婆さんの面会に行くことになったが、折り合いが悪くて会ってくれないかとの心配もあった。しかしお婆さんは再会を涙をこぼして喜んでくれた。Aさん人に迷惑をかけないように諭し、付き添った私には丁寧に挨拶された。最後にお母さんの連絡先をAさんがおずおずと尋ねると、お婆さんはいきなり厳しい口調で「お前、身ぐるみはがされるぞ」と言った。Aさんと私は、その迫力に驚いた。
この経緯はAさんのグループホームの関係者に連絡し、細かい内容も文書で報告をしたが、反応はなかった。しかも面会の翌日、Aさんは「これからは一人で行くように」と叱られたという。交通機関を使って一人で行けなくはないが、細かい説明を伝えるのは困難だった。こちらと連携もとらず、裏で利用者本人に圧力をかける姿勢が信じ難かった。
ここでケース会議を申し込む場面だったが、連携を取れる感じもなく、一方的に「折り合いが悪いから会わない方がいい」とか、「甘えるな、一人で行け」と叱る態度に、人間としての嫌悪と不気味さを感じて、その気にならなず、お婆さんとの面会は相手側施設には伝えないで行くことにした。
夏になって、Aさんから「お父さんのお墓参りに行きたい」という話が出た。墓所をお婆さんに聞くと、お婆さんは「私も行きたいから案内する」とのことだった。病院から外出許可をもらい、出かけることになった。ところが出かける前日の夜になって、Aさんから電話が入り「行けなくなった」と言う。本人は泣いて話にならなず、グループホームの友達が代わって「行けない」と言う。どうやら内緒で出かけるようで心苦しかったのか、お墓参りに行くことを支援員に話したらしい。支援員は激怒して「こんな前日に急に何をいうのか、予定は早く出しなさい。お金も準備できないし、墓参りについては、聞いていない勝手な行動じゃない?」と言われたようだった。それをグループホームの利用者の友達に頼んで、電話で伝えて来たのだった。墓参りは中止になってしまった。この機会は、お婆さんと出かける最後のチャンスだった。翌年の夏にはお婆さんは寝たきりになり、認知症も進んで、お墓参りができる状態ではなくなった。
Aさんが板挟みで苦しんでいるため、ケース会議の開催を要請した。ところがなかなか応じてくれない。「何か問題があるんですか。こちらでは何も問題はありませんよ」と怒り口調だったが、施設間で連携をとらなければならないと押し通した。当日やってきた3人の支援員はかなり不機嫌だった。会議に臨むその態度は、社会的に許されないだろうと感じるほど居丈高だった。上司から「きちんと筋を通せ」と言って来るように言われたと、まるでそのスジの人ような物言いだった。
会議ではAさんにとって、「お母さん捜しもお墓参りもとても大切なことだ」と理解を求めたが、通じなかった。「何をしたいのか知りませんが、彼女はもう27歳だから、何をやっても人格は変わりません。無駄ですよ」と言い切る。何という暴言かと怒りが込み上げる。「私共は認知症高齢者とも生活をしていますが、100歳近い方達でも人間的な変容を感動を持って見せてくれます。ましてや若い彼女の可能性は大きいし、今抱ている課題を乗り越えていきたい」と伝え、今後は定期的な会議を持ちたいと要請した。
ところが、その翌日からAさんに対して、面談をやめるように迫る執拗な圧力がかけられた。「余計なことを言うんじゃありません」「甘えるんじゃありません」「面談をやめなさい。やめないんだったら、出て行きなさい」と毎日のように責められた。そのことを誰にも言えずAさんは、さらに板挟みで苦しんだ。身寄りのないAさんに「出て行きなさい」は、厳しい。それでもAさんは、面談をやめなかった。当時の彼女にとって面談は、命綱のようなもので、決して離せないものだったと思う。私は裏で行われているそうした動きに気がつけなかった。
その頃、Aさんと車で県の振興局の前を通りかかった。突然彼女がビクッと体を震わせて「ここに連れてこられて、いろいろ聞かれた」と言う。何を聞かれたのか、はっきりしなかったが、とてもつらいことがあったような様子だった。同じ時期に、Aさんとラーメン屋で食事をしていたとき、50代くらいの女性が入って来ると支援員かと怯えるので「嫌なの?」と聞くと、「怒る」と言った。
そうした矢先、県の振興局福祉部から福祉部長と課長がやってきた。「利用者が面談中にセクハラを受けているとの訴えがあったので、やめるように」と言うので驚いた。恋愛絶対禁止の中で、誰かを好きになると「セクハラをされた」と、ごまかして逃げてきた彼女の手法があったのだろう。誰にでも体をすり寄せ、愛着を示す当時の行動も、目をつけられ怒られていたに違いない。セクハラは、彼女なりの叱られないための言い逃れだった。
その言葉を施設側は利用し「面接でセクハラを受けている」と県に訴えた。3ヶ月執拗に面談をやめろと圧力をかけ続けても、やめようとしない彼女に業を煮やし、言葉尻を捉えて、でっち上げた感じだった。県では本人を呼んで調査をしたのだろうが、本人にとっては、取り調べを受けたに等しく、嘘がばれたような苦しい状態に追い詰められた。建物の前を通りかかったとき震えて、「ここ嫌だ」と言った理由がそこにあった。
県に対しては、とんでもない誤解で、きちんと調査し直すように求めたが、全く動かなかった。施設長が、相手施設の施設長に「なぜ施設長間で事実の確認や話し合いもせずに、いきなり県に上げたのか」と抗議し、県を入れて話し合いの場を持つように要請した。相手施設長は「いきなり県に上げたのは、間違いだった」と謝罪し、3者の会議を持った。会議で「なぜ執拗に面談をやめるよう裏で圧力をかけたのか」と問い詰めると、担当者は「大人として、自立してほしかった」と、もっともらしい返答だった。Aさんからすればイジメを受け続けた状態なので、深く傷つき、担当者との折り合いが悪すぎると指摘すると、折り合いが悪いことを担当者本人が認め、相手施設長も担当を替えることを約束した。セクハラ騒ぎはこれで解決し、県の誤解も解けたと感じ、今後はケース会議を定期的に持つよう相手施設に再度要請した。
