2013年12月15日

冬のひとふで ★佐藤万里栄【2013年12月号】

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里の暮らしを紡ぐ ★副施設長 戸來淳博【2013年12月号】

【農のある暮らしの場】
 2001年4月、グループホームとデイサービスに在宅介護支援センターで始まった銀河の里は、その後、障がい者支援事業と特別養護老人ホームの開設などを経て、規模が大きくなった。当初15名ほどでスタートした職員数も、現在は80名を越えている。開設当初は、田圃や畑の作業を職員も利用者も総出で関わり、各部署でも畑を作るなど、農業を基盤にした暮らしが当たり前のようにあった。農業担当は決まっていたものの、役割分担という考えはほとんどなかった。田植えや稲刈りはもちろん、草刈りも全員で参加し、産直の米の出荷なども、利用者と共に作業をしていた。そうした数年前の農家の家族の感じが今はすでに懐かしい。
 今年、特養は5年目を迎え、スタッフの定着も進んで、入居者に向き合っていく、里らしい雰囲気も出てきている。しかし開設当初の、農の暮らしが身近だったあの時期を知っている私としては、どこか物足りなさを感じてしまう。もちろん、年間の行事に手植えや稲刈り、餅つきやしめ縄作りなどやってはいるのだが、どこかイベント化し、暮らしにはなりにくい感じがもどかしくなることもある。
 私自身、全体の管理的な立場になってしまったが、現場にいた頃は、デイサービスに隣接した畑を利用者と一緒に耕作したり、冬支度の薪作りや杉の葉拾いをして、一緒に生活や仕事をしている感じがあった。最近は事務所で事務処理をしていることが多くなり「農(田圃や畑)」や「暮らし」とは、いつの間にか遠くなっていた様な気がしていた。そこで今年こそは土を触っていたい!自分でもう一度畑を耕そう!と思いたち、作付けの計画を練って、春から特別養護老人ホームに隣接した5a(アール)ほどの畑を耕作することにした。そうして特養の畑が動き出すと、各ユニットでもジャガ芋の種芋準備や、定植、芋掘りができたし、小豆の殻剥きをして瓶に詰めて保存するなど、わずかだが季節の懐かしい暮らしの風景が私の中で蘇ってきたように感じた。

【沢庵を漬けてみる】
 先日、特養で大根を収穫し、テラスで干した。その干した大根を沢庵漬けにしようと挑戦した。ユニット・オリオンとすばるで、それぞれ40L樽に沢庵を漬けた。
 オリオンでの作業では、ユニットの中心的存在の桃子さん(仮名)が手伝ってくれた。春から種まきや野菜の収穫に誘ったのだが「こんな年寄りを稼がせるのか!」とお怒りで、断られてしまった。しかし、今回の沢庵の漬け込みでは、桃子さんの目の前に大根を運ぶと、結び方を教えてくれて、干す場所も一緒に考えるなど、自然に手伝ってくれた。それから毎日、顔を合わせる度に、テラスに干した大根を見ながら、漬ける時期や材料、樽や重しのことを心配し話しかけてくれる。
 利用者さんも手伝ってくれるので、漬ける作業はあっという間に終わった。そしてテラスに樽を置いて楽しみにしていた。数日後にはしっかり水が上がってきた。桃子さんも沢庵の塩加減を心配しながら「俺の様にピリッと辛い方がおいしいんだ」なんてニヤリと笑う冗談も出た。
 いつも私の顔を見る度に「おめぇ、ここの先達なんだから、事務所に座ってちゃわからねぇんだ!」と叱咤激励され、ちょっと嫌みを言ってくる桃子さんを、どこか避けて来たところもあるが、今回は作業を通じて生き生きして、自然に関われる感じが嬉しかった。
 数日置いて、すばるの沢庵漬けを行った。「沢庵漬けってどうするの?」という若いスタッフと、ベテランのじいちゃんばあちゃん達が樽を囲んで、総出で作業を行った。糠(ぬか)と塩を混ぜるのは学さん(仮名)、普段はソファでJAZZを聴いているちょっと洒落た93歳のおじいちゃんだ。作業に誘ったものの、街場の方なので、漬け物を漬けた経験は無い。それでも慣れた雰囲気で糠を舐めて塩加減を確かめている。「学さん、沢庵漬けたことあるの?」と尋ねると即答で「無い!!」と笑っている。それでも母親が漬けていた様子を見ていたと話してくれた。学さんの母親!?何年前の記憶なのだろう。すばるの中心的存在の祥子さん(仮名)は、沢庵作りは達人らしく、自分流の漬け方を語る。フキさん(仮名)は「(自分は)朝鮮漬け名人だ」と言っている。隣のユニット・ほくとからは、今年1月に100歳になった好奇心旺盛なトメさん(仮名)が駆けつけ、興味津々に見守ってくれた。集まったそれぞれが自分流の漬け込みの能書きをあーだこーだと言う。それに振り回されながら、糠を足してみたり、賑やかな沢庵漬けの作業だった。
 私も銀河の里で14年間、季節や農に関わることを色々やってきたが、沢庵を漬けたのは初めてだった。予めネットで『干し大根の作り方』『沢庵の漬け方』を検索し下調べをしてみたが、ザラメや塩の量はバラバラで、それぞれの家での加減があるようだ。初めて漬けた、銀河の里の沢庵は、はたして美味しくできるだろうか。少々不安はあるが、どんな味になるのか、漬け上がりが楽しみだ。

【里の暮らしを紡ぐ】
 どこか、私自身も里全体も遠ざかってしまった感のある農と暮らしを取り戻せないものかと、今年は意識して、仕事の合間を見ては事務所を抜け出し畑に出た。時期を見計らいながら種を蒔き、天気に合わせて作業する。日照りが続けば水をまき、雨を待つ。色々考え計画し、種を蒔き、草取りなど養生をこまめにかかさず続ける。それでも最後は、自然の恵みを祈って待つしかない。
 最近、どうも待つことが苦手になった私だが、畑では、発芽や成長、収穫を楽しみに待つことができた。それは心地良い時間でもあった。
 最近の銀河の里では、スタッフが農業に関わる機会はなくなった。ユニットで炊くお米が切れると、ワークステージの担当者に電話一本で届けて貰っている。「農業を基盤に暮らしを生きる」というのは里の理念でもあるのだが、田圃の稲作作業に関わらないどころか、お米が玄米で保管してあることも、精米の仕方も分からないスタッフも多い。かつて、夏には総出でやっていた草刈りも、今はほとんどワークの仕事となっている。分業化が進み、コンビニで商品を買うように便利で楽になった反面、大切な何かを失っていくのではないかという不安と、人間として弱くなってしまうような危惧を感じてしまう。「今一度、原点に返って」と言葉で言うのは簡単だが、実際には不可能に近いことだろう。それでも暮らしの中にあるリアルな感覚を取り戻し、様々な人間模様を織りなす暮らしの場をこれからもなんとか創っていきたいと考えている。そこを失うと銀河の里ではなくなるような気がする。
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シワくちゃな話 ★デイサービス 千枝悠久【2013年12月号】

 先月の通信に「シワをのばす話」を書いたが、グループホーム大会に参加したことをうけて書いた文章は、こちらの方が先になる。大会では、様々な意味で心動かされた。この文は、心が動いたまま、その日に書き上げたものだ。だから、丁寧にシワをのばすことなく、思いつくまま書いた、シワくちゃな話だがそのまま伝えてみたい。

