2014年01月15日
魂のまなざし―暴力への対抗として ★理事長 宮澤健【2014年1月号】
【事業開設14年目】
銀河の里は14年目を迎えた。私個人にとっても、折り返し点は今年あたりにあるように感じる。30年かけて深める仕事の残り半分を全うできるかどうかはわからないが、運命に任せて取り組んでいくしかない。
昨年のグループホーム全国大会での事例発表はかなり大きかった。「見えない世界は完ぺき性を持つ」と吉田先生が言われたように、これ以上の事例はできないのではないかとさえ思うほど、里の目指す全てが込められていた。ただ、完成したのではない。ここから始まるのであって、やっと里が大人へと育つ道筋が開けた。折り返して15年先に、事例が忘れ去られていては元も子もない。一歩が始まった。勝負はこれからだ。
【暴力への抵抗】
銀河の里は2001年に開設されたが、その構想の原点は人間の暴力に対する意識だった。80年代、施設長も私も、それぞれ別の障害者施設で暴力と向きあった。「この世の地獄を見た」と施設長が当時を語るように、施設の支援の裏に傲慢と暴力が荒れ狂っていた。かなり意識していないと、誰でも自らの暴力に気づかないまま簡単に、全く悪意無く呑み込まれてしまう。
正義や理想の下に暴力が吹き荒れる歴史を人類は経てきている。20世紀は戦争に明け暮れた暴力のピークであったかもしれない。21世紀に入ったその年に9.11のテロが起こった。
里の特徴はどれも、暴力に対抗するための工夫や知恵から来ていると思う。ひとつは、操作主義を排するということ。「どうしたらいいのか」との問いに「方法はない」と捉える。マニュアルやメソッドに依るばかりではなく、最後は自らを賭けて向きあうことが重要であって、宗教の教義や科学の因果論のどちらにも転落せず、その真ん中を、耐えて歩く。どちらかに落ちるのは安易だが、自分も見失う。もうひとつは、「仕事は考えるためにある」と認識していることだ。以前訪ねた、島根の農業者の佐藤忠吉さんは「農業はものを考えるためにある」と言っていた。日露戦争の兵役で亡くなった村の若者の言葉が石に刻んであった。「鉄砲じゃなく鍬を持ちたいよ。畑を耕したい」という農民の切なる声だ。忠吉さんは言う「食べるものさえあれば戦争はしなくていい。だから私は農業をやる」彼にとって農業は、考える営みそのものなのだ。暴力とのひとつの戦いだと感じた。
最後は、「文章は解ったから書くのではなく、解らないから書いてみる」との姿勢だ。人が「生きる」ことには、明確で単純な答えはない。自分が一体何をやっているのかもあやふやなものだ。だからこそ「書く」ことが必要なのではないか。解ったから書くのではない。考え、伝えることで、自らの責任を放棄しないで課題と向きあう。事例はもちろん『あまのかわ通信』も、スタッフ個々が自分自身を見つめた取り組みの記録だと思う。
そんなことで、自らの秘めた暴力の発現に対抗できるかというと不安ではあるが、戦争とは対極にあるはず 「介護」そのものも暴力になりうる。「介護してはならない」と言ってきたのは、あながち間違ってはいない。すべての事例に魂の輝きを発見するそうした創造に挑み続けるしかない。
【通路としての介護】
介護はひとつの通路だと思う。その通路を通じて何を見いだすかが重要だ。そうした視点がなければ何も見えないし、何も起こらない。介護作業が繰り返されるだけでは創造性がない。通路は異なる次元を繋ぎ、新たな世界を創造する。
戦争のない平和な時代にあってこそ、その恐ろしさを意識する必要がある。こうした時代にこそ意識が低下してしまうからだ。大会の事例では、戦争の暴力とその傷がテーマだった。我々がなすべき事は、直接に戦争反対を叫ぶ事ではなく、現場にあって人間の意識と無意識に潜む暴力を見つめる事だと思う。
現代は、暴力がイジメや虐待、自殺など複雑な形で現れる。人ごと、知らんぷり、無関心等を暴力は狙ってくる。その状況が戦争へと繋がりかねないから恐ろしい。
機械的にマニュアル、システム、制度、対象化、操作主義で切り刻んでしまうと、通路は消え、世界が見えなくなり、急速に組織も人間も疲弊する。介護現場の分岐点はそこにある。操作主義にせよ、甘えにせよ、暴力に向かいつつある人や組織の特徴は「傷つかない」「笑いがない」の二つに現れる。表情がなくなり、あふれる怒りで周囲を傷つけ、堅苦しく、いたたまれない空気を醸し出す。
笑いがないのは、ゆとりがない、自由がないということだ。では、「傷つかない」とはどういう事なのか。一般的には、自分も傷つきたくないし他人も傷つけたくはない。ところが一方で、傷口がないと、内的な重要なことは何も語れない。いきなり魂の次元の話になるが、自分を守ってばかりで傷つかない人の魂は、無口になって死んでいく。
【塩を必要とする魂】
このあたりのことを、ヒルマン(ジェームス・ヒルマン:著作『性格の力』は銀河の里の開設の前年2000年に出版され、里の道しるべ的存在。2007年、来日し講演したおり、署名と記念撮影をしてもらった。2011年没)は、錬金術の知見から“魂は塩を必要とする”と言う。
「夢や出来事が生き生きとリアルに感じられないとき魂は塩を必要とする」
「塩なしでは出来事は過ぎ去っていくものに過ぎない。塩は、出来事を感じられるものにし、我々に、私の涙、私の汗と血、私の経験、価値といった個人の感覚を与える」
「魂は傷をなめることで滋養を引き出す。苦しみの中で塩は作られ、苦しみを信じる事で塩を得、塩の欠乏した魂を癒す」
「深い傷は単に癒されるべき傷であるだけではない。深い傷は、それなしでは魂が生きることができない貴重なエッセンスをそこから得ることができる塩の鉱脈でもある」
「泣くこと、血を流すこと、汗をかくこと、尿をすることは、内的な地下の鉱脈から塩を取り出すことである」
我々は快適と便利を享受しながら、傷つかないことにばかり気をとられ、自分を守るばかりで、他者との距離をとっているうちに、塩が与えられないまま「魂」が輝きを失い、死滅寸前な状況に追い込まれているのかもしれない。
【魂を見つめる】
我々の状況は塩どころではない、シュガー漬けで、チョコレートや生クリームにまみれて甘え切っている状態かしれない。我々は傷つけなくなっているのか、傷つき過ぎて乖離で切断し、魂に塩が供給されなくなっているのか。純粋な魂はいつまでも傷つきやすいままなのか。しかし人ごと、未熟、甘え、考えないことが暴力に繋がる恐れがある。自由で勝手なことがやれる恵まれた現代だが、なんとかして魂に塩を与える必要があるだろう。
傷と向きあうとき、こちらが自ら傷つくことを引き受けないと、相手はさらに傷ついてしまう。障害や病を抱えて生きること、死と向きあうことなど、現場の日常は塩の鉱脈に満ちている。今、時代は塩のない甘さの海のなかにあったとしても、自身のなかに深く降りていって塩を手に入れる必要がある。豊かな塩に恵まれているのが、我々現場の宝なのではないだろうか。ヒルマンは出来事を自らの経験に深めるのが魂だと言う。それには徹底した個別性が必要だ。そうでなければ怪しい宗教魔術か偽科学に転落する。
秋山さと子先生は『ソウル・アンド・ボディ』の翻訳解説のなかで、「私がチューリッヒ(ユング研究所)で学んできた最大の収穫は、人間の魂の内と外にきらめく霊性の存在の認知とそれに対する謙虚な態度である」と書かれている。ケースに霊的な輝きを認め、それに頭を垂れる姿勢こそ、里が求め続けてきた根本にある姿勢だ。霊性のきらめきを見つめ、それを記録し物語るのが里の事例に他ならない。他のどこにもないこのアプローチを未来に亘って展開していくことこそ、銀河の里に与えられた使命だと思う。
銀河の里は14年目を迎えた。私個人にとっても、折り返し点は今年あたりにあるように感じる。30年かけて深める仕事の残り半分を全うできるかどうかはわからないが、運命に任せて取り組んでいくしかない。
昨年のグループホーム全国大会での事例発表はかなり大きかった。「見えない世界は完ぺき性を持つ」と吉田先生が言われたように、これ以上の事例はできないのではないかとさえ思うほど、里の目指す全てが込められていた。ただ、完成したのではない。ここから始まるのであって、やっと里が大人へと育つ道筋が開けた。折り返して15年先に、事例が忘れ去られていては元も子もない。一歩が始まった。勝負はこれからだ。
【暴力への抵抗】
銀河の里は2001年に開設されたが、その構想の原点は人間の暴力に対する意識だった。80年代、施設長も私も、それぞれ別の障害者施設で暴力と向きあった。「この世の地獄を見た」と施設長が当時を語るように、施設の支援の裏に傲慢と暴力が荒れ狂っていた。かなり意識していないと、誰でも自らの暴力に気づかないまま簡単に、全く悪意無く呑み込まれてしまう。
正義や理想の下に暴力が吹き荒れる歴史を人類は経てきている。20世紀は戦争に明け暮れた暴力のピークであったかもしれない。21世紀に入ったその年に9.11のテロが起こった。
里の特徴はどれも、暴力に対抗するための工夫や知恵から来ていると思う。ひとつは、操作主義を排するということ。「どうしたらいいのか」との問いに「方法はない」と捉える。マニュアルやメソッドに依るばかりではなく、最後は自らを賭けて向きあうことが重要であって、宗教の教義や科学の因果論のどちらにも転落せず、その真ん中を、耐えて歩く。どちらかに落ちるのは安易だが、自分も見失う。もうひとつは、「仕事は考えるためにある」と認識していることだ。以前訪ねた、島根の農業者の佐藤忠吉さんは「農業はものを考えるためにある」と言っていた。日露戦争の兵役で亡くなった村の若者の言葉が石に刻んであった。「鉄砲じゃなく鍬を持ちたいよ。畑を耕したい」という農民の切なる声だ。忠吉さんは言う「食べるものさえあれば戦争はしなくていい。だから私は農業をやる」彼にとって農業は、考える営みそのものなのだ。暴力とのひとつの戦いだと感じた。
最後は、「文章は解ったから書くのではなく、解らないから書いてみる」との姿勢だ。人が「生きる」ことには、明確で単純な答えはない。自分が一体何をやっているのかもあやふやなものだ。だからこそ「書く」ことが必要なのではないか。解ったから書くのではない。考え、伝えることで、自らの責任を放棄しないで課題と向きあう。事例はもちろん『あまのかわ通信』も、スタッフ個々が自分自身を見つめた取り組みの記録だと思う。
そんなことで、自らの秘めた暴力の発現に対抗できるかというと不安ではあるが、戦争とは対極にあるはず 「介護」そのものも暴力になりうる。「介護してはならない」と言ってきたのは、あながち間違ってはいない。すべての事例に魂の輝きを発見するそうした創造に挑み続けるしかない。
【通路としての介護】
介護はひとつの通路だと思う。その通路を通じて何を見いだすかが重要だ。そうした視点がなければ何も見えないし、何も起こらない。介護作業が繰り返されるだけでは創造性がない。通路は異なる次元を繋ぎ、新たな世界を創造する。
戦争のない平和な時代にあってこそ、その恐ろしさを意識する必要がある。こうした時代にこそ意識が低下してしまうからだ。大会の事例では、戦争の暴力とその傷がテーマだった。我々がなすべき事は、直接に戦争反対を叫ぶ事ではなく、現場にあって人間の意識と無意識に潜む暴力を見つめる事だと思う。
現代は、暴力がイジメや虐待、自殺など複雑な形で現れる。人ごと、知らんぷり、無関心等を暴力は狙ってくる。その状況が戦争へと繋がりかねないから恐ろしい。
機械的にマニュアル、システム、制度、対象化、操作主義で切り刻んでしまうと、通路は消え、世界が見えなくなり、急速に組織も人間も疲弊する。介護現場の分岐点はそこにある。操作主義にせよ、甘えにせよ、暴力に向かいつつある人や組織の特徴は「傷つかない」「笑いがない」の二つに現れる。表情がなくなり、あふれる怒りで周囲を傷つけ、堅苦しく、いたたまれない空気を醸し出す。
笑いがないのは、ゆとりがない、自由がないということだ。では、「傷つかない」とはどういう事なのか。一般的には、自分も傷つきたくないし他人も傷つけたくはない。ところが一方で、傷口がないと、内的な重要なことは何も語れない。いきなり魂の次元の話になるが、自分を守ってばかりで傷つかない人の魂は、無口になって死んでいく。
【塩を必要とする魂】
このあたりのことを、ヒルマン(ジェームス・ヒルマン:著作『性格の力』は銀河の里の開設の前年2000年に出版され、里の道しるべ的存在。2007年、来日し講演したおり、署名と記念撮影をしてもらった。2011年没)は、錬金術の知見から“魂は塩を必要とする”と言う。
「夢や出来事が生き生きとリアルに感じられないとき魂は塩を必要とする」
「塩なしでは出来事は過ぎ去っていくものに過ぎない。塩は、出来事を感じられるものにし、我々に、私の涙、私の汗と血、私の経験、価値といった個人の感覚を与える」
「魂は傷をなめることで滋養を引き出す。苦しみの中で塩は作られ、苦しみを信じる事で塩を得、塩の欠乏した魂を癒す」
「深い傷は単に癒されるべき傷であるだけではない。深い傷は、それなしでは魂が生きることができない貴重なエッセンスをそこから得ることができる塩の鉱脈でもある」
「泣くこと、血を流すこと、汗をかくこと、尿をすることは、内的な地下の鉱脈から塩を取り出すことである」
我々は快適と便利を享受しながら、傷つかないことにばかり気をとられ、自分を守るばかりで、他者との距離をとっているうちに、塩が与えられないまま「魂」が輝きを失い、死滅寸前な状況に追い込まれているのかもしれない。
【魂を見つめる】
我々の状況は塩どころではない、シュガー漬けで、チョコレートや生クリームにまみれて甘え切っている状態かしれない。我々は傷つけなくなっているのか、傷つき過ぎて乖離で切断し、魂に塩が供給されなくなっているのか。純粋な魂はいつまでも傷つきやすいままなのか。しかし人ごと、未熟、甘え、考えないことが暴力に繋がる恐れがある。自由で勝手なことがやれる恵まれた現代だが、なんとかして魂に塩を与える必要があるだろう。
傷と向きあうとき、こちらが自ら傷つくことを引き受けないと、相手はさらに傷ついてしまう。障害や病を抱えて生きること、死と向きあうことなど、現場の日常は塩の鉱脈に満ちている。今、時代は塩のない甘さの海のなかにあったとしても、自身のなかに深く降りていって塩を手に入れる必要がある。豊かな塩に恵まれているのが、我々現場の宝なのではないだろうか。ヒルマンは出来事を自らの経験に深めるのが魂だと言う。それには徹底した個別性が必要だ。そうでなければ怪しい宗教魔術か偽科学に転落する。
秋山さと子先生は『ソウル・アンド・ボディ』の翻訳解説のなかで、「私がチューリッヒ(ユング研究所)で学んできた最大の収穫は、人間の魂の内と外にきらめく霊性の存在の認知とそれに対する謙虚な態度である」と書かれている。ケースに霊的な輝きを認め、それに頭を垂れる姿勢こそ、里が求め続けてきた根本にある姿勢だ。霊性のきらめきを見つめ、それを記録し物語るのが里の事例に他ならない。他のどこにもないこのアプローチを未来に亘って展開していくことこそ、銀河の里に与えられた使命だと思う。
支え、守り ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2014年1月号】
2013年11月号で“勝負”について書いたが、今回はその勝負をするにあたって、必要な守りと支えについて考えたい。
その日、朝から勢いのあった上小路さん(仮名)。午後、突然「あっちさ行く!」「一人で行くから!」と車椅子で動いた。どこに行くのだろう?と思いながら「わかった、いってらっしゃい」と送り出し、しばらく様子を見るが、車椅子ではもどかしくなったのか降りて歩こうとしている。さすがに危ないので手伝おうとすると「いいから!一人で行くから!」と頑なに断る。トイレかと誘ってみるがそこは“向かう場所”ではなかったようでトイレの壁を蹴って突っ張る。居室に戻ろうとするが上小路さんの行きたい所は方向が違ったのか、「そっちじゃない!あっちだ!」と叫ぶ。そして車椅子からズリズリと降りようとする。何をあがいているのだろうと私も焦る。この時はスタッフの体制も薄く、このままでは危ない。どうしようもなくなり、とりあえず怒りをかっても居室に強行で戻るしかない!と私も必死で、「ごめんなさい!まず部屋に行きます!」と勢いをつけて車椅子を押し居室に向かった。部屋は一番端で、突き当たりに窓がある。「オレのことをガラスにぶつけるつもりか!?」と被害妄想的に怒鳴る。意に沿わない方向と、私の余裕のなさ・・・色々なものが重なった。私が「そんなことしません!」と言っても「何をー!?」と言葉は入らず、怒りに任せて私を殴ろうと拳をあげて向かってくる。車椅子からも落ちそうになるので「危ないです!」と支えるが、「何するんだ、この!!」と手も足も振り回し抵抗、攻撃する。苦しくなって「暴力反対です!」と言っても「暴力だと!?」とさらに暴れる。話をしようにも受け入れてくれず、どうにも暴れるしかないようだ。「もう、なんなの!!」と私の感情もかき乱れ苦しくなる。でも、このままでは危ないと意を決してスキを狙って無理やり体を抱え、暴れて私を殴ろうとする上小路さんをなんとかベッドに移した。まず横になって安全な状態になってもらったところで、私も気持ちを落ち着かせようと一旦その場を離れた。上小路さんの感情と自分の感情の両方を一度に抱えるのは限界だった。距離を置かないと苦しくていっぱいになっていた。
ちょうど、フリーの万里栄さんがいて、部屋で格闘する様子をリビングから察してくれていた。万里栄さんとバトンタッチ。万里栄さんが様子を見に行くと、上小路さんは布団から出て床に座り込んでいる。
