2013年11月15日
およびでない ★理事長 宮澤健【2013年11月号】
盛岡でのグループホーム全国大会が終わってこの1年を見渡してみる。「何だったんだろう」まだそれは明確には立ち現れてこないが、おそらく「およびでなかったんだな」と感じる。
【濃密な時間と深い手応え】
事例そのものは、全国大会にふさわしく高いレベルの内容だったと思う。真嶋さんの凄まじい体験も、フルートの高橋さんに守られて、心に届いた。二つの事例には、魂の震えと共に語られる、圧倒的な迫力と奥深さを感じた。グループホームやケアの未来を越えて、来るべき近未来の可能性を照らす意義深い内容を提示できたことが嬉しかった。
さらにコメンテーターの深い理解に支えられて、様々な視点からケアの新たな文化的意味まで示唆される話になった。事例そのものには迫れなかった感はあるが、赤坂先生を初め、これだけの有識者達が、事例に感化されて様々なイメージや発想を湧かせ、真剣な議論になり、知的にも深い感動が広がる手応えがあった。
ワークショップTの事例『戦場の傷をこえて未来を託す』では、赤坂先生は精神科医の中井久夫先生の話をされた。中井先生は若い頃、患者さんの病気がたちどころに見えて、何の薬を出せばいいかマニュアル通りにやれた。でも患者さんはいっこうによくならなかった。歳をとってから、患者さんの病名はわからなくなり、かなしみ、怒り、さみしさばかりが感じられ、とりとめのない話をして、薬さえも出さなくなった。ところが患者さんは治るようになったという。このエピソードを紹介しながら、天才だからできることだけど、一般の人が図式化やマニュアル化できないことに向かう危うさを指摘され、現場のスタッフ自身の守りの必要性を問われた。
ワークショップUの事例『命に触れる・死を生きる看取りの体験』では、河合隼雄先生との対談で「クライエントの語りを聞いていると疲れませんか」と尋ねると「若い頃は疲れ切ったが、あるとき忘れることを覚えたら楽になった」と言われた話から、「非日常の現場から離れたとき忘れることができる。しかし介護の現場は日常であって、社会全体が日常のなかに介護を受け入れていく仕組みを作っていくことが必要になる。介護は一方的にサービスを与えるイメージがあるけども、医療と違って、介護の現場では贈与の関係が成り立つ。そこにこれから向かおうとする社会のありようが見えてくる」との話をされた。
どちらのお話も、現場で厳しい現実に向きあいながらどう自分を支えるのかという課題を語られたように思う。講演では「和解」を語られたのだが、自分自身の人生や運命、不幸や諍いなど、いろんな葛藤との和解を人生は必要とする。「和解」という言葉には、癒しという使い古された言葉を異化し、そのプロセスまで具体的に見通すような響きがある。「和解」が機能する場や時は限られている。それは死の間際や、苦悩の最中などの限定された時に、誰か語りに耳を傾ける他者がいる場合に成り立つように思う。この「和解」はたやすい状況では生まれないのではないだろうか。また「和解」はお互いに危機的な状況さえもたらすような極限に起こるからこそ、一方的ではなく、また個人に留まるのでもなく、場に参入した他者にも互いに贈与的に豊かな影響を与える。介護現場にはそんな新たな可能性と使命が秘められている。それを達成する「臨床の知」が要請される。
河合先生の“忘れる”という話も、ただ忘れてしまうのではない。単に非日常と日常の切りかえでもないだろう。河合先生は「自分が聞くのではなく、自分の神に聞かせる」と話されたこともある。深い次元で人と人が出会う場合、危うさが伴う。そうした次元でないと意味ある深い「和解」は起こらない。「シャーマンたちは神様を背負っていて技法も持っている」(神も技法もマニュアルもないところで、しかも非日常ではなく、日常で立ち向かう介護の人たちは)「どう自分を守るのか」赤坂先生の視点は守りの器に向けられている。強固な器に守られていなければこうした事例は成り立たない。人が深い関係性に生きるときの守りや支えをどうするか。里の守りの枠組みは発表抄録に少し書いたのだが、介護現場では支えとなるべきスーパービジョンなど、守りが極めて弱い現状にあり、今後の重要な課題になるだろう。
赤坂先生の言われた、50年後の日本。人口が減って8000万人となり、その45%が高齢者である社会をどう捉えるかに対して、永田先生は、対象者は爆発的に多くなり、支え手は少なくなるという状況のなかで、今は大事な岐路だと述べられた。今までの常識でやっていったら、数の論理で更に効率化に拍車がかかる恐れがある。これからは細かくひとりひとりの人間とその人生を見つめるような大転換を計らないと、数の論理、効率の論理で押されて大量の無惨な高齢者を作ってしまうことになる危機感を語られた。大事なのは現場から発信しつつ、これからのありようをみんなで考えていく姿勢ではないか。ワークショップの発表はそのきっかけになるような内容だったと言われた。
六車さんの「介護者は家族でも医療者でもない」というお話は、和解の仲介者、立会人としての介護者の位置づけを示唆する発言で興味深かった。そこに社会の未来がかかっているような重要な指摘だった。
現場の実践者として戦ってこられたコメンテーター4人の知性が、それぞれ悩み、考え、心動かして発言していただいた。時間は少ないながら、満ちたりた濃密な時間になった。
【最初のおよびでない】
15年前、認知症の人たちと生活を始めたばかりの頃、全国のグループホームで打ち立てたスローガン「ゆったりのんびり」とはまるで裏腹に、過激でダイナミックな日々が展開した。グループホームに9人の入居者を迎え、デイサービスには、よそで利用を断られた人などが集まり、それぞれ個性的で過激な人たちとの出会いに湧いた。それぞれが凄まじく興味深い世界が隠されることなく表出され投げかけられる。それは出会いの激しさに打ちのめされるような感動だった。人間本来の秘めた世界、内的な世界との接触に感動した。
こうした出会いの感動を伝えたいと、全国の実践報告会に参加した。ところが、発表の形式が、問題、処置、結果という因果論で、8分という枠があった。会場で「介護度だけ聞けばだいたいわかる」という言葉を聞いて驚いた。人の出会いどころか、暮らしも、人間も人生も、そこではおよびでなかった。
【もって10数年 未だにおよびでない数々】
以後十数年、業界とは関らず籠もって独自の道をやってきた。利用者と向き合いながら、2時間の発表と2時間の議論が基本の事例検討会を持ち、15年間継続してきた。この事例主義は、河合隼雄先生が心理臨床学会などに徹底されてきた事例中心主義を受けての姿勢だった。発表には労力を要するが、発表する方も、参加者も深く心を揺さぶられ、毎回感動の波が広がる。現場の利用者とスタッフの関係性がダイナミックに意味深く捉えられた。
今回グループホーム全国大会が盛岡で行われる事もあって、参考に去年の大阪大会に参加したが、程度の低さに愕然とした。利用者もスタッフの顔も見えない。発表も相変わらず8分で、操作主義が蔓延しdoingばかりが語られbeingはまるでなかった。「つまらない」の極みで、その場にいることさえ苦しかった。
一方ユニットケア大会の発表は20分と長めだが、根っこは下手に凝り固まった因果論で、議論もない一方的な発表には、深みも新しさもなかった。発表700ケースの中からアンコール発表で選ばれた3つのうち2例はマニュアル作りだった。簡単な答えと方法ばかりを求め、人間と向き合っていないことに残念な思いがした。
生きた人間と親密に関わり、人生の深い部分がテーマになる現場でありながら、なぜこうしたつまらない話にしてしまうのか。人間にとって失ってはならない大切なことを、暴力的に消滅させているのが介護業界なのか。
大阪大会はそれがあからさまで、即刻グループホーム協会を退会しようと思ったが、来年からは変えていきたいとの言葉に乗って、実行委員になった。やるからにはと裏事務局と称して打ち合わせを始めた。
裏事務局の情熱を実行委員会に図ったところ好評で、委員からも熱気のある意見が出た。近県の実行委員からも、閉塞感を破りたいという期待が高まってワクワク感が語られるほどだった。ところが意気込みもつかの間、本部から待ったがかかる。実行委員会案と本部案が対立し、委員会案はボツになった。議論もない一方的な決定に怒りを感じたが、本部の意向に従わないと赤字が出たとき責任がとれないとの消極姿勢が委員にも広がった。事務局で本部に直談判し、折衷案になっていくのだが、このゴタゴタのなかで、大会実行委員長と県の会長が代わるという異常事態で内部分裂に発展した。裏事務局も途中で消散し、当初のテーマの「物語」も「事例主義」もほとんど影を失い、事例は私個人の手にゆだねられる形で初日4時間の枠が残された。
大会終了後、大会部会長の宮長副代表とお会いして聞いてみると、このゴタゴタを氏は把握されていなかった。「代議員選挙の最中でそれどころではなかった」とも言われたが、大会が全国の現場で働く職員の育成と、グループホームの将来的な展望に直接繋がっていることを考えると、組織として大きな問題があると感じる。意志決定者の顔が見えず議論する相手が見えない程不気味なことはない。それでいて、上から一方的に地元実行委員会の意向や意見を無視してくるのだからどうしようもない。
結局、折衷案のプログラムは、あれもこれもの盛りだくさんとなり、会場の構造もあって参加者には大変せわしなくて迷惑をおかけした。おもてなしどころではない。これを機会にグループホームのあり方を一歩立ち止まってじっくり考えようという意図は打ち砕かれ、大会はただのイベントと化してしまった。
大会は旧態依然としたプログラムの中に、赤坂先生の講演とワークショップT、Uが異物として入り込んだ感じの構成になった。アンケート調査では、赤坂先生の講演は満足度60%と極めて低かった。里のスタッフの中には講演の最中泣きっぱなしだった人もいたし、コメンテーターの六車由実さんも「いつも泣かせる」と、とても感動的な深い内容だったにも関わらずだ。人間に向きあう現場の本質を突いた極めて上質の講演を、大会関係者、グループホーム関係者は理解できないのだろうか。
今回の大会には家族の会の方も多数参加されたのだが、苦言として「講演中の私語が多く、とても不愉快だった」と言われ、「これでは現場で利用者の言うことなど全く聞いてないだろう」と見透かされた。他にもカバンを並べて場所取りするなど、社会人としてのマナーを問われるような反省が出た。せっかくの貴重な発表や深いやりとりが、会場の私語に消えたとすれば残念なことだ。協会の役員は誰一人としてワークショップに参加せず、内容も聞いてはいないという。やはりここでも「およびでなかった」ということだろう。
【アンケートから見る実状】
ワークショップはT、Uともに一時間の事例発表と4人のコメンテーターによる一時間の事例検討の構成だったのだが、質問感想票の回収率は極めて低かった。TとU合わせて66枚。1324名の参加者でこの数はかなり厳しい理解度ということになるのではないか。大会アンケートでは、満足度自体はワークショップT、Uとも80パーセントを超えているのだが、その理解度となるとなんともおぼつかない現状がかいま見られる。ここでもおよびでなかったかと感じざるを得ない。ただ、通じる人はかなりの感動とともに、深い理解を示してくれた。専門性の低い大衆レベルのなかに、わずかばかりセンスのある人達が混じっているという実態なのだろうか。
ひとつ、今大会を通じて私が救われたのは、岩手の現場の人の真摯でひたむきな姿勢だった。与えられた仕事をひたすらひたむきにこなすその姿勢に美しいものを感じた。広告の営業目標をあっという間に倍で達成するほどの勢いもあった。会場の準備から運営まで、各担当が打ち込んで努める姿は心地よかった。岩手の現場の人たちの事例発表の物語に対する感度も、かなり高く、感受性やセンスに相当なレベルを感じた。リーダーとなる人たちはこうした貴重な宝を踏みつぶすことなく育んでいってもらいたいと願う。
【仕事の作法】
世間に出ると否応なく傷つかざるを得ない。今の世の中、大半の仕事の仕方が、物作り感覚ではなく事務処理だから、処理はするが、いいものを作ろうという情熱がない。物作りの姿勢で、事務処理の人と仕事をすると傷つく。
結局、グループホームを変えていこうという話から、ワークショップの形で事例検討が残ったのは幸いだったが、物語も、革新も消え、事例検討はまるでアウエイになってしまった。岩手から全国に未来への可能性を提示するという勢いは消え、事例検討は「およびでなく」、勝手なことをしたかのようだった。
【事例の位置づけとこれから】
銀河の里は今後も事例主義を貫きたいと思う。今回の事例は銀河の里14年の歴史をかけた事例だったように感じる。これ以上の事例はもう生まれないのではないかとさえ感じる。ビギナーズラックもあって、なにもしなかったことによって生まれた事例だったからだ。何もしないまま受け止められた「たましい」は、妨げられることなく、自在に動いた。「見えない世界は完ぺき性を持つ」と吉田先生が言われたが、見事に決まっているのは「たましい」の力というべきだろう。河合先生も「何もしないことに全力をあげる」とよく言われていた。中井先生のとりとめなく話を聞いているだけのほうが患者さんが治ったという話にも繋がる。真嶋さんの重すぎる体験も、震災の死者達の支えで語り得た、通常ではあり得ないほど貴重な発表だった。
今回、頂点のような事例が経験できたことはありがたい。ただ里はここで、一旦現実に戻って、改めて積み上げて出直す必要があるのかも知れない。これからは里のスタッフそれぞれが、知識や理論を緻密に積み上げていく必要がある。最近、里の中でも私にはほとんどおよびがかからなくなった。里も、異界や「たましい」から目をそむけ、時代の軽薄さに染まり、一般世間の空気に流れる傾向がある。「たましい」を見つめるまなざしを失ってはならないのだが・・・。
【濃密な時間と深い手応え】
事例そのものは、全国大会にふさわしく高いレベルの内容だったと思う。真嶋さんの凄まじい体験も、フルートの高橋さんに守られて、心に届いた。二つの事例には、魂の震えと共に語られる、圧倒的な迫力と奥深さを感じた。グループホームやケアの未来を越えて、来るべき近未来の可能性を照らす意義深い内容を提示できたことが嬉しかった。
さらにコメンテーターの深い理解に支えられて、様々な視点からケアの新たな文化的意味まで示唆される話になった。事例そのものには迫れなかった感はあるが、赤坂先生を初め、これだけの有識者達が、事例に感化されて様々なイメージや発想を湧かせ、真剣な議論になり、知的にも深い感動が広がる手応えがあった。