 オープニングが、語りと歌で始まるということで、楽しみにしていた。特に歌は、宮沢賢治の “星めぐりの歌”。今大会のテーマである“物語”の幕開けに相応しいと感じられ、期待していた。ところが、語りの方は、私自身が、どうでもよいようなことをいろいろと考えながら聞いてしまったため、ほとんど耳に入って来なかった。妙に緊張していたせいもあったと思う。“星めぐりの歌”は聞き慣れないアレンジにイライラした。元々の曲調に慣れているせいなのかもしれないし、音楽がほとんどわからない私の乱暴な感覚なのだろうが、聞いていることができなかった。変えていいものと、変えるべきものと、変えてはいけないものと、それぞれ別ではないかと感じさせられた。
 オープニングに続き、グループホーム協会代表理事の挨拶が始まる。その、“グループホームが!グループホームこそが!”と強く主張する話に違和感を覚えた。グループホームをそこまで強く意識しなければならないものなのか?現場との温度差を感じた。そうかと言って全体を見通した内容でもない。どの立場からの話なのか、「あなたは何をやってきた人なのですか?」と尋ねたくなるような話だった。鼎談でも、代表理事より増田さん(前岩手県知事)の「コミュニティのなかにおけるグループホーム」の話のほうが、まだグループホームのことを考えてくれていると感じられるくらいだった。
 期待が大きすぎたのか。こんな話を聞くために、わざわざここへ来たのか?それにしても、私は人の話を聞けなくなってしまったのか。帰りたい気持ちになった。
そんなところに、赤坂憲雄先生の講演『聞き書きという方法』が始まった。“聞き書き”という言葉は、六車さんの本などで馴染んではいたが、今ひとつどういうことなのかわからなかった。人の話を聞きそれを書く、ただそれだけのこととも言える。“方法”とは、いったいどういうことなのか。
 赤坂先生の話には、すぐに引き込まれた。聞いているうちに涙まで溢れてきた。「ここは泣くところなのか?」と、自分の頭のなかでツッコミが入り、泣くに泣けず、とにかく聞きたい、ずっと聞いていたいと気持ちが入った。特に、芸者さんへの聞き書きで“生まれ変わったら男になって、歌舞伎の世界に入りたい”という話や、ある男の人に聞き書きをした時の“俺のつまらない人生なんか聞いても・・・”という話には、それぞれの人間の生き方そのものが丸ごと込められているような感じがして、“聞いてしまった”という重たい気持ちと、“聞くことができた”という舞い上がる気持ちとが、両方同時に私のなかに降りてきた感じがした。
 結局、赤坂先生の話のなかには“方法”については何も語られなかった。“バーテンダーというのは職業ではなく、バーテンダーという生き方を選ぶことだ”という言葉に出会ったことがあるのだが、“聞き書き”というのも、“聞き書きという生き方を選ぶこと”なのではないか、と感じた。講演の最後に、「『聞き書きという方法』という妙なタイトルを・・・」と話されたので、救われた感じがしてありがたかった。
 ワークショップTの詩穂美さんの発表は、里で一度聞いた内容だが、引き込まれた。場の雰囲気というのは大事なものだと、改めて感じた。何度でも聞きたい物語であるということもあった。初めて聞いた時と同じように、一時間の発表があっという間だった。
 なぜ、あっという間と感じるのか、初めて聞いたときも不思議に思った。シンポジュームに移っての六車さんの「もっと語りの言葉がほしかった」との話が、それを少し解らせてくれた。確かにこの物語は語られていない部分が多い。だから、もっと聞かせて欲しかったのに、あっという間に終わってしまったという気持ちになったのかもしれない。
 けれども、別な考えも浮かんできた。人の物語を語ることは難しいことだ。自分自身の物語ですら、語ることが難しいというのに。まして守男さん(仮名)の物語は、言葉以外で語られたことが多すぎる。そんな物語を、言葉と写真で語っているところに、この物語の核があるのだと思う。聞いた人それぞれが、物語を自分のなかで補った方が良いし、補うべきであるし、補わなければならない。想像力の世界の話ではないのか。  
 そう思いながら、小さい頃、母親に絵本の読み聞かせをしてもらったことを思い出した。いつも、「次はどうなるの?続きは?早く、早く!」とワクワクしながら話を聞いていた。物語の続きを自分で考えたり、物語のなかで語られていないことを想像したりしていた。守男さんの物語があっという間に感じるのは、読み聞かせの時間があっという間だったのと同じではないか。ただ、ただ、もっと物語を聞きたかったのだ、と。私の考えや感情を整理した、六車さんの“言葉”に感謝!のワークショップTだった。
 ワークショップUの真嶋さんの話は、正直なところ、あまり聞けなかった。私自身が夢幻の世界に旅立っていたからだ。フルートの音色が心地良い。真嶋さんの家族に自死が相次いだ、という話で目が覚めた。現実に引き戻されたというよりは、超現実に放り投げ込まれた感覚。妙に頭が冴えている。もう戻れない。何かに縋りたい。その後は、フルートの音色が全く別な意味を持って聞こえてくるようだった。
 なんと言ったら良いのか分からなかった。語り部(パネリスト)が、何を話すのかが気になった。特に、赤坂先生は、まったく分野が違う立場の方だ。先生自身もお話の初めに、自分だけまったくの専門外である、と断りを入れられていた。それでも「50年後は世の中のペースがもっとゆっくりになっているだろう」という話は、専門外を感じさせない話だったと思う。下手に歩み寄ろうともせず、自分の立ち位置で、自分の言葉で、話す。“語る”というのは、こういうことなのだと思った。私自身もそうありたい、と思った。
 後日、ワークショップのアンケートを読ませてもらったのだが、“物語が終わった”というような表現が多かったことが悲しかった。「勝手に終わらせるな!!」と怒りがこみ上げてくる。
守男さんの物語は終わってなどいない。“託された”、しっかりとそう語られていたではないか。何を聞いていたのだろう? 何を
感じていたのだろう?分からない。一つだけ、“渡されたバトン”という表現された感想があって、救われた思いがした。
 物語は終わらない。語り継がれ、繋がっていく。語った者には語った者の、聞いた者には聞いた者の、責任や覚悟がいるのだと思う。責任という言葉は適切ではないのかもしれないが。確かに私は、物語を聞いた。聞きたくなければ、目を閉じ、耳を塞げばいい。けれども私は、目をしっかりと開き、耳を澄ました。今大会という物語を、私自身の物語として編み上げていきたい。
今自分で読み返してみても、よく分からないことが多すぎる文章だ。こんな状態でグループホーム大会の記憶を残したのでは、せっかく参加させてもらった意味が薄くなってしまう。タエさん(仮名)の「書いてみたらいいですよ」が、先月の「シワをのばす話」に繋いでくれた。

 今思い返してみると、私にとってグループホーム大会は、それ自体が一つの物語だったように思う。大会前半では、怒りと失望のようなものによって心が乱され、もうその場には居たくないような気持ちにさせられた。それが、赤坂先生の講演、ワークショップTと続くうちに、どんどん内へ内へと引き込まれていき、ワークショップUでは、もう自分がこの場にいるのかいないのか、ただただ漂っているような感覚で、もっとこうしていたいと感じるくらいになっていた。それはきっと、大会前半で心が乱されたことも大きな役割を果たしていたのだと思う。心が乱されたからこそ、ワークショップUでの心静かな状態をより大きく感じることができたのだろう。
 以前研修で、能を観たときのことを思い出した。あの時も、前半の仕舞で気持ちが高揚し、その後の能の静けさがより強く印象に残った。大会の当初はイライラしたが、物語を盛り上げるための一つの構成だったのだと思えば、納得がいく。納得がいくまで、随分時間が掛かったが。
 そういうわけで、グループホーム大会は、私のなかに意義深いものとして残ることになった。重複するが、今大会という物語を、私自身の物語にしていきたい。どんな物語も、その捉え方は聞き手の自由だ。その内容がどうであるかよりも、聞き手がどう捉え、どう語り継いでいくか、聞いた物語を自分がどう生きたのかが問われると思う。
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町子さんと「少女ボックス」 ★特別養護老人ホーム 角津田美香【2013年12月号】