厳しい感じだったが、一人になったこともあって、少し切り替わって徐々に落ち着きを取り戻してきた。上小路さんは「家に帰る」と万里栄さんと二人で荷物をまとめ始めた。私も少し気持ちが落ち着いたが、まだ顔を会わせる気にはならないままで、こっそり様子を見に行った。ちょうど衣類を確認している上小路さんと目が合ってしまった。「う…また怒りがくるかな…」とその場を去ろうか迷っていると、「ちょっとちょっと!こっち来て!」と私を呼んだ。上小路さんは「それ、取ってくれない?」と頼み、確認作業に私も入れてくれた。私はまだ悶々とした気持ちだったが、上小路さんは全く別の人になったようで拍子抜けする。「やーや、申し訳ない。ごめんなさい!」と笑いながら謝る上小路さん。「まだあるっか?」と聞くので、「残りは私が後で持っていきます」と引き受けると、パァッと明るい表情で「ありがとう!申し訳ない!本当申し訳ない!」と握手を求める。「正直なんだもんね」と笑う上小路さんに私の肩の力も抜ける。“申し訳ない”の言葉に色々な意味が込められていて、先ほどの距離を埋めようとしているような気がした。
怒り暴れて私に向かってくる上小路さんが私はすごく怖かった。悲しかった。自分の心の中で色んな感情が動いた。伝わらない悔しさ、一方的な怒りに対する憤り・・・いろんな感情が押し寄せてきて苦しかった。
お互いの心の傷や負の感情と向き合うことは辛くて苦しい。相手から受けることも、自分が誰かにぶつけることも怖い。できることなら出したくも見たくない。見ないふりで通り過ぎたい。でもそれでは何も始まらない時がある。人間として豊かに、深みを増していくためには向き合わなければならない時がある。そして、そういうときは往々にしてこちらで選ぶことができない場合が多い。
利用者は認知症の力で、ありのままの自分をぶつけてくるし、ありのままの私を引き受けてくれたりもする。ネガティブな感情や見せたくない部分を本気で受け止めてくれる相手がいるということはとてもありがたいことなのかもしれない。本気でぶつかることで分かり合えたり、自分を知ったりすることがある。自分の心の動きや感情と、こうして向き合えるチャンスはなかなかないのではないだろうか。そんな瞬間を、利用者さんは私たちに与えてくれることが多々ある。それが“勝負”の場面であり、相手にとっても、自分にとってもすごく大切な場面なのだと思う。
ただ、その勝負を一人でやることは困難で危険だ。一人で抱えるには大きすぎる。その時選ばれた“私”であったり、或いは“私”が自ら選んで挑む勝負であっても、“私”がその勝負を理解し、そのプロセス全体を見守る人がいるかいないかは、とても重要だ。誰かが見ていてくれている、わかってくれて、守られているかいないかで、本気でその勝負に挑めるかどうかが決まる。自分一人で受け止めようと無理をすると、相手のことも自分のことも守れなくなってしまうことになる。
誰かと一対一で向き合う場合、時間や距離が必要なこともあるし、助っ人に代わってもらうことが必要な場面も出てくる。今回は万里栄さんの存在が大きかった。私と上小路さんの間に何かが起きているということをわかって関心を向けてくれ、見守りながら、必要であれば間に入ったり、代わったりできるスタンスでいてくれた。だから私も勝負ができた。私一人だったり、誰かがいたとしても、起こっている出来事に無関心だったり気がついていなかったら、お互いただ傷ついて終わるかもしれない。
特養はグループホームと違ってスタッフの勤務が重なる時間帯が少ない。人数が少ない分、チームという課題は大きい。人数がいてもお互い意識しあえていなければ守りは薄くなる。人数が少なくても、意識して起こることに注目できれば守りとしての場はできる。どのスタッフも自分が勝負する場面、誰かが勝負する場面に必ず出合う。支える側にも支えられる側にもお互いがなりうる。支えとなり、守りとなるチームが必要だ。銀河の里では、利用者と一対一で出会うことを大事にしているが、それはとても困難なことを内包している仕事だと思う。その仕事をするには、「場」や「環境」がチームで守られていなければならない。それが無ければ、利用者と向き合う“瞬間”さえ訪れないのではないだろうか。
その日、朝から勢いのあった上小路さん(仮名)。午後、突然「あっちさ行く!」「一人で行くから!」と車椅子で動いた。どこに行くのだろう?と思いながら「わかった、いってらっしゃい」と送り出し、しばらく様子を見るが、車椅子ではもどかしくなったのか降りて歩こうとしている。さすがに危ないので手伝おうとすると「いいから!一人で行くから!」と頑なに断る。トイレかと誘ってみるがそこは“向かう場所”ではなかったようでトイレの壁を蹴って突っ張る。居室に戻ろうとするが上小路さんの行きたい所は方向が違ったのか、「そっちじゃない!あっちだ!」と叫ぶ。そして車椅子からズリズリと降りようとする。何をあがいているのだろうと私も焦る。この時はスタッフの体制も薄く、このままでは危ない。どうしようもなくなり、とりあえず怒りをかっても居室に強行で戻るしかない!と私も必死で、「ごめんなさい!まず部屋に行きます!」と勢いをつけて車椅子を押し居室に向かった。部屋は一番端で、突き当たりに窓がある。「オレのことをガラスにぶつけるつもりか!?」と被害妄想的に怒鳴る。意に沿わない方向と、私の余裕のなさ・・・色々なものが重なった。私が「そんなことしません!」と言っても「何をー!?」と言葉は入らず、怒りに任せて私を殴ろうと拳をあげて向かってくる。車椅子からも落ちそうになるので「危ないです!」と支えるが、「何するんだ、この!!」と手も足も振り回し抵抗、攻撃する。苦しくなって「暴力反対です!」と言っても「暴力だと!?」とさらに暴れる。話をしようにも受け入れてくれず、どうにも暴れるしかないようだ。「もう、なんなの!!」と私の感情もかき乱れ苦しくなる。でも、このままでは危ないと意を決してスキを狙って無理やり体を抱え、暴れて私を殴ろうとする上小路さんをなんとかベッドに移した。まず横になって安全な状態になってもらったところで、私も気持ちを落ち着かせようと一旦その場を離れた。上小路さんの感情と自分の感情の両方を一度に抱えるのは限界だった。距離を置かないと苦しくていっぱいになっていた。
ちょうど、フリーの万里栄さんがいて、部屋で格闘する様子をリビングから察してくれていた。万里栄さんとバトンタッチ。万里栄さんが様子を見に行くと、上小路さんは布団から出て床に座り込んでいる。
厳しい感じだったが、一人になったこともあって、少し切り替わって徐々に落ち着きを取り戻してきた。上小路さんは「家に帰る」と万里栄さんと二人で荷物をまとめ始めた。私も少し気持ちが落ち着いたが、まだ顔を会わせる気にはならないままで、こっそり様子を見に行った。ちょうど衣類を確認している上小路さんと目が合ってしまった。「う…また怒りがくるかな…」とその場を去ろうか迷っていると、「ちょっとちょっと!こっち来て!」と私を呼んだ。上小路さんは「それ、取ってくれない?」と頼み、確認作業に私も入れてくれた。私はまだ悶々とした気持ちだったが、上小路さんは全く別の人になったようで拍子抜けする。「やーや、申し訳ない。ごめんなさい!」と笑いながら謝る上小路さん。「まだあるっか?」と聞くので、「残りは私が後で持っていきます」と引き受けると、パァッと明るい表情で「ありがとう!申し訳ない!本当申し訳ない!」と握手を求める。「正直なんだもんね」と笑う上小路さんに私の肩の力も抜ける。“申し訳ない”の言葉に色々な意味が込められていて、先ほどの距離を埋めようとしているような気がした。
怒り暴れて私に向かってくる上小路さんが私はすごく怖かった。悲しかった。自分の心の中で色んな感情が動いた。伝わらない悔しさ、一方的な怒りに対する憤り・・・いろんな感情が押し寄せてきて苦しかった。
お互いの心の傷や負の感情と向き合うことは辛くて苦しい。相手から受けることも、自分が誰かにぶつけることも怖い。できることなら出したくも見たくない。見ないふりで通り過ぎたい。でもそれでは何も始まらない時がある。人間として豊かに、深みを増していくためには向き合わなければならない時がある。そして、そういうときは往々にしてこちらで選ぶことができない場合が多い。
利用者は認知症の力で、ありのままの自分をぶつけてくるし、ありのままの私を引き受けてくれたりもする。ネガティブな感情や見せたくない部分を本気で受け止めてくれる相手がいるということはとてもありがたいことなのかもしれない。本気でぶつかることで分かり合えたり、自分を知ったりすることがある。自分の心の動きや感情と、こうして向き合えるチャンスはなかなかないのではないだろうか。そんな瞬間を、利用者さんは私たちに与えてくれることが多々ある。それが“勝負”の場面であり、相手にとっても、自分にとってもすごく大切な場面なのだと思う。
ただ、その勝負を一人でやることは困難で危険だ。一人で抱えるには大きすぎる。その時選ばれた“私”であったり、或いは“私”が自ら選んで挑む勝負であっても、“私”がその勝負を理解し、そのプロセス全体を見守る人がいるかいないかは、とても重要だ。誰かが見ていてくれている、わかってくれて、守られているかいないかで、本気でその勝負に挑めるかどうかが決まる。自分一人で受け止めようと無理をすると、相手のことも自分のことも守れなくなってしまうことになる。
誰かと一対一で向き合う場合、時間や距離が必要なこともあるし、助っ人に代わってもらうことが必要な場面も出てくる。今回は万里栄さんの存在が大きかった。私と上小路さんの間に何かが起きているということをわかって関心を向けてくれ、見守りながら、必要であれば間に入ったり、代わったりできるスタンスでいてくれた。だから私も勝負ができた。私一人だったり、誰かがいたとしても、起こっている出来事に無関心だったり気がついていなかったら、お互いただ傷ついて終わるかもしれない。
特養はグループホームと違ってスタッフの勤務が重なる時間帯が少ない。人数が少ない分、チームという課題は大きい。人数がいてもお互い意識しあえていなければ守りは薄くなる。人数が少なくても、意識して起こることに注目できれば守りとしての場はできる。どのスタッフも自分が勝負する場面、誰かが勝負する場面に必ず出合う。支える側にも支えられる側にもお互いがなりうる。支えとなり、守りとなるチームが必要だ。銀河の里では、利用者と一対一で出会うことを大事にしているが、それはとても困難なことを内包している仕事だと思う。その仕事をするには、「場」や「環境」がチームで守られていなければならない。それが無ければ、利用者と向き合う“瞬間”さえ訪れないのではないだろうか。
ふたりの「星影のワルツ」★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2014年1月号】
昨年の12月24日の夕方、特養でクリスマスコンサートを開いた。ピアノ・佐々木広周さん、フルート・田麦智子看護師、そしてドラムを私が担当し、「リベルタンゴ」や「ふるさと」「津軽海峡冬景色」など10数曲を1時間にわたって演奏した。初ユニットとなる3人で、曲目はなかなか固まらなかったのだが、私は「星影のワルツ」だけは絶対にやりたかった。
サチ子さん(仮名)とその息子さんが昔、一緒に歌ったというテープを、一昨年聞かせて頂き、「星影のワルツ」がお二人の思い出の曲だと知った。「歌えねー!」と言いつつ楽しげに笑っているサチ子さんの声が印象的だった。思い出の曲はたくさんあるのだろうけれど、お二人の「星影のワルツ」は、私にとっても特別な曲になった。今までライブをやる度にこの曲を演奏したい!とは思ったが、なぜかできなかった。
しかし、今回は絶対やる、自分が歌うんだという決意があった。一昨年のクリスマスコンサートの時、聴きに来てくれたサチ子さんや息子さんの笑顔が忘れられず、今年こそはという思いがあった。なんと言っても、去年の初め頃からターミナルを覚悟し、体調を崩しながらも、春夏秋冬それぞれの季節を乗り越え、生き抜いて大事な時を刻んできたサチ子さんへの「ありがとう」を伝えたかった。
しかし、練習では、自分の歌の才能の無さにがっかりした。コンサートの10日前、息子さんから電話があった。前回書いた通信の記事『サチ子さんの思い出』を読んでくださった感想だった。息子さんは元教師ということもあってか、私たち若いスタッフのことも見守ってくださって、いつも身に余る励ましをいただき、いつも力づけてもらってきた。ちょうど電話をいただいたときも全く自信をなくして落ち込んでいた時だった。明るい声で「コンサートには行くからね!楽しみにしているよ」と励まされて、「落ち込んでいる場合じゃない!」と救われた。
当日は朝からの雪だったが、コンサート予定時間にはご家族さん達がそろってお見えになった。サチ子さんはすぐに大きな笑顔を見せていた。私は、この二人の姿と笑顔を見るだけで嬉しくなる。緊張はしていたが、その時は吹っ飛んでいた。
いざコンサートが始まったが、初っ端から演奏はばらばらだった。「取り戻すぞ!」と2曲目でも意気込んだが、空回りになってしまい…思うような演奏にはならなかった。
前半が終わり20分の休憩時間になった。ホールにはユニットの利用者さん達と手作りのクリスマスケーキが並び、にぎやかに盛り上がっていた。しかし私は前半のボロボロに打ちひしがれ、後半で歌う緊張でぐちゃぐちゃだった。とてもにぎやかなホールにはいられなかった。
いよいよ後半が始まる。1曲目の「ふるさと」は、みんな口ずさみながら聞いてくれて、私もじんわりした気持ちになったが、2曲目に「星影のワルツ」をひかえており、脈拍がどんどん上がっていった。手に汗がにじむ。気持ちは落ち着かないまま、とうとうその時はやってきた。
マイクの前に立つ。練習時は、「本番、少し涙ぐんでしまうかな」程度には思っていたが、いざサチ子さんたちを前にすると、歌う前から涙が溢れてきてしまった。大切な思い出の曲を私が下手に歌って台無しにしてしまうんじゃないかとの恐れもあった。
泣いてしまって、まるで歌えない。けれど誰かが一緒に歌ってくれるのが聞こえた。最初は、その声は万里栄さんだったが、次第に皆の声が混じって私の耳に届いた。歌っている時、私はとにかく「間違っていないか」を考えていた。お二人にとって、「歌うこと、私が歌うこと、この時歌うこと」等を考えると、不安でしょうがなかった。とても繊細な美しい何かに、不用意に触れてしまうようなイメージだった。色んな迷いやモヤモヤ。泣きながら歌い終えた。
最後に、息子さんがアンコールしてくれた。二人のためにもう一度ちゃんと歌わなきゃ、という気持ちになった。伴奏が始まると、サチ子さんと息子さんが小さな本を見ている。よく見たら、それは「星影のワルツ」の歌詞が書かれた冊子だった(息子さんは、曲の歌詞を書いた手作りの冊子を持参されていた)。二人で口ずさんでおられるのを見て「一緒に歌えている」と嬉しくなった。せっかくの思い出を汚すのではないかという恐れが、この瞬間は、二人の思い出に少しだけご一緒させてもらっている様な気持になって、とても暖かくて幸せな気持ちになった。
コンサート終了後、サチ子さんは「ほしかげ…」とつぶやいて微笑んでくれた。息子さんは「おばあちゃんと一緒に歌ったよ、おばあちゃんもとっても歌いたそうだった」と言ってくださった。
私はモヤモヤして迷いもあったけれど、サチ子さんと息子さんが「星影のワルツ」を歌ったとっても幸せな場に一緒に居られて、これ以上のことは無いと思った。片付けを終え、家族さん達も帰られた後、私はサチ子さんの居室を覗いた。壁に張られたたくさんの写真や息子さん達からのメッセージを見つめていた。私は、もっとしっかり「歌」として伝えたかった、聴いて欲しかったと思っていたので、隣で「星影のワルツ」を口ずさんだ。目を細めて微笑むサチ子さん。そして、にっこりと「上手だ」と言葉をくれた。サチ子さんと息子さんが歌う「星影のワルツ」も、私が歌う「星影のワルツ」も、どちらもサチ子さんの中に残って欲しいと思った。
春、夏、秋、冬。サチ子さんと息子さんにとって昨年の大きな一年間。そしてまた新たな年が始まる。それぞれの季節、またサチ子さんのそばで過し、思い出をまた一緒に振り返りたい。そして、2月の100歳の誕生日には息子さん達と温泉旅行に行きたいと計画中だ。
サチ子さん(仮名)とその息子さんが昔、一緒に歌ったというテープを、一昨年聞かせて頂き、「星影のワルツ」がお二人の思い出の曲だと知った。「歌えねー!」と言いつつ楽しげに笑っているサチ子さんの声が印象的だった。思い出の曲はたくさんあるのだろうけれど、お二人の「星影のワルツ」は、私にとっても特別な曲になった。今までライブをやる度にこの曲を演奏したい!とは思ったが、なぜかできなかった。
しかし、今回は絶対やる、自分が歌うんだという決意があった。一昨年のクリスマスコンサートの時、聴きに来てくれたサチ子さんや息子さんの笑顔が忘れられず、今年こそはという思いがあった。なんと言っても、去年の初め頃からターミナルを覚悟し、体調を崩しながらも、春夏秋冬それぞれの季節を乗り越え、生き抜いて大事な時を刻んできたサチ子さんへの「ありがとう」を伝えたかった。
しかし、練習では、自分の歌の才能の無さにがっかりした。コンサートの10日前、息子さんから電話があった。前回書いた通信の記事『サチ子さんの思い出』を読んでくださった感想だった。息子さんは元教師ということもあってか、私たち若いスタッフのことも見守ってくださって、いつも身に余る励ましをいただき、いつも力づけてもらってきた。ちょうど電話をいただいたときも全く自信をなくして落ち込んでいた時だった。明るい声で「コンサートには行くからね!楽しみにしているよ」と励まされて、「落ち込んでいる場合じゃない!」と救われた。
当日は朝からの雪だったが、コンサート予定時間にはご家族さん達がそろってお見えになった。サチ子さんはすぐに大きな笑顔を見せていた。私は、この二人の姿と笑顔を見るだけで嬉しくなる。緊張はしていたが、その時は吹っ飛んでいた。
いざコンサートが始まったが、初っ端から演奏はばらばらだった。「取り戻すぞ!」と2曲目でも意気込んだが、空回りになってしまい…思うような演奏にはならなかった。
前半が終わり20分の休憩時間になった。ホールにはユニットの利用者さん達と手作りのクリスマスケーキが並び、にぎやかに盛り上がっていた。しかし私は前半のボロボロに打ちひしがれ、後半で歌う緊張でぐちゃぐちゃだった。とてもにぎやかなホールにはいられなかった。
いよいよ後半が始まる。1曲目の「ふるさと」は、みんな口ずさみながら聞いてくれて、私もじんわりした気持ちになったが、2曲目に「星影のワルツ」をひかえており、脈拍がどんどん上がっていった。手に汗がにじむ。気持ちは落ち着かないまま、とうとうその時はやってきた。