ワークショップTの事例『戦場の傷をこえて未来を託す』では、赤坂先生は精神科医の中井久夫先生の話をされた。中井先生は若い頃、患者さんの病気がたちどころに見えて、何の薬を出せばいいかマニュアル通りにやれた。でも患者さんはいっこうによくならなかった。歳をとってから、患者さんの病名はわからなくなり、かなしみ、怒り、さみしさばかりが感じられ、とりとめのない話をして、薬さえも出さなくなった。ところが患者さんは治るようになったという。このエピソードを紹介しながら、天才だからできることだけど、一般の人が図式化やマニュアル化できないことに向かう危うさを指摘され、現場のスタッフ自身の守りの必要性を問われた。
ワークショップUの事例『命に触れる・死を生きる看取りの体験』では、河合隼雄先生との対談で「クライエントの語りを聞いていると疲れませんか」と尋ねると「若い頃は疲れ切ったが、あるとき忘れることを覚えたら楽になった」と言われた話から、「非日常の現場から離れたとき忘れることができる。しかし介護の現場は日常であって、社会全体が日常のなかに介護を受け入れていく仕組みを作っていくことが必要になる。介護は一方的にサービスを与えるイメージがあるけども、医療と違って、介護の現場では贈与の関係が成り立つ。そこにこれから向かおうとする社会のありようが見えてくる」との話をされた。
どちらのお話も、現場で厳しい現実に向きあいながらどう自分を支えるのかという課題を語られたように思う。講演では「和解」を語られたのだが、自分自身の人生や運命、不幸や諍いなど、いろんな葛藤との和解を人生は必要とする。「和解」という言葉には、癒しという使い古された言葉を異化し、そのプロセスまで具体的に見通すような響きがある。「和解」が機能する場や時は限られている。それは死の間際や、苦悩の最中などの限定された時に、誰か語りに耳を傾ける他者がいる場合に成り立つように思う。この「和解」はたやすい状況では生まれないのではないだろうか。また「和解」はお互いに危機的な状況さえもたらすような極限に起こるからこそ、一方的ではなく、また個人に留まるのでもなく、場に参入した他者にも互いに贈与的に豊かな影響を与える。介護現場にはそんな新たな可能性と使命が秘められている。それを達成する「臨床の知」が要請される。
河合先生の“忘れる”という話も、ただ忘れてしまうのではない。単に非日常と日常の切りかえでもないだろう。河合先生は「自分が聞くのではなく、自分の神に聞かせる」と話されたこともある。深い次元で人と人が出会う場合、危うさが伴う。そうした次元でないと意味ある深い「和解」は起こらない。「シャーマンたちは神様を背負っていて技法も持っている」(神も技法もマニュアルもないところで、しかも非日常ではなく、日常で立ち向かう介護の人たちは)「どう自分を守るのか」赤坂先生の視点は守りの器に向けられている。強固な器に守られていなければこうした事例は成り立たない。人が深い関係性に生きるときの守りや支えをどうするか。里の守りの枠組みは発表抄録に少し書いたのだが、介護現場では支えとなるべきスーパービジョンなど、守りが極めて弱い現状にあり、今後の重要な課題になるだろう。
赤坂先生の言われた、50年後の日本。人口が減って8000万人となり、その45%が高齢者である社会をどう捉えるかに対して、永田先生は、対象者は爆発的に多くなり、支え手は少なくなるという状況のなかで、今は大事な岐路だと述べられた。今までの常識でやっていったら、数の論理で更に効率化に拍車がかかる恐れがある。これからは細かくひとりひとりの人間とその人生を見つめるような大転換を計らないと、数の論理、効率の論理で押されて大量の無惨な高齢者を作ってしまうことになる危機感を語られた。大事なのは現場から発信しつつ、これからのありようをみんなで考えていく姿勢ではないか。ワークショップの発表はそのきっかけになるような内容だったと言われた。
六車さんの「介護者は家族でも医療者でもない」というお話は、和解の仲介者、立会人としての介護者の位置づけを示唆する発言で興味深かった。そこに社会の未来がかかっているような重要な指摘だった。
現場の実践者として戦ってこられたコメンテーター4人の知性が、それぞれ悩み、考え、心動かして発言していただいた。時間は少ないながら、満ちたりた濃密な時間になった。
【最初のおよびでない】
15年前、認知症の人たちと生活を始めたばかりの頃、全国のグループホームで打ち立てたスローガン「ゆったりのんびり」とはまるで裏腹に、過激でダイナミックな日々が展開した。グループホームに9人の入居者を迎え、デイサービスには、よそで利用を断られた人などが集まり、それぞれ個性的で過激な人たちとの出会いに湧いた。それぞれが凄まじく興味深い世界が隠されることなく表出され投げかけられる。それは出会いの激しさに打ちのめされるような感動だった。人間本来の秘めた世界、内的な世界との接触に感動した。
こうした出会いの感動を伝えたいと、全国の実践報告会に参加した。ところが、発表の形式が、問題、処置、結果という因果論で、8分という枠があった。会場で「介護度だけ聞けばだいたいわかる」という言葉を聞いて驚いた。人の出会いどころか、暮らしも、人間も人生も、そこではおよびでなかった。
【もって10数年 未だにおよびでない数々】
以後十数年、業界とは関らず籠もって独自の道をやってきた。利用者と向き合いながら、2時間の発表と2時間の議論が基本の事例検討会を持ち、15年間継続してきた。この事例主義は、河合隼雄先生が心理臨床学会などに徹底されてきた事例中心主義を受けての姿勢だった。発表には労力を要するが、発表する方も、参加者も深く心を揺さぶられ、毎回感動の波が広がる。現場の利用者とスタッフの関係性がダイナミックに意味深く捉えられた。
今回グループホーム全国大会が盛岡で行われる事もあって、参考に去年の大阪大会に参加したが、程度の低さに愕然とした。利用者もスタッフの顔も見えない。発表も相変わらず8分で、操作主義が蔓延しdoingばかりが語られbeingはまるでなかった。「つまらない」の極みで、その場にいることさえ苦しかった。
一方ユニットケア大会の発表は20分と長めだが、根っこは下手に凝り固まった因果論で、議論もない一方的な発表には、深みも新しさもなかった。発表700ケースの中からアンコール発表で選ばれた3つのうち2例はマニュアル作りだった。簡単な答えと方法ばかりを求め、人間と向き合っていないことに残念な思いがした。
生きた人間と親密に関わり、人生の深い部分がテーマになる現場でありながら、なぜこうしたつまらない話にしてしまうのか。人間にとって失ってはならない大切なことを、暴力的に消滅させているのが介護業界なのか。
大阪大会はそれがあからさまで、即刻グループホーム協会を退会しようと思ったが、来年からは変えていきたいとの言葉に乗って、実行委員になった。やるからにはと裏事務局と称して打ち合わせを始めた。
裏事務局の情熱を実行委員会に図ったところ好評で、委員からも熱気のある意見が出た。近県の実行委員からも、閉塞感を破りたいという期待が高まってワクワク感が語られるほどだった。ところが意気込みもつかの間、本部から待ったがかかる。実行委員会案と本部案が対立し、委員会案はボツになった。議論もない一方的な決定に怒りを感じたが、本部の意向に従わないと赤字が出たとき責任がとれないとの消極姿勢が委員にも広がった。事務局で本部に直談判し、折衷案になっていくのだが、このゴタゴタのなかで、大会実行委員長と県の会長が代わるという異常事態で内部分裂に発展した。裏事務局も途中で消散し、当初のテーマの「物語」も「事例主義」もほとんど影を失い、事例は私個人の手にゆだねられる形で初日4時間の枠が残された。
大会終了後、大会部会長の宮長副代表とお会いして聞いてみると、このゴタゴタを氏は把握されていなかった。「代議員選挙の最中でそれどころではなかった」とも言われたが、大会が全国の現場で働く職員の育成と、グループホームの将来的な展望に直接繋がっていることを考えると、組織として大きな問題があると感じる。意志決定者の顔が見えず議論する相手が見えない程不気味なことはない。それでいて、上から一方的に地元実行委員会の意向や意見を無視してくるのだからどうしようもない。
結局、折衷案のプログラムは、あれもこれもの盛りだくさんとなり、会場の構造もあって参加者には大変せわしなくて迷惑をおかけした。おもてなしどころではない。これを機会にグループホームのあり方を一歩立ち止まってじっくり考えようという意図は打ち砕かれ、大会はただのイベントと化してしまった。
大会は旧態依然としたプログラムの中に、赤坂先生の講演とワークショップT、Uが異物として入り込んだ感じの構成になった。アンケート調査では、赤坂先生の講演は満足度60%と極めて低かった。里のスタッフの中には講演の最中泣きっぱなしだった人もいたし、コメンテーターの六車由実さんも「いつも泣かせる」と、とても感動的な深い内容だったにも関わらずだ。人間に向きあう現場の本質を突いた極めて上質の講演を、大会関係者、グループホーム関係者は理解できないのだろうか。
今回の大会には家族の会の方も多数参加されたのだが、苦言として「講演中の私語が多く、とても不愉快だった」と言われ、「これでは現場で利用者の言うことなど全く聞いてないだろう」と見透かされた。他にもカバンを並べて場所取りするなど、社会人としてのマナーを問われるような反省が出た。せっかくの貴重な発表や深いやりとりが、会場の私語に消えたとすれば残念なことだ。協会の役員は誰一人としてワークショップに参加せず、内容も聞いてはいないという。やはりここでも「およびでなかった」ということだろう。
【アンケートから見る実状】
ワークショップはT、Uともに一時間の事例発表と4人のコメンテーターによる一時間の事例検討の構成だったのだが、質問感想票の回収率は極めて低かった。TとU合わせて66枚。1324名の参加者でこの数はかなり厳しい理解度ということになるのではないか。大会アンケートでは、満足度自体はワークショップT、Uとも80パーセントを超えているのだが、その理解度となるとなんともおぼつかない現状がかいま見られる。ここでもおよびでなかったかと感じざるを得ない。ただ、通じる人はかなりの感動とともに、深い理解を示してくれた。専門性の低い大衆レベルのなかに、わずかばかりセンスのある人達が混じっているという実態なのだろうか。
ひとつ、今大会を通じて私が救われたのは、岩手の現場の人の真摯でひたむきな姿勢だった。与えられた仕事をひたすらひたむきにこなすその姿勢に美しいものを感じた。広告の営業目標をあっという間に倍で達成するほどの勢いもあった。会場の準備から運営まで、各担当が打ち込んで努める姿は心地よかった。岩手の現場の人たちの事例発表の物語に対する感度も、かなり高く、感受性やセンスに相当なレベルを感じた。リーダーとなる人たちはこうした貴重な宝を踏みつぶすことなく育んでいってもらいたいと願う。
【仕事の作法】
世間に出ると否応なく傷つかざるを得ない。今の世の中、大半の仕事の仕方が、物作り感覚ではなく事務処理だから、処理はするが、いいものを作ろうという情熱がない。物作りの姿勢で、事務処理の人と仕事をすると傷つく。
結局、グループホームを変えていこうという話から、ワークショップの形で事例検討が残ったのは幸いだったが、物語も、革新も消え、事例検討はまるでアウエイになってしまった。岩手から全国に未来への可能性を提示するという勢いは消え、事例検討は「およびでなく」、勝手なことをしたかのようだった。
【事例の位置づけとこれから】
銀河の里は今後も事例主義を貫きたいと思う。今回の事例は銀河の里14年の歴史をかけた事例だったように感じる。これ以上の事例はもう生まれないのではないかとさえ感じる。ビギナーズラックもあって、なにもしなかったことによって生まれた事例だったからだ。何もしないまま受け止められた「たましい」は、妨げられることなく、自在に動いた。「見えない世界は完ぺき性を持つ」と吉田先生が言われたが、見事に決まっているのは「たましい」の力というべきだろう。河合先生も「何もしないことに全力をあげる」とよく言われていた。中井先生のとりとめなく話を聞いているだけのほうが患者さんが治ったという話にも繋がる。真嶋さんの重すぎる体験も、震災の死者達の支えで語り得た、通常ではあり得ないほど貴重な発表だった。
今回、頂点のような事例が経験できたことはありがたい。ただ里はここで、一旦現実に戻って、改めて積み上げて出直す必要があるのかも知れない。これからは里のスタッフそれぞれが、知識や理論を緻密に積み上げていく必要がある。最近、里の中でも私にはほとんどおよびがかからなくなった。里も、異界や「たましい」から目をそむけ、時代の軽薄さに染まり、一般世間の空気に流れる傾向がある。「たましい」を見つめるまなざしを失ってはならないのだが・・・。
富山の元気と岩手の深淵 ★施設長 宮澤京子【2013年11月号】
10月4日・5日と、認知症グループ大会が盛岡で開催された。理事長と私も、この大会の実行委員としてほぼ1年間携わった。当初心配されていた参加人員は1324名と当初の目標を大きく上回り、広告や展示収入も頑張って、会計的にも黒字になった。
(詳しくは、グループホーム機関誌『ゆったり』110号をお読み下さい)
しかし、3つの「カクシン」を掲げた大会から、参加者は何を感じ、何を考えどう行動するのだろうか?アンケートの結果からは、満足度は高い割合で出ているが、果たしてこれから始まるのか、点を打っただけで終わったのか・・・。今後を見守りたい。
【銀河の里における発信の意味】岩手の深淵
全国に発信した里の取り組みとしての「事例」は、グループホーム立ち上げから14年の実践の総集編のような内容だった。認知症の方達との暮らしの中で築いてきた関係性は、親族との関係とは当然異なり、社交とも全く次元の違った、濃密で深いものがある。それは介護の専門性を越えて、シナリオのない舞台に配置された役者達が、創造(産み)の苦しみと喜びを伴う、壮大な人間模様を展開するドラマに似ている。
そこにある歴史的時代背景や人間の内的世界そして異界を含めた見えない世界との繋がりを綴り「物語」として編んで発表したのは、グループホームが閉塞的な現場にならないための一石になれたらとの思いと、願いがあった。
「事例」をまとめていく過程では、隠されていた秘密のベールが剥がされていくように、いろんなことが発見され、「魂の深いところで腑に落ちる」といった経験がある。そんな発見の度に、関係者それぞれに深い感動が起こった。こうした「事例」の凄さを体感するとたまらなくなる。恣意的ではなく巻き起こる出来事は、事実なのか真実なのか、妄想なのか幻覚なのか、フィクションなのかドキュメントなのか、その境界が曖昧になる。圧倒的な「存在」の手応えを身に帯びて、新たな自分が生まれ変わるような体験となっていく。