 町子さん(仮名)が亡くなったという知らせを受けたのは、10月下旬だった。町子さんは今年の夏から、毎月ショートステイを利用されていた。ご自宅で急性心不全で亡くなられたとのことだった。あまりに突然のことで、悲しみの前に、私は驚いて、にわかには信じられなかった。町子さんは関西で生まれ育った方で、数年前に岩手に移住されてきた。関西弁で話され、「おっほほほほ…」と上品によく笑う方だった。

 町子さんは私に、ご自身の幼少時代のお話をされた。幼くしてご両親を亡くされ、叔父さんのお家に引き取られて育った。叔父さんのお家は商屋で、町子さんもそのお手伝いをしながら生活した。女学校に通う頃から、町子さんはこっそりと和歌を習い始めた。知られれば、和歌を書いた紙は破かれて、忙しいのに何をしているんだ、とぶたれてしまう。だから、「こっそりと」でなくてはならなかったと言う。銀河の里でも、自作の和歌を書き留めたノートをスタッフに見せてくださり、長年のご趣味であることが伺えた。
 おばあさんと本屋へ行った時、『父の国 母の国』という本が目に入った。「そんなものはありません」とおばあさんに言われた。“両親のことはもう考えずに生きなさい”、という意味だったのだろうか、それ以来、おばあさんと本屋には行かなくなったと言う。「私も、幼心に感じるものがありましたわ〜」と、幼いながらもご自身の境遇を悟っておられたのだろう。町子さんには、辛い時に尋ねる近所の親しいお宅があったようだ。「私が泣いて行くと(近所の方が)『くんくん、むっ、涙のにおいがする!誰だ』って、笑わせてくれはったんです」と、そんなやりとりも教えてくださった。
 私が町子さんからお聞きしたのは、幼少の頃のお話がほとんどだったが、きっとそれからも、辛かったことを乗り越えて生きて来られたのだろうなと感じた。生まれ育ち、何十年も生活してきた関西での暮らしを置いて岩手に来られたことだって、慣れない土地で、ご自身を取り巻く環境に辛かったこともあっただろうと想像する。「でもね、幼いころのそんな時期があったから、ちょっとしたことは『何てことないわぁ〜』って思えるんです」と町子さんは語っていた。「“面白い”という言葉があるけど、“面黒い”こともありますわ」と笑って話される。様々な“面黒い”経験をしてきたから、多少のことはへっちゃらなのだと語る。経験した人だけが語れる、重みのあるお話を、町子さんはどこか明るく軽やかな語りで伝えてくれた。
 そのお話を聞きながら私は、町子さんの前で泣いてしまい、言葉が出なくなったので短い手紙を書いて渡した。『“おもくろい”の後には“おもしろい”がある。“おもしろい”は、“しあわせ”ですね?』と。町子さんはそれを読むと(泣いている私に驚いていたと思うが)、「ただハイハイ、って聞いているだけじゃなく、そんなに真剣に聞いてくれはったんですなぁ〜」「ここの人たちは、ちゃっちゃ〜とやるのではなくて、“しん”からやってるのがわかります。涙を拭いて…」と優しく語りかけて下さった。町子さん自身がとても芯のある方だと感じた。私が「“おもくろい”は…」と言おうとすると、「それ、覚えなさったの?あんたはんが言うと…」と笑う町子さん。そして「これ(私が書いた手紙を持ちながら)で、あんたはんは “おもくろい”の学校卒業ですわ。これから“おもくろい”になるか“おもしろい”になるかは、あんたはん次第です〜」と笑顔で言われた。このとき町子さんと私の間に何かが始まったと思う。

 私は、利用者さんとの思い出の品を納める箱を持っている。大事なものをしまう箱、と自分で決めていた。いつからかその箱は誰ともなく『乙女ボックス』、『少女ボックス』と呼ばれるようになった。
町子さんは手先がとても器用で、あやとりを披露されたり、折り紙の作品を作ってくださった。あやとりはすごい速さで、どんどん形を変えていくのにこちらの目が追いつけないくらいだった。「川」の字から、形が変わってまた川の字に戻る、というあやとりを見せてくれた時には、「48回連続が最高なので、今度は50回を目指そうと思うてるんです。自分で頑張りたいことを決めないと駄目ですわ。いくら人から言われてもね…」とお話しされていた。
 ひもの端を引っ張ってもらうとひもが指から抜きとれる『指抜き』遊びでは、「これをね、ちっさい(小さい)子らにやってみせると、そりゃもう喜ぶんですわ」と町子さんの笑顔が輝く。近所の子どもたちにあやとりを見せて喜ばれていたんだろうなと想像できた。町子さん自身が周りの人々に支えられていたように、町子さんも誰かを笑顔にして支えていたのだと思った。
 ある時は、小物入れの折り方をスタッフに教えてくれた。完成するとその小物入れにキャラクターのイラストを描いたりもした。「小学校4年生の時、私は孤独で、なかなか馴染めんで、一人で絵描いてたんです。そしたら『私にも描いてほしい』って一気に有名になって…。自習の時間にまで、こそっと描いたもんです」孤独の中で始めたことが人気者になるきっかけになった。「人生、生きてきて思うのは、辛い時こそ楽しく生きようと思うことどす」とスタッフにも語られた。
 8月には、私も踊り手で、銀河の里のさんさ踊りを観てもらえた。披露した際、私の正面で町子さんが見ていて、少し恥ずかしかったのだが、にっこりと目尻を下げて手拍子してくれていたのを憶えている。踊り終えて町子さんの居室に行くと「いや〜、あんたはん、(浴衣)着てるから、最初誰が来たのかと思いましたわ〜」「“楽しい、楽しい”じゃなくて、“楽っしい、楽っしい!”って踊ってたからねぇ〜」と伝えてくれた。そして「今度は10月に来ますから。あんたはんに、『あいうえお』を書いて渡したかったけど…、今度までの宿題にしときますわ」と言われて退所された。
 次の利用では、折り紙で、箱型の小物入れの折り方を教わり、スタッフも集まって、たくさんの小箱を作った。私は「これよりちっさいのを部屋に置いてますので、後で見に来てください」と声を掛けられた。居室へ行くと、白い紙で折った、たくさんの箱がテーブルに並べられていた。箱の中に箱が入って、手のひらサイズのものから、一番小さな箱は指の先ほどのものまであった。それを大事そうに引き出しにしまうと、前回お話しされていた『あいうえお』の謎を明かされた。「あいうえお」と「はひふへほ」を書いた紙を私に見せ、「私、気付いたんです。笑う時、『はっはっは』『ひっひっひ』『へっへっへ』と笑いますやろ?これに、『あいうえお』も乗っかって『あっはっは』『いっひっひ』『うっふっふ』となる。これ(笑い声を表せる50音の行)は、『あいうえお』と『はひふへほ』だけどす」と説明してくれた。町子さんが見つけた“笑顔の素”だと私は思った。
 後日、町子さんから、『笑い薬』というものを頂いた。昔は粉薬をこうやって包んでいたという五角形に折った紙の中には、キャラクターが描かれた小さな紙が入っていた。それは、町子さんが小学生の時によく描いていたというキャラクターだった。それを見て、私は思わず少し笑ってしまった。「これ見たら、『あぁ、あのおばあさん…』って思い出して、笑えてきますやろ?」と、町子さんは持っていた二つの『笑い薬』の一つを私にくれた。もう一つは男の人にあげると言っていたが、後でもう一つも私にくれた。幼いころから自分の力と知恵で楽しくなる方法を考えながら生きてきた町子さん。そんな知恵を分けてもらえた気持ちだった。二つの『笑い薬』は今、私の手帳の中にしまってある。
 10月、最後に町子さんとお会いした時、「後で見せたいものがあって…」と言われた。その日私は隣のユニットの勤務だったので、日中なかなかお話しすることができず、夕方になって、やっと町子さんの居室へ行った。町子さんは、白い紙で折った『やっこさん』を見せてくれる。『やっこさんから○○(例えば、「バッジ」や「風車」など)ができる』と絵入りで書かれた説明書も添えてあった。その10種類を町子さんは一つずつ折って見せてくれた。「ここを、こうしましてなぁ、なんや…、あっ、こう!こうなりますわ」一つの形ができ上がると、町子さんも生き生きして嬉しそうだ。「これ、あんたはんにあげます。やってみてください」と、やっこさんと説明書を私に渡してくれた。
 それから、前回見せてくれた『紙の小物入れ』も「これも、貰っといてください。今日ね、歩いてたら、廊下にね、こんなちっさい、鶴!いやぁ、やっぱり、上には上がいますなぁ」と廊下の棚に飾ってある、指の爪サイズの鶴に、町子さんは驚いたようだった。そして自分の中で一番小さく作れたものだからと大切に保管されていた箱を、町子さんはその時私に渡してくださった。もったいない気がしたが、あやとりも指抜きも限界を決めずに自分に挑み続けてきた町子さんらしさを譲っていただいたように感じた。
 町子さんがショートステイを利用される度、私は手紙を渡していた。町子さんは読んでくれた後で「これはあんたはんに持っていてほしいんどす」と私に手紙を返された。だから私の町子さんへの手紙は今、全て私の手元にある。
 町子さんが私に贈ってくれたのは、いつも“笑顔になれるもの”だった。どうして私だったのだろうと深く考えたことはなかったが、ある時、中屋さんに「少女っぽいところで、何か通じるものがあったのかも」と言われて、そうかもしれない、と腑に落ちた。町子さんは何か大切な物を見せたり、伝えたりしたいことがあった時、それをいつも居室でこっそりと教えてくれた。そして私は、町子さんとのやりとりの中で生まれた手紙や作品の全てを、あの「少女ボックス」と呼ばれる蓋付きの箱の中に入れて、大事にしまっている。これらは、時々こっそりと(誰も見ていないとき)蓋を開けて…と思い出しては、またしまっておく。“内緒”とか“秘密”の“自分の世界”を持つ似たもの同士。それを町子さんは何となく気づいたのかもしれない。
 『少女ボックス』と呼ばれる中身の大部分は、町子さんから頂き、受け取ったもので埋め尽くされている。これからもきっと、私はときどき箱をのぞいては町子さんとのやりとりを思い出すだろう。町子さんのように、少女の世界も忘れず、現実世界でもしっかりと生きる芯のある女性に成長していきたいと願う私である。人生の最晩年のほんのわずかな出会いであったが、私にとってとても大切な時間になった。町子さんありがとうございました。
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なぜお呼びでないのか ★理事長 宮澤健【2013年12月号】