ところが、その後も県では「セクハラはあった」という立場を改めない。事実と違うと再三申し入れたが、現在も公式記録には「事件性はないがセクハラはあった」ということになっている。3者会談の後、本庁の福祉部長と課長が尋ねて来たのが、どうやら謝罪の意味になっているらしい。本当のことはみんな分かっているから、これ以上追求しないで穏便にという訳で、「あのとき行ったでしょ」と県は言うのだが、私は間違いを認め取り消すべきだと主張するので、折り合わない。Aさんを傷つけ苦しめたのは事実だから、県と施設側は本人にも謝罪すべきだとの主張にも、謝罪はしないと言い切ってきた。
県の適正化委員会はさらにお粗末だった。この件で3度ほど相談を申し入れた。特に1度目は最悪で、利用者が板挟みで苦しんでいるから調整を頼みたいと依頼したのだが、事務長は相手側の施設と連絡を取ったようで、里に居丈高に電話をしてきた。「おまえの施設は、支援計画など整備しているのか」と追求口調だった。私はそれを聞いて折り返し適正化委員会は県や事業団側に一方的に味方する姿勢じゃなく、「苦しんで困っている利用者の立場に立って調査すべきだろう」と抗議した。すると事務長は話の途中で、一方的に電話を切った。社会人としてその態度は非常識だろうと再度電話して卑怯ではないかと抗議すると「受話器が、滑って落ちたんだよ!」と叫んだ。大人のやりとりではない。
その後も何度も適正化委員会には調整を申し入れたが、障害者本人の苦しい立場や、傷ついた心に寄り添う対応は一度もなかった。最後は適正化委員会は関わらないという逃げで終わる。理由が本人に意向調査を行ったが、「何も問題はない」と本人が言ってるので、動けないと言うのだった。Aさんが怖がっている支援員から、「調査員が来るから話すように」と伝えても、Aさんとしては話せる訳がない。これまた粗末な対応だ。
その後、Aさんとの面談に圧力をかけられることはなくなり、面談は6年続き昨年終了となった。面談が終了になった理由はいろいろあるが、生まれた故郷で、お母さんの住んでるはずの横浜に行けたこと、お母さんのイメージを投影できるスタッフと出会えたこと、お墓参りを実現し、お父さんの死へのモーニングワークなど多くのことをやりきった事が挙げられる。結果的に、利用当初は集中力がなく5分と続かなかった仕事が、今は一日余裕で働けるようになった。何より施設で怒られなくなり、安心感が持てるようになったことは本人には大きいと思う。セクハラ騒動の時期は、職員がピリピリして話ができる感じではなかった。Aさんも怒られるのではないかと恐れて常にビクビクしていた。里の担当スタッフもセクハラ騒ぎで精神的にまいり、相手施設の職員と電話で話すことが嫌で、担当を降りて部署を変わった。後を引き継いだスタッフにも、相手施設の居丈高に責める態度は続いた。
Aさんの生まれ故郷の横浜に、前任と、引き継いだ二代の担当
者と私の4人で旅行に行く計画をたて、Aさん本人も楽しみにしていたのだが、実現するまでには相手施設の担当者からかなりの抵抗を受けた。父親の墓参りも、一泊の里帰りも本人の強い希望だったが、「なんでそんな一人だけ特別扱いをするのか」と抵抗が入った。Aさんからすれば、怒られるのが怖くて言えないだけで、なんでも言える関係や雰囲気があれば、いろいろやりたいこと、やらねばならないことがたくさんあった。相手側担当者にすれば、それは受け入れられないことのようだった。
相手側施設は、何度も「なぜ特別扱いするのか」と責め、「おたくでは、こういう特別扱いを平等にされてるんですか」と、施設のトップの言葉に呆れた。「ひとりひとり全員を特別扱いしています」と応えたが、通じなかっただろう。視点が違いすぎるのだ。
Aさんの事例の概要を記述したのは、お粗末な現状を訴えたいからではない。ここで考えたいのは人間に潜む暴力についてだ。特徴的な高圧的な態度と、ヒステリックないらだちにまいってしまう。かつて日本の軍隊にもそうした傾向を帯びた時期があったのではないだろうか。虐殺やホロコーストもそうした雰囲気を伴って生まれてくるように感じる。上からの視点で見ると、命に関することは大半のことが見えなくなる。個々の運命、気持やこころ、たましいなどは完全に抜け落ちる。話が合って通じるのが芸術家だったりするのは、芸術や美術は上からの視点では成り立ちえないからだと思う。
里では高齢者部門で、よその施設で断られた利用者を多く受け入れてきた歴史がある。よその施設で断られたケースに実際会うと、難しいことはほとんどなくて、むしろ興味深くて面白い人の場合がほとんどだ。要は個性的な人は管理になじまないからダメとされるだけで、個々の人間性や性格、想いに関心を持てばむしろ魅力に満ちた人なのだ。一般的な施設ではおとなしい人が管理上助かるということなのかもしれない。暴れたり、怒ったり、歩いたりする人はもちろん、帰ると言っただけでもダメだったり、冷蔵庫を開ける程度でも断られてしまう。そこからその人の世界が広がるのにもったいないと感じる。
一人の人間、人生を関心を持って見つめられるかどうかは、かなり決め手のように感じる。その奥にさらに心、魂など見えないものまで見つめようとしていく姿勢があることで、暴力からの守りになって行くのではないだろうか。平等などと、十把一絡げで管理しようとするのは、かなり危険な状態にあるとみていいだろう。映画『戦場のメリークリスマス』:原作『影の獄にて』は日本軍の捕虜となったイギリス兵が、粗暴で嫌われ者の軍曹を「ただの悪人じゃない」と見抜き、そこに友情が生まれるという物語だが、これも人間の個を見つめることで暴力を克服するような話ではないだろうか。暴力は誰しもが内包し、避けがたいが、個性、個人、心、魂と深めていくことで自らの暴力の渦に呑み込まれるのを回避できる方向が出てくるように感じる。
運命への「畏敬」も大事だ。障害を背負うことは運命を背負って生きることだ。それは重要な事であって、運命を背負うことに対する「畏敬」を持つ必要があると思う。あらゆるケースには霊性が宿っているとの認識と、そのことに深く頭を垂れる姿勢を学ぶべきだ(秋山さと子先生)との指摘もあった。そうしたことが感じられないと、誰もが傲慢になり、苛立ちと怒りを、弱さに向けて露わにする方向に行く。かなり意識し覚悟しないとそっちに流されてしまう。