またこの大会で「事例」のコメンテーターの先生達が、介護分野だけではなく心理学や民俗学の専門家であったことは、現場への眼差しが大きく広がったと思う。「死者との和解」・「ファンタジー」・「演劇的舞台」といった、これまでの介護の業界ではほとんど耳にしないであろう言葉が飛び出して知的な興奮に酔った。また、現在マイノリティーとしての「認知症ケア」が、数10年後には社会のマジョリティーになる時代がくると言われた。そのとき「大量に扱われる存在」になるのか、人間の尊厳と関係性の多様化によって新たな文化を創造するのか、今はその岐路にあって正念場であるというコメントに強い共感を覚えた。
【地域共生ホーム全国セミナーに参加して】富山の元気
岩手の大会の直後、富山のセミナーに参加した。富山の県民性なのか会場にはウエルカムが満ちている。会はパワフルで明るい!シンプルなプログラムは歌あり踊りありのノリノリの演出だった。岩手のグループホーム大会が「鎮魂・深淵・物語」をテーマに掲げ、生と死の世界観に潜っていった方向とは反対に、上に上にと気流(鼻息)を吹きあげるパワーがある。グループホーム大会の深い感動の冷めやらぬうち、「共生ホーム」セミナーは両極の狭間に立ちつつ、考える機会となった。
富山型は、小規模で各々事業所の「主人」の顔が見え、個性的で生き生きしている。まるで産直の顔の見える生産者のように、自分のところで採れた逸品を自信と責任を持って勧めている感じだ。小規模な家庭的施設がネットワークで繋がって構成された仲間組織。力強いリーダーの惣万さんの存在も大きい。仁義さえ感じる師弟関係がある。「子どもも大人も、年寄りも障害ある人も無い人も、みんないっしょに暮らしてええがや。それが“当たり前ちゃね”“出逢ったら、最期の看取りまでやるのも自然なことだがじゃ。そのために、看取りをしてくれる良い先生、探がさんといかんがよ”」といった具合だ。(富山の方言が、元気で暖かい)
立ち上げ当初は、福祉六法のどこにも規定されないサービスで、相当な障壁があったことだろう。分からず屋の行政にも、お堅い教育機関にも、ことある事に殴り込みをかける・・・激情と知性を合わせた凄味はヤクザより怖い。若手のリーダーも育っていった。金髪に染めたヤンキー姉ちゃんの会話のたびに繰り返される、問題も葛藤も吹き飛ばす破壊的な笑い(がっはっはっ〜〜〜〜はっはぁ〜〜〜〜!)。富山のリーダーには様々な色合いがある。
しかし富山には、官僚的で前例主義に凝り固まること無く、そうした市民や女性の情熱や勢いを戦略として先見的に現場に合わせ、特区を上手く取り入れていく柔軟な首長や行政マンがいたのだと思う。岩手の土壌ではこれは考え難い。この柔らか頭の「官」と、女性パワーの「民」の組み合わせが成功した姿は新鮮だ。
18年ほど前になるが介護保険も無かった時代、惣万さんたち看護師3名が立ち上げたばかりの富山型デイ「このゆびとまれ」を見学に行った。その時も高齢者や赤ちゃんそして障害者が一緒にリビングで寛いでいた。座敷で身体の不自由な方が寝ていたり、テーブルの下から小さな顔が覗いている。ところ狭し?赤ちゃん踏まれないかな?このスタイルは混合型?認可基準は?目的外使用?運営費は?等・・・現実的な疑問が、頭をよぎるものの、あの迫力ある笑いの懐に包み込まれて「これもあり?」と納得させられた。
・「共生ホーム」の意義と展開の課題
立ち上げ20周年記念の今年、「地域共生ホーム全国セミナーinとやま おかげさまで20周年」と題して、全国から約800人ほどが集まった。全国的に有名になって久しい地域共生型ホーム。国や各自治体の財政状況や介護高齢者の増大などを考えれば、大型施設建設とは異なり、小規模で手軽に事業が立ち上げられる。財政的には非常に安上がりだ。しかし老若男女、障害児・者も一緒に暮らして当たり前というコンセプトは、今までの縦割りの方向性とは逆の発想であるため、ともすると専門性の欠如や雑居のイメージが払拭できない。富山以外の自治体が二の足踏んでいるのは、財政的には安上がりであっても、運営主体が小規模なために事業継続性への懸念があることと、介護分野がサービス業としての採算性に重きが置かれ、「やりがいがある」としてライフワークで立ち上げる有志が少ないことも挙げられる。また地域に惣万さんのような面倒見のいい“親分肌”のリーダーがおらず、またネットワークがないところでは、あまりに小規模過ぎて不安になり、燃え尽きも起こりやすい。ここに富山型の特徴と課題を感じたが、今後、全国に展開していくであろう「地域共生ホーム」は、地域や運営主体者の実状が、もろ「顔」に顕れることを覚悟せねばならないだろう。
銀河の里もどんな顔が映し出されるか・・・楽しみにしながら「地域共生」の構想を練りあげ、実現に向けて歩み出したい。いろんな可能性に、みんなの期待が沸いている。
・「銀河の里」の課題
銀河の里は、時代の要請に合わせて出てくる制度に則って施設整備をし、制度を利用して事業所指定を受けながら、現場の運営において工夫をして富山型に近い雰囲気を作り出してきた。農業を基盤に「仕事」「暮らし」を通して、高齢者、障害者の施設を有機的に組み合わせて作ってきた。四季折々の自然の助けは大きい。単独での組織力を使った企画も出来るような規模にもなってきたし、ある程度の経済基盤も備わってきた。「暮らし」を共にすることで、生活の質や関係性の質も上げてきたと思う。
しかし富山に比べると、あの個々の野性的なパワーがかけらもない。組織に守られ、そこに甘えて、本来持っている野生的なエネルギーは活性化する必要もなく、沈んだままだ。
地域の活性や世代間交流というと使い古された言葉であるが、岩手におけるこれからの事業展開には、縄文の知恵や逞しさを復活させたい。銀河の里の若者達が、自らの中にある野生を目覚めさせ、「現代」と「縄文」の調和をとりつつ、それをいかに知的に洗練させ大人として成熟させていくのか、今後の里の大きな課題になるのだろう。
(詳しくは、グループホーム機関誌『ゆったり』110号をお読み下さい)
しかし、3つの「カクシン」を掲げた大会から、参加者は何を感じ、何を考えどう行動するのだろうか?アンケートの結果からは、満足度は高い割合で出ているが、果たしてこれから始まるのか、点を打っただけで終わったのか・・・。今後を見守りたい。
【銀河の里における発信の意味】岩手の深淵
全国に発信した里の取り組みとしての「事例」は、グループホーム立ち上げから14年の実践の総集編のような内容だった。認知症の方達との暮らしの中で築いてきた関係性は、親族との関係とは当然異なり、社交とも全く次元の違った、濃密で深いものがある。それは介護の専門性を越えて、シナリオのない舞台に配置された役者達が、創造(産み)の苦しみと喜びを伴う、壮大な人間模様を展開するドラマに似ている。
そこにある歴史的時代背景や人間の内的世界そして異界を含めた見えない世界との繋がりを綴り「物語」として編んで発表したのは、グループホームが閉塞的な現場にならないための一石になれたらとの思いと、願いがあった。
「事例」をまとめていく過程では、隠されていた秘密のベールが剥がされていくように、いろんなことが発見され、「魂の深いところで腑に落ちる」といった経験がある。そんな発見の度に、関係者それぞれに深い感動が起こった。こうした「事例」の凄さを体感するとたまらなくなる。恣意的ではなく巻き起こる出来事は、事実なのか真実なのか、妄想なのか幻覚なのか、フィクションなのかドキュメントなのか、その境界が曖昧になる。圧倒的な「存在」の手応えを身に帯びて、新たな自分が生まれ変わるような体験となっていく。
またこの大会で「事例」のコメンテーターの先生達が、介護分野だけではなく心理学や民俗学の専門家であったことは、現場への眼差しが大きく広がったと思う。「死者との和解」・「ファンタジー」・「演劇的舞台」といった、これまでの介護の業界ではほとんど耳にしないであろう言葉が飛び出して知的な興奮に酔った。また、現在マイノリティーとしての「認知症ケア」が、数10年後には社会のマジョリティーになる時代がくると言われた。そのとき「大量に扱われる存在」になるのか、人間の尊厳と関係性の多様化によって新たな文化を創造するのか、今はその岐路にあって正念場であるというコメントに強い共感を覚えた。
【地域共生ホーム全国セミナーに参加して】富山の元気
岩手の大会の直後、富山のセミナーに参加した。富山の県民性なのか会場にはウエルカムが満ちている。会はパワフルで明るい!シンプルなプログラムは歌あり踊りありのノリノリの演出だった。岩手のグループホーム大会が「鎮魂・深淵・物語」をテーマに掲げ、生と死の世界観に潜っていった方向とは反対に、上に上にと気流(鼻息)を吹きあげるパワーがある。グループホーム大会の深い感動の冷めやらぬうち、「共生ホーム」セミナーは両極の狭間に立ちつつ、考える機会となった。
富山型は、小規模で各々事業所の「主人」の顔が見え、個性的で生き生きしている。まるで産直の顔の見える生産者のように、自分のところで採れた逸品を自信と責任を持って勧めている感じだ。小規模な家庭的施設がネットワークで繋がって構成された仲間組織。力強いリーダーの惣万さんの存在も大きい。仁義さえ感じる師弟関係がある。「子どもも大人も、年寄りも障害ある人も無い人も、みんないっしょに暮らしてええがや。それが“当たり前ちゃね”“出逢ったら、最期の看取りまでやるのも自然なことだがじゃ。そのために、看取りをしてくれる良い先生、探がさんといかんがよ”」といった具合だ。(富山の方言が、元気で暖かい)
立ち上げ当初は、福祉六法のどこにも規定されないサービスで、相当な障壁があったことだろう。分からず屋の行政にも、お堅い教育機関にも、ことある事に殴り込みをかける・・・激情と知性を合わせた凄味はヤクザより怖い。若手のリーダーも育っていった。金髪に染めたヤンキー姉ちゃんの会話のたびに繰り返される、問題も葛藤も吹き飛ばす破壊的な笑い(がっはっはっ〜〜〜〜はっはぁ〜〜〜〜!)。富山のリーダーには様々な色合いがある。
しかし富山には、官僚的で前例主義に凝り固まること無く、そうした市民や女性の情熱や勢いを戦略として先見的に現場に合わせ、特区を上手く取り入れていく柔軟な首長や行政マンがいたのだと思う。岩手の土壌ではこれは考え難い。この柔らか頭の「官」と、女性パワーの「民」の組み合わせが成功した姿は新鮮だ。
18年ほど前になるが介護保険も無かった時代、惣万さんたち看護師3名が立ち上げたばかりの富山型デイ「このゆびとまれ」を見学に行った。その時も高齢者や赤ちゃんそして障害者が一緒にリビングで寛いでいた。座敷で身体の不自由な方が寝ていたり、テーブルの下から小さな顔が覗いている。ところ狭し?赤ちゃん踏まれないかな?このスタイルは混合型?認可基準は?目的外使用?運営費は?等・・・現実的な疑問が、頭をよぎるものの、あの迫力ある笑いの懐に包み込まれて「これもあり?」と納得させられた。
・「共生ホーム」の意義と展開の課題
立ち上げ20周年記念の今年、「地域共生ホーム全国セミナーinとやま おかげさまで20周年」と題して、全国から約800人ほどが集まった。全国的に有名になって久しい地域共生型ホーム。国や各自治体の財政状況や介護高齢者の増大などを考えれば、大型施設建設とは異なり、小規模で手軽に事業が立ち上げられる。財政的には非常に安上がりだ。しかし老若男女、障害児・者も一緒に暮らして当たり前というコンセプトは、今までの縦割りの方向性とは逆の発想であるため、ともすると専門性の欠如や雑居のイメージが払拭できない。富山以外の自治体が二の足踏んでいるのは、財政的には安上がりであっても、運営主体が小規模なために事業継続性への懸念があることと、介護分野がサービス業としての採算性に重きが置かれ、「やりがいがある」としてライフワークで立ち上げる有志が少ないことも挙げられる。また地域に惣万さんのような面倒見のいい“親分肌”のリーダーがおらず、またネットワークがないところでは、あまりに小規模過ぎて不安になり、燃え尽きも起こりやすい。ここに富山型の特徴と課題を感じたが、今後、全国に展開していくであろう「地域共生ホーム」は、地域や運営主体者の実状が、もろ「顔」に顕れることを覚悟せねばならないだろう。
銀河の里もどんな顔が映し出されるか・・・楽しみにしながら「地域共生」の構想を練りあげ、実現に向けて歩み出したい。いろんな可能性に、みんなの期待が沸いている。
・「銀河の里」の課題
銀河の里は、時代の要請に合わせて出てくる制度に則って施設整備をし、制度を利用して事業所指定を受けながら、現場の運営において工夫をして富山型に近い雰囲気を作り出してきた。農業を基盤に「仕事」「暮らし」を通して、高齢者、障害者の施設を有機的に組み合わせて作ってきた。四季折々の自然の助けは大きい。単独での組織力を使った企画も出来るような規模にもなってきたし、ある程度の経済基盤も備わってきた。「暮らし」を共にすることで、生活の質や関係性の質も上げてきたと思う。
しかし富山に比べると、あの個々の野性的なパワーがかけらもない。組織に守られ、そこに甘えて、本来持っている野生的なエネルギーは活性化する必要もなく、沈んだままだ。
地域の活性や世代間交流というと使い古された言葉であるが、岩手におけるこれからの事業展開には、縄文の知恵や逞しさを復活させたい。銀河の里の若者達が、自らの中にある野生を目覚めさせ、「現代」と「縄文」の調和をとりつつ、それをいかに知的に洗練させ大人として成熟させていくのか、今後の里の大きな課題になるのだろう。
里の神様 ★特別養護老人ホーム 齋藤隆英【2013年11月号】
今年も響子さん(仮名)の自宅の裏山にある、家神様の愛宕神社(あまのがわ通信参2013年3月号掲載)に参拝に行きたいと思っていた。昨年までは毎年、この時期になると気になり9月に入ると、「家さ行ぐ〜、電話してけで〜」と言っていた響子さんなのに、今年は動きがなかった。春に体調を崩して入院したが、無事に退院し、それから元気に生活している事や、銀河の里の収穫の感謝など、色々な思いもあり今年も参拝したかった。20日を過ぎたところで私の方から、「響子さん、そろそろ愛宕神社のお祭りの時期だけど・・・一緒に行かねっか・・・?」と持ちかけてみた。すると「んだな〜。行ぐ〜。」と普通に答える響子さんがいた。
今年は、同僚の宮川君も一緒に誘いたいと考えていた。この春の田植えのころ、夜、ナースコールで宮川君が居室へ行くと、「これ(布団を持ちながら)下げて。」と、言う響子さん。布団を下ろしタオルケットだけ被せるも、ナースコールがまた鳴る。今度はタオルケットを持ち上げて、「ここ(お腹を差し)さ居で。」と言う。「ここさ入れて。」と、宮川には聞こえたようで、タオルケットをお腹にはさむと、「なんたら!わがってちょうだい!」と、腕を掴んで引っ張る。どうやら、“宮川”か“何か”をおなかの上とタオルケットの間に入れたいような感じの響子さん。「どうやって入れば良い?」に、「いいから、いいから」とせかす。数日後、居室でまた宮川に、「わからない、どうしたらいいの・・・?」と言い、かけてあるタオルケットを開ける。「どうしたらいいべね?手伝うから、何したらいい?」に、「“苗箱”壊れてらから・・・直した方いんだべ?」と、おなか辺りに“苗箱”がある感じで話す。そしてナースコールを手に取り、「これは“苗”なの。」と話す。宮川「植えねばねんだな〜。」響子「そうなの。私何もわがらねの。お兄ちゃんさ聞けばわがると思っだども、誰さ聞けばいんだべ?」と目を閉じた。これまで田んぼの作業には関わらなかった響子さんで、田植えに誘っても乗り気がなかったのに、そのような話をしてくれたので今年の春は、宮川君と響子さんは田植えに出かけた。