マイクの前に立つ。練習時は、「本番、少し涙ぐんでしまうかな」程度には思っていたが、いざサチ子さんたちを前にすると、歌う前から涙が溢れてきてしまった。大切な思い出の曲を私が下手に歌って台無しにしてしまうんじゃないかとの恐れもあった。
泣いてしまって、まるで歌えない。けれど誰かが一緒に歌ってくれるのが聞こえた。最初は、その声は万里栄さんだったが、次第に皆の声が混じって私の耳に届いた。歌っている時、私はとにかく「間違っていないか」を考えていた。お二人にとって、「歌うこと、私が歌うこと、この時歌うこと」等を考えると、不安でしょうがなかった。とても繊細な美しい何かに、不用意に触れてしまうようなイメージだった。色んな迷いやモヤモヤ。泣きながら歌い終えた。
最後に、息子さんがアンコールしてくれた。二人のためにもう一度ちゃんと歌わなきゃ、という気持ちになった。伴奏が始まると、サチ子さんと息子さんが小さな本を見ている。よく見たら、それは「星影のワルツ」の歌詞が書かれた冊子だった(息子さんは、曲の歌詞を書いた手作りの冊子を持参されていた)。二人で口ずさんでおられるのを見て「一緒に歌えている」と嬉しくなった。せっかくの思い出を汚すのではないかという恐れが、この瞬間は、二人の思い出に少しだけご一緒させてもらっている様な気持になって、とても暖かくて幸せな気持ちになった。
コンサート終了後、サチ子さんは「ほしかげ…」とつぶやいて微笑んでくれた。息子さんは「おばあちゃんと一緒に歌ったよ、おばあちゃんもとっても歌いたそうだった」と言ってくださった。
私はモヤモヤして迷いもあったけれど、サチ子さんと息子さんが「星影のワルツ」を歌ったとっても幸せな場に一緒に居られて、これ以上のことは無いと思った。片付けを終え、家族さん達も帰られた後、私はサチ子さんの居室を覗いた。壁に張られたたくさんの写真や息子さん達からのメッセージを見つめていた。私は、もっとしっかり「歌」として伝えたかった、聴いて欲しかったと思っていたので、隣で「星影のワルツ」を口ずさんだ。目を細めて微笑むサチ子さん。そして、にっこりと「上手だ」と言葉をくれた。サチ子さんと息子さんが歌う「星影のワルツ」も、私が歌う「星影のワルツ」も、どちらもサチ子さんの中に残って欲しいと思った。
春、夏、秋、冬。サチ子さんと息子さんにとって昨年の大きな一年間。そしてまた新たな年が始まる。それぞれの季節、またサチ子さんのそばで過し、思い出をまた一緒に振り返りたい。そして、2月の100歳の誕生日には息子さん達と温泉旅行に行きたいと計画中だ。
ケアマネジャー更新研修を受講して ★ケアマネジャー 板垣由紀子【2014年1月号】
早いもので、ケアマネの資格を取って5年になる。更新研修は資格取得後5年ごとに義務付けられており、自分が担当した事例を持参し、グループワークで事例検討が行われる。今回の研修講師の白木氏は、元看護師で、介護保険制度施行と同時にケアマネになりパイオニアとして活動してきた方だ。「これからは、暮らしを考える時代です。障がいだろうが、ホームレスだろうが、DVだろうが、何に対しても、ニーズを発見し社会資源を構築していくことが大事です。高齢者=介護保険パッケージがケアマネの仕事と思ったら大間違い。縦割りの行政に横ぐしを刺すくらいの覚悟が必要」と熱く語り、聞くものを圧倒する。ケアマネの礎を築いてきた人の言葉は、説得力がある。この仕事の奥の深さと未来への広がりを感じた。
私の提出した事例は、「認知症の独居の方が、なんとか自分の家で暮らし続けたい」という希望に添えるよう、暗中模索した内容のものだ。このケースで初めて私は、成年後見制度や権利擁護に取り組み、この方は生活自立支援事業の活用で今も独居を継続されている。遠方に住む家族に状況を理解していただくため何度も連絡を取ったり、本人にサービス利用の意図を伝えて理解してもらったり、社協や市の福祉課担当者への橋渡し等、利用になるまでの調整に時間がかかった。本人の了解も大変だったが、遠方に住む家族との行き違いがかなりあった。地理的な距離の問題だけではなく、ケアマネとしてなにが足りなかったのか、振り返りをしておきたかった。
事例は私なりにまとめたはずなのに、いざ発表となると、どこから話して良いかわからなくなってしまった。簡潔に要点を絞って人に伝える難しさを感じた。事例検討は、「世間話にならないように一問一答で事例を深め、感想は言わない。事実を伝える」と指導があったのだが、これがなかなか難しい。ここは司会者である主任ケアマネの腕の見せ所だ。主任ケアマネは、ケアマネジャーの上位資格で、ケアマネの実務経験を5年以上有し、専門の研修を受けたケアマネだ。地域包括ケアの要となる存在で、地域包括支援事業所に配属が義務付けられ、居宅のケアマネの相談指導・地域の課題抽出から地域包括ケアの構築を役割とする。この研修は、主任ケアマネにとっては地域で事例検討を開くための、ファシリテーターとしての研修が含まれていた。新人研修が、仕事のイロハとすると、この研修はステップアップ研修になる。一つの事例検討から、事例研究へ、研究から地域の課題の発見と地域包括ケアの構築のため社会資源をどう作っていくか等、机上の講習で終わらない。地域がかなり意識された実践研修だった。
二日目は3事例を選び、全員で事例を検討した。
【包括支援センターのケアマネはどこまでが自分の仕事か?】
地域包括ケアセンターのケアマネからの問いは、自分の仕事の範囲を区切ろうとする意図が見えて取れた。それに対し白木氏は「どこまでが仕事かというなら全部です!どれだけ、のりしろを広げ、多職種と連携を取って、地域つくりをしていくかが本来の役割です!」と、きっぱり言い切った。それくらいの意欲と、覚悟がなければ、認知症高齢者が増え、現役世代の失業や、うつ病、子供の不登校等、多重に問題を抱える困難ケースが増える時代に、縦割り感覚では全く役に立たてない。国は、介護保険事業の運営を市町村単位に任せていく方針だ。市町村の取り組み状況によって、地域格差が出ることは否めない。ケアマネは、安心して生活できる地域作りを全面的に担っているという自覚が必要だ。さらに、白木氏は「これからの地域作りに必要なのは、支援者同士の連携です。事例検討は、高齢者も障がいも混ざり合い、共に学び合っていくことのためにも大事です。障がいだから、高齢だからと分けてはいけないのです。事例検討を通して、事実を把握し、チームで支援していくことが求められています。」と話す。のりしろを広げていくのは、何も地域包括のケアマネに限ったことではない、第一線で家族の相談を受ける居宅のケアマネにそうした姿勢がなければ、連携も包括ケアも進んでいかない。縦割りや仕事を区切る今の壁を越えるために、私に必要なことは、ケースを読み解く力と、めまぐるしく変わる制度の理解、地域の社会資源の把握、柔軟な活用、そして関係機関に共通言語で伝えていくことだ。今回の研修には、管内の関係機関ケアマネも多く受講しており、地域作りへの共通認識ができたことで、これからの連携の起爆剤にしていきたいと思う。
【同級生を担当したケース】
印象に残った事例だったので紹介したい。
事例提供者のケアマネが、家族との関係が薄く一人暮らしを続けていた同級生と、入院している病院で再会した。個人的な「何か力になりたい」という思いもあって、担当を引き受けた。「最期は入所先の施設で亡くなられたが、自分がケアマネと友人という立場で揺れ、本当に良い支援が出来たのか振り返りたかった」ということだった。詳細にはふれられないが、同級生だった友人としての立場から、幼いころの生い立ちや家族関係まで語ることで、その人の人生が見えてきた。講師の白木氏は「ケースにとって友人であるケアマネとの1ヶ月のつきあいは、大切な時間だったと思う。生きる目的を見失っていたとき、伴奏者として向き合ってくれる、大きな存在だったのではないだろうか」と語った。事例検討は担当ケアマネ自身のグリーフワークにもなり、参加者も共に体験した。同級生という特異ケースと言えなくもないが、そこに本来の対人援助の本質を感じた。背景を知り、人間として向き合う。「何か力になりたい」という気持ちが支えになる。人生の伴奏者というスタイルは、私が大切にしていることの一つでもある。
少子高齢化など地域の時代変貌は危機的な状況にある。そうした時代にあって、まさに福祉や医療の現場から福祉行政を巻き込み地域を作っていく必要がある。医療現場出身の白木氏が「暮らしを作ること」を冒頭で話した。そこには「掛け替えのない人生」を尊重する姿勢が感じられた。
今回の研修では、私自身のケアマネとしての技術的な課題が明確にされた。またケースと向き合うことは、揺らぎ、悩み、考え続けることだと覚悟することができた。「人生の伴奏者」のケアマネとして任を果たしていきたいと思う。
私の提出した事例は、「認知症の独居の方が、なんとか自分の家で暮らし続けたい」という希望に添えるよう、暗中模索した内容のものだ。このケースで初めて私は、成年後見制度や権利擁護に取り組み、この方は生活自立支援事業の活用で今も独居を継続されている。遠方に住む家族に状況を理解していただくため何度も連絡を取ったり、本人にサービス利用の意図を伝えて理解してもらったり、社協や市の福祉課担当者への橋渡し等、利用になるまでの調整に時間がかかった。本人の了解も大変だったが、遠方に住む家族との行き違いがかなりあった。地理的な距離の問題だけではなく、ケアマネとしてなにが足りなかったのか、振り返りをしておきたかった。
事例は私なりにまとめたはずなのに、いざ発表となると、どこから話して良いかわからなくなってしまった。簡潔に要点を絞って人に伝える難しさを感じた。事例検討は、「世間話にならないように一問一答で事例を深め、感想は言わない。事実を伝える」と指導があったのだが、これがなかなか難しい。ここは司会者である主任ケアマネの腕の見せ所だ。主任ケアマネは、ケアマネジャーの上位資格で、ケアマネの実務経験を5年以上有し、専門の研修を受けたケアマネだ。地域包括ケアの要となる存在で、地域包括支援事業所に配属が義務付けられ、居宅のケアマネの相談指導・地域の課題抽出から地域包括ケアの構築を役割とする。この研修は、主任ケアマネにとっては地域で事例検討を開くための、ファシリテーターとしての研修が含まれていた。新人研修が、仕事のイロハとすると、この研修はステップアップ研修になる。一つの事例検討から、事例研究へ、研究から地域の課題の発見と地域包括ケアの構築のため社会資源をどう作っていくか等、机上の講習で終わらない。地域がかなり意識された実践研修だった。
二日目は3事例を選び、全員で事例を検討した。
【包括支援センターのケアマネはどこまでが自分の仕事か?】
地域包括ケアセンターのケアマネからの問いは、自分の仕事の範囲を区切ろうとする意図が見えて取れた。それに対し白木氏は「どこまでが仕事かというなら全部です!どれだけ、のりしろを広げ、多職種と連携を取って、地域つくりをしていくかが本来の役割です!」と、きっぱり言い切った。それくらいの意欲と、覚悟がなければ、認知症高齢者が増え、現役世代の失業や、うつ病、子供の不登校等、多重に問題を抱える困難ケースが増える時代に、縦割り感覚では全く役に立たてない。国は、介護保険事業の運営を市町村単位に任せていく方針だ。市町村の取り組み状況によって、地域格差が出ることは否めない。ケアマネは、安心して生活できる地域作りを全面的に担っているという自覚が必要だ。さらに、白木氏は「これからの地域作りに必要なのは、支援者同士の連携です。事例検討は、高齢者も障がいも混ざり合い、共に学び合っていくことのためにも大事です。障がいだから、高齢だからと分けてはいけないのです。事例検討を通して、事実を把握し、チームで支援していくことが求められています。」と話す。のりしろを広げていくのは、何も地域包括のケアマネに限ったことではない、第一線で家族の相談を受ける居宅のケアマネにそうした姿勢がなければ、連携も包括ケアも進んでいかない。縦割りや仕事を区切る今の壁を越えるために、私に必要なことは、ケースを読み解く力と、めまぐるしく変わる制度の理解、地域の社会資源の把握、柔軟な活用、そして関係機関に共通言語で伝えていくことだ。今回の研修には、管内の関係機関ケアマネも多く受講しており、地域作りへの共通認識ができたことで、これからの連携の起爆剤にしていきたいと思う。
【同級生を担当したケース】
印象に残った事例だったので紹介したい。
事例提供者のケアマネが、家族との関係が薄く一人暮らしを続けていた同級生と、入院している病院で再会した。個人的な「何か力になりたい」という思いもあって、担当を引き受けた。「最期は入所先の施設で亡くなられたが、自分がケアマネと友人という立場で揺れ、本当に良い支援が出来たのか振り返りたかった」ということだった。詳細にはふれられないが、同級生だった友人としての立場から、幼いころの生い立ちや家族関係まで語ることで、その人の人生が見えてきた。講師の白木氏は「ケースにとって友人であるケアマネとの1ヶ月のつきあいは、大切な時間だったと思う。生きる目的を見失っていたとき、伴奏者として向き合ってくれる、大きな存在だったのではないだろうか」と語った。事例検討は担当ケアマネ自身のグリーフワークにもなり、参加者も共に体験した。同級生という特異ケースと言えなくもないが、そこに本来の対人援助の本質を感じた。背景を知り、人間として向き合う。「何か力になりたい」という気持ちが支えになる。人生の伴奏者というスタイルは、私が大切にしていることの一つでもある。
少子高齢化など地域の時代変貌は危機的な状況にある。そうした時代にあって、まさに福祉や医療の現場から福祉行政を巻き込み地域を作っていく必要がある。医療現場出身の白木氏が「暮らしを作ること」を冒頭で話した。そこには「掛け替えのない人生」を尊重する姿勢が感じられた。
今回の研修では、私自身のケアマネとしての技術的な課題が明確にされた。またケースと向き合うことは、揺らぎ、悩み、考え続けることだと覚悟することができた。「人生の伴奏者」のケアマネとして任を果たしていきたいと思う。
ユニットリーダー研修に参加して ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2014年1月号】
先日、ユニットリーダー研修に仙台と山形へ行ってきた。これからの老人ホームは個室対応、少人数介護、一人一人に合わせた個別ケアが可能なユニット型が主流となりつつある。認知症高齢者の独居、老々介護等の時代には、高齢者施設の役割はますます重要になり、介護の内容も変化してきている。
私は介護の知識も経験もないまま、ユニット型特別養護老人ホームに勤務して4年間、情熱と若さで乗り切ってきたが来たが、このまま無知ではまずいことも痛感していた矢先の研修参加だった。
【座学】
初めの3日間は座学で、ユニットケアの概念や、ユニットリーダーのあり方、24時間シートについて学んだ。ユニットリーダーやケアマネや施設管理者が90名ほどの会場で、ほとんどが30〜50代の現場経験10年以上のベテランだった。
まず、ユニットケアの理念の講義。老人福祉法の施設設備及び運営に関する基準の第33条の「一人一人の生活習慣や好みを尊重し今までの暮らしが継続出来るようにサポートすること」を根拠に4つのポイント「少人数ケア体制をつくる/入居者が自分の住まいと思えるような環境をつくる/24時間の暮らしを保証する仕組みをつくる/今までの暮らしを続けてもらえるような暮らしをつくる」ということについて説明があった。どこか違和感があった。利用者にスポットが当たらず、スタッフがいかに利用者を管理するかに傾き、24時間シートがすべてのような話だった。
私が捉えた24時間シートは「まず、利用者個々の24時間の行動を事細かく分刻みに観察しデータを取る。それを情報化し10分おきに書き込みシートを作る。それに沿ったケアを記入して24時間シートができあがる。それをスタッフが把握しモニタリングする。実行しながら評価を繰り返し更新していく。各スタッフは同じケアをサービスできるし、新人や協力ユニットのスタッフでも、24時間シートで、一人一人の個別ケアが可能になり、時間軸にまとめることにより、作業効率や業務の見直しが可能。家族さんに説明しやすくなり、クレーム防止になる。監査などにもすぐに対応できる」ということだった。
行動データを細かく観察し、それに添ってケアとしての介助をおこない、なにも問題が起こらないように管理する。起こってくることは問題視し、問題解決にむけてケアで縛っているような気がした。なにかおかしい。 「利用者の尊重と暮らしを支えるケア」と言葉では語られ、受講者はなんの疑問を持たず受け入れている。「認知症の人には3パターンの24時間シートを作れば、どんな行動や問題が起きてもほぼ対応できる」と言う話には、怒りが込み上げた。人間がパターンに当てはまるわけがないし、時々刻々と感情も動いている。それに応じて動きだって変わってくる。人間存在をパターン化して捉えられると言い切るのは傲慢そのものだ。人間の家畜化が行われているようで恐ろしくなった。それを推奨している日本ユニットケア推進センターにも腹がたった。最終日には参加者のほぼ全員が「学んだことを実践に生かしたい」と意気込んでいた。とても恐ろしい業界だと感じた。
【現場実習】
座学のボディブローで、私はズタズタだったが、さらに研修は現場実習へと続く。実習先はとても綺麗なユニット空間で、生活感があった。備品や家電も配置が工夫されて、くつろげる空間も充分にあり、ゆったりと時間が流れる。食事もおいしく、個室もまるで自宅だった。ここで暮らしている方達は幸せなんだろうなと思った。利用者も「どこからきたの?」「ここは語尾に“のぅ” がつくんじゃ」などと話しかけてくれる。スタッフも無駄のない動きで、オムツ交換なども細かい配慮がきちんとされていた。完璧で理想だとその時は感じて、いい感触で参考にしたいと思った。