平等などと言う概念で、それぞれの広大な宇宙に繋がる通路を絶ち、個を単なる管理の単位に押しつぶす行為は極めて暴力的な支配といわざるをえない。生のプロセスの多様性も、死の独自性も描かれることなく塗りつぶされる支配からの解放は必須だ。危ういのは、覚悟して戦わなければ、いつの間にか暴力の片棒を担ぐ側に必然的になってしまうということだ。
何を見つめるのかそれが重要なのかもしれない。極めて単純に言えば上から見るのではなく繋がって見ることが大事なのだと思う。上から見れば平等に管理するくらいしか考えられないが、繋がった通路の向こうには、広大な宇宙が広がっている。いつの間にか関係を切断する上からの目を人間は持つ傾向がある。それはわかりやすく効率的かも知れないが、上から見る限り、そこに暴力は確実に忍び寄る。
英哲の太鼓★特別養護老人ホーム 高橋菜摘【2014年2月号】
1月19日、研修で『林英哲』と『風雲の会』の太鼓を聴きに仙台に出かけた。私は風雲の会は2度聴いたことがあったが、英哲の太鼓を聴くのは初めてだった。今までに聴いたことのあるスタッフはみな英哲の虜になっている。いったいどんな音があらわれるというのか。あまりの前評判に、私は緊張した。
舞台に現れた英哲は随分と小柄だった。この人がそんなに凄い音を?と驚いた。コンサートは、英哲の「自分史のような構成」との解説通り「草原の中の無邪気な子供」「そこから少し成長し、外に出ていく少年」と場面が思い浮かぶような作りになっていた。面白いなぁ、こんな風に太鼓で物語が紡げるんだ・・・そう冷静に思えたのは、その『幸福な少年期』のあたりまでのことだった。
英哲は様々な打楽器、太鼓を使う。英哲が、赤と黒の派手な柄の小太鼓をリズミカルに叩いて歩く場面があった。その周りに、風雲の会の4人が座って、どっしりとした太鼓を持っている。その対比は滑稽で、自虐的に感じられた。小さな年老いた男が、若者たちの中を道化師のように歩く。目をそらしたくなるような場面にすら思えたが、太鼓の音が見た目の惨めさを打ち消す。そして英哲が若者一人一人に向き合って音を鳴らすと、それに操られるように若者たちは一層コミカルな動きをする。「年寄り」とバカにしている存在に、いともたやすく転がされる・・・高齢者を「生産活動のできなくなったお荷物」として、ないがしろにしている現代社会への皮肉に感じられた。演出にそんな意図はなかったかもしれないが、私にはそう感じられた。
そう思った時、私はこの舞台がただの太鼓の演奏を聴く場ではないと感じた。英哲の人生と共に、己を振り返り己の人生を照らし出すことを迫られているように感じた。
第一部の最後、いままで舞台を強烈な力で引っ張ってきた英哲が姿を隠し、若者たちが赤い花を持って現れた。それはよく見ると小太鼓だったが、私には鮮やかな花が咲いたように思えた。そこから舞台は急に様相を変えた。鳥の声とともに、精霊たちの歌う声が聴こえ、舞台は透き通るみどり色に変わった。まるで太古の森の中だ。私はゆっくりと眠りに落ちて森に溶けていった。時折目を覚ますと、真っ直ぐに立つ木々が風に揺れている。包まれている。守られている。その安心感の中で眠りに落ちた。そして私は何故か神になっていた。
生まれたばかりの世界、精霊たちが生きる森で、美しいリズムに揺れながら、私はうたた寝をしている。突然リズムが速くなり、力強い音が響き始める。あぁ、壊されてしまう。そう感じた。でも仕方ないな、とも感じた。誕生したばかりの世界は何の汚れも乱れもなくて素晴らしいけれど、いつまでもそのままでいられない。残念だけど、仕方ない。そう諦めた。けれど、また森は落ち着いてきて(リズムが戻って)、精霊たちの声が響く。大丈夫だったんだと安心して、私はまたまどろむ。・・・ふと音が消え、森が消えた。おや?と目を開けると世界は暗い。森のあった場所には大きな太鼓が4つ立っていた。その瞬間、私には怒りが湧き上がる。心地よい森はなくなり「その代わりだとでも言うようにこんなものを!」と、人間の傲慢への怒りに震える。同時に太鼓がドォォンと響く。4人の若い男が一心不乱に太鼓を叩く。ただひたすらに、太鼓を叩く。その姿は・・・あぁ、祈りだと感じた。
森を消して何が祈りだと腹が立っていた。しかし心を込めた祈りにほだされ、まぁ許してやろうかという気持ちになる。太鼓の音が激しくなり、祈りが炎と湧き上がる。あんなにがんばって・・いる。これほどまでの祈りを捧げるのなら人間もまぁいいか・・・再びまどろみに入るところで第一部が終わった。
客席が明るくなり多くの人間が目に入る。絶望感!全身の力が抜け、人間が憎々しくなる。祈りを捧げる人間だから許してやったのに、こいつらはどうだ。祈りなど、どこにもない!!こんなのばかりが人間だ!!人間なんて!!そんな、わめき散らしたいような気持で『神』から切り替わらない。人間の姿や声がイヤになる。自分が人間であることや何もかもがイヤになる。
休憩時間、パンフレットに書かれた文章を読む。「英哲の太鼓には鼓舞する力がある」という言葉。鼓舞?私はその真逆だ。鼓舞されるなにも今の私にはない。苦しくなって、「鼓舞される?」と隣の角津田さんに唐突に聞く。「え?」と角津田さんが聞き返したところで開演のアナウンス。角津田さんは何も言わないでいてくれた。このまま舞台をみて大丈夫だろうか。・・・逃げ出したいような気持の中で、第二部が始まった。
第二部は英哲の語りから始まった。「人生に何度も現れるY字路」。二つの道が眼の前に現れる。二度と元の道に戻ることは出来ないのだが、英哲は「この年になればわかる。どちらの道を選んでも、正しかったのだ」と言う。重く、深く響く声で「この年になれば・・・わかる」と。どれほどの修行を積めばその言葉が言えるのだろう。すでに還暦を迎え、そのうちの40年を太鼓に捧げたという英哲の、その道のりからくる自負、誇り! 自分は人生を一巡りした時に、「正しかった」と言えるだろうか。選んだ道の後悔、選ばなかった道の後悔に潰されてしまわないだろうか。そのとき風雲の会の若者4人が声をそろえる。「あの、若き日のお前が、選んだのだろう!!!」涙があふれて止まらなくなった。