 グループホーム大会を終えて見えてきたことがある。大会までは、どの現場にも、日々物語がたくさん生まれてくるものだと信じていた。ところが、そうではないらしい。物語は生まれようがない現実があるようだ。もちろん人間が生きる所に物語が生まれない訳はない。しかし人と人が出会わなければ物語は発見されない。そこが決定的な分かれ目になるようだ。
 現代は、基本的には誰とも出会わなくても生きられるように社会が作り上げられているということを見落としていたのかもしれない。現代人はなるべく出会わないで生きようとしている。出会いを恐れ、避ければ何も起こらない。「人間の関係」は因果論が効かず、やっかいで、扱いにくい。人間の持つ複雑な感情や、それぞれが個性を持ち、捉え方も感じ方も違ったり、更に影や闇を抱えて生きているから、とても難しくて捉えようがない。その難しさを無かったことにして回避したくなる。出会いや関わりをなるべく遠ざけようと必死にエネルギーを費やしているのかもしれない。実際、マニュアルやシステムで固めて関係を絶つと、案外うまくいったりする。ところがそれを続けていると、表面上良いように見えるのだが、やけに疲れてくる。おそらく、うまくいく裏で、感情やたましいが損なわれてしまうのではないだろうか。関係を遠ざけ排除すると、やっかいで面倒なことは消えても、排除したとたんに人間らしさが消え、面白くなくなる。そしてなぜか怒りに包まれていく。長い歴史のある施設ほど疲れて、情熱を失い、虐待など暴力も起こりやすくなっていく。
 ただ、出会うことは面倒を抱えることで、そこには危険も伴う。大半の施設では、出会おうなんて考えないし、育成機関における教科書も教育も、おそらく個人的に出会ってはならないと教えている。例えば、里のワークステージではスタッフと利用者は携帯電話やメールでやりとりをしている。一般の治療、支援機関の人たちから見ると、常識を欠いた、素人のありようだと驚愕され、非難もされることもある。組織のマニュアルでやって来たことでは全くない。それぞれの関係の中で自然にそうなっているだけのことだ。確かにそれで問題が起こらないわけではない。深夜に「薬を飲んでこれから死にます」という電話が入ることも実際にあった。確かに困るのだが、それで困るのなら最初から教えなければいいだけのことだ。「そんな時こそ連絡がほしい」くらいの気持や関係に応じて、電話番号を伝えているのだと思う。
 里では、基本的にやっかいな方を面白いと捉えてきた。うまくいくかいかないかではなく、楽か苦かではなく、ワクワクする方にかけてきた。そうした姿勢がないと物語にはなってこないのかもしれない。問題が起こる、だからこそ物語になる。確かに、そんなことは一般的には怖くてやれないのかもしれない。
 大会ではテーマとして「物語」を提案したのだが、おそらく、県も全国もグループホーム協会も、組織としては、物語を否定して、マニュアルで行くんだと思う。その道しかないのだろう。やがて疲弊していく運命を行くしかない。うまくやっても、やったと同時に希望や夢が損なわれ未来が消える。
 だが、物語であればいいとは単純には言えない。それにはかなり強固な守りが必要になる。危ういところをあえていくのだから、守りがしっかり固められていなければならない。