2日目、リビングを見渡すと、お茶を飲み続けるおじいさんがいたので私は会釈をした。昨日もそのおじいさんはその席に一人で座っていた。今日も小さいテーブルに一人で座っている。ポットと湯飲みが置かれ、ただ黙って遠くを眺めていた。1時間過ぎても、そのおじいさんはそこに座り続けていた。気になったので隣に座って過ごした。そのうち、そのおじいさんはオブジェに過ぎないのではないかと感じた。ポットと湯飲みが小さいテーブルに置かれている。数時間に一度スタッフが無言でポットを回収し、お茶を補充していく。おじいさんが席から立ち上がると「こっちですよ」とスタッフがトイレへ案内する。スタッフに連れられて戻ってきたおじいさんは、また同じ席へ座わりお茶を渡される。そして1時間かけてそのお茶を飲むとまた立ち上がる。そしてまたトイレへの繰り返しだ。おじいさんは無言だった。その日スタッフに「あのおじいさんはなぜ一人でお茶を飲んでいるのですか?」と質問した。「あそこが一番落ち着くんです。ガンガンと歩く方だったので大変でした。スタッフで話し合い、空間を工夫しようと、いろいろと試した結果、あの一人用テーブルに落ち着きました。穏やかに過ごされてたでしょう? 認知症の方でも落ち着ける居場所があれば、一人でお茶を飲んで過ごされますよ」と笑顔で話す。「一人でお茶を飲みながら何を考えているのでしょう?」と返すと、「さぁ。でもいい表情です」と笑顔のスタッフ。やはり私にはおじいさんはオブジェにされているとしか思えなかった。落ち着ける居場所に縛りつけられている。お茶も、そこから動かせない工夫でしかない。また、トイレの後は、同じ場所に座ってもらってお茶を出すと決まっているようで、おじいさんも湯飲みを見るとすぐに手に取る。条件付けに過ぎないのではないか。ケース記録は「起床、入浴、食事、入眠、くつろぐ」といった単純な言葉の羅列で、それだけでしかないのかと打ちのめされた。
3日目、4日目は違うユニットで実習となった。また違った雰囲気で、時間はゆったりと流れていた。1週間前に入居された男性利用者がいた。そのおじいさんは、帰宅願望と徘徊があるとの説明だった。農業者で手のひらの厚さが私の手の2倍はあった。がっしりした体格で少し近寄りがたい感じがあったが「おい!今日空模様悪いな、どうする?」と腕を組み話しかけてくれた。「そうですねぇ、天気悪いですね」と返すと、「今手伝ってくれるか?ビニールかけないとダメだ。苗、悪ぐなってしまうのー。俺、一輪車取ってくるがら、準備しててくれ!」と立ち上がり窓や玄関へと歩いた。その方が立ち上がった瞬間に何名かのスタッフが「どうしたんですか?座っていてください」「トイレはこっちですよ」「外へは雨だから出られませんよ」と、連れ戻し、トイレ誘導してお茶を出した。すぐにスタッフはいなくなる。連れ戻されたおじいさんは、「俺一人じゃできないんだけどなぁ。手伝ってくれる人いないべか?早くしないとダメになってしまうのー」と言うと、また立ち上がっては連れ戻されるの繰り返しだった。しまいには目の前に本を置かれて「なんだこれ?」とページをめくるとスタッフがデジカメで撮り「本を読んで過ごす」「本を読み落ち着かれる」と記録していた。本を読んではおらず、めくっただけだ。ケース記録には、その方の気持ちや、動きにどう寄り添ったか、ストーリーがどうなったかは全く書かれていない。「本を読んで落ち着く」「甘い飲み物を飲んでゆったり過ごす」「何回歩く」といった表面的なことばかりだ。帰宅願望や徘徊を問題行動として捉えて、そこにある気持ちは無視され「落着かせる」ために刺激を与えない感じは、その人の存在を消す作業をやっているようで心が痛くなった。これでは意欲を無くして、座って過ごすしかなくなる。
もう一人のおばあさん。バルーンをつけている方で、リビングのソファで過ごされていた。上半身が少し動かせる程度で、自力の移動はできず、ソファでおしりの位置を変えることもできなかった。ほとんど目をつむって眠っていた。1〜2時間ごと目を覚まし、か細い声で「すみません、おしっこが出ます」と訴える。しかし、スタッフは「バルーンが付いているので大丈夫ですよ。ここでしてくださいね」と声を掛けて立ち去った。リビングで用を足すのはバルーンとはいえ誰だってイヤだ。おばあさんは、しばらく「すみません、おしっこが出ます」と言い続けるとまた目をつむり眠った。
昼食の盛りつけが始まり、利用者とスタッフで「今日は焼きたてのホッケですよ」「おいしそうだ、焼き魚が一番よね」「この時期なら鮭もだんだんにあがる頃でしょ、食べたいわ」と盛り上がる。私もそんな食事前の会話が楽しかった。その時、遠くのソファから、こちらを見ているあのおばあさんに気がついた。私はお婆さんのソファの横に座った。「…おしっこ…出ます…お願いします」と息が上がり、唾液もたくさん出ていた。おそらく、昼食準備でにぎわっている最中、必死にスタッフを呼び続けていたのだろう。私はまったくその声が聞こえていなかった。「ごめんなさい」と謝る私を、何も言わずじーっと見つめた。スタッフが「もう少しでご飯ができますからねー」と笑顔で言い、口の周りをタオルで拭くと、すぐにいなくなった。
私はそのままおばあさんの隣に座り続けていた。すると「私が見えますか?私が映っていますか?」と聞いてきた。私は驚いて言葉に詰まったが、気迫に押されて「…はい」と答えた。すると、「あなた…、見えていないでしょ、見ていないでしょ。私の存在を知らないでしょ。私は存在していませんよ」と話された。その言葉に私は涙が出そうだった。続けて「春よこい、早くこい、歩き始めたみぃちゃんは、赤い鼻緒のじょじょ履いて、おんもへ出たいと待っている」と息が上がりそうになりながら歌ってくれた。そして、「お地蔵様の話を聞きなさい、お地蔵様に話しかけなさい。そして、お地蔵様とあなたの間にお花を置き供えなさい。私の存在はありません。存在はしません」と語られた。私は「はい、わかりました」とやっと応えた。すると「どーも」と言うとまた眠られた。
重い言葉に打たれてしばらく動けなかった。表面上きれいで理想に思える施設が、人間の存在を簡単に消してしまっている。利用者の身の回りやケアについて考えようとしながら、どこかで過ちを犯している。人間と人生そのものにはなんの関心もない。また「介護員とは黒子に徹し、その方の人生をサポートする存在」と言う人もいるが、それも介護する側される側に分けた上での言いぐさだ。銀河の里では人生や語りの中から、テーマやプロセスを追い、一緒に生きていくスタイルだが、そうでないと人間と人間との関わりにはならない。世の中が効率・簡潔・マニュアルを求め、感情は考慮しない仕組みになっている。マニュアルは人間と人間の関係では役に立たない。そのおばあさんの言うとおり、利用者の存在を消さないように必死で向き合っていくしかない。
今回の研修中に何度か「おかしいのでは」と噛みついたが、全く相手にすらしてもらえなかった。銀河の里に戻ってきて改めて考えてみると、問題は自分にあった。講義の内容に違和感を持つものの、感情しか出てこず、論理的・具体的に説明できない。銀河の里での実践が、私の軸となり核とはなっているものの、説明ができなきゃ聞いてもらえない。自分の課題を痛感した。
研修最終日「効率を考えながらよくがんばっていますね。マニュアル通りの作業をこなし、定時に帰ってすばらしいですね。利用者は、立ち上がったり歩いたりすると連れ戻されるんですね。利用者の語りに耳を傾けず、心に残るなんてことはあり得ないのですね。みなさんこんなとこに収容されて最悪ですね。生きた心地なんてしないですよね。でも、今の私には何もできません。すみません」という無力感、寂寥感で終わった。
10万円もかかった研修、ただただ怒りと悲しみでいっぱいになり、そして、心のエネルギーさえ奪われた研修。無駄に思えた。
【銀河の里での早番と会議】
研修から戻り、休みを一日おいて、早番が2日続いた。私は早番が好きで魅力に感じている。利用者さんがそれぞれにガンガンと動き、私も巻き込まれていく。その日の流れが早番で決まるのでワクワクする。研修の後、10日ぶりの銀河の現場は生き返るようで楽しかった。しかし、今までとは違う感覚があった。
「ご飯くださーい!」「オラにばり食わせねぇもん」と叫び続けるユキさん(仮名)。特別な関わりが必要な方で、朝食でもめないことはない。「こんなべちゃべちゃごはん!みんなは固いご飯なのに、オラばりぺーっこ!」と叫ぶ。ソフト食なので仕方ないのだから理不尽な文句だ。私は「梅っこ持ってきたよ?ひとっつ?ふたっつ?」と梅干しをサービスする。ご飯の上にのせ「まずっ!あーまずい!」と言いながら全部たいらげるユキさん。「おいしいから食べたんでしょー!」と言っても「うまぐね!」とかわいくない。ユキさんの「うまぐね」「まずい」は「おいしい」と同じかそれ以上の意味がある。「ユキさんはこんなに怒り、叫びながら食べてた。まずいと何回も言いながら完食し、居室に横になってもまずかったと叫んで、またご飯食べたいってすぐに起きてきたんだよー」とスタッフに申し送る。
銀河の里は朝から大騒動だ。でもそんなやりとりが“私とあなた”の関係を作っている。92歳のユキさんは内蔵の体調もあってか嘔吐しやすい。でも会話しながらの食事ではなぜか吐かない。夜中にリビングで二人で食べたときは吐かない。普段ソフト食のユキさんが、外食では寿司や海鮮丼などを食べるし、吐かないという事実もある。嘔吐は、誰かとの“特別な関係”があれば極端に少なくなる。
嘔吐しないような食事形態や工夫を考えると同時に、ユキさんとの会話や関係について会議で話し合い、吐くということの意味を考えた。また、そこからユキさんとの食事にも更に興味を持って、結果、嘔吐が減っていた。しかし、その早番の日の夜、ユキさんは嘔吐した。92歳の身体にはとても辛く呼吸も上がってしまう。ユキさんも「もう食わね!」と悲しげな表情で食事をやめる。
その次の日、申し送りでは嘔吐したという事実しか伝えられなかったが、その後のやりとりがとても充実していて、ケース記録にはユキさんとのその後の会話が書かれていた。しかし、そこに私はひっかかった。やりとりは楽しいし、利用者さんとの関わりは私にとってずっと大切だった。オムツ交換や食事介助も、その方との関わりの通路だった。その関わりを軸に意識や興味が高まり、身体面もカバーしてきた。もちろんユキさんの食形態も工夫してきたし、スタッフも一緒に食事がとれるような体制もとってきた。しかし、この日は嘔吐自体が私の不安要素になった。
嘔吐のデータを3ヶ月分、居室担当の広周さんに作ってもらった。嘔吐の状況はどのように変化してきたのか、時間やスタッフとの関連が部分的には解っても全体では把握されておらず、同じ事の繰り返しで手を打っているとは言えなかった。「このデータをどうしたいの?なにがわかるんだろうね?」との声もあった。私は3年続いている嘔吐に対して、連続してデータをとり、対策を考えなければ、なんとかしなければと、会議までにさまざまな情報を集めた。
会議には、嘔吐の時間帯、嘔吐量、食事形態、排便との関連性を3ヶ月分表に細かくまとめてあった。そして「うーん、どうなんでしょう?」と首をかしげる。「どうなんでしょうじゃねーだろ!こんだけ細かいデータがあればすべてわかるだろうが!このデータから対策考えないといけないだろ!」と私は爆発しそうだった。会議の10名全員が「…」と最初無言だった。その後、出てきた案は「食事量を一日のトータルで考え、時間ややりとりで工夫する」程度のものだった。そして、会話はやりとりの話になる。私は「こんなんでユキさんを守れるのかよ?」と怒りが湧いた。会議後、また広周さんが「データ作ったけど…、なにが分かったのかな?」と独り言をつぶやいていた。私は具体的に対策が決まらなかったことでイライラしてそそくさと帰った。
それから数日間、「なんで職員が3人もいるのに、この利用者さんをトイレに誘導しないんだ」「入浴に誰も入れていないのに、
ゆったりと利用者さん達と過ごしているだけってどういうことだよ」「処置がある人は、早く横にしないとだめだろ!」などと細かいことが気になってしかたなくなった。そしてどんどんつまらなくなっていった。ユニットにいても私だけ違った人のようになり、私は自分が怖くなってきた。
そして広周さんの「これでなにがわかるんだろうね」という言葉が気になり、夜ひとりで資料を見直してみた。「これだけの細いデータがあればすべて分かる」と思った自分に疑問を持った。「すべてとはなんだ?嘔吐?ユキさん?因果関係?」改めて資料を見てみるとデータからはなんにも分からないことに気がついた。9月に比べ11月は嘔吐率が高い。昼食は嘔吐する前に前兆として、ゲップやむせ込みが見られる。夕食は箸を付ける前からゲップがあり、吐きやすい。そんな事はユニットのスタッフは当たり前のように解っている。隣に座って食事をとる工夫も自然な流れで行われてきた。
一番の問題は、私だった。ユキさんという人間を、“嘔吐”としか捉えようとしていなかった。嘔吐を問題視しデータをとって対策をして、その行為を消し去ることしか考えていなかった。私はユキさんの話がしたいのではなく、嘔吐対処法の話をしたかったのだろうか。そんなだから、ユキさんと過ごしても楽しくならなかった。ユキさんの語りには耳を傾けていなかった。その必要を感じなかった。ユニットで感じた“私だけ違う生き物”という感覚は、他の人間を問題としてしか認識せず、問題の解決しか捉えていなかった。人間じゃないのは私だった。
なにが正しくて、なにが間違っているのか。私は何をすればいいのか。悩む。銀河の里に来てから4年考え悩み続けてきた。そして、今回もまた悩む。なにが正しいか考えて安易に答えがほしくなる。
研修は、くだらないと思ったが、今の自分にとっては必要だった。科学的根拠、データの集積、課題や問題の明確化と対策、業務の効率化等を学んだ。銀河の里では、その人の人生のテーマや魂の語りが注目される。対極にあるが、どちらも正しいと感じた。どちらかだけに視点を置き、対極側を否定していても、それは間違っている。利用者は安全や安心も欲しいし、人間としても存在しているべきだ。どちらかに傾いたら、それに気がつく感覚と戻ってくる力も必要なんだろうと思う。利用者を扱うことに徹すれば、安全が確保できてスタッフも定時に帰れて楽だ。利用者と生きれば、心も動き感情も出てくる。それを「物語」として綴ることに価値があると思うが、どちらも必要で、どちらも欠けてはいけない。それを今回の研修と、帰ってきてからの日々に学んだ。
私は介護の知識も経験もないまま、ユニット型特別養護老人ホームに勤務して4年間、情熱と若さで乗り切ってきたが来たが、このまま無知ではまずいことも痛感していた矢先の研修参加だった。
【座学】
初めの3日間は座学で、ユニットケアの概念や、ユニットリーダーのあり方、24時間シートについて学んだ。ユニットリーダーやケアマネや施設管理者が90名ほどの会場で、ほとんどが30〜50代の現場経験10年以上のベテランだった。
まず、ユニットケアの理念の講義。老人福祉法の施設設備及び運営に関する基準の第33条の「一人一人の生活習慣や好みを尊重し今までの暮らしが継続出来るようにサポートすること」を根拠に4つのポイント「少人数ケア体制をつくる/入居者が自分の住まいと思えるような環境をつくる/24時間の暮らしを保証する仕組みをつくる/今までの暮らしを続けてもらえるような暮らしをつくる」ということについて説明があった。どこか違和感があった。利用者にスポットが当たらず、スタッフがいかに利用者を管理するかに傾き、24時間シートがすべてのような話だった。
私が捉えた24時間シートは「まず、利用者個々の24時間の行動を事細かく分刻みに観察しデータを取る。それを情報化し10分おきに書き込みシートを作る。それに沿ったケアを記入して24時間シートができあがる。それをスタッフが把握しモニタリングする。実行しながら評価を繰り返し更新していく。各スタッフは同じケアをサービスできるし、新人や協力ユニットのスタッフでも、24時間シートで、一人一人の個別ケアが可能になり、時間軸にまとめることにより、作業効率や業務の見直しが可能。家族さんに説明しやすくなり、クレーム防止になる。監査などにもすぐに対応できる」ということだった。
行動データを細かく観察し、それに添ってケアとしての介助をおこない、なにも問題が起こらないように管理する。起こってくることは問題視し、問題解決にむけてケアで縛っているような気がした。なにかおかしい。 「利用者の尊重と暮らしを支えるケア」と言葉では語られ、受講者はなんの疑問を持たず受け入れている。「認知症の人には3パターンの24時間シートを作れば、どんな行動や問題が起きてもほぼ対応できる」と言う話には、怒りが込み上げた。人間がパターンに当てはまるわけがないし、時々刻々と感情も動いている。それに応じて動きだって変わってくる。人間存在をパターン化して捉えられると言い切るのは傲慢そのものだ。人間の家畜化が行われているようで恐ろしくなった。それを推奨している日本ユニットケア推進センターにも腹がたった。最終日には参加者のほぼ全員が「学んだことを実践に生かしたい」と意気込んでいた。とても恐ろしい業界だと感じた。
【現場実習】
座学のボディブローで、私はズタズタだったが、さらに研修は現場実習へと続く。実習先はとても綺麗なユニット空間で、生活感があった。備品や家電も配置が工夫されて、くつろげる空間も充分にあり、ゆったりと時間が流れる。食事もおいしく、個室もまるで自宅だった。ここで暮らしている方達は幸せなんだろうなと思った。利用者も「どこからきたの?」「ここは語尾に“のぅ” がつくんじゃ」などと話しかけてくれる。スタッフも無駄のない動きで、オムツ交換なども細かい配慮がきちんとされていた。完璧で理想だとその時は感じて、いい感触で参考にしたいと思った。