新年度を目前に控え、私はリーダーを任せられることから逃げ出したい気持ちに襲われていた。自信がない、自分を信じられない。ずっとそうだ。出来ることなら、指示されるポジションでいたい。責任を負いたくない、背負いたくない、楽でいたい。そんな思いが根を張っている。里に来たことを後悔することがある。里は「歯車」であることを許さない。「考える」ことを迫る。ただの「楽」はないけれど、越えれば「楽しい」がある。
第一部を聴きながら、太古の森が人間に変えられるとき「仕方ない」と思った。変わらないで甘えに浸っていれれば楽だが、変わらないのは、生まれず生きなかった事になるのではないだろうか。ただ甘え続けることは出来ない。そうだ、選んで今私はここにいるんだ。正しいかどうか関係なく既に責任が存在している。
舞台では英哲が一人太鼓を叩いていた。英哲の太鼓は縁が黒い。英哲が奥に引き、4人の若者が持つ太鼓は白かった。その白は希望だ。まっさらな未来だ。未来が迫ってくる。逃げたくなって私は震える。白い太鼓に、まだ見ぬ新人が重なる。無垢の白い輝きが自分のせいで傷ついてしまうかもしれない、潰してしまうかもしれない。英哲はそんな不安を持たないんだろうか? 私の心臓は早くなり、手に汗をかく。
よく見ると、真っ白な太鼓は、はせさんの太鼓で、後ろの三人の太鼓は使い込まれた跡があった。演出だったのだろうか?真っ白な光にも、目をそらさずに向き合えば大丈夫だ。そう感じた。
躍り出てきた4人は客席に背を向けて、英哲に向かって太鼓を打つ。英哲は、振り返ることなく、ただ己の太鼓を鳴らす。その背中に若者たちを受け止め、その背中で道を示している。5人の背中を見ながら祭りの一員になったような気持ちになる。
祭りは、神への祈りだ。英哲を中心に祈りを捧げている。4人が再び客席に向かって太鼓を鳴らし始めると、英哲もこちらを向いて叩き始めた。それはあくまで、観客の目を惹く若者たちの補佐的な太鼓だった。引き継ぐ・・伝える・・そんな言葉が頭に浮かんできた。その時、英哲の表情が微笑んでいるのに気がついた。それまで緊張感に満ちて引き締まっていた英哲が、4人の若者の後ろ姿を柔らかい頬笑みで見つめている。喜びを抑えきれない顔に思えた。「どちらの道も正しかった」、そう言える人だからこそ、自分を引き継ぐ若者たちの成長していく姿にその笑みが溢れてきたのだろう。
繰り返えされる「どちらの道も正しかった。この年になればわかる」との言葉。英哲は新たな生に歩み始めたのか、大きな太鼓が現れる。押し潰されそうでおそれおおい。人間がしていいことではない。畏怖の念が太鼓をより大きく見せる。英哲は階段を一段一段、ゆっくりと登って太鼓に近づいて手を伸ばす。太陽だと感じた。決して届かないもの。太陽に手を伸ばす英哲の緊張が伝わり、心臓が高鳴る。あれに触れてしまったら、何が起こるのだろう。たった一度の響く音で、すべてを見透かされそうな気がする。ほんの少しでも気を抜けば、砕かれてしまう。これまでのすべてを。人生一巡りを。なんておそろしい!!
英哲は静かに拳を作る。それが震え「くる!」と思った瞬間、拳は鼓を打った。ドォォン!もう片方の拳も打つ。天の岩戸がイメージされる。巨大な岩、壁。拳を作り、祈りを込めて打つ。神の前に人間は祈るしかない。祈る事しかできない。だから祈る。拳は鉢に変わる。人間の進化だ。己の身体だけじゃない、道具を使う。そして、その道具にもまた、祈りを込める。祈りに若者たちが加わり、最後の大きな祭りが始まる。その音、リズム。舞台全体の、あるいは英哲の人生一巡目のフィナーレ。ただただ圧倒される。
演奏が終わり5人が並んで挨拶をした時、風雲の会の上田さんの英哲を見る顔が印象的だった。師を心から誇らしく思っているのが一目でわかった。英哲は微笑む。こうした表情が生まれる出会い、繋がり。どれほどの幸福感がお互いにあるのだろう。羨みながら2人を見る。
公演の後、私は誰とも話せなかった。英哲の太鼓に満たされ、『神』の怒りが抜け切れていなかった。「くだらない人間」への怒りは私が常に感じていることだと気付く。私自身が「祈りを知らない、くだらない人間」だ。神になった私の視点は、人間すべてがそんなものに思えてしまうのだ。本当はそんなことはないのに・・・もったいないことだと思う。
私はこれまで、自覚もなくY字路にさしかかり幾度も道を選んできた。いつかは自覚を持ってY字路に立つこともあるだろう。どの道を選んでも「正しかった」と誇れるようになりたい。そのためには、自分の選んだ道を進んでいくしかない。私の人間への怒りは、私への怒りだ。それが、他者への眼差しも曇らせている。
英哲の太鼓はまさしく「鼓舞する力を持つ」太鼓だった。英哲の人生を込めた太鼓は、私の心を様々に揺さぶり、奮い立たせてくれた。
英哲に太鼓に心揺さぶられた翌日。利用者の五七さん(仮名)が脳出血で倒れ、今日か明日の命だという連絡があった。突然の話で、頭は追いつかず、実際に目を覚まさない五七さんを前にしても現実感がなかった。部屋に戻り、この感想を書き始めた。五七さんは祈りの人だ。今年の夏、ただのイベントの「さんさ踊り」で浮かれていた私たちに、「やめろ!神様の前でやれ!」と怒った。私は自分が恥ずかしくなり、その怒りを受けて「さんさ踊り」の由来を調べ、神様に捧げる踊りを考えるようになった。お踊りや祭りは、神様に捧げるものだ。祈りが込もっていなければならない。形だけの踊りなど意味がない、そんなのはやらないほうがいい。
五七さんの言葉が頭を巡る。コラさん(仮名)が亡くなった時、「祈るは、祈る。やらなくたっていいども、気持ちはやる」「拝まねば、終わりよ」と言った。形だけのイベントにしてしまった「さんさ」。大事なのは形の奥にある心だ。いつも型式に囚われて動き出せない私、身にしみた言葉だった。