田植えの当日、響子さんは車椅子から作業を眺めていた。「響子さんも植える・・・?」と、聞くが、何も言わない。田んぼの中から菜摘さんに、「響子さんも来て〜!!!」と、呼ばれ、苗を渡されると、植える気持ちになった。宮川君は、車椅子から響子さんを降ろし、あぜに座ってもらった。足を田の中に入れてニコニコの響子さん。そしてとても丁寧に、横一列に苗を植えてくれたのだった。
響子さんの家は農家なのだが、娘さんの話によると、子供の頃には田植えをしていたようだが、若い時に発症した病気の関係で、大人になってからは、やりたくてもできなかったとの事だった。宮川君は実家が農家なので、それを知って宮川君に想いを伝えたのではないかと感じた。ケース会議で施設長はこの出来事を、“宮川君”という“苗”を育ようと響子さんしているのではないかとの話もあった。
田植えをした苗が育ち、響子さんは稲刈りにも参加した。その数日前、去年貼った、家神様の写真を響子さんが剥がして、ベッドの上に写真が散らばっていた。「弟に連絡して欲しい・・・二人の弟。相談しなきゃならないの、神社の事。」と、とても深刻な顔だったと言う。数日後、自宅へ行く事になっていると伝えると、「いつ?早くね。弟にやってもらわなきゃならない。神様・・・。」と言っていた。翌日の手刈りでは、宮川君と田んぼに座り、“育った稲”をしっかりした手つきで刈り取っていた。満面の笑みを浮かべ、声をかけられると、誇らしげな感じで良い表情だった。
稲刈りが終わった数日後の、9月25日。響子さんと宮川、私の3人で自宅に伺った。出発前に「行ってらっしゃい」とスタッフに言われても、静かに頷くだけで、遠くを見ているような表情の響子さんだった。
自宅では、仕事の都合で居ないかもしれないとおっしゃっていた、娘さんが待っていてくださり驚いた。娘さんと穏やかな感じで手を握り合い、「中さ行ぐ〜」と家の中に入った。神社へはとても急な山道を登らなければならないのだが、できれば響子さんも一緒に行きたいと思った。男二人抱えればなんとか行けないか・・・。という想いも持って、先ずは宮川君と状況の確認を含めて神社に向かった。山道の入り口の鳥居に宮川君はとても驚いていた。昨年の様子は写真や言葉で伝えていたのだが、イメージとは全然違ったようで、呆気にとられていた。「ここ響子さんと一緒に登れるのかな・・・」と、二人で何度も話しながら、息を切らしてやっと到着すると、木々の木漏れ日がとても美しく、その細かな光のかけらが、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
神殿の扉を開けて、御神体を拝んだ。御神体の馬と馬に股がっている弓を持った“神様”が昨年よりも一まわりも二まわりも大きく感じた。そして二人で想いを込めて手を合わせた。神殿周囲には前日からの強風で木の葉や、枝が散乱していた。その中から偶然、汚れた50円玉を宮川君が見つけた。昭和50年の50円玉は、響子さんの50円玉かもしれない!と感慨に浸った。
この坂を響子さんを担いで登れるだろうかと悩みながら下山したのだが、自宅へ帰ると響子さんは座敷の高い位置に座って、娘さんと寛いでお茶をしていた。高い位置に座った響子さんのその表情は、どこかオーラがあってまるで“神様”のようだった。宮川君も「(響子さんは)俺らに行って欲しかったんだ。」と感じたと言っていた。理事長にその様子を話したら、「二人を神の遣いに出したのかもしれないね」と話されていた。響子さんは私たちを使わすことで自分は行かなくてもよかったのかもしれない。
自宅でお茶をいただきながら、娘さんと響子さんと我々二人の4人で過ごし、とても和らかな時間を過ごすことができた。娘さんに「何か持ってこ!」と言い、遠慮して出されたお菓子を食べない我々に「ほら!」と勧める感じは、いままで見たことのない響子さんだった。
先日、響子さんが居室の家神様の写真を剥がして、弟さんに連絡して欲しいと心配していた事を娘さんに伝えると、最近ご近所の方が続いて二人亡くなられたとのことだった、「その事を感じて、それで心配したんだね。」と、言われた。
そのあと、近くに住んでいる弟さんや、親戚の方にも会いに行きたいと思い、娘さんの案内で回った。農道を、景色を眺めながら4人でのんびりと歩く雰囲気が、とても気持ちよかった。あいにく弟さんは不在だったのだが、その隣の親戚の方と久しぶりの再会をした。玄関で顔をみたとたんに「あいや〜!!早ぐ〜!!!」と自分を止められない響子さんだった。
あっという間に帰る時間が来た。私が驚いたのは、以前は施設に面会に来られて帰られるときや、自宅からいざ帰るとき、響子さんは、力一杯手を握って、ずっと離さず別れ難かったのだが、今回は車に乗り込むと、娘さん夫婦と手を握って「またね。」と軽く頷いてお別れができた。以前は別れがたい感じに、娘さんも「これが辛くてね・・・」と言われていたのだが、今回は娘さんも穏やかな笑顔だった。
昨年の10月に初めて自宅を訪れ、家の神社を拝んだ。それから、居室に神社の写真を祭った。それから響子さんの頻繁なナースコールが激減した。ご家族との距離も随分と近くなったように感じる。頻繁に行くことはできないが、いつでも行ける近さになったと思う。
去年の帰宅の後、私は響子さんの居室が神殿になり、響子さん自身に神様が宿ったように感じた。それまでは、響子さんは自分の怒りで“鬼”になっていたのだが、今は、職員、他の利用者さんの怒りを吸収して代わりに“鬼”になっているのではないか?との話がケース会議でも聞かれた。事務所の中屋さんは、響子さんの居室に行ったとき、突然、「おめえの鬼、此処さ置いでげ」と言われたそうだ。鳥肌が立ってなかなか治まらなかったと言う。もしかすると、響子さんは特養ホームや銀河の里の神様なのかもしれない。
今年は、同僚の宮川君も一緒に誘いたいと考えていた。この春の田植えのころ、夜、ナースコールで宮川君が居室へ行くと、「これ(布団を持ちながら)下げて。」と、言う響子さん。布団を下ろしタオルケットだけ被せるも、ナースコールがまた鳴る。今度はタオルケットを持ち上げて、「ここ(お腹を差し)さ居で。」と言う。「ここさ入れて。」と、宮川には聞こえたようで、タオルケットをお腹にはさむと、「なんたら!わがってちょうだい!」と、腕を掴んで引っ張る。どうやら、“宮川”か“何か”をおなかの上とタオルケットの間に入れたいような感じの響子さん。「どうやって入れば良い?」に、「いいから、いいから」とせかす。数日後、居室でまた宮川に、「わからない、どうしたらいいの・・・?」と言い、かけてあるタオルケットを開ける。「どうしたらいいべね?手伝うから、何したらいい?」に、「“苗箱”壊れてらから・・・直した方いんだべ?」と、おなか辺りに“苗箱”がある感じで話す。そしてナースコールを手に取り、「これは“苗”なの。」と話す。宮川「植えねばねんだな〜。」響子「そうなの。私何もわがらねの。お兄ちゃんさ聞けばわがると思っだども、誰さ聞けばいんだべ?」と目を閉じた。これまで田んぼの作業には関わらなかった響子さんで、田植えに誘っても乗り気がなかったのに、そのような話をしてくれたので今年の春は、宮川君と響子さんは田植えに出かけた。
田植えの当日、響子さんは車椅子から作業を眺めていた。「響子さんも植える・・・?」と、聞くが、何も言わない。田んぼの中から菜摘さんに、「響子さんも来て〜!!!」と、呼ばれ、苗を渡されると、植える気持ちになった。宮川君は、車椅子から響子さんを降ろし、あぜに座ってもらった。足を田の中に入れてニコニコの響子さん。そしてとても丁寧に、横一列に苗を植えてくれたのだった。
響子さんの家は農家なのだが、娘さんの話によると、子供の頃には田植えをしていたようだが、若い時に発症した病気の関係で、大人になってからは、やりたくてもできなかったとの事だった。宮川君は実家が農家なので、それを知って宮川君に想いを伝えたのではないかと感じた。ケース会議で施設長はこの出来事を、“宮川君”という“苗”を育ようと響子さんしているのではないかとの話もあった。
田植えをした苗が育ち、響子さんは稲刈りにも参加した。その数日前、去年貼った、家神様の写真を響子さんが剥がして、ベッドの上に写真が散らばっていた。「弟に連絡して欲しい・・・二人の弟。相談しなきゃならないの、神社の事。」と、とても深刻な顔だったと言う。数日後、自宅へ行く事になっていると伝えると、「いつ?早くね。弟にやってもらわなきゃならない。神様・・・。」と言っていた。翌日の手刈りでは、宮川君と田んぼに座り、“育った稲”をしっかりした手つきで刈り取っていた。満面の笑みを浮かべ、声をかけられると、誇らしげな感じで良い表情だった。
稲刈りが終わった数日後の、9月25日。響子さんと宮川、私の3人で自宅に伺った。出発前に「行ってらっしゃい」とスタッフに言われても、静かに頷くだけで、遠くを見ているような表情の響子さんだった。
自宅では、仕事の都合で居ないかもしれないとおっしゃっていた、娘さんが待っていてくださり驚いた。娘さんと穏やかな感じで手を握り合い、「中さ行ぐ〜」と家の中に入った。神社へはとても急な山道を登らなければならないのだが、できれば響子さんも一緒に行きたいと思った。男二人抱えればなんとか行けないか・・・。という想いも持って、先ずは宮川君と状況の確認を含めて神社に向かった。山道の入り口の鳥居に宮川君はとても驚いていた。昨年の様子は写真や言葉で伝えていたのだが、イメージとは全然違ったようで、呆気にとられていた。「ここ響子さんと一緒に登れるのかな・・・」と、二人で何度も話しながら、息を切らしてやっと到着すると、木々の木漏れ日がとても美しく、その細かな光のかけらが、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
神殿の扉を開けて、御神体を拝んだ。御神体の馬と馬に股がっている弓を持った“神様”が昨年よりも一まわりも二まわりも大きく感じた。そして二人で想いを込めて手を合わせた。神殿周囲には前日からの強風で木の葉や、枝が散乱していた。その中から偶然、汚れた50円玉を宮川君が見つけた。昭和50年の50円玉は、響子さんの50円玉かもしれない!と感慨に浸った。
この坂を響子さんを担いで登れるだろうかと悩みながら下山したのだが、自宅へ帰ると響子さんは座敷の高い位置に座って、娘さんと寛いでお茶をしていた。高い位置に座った響子さんのその表情は、どこかオーラがあってまるで“神様”のようだった。宮川君も「(響子さんは)俺らに行って欲しかったんだ。」と感じたと言っていた。理事長にその様子を話したら、「二人を神の遣いに出したのかもしれないね」と話されていた。響子さんは私たちを使わすことで自分は行かなくてもよかったのかもしれない。
自宅でお茶をいただきながら、娘さんと響子さんと我々二人の4人で過ごし、とても和らかな時間を過ごすことができた。娘さんに「何か持ってこ!」と言い、遠慮して出されたお菓子を食べない我々に「ほら!」と勧める感じは、いままで見たことのない響子さんだった。
先日、響子さんが居室の家神様の写真を剥がして、弟さんに連絡して欲しいと心配していた事を娘さんに伝えると、最近ご近所の方が続いて二人亡くなられたとのことだった、「その事を感じて、それで心配したんだね。」と、言われた。
そのあと、近くに住んでいる弟さんや、親戚の方にも会いに行きたいと思い、娘さんの案内で回った。農道を、景色を眺めながら4人でのんびりと歩く雰囲気が、とても気持ちよかった。あいにく弟さんは不在だったのだが、その隣の親戚の方と久しぶりの再会をした。玄関で顔をみたとたんに「あいや〜!!早ぐ〜!!!」と自分を止められない響子さんだった。
あっという間に帰る時間が来た。私が驚いたのは、以前は施設に面会に来られて帰られるときや、自宅からいざ帰るとき、響子さんは、力一杯手を握って、ずっと離さず別れ難かったのだが、今回は車に乗り込むと、娘さん夫婦と手を握って「またね。」と軽く頷いてお別れができた。以前は別れがたい感じに、娘さんも「これが辛くてね・・・」と言われていたのだが、今回は娘さんも穏やかな笑顔だった。
昨年の10月に初めて自宅を訪れ、家の神社を拝んだ。それから、居室に神社の写真を祭った。それから響子さんの頻繁なナースコールが激減した。ご家族との距離も随分と近くなったように感じる。頻繁に行くことはできないが、いつでも行ける近さになったと思う。
去年の帰宅の後、私は響子さんの居室が神殿になり、響子さん自身に神様が宿ったように感じた。それまでは、響子さんは自分の怒りで“鬼”になっていたのだが、今は、職員、他の利用者さんの怒りを吸収して代わりに“鬼”になっているのではないか?との話がケース会議でも聞かれた。事務所の中屋さんは、響子さんの居室に行ったとき、突然、「おめえの鬼、此処さ置いでげ」と言われたそうだ。鳥肌が立ってなかなか治まらなかったと言う。もしかすると、響子さんは特養ホームや銀河の里の神様なのかもしれない。
シワをのばす話 ★デイサービス 千枝悠久【2013年11月号】
先日、日本認知症グループホーム大会に参加した。テーマは“「認知症グループホームに学ぶ人間の物語」 〜グループホームの存在意義とその本質〜”というものだった。銀河の里にいると、たくさんの物語を見聞きするし、また、自分自身がその登場人物にもなる。銀河の里に来てからの、私の物語を紹介したい。
@迷子の行き着くさき
特養にいる康子さん(仮名)は、いつも玄関の近くに居て、笑顔で出迎えてくれる。銀河の里に来て間もない頃、理事長から“特養は戦場だ”というようなことを(私の思い込みの激しさからくるものであったが)よく聞かされていた私は、特養に入ることすら怖かった。何か用があって特養へ行くときにも、玄関で足が竦む。そんな時、康子さんが“よく来たねぇ”と出迎えてくれると、その笑顔に導かれて、なんとか中に入ることができていた。
お互い自己紹介もしないまま、玄関で笑顔で挨拶を交わす、ただそれだけの関係。それだけの関係が、私にとって暖かく、勇気をくれるものだった。けれども、ある日とうとう、名前を聞いてみようと思い立って、聞いてみた。すると、いつもの挨拶の暖かい感じで、「私はフルヤ(仮名)っていうの。息子は北海道にいて、なにだかの研究してるって・・・」と話してくれる。「えっ!?」話を聞きながら、私の頭の中は、このセリフでいっぱいになった。まさか20年くらい前に聞いた名前と話を、ここでまた聞くことになるとは思ってなかったからだ。