2日目、リビングを見渡すと、お茶を飲み続けるおじいさんがいたので私は会釈をした。昨日もそのおじいさんはその席に一人で座っていた。今日も小さいテーブルに一人で座っている。ポットと湯飲みが置かれ、ただ黙って遠くを眺めていた。1時間過ぎても、そのおじいさんはそこに座り続けていた。気になったので隣に座って過ごした。そのうち、そのおじいさんはオブジェに過ぎないのではないかと感じた。ポットと湯飲みが小さいテーブルに置かれている。数時間に一度スタッフが無言でポットを回収し、お茶を補充していく。おじいさんが席から立ち上がると「こっちですよ」とスタッフがトイレへ案内する。スタッフに連れられて戻ってきたおじいさんは、また同じ席へ座わりお茶を渡される。そして1時間かけてそのお茶を飲むとまた立ち上がる。そしてまたトイレへの繰り返しだ。おじいさんは無言だった。その日スタッフに「あのおじいさんはなぜ一人でお茶を飲んでいるのですか?」と質問した。「あそこが一番落ち着くんです。ガンガンと歩く方だったので大変でした。スタッフで話し合い、空間を工夫しようと、いろいろと試した結果、あの一人用テーブルに落ち着きました。穏やかに過ごされてたでしょう? 認知症の方でも落ち着ける居場所があれば、一人でお茶を飲んで過ごされますよ」と笑顔で話す。「一人でお茶を飲みながら何を考えているのでしょう?」と返すと、「さぁ。でもいい表情です」と笑顔のスタッフ。やはり私にはおじいさんはオブジェにされているとしか思えなかった。落ち着ける居場所に縛りつけられている。お茶も、そこから動かせない工夫でしかない。また、トイレの後は、同じ場所に座ってもらってお茶を出すと決まっているようで、おじいさんも湯飲みを見るとすぐに手に取る。条件付けに過ぎないのではないか。ケース記録は「起床、入浴、食事、入眠、くつろぐ」といった単純な言葉の羅列で、それだけでしかないのかと打ちのめされた。
3日目、4日目は違うユニットで実習となった。また違った雰囲気で、時間はゆったりと流れていた。1週間前に入居された男性利用者がいた。そのおじいさんは、帰宅願望と徘徊があるとの説明だった。農業者で手のひらの厚さが私の手の2倍はあった。がっしりした体格で少し近寄りがたい感じがあったが「おい!今日空模様悪いな、どうする?」と腕を組み話しかけてくれた。「そうですねぇ、天気悪いですね」と返すと、「今手伝ってくれるか?ビニールかけないとダメだ。苗、悪ぐなってしまうのー。俺、一輪車取ってくるがら、準備しててくれ!」と立ち上がり窓や玄関へと歩いた。その方が立ち上がった瞬間に何名かのスタッフが「どうしたんですか?座っていてください」「トイレはこっちですよ」「外へは雨だから出られませんよ」と、連れ戻し、トイレ誘導してお茶を出した。すぐにスタッフはいなくなる。連れ戻されたおじいさんは、「俺一人じゃできないんだけどなぁ。手伝ってくれる人いないべか?早くしないとダメになってしまうのー」と言うと、また立ち上がっては連れ戻されるの繰り返しだった。しまいには目の前に本を置かれて「なんだこれ?」とページをめくるとスタッフがデジカメで撮り「本を読んで過ごす」「本を読み落ち着かれる」と記録していた。本を読んではおらず、めくっただけだ。ケース記録には、その方の気持ちや、動きにどう寄り添ったか、ストーリーがどうなったかは全く書かれていない。「本を読んで落ち着く」「甘い飲み物を飲んでゆったり過ごす」「何回歩く」といった表面的なことばかりだ。帰宅願望や徘徊を問題行動として捉えて、そこにある気持ちは無視され「落着かせる」ために刺激を与えない感じは、その人の存在を消す作業をやっているようで心が痛くなった。これでは意欲を無くして、座って過ごすしかなくなる。
もう一人のおばあさん。バルーンをつけている方で、リビングのソファで過ごされていた。上半身が少し動かせる程度で、自力の移動はできず、ソファでおしりの位置を変えることもできなかった。ほとんど目をつむって眠っていた。1〜2時間ごと目を覚まし、か細い声で「すみません、おしっこが出ます」と訴える。しかし、スタッフは「バルーンが付いているので大丈夫ですよ。ここでしてくださいね」と声を掛けて立ち去った。リビングで用を足すのはバルーンとはいえ誰だってイヤだ。おばあさんは、しばらく「すみません、おしっこが出ます」と言い続けるとまた目をつむり眠った。
昼食の盛りつけが始まり、利用者とスタッフで「今日は焼きたてのホッケですよ」「おいしそうだ、焼き魚が一番よね」「この時期なら鮭もだんだんにあがる頃でしょ、食べたいわ」と盛り上がる。私もそんな食事前の会話が楽しかった。その時、遠くのソファから、こちらを見ているあのおばあさんに気がついた。私はお婆さんのソファの横に座った。「…おしっこ…出ます…お願いします」と息が上がり、唾液もたくさん出ていた。おそらく、昼食準備でにぎわっている最中、必死にスタッフを呼び続けていたのだろう。私はまったくその声が聞こえていなかった。「ごめんなさい」と謝る私を、何も言わずじーっと見つめた。スタッフが「もう少しでご飯ができますからねー」と笑顔で言い、口の周りをタオルで拭くと、すぐにいなくなった。
私はそのままおばあさんの隣に座り続けていた。すると「私が見えますか?私が映っていますか?」と聞いてきた。私は驚いて言葉に詰まったが、気迫に押されて「…はい」と答えた。すると、「あなた…、見えていないでしょ、見ていないでしょ。私の存在を知らないでしょ。私は存在していませんよ」と話された。その言葉に私は涙が出そうだった。続けて「春よこい、早くこい、歩き始めたみぃちゃんは、赤い鼻緒のじょじょ履いて、おんもへ出たいと待っている」と息が上がりそうになりながら歌ってくれた。そして、「お地蔵様の話を聞きなさい、お地蔵様に話しかけなさい。そして、お地蔵様とあなたの間にお花を置き供えなさい。私の存在はありません。存在はしません」と語られた。私は「はい、わかりました」とやっと応えた。すると「どーも」と言うとまた眠られた。
重い言葉に打たれてしばらく動けなかった。表面上きれいで理想に思える施設が、人間の存在を簡単に消してしまっている。利用者の身の回りやケアについて考えようとしながら、どこかで過ちを犯している。人間と人生そのものにはなんの関心もない。また「介護員とは黒子に徹し、その方の人生をサポートする存在」と言う人もいるが、それも介護する側される側に分けた上での言いぐさだ。銀河の里では人生や語りの中から、テーマやプロセスを追い、一緒に生きていくスタイルだが、そうでないと人間と人間との関わりにはならない。世の中が効率・簡潔・マニュアルを求め、感情は考慮しない仕組みになっている。マニュアルは人間と人間の関係では役に立たない。そのおばあさんの言うとおり、利用者の存在を消さないように必死で向き合っていくしかない。
今回の研修中に何度か「おかしいのでは」と噛みついたが、全く相手にすらしてもらえなかった。銀河の里に戻ってきて改めて考えてみると、問題は自分にあった。講義の内容に違和感を持つものの、感情しか出てこず、論理的・具体的に説明できない。銀河の里での実践が、私の軸となり核とはなっているものの、説明ができなきゃ聞いてもらえない。自分の課題を痛感した。
研修最終日「効率を考えながらよくがんばっていますね。マニュアル通りの作業をこなし、定時に帰ってすばらしいですね。利用者は、立ち上がったり歩いたりすると連れ戻されるんですね。利用者の語りに耳を傾けず、心に残るなんてことはあり得ないのですね。みなさんこんなとこに収容されて最悪ですね。生きた心地なんてしないですよね。でも、今の私には何もできません。すみません」という無力感、寂寥感で終わった。
10万円もかかった研修、ただただ怒りと悲しみでいっぱいになり、そして、心のエネルギーさえ奪われた研修。無駄に思えた。
【銀河の里での早番と会議】
研修から戻り、休みを一日おいて、早番が2日続いた。私は早番が好きで魅力に感じている。利用者さんがそれぞれにガンガンと動き、私も巻き込まれていく。その日の流れが早番で決まるのでワクワクする。研修の後、10日ぶりの銀河の現場は生き返るようで楽しかった。しかし、今までとは違う感覚があった。
「ご飯くださーい!」「オラにばり食わせねぇもん」と叫び続けるユキさん(仮名)。特別な関わりが必要な方で、朝食でもめないことはない。「こんなべちゃべちゃごはん!みんなは固いご飯なのに、オラばりぺーっこ!」と叫ぶ。ソフト食なので仕方ないのだから理不尽な文句だ。私は「梅っこ持ってきたよ?ひとっつ?ふたっつ?」と梅干しをサービスする。ご飯の上にのせ「まずっ!あーまずい!」と言いながら全部たいらげるユキさん。「おいしいから食べたんでしょー!」と言っても「うまぐね!」とかわいくない。ユキさんの「うまぐね」「まずい」は「おいしい」と同じかそれ以上の意味がある。「ユキさんはこんなに怒り、叫びながら食べてた。まずいと何回も言いながら完食し、居室に横になってもまずかったと叫んで、またご飯食べたいってすぐに起きてきたんだよー」とスタッフに申し送る。
銀河の里は朝から大騒動だ。でもそんなやりとりが“私とあなた”の関係を作っている。92歳のユキさんは内蔵の体調もあってか嘔吐しやすい。でも会話しながらの食事ではなぜか吐かない。夜中にリビングで二人で食べたときは吐かない。普段ソフト食のユキさんが、外食では寿司や海鮮丼などを食べるし、吐かないという事実もある。嘔吐は、誰かとの“特別な関係”があれば極端に少なくなる。
嘔吐しないような食事形態や工夫を考えると同時に、ユキさんとの会話や関係について会議で話し合い、吐くということの意味を考えた。また、そこからユキさんとの食事にも更に興味を持って、結果、嘔吐が減っていた。しかし、その早番の日の夜、ユキさんは嘔吐した。92歳の身体にはとても辛く呼吸も上がってしまう。ユキさんも「もう食わね!」と悲しげな表情で食事をやめる。
その次の日、申し送りでは嘔吐したという事実しか伝えられなかったが、その後のやりとりがとても充実していて、ケース記録にはユキさんとのその後の会話が書かれていた。しかし、そこに私はひっかかった。やりとりは楽しいし、利用者さんとの関わりは私にとってずっと大切だった。オムツ交換や食事介助も、その方との関わりの通路だった。その関わりを軸に意識や興味が高まり、身体面もカバーしてきた。もちろんユキさんの食形態も工夫してきたし、スタッフも一緒に食事がとれるような体制もとってきた。しかし、この日は嘔吐自体が私の不安要素になった。
嘔吐のデータを3ヶ月分、居室担当の広周さんに作ってもらった。嘔吐の状況はどのように変化してきたのか、時間やスタッフとの関連が部分的には解っても全体では把握されておらず、同じ事の繰り返しで手を打っているとは言えなかった。「このデータをどうしたいの?なにがわかるんだろうね?」との声もあった。私は3年続いている嘔吐に対して、連続してデータをとり、対策を考えなければ、なんとかしなければと、会議までにさまざまな情報を集めた。
会議には、嘔吐の時間帯、嘔吐量、食事形態、排便との関連性を3ヶ月分表に細かくまとめてあった。そして「うーん、どうなんでしょう?」と首をかしげる。「どうなんでしょうじゃねーだろ!こんだけ細かいデータがあればすべてわかるだろうが!このデータから対策考えないといけないだろ!」と私は爆発しそうだった。会議の10名全員が「…」と最初無言だった。その後、出てきた案は「食事量を一日のトータルで考え、時間ややりとりで工夫する」程度のものだった。そして、会話はやりとりの話になる。私は「こんなんでユキさんを守れるのかよ?」と怒りが湧いた。会議後、また広周さんが「データ作ったけど…、なにが分かったのかな?」と独り言をつぶやいていた。私は具体的に対策が決まらなかったことでイライラしてそそくさと帰った。
それから数日間、「なんで職員が3人もいるのに、この利用者さんをトイレに誘導しないんだ」「入浴に誰も入れていないのに、
ゆったりと利用者さん達と過ごしているだけってどういうことだよ」「処置がある人は、早く横にしないとだめだろ!」などと細かいことが気になってしかたなくなった。そしてどんどんつまらなくなっていった。ユニットにいても私だけ違った人のようになり、私は自分が怖くなってきた。
そして広周さんの「これでなにがわかるんだろうね」という言葉が気になり、夜ひとりで資料を見直してみた。「これだけの細いデータがあればすべて分かる」と思った自分に疑問を持った。「すべてとはなんだ?嘔吐?ユキさん?因果関係?」改めて資料を見てみるとデータからはなんにも分からないことに気がついた。9月に比べ11月は嘔吐率が高い。昼食は嘔吐する前に前兆として、ゲップやむせ込みが見られる。夕食は箸を付ける前からゲップがあり、吐きやすい。そんな事はユニットのスタッフは当たり前のように解っている。隣に座って食事をとる工夫も自然な流れで行われてきた。
一番の問題は、私だった。ユキさんという人間を、“嘔吐”としか捉えようとしていなかった。嘔吐を問題視しデータをとって対策をして、その行為を消し去ることしか考えていなかった。私はユキさんの話がしたいのではなく、嘔吐対処法の話をしたかったのだろうか。そんなだから、ユキさんと過ごしても楽しくならなかった。ユキさんの語りには耳を傾けていなかった。その必要を感じなかった。ユニットで感じた“私だけ違う生き物”という感覚は、他の人間を問題としてしか認識せず、問題の解決しか捉えていなかった。人間じゃないのは私だった。
なにが正しくて、なにが間違っているのか。私は何をすればいいのか。悩む。銀河の里に来てから4年考え悩み続けてきた。そして、今回もまた悩む。なにが正しいか考えて安易に答えがほしくなる。
研修は、くだらないと思ったが、今の自分にとっては必要だった。科学的根拠、データの集積、課題や問題の明確化と対策、業務の効率化等を学んだ。銀河の里では、その人の人生のテーマや魂の語りが注目される。対極にあるが、どちらも正しいと感じた。どちらかだけに視点を置き、対極側を否定していても、それは間違っている。利用者は安全や安心も欲しいし、人間としても存在しているべきだ。どちらかに傾いたら、それに気がつく感覚と戻ってくる力も必要なんだろうと思う。利用者を扱うことに徹すれば、安全が確保できてスタッフも定時に帰れて楽だ。利用者と生きれば、心も動き感情も出てくる。それを「物語」として綴ることに価値があると思うが、どちらも必要で、どちらも欠けてはいけない。それを今回の研修と、帰ってきてからの日々に学んだ。
優しく厳しく、潔く ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2014年1月号】
昨年11月末、フユさん(仮名)が入院になった。食事を呑み込むのが難しくなっていたフユさんは、それでも、食べるという意思を伝えてきた。医師からは胃瘻造設のすすめもあったが、家族さんは「最後は自然な形で、銀河の里で静かに」との決断をされた。約一ヶ月の絶食と点滴治療を耐えて、フユさんの退院が迫っていた。
居室担当の角津田さんから、「フユさんが帰ってくる前に、チームのみんなで話がしたい」と申し出があった。病院で嚥下訓練をしているとは言え、唾液ですら誤嚥しかねない状態で、24時間の点滴で命を繋いでいる現状。「戻ってくるということは、その先、一緒にいられる時間は長くはない」ということだとは、みんなわかっていた。ターミナルとしての受け入れとなると・・・フユさんが大好きな角津田さんの動揺を私は心配していたが、その彼女から、話し合いの申し出があったのは心強かった。ミーティングでは「食べるリスクもあるが、フユさんとの最期の時間をどう豊かに過ごすかを大事に考えよう」と話した。
私もフユさんが大好きだ。最近では言葉を発する事も減ってしまい、あんなに語っていた夢の世界の物語も聞けなくなっていたし、ほとんど寝てばっかりなんだけれど、どうしてか“そばにいたい”と思う。入院中も何度も会いに行った。ふわふわと目を開けたり閉じたりしてた。こちらの声に(うん、うん)と優しく頷いてくれたり、外の冷気で冷えた手を顔に押しつけると(あいやぁ!)と驚いた表情を見せてくれたりした。
ウトウトするフユさんのベッドサイドで、これまでを振り返る。一年ほど前、全身に黄疸が出て、食べることも難しくなり、一度はターミナルの体制をとった。ちょうどその頃、「孫さん夫婦が妊娠」との明るいニュースに「ひっこ(曾孫)の顔、見るぞ〜」と一緒に喜んだ。それからフユさんは、孫嫁さんの崩しがちだった体調回復と出産の無事を祈りながら、自分自身の体調も盛り返して、頑張って食べるようになっていった。ものすごいことだ。「ひっこ、生まれるの11月の予定ってらっけもんね、フユさんもがんばれぇ」と耳元で声をかける。
曾孫さんは、予定より早い出産で、フユさんが入院になる直前に無事に生まれた。母子共に元気で「何より嬉しいねぇ、嫁ごも赤ちゃんも、頑張ってけだと〜」と言うと、フユさんは、ふわぁっとした表情で微かに笑った。
クリスマスのころ、フユさんは熱も下がり、酸素マスクもとれ、退院も間近だった。ところが、曾孫さんがお乳をつまらせ入院中とのことだった。年越しまでには退院できる予定だったが、落ち着くまでもう少し・・・と、フユさんの退院は曾孫さんが退院してからの年明けということになった。
クリスマスも年越しも特養のユニットで過ごしたかったがかなわず、その代わりに、毎日のようにお見舞いに行った。手作りのクリスマスカードやミニ門松を病室に持って行って、ベッドサイドで過ごした。窓の外をじっと見つめるフユさん。私はいっぱい語りかけた。「良い子にしてらもん、サンタさん来るかな?」うんうん。「外、雪、降ってらぁの、雪かきさねばねぇよ〜」あや〜。「餅つきして、鏡餅つくったよ、これで年越しできるねぇ」うん。「ひっこ頑張ってらづよ〜、ばあちゃんも頑張ってけでね〜」うんうん。足の爪を切ると、(こちょがってぇ!)とでも言うように、手足を引っ込めていた。正月3日、近所の神社から権現様が来て舞を披露してもらった。無病息災を願う儀式を、フユさんと共に受けているつもりで私も頭を噛んでもらった。その日、神様にお供えしたみかんを真白さんが持たせてくれたので、さっそく届ける。「とっくに年が明けました、今年もよろしくね」うんうん。鼻に押しつけると、一息すうっと香りを吸い込み、その後ずっと、みかんを握りしめて離さなかった。