逃げ出したい気持ちになっていた私に「なして今、祈るの、やめる?」と迫った五七さん。「おじいさん、おばあさんの話を聞いて下さい」「おじいさん、おばあさん苦しんでら。だから拝まねばねんだ。仏様、拝まねば」とも言っていた。
英哲の祈り、五七さんの祈り、自分の祈り・・・考えても答えはないが、考えずにはいられない。五七さんは「神は祈りの中に、祈りは神の中に」といった。祈ると言うことも、私にはまだよくわからない。私に祈りはあるだろうか、神はいるだろうか。
五七さんがなくなった現実感がない。あれ?今日は五七さんいないな、でも明日は帰ってくるよね。そんな気持ちだ。あぁ、「五七さんは祈りの中に。祈りは五七さんの中に」そんな言葉が浮ぶ。祈りの中の五七さん。少しその言葉の意味がわかりそうな気がした。
舞台に現れた英哲は随分と小柄だった。この人がそんなに凄い音を?と驚いた。コンサートは、英哲の「自分史のような構成」との解説通り「草原の中の無邪気な子供」「そこから少し成長し、外に出ていく少年」と場面が思い浮かぶような作りになっていた。面白いなぁ、こんな風に太鼓で物語が紡げるんだ・・・そう冷静に思えたのは、その『幸福な少年期』のあたりまでのことだった。
英哲は様々な打楽器、太鼓を使う。英哲が、赤と黒の派手な柄の小太鼓をリズミカルに叩いて歩く場面があった。その周りに、風雲の会の4人が座って、どっしりとした太鼓を持っている。その対比は滑稽で、自虐的に感じられた。小さな年老いた男が、若者たちの中を道化師のように歩く。目をそらしたくなるような場面にすら思えたが、太鼓の音が見た目の惨めさを打ち消す。そして英哲が若者一人一人に向き合って音を鳴らすと、それに操られるように若者たちは一層コミカルな動きをする。「年寄り」とバカにしている存在に、いともたやすく転がされる・・・高齢者を「生産活動のできなくなったお荷物」として、ないがしろにしている現代社会への皮肉に感じられた。演出にそんな意図はなかったかもしれないが、私にはそう感じられた。
そう思った時、私はこの舞台がただの太鼓の演奏を聴く場ではないと感じた。英哲の人生と共に、己を振り返り己の人生を照らし出すことを迫られているように感じた。
第一部の最後、いままで舞台を強烈な力で引っ張ってきた英哲が姿を隠し、若者たちが赤い花を持って現れた。それはよく見ると小太鼓だったが、私には鮮やかな花が咲いたように思えた。そこから舞台は急に様相を変えた。鳥の声とともに、精霊たちの歌う声が聴こえ、舞台は透き通るみどり色に変わった。まるで太古の森の中だ。私はゆっくりと眠りに落ちて森に溶けていった。時折目を覚ますと、真っ直ぐに立つ木々が風に揺れている。包まれている。守られている。その安心感の中で眠りに落ちた。そして私は何故か神になっていた。
生まれたばかりの世界、精霊たちが生きる森で、美しいリズムに揺れながら、私はうたた寝をしている。突然リズムが速くなり、力強い音が響き始める。あぁ、壊されてしまう。そう感じた。でも仕方ないな、とも感じた。誕生したばかりの世界は何の汚れも乱れもなくて素晴らしいけれど、いつまでもそのままでいられない。残念だけど、仕方ない。そう諦めた。けれど、また森は落ち着いてきて(リズムが戻って)、精霊たちの声が響く。大丈夫だったんだと安心して、私はまたまどろむ。・・・ふと音が消え、森が消えた。おや?と目を開けると世界は暗い。森のあった場所には大きな太鼓が4つ立っていた。その瞬間、私には怒りが湧き上がる。心地よい森はなくなり「その代わりだとでも言うようにこんなものを!」と、人間の傲慢への怒りに震える。同時に太鼓がドォォンと響く。4人の若い男が一心不乱に太鼓を叩く。ただひたすらに、太鼓を叩く。その姿は・・・あぁ、祈りだと感じた。
森を消して何が祈りだと腹が立っていた。しかし心を込めた祈りにほだされ、まぁ許してやろうかという気持ちになる。太鼓の音が激しくなり、祈りが炎と湧き上がる。あんなにがんばって・・いる。これほどまでの祈りを捧げるのなら人間もまぁいいか・・・再びまどろみに入るところで第一部が終わった。
客席が明るくなり多くの人間が目に入る。絶望感!全身の力が抜け、人間が憎々しくなる。祈りを捧げる人間だから許してやったのに、こいつらはどうだ。祈りなど、どこにもない!!こんなのばかりが人間だ!!人間なんて!!そんな、わめき散らしたいような気持で『神』から切り替わらない。人間の姿や声がイヤになる。自分が人間であることや何もかもがイヤになる。
休憩時間、パンフレットに書かれた文章を読む。「英哲の太鼓には鼓舞する力がある」という言葉。鼓舞?私はその真逆だ。鼓舞されるなにも今の私にはない。苦しくなって、「鼓舞される?」と隣の角津田さんに唐突に聞く。「え?」と角津田さんが聞き返したところで開演のアナウンス。角津田さんは何も言わないでいてくれた。このまま舞台をみて大丈夫だろうか。・・・逃げ出したいような気持の中で、第二部が始まった。
第二部は英哲の語りから始まった。「人生に何度も現れるY字路」。二つの道が眼の前に現れる。二度と元の道に戻ることは出来ないのだが、英哲は「この年になればわかる。どちらの道を選んでも、正しかったのだ」と言う。重く、深く響く声で「この年になれば・・・わかる」と。どれほどの修行を積めばその言葉が言えるのだろう。すでに還暦を迎え、そのうちの40年を太鼓に捧げたという英哲の、その道のりからくる自負、誇り! 自分は人生を一巡りした時に、「正しかった」と言えるだろうか。選んだ道の後悔、選ばなかった道の後悔に潰されてしまわないだろうか。そのとき風雲の会の若者4人が声をそろえる。「あの、若き日のお前が、選んだのだろう!!!」涙があふれて止まらなくなった。
新年度を目前に控え、私はリーダーを任せられることから逃げ出したい気持ちに襲われていた。自信がない、自分を信じられない。ずっとそうだ。出来ることなら、指示されるポジションでいたい。責任を負いたくない、背負いたくない、楽でいたい。そんな思いが根を張っている。里に来たことを後悔することがある。里は「歯車」であることを許さない。「考える」ことを迫る。ただの「楽」はないけれど、越えれば「楽しい」がある。