20年くらい前、幼稚園児だった私は、ある日、「こんなところは家じゃない!」ミッキーのリュックを背負って、家を飛び出した。引っ越して間もなかったころで、新しい町になじめていなかったのもあったと思う。弟が生まれて間もなかったころで、自分の居場所がわからなくなってしまったのもあったと思う。とにかく家に居られなくなって、飛び出していた。
家を出てすぐは、「どこまでも歩いていける!」と意気揚々と歩いていた。が、家の近くにある坂に行き着いたところで、心の中が黒一色で塗り潰されそうになった。「こんな坂、上れるのかな?」どこにでもあるような普通の坂。でも、子どもの私には、どこまでもどこまでも続く長い坂に見えた。まるで、絵本『はじめてのおつかい』で、みぃちゃんが上った坂みたいだ。「みぃちゃんだって上ったんだから!」そう自分に言い聞かせて、なんとか坂を上り始めた。
上り始めてはみたものの、やっぱり子どもにとっては大変な坂で、だんだん不安になってくる。「大丈夫かな?上れるのかな?」背中のミッキーは何も答えてはくれない。そのうち、涙が溢れてくる。そうなると、もう、止まらない。坂の途中で立ち尽くし、大声で泣き出していた。来た道を引き返せばいいようなものだが、頭の中がパニックになっていて、それすらもできなかった。家を出てからわずか5分ほど、距離にして約150mでのリタイアであった。
この世の終わりかのごとくに泣き叫んでいた私に、“どうしたの?”救いの手が差しのべられた。見ると、暖かい笑顔のおばあちゃんが、ニコニコと立っている。涙が止まらず、上手く答えることができなかったけれど、おばあちゃんは私を近くの交番まで連れて行ってくれた。交番は坂の上にあったけれど、2人だったら上ることができた。背中のミッキーには、しっかりと住所と名前が書いてあって、程なくして私は家に帰り着いた。後から、そのおばあちゃんは“フルヤさん”という名前で、息子さんが北海道の大学で研究をしているのだということを知った。
その後、“フルヤのばあちゃん”とはほとんど会うこともなかった。小学校の帰り道でたまに会ったとき、挨拶を交わすくらい。“助けられた”という強い気持ちとともに、家出のエピソードは忘れられないものだったが、大きくなるにつれて、助けてくれた人については、顔も忘れてしまっていた。“フルヤのばあちゃんなんて、本当にいたんだろうか?”私の中では、そのくらいの記憶になっていた。
私は里で“フルヤのばあちゃん”と再び出会った。家を出て道に迷っていた私を、“フルヤのばあちゃん”は家へと導いてくれた。それから20年、学校を卒業してやっぱり道に迷っていた私を、里へ導いてくれたのも、“フルヤのばあちゃん”だったのだと思った。その後、康子さんとは、やっぱり挨拶を交わす程度だけれど、それが今は何よりも嬉しい。あの時はちゃんと伝えることができなかった「ありがとう」の気持ちを、挨拶に込めようと思う。
A「書いてみたらいいですよ」
今年の春、私には書こうとしていて書けないでいたことがあった。新人研修に参加させてもらい、そこで『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち 』という映画を観たのだが、そのことが頭から離れない。なんとか言葉にしようと思い書いてみるのだが、なかなか筆が進まない。“いのち”という言葉が刺さり、向き合わなければならなくなってしまったのは、不安でいっぱいだった3年前の他施設での介護実習以来だった。書いているうちにだんだん苦しくなっていき、とうとう途中で放り出してしまっていた。そんな私が、デイサービスで、一人の先生と出会った。
タエさん(仮名)は、学校の先生だった人だ。そして、いわゆる“物書き”でもある。歌を詠む人でもあり、今までに4冊も歌集や随筆集を出したそうだ。私にとっては、とても気になる人でありながら、なかなか近づけずにいた人でもあった。
ある日、ソファーで何か書き物をしているタエさん。これは話しかけるチャンスと思い、何を書いているのか聞いてみた。すると、「忘れないように、こうしてちょっとしたことを書いておいてるんです。こんなことしてしまったなぁとか、こんな悪いことを人にしてしまったなぁとか、見返して思うんです。それが面白い小説になるんです。あなたもこういう仕事をしているのなら、書いてみたらいいですよ。いろんな人がいて、『あのおじいさん、おばあさんには面倒かけられたなぁ』とか、面白いと思いますよ。書いてみるといいと思いますよ。」と、教えてくれる。まるで、私が書くことに悩んでいることを見透かしたような言葉だった。遠藤周作が好きだとも話してくれ、「あの人の小説は、なんと言いますか、甘やかさず、責めず、人間のことを正直に書いています。面白いですよ。」と勧めてくれた。書いてみたらいい、と思った。正直に書いてみたらいい、と思った。私は、途中で放り出してしまっていたものを、書くことに決めた。
書き上がったものは、自分で読んでも心が苦しくなるような代物。“書かない方が良かったのではないか?”不安でいっぱいになりながらも、タエさんに読んでもらった。「書いてみました。」と手渡すと、「はぁはぁ、そうですか。」と、柔らかい笑顔で受け取ってくれ、ジッと読んでくれている。その姿を見ているだけで、だんだん苦しくなってくる。私は、後悔をし始めていた。
「ユーモアが・・・」読み終わって最初の一言は、これだった。「もっとユーモアがあった方が。読んでいる人がクスッと笑ってしまうような。私は、バカ話ばかり書いていて、こういうのなんですけど・・・」1冊の歌集をカバンから取り出して渡してくれた。それは、タエさんと飼い猫の日常を、歌と写真で描いたもので、暖かな1冊だった。「あなたの書いたこの作文も、捨てずに大切にとっておいて、いつか1冊の本にしてください。」最後にそう言ってくれた。ただただありがたくて、涙が出てきた。
それから私は、月に1度だけデイサービスに来るタエさんに、書いた物を読んでもらうようになった。その度にタエさんは、1冊ずつ本をプレゼントしてくれた。「書いてみたらいいですよ」と「ユーモアが・・・」という言葉は、ずっと心の中で鳴り響いている。
私の2つの話は、かいつまんでしまえば、ちょっとした偶然が重なった、というだけの話だ。そんな何でもない話を、シワになっていた部分をちょっとだけ伸ばして、広げてみたようなものだ。でも、私の中では、シワになっていた部分こそが大事で、これらは大切な物語として息づいている。
デイに来ている清さん(仮名)は、「オレの人生なんて・・・」と話すことがある。でも、清さんの話すこれまでの人生は、キラキラと輝いているような話ばかりだ。揚げ物をこっそり盗み食いした話、映画館でタバコを吸ってクラクラになった話、初恋の子の話、戦争当時の話、家を建ててからの話、仕事の苦労話。どれもがワクワクするような物語ばかりで、もっと聞かせて欲しいと思う。清さんの子どもの頃のあだ名は“マンガ”だったという話だが、たしかに、マンガっぽいエピソードばかりだ。マンガのように誰もが笑って泣けて、多くの人に愛される人生なのだと思う。
静香さん(仮名)は、とにかくシワをのばす。テーブルクロスやトイレットペーパー、シワになっているものなら、なんでものばす。じっくりじっくり、時間をかけて。丁寧に、丁寧に。何がそんなに大事なのだろう、と思ってしまうこともある。けれどもそれは、ただ目の前にあるシワをのばしているだけというわけではないのかもしれない。
物語でもマンガでもいいけれど、そういうのはきっと清さんみたいに、たくさんの小さな話が集まってできている。そして、そういう小さな話はきっと、かいつまんで話せば「俺の人生なんて・・・」と話せてしまうような、シワになったような部分にあるのだと思う。私は、服でも、書類でも、頭の中でも、なんでもグチャグチャに入れてしまって、シワくちゃのまんまにしてしまうことがよくある。たまには静香さんみたいに、じっくりと丁寧に、シワをのばす時間を大切にしたい。
@迷子の行き着くさき
特養にいる康子さん(仮名)は、いつも玄関の近くに居て、笑顔で出迎えてくれる。銀河の里に来て間もない頃、理事長から“特養は戦場だ”というようなことを(私の思い込みの激しさからくるものであったが)よく聞かされていた私は、特養に入ることすら怖かった。何か用があって特養へ行くときにも、玄関で足が竦む。そんな時、康子さんが“よく来たねぇ”と出迎えてくれると、その笑顔に導かれて、なんとか中に入ることができていた。
お互い自己紹介もしないまま、玄関で笑顔で挨拶を交わす、ただそれだけの関係。それだけの関係が、私にとって暖かく、勇気をくれるものだった。けれども、ある日とうとう、名前を聞いてみようと思い立って、聞いてみた。すると、いつもの挨拶の暖かい感じで、「私はフルヤ(仮名)っていうの。息子は北海道にいて、なにだかの研究してるって・・・」と話してくれる。「えっ!?」話を聞きながら、私の頭の中は、このセリフでいっぱいになった。まさか20年くらい前に聞いた名前と話を、ここでまた聞くことになるとは思ってなかったからだ。
20年くらい前、幼稚園児だった私は、ある日、「こんなところは家じゃない!」ミッキーのリュックを背負って、家を飛び出した。引っ越して間もなかったころで、新しい町になじめていなかったのもあったと思う。弟が生まれて間もなかったころで、自分の居場所がわからなくなってしまったのもあったと思う。とにかく家に居られなくなって、飛び出していた。
家を出てすぐは、「どこまでも歩いていける!」と意気揚々と歩いていた。が、家の近くにある坂に行き着いたところで、心の中が黒一色で塗り潰されそうになった。「こんな坂、上れるのかな?」どこにでもあるような普通の坂。でも、子どもの私には、どこまでもどこまでも続く長い坂に見えた。まるで、絵本『はじめてのおつかい』で、みぃちゃんが上った坂みたいだ。「みぃちゃんだって上ったんだから!」そう自分に言い聞かせて、なんとか坂を上り始めた。
上り始めてはみたものの、やっぱり子どもにとっては大変な坂で、だんだん不安になってくる。「大丈夫かな?上れるのかな?」背中のミッキーは何も答えてはくれない。そのうち、涙が溢れてくる。そうなると、もう、止まらない。坂の途中で立ち尽くし、大声で泣き出していた。来た道を引き返せばいいようなものだが、頭の中がパニックになっていて、それすらもできなかった。家を出てからわずか5分ほど、距離にして約150mでのリタイアであった。
この世の終わりかのごとくに泣き叫んでいた私に、“どうしたの?”救いの手が差しのべられた。見ると、暖かい笑顔のおばあちゃんが、ニコニコと立っている。涙が止まらず、上手く答えることができなかったけれど、おばあちゃんは私を近くの交番まで連れて行ってくれた。交番は坂の上にあったけれど、2人だったら上ることができた。背中のミッキーには、しっかりと住所と名前が書いてあって、程なくして私は家に帰り着いた。後から、そのおばあちゃんは“フルヤさん”という名前で、息子さんが北海道の大学で研究をしているのだということを知った。
その後、“フルヤのばあちゃん”とはほとんど会うこともなかった。小学校の帰り道でたまに会ったとき、挨拶を交わすくらい。“助けられた”という強い気持ちとともに、家出のエピソードは忘れられないものだったが、大きくなるにつれて、助けてくれた人については、顔も忘れてしまっていた。“フルヤのばあちゃんなんて、本当にいたんだろうか?”私の中では、そのくらいの記憶になっていた。
私は里で“フルヤのばあちゃん”と再び出会った。家を出て道に迷っていた私を、“フルヤのばあちゃん”は家へと導いてくれた。それから20年、学校を卒業してやっぱり道に迷っていた私を、里へ導いてくれたのも、“フルヤのばあちゃん”だったのだと思った。その後、康子さんとは、やっぱり挨拶を交わす程度だけれど、それが今は何よりも嬉しい。あの時はちゃんと伝えることができなかった「ありがとう」の気持ちを、挨拶に込めようと思う。
A「書いてみたらいいですよ」
今年の春、私には書こうとしていて書けないでいたことがあった。新人研修に参加させてもらい、そこで『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち 』という映画を観たのだが、そのことが頭から離れない。なんとか言葉にしようと思い書いてみるのだが、なかなか筆が進まない。“いのち”という言葉が刺さり、向き合わなければならなくなってしまったのは、不安でいっぱいだった3年前の他施設での介護実習以来だった。書いているうちにだんだん苦しくなっていき、とうとう途中で放り出してしまっていた。そんな私が、デイサービスで、一人の先生と出会った。
タエさん(仮名)は、学校の先生だった人だ。そして、いわゆる“物書き”でもある。歌を詠む人でもあり、今までに4冊も歌集や随筆集を出したそうだ。私にとっては、とても気になる人でありながら、なかなか近づけずにいた人でもあった。
ある日、ソファーで何か書き物をしているタエさん。これは話しかけるチャンスと思い、何を書いているのか聞いてみた。すると、「忘れないように、こうしてちょっとしたことを書いておいてるんです。こんなことしてしまったなぁとか、こんな悪いことを人にしてしまったなぁとか、見返して思うんです。それが面白い小説になるんです。あなたもこういう仕事をしているのなら、書いてみたらいいですよ。いろんな人がいて、『あのおじいさん、おばあさんには面倒かけられたなぁ』とか、面白いと思いますよ。書いてみるといいと思いますよ。」と、教えてくれる。まるで、私が書くことに悩んでいることを見透かしたような言葉だった。遠藤周作が好きだとも話してくれ、「あの人の小説は、なんと言いますか、甘やかさず、責めず、人間のことを正直に書いています。面白いですよ。」と勧めてくれた。書いてみたらいい、と思った。正直に書いてみたらいい、と思った。私は、途中で放り出してしまっていたものを、書くことに決めた。
書き上がったものは、自分で読んでも心が苦しくなるような代物。“書かない方が良かったのではないか?”不安でいっぱいになりながらも、タエさんに読んでもらった。「書いてみました。」と手渡すと、「はぁはぁ、そうですか。」と、柔らかい笑顔で受け取ってくれ、ジッと読んでくれている。その姿を見ているだけで、だんだん苦しくなってくる。私は、後悔をし始めていた。