 里ではどういう守りがあるのだろう。それは常に意識して考える必要がある。
 例えば農業。農業なんて楽じゃない。労力だけじゃなく、やらない方が経済的にも楽だったりする。なぜこれを基盤として大切にしているのか。それはどこか大いなるものと繋がっている感覚を消さないためでもある。農業機械を使い、農薬も使用しながら、何が大いなるものだと言われそうだが、それでも自然との対話には事欠かない。天候が気になり、台風や低温に怯える。天候の変化への体感や、感性が求められる。機械を扱うにも体の感覚がなくては怪我をする。技術も知識も知恵も感性もなくては、すぐに機械は壊れるし、使いこなせない。生活のセンスもいる。泥がついたまま汚れた状態でほっぽらかしでは、生活が汚く、機械や道具の寿命も縮める。農業は自然と暮らしの葛藤が先鋭化してくる仕事だ。都会のオフィスとは違った、逞しい肉体と感性が必要だ。季節や時を敏感に感じ選び取らないと作業の時期を逃してしまう。一旦逃すともう一年来年が巡り来るまで待つしかない。
 生産も重要だと思う。何かを作る。生み出す。これは、人間にとってかなり重要なことだし、経済の基盤だ。そこに関わることに意味があると感じる。それは、些細なことではなく、思ったより大きく里や、里のスタッフを支えているのではないかと感じる。もし農業がなかったら、高齢者介護や障害者支援の現場が、暮らしの場だとか生活そのものだと、実感や自信を持って言えないだろう。生産があり、季節への感覚を持ち、自然の力におののき、その不思議に戦慄しながら畏敬を失わない。暮らしに生きるとはそういうことではないのか。暮らしは現実への通路として物語を守ってくれているように感じる。
 「人間の存在って重いですよね」と2年目のスタッフ角津田さんが言う。それを経験できるところが高齢者介護の現場だと思う。それが感じられないならやらない方がいいとさえ思う。そこに「死」がある意味は大きい。死のない生は薄っぺらになる。生の重さは死によって成り立つ。死に照らされない生は輝きを持てない。死を身近に置きながら、生に触れていくことのできる現場。その重みは確かに計り知れない。
 利用者の言葉や、言葉のない人でも、その存在に深い関心を持つ眼差しがあれば、人生の重さや、人間の深さが立ち現れてくる。介護の現場では、ほとんどがそれをやれていない状況にある。要介護の高齢者や認知症の人は、社会の最前線から遠く離れ、生産や効率の悪い、すでに終わった人間としてしか捉えていない。古くなって壊れたものを扱っているような気分でいるから、尊厳も品位もない安かろう悪かろうの極めて低品質の工場のようになってしまう。
 角津田さんに、全国大会で赤坂先生の講演を聴いた感想を尋ねると、「わかる人っているんですね」と言った。世の中、誰も解っていないとの前提に彼女は立っているのだろうか。タカビーで傲慢な発言かと思いきや、彼女は「希望」として捉えたのだと言う。たしかに、お呼びでないと絶望しているよりは、わかる人もいるんだと「希望」を見た方が未来を感じられる。
 彼女はどう守られているだろう。大事なことは語らないで、心の奥にしまっておくことでやっと自分だけで守ってきたのかもしれない。彼女たちが、恐れることなく、安心して語り伝えることができる場を、地域と未来に拓いて行きたい。
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身で引き受ける生 ★特別養護老人ホーム 佐藤万里栄【2013年12月号】

 今年の夏頃から、私は泰三さん(仮名)の居室担当になった。泰三さんは、どこか洗練された雰囲気を持っている人だ。そのせいか私は、リビングや居室で泰三さんと目が合うと、目に映る世界とは別の何かを見ているのではないかと想像したりした。その一方で、思うようには泰三さんと寄り添えない自分がいた。泰三さんの奥さんが語る楽しい昔話も、前居室担当から引き継いだ泰三さんの昔の写真をまとめるという仕事も、その重要性を頭では理解しながら、私自身と泰三さんとの関わりもアプローチもあまり深まらなかった。そんな感じで長い間、身体面や食事など現実的なフィジカルなことを中心に守る日々が続いた。ある日、泰三さんが熱を出して入院することになった。唯一の家族である奥さんは、この機会に、以前から医師に勧められていた胃ろう造設を決意された。それは「どんな形でも生きていてほしい」という強い願いからだった。
 一ヶ月ほどの入院を経て、一旦、泰三さんは経鼻で戻ってくることになった。私は“経鼻で戻ってくる泰三さん”を実感できないまま、“どう過ごすのか?”という漠然とした不安を抱えながら退院の日を待った。迎えに行ったスタッフと共にユニットに帰ってきた泰三さんに会ったとたん、私の不安はほとんど消し飛んだ。泰三さんが、今までに感じたことのない、まるで違った雰囲気を抱えていたからだ。入院前と比べ、身体的にはグッと細くなり、生きるために必要なもの以外をほとんど落としてきたようだった。口から食べることは原則なくなり、服の上からでも骨格がわかるくらいに痩せた泰三さんだったが、私はそこに何か「意志の気配」を感じた。その意志は泰三さん自身のものというより、奥さんの「生きていてほしい」という強い願いを一身にまとった気配だったかもしれない。「奥さんの願い、想い」それらを受け入れた泰三さんだからこそ持ち得る、静かで強く、尊い雰囲気を私は感じたのだと思う。
 私が居室に行き、ベッドで休んでいる泰三さんに声をかけると、泰三さんの片方だけ開いた目と視線が合った。私は少しの緊張と安心感で、泰三さんと共に居る事ができた。
 退院翌日から、病院からの指示を受けていた毎日の口腔ケアが始まった。泰三さんは噛む力が強いので、硬い開口器を使い、看護師とスタッフの二人がかりで行わなければならなかった。お互い辛い作業になる。泰三さんは口腔ケアの度に顔をしかめた。
 体も骨が突出した部分が増えたので、褥瘡にならないよう、体位は必ず側臥位で寝るように指示が伝えられた。体を守るための当たり前の行為だったが、私は泰三さんから受けた雰囲気と、日々続けなくてはならないその行為に少し差異を感じた。それらを続ければ“守れる”ものと、それだけでは“守れない”もの。そんな何かを考えた。口腔ケアの間は「こんなに苦しそうなことを続けていくの?」と内的な面で私はおびえ、泰三さんから離れれば「最後に体位交換したのはいつだったろう?」と身体面で不安になった。
 しかし、それも全て泰三さんは分かっているのだろう。そうした辛い介護作業があっても、泰三さんが放つようになった、静かで強く、神々しい雰囲気は脅かされることなく、むしろますます強くなっていった。目を閉じたり、時には見開いたりしながらも“両方あって然るべき”と泰三さんは言っているようにも感じる。
 自らの意志を超えて、外からの「生きる」を受け入れるということを、泰三さんは今、私の目の前で見せてくれている。そして、私たちスタッフまで、包んでくれて、励ましてくれているようなそんな気がする。究極の愛なのか、触れ得ぬ気高い何ものかにまみえるようで、目眩を覚えるような光がある。それに気付いた今、私は泰三さんをしっかりと感じることができる。泰三さんの体は、これからも変化し続けるだろう。その体を守りつつ、それでも変わらない、泰三さんが引き受け抱えた「生きる」を感じながら、共に居させてもらいたい。誰かのために、消えないで「居る」ということがこれほどまで激しく、厳しく尊いことであることを私は深く心に刻みたい。
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こころとからだとたましいと ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2013年12月号】

 もうかなりの歳になり、最近ではほとんど家猫となって外には出ない我が家の猫が、ある朝、珍しく外へ出たがった。すぐに帰ってくると思っていた。ところが夕方になっても帰ってこなかった。窓の外で鳴いたりして帰ってくるのを待ったが、何もなかった。気になって、その夜は熟睡できなかった。
 翌朝になっても帰ってこない。名前を呼んでも、周辺を探してみても気配はない。腹が減ったら帰ってくるだろうと、自分をなだめた。夕方、やっぱり帰ってきてない。寒いのにどこで寝てるんだろう?どこまで行ってるんだろう?と、たかが猫のことで胃が痛くなり、夜中、目が覚めるたびに、窓から外に向かって名前を呼ぶ。二晩めは、さすがにきつかった。また朝がやってきたがどこにも居ない。いつも居るはずの人(猫だけど)が“居ない”というのはとっても辛い。何も手につかなくなる。いっそのこと「どこかで死んでる」ほうが気が楽だと思った。しかし、そう思ったとたんに「死んじゃっててもいいから、体は見つけたい」という強い想いに駆られた。スコップと段ボール箱を車に積んで、遺体探しに周辺を走ってみた。しかし辛くなって、ものの5分で耐えられなくなった。死ぬのは仕方ないとしても、体だけはほしい。これって、どういうことなんだろう・・・。
 たかが猫、なんだけど、そうは言っても、そこに私の日常の根幹があるんだろう。日常の根幹が崩れると、とても生きてはいけない。震災は、そうした日常が根こそぎ喪失する極限の体験だったのだと思う。震災後、私たちはそれをまだ受け入れ切れてはいない。