第一部を聴きながら、太古の森が人間に変えられるとき「仕方ない」と思った。変わらないで甘えに浸っていれれば楽だが、変わらないのは、生まれず生きなかった事になるのではないだろうか。ただ甘え続けることは出来ない。そうだ、選んで今私はここにいるんだ。正しいかどうか関係なく既に責任が存在している。
舞台では英哲が一人太鼓を叩いていた。英哲の太鼓は縁が黒い。英哲が奥に引き、4人の若者が持つ太鼓は白かった。その白は希望だ。まっさらな未来だ。未来が迫ってくる。逃げたくなって私は震える。白い太鼓に、まだ見ぬ新人が重なる。無垢の白い輝きが自分のせいで傷ついてしまうかもしれない、潰してしまうかもしれない。英哲はそんな不安を持たないんだろうか? 私の心臓は早くなり、手に汗をかく。
よく見ると、真っ白な太鼓は、はせさんの太鼓で、後ろの三人の太鼓は使い込まれた跡があった。演出だったのだろうか?真っ白な光にも、目をそらさずに向き合えば大丈夫だ。そう感じた。
躍り出てきた4人は客席に背を向けて、英哲に向かって太鼓を打つ。英哲は、振り返ることなく、ただ己の太鼓を鳴らす。その背中に若者たちを受け止め、その背中で道を示している。5人の背中を見ながら祭りの一員になったような気持ちになる。
祭りは、神への祈りだ。英哲を中心に祈りを捧げている。4人が再び客席に向かって太鼓を鳴らし始めると、英哲もこちらを向いて叩き始めた。それはあくまで、観客の目を惹く若者たちの補佐的な太鼓だった。引き継ぐ・・伝える・・そんな言葉が頭に浮かんできた。その時、英哲の表情が微笑んでいるのに気がついた。それまで緊張感に満ちて引き締まっていた英哲が、4人の若者の後ろ姿を柔らかい頬笑みで見つめている。喜びを抑えきれない顔に思えた。「どちらの道も正しかった」、そう言える人だからこそ、自分を引き継ぐ若者たちの成長していく姿にその笑みが溢れてきたのだろう。
繰り返えされる「どちらの道も正しかった。この年になればわかる」との言葉。英哲は新たな生に歩み始めたのか、大きな太鼓が現れる。押し潰されそうでおそれおおい。人間がしていいことではない。畏怖の念が太鼓をより大きく見せる。英哲は階段を一段一段、ゆっくりと登って太鼓に近づいて手を伸ばす。太陽だと感じた。決して届かないもの。太陽に手を伸ばす英哲の緊張が伝わり、心臓が高鳴る。あれに触れてしまったら、何が起こるのだろう。たった一度の響く音で、すべてを見透かされそうな気がする。ほんの少しでも気を抜けば、砕かれてしまう。これまでのすべてを。人生一巡りを。なんておそろしい!!
英哲は静かに拳を作る。それが震え「くる!」と思った瞬間、拳は鼓を打った。ドォォン!もう片方の拳も打つ。天の岩戸がイメージされる。巨大な岩、壁。拳を作り、祈りを込めて打つ。神の前に人間は祈るしかない。祈る事しかできない。だから祈る。拳は鉢に変わる。人間の進化だ。己の身体だけじゃない、道具を使う。そして、その道具にもまた、祈りを込める。祈りに若者たちが加わり、最後の大きな祭りが始まる。その音、リズム。舞台全体の、あるいは英哲の人生一巡目のフィナーレ。ただただ圧倒される。
演奏が終わり5人が並んで挨拶をした時、風雲の会の上田さんの英哲を見る顔が印象的だった。師を心から誇らしく思っているのが一目でわかった。英哲は微笑む。こうした表情が生まれる出会い、繋がり。どれほどの幸福感がお互いにあるのだろう。羨みながら2人を見る。
公演の後、私は誰とも話せなかった。英哲の太鼓に満たされ、『神』の怒りが抜け切れていなかった。「くだらない人間」への怒りは私が常に感じていることだと気付く。私自身が「祈りを知らない、くだらない人間」だ。神になった私の視点は、人間すべてがそんなものに思えてしまうのだ。本当はそんなことはないのに・・・もったいないことだと思う。
私はこれまで、自覚もなくY字路にさしかかり幾度も道を選んできた。いつかは自覚を持ってY字路に立つこともあるだろう。どの道を選んでも「正しかった」と誇れるようになりたい。そのためには、自分の選んだ道を進んでいくしかない。私の人間への怒りは、私への怒りだ。それが、他者への眼差しも曇らせている。
英哲の太鼓はまさしく「鼓舞する力を持つ」太鼓だった。英哲の人生を込めた太鼓は、私の心を様々に揺さぶり、奮い立たせてくれた。
英哲に太鼓に心揺さぶられた翌日。利用者の五七さん(仮名)が脳出血で倒れ、今日か明日の命だという連絡があった。突然の話で、頭は追いつかず、実際に目を覚まさない五七さんを前にしても現実感がなかった。部屋に戻り、この感想を書き始めた。五七さんは祈りの人だ。今年の夏、ただのイベントの「さんさ踊り」で浮かれていた私たちに、「やめろ!神様の前でやれ!」と怒った。私は自分が恥ずかしくなり、その怒りを受けて「さんさ踊り」の由来を調べ、神様に捧げる踊りを考えるようになった。お踊りや祭りは、神様に捧げるものだ。祈りが込もっていなければならない。形だけの踊りなど意味がない、そんなのはやらないほうがいい。
五七さんの言葉が頭を巡る。コラさん(仮名)が亡くなった時、「祈るは、祈る。やらなくたっていいども、気持ちはやる」「拝まねば、終わりよ」と言った。形だけのイベントにしてしまった「さんさ」。大事なのは形の奥にある心だ。いつも型式に囚われて動き出せない私、身にしみた言葉だった。
逃げ出したい気持ちになっていた私に「なして今、祈るの、やめる?」と迫った五七さん。「おじいさん、おばあさんの話を聞いて下さい」「おじいさん、おばあさん苦しんでら。だから拝まねばねんだ。仏様、拝まねば」とも言っていた。
英哲の祈り、五七さんの祈り、自分の祈り・・・考えても答えはないが、考えずにはいられない。五七さんは「神は祈りの中に、祈りは神の中に」といった。祈ると言うことも、私にはまだよくわからない。私に祈りはあるだろうか、神はいるだろうか。
五七さんがなくなった現実感がない。あれ?今日は五七さんいないな、でも明日は帰ってくるよね。そんな気持ちだ。あぁ、「五七さんは祈りの中に。祈りは五七さんの中に」そんな言葉が浮ぶ。祈りの中の五七さん。少しその言葉の意味がわかりそうな気がした。