「ユーモアが・・・」読み終わって最初の一言は、これだった。「もっとユーモアがあった方が。読んでいる人がクスッと笑ってしまうような。私は、バカ話ばかり書いていて、こういうのなんですけど・・・」1冊の歌集をカバンから取り出して渡してくれた。それは、タエさんと飼い猫の日常を、歌と写真で描いたもので、暖かな1冊だった。「あなたの書いたこの作文も、捨てずに大切にとっておいて、いつか1冊の本にしてください。」最後にそう言ってくれた。ただただありがたくて、涙が出てきた。
それから私は、月に1度だけデイサービスに来るタエさんに、書いた物を読んでもらうようになった。その度にタエさんは、1冊ずつ本をプレゼントしてくれた。「書いてみたらいいですよ」と「ユーモアが・・・」という言葉は、ずっと心の中で鳴り響いている。
私の2つの話は、かいつまんでしまえば、ちょっとした偶然が重なった、というだけの話だ。そんな何でもない話を、シワになっていた部分をちょっとだけ伸ばして、広げてみたようなものだ。でも、私の中では、シワになっていた部分こそが大事で、これらは大切な物語として息づいている。
デイに来ている清さん(仮名)は、「オレの人生なんて・・・」と話すことがある。でも、清さんの話すこれまでの人生は、キラキラと輝いているような話ばかりだ。揚げ物をこっそり盗み食いした話、映画館でタバコを吸ってクラクラになった話、初恋の子の話、戦争当時の話、家を建ててからの話、仕事の苦労話。どれもがワクワクするような物語ばかりで、もっと聞かせて欲しいと思う。清さんの子どもの頃のあだ名は“マンガ”だったという話だが、たしかに、マンガっぽいエピソードばかりだ。マンガのように誰もが笑って泣けて、多くの人に愛される人生なのだと思う。
静香さん(仮名)は、とにかくシワをのばす。テーブルクロスやトイレットペーパー、シワになっているものなら、なんでものばす。じっくりじっくり、時間をかけて。丁寧に、丁寧に。何がそんなに大事なのだろう、と思ってしまうこともある。けれどもそれは、ただ目の前にあるシワをのばしているだけというわけではないのかもしれない。
物語でもマンガでもいいけれど、そういうのはきっと清さんみたいに、たくさんの小さな話が集まってできている。そして、そういう小さな話はきっと、かいつまんで話せば「俺の人生なんて・・・」と話せてしまうような、シワになったような部分にあるのだと思う。私は、服でも、書類でも、頭の中でも、なんでもグチャグチャに入れてしまって、シワくちゃのまんまにしてしまうことがよくある。たまには静香さんみたいに、じっくりと丁寧に、シワをのばす時間を大切にしたい。
『勝負するということ』★特別養護老人ホーム 山岡睦【2013年11月号】
ナツさん(仮名)は、春から銀河の里のショートステイを利用している。当初デイサービスの利用も難しく、果たして泊まることが出来るだろうかという心配があった。そのため、最初は娘さんが一緒に泊まる形での利用がはじまった。入浴も元々お風呂好きなのだが、洗髪は娘さんでも難しい。
そんな経緯のあるナツさんだが、一泊から始めたショートステイは徐々に二泊、三泊と少しずつ期間を延ばし、娘さんの同伴も必要なくなり、さらには月一回の利用から月2回と利用も増えた。ナツさんはマイペースに過ごし、ユニットの一員になっている。
その一方であれだけ時間に忠実に入浴していたナツさんが、最近入浴を断ることが多くなり、毎日の入浴どころか、3泊のショートステイ中で何回入れるだろうかというくらい、入浴のタイミングを掴むのが難しくなっている。
入所して2日目のこと。早番の菜摘さんが入浴に誘うが何度も断られていた。午後は私が入浴担当。どこかで入れたらとお湯を溜めて準備はしていたものの、ナツさんはやはり「風呂入らないよ」と首を横に振る。今日も難しいのかなと半ば諦めていた。用事があり事務所に向かおうとした所で、オリオンから戻ってくるナツさんとバッタリ会った。さりげなく「ナツさん、お風呂入らない?」と声をかけると、「お風呂?うん」と頷いた。頑なに断らないので少し期待しながら脱衣場に誘った。脱衣場まで来たからといって入れるとは限らない。そこで「入らないよ」と断られている。さてどうなるかドキドキする私。ナツさんは浴室をチラリと覗くと服を脱ぎ始めた。よし「これは入ってくれる!」と確信して、着替えの用意を菜摘さんに任せ、私はお風呂に張り付く。私はまだナツさんに湯船には浸かってもらっても、体を洗ったり、髪を洗ったりをちゃんとさせてもらったことがない。今日も断られるだろうと思いながらも、もしもの時用に、普通のシャンプーと、水のいらないシャンプーとの両方を、手の届くところに用意はしていた。
まっ先に湯船に向かうナツさん。体を洗う間も十分にないままとりあえず湯船に浸かる。「髪?洗わないよ」と言われる覚悟で、ジェスチャーと言葉で「髪洗ってもいいですか?」と聞くと、「髪洗うよ」と言ってくれた。「えっ!?洗うの!?」と逆に驚く私。水のいらないシャンプーはいらなくなり、普通のシャンプーで洗わせてくれた。さらに流しやすいようにと湯船の外に頭を出してくれるナツさん。初めてナツさんの髪を洗えた!それだけで嬉しくて感動している私がいた。いつもなら「もうあがるよ」とタイミングを自分で決めて、入浴を終えるナツさんだが、今日は「あといいの?」と何度も私に聞いてくる。委ねてくれる感じが今までにないことでびっくりした。さらに体を洗いたいと伝えると、一旦あがってタイルの上にしゃがみこみ、洗いやすいように、待っていてくれる。石鹸を流し、「もう一回入ろうか」と声をかけると「うん、もう一回入る」と再び湯船に浸かり、向かい合ってしゃがむ私にちょっと微笑んでくれた。思いがけず普通の入浴が出来てしまったことに私も不思議な気持ちになる。慌てて入る、形だけの入浴ではなく、ゆっくりと入浴らしい入浴が出来たことに感動している私。それだけでも嬉しかったのだが、着替えをしてドライヤーで髪を乾かし終えると「ありがとう」と言ってくれたので胸がいっぱいになった。それは難しいことに、必死に挑み、やれた時に覚える達成感だったかもしれない。やれたことのなかったナツさんの“入浴”にかけた私の小さな勝負だった。そして、このナツさんとの入浴を終えたとき、「これだよなぁ。この感じが大事なんだよなぁ」とふと思った。
銀河の里に就職して7年。最初はグループホームから勤務が始まったのだが、思えばずっと勝負をしてきたなと思う。ところが今、特養で“勝負”が出来ているだろうか。勝負というときついかも知れないが、挑戦、対決とも言えるような“本気で向き合って挑むこと”こそ大切だと思う。簡単に解決しないことがいっぱいある。それに向き合い挑む。そうした勝負がなければ何の成長もないのではないだろうか。日常が平板に流れていくだけで終わってしまう。そんなつまらない日々では面白くない。
本当はお風呂が好きなのに“お風呂に入らない”と頑なになったり、“食べない”ことで何かを伝えようとしていたり、“帰りたい”とひたすら歩かなければならなかったり、怒りの感情を思い切り出さなければなかったり・・・等、利用者は色んな形でアクションを起こしてくる。それはその人自身が今抱えている大事なテーマでもあり、その人が自分に投げかけてくれているものでもある。その投げかけを受け止めて、自分と向き合ってくれるかどうかを試しているようにも思える。もちろんそれを受け止めず、何もしないで終わらせることも出来てしまう。
今いるスタッフは皆それぞれに力をつけてそれなりの介護力もあり、作業としての仕事はまずこなせる人がほとんどだ。慣れれば慣れるほど、作業は出来てしまうし、それで日常は回る。何も起こらない方が楽かもしれない。でも何も起こらずに、ただ淡々と作業をこなすだけの仕事はつまらないと思う。利用者と向き合わなくとも仕事はやれてしまうけれど、認知症という未知の拡がりをもった世界に生きていて、たくさんのことを起こしてくれる高齢者と一緒にいるのにも関わらず、何もない日々を過ごすのはもったいないと思う。何も起こらないようにするのではなく、起きることと全力で向き合って勝負しないと何も見えて来ないのではないだろうか。
理事長との面談で、ナツさんの入浴の話をしながら、自分がこれまでにしてきた色々な勝負を思い返した。思えば、一番最初の私の勝負も入浴を巡るやりとりだった。一年目に出会ったサチさん(仮名)との入浴。今では何の抵抗もなく入浴出来るサチさんだが、あの頃はすんなり入ってもらえることはまずなく、毎回試行錯誤。唾をかけられたり、シルバーカーで叩かれたり、思い切りつねられたりしながらの真剣勝負だった。新人の私は何もわからず、最初はただただ仕事として“入ってもらわなきゃ”という一心だった。そんな私が自分の都合を押しつける勝手なやつに見えたのか「おめの目は正直なんだが!?」と言われてハッとしながら悔し涙を流した。その言葉を自分なりに受け止めて挑み続けるうちになんとか足浴までこぎ着け、そしてやっと入浴してもらえるようになった。「入らない」と頑張るサチさんに必死に思いをぶつける私。そっぽ向いたままサチさんがお湯に足を入れてくれた時のことは今でも鮮明に思い出す。
また認知症の人の様々な「帰りたい」とも向き合ってきた。家、家族、息子との確執と戦わねばならなかった武雄さん(仮名)。「帰りたい」思いと「帰れない」現状の中でねじれ、ひん曲がった感情が爆発することもあった。息子さんとの間を取りもとうとしたこともある。今後のことをじっくりと話し合い、深夜まで話してやっと少し繋がれたと思った翌日の早朝、見せつけるように居なくなり、必死で捜すと駅のホームにいた。裏切られ感は強かった。しがみつくように体を触ってくる武雄さんの寂しさを理解しようとしても、一時期、本当に嫌で嫌でたまらなかった。そんな時期と歴史を経ての今がある。
在宅時代、ショートを利用していた上小路さん(仮名)とは怒りの勝負。「家に返さない」と私は悪者にされ、「あなたは人間じゃない!」などと散々罵られて、あげく鍬を振り上げられたが、命懸けで気持と鍬を受け止めたこともある。
長い一人暮らしから自宅を離れグループホームに入居して、居場所が定まるまで「足が痛い」と言い続けることで挑んできたミサさん(仮名)。ただただ側にいるしか出来ない時期をお互い戦い切って、体の変調を経て復活を遂げるなかで、グループホームを新たな居場所として創り上げた。その毎日は必死の勝負だった。
挙げればキリがないほど、勝負の連続だったと改めて思う。勝負は、自分への挑戦であって、そこから自分も育ち、他者と出会えるのだと思う。
つい先日、オリオンの文則さん(仮名)から“戦い”についての言葉をたくさん貰った日があった。文則さんは軍隊の経験があり、時々その当時のことを踏まえながら語ってくれる。でもその語りは、決して昔話ではなく、“今”のユニットや里のこと、そして“あなた”のことに対するメッセージになっていて、文則さんも私と一緒に闘ってくれていると感じる。
「あんたも戦してるからわかると思うけどな」と前置きをしつつ、「勝つためには戦が必要なんだよ。俺たちは負け戦だ、あっちの方が強いんだ。まぁ公表はしていないけどな。勝つために戦してるだからさ。その点はあんた方にわかってもらいたいんだよ」「二戦配備はだめなんだよ。鉄砲抱えて逃げるんだ…それじゃあだめだ。負けるが勝ちなんてたわごと言ってたらだめなんだ」等、色々語ってくれる。“勝負”について考えながら、文則さんの言う“戦”は“戦争”ではなく“生きるための闘い”生きることそのものなんだと感じた。
仕事だけでなく、人生の中でも勝負だ。そこで勝負するかしないかはその人次第だし、どんな人生を選ぶかは自由だが、勝負しない人生は楽だけど、きっと面白くない。“きれいに終わらせる”ことや“成功してうまくいく”ことだけが全てではないと思う。なにごとにせよ本気で挑むのは勝負だ。心を尽くし何かを生み出すクリエイティブな仕事は勝負がなくては成り立たない。そうした勝負のなかにしか、自分は育っていかない。うまくいくとかいかないとか関係なく、挑んだかどうかが大事なのだと思う。自分の中にそうした歴史を遺していきたいと思う。
そんな経緯のあるナツさんだが、一泊から始めたショートステイは徐々に二泊、三泊と少しずつ期間を延ばし、娘さんの同伴も必要なくなり、さらには月一回の利用から月2回と利用も増えた。ナツさんはマイペースに過ごし、ユニットの一員になっている。
その一方であれだけ時間に忠実に入浴していたナツさんが、最近入浴を断ることが多くなり、毎日の入浴どころか、3泊のショートステイ中で何回入れるだろうかというくらい、入浴のタイミングを掴むのが難しくなっている。
入所して2日目のこと。早番の菜摘さんが入浴に誘うが何度も断られていた。午後は私が入浴担当。どこかで入れたらとお湯を溜めて準備はしていたものの、ナツさんはやはり「風呂入らないよ」と首を横に振る。今日も難しいのかなと半ば諦めていた。用事があり事務所に向かおうとした所で、オリオンから戻ってくるナツさんとバッタリ会った。さりげなく「ナツさん、お風呂入らない?」と声をかけると、「お風呂?うん」と頷いた。頑なに断らないので少し期待しながら脱衣場に誘った。脱衣場まで来たからといって入れるとは限らない。そこで「入らないよ」と断られている。さてどうなるかドキドキする私。ナツさんは浴室をチラリと覗くと服を脱ぎ始めた。よし「これは入ってくれる!」と確信して、着替えの用意を菜摘さんに任せ、私はお風呂に張り付く。私はまだナツさんに湯船には浸かってもらっても、体を洗ったり、髪を洗ったりをちゃんとさせてもらったことがない。今日も断られるだろうと思いながらも、もしもの時用に、普通のシャンプーと、水のいらないシャンプーとの両方を、手の届くところに用意はしていた。
まっ先に湯船に向かうナツさん。体を洗う間も十分にないままとりあえず湯船に浸かる。「髪?洗わないよ」と言われる覚悟で、ジェスチャーと言葉で「髪洗ってもいいですか?」と聞くと、「髪洗うよ」と言ってくれた。「えっ!?洗うの!?」と逆に驚く私。水のいらないシャンプーはいらなくなり、普通のシャンプーで洗わせてくれた。さらに流しやすいようにと湯船の外に頭を出してくれるナツさん。初めてナツさんの髪を洗えた!それだけで嬉しくて感動している私がいた。いつもなら「もうあがるよ」とタイミングを自分で決めて、入浴を終えるナツさんだが、今日は「あといいの?」と何度も私に聞いてくる。委ねてくれる感じが今までにないことでびっくりした。さらに体を洗いたいと伝えると、一旦あがってタイルの上にしゃがみこみ、洗いやすいように、待っていてくれる。石鹸を流し、「もう一回入ろうか」と声をかけると「うん、もう一回入る」と再び湯船に浸かり、向かい合ってしゃがむ私にちょっと微笑んでくれた。思いがけず普通の入浴が出来てしまったことに私も不思議な気持ちになる。慌てて入る、形だけの入浴ではなく、ゆっくりと入浴らしい入浴が出来たことに感動している私。それだけでも嬉しかったのだが、着替えをしてドライヤーで髪を乾かし終えると「ありがとう」と言ってくれたので胸がいっぱいになった。それは難しいことに、必死に挑み、やれた時に覚える達成感だったかもしれない。やれたことのなかったナツさんの“入浴”にかけた私の小さな勝負だった。そして、このナツさんとの入浴を終えたとき、「これだよなぁ。この感じが大事なんだよなぁ」とふと思った。