角津田さんも足繁く病院に通っていた。時には、フユさんのベッドで寝入ってしまうほど、ゆっくり過ごしたこともあったらしい。「昨日も行ってきました、みかん、また握ってもらいました」と話す。さらに「中屋さんが作ったクリスマスカードを見たら、私、フユさんと一緒に居たんだなぁと思って・・・」と話してくれた。そろって浴衣を着た夏祭り・ユニットのそばのリンゴ園で一緒に収穫・“角津田美容院”での散髪で笑っているところ等、フユさんと角津田さんが二人で写っている写真を貼ったカードだった。「先月号の中屋さんの記事は、自分にはどうしてもフユさんのこととして読んだ」と言う。中屋としても「フユさんや泰三さん(仮名)のことを思って書いた」「フユさんのために何かをしてあげられたとはとても自信が持てないけれど、フユさん本人がどう思っていたかは本当のところはわからないけれど、それでも一緒にいたくて、一緒にいることだけは必死にやってきたよね」等、お互いにゆっくり話せた。
「フユさんの夢を見ました」と語る角津田さん。「やっぱり私、泣きたいんだな、って思ったんです」と、夢からのメッセージを受けとめていた。彼女は一時の沈黙を置くと、「フユさんが帰ってきて一緒にここで過ごしたい気持ちもあるけど、本当は、病院にいてほしいって思っちゃってるんです・・・」と呟いた。病院にいる限り延命は続く。「まだ居てほしい・・・」と言うと、しばらくの間、彼女は声を上げて泣いた。本心を口にし、声を出して泣く角津田さんを見ながら、一年前とは見違えるほど強くなったなぁと、フユさんに感謝の気持ちが湧いてきて、私も泣いた。彼女の夢から、私は、この先の未来と希望、力強さ等を感じた。
それから間もなく、曾孫さんが退院したと知らせが入った。フユさんの退院日も決まりまた会いに行く。「ひっこちゃん、先に、元気で家さ帰ったづよ〜」うんうん。「ばあちゃんが頑張ってけだからだよ〜」うん。「ありがとや〜、フユさん、ありがと〜」うん、うん。「あさって、フユさんも帰るべしね〜」うん。・・・フユさんと曾孫さんのふたりは、もうすでにどこかで会っていたんじゃないか、と感じた。
翌日、退院に備えて、居室を飾った。明るい表情の角津田さんが、てきぱき掃除をして、家族さんも寛げるようにとソファを入れる。こだわって買ってきた花束は、夏祭りの時に浴衣用に作ったお揃いの黄色い花かんざしと同じ色だった。寝て過ごすフユさんの目線でも見えるようにと、花瓶の高さもこだわっていた。ユニットの花瓶を全部引っ張り出して、リーダーの万里栄さんとあーだこーだとやりとりの末、「じゃあ、もう、好きなの買ってきたらいいよ」と万里栄さんも呆れてしまうほどこだわっていた。新人の頃の角津田さんは、「はぁ…」とか「あぁ…」とか「いやぁ…」しか言わず、しかも間がえっらい長くて・・・、はっきり自分の思っていることを語る人ではなかった。一年前、フユさんがターミナルとなった時のユニット会議では、その状況を受け入れられず、自分の気持ちも語れず、泣くことさえもできず、ただ黙っているだけだったのを思い出す。フユさんがくれたこの一年は、本当に大きかったんだなぁ、と思う。入院中に伸びた髪の毛が気になるので、いつ床屋さんに来てもらおうかと相談していると、さっと手を上げて「私が切りたいです」ときっぱりと言った。「あ、そうだよね!」とみんな納得した。
そうやって、あれやこれや、フユさんと一緒にしたいことを、ユニットのスタッフそれぞれが思い描きながら迎えた退院当日、1月9日。お迎えの万里栄さんと帰ってきたフユさんを、私も高橋看護師と共に玄関で迎えた。「おかえりー!わー!」「フユさーん!にゃー!」声のでっかいツートップの万里栄さんと中屋に両サイドから叫ばれて、閉じていた目が開いた! 高橋さんもフユさんの鼻をちょんちょんする。ステレオ大音量のお出迎え?! に、少し目をきょろきょろっとさせて周りを見渡したかと思うと、にこぉっと笑ってくれた!「帰ってきたんだよ〜、わかってるんだね〜」と高橋さん。その後、すうっと一筋の涙を流したフユさんだった。
角津田さんが念入りにしつらえた居室に横になる。みんなが顔を見にやってくる。「やぁがましいとこに帰ってきてしまったねぇ」と賑やか。私も、仕事の合間をみて、事務所から何度も居室に足を運んだ。穏やかな寝息が嬉しい。フユさんが“ここに居る”ってだけで、私はこんなに満たされた気持ちになるんだと自分でも驚くほどだった。
それでも時間がもう無いのはわかっている。一週間か、もっとか・・・。ところが帰ってきたその日の夜だった。ユニット会議中でみんな揃っていた。フユさんは逝った。帰ってきて安心したのか、穏やかな顔。外は吹雪だったが、駆けつけた孫さん夫婦と一緒に一晩過ごした、温かい夜になった。翌朝は、勤務の人も休みの人も来て、最後のお別れができた。そんな時間までくれたフユさん。まだ体がほこほこと温かくて、寂しい気持ちが救われるようだった。角津田さんは、顔の産毛を綺麗に剃ってあげて、葬儀屋さんが来る直前まで、フユさんの手を握っていた。
担架に乗せられたフユさんに、いつも添い寝していたクマのぬいぐるみを抱かせた高橋看護師、こだわりの花束を握らせた角津田さん。そうして白い布がかけられたとき、私はとたんに涙が溢れ出た。玄関へ向かうフユさんを、私はすぐには追うことができなかった。突然に泣けてきた自分に驚き、「行かないでほしい・・・!」と叫んだ。まさかそんな言葉を口にするなんて・・・と足がすくんだ。
雪の中、お孫さん達と一緒に帰って行ったフユさん。葬儀の日も大粒の雪がもかもか降っていた。真夏でも「雪、降ってらべぇ?」と雪かきを心配していたフユさんの姿が思い出される。参列したスタッフが持ち帰ったお花は、やっぱり“フユさんの温かい黄色”だった。
空いたベッドには、フユさんの笑顔の写真が置かれ、花かんざしが2本添えられ、ベッドサイドには平野さんがつくったリンゴゼリーも供えられた(以前、フユさんと「酔っぱらった〜」とはしゃいだ思い出になぞらえて、見た目がビールそっくりになっている!)。「フユさんが帰ってきたら一緒に食べたいと思っていたけど・・・」と平野さん。「行くのがあんまりにも潔すぎたよね・・・」「“角津田美容院”もやらせてくれなかったね、フユさん」写真のなかのフユさんは、「なぁに、おめたち、いじけたこと言ってらってぇ!しっかりせぇ」と言ってるようだった。優しく厳しく我々を鍛えてくれる“おばあちゃん”だなぁ、これまでも、これからも!
みんな“明日”という日がない人たちなんだと改めて思う。それは、絶望的にじゃなく、だからこそ今日という日を大事に一緒にいるんだという希望を持って、そう思う。「空いたベッドで寝たい」と言った角津田さん、「まだまだ整理、つけたくない・・・」そうだよ、整理などつくものか、いつまでも。でも、フユさんからもらった、大きく強く育ててもらったこの一年を、これからの生きていく力にしていってほしい。だって、フユさんはこんなに大きいじゃないか、あなたにとって!
葬儀に寄せられたお孫さんの挨拶文、「土いじりが大好きだったばあちゃんが苦労して作った畑の野菜で、私は大きくしてもらった」というくだりが、とても印象に残った。フユさんは夢の中でもよく畑にいて、起きたとき、お孫さんを案じるセリフをよく聞いた。いつだったか面会に来られたとき、スーツ姿に目を細め、「達夫(お孫さんの仮名)、なぁんと立派になってぇ」と微笑んでいた。何年か前の年越しでは、達夫さんに年賀状をだそうと「なんて書く?」と声をかけたら、「元気で、好きに暮らせ〜、って」と返ってきた。入院して間もない頃、酸素マスクの下からやっと聞き取れた一言「もは、あど、いいがら〜」と繋がる。『俺のことより、若い人たちが自分で考え、自分を信じて、元気で好きにやってくれれば、それが一番のばあちゃんの願いだ』ということだろう。一年前、ターミナルかと思いきや、曾孫さんの誕生と、その命の危機からの回復を見届けたフユさん。ほとんど寝てばっかりな日々だったはずなのに、角津田さんはじめ、スタッフも育ててくれた。大仕事をして、次の世代にバトンを繋ぎ、見事、あざやかに逝ったなぁと感じる。フユさんのこの世での時間があの日までと決まっていたのか。ホントにあの日、私たちの元へ帰ってきてくれたことを、心からありがたいと思う。
この文章を書き上げたとき、病室でフユさんが握りしめていたみかんを角津田さんと半分こした。ちょっとしなびてはいたけど、いい香りがした。フユさんと過ごした日々を、ちゃんと味わって、フユさんに負けないっくらい、しなやかに潤って、潔く生きていきたい。ありがとうフユさん。これからも私たちを見守っていてください。
居室担当の角津田さんから、「フユさんが帰ってくる前に、チームのみんなで話がしたい」と申し出があった。病院で嚥下訓練をしているとは言え、唾液ですら誤嚥しかねない状態で、24時間の点滴で命を繋いでいる現状。「戻ってくるということは、その先、一緒にいられる時間は長くはない」ということだとは、みんなわかっていた。ターミナルとしての受け入れとなると・・・フユさんが大好きな角津田さんの動揺を私は心配していたが、その彼女から、話し合いの申し出があったのは心強かった。ミーティングでは「食べるリスクもあるが、フユさんとの最期の時間をどう豊かに過ごすかを大事に考えよう」と話した。
私もフユさんが大好きだ。最近では言葉を発する事も減ってしまい、あんなに語っていた夢の世界の物語も聞けなくなっていたし、ほとんど寝てばっかりなんだけれど、どうしてか“そばにいたい”と思う。入院中も何度も会いに行った。ふわふわと目を開けたり閉じたりしてた。こちらの声に(うん、うん)と優しく頷いてくれたり、外の冷気で冷えた手を顔に押しつけると(あいやぁ!)と驚いた表情を見せてくれたりした。
ウトウトするフユさんのベッドサイドで、これまでを振り返る。一年ほど前、全身に黄疸が出て、食べることも難しくなり、一度はターミナルの体制をとった。ちょうどその頃、「孫さん夫婦が妊娠」との明るいニュースに「ひっこ(曾孫)の顔、見るぞ〜」と一緒に喜んだ。それからフユさんは、孫嫁さんの崩しがちだった体調回復と出産の無事を祈りながら、自分自身の体調も盛り返して、頑張って食べるようになっていった。ものすごいことだ。「ひっこ、生まれるの11月の予定ってらっけもんね、フユさんもがんばれぇ」と耳元で声をかける。
曾孫さんは、予定より早い出産で、フユさんが入院になる直前に無事に生まれた。母子共に元気で「何より嬉しいねぇ、嫁ごも赤ちゃんも、頑張ってけだと〜」と言うと、フユさんは、ふわぁっとした表情で微かに笑った。
クリスマスのころ、フユさんは熱も下がり、酸素マスクもとれ、退院も間近だった。ところが、曾孫さんがお乳をつまらせ入院中とのことだった。年越しまでには退院できる予定だったが、落ち着くまでもう少し・・・と、フユさんの退院は曾孫さんが退院してからの年明けということになった。
クリスマスも年越しも特養のユニットで過ごしたかったがかなわず、その代わりに、毎日のようにお見舞いに行った。手作りのクリスマスカードやミニ門松を病室に持って行って、ベッドサイドで過ごした。窓の外をじっと見つめるフユさん。私はいっぱい語りかけた。「良い子にしてらもん、サンタさん来るかな?」うんうん。「外、雪、降ってらぁの、雪かきさねばねぇよ〜」あや〜。「餅つきして、鏡餅つくったよ、これで年越しできるねぇ」うん。「ひっこ頑張ってらづよ〜、ばあちゃんも頑張ってけでね〜」うんうん。足の爪を切ると、(こちょがってぇ!)とでも言うように、手足を引っ込めていた。正月3日、近所の神社から権現様が来て舞を披露してもらった。無病息災を願う儀式を、フユさんと共に受けているつもりで私も頭を噛んでもらった。その日、神様にお供えしたみかんを真白さんが持たせてくれたので、さっそく届ける。「とっくに年が明けました、今年もよろしくね」うんうん。鼻に押しつけると、一息すうっと香りを吸い込み、その後ずっと、みかんを握りしめて離さなかった。
角津田さんも足繁く病院に通っていた。時には、フユさんのベッドで寝入ってしまうほど、ゆっくり過ごしたこともあったらしい。「昨日も行ってきました、みかん、また握ってもらいました」と話す。さらに「中屋さんが作ったクリスマスカードを見たら、私、フユさんと一緒に居たんだなぁと思って・・・」と話してくれた。そろって浴衣を着た夏祭り・ユニットのそばのリンゴ園で一緒に収穫・“角津田美容院”での散髪で笑っているところ等、フユさんと角津田さんが二人で写っている写真を貼ったカードだった。「先月号の中屋さんの記事は、自分にはどうしてもフユさんのこととして読んだ」と言う。中屋としても「フユさんや泰三さん(仮名)のことを思って書いた」「フユさんのために何かをしてあげられたとはとても自信が持てないけれど、フユさん本人がどう思っていたかは本当のところはわからないけれど、それでも一緒にいたくて、一緒にいることだけは必死にやってきたよね」等、お互いにゆっくり話せた。
「フユさんの夢を見ました」と語る角津田さん。「やっぱり私、泣きたいんだな、って思ったんです」と、夢からのメッセージを受けとめていた。彼女は一時の沈黙を置くと、「フユさんが帰ってきて一緒にここで過ごしたい気持ちもあるけど、本当は、病院にいてほしいって思っちゃってるんです・・・」と呟いた。病院にいる限り延命は続く。「まだ居てほしい・・・」と言うと、しばらくの間、彼女は声を上げて泣いた。本心を口にし、声を出して泣く角津田さんを見ながら、一年前とは見違えるほど強くなったなぁと、フユさんに感謝の気持ちが湧いてきて、私も泣いた。彼女の夢から、私は、この先の未来と希望、力強さ等を感じた。
それから間もなく、曾孫さんが退院したと知らせが入った。フユさんの退院日も決まりまた会いに行く。「ひっこちゃん、先に、元気で家さ帰ったづよ〜」うんうん。「ばあちゃんが頑張ってけだからだよ〜」うん。「ありがとや〜、フユさん、ありがと〜」うん、うん。「あさって、フユさんも帰るべしね〜」うん。・・・フユさんと曾孫さんのふたりは、もうすでにどこかで会っていたんじゃないか、と感じた。
翌日、退院に備えて、居室を飾った。明るい表情の角津田さんが、てきぱき掃除をして、家族さんも寛げるようにとソファを入れる。こだわって買ってきた花束は、夏祭りの時に浴衣用に作ったお揃いの黄色い花かんざしと同じ色だった。寝て過ごすフユさんの目線でも見えるようにと、花瓶の高さもこだわっていた。ユニットの花瓶を全部引っ張り出して、リーダーの万里栄さんとあーだこーだとやりとりの末、「じゃあ、もう、好きなの買ってきたらいいよ」と万里栄さんも呆れてしまうほどこだわっていた。新人の頃の角津田さんは、「はぁ…」とか「あぁ…」とか「いやぁ…」しか言わず、しかも間がえっらい長くて・・・、はっきり自分の思っていることを語る人ではなかった。一年前、フユさんがターミナルとなった時のユニット会議では、その状況を受け入れられず、自分の気持ちも語れず、泣くことさえもできず、ただ黙っているだけだったのを思い出す。フユさんがくれたこの一年は、本当に大きかったんだなぁ、と思う。入院中に伸びた髪の毛が気になるので、いつ床屋さんに来てもらおうかと相談していると、さっと手を上げて「私が切りたいです」ときっぱりと言った。「あ、そうだよね!」とみんな納得した。
そうやって、あれやこれや、フユさんと一緒にしたいことを、ユニットのスタッフそれぞれが思い描きながら迎えた退院当日、1月9日。お迎えの万里栄さんと帰ってきたフユさんを、私も高橋看護師と共に玄関で迎えた。「おかえりー!わー!」「フユさーん!にゃー!」声のでっかいツートップの万里栄さんと中屋に両サイドから叫ばれて、閉じていた目が開いた! 高橋さんもフユさんの鼻をちょんちょんする。ステレオ大音量のお出迎え?! に、少し目をきょろきょろっとさせて周りを見渡したかと思うと、にこぉっと笑ってくれた!「帰ってきたんだよ〜、わかってるんだね〜」と高橋さん。その後、すうっと一筋の涙を流したフユさんだった。
角津田さんが念入りにしつらえた居室に横になる。みんなが顔を見にやってくる。「やぁがましいとこに帰ってきてしまったねぇ」と賑やか。私も、仕事の合間をみて、事務所から何度も居室に足を運んだ。穏やかな寝息が嬉しい。フユさんが“ここに居る”ってだけで、私はこんなに満たされた気持ちになるんだと自分でも驚くほどだった。
それでも時間がもう無いのはわかっている。一週間か、もっとか・・・。ところが帰ってきたその日の夜だった。ユニット会議中でみんな揃っていた。フユさんは逝った。帰ってきて安心したのか、穏やかな顔。外は吹雪だったが、駆けつけた孫さん夫婦と一緒に一晩過ごした、温かい夜になった。翌朝は、勤務の人も休みの人も来て、最後のお別れができた。そんな時間までくれたフユさん。まだ体がほこほこと温かくて、寂しい気持ちが救われるようだった。角津田さんは、顔の産毛を綺麗に剃ってあげて、葬儀屋さんが来る直前まで、フユさんの手を握っていた。
担架に乗せられたフユさんに、いつも添い寝していたクマのぬいぐるみを抱かせた高橋看護師、こだわりの花束を握らせた角津田さん。そうして白い布がかけられたとき、私はとたんに涙が溢れ出た。玄関へ向かうフユさんを、私はすぐには追うことができなかった。突然に泣けてきた自分に驚き、「行かないでほしい・・・!」と叫んだ。まさかそんな言葉を口にするなんて・・・と足がすくんだ。
雪の中、お孫さん達と一緒に帰って行ったフユさん。葬儀の日も大粒の雪がもかもか降っていた。真夏でも「雪、降ってらべぇ?」と雪かきを心配していたフユさんの姿が思い出される。参列したスタッフが持ち帰ったお花は、やっぱり“フユさんの温かい黄色”だった。
空いたベッドには、フユさんの笑顔の写真が置かれ、花かんざしが2本添えられ、ベッドサイドには平野さんがつくったリンゴゼリーも供えられた(以前、フユさんと「酔っぱらった〜」とはしゃいだ思い出になぞらえて、見た目がビールそっくりになっている!)。「フユさんが帰ってきたら一緒に食べたいと思っていたけど・・・」と平野さん。「行くのがあんまりにも潔すぎたよね・・・」「“角津田美容院”もやらせてくれなかったね、フユさん」写真のなかのフユさんは、「なぁに、おめたち、いじけたこと言ってらってぇ!しっかりせぇ」と言ってるようだった。優しく厳しく我々を鍛えてくれる“おばあちゃん”だなぁ、これまでも、これからも!