 震災後の釜石が舞台となった映画『遺体 明日への十日間』(脚本・監督:君塚良一)の上映中、3度も繰り返し観に行った。報道やドキュメンタリーでは決して伝えることのできない領域に、映画(物語)のちからで、事実を超えて真実に迫った、との評価がある。私は、海外での試写の感想に「遺体を名前で呼ぶのに驚いた」「遺体をトラックに山積みにする発想が日本人にはないことへの驚き」とあったのが印象的だった。日本人の死生観としては当然なことなのに、そこに驚くことの方が意外だった。極限状態のなかで、悲しんでいる暇もなく、瓦礫の中から遺体を捜して遺体安置所まで運び、身元確認と保存安置の作業が延々と続く。同じ町の者同士、知り合いの遺体に出会うことも少なくないなかでの作業の辛さは、はるかに想像を超える。丁寧に安置され並べられるのが、効率が悪いとしか映らないのならば、死んだ身体はただの物体で抜け殻だとしか思ってないんじゃないだろうか。死んだらたましいは身体から離れてしまうの? 身体はただの入れ物? 身体とこころやたましいは、そんなに簡単に分けられるもんなの? 映画のセリフに「ここに並べられているのは死体じゃない、ご遺体ですよ!」という叫びがあった。生き残った家族や知人と再会させてあげたい、と必死で遺体を守る苦闘は、人間のたましいを守る姿として私には映った。

 特養でも利用者さんとの別れを経験してきたが、亡くなられてからも、「私はずっと支えてもらっている」という実感がある。身体にはもう触れることはできなくなったけど、とても“いなくなった”とは思えない。むしろ亡くなった後のほうが、深いところで“一緒にいる”感じがする。なんと表現していいかわからないけれど、「目には見えない何かで繋がっている」と強く信じられる。

 “こころ”と“からだ”を、私は分けて考えることができない。生き物の体を化学成分で分析的に見れば、ほとんど水とたんぱく質の塊でしかないだろうに、嬉しかったり悲しかったり、悔しかったりするのは、なぜ? 悩みや気がかりがあって気分が落ちていると、胃が痛くなったり、痩せたり肌が荒れたり、なにかしらの症状が体に出る。そのくせ、どんなに深い苦悩のなかにあっても、必ず腹は減るし、空腹が満たされると、それだけでずいぶんと幸せな気分になったりもする・・・。以前、約1年間オーストラリアに留学したとき、何もかも知らない土地で、自分らしくいられないという不安からか、自分の気持ちをまったく表現できない苦しさからか、初めの3〜4ヶ月、生理がなかった。精神的にも身体的にも、ちょうど生活環境の変化に慣れる期間だった。体は正直だ、と思った。反対に、毎月の生理の前後、訳のわからない絶望的に凶暴な怒りが襲ってくる。なぜ何に対して怒っているのかまるでわからないのだが、「体が怒っている」と感じる。頭痛や腹痛、だるくて重い体に加えて、気分も相当にめちゃくちゃになるので、本当に参る。人生のほぼ半分の時間、この根拠のない苦痛と怒りに囚われて生きているようなもんだから、“こころ”と“からだ”は密着していると、嫌でも感じさせられる。うまく付き合っていくしかない。
 “肉体”を下等なものとし“精神”の方が高みにあるとする考え方も、単純にちょっと憧れたりもするけど、やっぱり簡単には納得できない。肉体を持つがゆえの苦痛や業から、いつしか解放されるのを夢見ても、それは半分は嘘だ。肉体があるからこそ満たされる喜びもある。私は“からだ”で“こころ”も持っている。

 介護の現場は、からだとこころに直接、密接に触れる場だ。身体が動かなくなっても、食べることができなくなっても、言葉がなくなっても、触れることそのもので繋がれる瞬間の連続だ。髭を剃る、爪を切る、散髪する、お風呂に入る、褥瘡の手当をする、なんにもしなくても、隣にいて手を握っているだけでもいい。大好きな人がいなくなるのはイヤだけど、そんな我が儘も、身体のことひとつひとつと真剣に丁寧に向き合っていくことで浄化されていくような気がする。辛いことも苦しいこともいっぱいあっただろうに、こうやって今ここに生きているという、肉体の圧倒的な存在に、こちらがどれだけ支えられているだろう。声、吐息、汗、涙、におい、あくび、手のぬくもり・・・。形あるものに、触れたい、触れてほしい、と切望する。苦悩や困難が押し寄せても、記憶を道しるべに、目には見えないものに、また逢いたい、逢いにゆく。
 在宅時代も含め10年のお付き合いとなった方を、先日、家族さんと一緒にお見送りした。強烈な独自のこだわりを炸裂させて、毎年、新人スタッフの教育担当(新人泣かせ?!)として大活躍してくれた人だったが、その理不尽さや我が儘っぷりにも関わらず、誰からも愛される、芯の強さを持った大きな人だった。亡くなられたときの、まるで眠っているみたいなお顔は、白くて、肌もピンッとして、とても綺麗だった。お風呂のたびにアカと格闘し、入浴後のツルピカたまご肌を一緒に喜んだスタッフの想いが、ここでカタチになったようで、改めて感謝の気持ちが湧いてくる。利用者さんからは、いつもこちらが温かいモノをもらってばっかりだ。銀河の里の大河ドラマがひとつ幕を閉じたようで、寂しさは残るが、その方の息子さんと我々にしっかりと引き継がれていると感じられる、とても温かいお別れとなった。深夜、駆けつけてくださった主治医の冨塚先生をお送りする道中、その気持ちをお伝えした。先生は、「そうだよね、終わったんじゃないんだよねぇ。亡くなった後のほうが、存在が強くなるよね」と言われた。その眼差しに感動する。「どの方も体を張って、大事なことを教えてくれていると感じる」と、生意気なことを付け加えてしまったが、「あぁ、真剣に向き合っているから言える言葉だね」と受けてくださった。
 現場では“からだ”を通して“こころ”と向き合っているんだ、と日々感じる。こころのなかの世界だけでは、満足に生きていけない。どうにかしたいけどどうにもできないことだらけの限りある生、であっても、地に足つけて生きていくしかない、と思う。どうにもならないことをそのままに受けとめる強さがほしい。“からだ”を生きることを通路にして“こころ”を創造していくプロセスのなかで、精一杯やるしかない。分かたれたモノとモノとのあいだが繋がれるとき、そこにたましいが輝いてくるのではないか、と思う。その瞬間を生きたい。

 死んでしまったとしても猫の体だけほしい・・・と思った自分を、唐突に、究極に、陳腐に感じた。なんという執着だろう。当たり前にあると思っていた愛おしい日常、安定した日常の根幹を突然に失って、所有の欲が暴走し膨らんでしまったのか。
一方では、“身体にたましいが宿っている”と、自然に信じている自分にも気がつく。だから、せめて“体がほしい”と思ったのだろうか。いつの間にか帰ってきた猫の毛並みに触れながら、その体温や寝息を自分の肌に感じる。猫がいる、ってだけで、これほどまでに安心する自分。猫はそろそろ、自分の死に場所を探して下見に行かなきゃならないのかもしれない。部屋に閉じ込めてしまいたいけど、また「外へ行きたい」と鳴いたら、その時はまた外に出してしまうだろう。心配の局地に陥ってしまう自分も、もう諦めよう。痛みも執着も引き受けるしかない。
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今月の書「受」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2013年12月号】

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自分のこと
誰かのこと
受け止めがたいことはたくさんある

見つめるか
目を背けるか
選ぶのは自分
自分次第で変わっていく
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見えないものの力 ★施設長 宮澤京子【2013年12月号】