銀河の里に就職して7年。最初はグループホームから勤務が始まったのだが、思えばずっと勝負をしてきたなと思う。ところが今、特養で“勝負”が出来ているだろうか。勝負というときついかも知れないが、挑戦、対決とも言えるような“本気で向き合って挑むこと”こそ大切だと思う。簡単に解決しないことがいっぱいある。それに向き合い挑む。そうした勝負がなければ何の成長もないのではないだろうか。日常が平板に流れていくだけで終わってしまう。そんなつまらない日々では面白くない。
本当はお風呂が好きなのに“お風呂に入らない”と頑なになったり、“食べない”ことで何かを伝えようとしていたり、“帰りたい”とひたすら歩かなければならなかったり、怒りの感情を思い切り出さなければなかったり・・・等、利用者は色んな形でアクションを起こしてくる。それはその人自身が今抱えている大事なテーマでもあり、その人が自分に投げかけてくれているものでもある。その投げかけを受け止めて、自分と向き合ってくれるかどうかを試しているようにも思える。もちろんそれを受け止めず、何もしないで終わらせることも出来てしまう。
今いるスタッフは皆それぞれに力をつけてそれなりの介護力もあり、作業としての仕事はまずこなせる人がほとんどだ。慣れれば慣れるほど、作業は出来てしまうし、それで日常は回る。何も起こらない方が楽かもしれない。でも何も起こらずに、ただ淡々と作業をこなすだけの仕事はつまらないと思う。利用者と向き合わなくとも仕事はやれてしまうけれど、認知症という未知の拡がりをもった世界に生きていて、たくさんのことを起こしてくれる高齢者と一緒にいるのにも関わらず、何もない日々を過ごすのはもったいないと思う。何も起こらないようにするのではなく、起きることと全力で向き合って勝負しないと何も見えて来ないのではないだろうか。
理事長との面談で、ナツさんの入浴の話をしながら、自分がこれまでにしてきた色々な勝負を思い返した。思えば、一番最初の私の勝負も入浴を巡るやりとりだった。一年目に出会ったサチさん(仮名)との入浴。今では何の抵抗もなく入浴出来るサチさんだが、あの頃はすんなり入ってもらえることはまずなく、毎回試行錯誤。唾をかけられたり、シルバーカーで叩かれたり、思い切りつねられたりしながらの真剣勝負だった。新人の私は何もわからず、最初はただただ仕事として“入ってもらわなきゃ”という一心だった。そんな私が自分の都合を押しつける勝手なやつに見えたのか「おめの目は正直なんだが!?」と言われてハッとしながら悔し涙を流した。その言葉を自分なりに受け止めて挑み続けるうちになんとか足浴までこぎ着け、そしてやっと入浴してもらえるようになった。「入らない」と頑張るサチさんに必死に思いをぶつける私。そっぽ向いたままサチさんがお湯に足を入れてくれた時のことは今でも鮮明に思い出す。
また認知症の人の様々な「帰りたい」とも向き合ってきた。家、家族、息子との確執と戦わねばならなかった武雄さん(仮名)。「帰りたい」思いと「帰れない」現状の中でねじれ、ひん曲がった感情が爆発することもあった。息子さんとの間を取りもとうとしたこともある。今後のことをじっくりと話し合い、深夜まで話してやっと少し繋がれたと思った翌日の早朝、見せつけるように居なくなり、必死で捜すと駅のホームにいた。裏切られ感は強かった。しがみつくように体を触ってくる武雄さんの寂しさを理解しようとしても、一時期、本当に嫌で嫌でたまらなかった。そんな時期と歴史を経ての今がある。
在宅時代、ショートを利用していた上小路さん(仮名)とは怒りの勝負。「家に返さない」と私は悪者にされ、「あなたは人間じゃない!」などと散々罵られて、あげく鍬を振り上げられたが、命懸けで気持と鍬を受け止めたこともある。
長い一人暮らしから自宅を離れグループホームに入居して、居場所が定まるまで「足が痛い」と言い続けることで挑んできたミサさん(仮名)。ただただ側にいるしか出来ない時期をお互い戦い切って、体の変調を経て復活を遂げるなかで、グループホームを新たな居場所として創り上げた。その毎日は必死の勝負だった。
挙げればキリがないほど、勝負の連続だったと改めて思う。勝負は、自分への挑戦であって、そこから自分も育ち、他者と出会えるのだと思う。
つい先日、オリオンの文則さん(仮名)から“戦い”についての言葉をたくさん貰った日があった。文則さんは軍隊の経験があり、時々その当時のことを踏まえながら語ってくれる。でもその語りは、決して昔話ではなく、“今”のユニットや里のこと、そして“あなた”のことに対するメッセージになっていて、文則さんも私と一緒に闘ってくれていると感じる。
「あんたも戦してるからわかると思うけどな」と前置きをしつつ、「勝つためには戦が必要なんだよ。俺たちは負け戦だ、あっちの方が強いんだ。まぁ公表はしていないけどな。勝つために戦してるだからさ。その点はあんた方にわかってもらいたいんだよ」「二戦配備はだめなんだよ。鉄砲抱えて逃げるんだ…それじゃあだめだ。負けるが勝ちなんてたわごと言ってたらだめなんだ」等、色々語ってくれる。“勝負”について考えながら、文則さんの言う“戦”は“戦争”ではなく“生きるための闘い”生きることそのものなんだと感じた。
仕事だけでなく、人生の中でも勝負だ。そこで勝負するかしないかはその人次第だし、どんな人生を選ぶかは自由だが、勝負しない人生は楽だけど、きっと面白くない。“きれいに終わらせる”ことや“成功してうまくいく”ことだけが全てではないと思う。なにごとにせよ本気で挑むのは勝負だ。心を尽くし何かを生み出すクリエイティブな仕事は勝負がなくては成り立たない。そうした勝負のなかにしか、自分は育っていかない。うまくいくとかいかないとか関係なく、挑んだかどうかが大事なのだと思う。自分の中にそうした歴史を遺していきたいと思う。
サチ子さんの思い出。これからもとなりに ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2013年11月号】
ユニット“こと”の利用者、サチ子さん(仮名)はまもなく100歳を迎える。とても力強い人で、笑顔が素敵。義理の息子さんはサチ子さんを「太陽の様だ」と話される。1年目、私がユニット“こと”にいた頃に出会った利用者さんで、もともとパワフルで笑顔が素敵な人気者だった。私は最初そのパワフルさに圧倒されていて、苦手なおばあちゃんだった。しかし、去年の冬のある日、サチ子さんが私を見守っていてくれているのに気がついた。どきっとした。ふと目が合った瞬間があって、その時テレパシーみたいなもので伝わってきたかのような感覚があった。それからすっかり苦手意識は消え、サチ子さんの人柄、優しさ、大きさに吸い込まれて大切な人になった。
今年の3月末、食事量が落ちて点滴状態になり、意識消失もあって入院した。退院時には、ターミナルの話し合いが持たれた。ご家族は「高度な医療行為は望まない、皆さんと銀河の里で最後を迎えさせたい」と話された。
4月、ご家族と一緒にお花見をした。毎年4月30日はサチ子さんの娘さんの命日で、お花見をして記念撮影をするのが恒例だったらしい。今年もお花見を実現したかった。予定の日、午前中の大雨は止んで、午後の晴れ間にお花見は実現した。太陽を味方につけるサチ子さんや息子さんの力を感じた。お花見では記念撮影をして思い出を刻んだ。
その後体調は安定し、花火大会も祭りも参加し、お正月も間近だ。息子さんも、ひとつずつ思い出を刻もうと言われた。
8月には花巻の花火大会に参加した。私は花火大会の計画中からサチ子さんと見たいという気持ちがあった。当日、家族総出でサチ子さんを囲み一緒に花火を見た。サチ子さんは去年もご家族と花火を一緒に見たのだが、私は今年初めてサチ子さんと花火を見た。家族じゃないけど、また違った意味での大切な人の隣で時間を過ごすのは初めての感覚だった。どきどきしながら暖かくて幸せだった。この花火が私とサチ子さんにどう残るのか、サチ子さんはどんな気持ちで花火を見たのだろう。これからの日々はどうなるのか色々気持が巡った。
9月には、祭りにあわせて「(家族水入らずで)自宅で過ごしたい」という気持ちを息子さんが語られ、サチ子さんは3ヶ月ぶりに自宅へ帰ることになった。体調さえよければ祭も見よう!と祭に出る計画も立てられた。
13日祭り当日、サチ子さんは、家で予定の時間を2時間も超えて過ごしていた。そのおかげで、私は勤務が終わって、山岡さんと一緒に迎えに行けることになった。自宅では玄関で皆さんが待っていた。きっといい時間を過ごしたに違いないとすぐにわかるサチ子さんの表情があった。それから家族さんも一緒に祭の街を歩く。サチ子さんはひ孫さんに車椅子を押してもらいながら、山岡さんの手を握っていた。
サチ子さんが昔からのなじみだという近所の花屋さんに寄った。店のおばあちゃんは留守だったが、歩いていて偶然花屋のおばあちゃん通りで出会った。サチ子さんの顔がほころぶ。二人はお互い手を握りあって再会を喜んだ。息子さんはこのときのことを『人生最良の日に 花巻祭り 市中こぞって祝福か』と詠われた。
その後、私たちは山車がよく見える場所で祭を見ながら、屋台で焼きそばなどを味わった。祭の雰囲気をサチ子さんと味わえてとても嬉しかった。
1時間程すると息子さんが先に疲れてしまい、「おばあちゃん、帰るか?」と聞いた。サチ子さんは「もっと」とはっきりとした口調で答えた。心配された雨も降らず、私たちは最後まで祭を見ることが出来た。
ターミナルの話し合いが持たれて半年、サチ子さんはターミナルを吹き飛ばして生きている。それは濃密な時間だ。春夏秋の桜・花火・祭、季節を越えてしっかり味わってきた。私も花火と祭の時間をサチ子さんと過ごすことができた。
祭りの風景を心に焼き付けているような眼差しがあった。私にとっての花巻祭とは、サチ子さんの姿そのもののように、その眼差しは私の中に美しく残った。息子さんも祭を最後まで見たのは初めてだったと言う。サチ子さんの「もっと」は、家族にとっても大切な時間を引き延ばしたのかも知れない。
祭の日の午前中、県知事や内閣総理大臣から届いた100歳のお祝いの賞状、銀杯の授与式があった。息子さんは「敬老とは、長寿を会や賞状で祝うことではない。日々の生活、介護の一日一日、愛ある日々そのものを言うんです」と挨拶された。
息子さんはサチ子さんを在宅で介護していた時期がある。それは肉体的にも精神的にも苦しさ、厳しさがあったという。銀河の里にサチ子さんは入居になってから、サチ子さんにも、息子さんにも変化があった。在宅時より距離は離れているのに、そのときよりもふたりの心の距離は近くなったと感じる。息子さんにとっては厳しかった在宅時代だったが、その厳しい時間が、大切なかけがえのない時間になっていくとありがたい。そこに我々の仕事の本来の意味があるような気がする。
私はサチ子さんと息子さんの関係にも支えられていると思う。サチ子さんと息子さんの物語はこれからも深まっていくと思う。
サチ子さんの「隣」とは…。いつも別れを考えてしまう。不安で泣きそうになる。ずっと居てほしいが、それはわがままと言うことか。99歳とは思えない若々しさやエネルギー。サチ子さんがいるだけでたくさんの人が癒されて救われる。その力は「おばあちゃん」という存在を超えて、魔女のような、仙人のような・・・何か別の特別な存在のようにも感じて、「サチ子さんは永遠にいる!」と感じる時もある。そんなサチ子さんの隣は、心安まる、暖かい。いつでも迎えてくれるサチ子さん。サチ子さんを支えたいのに私が支えられている。隣にいたい。
人間は誰しも死を免れず、苦しみを抱えて生きていく存在だが、だからこそ寄り添うだれかが大切な存在となるんだと思う。冬、春、、、。私なりにこれからを大切にサチ子さんと過ごし、一緒にいたい。サチ子さんのこれまでの人生とこれからの人生どちらにも想いを馳せたい。
今年の3月末、食事量が落ちて点滴状態になり、意識消失もあって入院した。退院時には、ターミナルの話し合いが持たれた。ご家族は「高度な医療行為は望まない、皆さんと銀河の里で最後を迎えさせたい」と話された。
4月、ご家族と一緒にお花見をした。毎年4月30日はサチ子さんの娘さんの命日で、お花見をして記念撮影をするのが恒例だったらしい。今年もお花見を実現したかった。予定の日、午前中の大雨は止んで、午後の晴れ間にお花見は実現した。太陽を味方につけるサチ子さんや息子さんの力を感じた。お花見では記念撮影をして思い出を刻んだ。
その後体調は安定し、花火大会も祭りも参加し、お正月も間近だ。息子さんも、ひとつずつ思い出を刻もうと言われた。
8月には花巻の花火大会に参加した。私は花火大会の計画中からサチ子さんと見たいという気持ちがあった。当日、家族総出でサチ子さんを囲み一緒に花火を見た。サチ子さんは去年もご家族と花火を一緒に見たのだが、私は今年初めてサチ子さんと花火を見た。家族じゃないけど、また違った意味での大切な人の隣で時間を過ごすのは初めての感覚だった。どきどきしながら暖かくて幸せだった。この花火が私とサチ子さんにどう残るのか、サチ子さんはどんな気持ちで花火を見たのだろう。これからの日々はどうなるのか色々気持が巡った。
9月には、祭りにあわせて「(家族水入らずで)自宅で過ごしたい」という気持ちを息子さんが語られ、サチ子さんは3ヶ月ぶりに自宅へ帰ることになった。体調さえよければ祭も見よう!と祭に出る計画も立てられた。
13日祭り当日、サチ子さんは、家で予定の時間を2時間も超えて過ごしていた。そのおかげで、私は勤務が終わって、山岡さんと一緒に迎えに行けることになった。自宅では玄関で皆さんが待っていた。きっといい時間を過ごしたに違いないとすぐにわかるサチ子さんの表情があった。それから家族さんも一緒に祭の街を歩く。サチ子さんはひ孫さんに車椅子を押してもらいながら、山岡さんの手を握っていた。
サチ子さんが昔からのなじみだという近所の花屋さんに寄った。店のおばあちゃんは留守だったが、歩いていて偶然花屋のおばあちゃん通りで出会った。サチ子さんの顔がほころぶ。二人はお互い手を握りあって再会を喜んだ。息子さんはこのときのことを『人生最良の日に 花巻祭り 市中こぞって祝福か』と詠われた。
その後、私たちは山車がよく見える場所で祭を見ながら、屋台で焼きそばなどを味わった。祭の雰囲気をサチ子さんと味わえてとても嬉しかった。
1時間程すると息子さんが先に疲れてしまい、「おばあちゃん、帰るか?」と聞いた。サチ子さんは「もっと」とはっきりとした口調で答えた。心配された雨も降らず、私たちは最後まで祭を見ることが出来た。
ターミナルの話し合いが持たれて半年、サチ子さんはターミナルを吹き飛ばして生きている。それは濃密な時間だ。春夏秋の桜・花火・祭、季節を越えてしっかり味わってきた。私も花火と祭の時間をサチ子さんと過ごすことができた。