みんな“明日”という日がない人たちなんだと改めて思う。それは、絶望的にじゃなく、だからこそ今日という日を大事に一緒にいるんだという希望を持って、そう思う。「空いたベッドで寝たい」と言った角津田さん、「まだまだ整理、つけたくない・・・」そうだよ、整理などつくものか、いつまでも。でも、フユさんからもらった、大きく強く育ててもらったこの一年を、これからの生きていく力にしていってほしい。だって、フユさんはこんなに大きいじゃないか、あなたにとって!
葬儀に寄せられたお孫さんの挨拶文、「土いじりが大好きだったばあちゃんが苦労して作った畑の野菜で、私は大きくしてもらった」というくだりが、とても印象に残った。フユさんは夢の中でもよく畑にいて、起きたとき、お孫さんを案じるセリフをよく聞いた。いつだったか面会に来られたとき、スーツ姿に目を細め、「達夫(お孫さんの仮名)、なぁんと立派になってぇ」と微笑んでいた。何年か前の年越しでは、達夫さんに年賀状をだそうと「なんて書く?」と声をかけたら、「元気で、好きに暮らせ〜、って」と返ってきた。入院して間もない頃、酸素マスクの下からやっと聞き取れた一言「もは、あど、いいがら〜」と繋がる。『俺のことより、若い人たちが自分で考え、自分を信じて、元気で好きにやってくれれば、それが一番のばあちゃんの願いだ』ということだろう。一年前、ターミナルかと思いきや、曾孫さんの誕生と、その命の危機からの回復を見届けたフユさん。ほとんど寝てばっかりな日々だったはずなのに、角津田さんはじめ、スタッフも育ててくれた。大仕事をして、次の世代にバトンを繋ぎ、見事、あざやかに逝ったなぁと感じる。フユさんのこの世での時間があの日までと決まっていたのか。ホントにあの日、私たちの元へ帰ってきてくれたことを、心からありがたいと思う。
この文章を書き上げたとき、病室でフユさんが握りしめていたみかんを角津田さんと半分こした。ちょっとしなびてはいたけど、いい香りがした。フユさんと過ごした日々を、ちゃんと味わって、フユさんに負けないっくらい、しなやかに潤って、潔く生きていきたい。ありがとうフユさん。これからも私たちを見守っていてください。
ゴッシュの旅 ★施設長 宮澤京子【2014年1月号】
今回の旅は、私にとって銀河の里の次期事業展開に必要な方向性やイメージを見いだす重要な旅と位置づけていた。行き先は、『ゴッホ美術館』のあるアムステルダム、そしてシュタイナーが設計した『ゲーテアヌム』のあるスイスのバーゼル。この旅の名は、ゴッホとシュタイナーをもじって「ゴッシュ」と名付けた。
ゴッホが最後に描いた『鴉の群れ飛ぶ麦畑』を直に見みるために、アムステルダムまでやって来た。一昨年私は、ゴッホが自殺前の70日間を過ごしたフランスのオーヴェル・シュル・オワーズを訪れた。オーヴェル教会の裏にある坂道を登り切ると、一面黄色の麦畑が広がる。黄色の畑と青空とのコントラストに感動した。そこは、銃を自分に向け、下宿先だったラヴォー亭のアトリエを血に染めたゴッホ終焉の地でもある。麦畑には『鴉の群れ飛ぶ麦畑』の看板が立てられていたが、フランスでは、その絵を直に見ることは出来なかった。ゴッホはアルルで耳切事件を起こし、入退院を繰り返した後、この地に来てガシェ医師のもとで治療を受けていた。精神を病みながら、突き動かされるようにキャンバスに向かうゴッホ。私は、不気味とも不思議とも思える最晩年の作品群に魅せられていた。そして『鴉の群れ飛ぶ麦畑』の本物をこの目で見なければ、ゴッホと出会ったことにはならないと感じた。
『ゴッホ美術館』の入場券は、日本から事前予約を入れたうえ、当日も早めにホテルを出発し、開館30分前には着いたのだが、すでに長蛇の列が出来ていた。途中、荘厳な建築のアムステルダム国立美術館を通り過ぎてきただけに、すぐ側にあるゴッホ美術館は、黒川紀章が設計した別館を含め、非常に現代的でシンプルな建物に映った。館内は厳重な警備で、コートもリュックも預けて身軽になったことがよかった。心身共にニュートラルな精神状態で絵に向きあった。『鴉の群れ飛ぶ麦畑』とまみえる。明るい廊下に飾られた作品は、不気味なイメージとは対局で躍動感に溢れていた。隣に飾られている、淡い黄緑の基調のオーヴェル・シュル・オワーズの田園風景と実によくマッチしていて、どちらも「鴉の」とか「不穏な」というタイトルに違和感を持つ程だった。私はそれまで「ゴッホは、麦畑の中で死の影に脅かされていたのではないか」と考えていた。しかし、実際に絵を見ると、ゴッホは最後まで貪欲なまでの製作意欲に燃えていたことが感じられ、解説にもそう記されていた。「死の瞬間までゴッホはゴッホとして描きつづけたのだ」と安堵した。そして作品を見る者達を今も魅了し続け、絵のなかにその魂が脈々と生き続けていることに感動した。ピュアな精神が持つ「生と死の爆発的なエネルギー」を改めて感じた。
その夜は、旅のひとつの目的を果たした満足感で、ベッドに潜り込んだ・・・が、オランダの年始を迎えるカウントダウンは、ひと晩中、花火や爆竹をならして大騒ぎだった。美術館を訪れた12月30日の夜中、夢の中で私は再びオーヴェル・シュル・オワーズの麦畑に立って、「何んでゴッホは、ここで銃を自分に向けなければならなかったのか」と問いかけていた。突然の大きな銃声にカラスがバタバタと飛び去った。目が覚めると、ホテルの窓ガラスは、爆竹の音で割れんばかりに揺れ、キュルンキュルンという反響音がしつこく続いていた。夢で私が麦畑に立ち、ゴッホの死を問うた時に轟いた銃声と、現実のホテルで轟いた爆竹との共時性・・・ゴッホを分かったつもりになっていた傲慢な自分に気づかされた。病と格闘した天才画家を分かろうなんて、おこがましい事だった・・・何だか少し気が楽になった。
除夜の鐘で明ける日本とは、全く趣の違った喧噪に満ちたオランダで、新年が開けた。
『ゲーテアヌム』は、ルドルフ・シュタイナーが設計した建築物である。スイスのバーゼル駅からトラムで30分ほどの終点がドルナッハ駅、そこから20分ほど坂をのぼったところに建っている。絵本に出てくるような奇妙な曲線の屋根や窓、内部の淡い赤や黄色や紫などの色彩に面食う。晩年のシュタイナー自身が彫ったという『人類の代表者』は9mの巨大なもので(まるでご神体?)、その前で瞑想する人達。静寂さと神秘的空間に圧倒される。
35年前、私は東京の公立の保育所に勤めていた。女性の社会進出に合わせて、「ポストの数ほど保育所を!」のスローガンのもと、次々と保育所が開所された時期だった。面積さえ確保されていればそれでいいような、安上がりで無機的な保育空間と、子どもの魂に対して、無配慮でがさつな保育士の在り様に、私自身が傷ついた。そのころ出会ったのが、「モンテッソリ教育」だった。当時の私は、「魂の救い」を求め宗教に敏感になっていた。教員養成センターでモンテッソリのメソッドを学び、修了試験を受けモンテッソリ国際ディプロマを取得した。そしてカソリック教会を母体にした保育園で4年ほど現場の実務についた。今思うと、かなりシステマチックで近代科学の合理性に則ったものだった。キリスト教的な強い父性原理の中で、子どもの教育カリキュラムが組み立てられており、私にとっては、幼児教育に明確な方向性を示してくれる教義だった。具体的な実践方法に、曖昧さが無く、合理的、論理的に納得できるものであった。
しかし、しばらくすると子どもたちの前に立つ私は、どこか恣意的で操作的になり過ぎ、あるべき教師像との乖離や偽善に苦悩するようになった。プラグマティズム的な合理性から、もう少し自由になって子どもの霊性に触れたいと思い悩んでいたときに、シュタイナーの人智学を知った。丁度、スウェーデンでシュタイナー生誕120年祭(?)が催され、そのツアーに参加し、シュタイナーの思想や哲学の具現としての建築物やオーガニック農法、そして芸術や教育等の巾広い分野での実践を見学した。しかしその時は、未知の世界に驚きはしたが、あまりの妖しさに気後れして、深く関わる気にはなれなかった。
その後、岩手に移住し農業にたずさわることになり、稲作とトマトの栽培に取り組んだ。「農業をはじめるなど、自殺するよりも勇気がある」と、農家の人たちからは嘲弄された。平成4年の稲作1年目は、冷害で大凶作年に当たった。農協の売店で外米が売られるという異常な年だった。翌年からも、無農薬・不耕機栽培を棚田でやろうとするものだから、草との格闘だけでなく、田んぼのあぜが崩れて大損失だった。それでも、「銀河の里構想」の実現を目指そうと、先進事例の研修先として、シュタイナーのオーガニック農法を取り入れたドイツ、スイスのコミュニティを選んだ。スイスでシュタイナー教育を学ぶ留学生をガイドにお願いし、障がい者の人達が暮らす「グループホーム」を中心に巡り、その時「ゲーテアヌム」も見学した。グループホームでは、石窯でパンを焼いたり、牛を飼って乳を搾りヨーグルトやチーズを作り、農作物を育てていた。生活空間はセンス良くデザインされ、個々の部屋も個性的だった。福祉も農業も暗く貧しいイメージではなく、精神性の高さと生活の豊かさを実現していた。「銀河の里構想」のイメージとまるで違和感がないのが不思議な位だった。
「銀河の里」は、その基盤を「農業」に置き、「福祉」と農業を繋いで、地域の未来を担っていくことに希望を見いだそうとしている。また、農業を通じて自然に対する畏敬や命に繋がる「食」に関わる生産に携わることの意義を感じている。2011年の東日本大震災の時には、地に足をつけて生きることの必要性を痛切に実感した。現在、稲作を5ha、その他ビニールハウスでの葉物栽培、大豆も作り、自家製の糀で味噌は全自給している。数年前から、地域の特産であるリンゴの栽培にも取り組み始めた。農業は生産性や経済効率としては低いので、後継者不足は深刻だが、社会の基盤でもある産業を、地域で障がい者と高齢者の力で担っていくことは、とても大事なことだと思う。
シュタイナーは「芸術」にも眼差しを向けている。同時代を生きた宮沢賢治と通じるところが多く、賢治も農業と芸術に関心があり、『農民芸術概論』などを書いている。人生の豊かさ、世代を超えて通じ合えるもの、魂に響くことは、知識や技術による理解を越えた「感性」なのだと思う。里の職員研修が音楽や舞踏、絵画、古典芸能などの文化研修を主に行ってきたのは、そうした意味がある。一般的な福祉施設とは視点も目指すところも本質的に違っているのかもしれないが、その方向性は、間違ってはいないと思う。
特に、認知症の世界を理解するには、感性からもたらされる豊かなイメージがなければ、お互い苦しい介護に埋没し、疲弊し傷つけ合う悲惨な状況に陥りやすい。それは、すでに虐待等で社会問題化してきているという事実がある。
銀河の里の新規構想のために、私はもう一度『ゲーテアヌム』が見たかった。2度目の対面となったその建物は、前回と変わりなく揺るぎのない「存在感」を持ちつつも、訪問者を受け入れてくれる穏やかさを感じた。また個性的ではあるが異様さを放って突出しているのではなく、周辺の住環境とマッチしていることにも気づかされた。ゲーテアヌムの周辺には、シュタイナーの人智思想に基づいたアトリエやギャラリー、オーガニックの農産物や加工品を売っているお店、そしてレストランやカフェ、キンダーガーデンや別荘などが街の中に「暮らし」として溶け込んでいた。
日本の観光地でお客を呼び込むような、商売としてのお土産屋や食堂とは雰囲気が全く違う。どの建物も品位ある個性的な佇まいで、それぞれの商品も生命感に溢れ、躍動的なオーラを醸し出しているようにさえ感じる。私は若い頃シュタイナーに出会いながらも、その思想や哲学には深く触れることなく敬遠さえしてきた。今回、その特異とも言える思想やセンスが異様な形で迫ってくることはなく、自然な形で地域や街作りに活かされていることに感銘を覚えた。「銀河の里」の地域へのアプローチを考える方向性として、ひとつの「確信」を得たように感じた。
「銀河の里」は、コロニーのような閉ざされた場にしてはならないし、組織が巨大化してもちがうと思う。個性的で責任のある各々の主体や機能が、有機的に繋がって地域に点在し、調和のあるコミュニティを形成することが大事だ。発足以来、銀河の里は妖しいと揶揄されながらも、メソッドを導入せず、宗教に属することもしなかった。また、これからも「理念を掲げ暗唱すること」や「マニュアルに頼り切ること」には警戒をしていくだろう。あくまでも「銀河の里」は、そこに集う者達が作りだすコミュニティであり、地霊に守られたものであって、良くも悪くも苦悩しながら活動をし続けていく運動体なのだ。システムにはめ込まれ、原理主義に凝り固まっては、形骸化と疲弊を避けることはできない。そうならないためには一人一人の主体が、鍛えられていく必要がある。なぜなら、いつも答えのないところに立たされ続けることになるからだ。しかし発見しながら前に進むことは、飽きないし、味わい深い。なによりもリアリティがある。
近い将来、「銀河の里」を縦割りの高齢者や障がい者の福祉施設としてではなく、子どもからお年寄りまでが世代を越えて混ざり合える地域の拠点として実現し、都市と地方が経済的な格差を越えて、相互の交流が出来る場にしたいと考えている。今後も農業生産にたずさわりながら、地域が抱える課題や、個人や家族が抱える保育・教育・介護・就労等の多問題を総合的にマネージメントする相談支援体制の整備をめざすことで、地域に必要とされる「銀河の里」の未来を描いていきたい。
シュタイナー思想の具現化された建築物としての『ゲーテアヌム』は、時代や国を越えて私に大きなインパクトを与えてくれたが、「銀河の里」はそうした『象徴』を持つことさえ必要がないのかもしれない・・・ということの発見に、今、私は打ち震えている。
今回のゴッシュの旅は、個人と組織を考え、「モチベーション」や「確信」という芯に響く体験をさせてもらったことに最大の収穫があった。
ゴッホが最後に描いた『鴉の群れ飛ぶ麦畑』を直に見みるために、アムステルダムまでやって来た。一昨年私は、ゴッホが自殺前の70日間を過ごしたフランスのオーヴェル・シュル・オワーズを訪れた。オーヴェル教会の裏にある坂道を登り切ると、一面黄色の麦畑が広がる。黄色の畑と青空とのコントラストに感動した。そこは、銃を自分に向け、下宿先だったラヴォー亭のアトリエを血に染めたゴッホ終焉の地でもある。麦畑には『鴉の群れ飛ぶ麦畑』の看板が立てられていたが、フランスでは、その絵を直に見ることは出来なかった。ゴッホはアルルで耳切事件を起こし、入退院を繰り返した後、この地に来てガシェ医師のもとで治療を受けていた。精神を病みながら、突き動かされるようにキャンバスに向かうゴッホ。私は、不気味とも不思議とも思える最晩年の作品群に魅せられていた。そして『鴉の群れ飛ぶ麦畑』の本物をこの目で見なければ、ゴッホと出会ったことにはならないと感じた。
『ゴッホ美術館』の入場券は、日本から事前予約を入れたうえ、当日も早めにホテルを出発し、開館30分前には着いたのだが、すでに長蛇の列が出来ていた。途中、荘厳な建築のアムステルダム国立美術館を通り過ぎてきただけに、すぐ側にあるゴッホ美術館は、黒川紀章が設計した別館を含め、非常に現代的でシンプルな建物に映った。館内は厳重な警備で、コートもリュックも預けて身軽になったことがよかった。心身共にニュートラルな精神状態で絵に向きあった。『鴉の群れ飛ぶ麦畑』とまみえる。明るい廊下に飾られた作品は、不気味なイメージとは対局で躍動感に溢れていた。隣に飾られている、淡い黄緑の基調のオーヴェル・シュル・オワーズの田園風景と実によくマッチしていて、どちらも「鴉の」とか「不穏な」というタイトルに違和感を持つ程だった。私はそれまで「ゴッホは、麦畑の中で死の影に脅かされていたのではないか」と考えていた。しかし、実際に絵を見ると、ゴッホは最後まで貪欲なまでの製作意欲に燃えていたことが感じられ、解説にもそう記されていた。「死の瞬間までゴッホはゴッホとして描きつづけたのだ」と安堵した。そして作品を見る者達を今も魅了し続け、絵のなかにその魂が脈々と生き続けていることに感動した。ピュアな精神が持つ「生と死の爆発的なエネルギー」を改めて感じた。
その夜は、旅のひとつの目的を果たした満足感で、ベッドに潜り込んだ・・・が、オランダの年始を迎えるカウントダウンは、ひと晩中、花火や爆竹をならして大騒ぎだった。美術館を訪れた12月30日の夜中、夢の中で私は再びオーヴェル・シュル・オワーズの麦畑に立って、「何んでゴッホは、ここで銃を自分に向けなければならなかったのか」と問いかけていた。突然の大きな銃声にカラスがバタバタと飛び去った。目が覚めると、ホテルの窓ガラスは、爆竹の音で割れんばかりに揺れ、キュルンキュルンという反響音がしつこく続いていた。夢で私が麦畑に立ち、ゴッホの死を問うた時に轟いた銃声と、現実のホテルで轟いた爆竹との共時性・・・ゴッホを分かったつもりになっていた傲慢な自分に気づかされた。病と格闘した天才画家を分かろうなんて、おこがましい事だった・・・何だか少し気が楽になった。
除夜の鐘で明ける日本とは、全く趣の違った喧噪に満ちたオランダで、新年が開けた。
『ゲーテアヌム』は、ルドルフ・シュタイナーが設計した建築物である。スイスのバーゼル駅からトラムで30分ほどの終点がドルナッハ駅、そこから20分ほど坂をのぼったところに建っている。絵本に出てくるような奇妙な曲線の屋根や窓、内部の淡い赤や黄色や紫などの色彩に面食う。晩年のシュタイナー自身が彫ったという『人類の代表者』は9mの巨大なもので(まるでご神体?)、その前で瞑想する人達。静寂さと神秘的空間に圧倒される。