 先日11月30日、サントリーホールで、ヴェルディ『レクイエム』をジャナンドレア・ノセダの指揮で聴いた。3年ほど前にも、この曲をコンサートで聴いたのだが、そのときからヴェルディの『レクイエム』だけは、“生”でなくてはならないと決めていた。私が初めてレクイエムを聴いたのは20代の初めだった。クリスチャンの友人に薦められモーツァルト作曲のものを聴いたのだった。死者を悼む鎮魂歌であるレクイエムは、死をテーマに迫ってくる重みがある。当時レコードで、展開していく場面をイメージしながら何度も何度も繰り返し聴き込んだものだった。それから毎年12月になると、『メサイヤ』『第九』そして『レクイエム』が巷でも聞こえてくる機会が多くなると、私の中でもクラッシク曲の定番として、師走にはこれらの曲が響いてくる。
 何度、聴いても聴き飽きることのないモーツアルトと、きれいな曲想のフォーレのどちらも好きなのだが、ヴェルディのレクイエムは別格だ。「絶叫するコーラス・怒号の連続」「正常な神経の持ち主が受け入れられるメロディではない」と酷評されるほどで、確かに聴いていても突き動かされる。特に「怒りの日」のパートは、激しい怒りの炎に焼き尽くされ、打ち砕かれる感覚に陥る。しかし、その崩壊するような感覚のおかげで「浄化」が実現するリアリティを体感させられるから不思議だ。
 今回の演奏は、聴きながら今までになく興奮し感動した。まさに、異常な崩壊と浄化の体験だった。ノセダ氏が指揮台に立つやいなや聴衆を巻き込む。ノセダ氏は3秒4秒5秒・・・とフリーズしたかのように、身動きもせず止まったままだ。指揮者に聴衆の意識が集中する・・・そしてゴクリとつばを飲み込むようなタイミングで、静かに静かに曲が始まった。聞こえてきた音楽に、緊張の糸が緩み、ほっと胸をなで下ろすような、そんな聴衆の息づかいさえも、この曲には必要な要素として組み込まれているようだ。
 半年前に、このコンサートのチケットを大枚をはたいて予約し、やっとゲットした貴重なSS席。指揮者を間近に45°の位置から見据えることのできる幸運な席だった。さらに4人のソリストたちとの掛け合いが手に取るように感じられる絶好の場所でもあった。驚いたのは、指揮者ノセダの肉体の躍動だ。指揮棒は持たず、彼の指先からつま先まで、そして汗の一滴さえもが司令塔のようだった。特にも、ほとばしる汗が印象的で、曲想と共に変化し、蕩蕩と流れる川の様であったり、荒れ狂う大波が岩にぶつかって砕け散る様であったりと、多様なイメージを駆り立てられる凄まじいものだった。
 そしていよいよクライマックスのパート「怒りの日」に入っていく・・・。聴衆もそれを意識し、訪れる怒りの不協和音を予感して緊張が走る。心臓の高鳴りとともに激しく揺さぶられる魂と身体。もう、めちゃくちゃの高揚感だった。指揮者ノセダはここで燃えさかった。足を踏みならし、ジャンプし、身体全体から激しい勢いで汗がほとばしり、まさに怒濤の中に身をおいていた。完全にあっちの世界にいっている目つきで、形相もただならない。
 その迫力にも圧倒されるなか、ソリストたちの独唱と合唱隊の歌声が響き渡る。イタリア語の歌詞の意味は解らないのだが、声色や表情を通じて、恐怖におののく心と、神への祈りが伝わってくる。宗教曲でありながら、ベルディのレクイエムはその表現の過激さ故に教会音楽としては賛否が分かれ、オペラティックな劇場音楽としての評価のほうが高まっているようだ。しかし、ベルディとしては、教会の求める荘厳さや大衆の感覚に従うのではなく、自らの内面の、死に対する恐れと祈りをそのまま忠実に表現したということなのだろう。それ故に、一般化されたイメージや雰囲気からは逸脱した印象を持たれる作品に仕上がったのではないか。作品の評価は、その時代を反映しつつ、いつも後からついてくる。
 曲が終わる。そこで指揮者ノセダはまた止まった・・・。3秒4秒5秒「えっ、終わってない?」と指揮者に視線が集まったかと思ったと同時に、一斉に拍手が巻き起こった。まさに息を飲んだ終わり方だった。演出だったのか?その後、聴衆のコールが続きノセダ氏は何度も何度もコールに応じ、ソリストや合唱隊、管弦楽に拍手を送った。その時すでに舞台には、あの狂気の指揮者は存在せず、柔和なジェントルマンがいるだけだった。芸術家の凄さというものを改めて感じさせられた。
 会場を出るとコンサートホール近くの喫茶店に入ってお茶を飲んで休んだ。異様に疲れた感じがあったのと、すぐに現実に戻るのがもったいない感じがしたからだ。コーヒーを飲みながら、静かに目を閉じ、演奏の世界に入って反芻していた。これも私にとって大事な時間だった。
 翌日は立教大学で「認知症カフェ」の研修に参加したのだが 、その会場で私は、指揮者ノセダの体からほとばしる汗が、曲想によって、川になったり、時に滝になったり、時に海にと変化していったのを目の当たりにしていたためか、それと同じように、小さな芽としての里の新規事業計画のイメージが、ビジョンとして目の前に次々に広がり沸き起こってきた。この不思議な体験は「怒り」のエネルギーのなせる技なのか。事が成されるときには、このような爆発する「躍動感」を伴って、現状を打ち破っていくものなのかもしれない。作曲家ベルディが内的な魂を表現しようとしたレクイエムと、指揮者ノセダの身を捧げるかのような演奏とに打たれた影響は大きい。目には見えない芸術の力を、現実の次の事業計画に繋げて実現することは、私の使命でもあるだろう。そんな仕事の仕方だから、怪しいと思われてしまうのか?

 心に響く音楽や絵画、心揺さぶられる演劇や小説等の芸術作品に触れる意味とは何だろうと考える。やはりそこには、“生命”に繋がる大いなる何ものかを、作者や演者の発信として感じ取る事によって、おそらく私自身の“生命”の何ものかと出会っているに違いない。そこで触れ得る琴線がどんなものか、本体が何なのかよく解らないが、芸術作品を通じての出会いは、現実世界での出会いとも不思議にシンクロしてくる。
 先日、グループホームに入居されていた高齢者との別れがあった。在宅時代を含めると、10年近くのお付き合になる「里の伝説」となるような方だった。亡くなられて初めて、私はその方の顔や身体を「いとおしい」という感情を持って触ることができた。この世の「怒り」や「理不尽」から解放されたような、穏やかな美しい表情がとても心地良く、亡くなった人を前にして、悲しみより先に「躍動感」が突き上げてきた。こんな経験は、私にとっても初めてだった。
 深夜その方を見送ったあと、私はなぜか無性にベルディの『レクイエム』が聞きたくなった。彼女との衝撃的な出会い、日々難解な謎かけと、理不尽な語り。彼女も介護者も双方がヘロヘロになって空回りしていた頃が思い出された。またグループホーム入居前は、一人暮らしで、多くの問題を抱えており、市の福祉課や民生委員そしてヘルパーやケアマネージャーなどの関係機関が、困惑しながら対処していたいわゆる困難事例として上がるケースの方だった。ところが銀河の里で担当するようになると、なぜかスタッフがこの方の魅力にとりつかれ、手強いながら里では常に「愛すべき人」の存在だった。何人のスタッフが育ててもらえたことか、今となれば感謝しかない。ベルディのレクイエムを聴きながら、この曲はこの方にふさわしい「鎮魂歌」だと感じた。人生の理不尽と怒り、まさにこの方を見送るために、私はこの曲に出会ったようにさえ思えた。
 以前もジョルジュ・ルオーの絵画を見た直後に、特養ホームで亡くなられた方があった。その時は、面長の顔に笑みを浮かべながら瞼を閉じて深く瞑想するようなロマンティックな『道化師』の絵がその方と重なった。それぞれの死は怒りにも包まれる。理不尽な運命と共に死は確実に訪れる。我々は死との和解を必要とする。そのとき芸術作品がもたらすイメージが、和解を支えてくれることもあるように感じる。出会いと別れは、このように輻輳しながら様々なイメージを含んで刻印されていくものなのか。こうした現場にいると深い内面と関わらざるを得ないからか、なにかとシンクロすることが多い。不思議な体験に満ちているので感動的なことがたくさん起こる。見えないものの力や影響は小さくない。芸術は見えないものを大切にする所から始まっている。見えないものをイメージすることで、現実を理解し納得させられることも多いし、「幸せ」や「希望」につながる魂の活力にもなっている。
 今年も残すところあとわずかで新しい年を迎える。これからも人生の主役達と深く出会いつつ、芸術と芸術家達にもインスパイアーされながら年を重ねていきたいものだ。
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有野君の大活躍 ★ワークステージ 岩崎里美【2013年12月号】