ゴッホに触れて★ワークステージ 日向菜採【2014年2月号】
この年末年始、オランダとスイスに行く機会をいただいた。オランダでは、アムステルダムに4日滞在し、ゴッホ美術館やアムステルダム国立美術館などを巡った。ヨーロッパの美術館を訪ねるのは、3年前のパリに続き今回が2回目だ。前回はオルセー美術館やルーブル美術館で、多くの画家の作品とその量の膨大さに圧倒されるばかりだった。
学生時代までは美術や芸術にあまり縁がなく、美術館に行くことも少なかったのだが、銀河の里では研修で美術館に行くことがしばしばあり、そのうちに作品に惹きつけられ、心動かされながら、自分なりに楽しめる感じが出てきて、美術館に出向く機会も増えた。
3年前のパリでは、オルセー美術館の印象派の作品に特に心を揺さぶられた。その時、ゴッホの作品も観たのだが、キャンバスからこぼれおちるのではないか思うほど厚く塗られた油絵の具に、不気味で異様な雰囲気を感じた。生前ゴッホは世に認められず、絵はさっぱり売れないまま極貧にあえぎ、弟の支援を受けながらなんとか絵を描いていたという。極貧のゴッホが、浪費するように絵具を厚く塗り重ねざるをえなかった作品に、私は何か得体のしれない狂気じみたものを突き付けられた感覚になって正直ビビッてしまった。
ゴッホの作品は人間の根源をついてくるような所がある。生きていくことの現実と深層が引き裂かれ、両者が矛盾したまま露わにされる感覚と向き合わせられる。そこには何か深い闇に飲み込まれてしまいそうな切迫したものがあった。3年前の私は、そうしたゴッホの作品よりも、クロード・モネの柔らかい色彩に惹かれた。全体的に淡い色で描かれ、光の世界が表現されている作品のほうが好ましく感じた。その頃の私には、まだゴッホと対峙するだけの、人間としての経験も覚悟もなかったのかもしれない。その時同行していた施設長が、怖気づく私の隣で食い入るようにゴッホの作品を眺めていた姿が強く印象に残っている。
ゴッホの作品から感じた恐怖は、私が就職2年目に研修で参加したファンタジーグループで感じた怖さと通じるものがある。ファンタジーグループは、ユング派の樋口和彦先生が生み出した技法で、言語コミュニケーションなしの共同作業をしながら、個々のファンタジーを活性化させるというものだ。5〜6人のグループで1枚の紙にフィンガー・ペインティングをするセッションがあった。始まると早々に、ある男性が黒の大量のインクをぶちまかし紙一面を塗りつぶした。私は唖然となった。他の色で何かを描こうとしても、彩りも形もすべてが真っ黒い大きな渦に飲み込まれ、跡形もなく消えてしまう。怯える私をさらに追い込むかのように、その男性は何度も何度も黒をぶちまかした。私はとてつもなく怖くなり、途中でグループから離れてしまった。それはペインティングという
作業のインクの黒にしか過ぎないのだが、あの真っ黒な渦は、何もかも飲み込んでしまう深い闇のようで、凄まじく怖かった。その頃の私は、その闇を受け入れることも、立ち向かうこともできなかった。その後もその体験をなかったことにして、思い出さないようにしてきたのだが、ゴッホの絵にその時の恐怖感を蘇えさせられた。ファンタジーグループの真っ黒い渦から逃げ続けてきた私に、ゴッホが再び課題を突きつけてきた。
今回の旅は、前回パリで出会ったゴッホと更に深く向きあう目的もあり、ゴッホ美術館のあるアムステルダムに滞在した。ゴッホ美術館では、私は「花咲くアーモンドの枝」が印象深かった。青空を背景に、アーモンドの木に咲く白い小さな花が描かれている。木の枝は、不自然に曲がりくねり、幹は太くて力強く、それは人間の血管を思い起こさせた。枝先に華奢できれいな白い花が描かれているのが、木の不気味さと対称的で何とも可憐だった。私はこのコントラストの対称に生命力を感じた。この絵の前に立つと、暖かい風が吹いてくるような、「何かが動き出す」春のイメージを感じた。解説には、この作品はゴッホの甥の誕生を祝うために描かれたもので、弟夫婦のベッドの上に飾ることがふさわしいとゴッホ本人は考えていたと書かれており、その説明にとても納得させられた。これから始まる何かへの緊張と期待の高まりが伝わってきつつ、暖かい気持ちにもなる心地よさがあった。
この絵と同じ部屋に「荒れ模様の空の麦畑」と「カラスが群れ飛ぶ麦畑」が展示されていた。どちらの絵も、ゴッホの自殺直前に描かれ、最後の70日間を過ごしたオーヴェル・シュル・オワーズの田園風景を題材にしたものだ。そうした最後の時期の作品なので、カラスや荒れ模様というタイトルからしても死や深い孤独感を連想してしまう。けれども、実際にその絵を前にしてみると、そうした絶望とは逆に、むしろ開放的で明るく、前向きな表情を感じた。底知れない孤独感を抱え、迫り来る世界の本質に呑み込まれそうになりながらも、対称的な明るく広大な田園風景に希望や安らぎを得ていたのだろうか。両極の世界に引き裂かれながら生きたゴッホだからこそ、描き得た作品だと強く感じた。
3点の作品は、美術館の順路の出口付近に展示されており、この特別な作品が深い余韻を残して、贅沢で特別な時間を与えてもらった。
ファンタジーグループで現れた真っ黒い大きな渦と、パリでゴッホの作品に感じた、ドロドロした世界に飲み込まれそうな恐怖感は、人間の根源的な何かと向き合うことの恐怖に繋がっているように感じる。私は5年間、就労支援の現場で利用者と向き合い鍛えられてきた。そんな経験を積んできたこともあってか、今回は単に、恐怖感にビビって目を背けて終わるのではなく、ゴッホが描く世界を少し感じることができたように思う。ゴッホはキャンバスに、来る日も来る日も絵具を重ね続けることによって、人間の深い魂に迫り触れようとしたのかもしれない。それらを理解することはほど遠いが、ゴッホが描いた何ものかとも通じる課題と、私自身も現場で向きあっているように感じる。そして、今回の旅はそうした根源的な何ものかと「向き合い続ける覚悟があるか」と、改めて問われたような気がする。