35年前、私は東京の公立の保育所に勤めていた。女性の社会進出に合わせて、「ポストの数ほど保育所を!」のスローガンのもと、次々と保育所が開所された時期だった。面積さえ確保されていればそれでいいような、安上がりで無機的な保育空間と、子どもの魂に対して、無配慮でがさつな保育士の在り様に、私自身が傷ついた。そのころ出会ったのが、「モンテッソリ教育」だった。当時の私は、「魂の救い」を求め宗教に敏感になっていた。教員養成センターでモンテッソリのメソッドを学び、修了試験を受けモンテッソリ国際ディプロマを取得した。そしてカソリック教会を母体にした保育園で4年ほど現場の実務についた。今思うと、かなりシステマチックで近代科学の合理性に則ったものだった。キリスト教的な強い父性原理の中で、子どもの教育カリキュラムが組み立てられており、私にとっては、幼児教育に明確な方向性を示してくれる教義だった。具体的な実践方法に、曖昧さが無く、合理的、論理的に納得できるものであった。
しかし、しばらくすると子どもたちの前に立つ私は、どこか恣意的で操作的になり過ぎ、あるべき教師像との乖離や偽善に苦悩するようになった。プラグマティズム的な合理性から、もう少し自由になって子どもの霊性に触れたいと思い悩んでいたときに、シュタイナーの人智学を知った。丁度、スウェーデンでシュタイナー生誕120年祭(?)が催され、そのツアーに参加し、シュタイナーの思想や哲学の具現としての建築物やオーガニック農法、そして芸術や教育等の巾広い分野での実践を見学した。しかしその時は、未知の世界に驚きはしたが、あまりの妖しさに気後れして、深く関わる気にはなれなかった。
その後、岩手に移住し農業にたずさわることになり、稲作とトマトの栽培に取り組んだ。「農業をはじめるなど、自殺するよりも勇気がある」と、農家の人たちからは嘲弄された。平成4年の稲作1年目は、冷害で大凶作年に当たった。農協の売店で外米が売られるという異常な年だった。翌年からも、無農薬・不耕機栽培を棚田でやろうとするものだから、草との格闘だけでなく、田んぼのあぜが崩れて大損失だった。それでも、「銀河の里構想」の実現を目指そうと、先進事例の研修先として、シュタイナーのオーガニック農法を取り入れたドイツ、スイスのコミュニティを選んだ。スイスでシュタイナー教育を学ぶ留学生をガイドにお願いし、障がい者の人達が暮らす「グループホーム」を中心に巡り、その時「ゲーテアヌム」も見学した。グループホームでは、石窯でパンを焼いたり、牛を飼って乳を搾りヨーグルトやチーズを作り、農作物を育てていた。生活空間はセンス良くデザインされ、個々の部屋も個性的だった。福祉も農業も暗く貧しいイメージではなく、精神性の高さと生活の豊かさを実現していた。「銀河の里構想」のイメージとまるで違和感がないのが不思議な位だった。
「銀河の里」は、その基盤を「農業」に置き、「福祉」と農業を繋いで、地域の未来を担っていくことに希望を見いだそうとしている。また、農業を通じて自然に対する畏敬や命に繋がる「食」に関わる生産に携わることの意義を感じている。2011年の東日本大震災の時には、地に足をつけて生きることの必要性を痛切に実感した。現在、稲作を5ha、その他ビニールハウスでの葉物栽培、大豆も作り、自家製の糀で味噌は全自給している。数年前から、地域の特産であるリンゴの栽培にも取り組み始めた。農業は生産性や経済効率としては低いので、後継者不足は深刻だが、社会の基盤でもある産業を、地域で障がい者と高齢者の力で担っていくことは、とても大事なことだと思う。
シュタイナーは「芸術」にも眼差しを向けている。同時代を生きた宮沢賢治と通じるところが多く、賢治も農業と芸術に関心があり、『農民芸術概論』などを書いている。人生の豊かさ、世代を超えて通じ合えるもの、魂に響くことは、知識や技術による理解を越えた「感性」なのだと思う。里の職員研修が音楽や舞踏、絵画、古典芸能などの文化研修を主に行ってきたのは、そうした意味がある。一般的な福祉施設とは視点も目指すところも本質的に違っているのかもしれないが、その方向性は、間違ってはいないと思う。
特に、認知症の世界を理解するには、感性からもたらされる豊かなイメージがなければ、お互い苦しい介護に埋没し、疲弊し傷つけ合う悲惨な状況に陥りやすい。それは、すでに虐待等で社会問題化してきているという事実がある。
銀河の里の新規構想のために、私はもう一度『ゲーテアヌム』が見たかった。2度目の対面となったその建物は、前回と変わりなく揺るぎのない「存在感」を持ちつつも、訪問者を受け入れてくれる穏やかさを感じた。また個性的ではあるが異様さを放って突出しているのではなく、周辺の住環境とマッチしていることにも気づかされた。ゲーテアヌムの周辺には、シュタイナーの人智思想に基づいたアトリエやギャラリー、オーガニックの農産物や加工品を売っているお店、そしてレストランやカフェ、キンダーガーデンや別荘などが街の中に「暮らし」として溶け込んでいた。
日本の観光地でお客を呼び込むような、商売としてのお土産屋や食堂とは雰囲気が全く違う。どの建物も品位ある個性的な佇まいで、それぞれの商品も生命感に溢れ、躍動的なオーラを醸し出しているようにさえ感じる。私は若い頃シュタイナーに出会いながらも、その思想や哲学には深く触れることなく敬遠さえしてきた。今回、その特異とも言える思想やセンスが異様な形で迫ってくることはなく、自然な形で地域や街作りに活かされていることに感銘を覚えた。「銀河の里」の地域へのアプローチを考える方向性として、ひとつの「確信」を得たように感じた。
「銀河の里」は、コロニーのような閉ざされた場にしてはならないし、組織が巨大化してもちがうと思う。個性的で責任のある各々の主体や機能が、有機的に繋がって地域に点在し、調和のあるコミュニティを形成することが大事だ。発足以来、銀河の里は妖しいと揶揄されながらも、メソッドを導入せず、宗教に属することもしなかった。また、これからも「理念を掲げ暗唱すること」や「マニュアルに頼り切ること」には警戒をしていくだろう。あくまでも「銀河の里」は、そこに集う者達が作りだすコミュニティであり、地霊に守られたものであって、良くも悪くも苦悩しながら活動をし続けていく運動体なのだ。システムにはめ込まれ、原理主義に凝り固まっては、形骸化と疲弊を避けることはできない。そうならないためには一人一人の主体が、鍛えられていく必要がある。なぜなら、いつも答えのないところに立たされ続けることになるからだ。しかし発見しながら前に進むことは、飽きないし、味わい深い。なによりもリアリティがある。
近い将来、「銀河の里」を縦割りの高齢者や障がい者の福祉施設としてではなく、子どもからお年寄りまでが世代を越えて混ざり合える地域の拠点として実現し、都市と地方が経済的な格差を越えて、相互の交流が出来る場にしたいと考えている。今後も農業生産にたずさわりながら、地域が抱える課題や、個人や家族が抱える保育・教育・介護・就労等の多問題を総合的にマネージメントする相談支援体制の整備をめざすことで、地域に必要とされる「銀河の里」の未来を描いていきたい。
シュタイナー思想の具現化された建築物としての『ゲーテアヌム』は、時代や国を越えて私に大きなインパクトを与えてくれたが、「銀河の里」はそうした『象徴』を持つことさえ必要がないのかもしれない・・・ということの発見に、今、私は打ち震えている。
今回のゴッシュの旅は、個人と組織を考え、「モチベーション」や「確信」という芯に響く体験をさせてもらったことに最大の収穫があった。
デイサービスの火 ★デイサービス 千枝悠久【2014年1月号】
デイサービスの隅っこで、今年も暖炉(薪ストーブ)がエアコンに負けじと頑張っている。その火を見ていると、暖炉前で過ごしていた、幾人かの利用者さんのことが思い出される。
ある時は、政雄さん(仮名)がいた暖炉前だった。「この辺りの田んぼは全部俺が作ったんだ!」という政雄さんは、デイサービスには“仕事に来ている”というイメージだった。だから、暖炉の焚きつけも真剣そのもの。スタッフと政雄さんとで2人で焚きつけをしているところに、他の利用者さんが口を出しに来ようものなら、 「おやじと娘がやってるんだから、余計なことに口だすな!」ピリッと言うこともあった。“おっかない親父”だったけど、なにも分かっていなかった私にも、薪の選び方、くべ方、火の付け方まで厳しく教えてくれた。
「おめえがやる気あるなら、ブル(ブルドーザー)の動かし方、教えてやってもいいぞ!」いろんな事を私に教えてくれた。グループホーム入居のためにデイサービスを去ることになったが、去る直前、政雄さんは「ここにバンガローつくればいい。そうすれば若い人達が集まることができる」と話していた。今、それは私の夢にもなっている。まだ靴箱を作るだけでも四苦八苦している私だが、いつかバンガローをつくれるくらいになれたらいいと思う。政雄さんは、燃え上がる熱い火のような人だった。
ある時は和雄さん(仮名)がいた暖炉前だった。暖炉前に静かに座り、薪をくべている姿が画になった。薪がなくなりそうになると、「家さあるの持ってけ」と、薪を分けてくれることもあった。「やっぱり、火の色見ただけでも気持ちあったかいもんな」と、いつも火の番をしていてくれ、デイサービスのみんなのことを暖めてくれた。黙々と藁を編んで、小さなわらじを作り、「ホレ、息子さはかせるわらじよ!」と、スタッフにプレゼントしてくれることもあった。
畑では、和雄さんが分けてくれたニンニクが、今年も雪の下で春が来るのを待っている。「持ってけ!」と家で採れたいろいろな野菜をよくくれたが、その中でも一番立派だったのがニンニクだった。2年前の秋、和雄さんに教えてもらって、デイサービスの裏にある畑にもニンニクを植えた。その後、和雄さんが亡くなり、その時一緒に植えたスタッフも退職し、どうなるか心配だったが、一昨年も、昨年もニンニクは立派に収穫することができた。なにか特別な世話をしたわけではないが、土の中で静かに、着実に養分を蓄えて、大きく育ってくれたのだ。土の中で春を待つ力強いニンニクと、静かに薪をくべている和雄さんの姿が、重なる。和雄さんは、静かに燃え続けるあたたかな火のような人だった。
今、暖炉前には耕平さん(仮名)がいる。出会った頃の印象は、暖炉前とは無縁の人のように、私には思えた。食べることが大好きで、いっぱい食べては「おかあちゃんには内緒にしてけて!」と言ったり、車椅子に興味津々で、試しに乗って遊んでいたりした耕平さんからは、火をイメージすることはできなかった。
「千枝さん、将棋するべ!」朝の第一声はいつもこれだった。まだ、デイサービスでどう在りたいかが自分でもよくわからなかったその頃の私は、将棋好きだったこともあり、耕平さんに誘われるまま、朝から帰りの時間まで将棋を指し続けた。何度やっても、ほとんどが私の勝ちなのだが、その度に「もう1局!」と挑んだ。初めのうちは、駒の動かし方もうろ覚えだったが、だんだんに様々な戦法を使い分けるようになった。「どうしたら千枝さんに勝てるべ?」と負けたくない気持ちが伝わってきた。そんな耕平さんの気持ちに応えたくて、私も普段は指さないような、挑戦的な手をどんどん試すようになった。
そのうち、一緒に畑に出るようになった。実家が農家だったという耕平さんは、畑に出ると人が変わった。初めの頃こそ、「千枝さん、どうすればいい?」だったが、だんだんと、「俺、蛇口ひねってくる!」「ホース巻いてける!」「千枝さん、そっち持って!」積極的な耕平さんの威勢のよい声が、畑で聞かれるようになっていった。朝の第一声は、「将棋するべ!」から「今日、畑なにする?」に変わっていった。
将棋も変わった。攻められると弱気になり、守りに入ることが多かった耕平さんが、強気の手を指してくるようになった。私が勝ったつもりでいると油断を突いて、ハッとするような手を繰り出してくる。聞けば、最近は日曜日のNHK将棋講座を毎週欠かさず見ているそうだ。少しずつ耕平さんが勝つようになり、私も自分の得意な戦法で応じることが増えていった。
「今年も広域公園さ行くべ!」「紅葉、どこさ見に行く?」「菊、見にいくべ!」様々なことに積極的になり、耕平さんとやることが、どんどん増えていった。秋にニンニクを一緒に植えたのも、靴箱を一緒に作っているのも耕平さんだ。政雄さんや和雄さんの火を、今は耕平さんが燃やし続けてくれている。
年が明けてから、スタッフの田村さんと「わかさぎ釣り行くべ!」と、燃えている。耕平さんのデイサービスでの活動は、これからもどんどん広がっていくのだと思う。将棋を指すことはめっきり減った。でも、私の方から将棋を指したくて、耕平さんを誘うことがある。“将棋では耕平さんに負けたくない!”というのが、私の正直なところだ。
暖炉前には、今まで、政雄さんや和雄さん、耕平さんだけではなく、多くの利用者さんがいたのだろう。その時々によって、表情の違う火が燃え続けていたのだろう。これからも、デイサービスの火は燃え続けていく。私自身も、時に激しく熱く、またある時は静かにあたたかく、火を燃やし続けていきたいと思う。
ある時は、政雄さん(仮名)がいた暖炉前だった。「この辺りの田んぼは全部俺が作ったんだ!」という政雄さんは、デイサービスには“仕事に来ている”というイメージだった。だから、暖炉の焚きつけも真剣そのもの。スタッフと政雄さんとで2人で焚きつけをしているところに、他の利用者さんが口を出しに来ようものなら、 「おやじと娘がやってるんだから、余計なことに口だすな!」ピリッと言うこともあった。“おっかない親父”だったけど、なにも分かっていなかった私にも、薪の選び方、くべ方、火の付け方まで厳しく教えてくれた。
「おめえがやる気あるなら、ブル(ブルドーザー)の動かし方、教えてやってもいいぞ!」いろんな事を私に教えてくれた。グループホーム入居のためにデイサービスを去ることになったが、去る直前、政雄さんは「ここにバンガローつくればいい。そうすれば若い人達が集まることができる」と話していた。今、それは私の夢にもなっている。まだ靴箱を作るだけでも四苦八苦している私だが、いつかバンガローをつくれるくらいになれたらいいと思う。政雄さんは、燃え上がる熱い火のような人だった。
ある時は和雄さん(仮名)がいた暖炉前だった。暖炉前に静かに座り、薪をくべている姿が画になった。薪がなくなりそうになると、「家さあるの持ってけ」と、薪を分けてくれることもあった。「やっぱり、火の色見ただけでも気持ちあったかいもんな」と、いつも火の番をしていてくれ、デイサービスのみんなのことを暖めてくれた。黙々と藁を編んで、小さなわらじを作り、「ホレ、息子さはかせるわらじよ!」と、スタッフにプレゼントしてくれることもあった。
畑では、和雄さんが分けてくれたニンニクが、今年も雪の下で春が来るのを待っている。「持ってけ!」と家で採れたいろいろな野菜をよくくれたが、その中でも一番立派だったのがニンニクだった。2年前の秋、和雄さんに教えてもらって、デイサービスの裏にある畑にもニンニクを植えた。その後、和雄さんが亡くなり、その時一緒に植えたスタッフも退職し、どうなるか心配だったが、一昨年も、昨年もニンニクは立派に収穫することができた。なにか特別な世話をしたわけではないが、土の中で静かに、着実に養分を蓄えて、大きく育ってくれたのだ。土の中で春を待つ力強いニンニクと、静かに薪をくべている和雄さんの姿が、重なる。和雄さんは、静かに燃え続けるあたたかな火のような人だった。
今、暖炉前には耕平さん(仮名)がいる。出会った頃の印象は、暖炉前とは無縁の人のように、私には思えた。食べることが大好きで、いっぱい食べては「おかあちゃんには内緒にしてけて!」と言ったり、車椅子に興味津々で、試しに乗って遊んでいたりした耕平さんからは、火をイメージすることはできなかった。
「千枝さん、将棋するべ!」朝の第一声はいつもこれだった。まだ、デイサービスでどう在りたいかが自分でもよくわからなかったその頃の私は、将棋好きだったこともあり、耕平さんに誘われるまま、朝から帰りの時間まで将棋を指し続けた。何度やっても、ほとんどが私の勝ちなのだが、その度に「もう1局!」と挑んだ。初めのうちは、駒の動かし方もうろ覚えだったが、だんだんに様々な戦法を使い分けるようになった。「どうしたら千枝さんに勝てるべ?」と負けたくない気持ちが伝わってきた。そんな耕平さんの気持ちに応えたくて、私も普段は指さないような、挑戦的な手をどんどん試すようになった。
そのうち、一緒に畑に出るようになった。実家が農家だったという耕平さんは、畑に出ると人が変わった。初めの頃こそ、「千枝さん、どうすればいい?」だったが、だんだんと、「俺、蛇口ひねってくる!」「ホース巻いてける!」「千枝さん、そっち持って!」積極的な耕平さんの威勢のよい声が、畑で聞かれるようになっていった。朝の第一声は、「将棋するべ!」から「今日、畑なにする?」に変わっていった。
将棋も変わった。攻められると弱気になり、守りに入ることが多かった耕平さんが、強気の手を指してくるようになった。私が勝ったつもりでいると油断を突いて、ハッとするような手を繰り出してくる。聞けば、最近は日曜日のNHK将棋講座を毎週欠かさず見ているそうだ。少しずつ耕平さんが勝つようになり、私も自分の得意な戦法で応じることが増えていった。
「今年も広域公園さ行くべ!」「紅葉、どこさ見に行く?」「菊、見にいくべ!」様々なことに積極的になり、耕平さんとやることが、どんどん増えていった。秋にニンニクを一緒に植えたのも、靴箱を一緒に作っているのも耕平さんだ。政雄さんや和雄さんの火を、今は耕平さんが燃やし続けてくれている。
年が明けてから、スタッフの田村さんと「わかさぎ釣り行くべ!」と、燃えている。耕平さんのデイサービスでの活動は、これからもどんどん広がっていくのだと思う。将棋を指すことはめっきり減った。でも、私の方から将棋を指したくて、耕平さんを誘うことがある。“将棋では耕平さんに負けたくない!”というのが、私の正直なところだ。
暖炉前には、今まで、政雄さんや和雄さん、耕平さんだけではなく、多くの利用者さんがいたのだろう。その時々によって、表情の違う火が燃え続けていたのだろう。これからも、デイサービスの火は燃え続けていく。私自身も、時に激しく熱く、またある時は静かにあたたかく、火を燃やし続けていきたいと思う。