 岩手に来て2年目。銀河の里に来て2年目。水耕ハウスに来て2年目。ハウスをしきるようになって1年。農業の「の」の字も知らない所から怒濤の勢いでここまで来た。
 私が実習で始めて入ったときは大葉ハウスという名のネギハウスだった。2月の寒い中、少ないネギの出荷準備の傍ら、黙々と豆の選別をしていた。わずかばかりベビーリーフをつかったサラダミックスを数人で作っていた。
 そんな時期から2年たった今、サラダミックスと昨年秋から始めたブーケレタスを主力商品として作っている。ブーケレタスは失敗もあったが、何とか1年間通して出荷することが出来、作業に慣れた利用者さんとテンポ良く収穫・発送作業が出来るようになった。
 今年度に入って仕事内容は大きく変化した。同じ作業をするのは1〜2人で、それぞれ担当している作業は違っている。種まきする人、定植する人、収穫する人、計量する人、水耕の人、土耕の人・・・みんなバラバラすぎて、私自身が追いつかなくなることがあり、さらに私自身の経験の浅さもあり、どうしようか悩んだり、作業をお任せすることも多々あり、ハウス班のみんなへの負担も大きくなっているかもしれない。それでもハウスが機能しているのは、それぞれの得意なこと・出来ることが見つかって、自分の仕事としての責任感が芽生えているからではないかと思う。
 私と同じく2年目の有野君(仮名)は、補聴器を付けていて、大きめの声ではっきりと話さないと聞こえない。話している言葉も聞き取れないことの方が多い。1年目の彼の仕事はネギの皮むきとハウスの掃除が主だった。掃除は嫌いなようで、立ちどまっていることが多く、人が来るとやってるふりをしていた。新しいことが好きで、他の人が珍しいことをやっていると近づいて見ていたり、マネをしたりしていた。新しいことをやってもらおうと思っても、付きっきりでないと不安が残る。しかし、私自身が余裕がなくバタバタしてしまっている中、ここ1年で彼は、ハウスで一番成長しているのではないかと驚くことがある。
 有野君の作業を、信頼しているベテランの利用者の貞春君(仮名)とペアになりやってもらった。ネギ用ネットをはがす作業、野菜の苗の定植などなど・・・貞春君に任せれば大丈夫という信頼に応えるように二人でバッチリこなしていた。丁寧に教えている様子もみえ微笑ましくも思っていた。終わってから貞春君に、有野君どうだった?と聞くと「大丈夫だったっけよ!上手だった」と返事が返ってきた。きっと、貞春君自身の作業のできと指導力についてのことも言っていたであろうが、確かにちゃんと出来ていたし、有野君本人も掃除しているときと比べて何倍も楽しそうに見えた。
 畑班が人手不足でハウスから男手が助っ人に行くことが増え、定植を担当していた貞春君を含む男性陣3人に代わって、定植は有野くんの仕事になった。苗を渡して、定植場所に行き、ここだよと伝えると、「植えます!」と慣れた手つきで定植してくれる。終わると遠くにいても気がつく声で「おわりました!」と呼んでくれる。定植場所や苗は用意するが、そこからは完全に任せて大丈夫。段々スピードもアップしていて、私は次の仕事を考え用意しながら、いつ「おわりました!」の声が聞こえてくるかドキドキする。彼が定植するのが早いか、私が仕事を用意するのが早いか・・・。追いつかないとき、植える場所が無くなって、苗が残っていると自分で空いている場所を探して植えていることがあった。良いときと悪いときはあるが・・・私が他の事で手一杯になっているときは、すごくありがたい。そして、私が手一杯になっていることが、ばれてるんだな〜と申し訳なくなる。
 ブーケレタスの出荷においても、彼は縁の下の力持ちとして活躍してくれている。ブーケレタスの作業は、朝早番の人が収穫して冷蔵庫にレタスを保管してくれていて、日中みんなが来ると一斉に発送作業を始める。余分な葉っぱを取って芯を綺麗にカットする係。それを受け取り専用のパックに詰める係。この2つの仕事がメインとなる。初めのうちは慣れない作業で、カッターで指を切ってしまう人がいたり、パック詰めに時間がかかったりしていて、午後までかかっていた。今では7人体制で午前で終わるようになっている。カット係は怪我が無くなり手際もよくなり、パック詰めはカット係が追いつかない早さで詰めることが出来るようになった。二人いるパック詰め専属係は「はい、どんどん!」と声かけると、黙々とテキパキこなす人と、「あ〜もう!急かさないでよ!」と文句を言いつつこなす人がいる。二人とも完璧に仕上げてしまうところは、職人だ。箱に詰める前の最後のチェックも精度が良くなっている。
 チェックでゴミが入っていると、やり直し。「家政婦のみたさんはきびしいよ〜」と言われることもあるが、「枯れた葉っぱなんて、食べたくないでしょ」と言うと「うん。ヤダ!」と解ってくれる。
 有野君はこの二つのうちに入っていないが、重要な仕事をしてくれている。一つは冷蔵庫からブーケレタスを運ぶ、もう一つは空になったカゴを片付ける、最後に段ボール箱に詰めたレタスを冷蔵庫に運ぶ。テクニックが必要な作業ではないが、居ないととっても困る。冷蔵庫に行くのは好きなようで、他の物を運ぶのも積極的に、誰かが運ぼうとしていても、受け取って運んでくれるような所がある。雨でも、夏の暑い時期でも、ずんずん出て行く姿は危なっかしい気もするが、頼もしくもある。夏に冷蔵庫で涼んでいるのはご愛嬌。運び終えると冷蔵庫は、天井につくくらい箱が高く積み上げてあり、楽しんでいるように見えた。私が数を数えると一緒に数えて「たかーい!」と一言。以前も箱折りで高く積み上げている写真を見たことあったので、好きなんだな〜と和んでしまった。
 有野君の仕事はどんどん増えている。好奇心と結びついてどんどん成長しているんだと思う。私はみんなに頼ってばかり、やってもらってばかり。負けてられないと思う。みんなが頼もしくって嬉しい。厳しく言うこともあるけど、すごく尊敬している。私はまだまだ精進・・・。
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クリスマスケーキとリース ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2013年12月号】

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★チョコレートケーキにリースと、昌子さんはクリスマスが待ち遠しいようです。25日にワークステージのクリスマス会を予定しています。楽しみですね!
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白鳥飛来 ★ワークステージ 村上幸太郎【2013年12月号】

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★銀河の里の近くに、三郎堤(さぶろうづつみ)という堤があり、12月になると白鳥が飛来します。湖面が凍るまでの間、優雅に泳ぐ姿を眺めることができます。
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