学生時代までは美術や芸術にあまり縁がなく、美術館に行くことも少なかったのだが、銀河の里では研修で美術館に行くことがしばしばあり、そのうちに作品に惹きつけられ、心動かされながら、自分なりに楽しめる感じが出てきて、美術館に出向く機会も増えた。
3年前のパリでは、オルセー美術館の印象派の作品に特に心を揺さぶられた。その時、ゴッホの作品も観たのだが、キャンバスからこぼれおちるのではないか思うほど厚く塗られた油絵の具に、不気味で異様な雰囲気を感じた。生前ゴッホは世に認められず、絵はさっぱり売れないまま極貧にあえぎ、弟の支援を受けながらなんとか絵を描いていたという。極貧のゴッホが、浪費するように絵具を厚く塗り重ねざるをえなかった作品に、私は何か得体のしれない狂気じみたものを突き付けられた感覚になって正直ビビッてしまった。
ゴッホの作品は人間の根源をついてくるような所がある。生きていくことの現実と深層が引き裂かれ、両者が矛盾したまま露わにされる感覚と向き合わせられる。そこには何か深い闇に飲み込まれてしまいそうな切迫したものがあった。3年前の私は、そうしたゴッホの作品よりも、クロード・モネの柔らかい色彩に惹かれた。全体的に淡い色で描かれ、光の世界が表現されている作品のほうが好ましく感じた。その頃の私には、まだゴッホと対峙するだけの、人間としての経験も覚悟もなかったのかもしれない。その時同行していた施設長が、怖気づく私の隣で食い入るようにゴッホの作品を眺めていた姿が強く印象に残っている。
ゴッホの作品から感じた恐怖は、私が就職2年目に研修で参加したファンタジーグループで感じた怖さと通じるものがある。ファンタジーグループは、ユング派の樋口和彦先生が生み出した技法で、言語コミュニケーションなしの共同作業をしながら、個々のファンタジーを活性化させるというものだ。5〜6人のグループで1枚の紙にフィンガー・ペインティングをするセッションがあった。始まると早々に、ある男性が黒の大量のインクをぶちまかし紙一面を塗りつぶした。私は唖然となった。他の色で何かを描こうとしても、彩りも形もすべてが真っ黒い大きな渦に飲み込まれ、跡形もなく消えてしまう。怯える私をさらに追い込むかのように、その男性は何度も何度も黒をぶちまかした。私はとてつもなく怖くなり、途中でグループから離れてしまった。それはペインティングという
作業のインクの黒にしか過ぎないのだが、あの真っ黒な渦は、何もかも飲み込んでしまう深い闇のようで、凄まじく怖かった。その頃の私は、その闇を受け入れることも、立ち向かうこともできなかった。その後もその体験をなかったことにして、思い出さないようにしてきたのだが、ゴッホの絵にその時の恐怖感を蘇えさせられた。ファンタジーグループの真っ黒い渦から逃げ続けてきた私に、ゴッホが再び課題を突きつけてきた。
今回の旅は、前回パリで出会ったゴッホと更に深く向きあう目的もあり、ゴッホ美術館のあるアムステルダムに滞在した。ゴッホ美術館では、私は「花咲くアーモンドの枝」が印象深かった。青空を背景に、アーモンドの木に咲く白い小さな花が描かれている。木の枝は、不自然に曲がりくねり、幹は太くて力強く、それは人間の血管を思い起こさせた。枝先に華奢できれいな白い花が描かれているのが、木の不気味さと対称的で何とも可憐だった。私はこのコントラストの対称に生命力を感じた。この絵の前に立つと、暖かい風が吹いてくるような、「何かが動き出す」春のイメージを感じた。解説には、この作品はゴッホの甥の誕生を祝うために描かれたもので、弟夫婦のベッドの上に飾ることがふさわしいとゴッホ本人は考えていたと書かれており、その説明にとても納得させられた。これから始まる何かへの緊張と期待の高まりが伝わってきつつ、暖かい気持ちにもなる心地よさがあった。
この絵と同じ部屋に「荒れ模様の空の麦畑」と「カラスが群れ飛ぶ麦畑」が展示されていた。どちらの絵も、ゴッホの自殺直前に描かれ、最後の70日間を過ごしたオーヴェル・シュル・オワーズの田園風景を題材にしたものだ。そうした最後の時期の作品なので、カラスや荒れ模様というタイトルからしても死や深い孤独感を連想してしまう。けれども、実際にその絵を前にしてみると、そうした絶望とは逆に、むしろ開放的で明るく、前向きな表情を感じた。底知れない孤独感を抱え、迫り来る世界の本質に呑み込まれそうになりながらも、対称的な明るく広大な田園風景に希望や安らぎを得ていたのだろうか。両極の世界に引き裂かれながら生きたゴッホだからこそ、描き得た作品だと強く感じた。
3点の作品は、美術館の順路の出口付近に展示されており、この特別な作品が深い余韻を残して、贅沢で特別な時間を与えてもらった。
ファンタジーグループで現れた真っ黒い大きな渦と、パリでゴッホの作品に感じた、ドロドロした世界に飲み込まれそうな恐怖感は、人間の根源的な何かと向き合うことの恐怖に繋がっているように感じる。私は5年間、就労支援の現場で利用者と向き合い鍛えられてきた。そんな経験を積んできたこともあってか、今回は単に、恐怖感にビビって目を背けて終わるのではなく、ゴッホが描く世界を少し感じることができたように思う。ゴッホはキャンバスに、来る日も来る日も絵具を重ね続けることによって、人間の深い魂に迫り触れようとしたのかもしれない。それらを理解することはほど遠いが、ゴッホが描いた何ものかとも通じる課題と、私自身も現場で向きあっているように感じる。そして、今回の旅はそうした根源的な何ものかと「向き合い続ける覚悟があるか」と、改めて問われたような気がする。
「りんごのプレザーブ作り」★ワークステージ 村上幸太郎【2014年2月号】
★りんご班で収穫した「紅玉(こうぎょく)」という品種のりんごは、煮りんごなどのお菓子用に適した甘酸っぱいりんごです。その紅玉を使ってプレザーブ(形の残った煮りんご)を製造しました。このプレザーブは岩手県内にある大手スーパーのベーカリーコーナーにて、アップルパイ用のりんごとして使用されています!これらは惣菜班で加工していますので、りんご班と連携したコラボ商品ですね