祭りの風景を心に焼き付けているような眼差しがあった。私にとっての花巻祭とは、サチ子さんの姿そのもののように、その眼差しは私の中に美しく残った。息子さんも祭を最後まで見たのは初めてだったと言う。サチ子さんの「もっと」は、家族にとっても大切な時間を引き延ばしたのかも知れない。
祭の日の午前中、県知事や内閣総理大臣から届いた100歳のお祝いの賞状、銀杯の授与式があった。息子さんは「敬老とは、長寿を会や賞状で祝うことではない。日々の生活、介護の一日一日、愛ある日々そのものを言うんです」と挨拶された。
息子さんはサチ子さんを在宅で介護していた時期がある。それは肉体的にも精神的にも苦しさ、厳しさがあったという。銀河の里にサチ子さんは入居になってから、サチ子さんにも、息子さんにも変化があった。在宅時より距離は離れているのに、そのときよりもふたりの心の距離は近くなったと感じる。息子さんにとっては厳しかった在宅時代だったが、その厳しい時間が、大切なかけがえのない時間になっていくとありがたい。そこに我々の仕事の本来の意味があるような気がする。
私はサチ子さんと息子さんの関係にも支えられていると思う。サチ子さんと息子さんの物語はこれからも深まっていくと思う。
サチ子さんの「隣」とは…。いつも別れを考えてしまう。不安で泣きそうになる。ずっと居てほしいが、それはわがままと言うことか。99歳とは思えない若々しさやエネルギー。サチ子さんがいるだけでたくさんの人が癒されて救われる。その力は「おばあちゃん」という存在を超えて、魔女のような、仙人のような・・・何か別の特別な存在のようにも感じて、「サチ子さんは永遠にいる!」と感じる時もある。そんなサチ子さんの隣は、心安まる、暖かい。いつでも迎えてくれるサチ子さん。サチ子さんを支えたいのに私が支えられている。隣にいたい。
人間は誰しも死を免れず、苦しみを抱えて生きていく存在だが、だからこそ寄り添うだれかが大切な存在となるんだと思う。冬、春、、、。私なりにこれからを大切にサチ子さんと過ごし、一緒にいたい。サチ子さんのこれまでの人生とこれからの人生どちらにも想いを馳せたい。
東京研修レポート ★厨房 畑中美紗【2013年11月号】
【1日目】
東京に研修で出かけた機会に足立区役所のレストラン“ピガール”に行ってみた。
区を上げて日本一の給食を目指しているという足立区は、『おいしい給食プロジェクト』に取り組んでいる。以前は給食未納問題や、給食を残す生徒が多く、給食の人気はなかったが、この取り組みをはじめてから、生徒の給食満足率90%以上、足立区の生ごみの中で最も多い給食の残菜が年間340トンを110トンに減らすことを実現したという。
学校給食と施設の給食とでは違だろうが、何か参考になることがあるかな・・・と思って尋ねてみた。区役所の14階にあるレストランで、実際に給食が食べられるのだが、限定30食の上に、人気で開店前から行列ができる・・・。そんなだから食べることはできなかったが、盛りつけられた給食メニューは見ることができた。色合いが良く、見た目の印象から食材が生きている感じがした。里では付けあわせるブロッコリーやいんげんも、火を入れすぎたり、きれいな色にならず食材をうまく生かしきれていないんだな・・・と改めて感じた。
市役所の中に『おいしい給食課』という部署があり、そこで話を聞いてきた。それぞれの学校の栄養士さんが残食率を調べ、調理法を工夫している。化学調味料を使わず、だしは天然のものを使う、プロを呼んでの給食提供、栄養士同士の会議など、さまざまな工夫がなされていた。各学校に栄養士がいて定期的に集まりをもつことで、それぞれが刺激を受け、さらに上を目指していけるというお話だった。里の厨房でも、献立は私、祥さん、仁美さん、三者三様でそれぞれにこだわりがあるし、それぞれの思いがある。二人の献立を見ていると、このメニューはおいしかったから自分の献立にも入れてみようとか、ここはもっとこうした方がいいんじゃないかとか、お互いが刺激し合ってよりいいものを目指している。また、現場に栄養士がいて、給食を一緒に食べ、残食の様子がダイレクトに分かる。この野菜の切り方は高齢者には辛かったな、ちょっと量が多かったな、少なかったかなというのがすぐわかる。
おいしいという要素はいろんなことがある。戦う栄養士と言われる、佐々木十美さんの話にもあったが、『食べる対象が子供だからと相手に媚びることなく、本物を提供する』というのを、里の厨房でももっと意識していきたいと思う。いつか機会があれば、佐々木十美さんにもお会いしてみたい。
《 林英哲コンサート 迷宮の鼓美術少年 》
今回の研修のメインは、林英哲のコンサートだ。去年、英哲風雲の会が銀河の里にいらしてコンサートを聴いたが、とても感動した。その師匠の林英哲さんはどれだけすごいんだろう、いつか本物を観てみたいと思っていたが、今回早々にその機会がやってきたので、行く前からどきどきしていた。
コンサートでは本当にただただその迫力に圧倒された。言葉ではうまく言い表せられないけれど、英哲さんが太鼓に向き合った時の後ろ姿がすごいオーラを放っていて、太鼓の音にも重みがあるというか、なにかを語っている感じがした。
途中途中で英哲さんの語りが入って『荒波の中、ここから立
ち上がれるのか?まだやれるのか?』というようなセリフがあったが、私たちに語り、訴えかけているようで自分自身に言い聞かせているような、還暦を迎えてもまだ自分はこんなものではない、まだまだこれからだ!というさらに上を目指そうという勢い、力強さを感じた。その語りが終ったあとに、英哲さんが客席に背を向け太鼓に向かって歩いて行くのが、すごく印象的だった。太鼓の前に来て、太鼓に向き合い、すっと見つめ、太鼓に語るような後ろ姿が、心にじんときた。歪視の航路、『どちらの道に進んでいてもどちらも正しい道だった。この年になればわかる・・・』という語りもとても印象的だった。長年やってきたことが今やっとわかる、英哲さんが語るからこそすごく重みがある。
今回の公演の資料で、英哲さんが影響を受けた人が芸術家の横尾忠則さんだという事を知り驚いた。同じ分野でさえ、目標とする人に対して自分がどのくらいの位置までやれているか、というのはなかなか分かりかねるのに、違う分野の人に影響を受けて目標を目指すのは、ゴールが尽きないような感じがして、だからこそ、さらに上を目指して高みに行くとこができるのかなと感じた。
【2日目】
2日目は、午前中は、念願の築地市場に行った。海の匂いと市場の活気の雰囲気だけでワクワクした。八戸のイカや岩手の松茸など、東北の食材が並んでいることも嬉しかった。普段なかなか見られない食材もいっぱいあった。里芋ひとつにしても、里芋・石川芋・海老芋などさまざまな種類があったり、栗も見たことないくらい大きくて立派なものが高値で売られていたり。生ウニも、私たちが普段みるウニとはつやとか色が全然違っていた。なかなか見られない金目鯛が小ぶりではあったが刺身用のものがあったので、自分用のお土産に購入した。
その後、浅草を散策した。浅草のトレードマークともいえる雷門のちょうちんは台風の影響で壊れたため、代わりにプロジェフターを映すようなボードに描かれて飾られていたのが残念だった。私は布のちりめんの柄が好きで、ちりめんがいろんな小物に使われているのを店頭で見ているだけで楽しかった。浅草ではうなぎ屋さんで昼食を食べた。
浅草を出てスカイツリーに行き、プラネタリウムを見た。すごい迫力で、スクリーンが動いているのに自分が動いているような感覚になって、フワフワしながら見た。ゆったりした感じがすごく心地よくて、東京に来ていることも忘れて、世界にどっぷり浸かって見入ってしまった。
最後に、学問の神様の湯島天神に行って、資格取得のお守りを買ってきた。今年こそ管理栄養士の試験を突破したい。これからさらに勉強に力を入れていきたい。
2日間、いろんなものに触れて、感じて、自分にとってすごく刺激のある研修だった。あっという間に時間が過ぎてしまって、岩手だけでは経験できないことばかりだったので、すごく貴重な時間を過ごせて本当に充実した2日間になった。これを仕事だけじゃなく、これからの自分の生活や生き方にも活かしていけるようにしたいと思う。
ありがとうございました。
東京に研修で出かけた機会に足立区役所のレストラン“ピガール”に行ってみた。
区を上げて日本一の給食を目指しているという足立区は、『おいしい給食プロジェクト』に取り組んでいる。以前は給食未納問題や、給食を残す生徒が多く、給食の人気はなかったが、この取り組みをはじめてから、生徒の給食満足率90%以上、足立区の生ごみの中で最も多い給食の残菜が年間340トンを110トンに減らすことを実現したという。
学校給食と施設の給食とでは違だろうが、何か参考になることがあるかな・・・と思って尋ねてみた。区役所の14階にあるレストランで、実際に給食が食べられるのだが、限定30食の上に、人気で開店前から行列ができる・・・。そんなだから食べることはできなかったが、盛りつけられた給食メニューは見ることができた。色合いが良く、見た目の印象から食材が生きている感じがした。里では付けあわせるブロッコリーやいんげんも、火を入れすぎたり、きれいな色にならず食材をうまく生かしきれていないんだな・・・と改めて感じた。
市役所の中に『おいしい給食課』という部署があり、そこで話を聞いてきた。それぞれの学校の栄養士さんが残食率を調べ、調理法を工夫している。化学調味料を使わず、だしは天然のものを使う、プロを呼んでの給食提供、栄養士同士の会議など、さまざまな工夫がなされていた。各学校に栄養士がいて定期的に集まりをもつことで、それぞれが刺激を受け、さらに上を目指していけるというお話だった。里の厨房でも、献立は私、祥さん、仁美さん、三者三様でそれぞれにこだわりがあるし、それぞれの思いがある。二人の献立を見ていると、このメニューはおいしかったから自分の献立にも入れてみようとか、ここはもっとこうした方がいいんじゃないかとか、お互いが刺激し合ってよりいいものを目指している。また、現場に栄養士がいて、給食を一緒に食べ、残食の様子がダイレクトに分かる。この野菜の切り方は高齢者には辛かったな、ちょっと量が多かったな、少なかったかなというのがすぐわかる。
おいしいという要素はいろんなことがある。戦う栄養士と言われる、佐々木十美さんの話にもあったが、『食べる対象が子供だからと相手に媚びることなく、本物を提供する』というのを、里の厨房でももっと意識していきたいと思う。いつか機会があれば、佐々木十美さんにもお会いしてみたい。
《 林英哲コンサート 迷宮の鼓美術少年 》
今回の研修のメインは、林英哲のコンサートだ。去年、英哲風雲の会が銀河の里にいらしてコンサートを聴いたが、とても感動した。その師匠の林英哲さんはどれだけすごいんだろう、いつか本物を観てみたいと思っていたが、今回早々にその機会がやってきたので、行く前からどきどきしていた。
コンサートでは本当にただただその迫力に圧倒された。言葉ではうまく言い表せられないけれど、英哲さんが太鼓に向き合った時の後ろ姿がすごいオーラを放っていて、太鼓の音にも重みがあるというか、なにかを語っている感じがした。
途中途中で英哲さんの語りが入って『荒波の中、ここから立
ち上がれるのか?まだやれるのか?』というようなセリフがあったが、私たちに語り、訴えかけているようで自分自身に言い聞かせているような、還暦を迎えてもまだ自分はこんなものではない、まだまだこれからだ!というさらに上を目指そうという勢い、力強さを感じた。その語りが終ったあとに、英哲さんが客席に背を向け太鼓に向かって歩いて行くのが、すごく印象的だった。太鼓の前に来て、太鼓に向き合い、すっと見つめ、太鼓に語るような後ろ姿が、心にじんときた。歪視の航路、『どちらの道に進んでいてもどちらも正しい道だった。この年になればわかる・・・』という語りもとても印象的だった。長年やってきたことが今やっとわかる、英哲さんが語るからこそすごく重みがある。
今回の公演の資料で、英哲さんが影響を受けた人が芸術家の横尾忠則さんだという事を知り驚いた。同じ分野でさえ、目標とする人に対して自分がどのくらいの位置までやれているか、というのはなかなか分かりかねるのに、違う分野の人に影響を受けて目標を目指すのは、ゴールが尽きないような感じがして、だからこそ、さらに上を目指して高みに行くとこができるのかなと感じた。
【2日目】
2日目は、午前中は、念願の築地市場に行った。海の匂いと市場の活気の雰囲気だけでワクワクした。八戸のイカや岩手の松茸など、東北の食材が並んでいることも嬉しかった。普段なかなか見られない食材もいっぱいあった。里芋ひとつにしても、里芋・石川芋・海老芋などさまざまな種類があったり、栗も見たことないくらい大きくて立派なものが高値で売られていたり。生ウニも、私たちが普段みるウニとはつやとか色が全然違っていた。なかなか見られない金目鯛が小ぶりではあったが刺身用のものがあったので、自分用のお土産に購入した。
その後、浅草を散策した。浅草のトレードマークともいえる雷門のちょうちんは台風の影響で壊れたため、代わりにプロジェフターを映すようなボードに描かれて飾られていたのが残念だった。私は布のちりめんの柄が好きで、ちりめんがいろんな小物に使われているのを店頭で見ているだけで楽しかった。浅草ではうなぎ屋さんで昼食を食べた。
浅草を出てスカイツリーに行き、プラネタリウムを見た。すごい迫力で、スクリーンが動いているのに自分が動いているような感覚になって、フワフワしながら見た。ゆったりした感じがすごく心地よくて、東京に来ていることも忘れて、世界にどっぷり浸かって見入ってしまった。
最後に、学問の神様の湯島天神に行って、資格取得のお守りを買ってきた。今年こそ管理栄養士の試験を突破したい。これからさらに勉強に力を入れていきたい。
2日間、いろんなものに触れて、感じて、自分にとってすごく刺激のある研修だった。あっという間に時間が過ぎてしまって、岩手だけでは経験できないことばかりだったので、すごく貴重な時間を過ごせて本当に充実した2日間になった。これを仕事だけじゃなく、これからの自分の生活や生き方にも活かしていけるようにしたいと思う。
ありがとうございました。
収穫の秋、文化の秋 ★ワークステージ 村上幸太郎【2013年11月号】
★いろいろな秋がありますが、農業をベースとして活動している銀河の里は、やはり収穫の秋が楽しみです。惣菜班のメンバーがワイワイと稲刈りや栗拾いを行う様子が伝わってきます!また、東京から講師をお招きし、ワークステージの利用者を対象としたアフリカンダンスのレッスンを受けました。レッスン後は皆の前で覚えたダンスを披露し、恥ずかしながらも楽しんで踊りました!